第5回2017.10.29 白鳳仏国宝指定慶讃法会
白鳳讃
銅造釈迦如来倚像
(いぞう)国宝指定慶讃法会 聲明とオンド・マルトノ
オンド・マルトノ演奏 委嘱作品「白鳳讃」作曲原田 節
(たかし)
声明の会の世話人の大西と申します。今日は足元の悪いなか、お出でいただきありがとうございます。
ことし3月、深大寺の白鳳仏さんが国宝になられ、大変おめでたいことでよろこんでいます。
釈迦堂の白鳳仏さんの前に立ってじっと眺めて、考えていますと何とも言えないしあわせな気持ちになります。
この姿と表情を作り出された仏師の方が何を思ってお作りになったのかと、思いを遥か1350年前の明日香の地に巡らします。
明日香でお生まれになられた白鳳仏さんが今、東京の深大寺にいらっしゃいます。
実は私の故郷も明日香の近くです。そしてたまたま私もここに居ます。不思議なご縁です。
私は白鳳仏さんから人間の永遠の理想の姿を感じています。
そして今日演奏していただくオンド・マルトノという楽器の響きにも同じような永遠性を感じています。
白鳳仏さんが国宝になられたときから、白鳳仏さんのための音楽が欲しいとおもうようになりました。
それを決定づけたのが、原田タカシ先生が5月、静岡の浜松で演奏されたメシアンの「美しき水の祭典」を聞いた時でした。
この曲でメシアンさんは水の永遠性を表現されていたようです。私は原田先生に白鳳仏さんの永遠性を表現するオンド・マルトノの
曲を作っていただけないかとおもいました。
そしてご住職にご相談しました。もちろん大賛成でタイトルも「白鳳讃」とつけてくださり、作曲を原田先生にお願い致しました。
こうして今日みなさんと一緒に聞けるようになりました。
チラシの画は奥様のハラダ・チエさんが描いてくださいました。
人間味あふれる、ほっとする、しかも尊い白鳳仏さんの雰囲気そのものです。
プログラムの裏面は、国宝になられた白鳳仏さんが上野の博物館から帰って来られた奉迎式のときのご住職の祭文とその日の写真です。
祭文は今日のように人の目に触れることはありませんが、ご住職に特別にお願いして載せさせていただきました。
あとで家に帰られたら、ゆっくり聲を出してお読みになってください。音楽を感じご住職の白鳳仏さんへのお気持ちがよく伝わってくるとおもいます。
深大寺・声明の会世話人 大西信也
混沌とした宇宙の彼方からやがて一筋の光が顕れ
次第に沢山の異なった精神が形成される
そして天上の鳥たちがそれぞれに歌い
人々の心は至福のハーモニーとなり 再び宇宙の永遠に溶けていく
その魂は永遠に姿を変えつつ生まれ変わり続ける
原田 節
深大寺の白鳳仏が栄ある国宝に指定されました。1300年の間、武蔵野の地で大切に守られてきた、信仰の奇瑞を感じます。
慶讃の曼供法会の厳修にあたり、有難きご縁を頂戴しています、オンドマルトノの世界的奏者、原田節氏が「白鳳讃」という作品を奉献下さいました。
飛鳥時代の後期、国風文化の黎明の世を、白鳳と告げられた古代人の感性や、この尊像を造った工人達が、一体どんな心根で生きてきたのであろうかと、
景仰の念が深まるばかりです。
天台のおつとめに後唄という短い経文があります。
処世界如虚空 如蓮華不着水
心清浄超於彼 稽首礼無上尊
み仏はこの世にあって虚空のように大きく、蓮華が泥水に染まらないように心が清らかなことは一切を超えている。
こうしたこの上ないみ仏に頭をたれ敬礼します。
白鳳釈迦如来倚像の親しみある笑まいの宝前に、遥かに天平の深大寺開創を想い、「白鳳讃」を捧げます。
合掌
深大寺住職 張堂完俊
謹み敬って白
(もう)す
慶讃の文(けいさんのもん)
維時
(これとき)、平成二十九年丁酉
(ひのととり)五月二十一日吉祥日
(きっしょうび)
、日域王府
(にちいきおうふ)
多摩郷
(たまのごうり)浮岳精舎
(ふがくしょうじゃ)深大教寺
(じんだいきょうじ)
此の梵場
(ぼんじょう)に於て、
謹んで香華灯燭
(こうげとうしょく)之供具
(くぐ)を献備
(けんび)し、
此に今般、国宝指定銅造釈迦如来倚像
(いぞう)、
白鳳仏を奉迎し奉り、四箇法会
(しかほうえ)の化儀
(けぎ)をととのへ、慶讃の法莚
(ほうえん)
を設けて仏祖の恩法
(おんぽう)に報ず。
惟夫
(おもみるにそれ)、当山開創
(とうざんかいそう)は往古天平
(おうこてんぴょう)五年、
法相
(ほっそう)の
大コ
(だいとく)満功上人
(まんくうしょうにん)に依り、白鳳仏は法相宗代
(ほっそう しゅうだい)
の本尊と伝へる。
降
(くだ)っては貞観年中
(じょうかんねんちゅう)、北嶺
(ほくれい)の尊者
(そんじゃ)
恵亮和尚
(えりょうかしょう)、
勅
(ちょく)に依って台門
(たいもん)の教風
(きょうふう)を伝う。
雖然
(しかりといえども)、永き寺歴(じれき)を閲
(けみ)せんとするに、歳月の移行は、時節の隆替
(りゅうたい)を伴って、
寺運
(じうん)亦
(また)変遷衰萎
(へんせんすいい)の天命有り。堂塔
(どうとう)
幾度の災厄に遭いて、
白鳳仏も亦
(また)災禍傷創
(しょうそう)の痕跡残れり。しかりといえども歴世(れきせ)の住持
(じゅうじ)、
八方の信徒、外護
(げご)の念篤く尊像を擁護
(おうご)し、大難を免るるは白鳳尊仏の威コ
(いとく)
なりしか。
於茲
(ここにおいて)、壱千三百年、武蔵野の地に法輪を転じ、群生
(ぐんじょう)を度し、妙法を説き給う。
まことに瞻仰
(せんごう)の
至りに堪えんことなり。加うるに官公
(かんこう)の吏民
(りみん)、慮外稀有
(りょがいまれ)
なる国宝指定に栄耀
(えいよう)し、
調布市は挙げて此の一大慶事に賛助、協翼
(きょうよく)惜しまず、地域住民は然る程に、上古
(じょうこ)
仏教東遷
(とうせん)の核心に
触れること決定
(けつじょう)なり。
ここに白鳳仏は、年初来国宝指定調査、審議のため、浮岳精舎を長らく離るるも、方
(まさ)に今歓喜の一小音
(いちしょうおん)
を以って、
仏陀讃嘆
(さんたん)の偈頌
(げじゅ)を唱へ奉迎したてまつる。
伏願
(ふしてねがわ)くは、本尊薩?
(ほんぞんさった)護法
(ごほう)善神
(ぜんしん)
、快く法施
(ほっせ)を納受して、
志願を満足ならしめ給へ。
尚嚮
(しょうきょう)す。
平成二十九年五月二十一日
八十八世 住職 張堂完俊
入堂讃
(にゅうどうさん):
梵語による仏の四智(大円鏡智
(だいえんきょうち)、平等性智
(びょうどうしょうち)、
妙観察智
(みょうかんざっち)、成所作智
(じょうしょさち))を讃える曲です。
云何唄
(うんがばい):
唄伝されている僧侶しか唱えられない天台聲明の秘曲の一つです。
散華
(さんげ):
寺院ではいろいろな法要を営むとき、仏さまをお迎えする道場を清浄にして、諸々の仏さまを讃歎し、
供養するために花が撒かれます。これを散華といいます。
對揚
(たいよう):
二箇法要
(にかほうよう)の散華に付随する曲。教会音楽のカノンと似る。原義は応対・称揚することで、
唱え方は,先唱者が一句を唱え、所定の位置までくると全員がその句の冒頭から唱えるという「次第取り」の方法で一句ごとに礼拝を行う。
表白
(ひょうびゃく):
法会に際し、その趣旨や所願を本尊に対して表明するものです。三つの部分から成り、初めに本尊聖衆
などの三宝への帰依を表わし、次に法会や作法のおもな対象やその徳を講讃し、最後に行者の意志や祈願を述べる。
供養文
(くようもん):
唱礼師がほとんど漢音で独唱する。
唱禮
(しょうれい):
四方の四仏や一切の仏菩薩の名を唱え恭敬礼拝する。
驚覚真言
(きょうがくしんごん):
驚覚とは迷いと煩悩に染まる人間を仏の道へと目覚めさせること。導師が印を結んで独唱。
九方便
(くほうべん):
九方便とは胎蔵界の懺悔の頌に九種あることから、こう名付けられました。菩薩の行願であり、仏道を
成ずる方便です。
五大願
(ごだいがん):
菩薩が仏道を求めるときに最初にたてた五つの誓い。導師の独唱曲。
百字讃
(ひゃくじさん):
本尊の加護によって行者の心と身体をさとりにむけて堅固にしてゆき、一切の所願を速やかに成就せし
める百字から成る咒
(しゅ)です。梵語で唄われますが意味は次のようなものです。 咒:梵語のマントラ
(祈りのことば)の訳
「比類なく揺るぎない悟りを開ける者よ、願わくば私を守護してください。どうか私も同じように揺る
がぬ心を持ち、歓喜の日々が送れますように。また、私の様々な行いが等しく成就して、この心が安ん
じられるよう、お力を貸してください。すべてのみ仏たちよ、どうか私を見捨てずに、あなたと同じよ
うに、比類なく揺るがぬ身にしてくださいますよう、心からあなたに帰依したてまつります。」
百八讃
(ひゃくはちさん):
金剛曼荼羅に描かれている百八の諸尊を讃える咒(しゅ)です。金剛界曼荼羅の根本成身会の百八尊の仏名を
唱誦してその徳を讃嘆する曲。序破急の三段の区分の明確な曲の代表的なもの。
サタンバ・バシリ曩謨?都帝
(なもそとて)。ダルマ・バシリ曩謨?都帝
(なもそとて)。
バサラ・ケンダ曩謨?都帝
(なもそとて)、
等々百八尊が次々読み上げられ、それぞれの尊者に、あなたに帰依しますの梵語「曩謨?都帝(なもそとて)」(namo’stu te)と唱えられます。
因みにバシリ、バサラは金剛の意味です
回向方便
(えこうほうべん):
回向というのは、法蔵菩薩が集められたすべての功徳を、一切衆生に与えてすべての人を
仏の悟りに向かわしめ給うこと。方便の原義は近づく、到達するの意。仏陀が衆生を導くために用いる方法、手段、
あるいは真実に近づくための準備的な修行などをいう。
随方回向
(ずいほうえこう):
全ての法界に供養回向、導師が独唱する偈(げ)文で音用はない。
退堂
(たいどう)
当日の表白
白鳳佛国宝指定慶讃法会
浮岳山主識
謹み敬
(つつしみうやま)って真言
(しんごん)教主
(きょうしゅ)理智不二
(りちふに)
九品引接
(くほんいんじょう)弥陀種覚
(みだしゅがく)観音勢至
(かんのんせいし)
諸大薩?
(しょだいさった)
乃至仏眼
(ないしぶつげん)所照
(しょしょう)
一切の三宝
(いさいのさんぼう)に白言
(もうしてもうさく)
方今
(まさにいま)
南浮
(なんぶ)日域
(にちいき)東京都調布市深大寺元町
浮岳山深大寺此の道場に於て
奉安する金銅釈迦如来倚像
(こんどうしゃかにょらいいぞう)の
国宝指定を慶讃し院内法縁
(いんないほうえん)の
浄侶曼荼供養
(じょうりょまんだくよう)の梵筵
(ぼんえん)を催し
殊(こと)にはアンサンブル浮岳オンドマルトノ奏者
原田節氏の委嘱作品「白鳳讃」を
奏楽奉献
(そうがくほうけん)し以って仏祖
(ぶっそ)の恩沢報謝
(おんたくほうしゃ)
の懇念
(こんねん)に資すること有り
其の旨趣如何
(ししゅいかん)となれば
夫れ仏意
(ぶっち)に適うの勝用
(しょうゆう)は瑜伽三密
(ゆがさんみつ)の
秘法に如無く
(しくはなく)
加被
(かび)を念ずるの功力
(くりき)は仏コ讃嘆
(ぶっとくさんだん)の
歌唄
(かばい)に超えたるは無し
恭
(うやうや)しく惟
(おもん)みれば
霊山教主釈迦牟尼世尊
(りょうぜんきょうしゅしゃかむにせそん)は樹下
(じゅげ)
の禅定
(ぜんじょう)に大覚
(だいかく)を証
(しょう)し
鹿苑
(ろくおん)に法輪を転じて法界群生
(ほうかいぐんじょう)を済度
(さいど)し
霊山会場
(りょうぜんえじょう)に現前
(げんぜん)しては慈教
(じきょう)を
宣
(の)べ直至
(じきし)道場
(どうじょう)の妙法を示し給
(たも)う
末世
(まっせ)の倫
(ともが)ら焉
(いずくん)ぞ娑婆出世
(しゃばしゅっせ)の
本懐を景仰
(けいごう)せざらん
誠
(まこと)なる哉
(かな)
當山奉安の釈迦如来像は飛鳥
時代後期の御作
(おんさく)
往古
(おうこ)法相宗
(ほっそうしゅう)時代の
本尊と伝へ白鳳を代表する尊像
として今般新たに栄
(はえ)ある国宝の
指定を受く
実に瞻仰
(せんごう)の至りに
堪
(た)えん 當山壱阡三百年を
閲
(けみ)せんとする寺歴の光輝
(こうき)之れより
熾
(さか)んなくはなく緇素
(しそ)の尊崇
(そんすう)を
愈々
(いよいよ)聚
(あつ)めん
庶幾
(こいねがわ)くは降臨
(ごうりん)の諸仏諸尊
(しょぶつしょそん)
霊験を顕
(あらわ)して仏国土を浄め給ひ
一会真俗
(いちえしんぞく)は直ちに仏性
(ぶっしょう)を開いて
菩提心
(ぼだいしん)を発
(おこ)さんことを
乃至
(ないし)法界利益周辺
(ほうかいりやくしゅうへん) 丁
天台聲明音律研究会
昭和45年(1970)に発足、以来五十年近くに渡り、天台宗内はもとより国内外での聲明公演を行
なってきた。深大寺ご先代が会長であったことや平成27年欧州公演のご縁で現董が会長に推挙され、現
在は院内行事での法儀音用の普及にあたり、天台聲明を内外に発信している。
声明とは
経文や真言に旋律抑揚を付けて唱える仏教声楽曲です。伝教大師最澄が平安初期805年中国(唐)か
ら、天台の教えとともに声明ももたらしましたが、これを体系的に伝えたのは10年間の唐での留学の後847年帰国した天台座主3世の
慈覚大師円仁(794〜864)です。その後、良忍(1073〜1132)により
平安中期後半1100年頃京都大原に声明の道場「魚山(ぎょざん)」(現在の三千院)が開かれ、ここを中心に天台
声明は伝承されてきました。この頃には声明と雅楽・舞楽との合奏曲も作られ浄土信仰とも重なり盛んに
奏されたといいます。現在でも天台宗ではほとんどの法要に声明は使われ、また、舞楽法要などは伝統音
楽として、公演公開されています。
アンサンブル浮岳
深大寺聲明の会に集う作曲家、指揮者、演奏家(篳篥、龍笛、尺八、三味線、ヴァイオリン、オンド・マ
ルトノ)の音楽家集団。命名は深大寺張堂完俊住職。浮岳は深大寺の山号。
『白鳳讃』画 に寄せて ハラダ チエ
銅造釈迦如来倚像のやわらかで無垢な微笑みと、坐像でもなく立像でもない「静」と「動」
を併せ持った倚像のお姿をじっくり拝見するうちに、深大寺に長い間守られてきた情景がまざまざとイメージされました。
私はこの白鳳文化を築いた仏師による美しい釈迦如来像に妙なる魂を感じ、一枚の絵の中に収めてみたい、
という衝動にかられました。緑豊かで、清らかな水の流れる深大寺へ導かれた釈迦如来に、
十人の弟子や動物や鳥達、そして私達人間は一斉に駆け寄り、胸高鳴らせながら救いの光を見出します。
釈迦如来は右手の第三指と四指を天に預けて、居心地の良いこの地で境内の樹木に囲まれながら静謐な時を刻み、
これからも私達の心に耳を傾けてくださることでしょう。
ハラダ チエ / 画家
武蔵野美術大学日本画学科卒業。片岡球子に師事。1985年?90年群馬県美術展にて県議会議長賞などを受賞。
1994?96年マガジンハウス刊『女性のからだシリーズ』等の挿絵を担当。1999年から定期的に個展を開催。2002年より東京フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会パンフレットや公演チラシに毎回演目に合わせたイラストを描き下ろしている。舞台衣装へのペイント等音楽関係の仕事も多数。
2006?07年上毛新聞へのコラムを毎月担当。また館林市観光課からの依頼で市のお土産品としてスカーフの制作。2008年には日本郵便『エコ安全ドライブ』のためのイラストを制作。全国14万台の郵便車両とバイクに貼られた。2012年青山ベルコモンズ店内のクリスマス装飾のイラストを担当。
また2017年には『浅草オペラ100年記念』のチラシ制作。このイラスト
は限定記念切手にもなっている。
風土のなかの神々

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皇統にいたる神々の系譜
「皇統につらなる神々は、日本の自然環境に深く根ざしているという一般通念と真逆の事態であることに気づく。」(143p)(拡大)
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鹿島神宮と香取神宮

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伊勢神宮の広さ

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出雲多賀神社

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出雲日御崎神社

出雲日御崎(ひのみさき)「スサノオは新羅からきた神といわれることもあるので朝鮮半島、
それも新羅方面を向いているともおもわれる。」(89p)(拡大)
天皇の系譜

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出雲・荒神谷遺跡
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仏経山・神聖な山

神名火山(拡大)
船通山・斐伊川源流

スサノオ(拡大)
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▲
『風土のなかの神々』の感想をこの欄に書いていく。(2023.8.10)
「天皇家の皇統に位置づけられる神々は、日本の在来・在地の神々ではないということも重要な点である。皇統神話は、日本の風土にとって外来の神々
がその拠点を日本列島に置いた経緯を意図的記述する物語りである。記紀の編纂者にとっては、在地神の正当化ではなく、外来神が経てきたプロセスを編纂
することが眼目であった。」(139p)
▲記紀を読む場合上記指摘は極めて重要。(2023.8.12)
古事記は712(和銅5)年の成立。「日本書紀」は720(養老4)年の完成。ともに天武天皇の意向で編さんされたとされる。
▲世界の歴史から見てそんなに古い歴史書、古い神話の文字化ではない。
すぐれて政治的文書。8世紀の中国、世界を常識として把握しておくこと。(2023.8012)
▲8世紀:日本と中国の妙 8世紀、世界の
最先端は中国。その中国に学ぶ日本。「神話」にも文化性と合理性が求められる。(2023.8.12)
天武天皇 在位:673年3月20日〈天武天皇2年2月27日〉- 686年10月1日 13年間
元正天皇 在位:715年10月3日 - 724年3月3日 35才〜44才の9年間
元正天皇誕生 天武天皇9年(680年)大和国飛鳥 崩御 天平20年4月21日(748年5月22日)大和国平城宮
▲飛鳥で生まれ奈良で亡くなった。大和の風土のなかで生きた人。急に身近に感じた。
(2023.8.13)
霊亀元年(715年)9月2日、皇太子である甥の首皇子(聖武天皇)がまだ若いため(15歳)、母の元明天皇から譲位を受け即位(35歳)。
養老元年(717年)から藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める。(37歳)
役小角(えんのおづぬ)
2023.8.12(拡大)
「神々の渡来後、時を経隔てて渡来した仏教との間に生まれたハイブリッド、修験の山岳信仰が大きな役割を果たしたのではないか。役小角の役割
が大きかったのではないかとも思われる。」(143p)
山岳信仰
▲何と何のハイブリッド?山岳信仰との関係?(2023.8.13)
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養老4年(720年)に、日本書紀が完成した。(40才)またこの年、藤原不比等が病に倒れ亡くなった。
翌年長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。
養老7年(723年)、田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。(43才)これにより律令制は崩れ始めていく。743年墾田永年私財法へ。
聖武天皇のとき
青島神社

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東征の出発地

日南市油津港(拡大)
東征の上陸地

三重県錦(拡大)

大気町(拡大)
本居宣長は『古事記伝』において大紀町の錦浦(にしきうら)説を唱えています。御一行は錦浦から上陸し、
ひと山越えて大杉谷もしくは高見山の山道を経て吉野・宇陀(現・奈良県)に到ったと推察しています。
日本神話
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▲元正天皇(女帝)時代。37才養老律令の編纂開始。40才日本書紀が完成。43才三世一身法。すごい9年間。
(2023.8.12)
聖武天皇 (701年- 756年)在位:724年3月3日〈神亀元年2月4日〉- 749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉25年
玄宗の時代(712〜756)が始まる。
玄宗の時代は詩人では孟浩然(もうこうねん 689-740)、杜甫(712-770)、李白(701-762)、書家では顔真卿(がんしんけい 709-785)など、文化的も非常に盛んな時代である。
楊玉環が貴妃として迎えられたのもこの時期である。
同時代に柿本人麻呂(662-710)、山部赤人(-736)、大伴家持(718-785)など、そうそうたる歌人が登場。
▲以上はインターネットで調べた背景の知識。(2023.8.12)
「わたしが日本神話に関心をもったのは、文献を読むことからではない。各地の公共事業に従事しているうちに、日本の風土のなかに鎮座する神社の
性格をその風景から読み解くという作業を行った結果である。」(143p)
「アマテラスもスサノオも水田文化を大陸からもたらした弥生の人々の神々である。神話を編纂した人々はこうした神々を日本の国土にあわせた権威と権力
の系譜に位置づけたのである。」(147p)
▲明快!アイヌのカムイとは根本が違う。(2023.8.13)
「神の分類:在地神・外来神、降臨神・渡来神、征服神・勧請神、鎮魂神・神格化神、創成神。5のカテゴリーと9の神の分類。」(144p〜147p)
「ウジノワキイラツコノミコトは応神天皇の皇子で最初に大陸の学問を学んだとされている。」(151p)
▲王仁の来日は398年だろう。「日本史年表」参照。聖徳太子574年誕生。170年経過。
太子の時代は十分漢文が浸透していた。(2023.8.16)
wikipedia:ほむたのすめらみこと
応神天皇は、第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)。
『日本書紀』での名は誉田天皇(ほむたのすめらみこと)。記紀によると渡来人を用いて国家を発展させたとされ、
中世以降は軍神八幡神としても信奉された。実在したとすれば4世紀後半? 5世紀初頭ごろの大王と推定されるが、
考古学上において定かでない。
在位中には様々な渡来人の来朝があった。韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。
名のある渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、阿知使主は東漢氏の、弓月君は秦氏の祖である。
『古事記』によると和邇吉師(王仁)によって論語と千字文、すなわち儒教と漢字が伝わったという。また即位37年、
阿知使主と子の都加使主は縫製の女工を求めるため呉(東晋あるいは南朝宋)に派遣されたという。
錦江地図
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公州と扶余
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扶余の錦江
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wikipedia:応神天皇の皇子うじのわきいらつこ
『日本書紀』によれば、(皇子は)百済から貢上された阿直岐(あちき)と王仁(わに)を師に典籍を学んだ。
錦江
(きんこう、クムガン)は大韓民国の中西部に位置する主要河川であり、韓国第三の河川である。
百済の古都である忠清南道公州(コンジュ)からは熊津江(ウンジンガン)、忠清南道扶余からは白馬江(ペンマガン)とも呼ぶ。
錦江は三国時代、百済にとって重要な水上交通路であった。公州には百済の旧都熊津、扶余には新都シビがあり、
そのため、古代に日本・百済と新羅・唐との間で戦われた白村江の戦いが行われた白江・白村江は錦江と推定されている。
▲白村江は大河。(2023.8.17)
大和川
龍田大社・廣瀬大社
亀の瀬
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亀の瀬渓谷

亀の瀬はかつて渓谷だった(拡大)
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龍田大社・廣瀬大社
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亀の瀬・龍田大社・廣瀬大社
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廣瀬大社:
佐保川や初瀬川、飛鳥川、曽我川など大和盆地を流れる全ての河川が一点に合流する地にあり、
水の守り神である若宇加能売命(わかうかのめのみこと)が主神。
天武天皇は、風を司る龍田大社とこの廣瀬神社で風水を治め国家安泰を祈願した。
相殿に櫛玉命(くしたまのみこと)と穂雷命(ほのいかづちのみこと)を祀る。
高見山:
高見山山頂
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紀伊半島東部、台高山脈北端に位置する高見山(標高1,248m)は、三角錐の尖った山容から「関西のマッターホルン」の愛称をもつ。
山頂からは三峰山や金剛連山、台高山脈など360度の大展望が開け、見晴らしのよさから山名がついたともいわれている。
また山頂には神武天皇東征の折に案内を務めた八咫烏(やたがらす・サッカー日本代表のエンブレムの意匠)を祀る祠もある。
山頂へは三重側、奈良側から登山道が延びるが、近鉄榛原駅からのバス便がある高見登山口バス停を起点に山頂に立ち、
下山する奈良側のコースがおすすめ。
▲東征軍団は高見山から榛原に降りたんだろう。ある程度納得。困難だったと推察。(2023.8.15)
法華寺
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三輪山
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平等寺
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三輪山に鎮まる大物主大神は和魂(幸魂・奇魂)
「アマテラスとオモイカネの信頼関係こそ、持統天皇と藤原不比等の前例であった。」(232p)
「王政復古」といわれるとき、王制とは持統・藤原政権よりも以前の天智天皇と天武天皇政権の時代を指している。(244p)
日本の歴史哲学第一の書といわれる『愚管抄』(233p)
▲読了。2023.8.15後日全体の感想を書く。
▲「オモイカネ」桑子先生だ。8/9(40p)
「高千穂神話には、日本の合議システムの原型と合意形成の知恵の重要性、
そして、合意を導く包括的知識をもったリーダーとその役割の指名?についての言説が組み込まれていることに気づいて、
わたしは驚いたのであった。」(41p)
▲ここにこの本の主題がまとめられている。(2023.8.15)
スサノオ、「荒ぶる心」と「和魂(にぎみたま)」の両方を持つ神。(55p)
▲三輪山は大和の人間にとっては「和魂(にぎみたま)」の神。(2023.8.15)
「大橋川周辺まちづくり基本方針:……進めます。……めざします。……継承します。……創出します。……含みます。」(72p)
▲行政文書としては珍しい断定的口調。気持ちいい。桑子先生の面目躍如たるものがあります。(2023.8.16)
「オオクヌシ像=忍耐力、回復力、共感力、医療力、非独裁、包容力」(84p〜85p)
▲まさしく大和の人間の心情。この性格づけはどこからきているのか?(2023.8.15)
「オロチと戦う姿とは異なるスサノオと出会ったのは鞆の浦問題にかかわったときであった。2016年」(99p)
▲現場から。先生らしい。(2023.8.16)
乙巳の変(いっしのへん)
反動クーデター説:当時618年に成立した唐が朝鮮半島に影響力を及ぼし、
倭国も唐の脅威にさらされているという危機感を蘇我氏は持っていた。
そのため従来の百済一辺倒の外交を改め各国と協調外交を考えていた。
それに対し、従来の「百済重視」の外交路線をとる
中臣鎌足や中大兄皇子ら保守派が「開明派」の蘇我氏を倒したと言うものである。
蘇我氏打倒後に保守派は百済重視の外交を推し進め、
白村江の戦い(663年10月4日、5日)でそれが破綻する。いわゆる「大化の改新」はその後に行われたと考えられる。
皇極天皇4年(645年)、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。
石川麻呂が上表文を読んだ。中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌足は弓矢を取って潜んだ。
乙巳の変の絵図(拡大)

入鹿の首が飛んでいる。弓矢を持っているのが鎌足。
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海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ佐伯子麻呂(さえきのこまろ)と葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいあみた)に与えた。
中大兄皇子は子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出た。
子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけた。入鹿が驚いて起き上がると、子麻呂が片脚を斬った。
入鹿は倒れて天皇の御座へ叩頭し「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」と言った。
すると、中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えると、
皇極天皇は無言のまま殿中へ退いた。子麻呂と稚犬養網田は入鹿を斬り殺した。
▲私には「乙巳の変」の正当性は認められない。(2023.8.17)
「持統天皇と藤原不比等が目指した国家・政治体制……現代の象徴天皇制に近い。」(243p)
▲上記記述はない方がよいのでは。著書が政治的に利用されることを危惧する。(2023.8.18)