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沖 縄
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公平な米軍基地負担の問題/ 那覇地方裁判所での玉城知事の意見陳述/
沖縄の米軍基地を本土が応分の負担をすることを求める陳情(案)/
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沖縄の歴史/ 大交易時代の琉球/ 『海洋アジアの輝ける王国』/
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沖縄の受難と今
柳宗悦/ 1944年の 10・10空襲(本土各地の空襲)/ サンフランシスコ講和条約第3条/ 「復帰に関する建議書」/
米兵暴行事件糾弾県民総決起大会(1995)/ 新垣 毅「沖縄はなぜ、いま、自己決定権か」 /
玉城デニー知事 平 和 宣 言 / 『ウルトラセブン』 /


                     沖 縄 の 自 己 決 定 権
                                  新垣 毅(あらかき つよし)琉球新報報道部長
沖縄は最近、差別という言葉を使うようになった。 それまでは不公平、本土も応分の負担すべき、二重基準と言われてきたが、 最近は「沖縄差別」であると沖縄の人たちが自ら言うようになった。
物理的差別、国土面積の0.6%しかない沖縄に米軍施設の7割が集中しているのは差別だと。

米軍施設には日本の法律が適用されず、住民の人権や環境権が侵害されても、日米地位協定(※日米地位協定とは…) などによって米軍は最優先で特権的に守られている。 加えてここ1、2年、沖縄に対するヘイトスピーチ、ヘイトクライムが目立ってきた。 ヘイトスピーチ解消法(※ヘイトスピーチ解消法とは…)の保護対象が「本邦出身者以外」となっているため、アイヌ民族や沖縄は保護対象に含まれないが、 とくに基地建設をめぐる県対政府の法廷闘争に関して、「これだけ北朝鮮の脅威がある時に沖縄は何をわがまま言ってるのか、黙れ」となる。 日米同盟こそが国益であり、その国益に反することをする奴らはテロリストだというレッテルが貼られ、物理的差別という本質が見えなくなり、 人種差別的な様相まで帯びてきている。

2016年10月の機動隊員による高江での「土人」発言に対し、「差別表現ではない」とする閣議決定が出た。 国の指導者や権力者が公然と差別を言うことはいかに罪深いことか。 「ニュース女子」(※下記の2018年5月4日朝日新聞の記事参照)というTV番組では、沖縄で反基地運動をしている人たちを公然とテロリスト 呼ばわりするまでに至っている。

自衛隊の南西諸島(※南西諸島とは…)の配備は、中国有事の際の米軍の作戦にこたえるもので、住民が攻撃の的にされたあと島を奪い返すという作戦である。 「ああ、また72年前の沖縄戦のように私たちは捨て石にされる」と人びとは感じている。沖縄戦の体験、もっと遡れば琉球処分による日本への併合、 サンフランシスコ講和条約のもと米国を施政権者とした人権無視の施政、1972年の復帰後も、憲法より日米安保を重視した裁判・判決が繰り返されてきた。

いま騒がれている「北朝鮮の脅威」をもとに沖縄の基地問題を捉えるのか、 それとも「沖縄の歴史」という視点にたって問題を捉えるのかで雲泥の差がある。

「これだけ中国・北朝鮮の脅威がある中で沖縄の米軍基地は必要だ。 地政学的に沖縄になければいけない」という誤解は、沖縄米軍基地の75%、兵力の60%を占める海兵隊への誤った世論の認識から来ていると考える。 ミサイル戦争の時代、海兵隊の任務は人道支援とか災害救助、テロの特殊作戦、物資の補給作戦など戦争の中心的機能から遠ざかっており、 中国などの脅威から日本を守るような部隊ではない。

一方で、歴史を正しく捉えて沖縄を解放していこうという捉え方がある。 両者の議論はなかなか交わらず、認識の溝が埋まらない。 こうした状況に対していま沖縄は異議を申し立て、「自立」「自己決定権」という言葉を語り始めている。

2015年、翁長知事が国連人権理事会でスピーチを行い、沖縄の自己決定権が侵害されていると訴えた。 沖縄でこれらの運動に取り組む人びとの間では、沖縄を先住民族として位置づける意見がある。 先住民族として保有している土地の権利が侵害されてきたとする主張ができないだろうか。 1993年、クリントン大統領(当時)がハワイ併合に対する謝罪の決議文にサインしたのは併合から100年後のことだった。 歴史的な不正に対して先住民族などに償いをする流れが世界的にある。この潮流に沖縄も乗ることができないだろうか。 日米同盟を優先する政策は沖縄の人権を侵害してきた。 それに対して国際法を使ってでも訴えなくてはいけないところに来ているのではないかと考える。
(*上記は2017.6.9反差別国際運動(IMADR)第29回総会・記念講演での新垣毅さんの報告をIMADR事務局にてまとめたものです。) (このHPは反差別国際運動(IMADR)http://imadr.net/books/imadr191-5からの転載です。)

▼下記の2016年5月22日 19:12琉球新報デジタルサービスの記事は今日2020.3.29に見つけました。「米軍専用施設」 の概念の明確化のために挿入しました。

防衛省が「在日米軍施設」と表現している基地は三つに分類できる。
(1)米軍が単独で使用する米軍基地(日米地位協定2条1−aで規定)
(2)米軍の「正規の使用目的にとって有害でない」など一定の条件の下に、自衛隊に使用を認める米軍基地(同2条1−aと同2条4−aで規定)
(3)一定の期間を限って、米軍が使用することができる自衛隊基地(同2条4−bで規定)−となる。
 つまり「米軍しか使わない米軍基地」「自衛隊も使える米軍基地」「米軍も一時的に使える自衛隊基地」の3種類だ。
防衛省はこのうち(1)と(2)を「米軍専用施設」と法的に位置付けている。 そしてこれらは沖縄に全国の74%の面積が集中する。一方、(1)(2)(3)の全てを合わせると、 沖縄にある米軍基地は「全国の23%」まで比重が小さくなるのだ。


「ニュース女子」というTV番組に関する2018年5月4日の朝日新聞朝刊の記事の概略。
東京メトロポリタンテレビ(MXテレビ)の番組「ニュース女子」は、昨年1月2日、 沖縄東村(ひがしそん)高江の米軍ヘリパッド建設問題を取り上げた。反対派は救急車を止めた。日当をもらって抗議している疑惑があるーー。 そう表現した。
毎日放送(大阪市)のディレクター斉加尚代さんは、心が凍り付いた。「デマだ、とうとう地上波で流された」。 急ぎ沖縄へ飛んだ。反対派が救急車を止めたとの情報をSNSで発信した男性は、事実確認をしておらず、「かるはずみな発言。反省している」と話した。 重大な放送倫理違反があった。MXテレビは3月末、この番組の放送を終了した。斉加さんは言う。「都合よくデマを作れる時代だから、 事実を伝える使命がますます大切になっている」(崔採寿)


沖縄の米軍施設の問題を次のように考えました。

沖縄県の面積は 2,281ku。 日本の面積 378,000ku の 0.6%
日本における米軍施設263ku(100%) 沖縄185ku(70%) 本土78ku(30%)

面積比で米軍施設を割り当てるとすれば 沖縄1.5ku(0.6%)本土261.5ku(99.4%)となり
沖縄の負担は劇的に軽減されます。
日米安保条約に基づく米軍施設を容認するとすれば、 本土の人間は沖縄から183.5kuの米軍施設の移転を覚悟しなければなりません。 この現状に目をつむることは新垣さんの指摘のように「沖縄差別」以外の何物でもないとおもいます。
仮に面積比でなく人口比で割り当てるとすれば、2015年の数値を使いますと、全人口が12,709万人、沖縄は142万人で1.1%で、米軍施設は2.9kuです。 いずれの場合も沖縄の負担は劇的に軽減されます。(2019.8.1)
▼更に考えました。
羽田空港の敷地面積は15.2kuです。那覇空港の敷地面積は3.3kuです。
米軍施設263kuは羽田空港約17個分です。これで全体のイメージができます。現状では沖縄は12個分を負担しています。
面積比で米軍施設を割り当てるとすれば沖縄は1.5kuで、羽田空港の10分の1、那覇空港の半分の負担となり、わたしには納得がいきます。
ところで普天間基地は6.4kuです。羽田空港の40%の広さです。(2019.8.5)

公平な基地負担の問題を考えつづけています。安全の確保は住民ひとり一人の命の問題です。 ならば都道府県の人口比で米軍施設を負担するのが公平だという考えに至りました。 下記の数値を見れば米軍施設が自分の住んで居る場所にどれだけ移転してくるか見当がつきます。 この受け入れを各都道府県が自分たちの安全のために認め、政府、議会も国民的課題として推進すべきだと考えます。 人口データは平成29年(2017)が見つかりました。都道府県の頭の数字は人口の順位です。
以下人口(単位:千人)と米軍施設負担面積(単位:平方キロメートル)です。(2019.8.12)
全国 126,706千人 263平方キロメートル
8 北海道 5,320 11.0  31 青森 1,278 2.6  32 岩手 1,255 2.6
14 宮城 2,323  4.8  38 秋田 996 2.1  35 山形 1,102  2.3
21 福島 1,882  3.9  11 茨城 2,892  6.0 19 栃木 1,957  4.1
18 群馬 1,960  4.1 

5 埼玉 7,310 15.2  6 千葉 6,246 13.0 1 東京 13,724  28.5
2神奈川 9,159 19.0


15 新潟 2,267  4.7 37 富山 1,056  2.2   34 石川 1,147  2.4
43 福井 779  1.6  42 山梨 823 1.7  16 長野 2,076  4.3 17 岐阜 2,008  4.2
10 静岡 3,675  7.6  4 愛知 7,525 15.6 22 三重 1,800 3.7

26 滋賀 1,413  2.9  13 京都 2,599 5.4   3 大阪 8,823 18.3
7 兵庫 5,503 11.4
 30 奈良 1,348 2.8 40 和歌山 945 2.0

47 鳥取 565  1.2  46 島根 685 1.4    20 岡山 1,907  4.0
12 広島 2,829  5.9 27 山口 1,383  2.9 44 徳島 743   1.5
39 香川 967   2.0 28 愛媛 1,364  2.8 45 高知 714   1.5

9 福岡 5,107  10.6 41 佐賀 824   1.7 29 長崎 1,354  2.8
23 熊本 1,765  3.7 33 大分 1,152  2.4 36 宮崎 1,089  2.3
24 鹿児島 1,626  3.4 25 沖縄 1,443  3.0
出典:総務省「人口推計」
▼人口1位の東京〜9位の福岡の合計は114.4で全体の43%となります。 このような負担を本土は現実的に考えるべきです。(2019.8.13)

▼下記の研究の中で「日本本土と沖縄の米軍基地面積の割合推移」 「 日本本土と沖縄の米軍基地面積の推移」のグラフは一目瞭然で大変参考になります。(2019.8.8)
今瀬 政司(NPO 法人市民活動情報センター代表理事) 沖縄米軍基地問題と国策下の地域政策 http://sicnpo.jp/imase_masashi/imase-okinawa_kichi180915.pdf
割合推移
グラフ左端1956年 本土87%、沖縄13%

面積推移
1956年本土1121平方q→1961年312平方q
「防衛省、沖縄県の資料によると、1956 年時点 で日本本土に米軍基地の87%があり、沖縄は13%であっ た(日本本土1,121 平方q、沖縄164平方q)。
日本本土では、1950 年代前半から米軍基地で被害を受 ける住民による反対運動が各地で起きていた。内灘闘争 (石川県内灘村)、砂川闘争(東京都立川基地)、北富士 演習場反対闘争(山梨県)、浅間山演習場反対闘争(長野 県)、妙義山接収計画反対闘争(群馬県)などである。
そうした反対運動や日米両政府の様々な政策利害等によっ て、1950 年代後半に日本本土の米軍基地は大幅に整理・ 縮小されるとともに、沖縄に移されていった。
岐阜県や山梨県に駐留していた米軍の海兵隊が撤退して沖縄に移 された。
米軍の伊丹飛行場(大阪空港)、内灘演習場、新 潟飛行場、小牧飛行場(名古屋空港・小牧基地)、千歳基 地(千歳空港)、辻堂演習場(神奈川県)など次々と返還 されていった。
それにより、日本本土の米軍基地は、1956 年の 1,121 平方qから 1961 年には 312平方qとなり、5 年間で 4 分の 1 弱にまで激減した。米軍基地の減少で軍事的負担 が減ったことなどもあり、日本本土は目覚ましい経済復 興を遂げていった。」
▼今瀬論文で取り上げられている本土と沖縄の米軍施設の推移
      面積(平方q)        割合(%)
       本土 沖縄  計       本土 沖縄

1956年  1121 164 1285   87.2 12.8
1961年  312  210  522    61.0 40.0
1972年  197 
1974年   95  277 372    25.5 74.5
2017年   77  186 263    29.3 70.7
▼上記今村論文の1956年と1974年を比較しますと面積では本土が1121平方qから95平方qへとマイナス1026平方q、92%撤去されています。 一方沖縄は164平方qから277平方qへとプラス113平方q、約70%拡大されています。1972年が沖縄返還ですから返還に向けて基地が本土から移設されたことが 読み取れます。本土の人間としてこの歴史を自覚する必要があると思います。私も恥ずかしながら今村論文を読み、自分で分析しながら今日、只今この 事実を知りました。(2020.4.1. 7:25am)

▼2018年の防衛省のデータによると米軍施設は全体で263平方q。沖縄は185平方q。 本土は1956 年の1121平方qから1043平方qに93%減少して78平方qに。一方沖縄は164平方qから185平方qに13%増加。(2020.3.29)

▼生活クラブの雑誌「生活と自治」8月号を読んでいたら特集で「本土に引き取る会」に期待するのはーー、に出会いました。 まさしくわたしが最近やっとたどり着いた結論の活動を既にやっておられることを知りました。この活動に合流したいと思います。(2019.8.20)
▼沖縄に新垣毅さんを2019.9.4訪ねました。私が今基地問題について考えていることの確認のためです。
事前に「沖縄の自己決定権」「沖縄のアイデンティティー」を紹介され、2019.8.17〜9.1までかけて読みました。
「沖縄の自己決定権」はよく理解できました。 とりわけ8.21読んだ高橋哲哉氏へのインタビューは自分の感覚と通ずるものがあるとこの時感じました。
「沖縄のアイデンティティー」は少し難解でした。 歴史学者・酒井直樹氏の文化論の用語をそのまま使っておられるためだと思いました。

▼「本土に引き取る会」に期待されている高橋哲哉先生を今日、東大駒場に訪ねました。
「沖縄人として日本人を生きる」(解放出版社)のなかで 先生は金城馨さんと対談しておられます。それを読みほぼ概略は理解していました。 今日お目にかかり、根本のところで気持ちが同じであることを確認できて 大変うれしく思っています。具体的な行動に移っていきたいと考えています。(2019.10.7)
▼東京生活者ネットの代表委員の大西由紀子さんを2019.10.29国立に訪ねました。
▼私は今、下記のような陳情を準備しています。(2019.11.13)

        沖縄の米軍基地を本土が応分の負担をすることを求める陳情(案)
                     趣旨 
日本人の誰しもがおかしいと感じている沖縄の米軍基地問題。 日米安保条約に基づく米軍施設を容認するとすれば(例え反対の人でも沖縄の現状は変わりません)、 国土面積の0.6%しかない沖縄に米軍施設の7割が集中している現状を改善する必要があります。 しかし具体的にどのようにすればいいのか見えていない。 
私は本土の東京に住む人間として次のように考えるようになりました。 
安全の確保は住民ひとり一人の命の問題です。 ならば都道府県の人口比で米軍施設を負担するのが公平だという考えに至りました。
下記の数値は都道府県の人口を全国の人口で割って%を出し、その%で米軍施設263平方キロメートルを掛けたものです。( )は現在の負担面積です。 これを見れば米軍施設が自分の住んで居る場所にどれだけ移転してくるか見当がつきます。 この受け入れを各都道府県が自分たちの安全のために認め、政府、議会も国民的課題として推進すべきだと考えます。
人口データは総務省「人口推計」平成29年(2017)  米軍施設面積のデータは防衛省
全国の人口 126,706千人     全国に展開している米軍施設 263ku
    人口 人口比 負担面積       人口 人口比 負担面積       人口 人口比 負担面積
北海道 5,320 4.2% 11.0ku(4.3)  青森 1,278 1.0% 2.6ku(23.7)   岩手1,255 1.0% 2.6ku
宮城 2,323  1.8% 4.8ku        秋田 996  0.8% 2.1ku    山形 1,102  0.9% 2.3ku
福島 1,882  1.5% 3.9ku      茨城 2,892  2.3% 6.0ku    栃木 1,957  1.5% 4.1ku
群馬 1,960  1.5% 4.1ku 

埼玉 7,310  5.8% 15.2ku (2.0) 千葉 6,246  4.9% 13.0ku(2.1)東京 13,724  10.8%  28.5ku(13.2)
神奈川 9,159 7.2% 19.0ku (14.7)

新潟 2,267 1.8%  4.7ku       富山 1,056 0.8%  2.2ku     石川 1,147 0.9%  2.4ku
福井 779 0.6%  1.6ku        山梨 823 0.6% 1.7ku    長野 2,076 1.6%  4.3ku
岐阜 2,008 1.6%  4.2ku   静岡 3,675 2.9% 7.6ku(1.2)   愛知 7,525 5.9% 15.6ku 
三重 1,800 1.4% 3.7ku

滋賀 1,413 1.1%  2.9ku   京都 2,599 2.1% 5.4ku   大阪 8,823 7.0% 18.3ku
兵庫 5,503 4.3% 11.4ku   奈良 1,348 1.1% 2.8ku  和歌山 945 0.7% 2.0ku

鳥取 565 0.4%  1.2ku   島根 685 0.5% 1.4ku     岡山 1,907 1.5%  4.0ku
広島 2,829 2.2% 5.9ku(3.5)   山口 1,383 1.1% 2.9ku(8.7)     徳島 743 0.6%  1.5ku
香川 967 0.8%  2.0ku   愛媛 1,364 1.1% 2.8ku    高知 714 0.6%  1.5ku

福岡 5,107 4.0% 10.6ku   佐賀 824 0.6%  1.7ku    長崎 1,354 1.1% 2.8ku(4.7)
熊本 1,765 1.4%  3.7ku  大分 1,152 0.9%  2.4ku   宮崎 1,089 0.9%  2.3ku
鹿児島 1,626 1.3% 3.4ku  沖縄 1,443 1.1%  3.0ku(184.9)


沖縄の米軍施設は現状の184.9kuから3.0kuへと劇的に改善されます。一方東京都は28.5kuの米軍施設を負担することになります。 (すでに13.2kuの米軍施設がありますので15.3ku増となります。)このような決議を都議会が行い、都知事が実施することを陳情いたします。
令和元年11月21日
  東京都知事並びに都議会御中
                                         陳情者 大西信也

▼今日、上記のような形で陳情の原案を完成させました。全ての都道府県でこのような陳情が住民から出され、議会で採択されていくことを願っています。
因みに人口比以上に米軍施設を負担しているのは沖縄を除き青森県(23.7ku)、山口県(8.7ku)、長崎県(4.9ku)の3県です。 (2019.11.21)
▼その後、組合の活動をされている方(複数)とお会いしました。上記の「陳情」を運動として展開することは非現実的であるとの指摘をうけました。 趣旨は、心情は、理解できるが組合としてこの「陳情」を運動として取り組むことはできない、とこれまでの組合の運動の方針・展開の説明を受け、私も理解しました。 そもそも非現実的であることは自分でも分かっていました。
ただ、本土の人間としてどれだけ沖縄に過重な負担を強いているか、本土の人間が自覚する必要がある、そのための自覚を意識化する作業として (私自身の自覚を含めて) 算出した数値が各都道府県の基地負担面積だったのです。沖縄の問題の根底には本土の人間としていつもこの数値をこころに 留めておきたいですし、留めておいていただきたいのです。このことを絶えず意識せざるを得ない運動論をじっくり考えていきたいと思います。 (2019.12.17)
▼「沖縄意見広告運動」に出会い、私が考えている「人口比 各都道府県の基地負担面積」を意見広告で取り上げていただけないか、と考えました。(2020.11.19)
令和元年11月26日那覇地方裁判所 玉城デニー沖縄県知事意見陳述
沖縄県知事の玉城デニーでございます。
本日は、意見陳述の機会を与えていただきましたことに、 心から感謝申し上げます。
私は、昨年の県知事選挙において、亡き翁長雄志前知事の 遺志を継ぎ、「辺野古新基地建設阻止」、「普天間飛行場の閉 鎖・撤去、1日も早い運用停止」を公約に掲げ、辺野古埋立 てに反対する民意の力強い後押しを受けて、知事に就任いた しました。
本件訴訟の口頭弁論にあたり、県民を代表して意見を申し 上げます。

今から74年前の第2次世界大戦において、沖縄では、軍隊 と民間人が混在する中での凄惨な地上戦が行われ、沖縄県民 約10万人を含む20万余の人々が犠牲になりました。

戦後は、多くの県民が収容所に収容され、その間に強制的 に土地を接収されました。 普天間飛行場もその一つです。収容所から戻った住民は、 家や土地を奪われ、飛行場の周辺に住まわざるを得ませんで した。その結果、市街地の中心に位置し、周辺を住宅や学校 に囲まれた現在の普天間飛行場となったのです。

昭和30年前後の本土での反基地運動の激化に伴い、当時、 岐阜県や山梨県にあった海兵隊基地も、米国施政権下の沖縄 へ移転されることとなり、米軍は「銃剣とブルドーザー」で 住民を追い出し、家を壊し、田畑をつぶして、新たな基地を 造っていきました。
終戦後におかれた岐阜の米軍基地 ノンフィクションライター安田浩一
▼沖縄の海兵隊の行状の原型を見るおもいです。(2020.3.31)
ameblo
1950年に朝鮮戦争が勃発し、53年に岐阜県と山梨県に海兵隊が配備されました。日本に配 備されていた米軍は、朝鮮戦争の勃発と同時に韓国に行きました。
そのあとに海兵隊がやってきました。その役割は、韓国に配備された米軍のバック・アップ、戦略的後方支援です。
それが56年には、朝鮮半島からは遠く、しかも船による輸送手段のないまま沖縄に移ってきたのです。
▼沖縄の海兵隊の経緯がよくわかりました。戦後の日本の形が朝鮮戦争に深く、堅く結びついています。(2020.3.31)

昭和47年の本土復帰後も、沖縄には多くの米軍基地が日米 安全保障条約に基づく提供施設・区域として引き継がれるこ ととなりましたが、その一方で、本土では沖縄よりも米軍基 地の整理・縮小が進んだ結果、沖縄県の日本全体に占める米 軍専用施設の負担割合は大きくなっていきました。

このような経緯から、戦後74年を経た現在もなお、国土面 積の約0.6パーセントである沖縄県に、米軍専用施設面積の 約70.3パーセントが存在しており、基地から派生する様々な 事件・事故など、過重な基地負担が、解決しなければならな い現実の問題として残されているのです。
       2020.7.4朝日新聞朝刊
▼辺野古震度1 護岸崩壊。防衛省の公表データを地質学者が解析。 自民党政権よ、これ以上強行しない方がいいですね。後世の笑いものになりそうです。(2020.7.9)
そもそも、辺野古新基地は陸地をまたぐ埋立てによって建 設する計画であり、また、大浦湾側は海底面が傾斜している 上に、軟弱地盤と固い地盤が混在するため、計画地一帯の地 盤は不均一に沈下します。
このことを「不等沈下」と言いますが、不等沈下によって 地盤に起伏が生じれば、当然ながらその上にある滑走路や建 物は大きなダメージを負うことになります。 つまり、地盤改良を行って新基地を完成させたとしても、 今後何十年もの長きにわたり不等沈下の対策が必要となるの であり、基地として使い物にならない上に、維持・補修のた めに莫大な経費を要することになります。
沖縄タイムズ2018年8月14日 15:37
これまで述べてきたこと以外にも、辺野古埋立工事には多 くの問題があり、このようなことから、承認の要件を満たさ なくなっていることは明らかであり、県が行った承認取消し は適法なものであります。
   2020.7.19朝日新聞朝刊
1911年喜界島で震度6の地震が起き、沖縄本島は震度5と推定。「那覇で首里城の城壁が倒壊したほか、598ヵ所の石垣が崩れた」この歴史 に徴すれば辺野古新基地で、護岸が崩れ、燃料タンクなどが壊れる惨事も想定されるのではないか。新基地建設は中止すべき。
▼もっともな投稿!(2020.7.21)

県が行った承認取消しに対して、沖縄防衛局長は、自らを 私人と同じ立場にあるとして行政不服審査制度を用いて審査 請求を行い、これを受けて、平成31年4月5日に、国土交通 大臣は県の承認取消しを取り消す裁決を行いました。 今回、政府は国民の権利利益の救済を目的とする行政不服 審査制度を濫用しました。
このような裁決が正当化されてしまえば、政府は、地方公 共団体の判断を容易に覆し、自らの意向を押し通すことがで きることになります。これは、自治権の侵害に他なりません。

沖縄では、過去2回の知事選挙において辺野古移設反対を 掲げる候補者が当選しております。 また、名護市辺野古を選挙区とする今年4月の衆議院議員 補欠選挙では、辺野古移設が明確な争点として争われ、移設 に反対する候補者が当選したほか、7月の参議院議員選挙に おいても、移設反対を掲げる候補者が当選しております。 このように、県民は、これまでの一連の選挙において、何 度も反対の民意を示してきたのです。
そして、去る2月24日には辺野古米軍基地建設のための埋 立ての賛否を問う県民投票が行われ、投票者総数60万5,385 票の7割を超える43万4,273票が辺野古埋立てに「反対」と の意思を示しました。 これは知事選における私の得票数を上回るものであり、こ れ以上沖縄に新たな基地を造ってほしくないという県民の願 いであります。

「普天間飛行場の代替施設として国が名護市辺野古に計画している 米軍基地建設のための埋立てに対する賛否についての県民による投票」

開催地 沖縄県
開催日 2019年2月24日
当日有権者数:1,153,591人
投票率:52.48% 投票総数:605,385票 有効票数:601,888票(99.42%)
賛成:114,933票(18.99%)
反対:434,273票(71.74%)
どちらでもない:52,682票(8.70%)
無効票数:3,497票(0.58%)


普天間飛行場の1日も早い危険性の除去が喫緊の課題であ るということは、政府と県の共通の認識であります。 しかしながら、「辺野古が唯一の選択肢」であることにつ いて明確な説明がないまま、工事は強行されています。

最後になりますが、改めて申すまでもなく、司法権は三権 の一つとして、行政権をチェックすべき任務を負っておりま す。その司法が政府の過ちを正すことなく、制度の濫用を見 て見ぬフリをするようなことがあれば、今後、政府はあらゆ る場面で同様のことを繰り返しかねません。 これは、沖縄だけの問題ではなく、全ての地方公共団体に おいて現実に起こりうる問題です。

辺野古埋立てを正当化する理由が既に失われている現状に おいて、県民投票で明確に示された民意を無視し、工事を強 行することは、法令に違反し、民主主義を踏みにじり、地方 自治を破壊するものであります。

辺野古新基地建設問題の解決に命を懸けた先人がおりま す。今も懸命に声を上げ続けている方々がおります。そして、 対話と発信により無関心を共感に変えようとする次世代を担 う若者がおります。県民は様々な思いを抱えながら、この問 題を乗り越えようとしております。

本件訴訟は、苦難と対立の連鎖を断ち切り、前に進もうと する沖縄の意思を示す意義をも持つものです。 裁判所におかれましては、県民の民意と本気で向き合い、 県民投票で示された未来への願いを正面から受け止めていた だくとともに、法の番人として、憲法が掲げた地方自治の理 念を実現するために、埋立承認を巡る一連の問題について、 実体的な審理を行い、正しい判断を示していただくことを希 望いたします。

▼この意見陳述を2020.3.31に掲載しています。冷静な玉城知事の叫びです。 本土のみなさん共感できませんか。

▼左の2019.12.12朝日新聞のインタビューで玉城知事は強調されています。
「政府は、安全保障の問題は不可視化しておくのが一番いいと考えているのだと思う。」
「国民一人一人が、この問題が自分の地域に持ち込まれたらと危機感を共有していただき、連帯の輪を広げることが解決するポイントだと思う。」


▼私が今、懸命に考えていることは玉城知事の仰る基地の問題「可視化」すること、 「国民一人一人が自分の地域に持ち込まれたらとの危機感の共有」をいかに作り出すか、ということです。
そのために令和元年11月21日の沖縄の米軍基地を本土が応分の負担をすることを求める陳情(案)を考えたのでした。

しかしこの案だと複数の組合の執行部はこれまでの運動の経緯からむずかしいということでした。そこで次のような案を考えました。


  「米軍基地建設のための辺野古埋立て賛否についての県民投票」結果の尊重を日本政府に求める陳情(案)
                     趣旨 
この県民投票は正式には「普天間飛行場の代替施設として国が名護市辺野古に計画している 米軍基地建設のための埋立てに対する賛否についての県民による投票」と呼ばれています。
2019年2月24日に行われた投票は投票率52.48%、反対434,273票(71.74%)、賛成114,933票(18.99%)、どちらでもない52,682票(8.70%)でした。
沖縄県民の米軍基地建設のための埋立てに反対の意思が明確に表明されたにもかかわらず、政府は翌日から埋め立てを再開しています。
都議会には地方自治の観点からこの問題を考えていただきたい。仮にあるテーマで政府と東京都民の意思が真っ向から対立した場合、政府が東京都民の 意思を無視することが許されるのか、ということです。私は地方自治の観点から、民主主義の観点から、都議会として沖縄県民の住民投票の結果を尊重 することを政府に求める決議をして政府に提出していただくよう陳情します。
そもそも米軍基地の問題は、国土面積の0.6%しかない沖縄に米軍施設の7割が集中している現状に大きな問題があります。 私は東京に住む本土の人間として次のように考えています。 
安全の確保は住民ひとり一人の命の問題です。 日米安保条約に基づく米軍施設を容認するとすれば都道府県の人口比で米軍施設を負担するのが公平だと考えています。
下記の数値は都道府県の人口を全国の人口で割って%を出し、その%で米軍施設263平方キロメートルを掛けたものです。( )は現在の負担面積です。 これを見れば米軍施設が自分の住んで居る場所にどれだけ移転してくるか見当がつきます。
人口データは総務省「人口推計」平成29年(2017)  米軍施設面積のデータは防衛省

全国の人口 126,706千人     全国に展開している米軍施設 263ku
    人口 人口比 負担面積       人口 人口比 負担面積        人口 人口比 負担面積
北海道 5,320 4.2% 11.0ku(4.3)  青森 1,278 1.0% 2.6ku(23.7)   岩手1,255 1.0% 2.6ku
宮城 2,323  1.8% 4.8ku        秋田 996  0.8% 2.1ku    山形 1,102  0.9% 2.3ku
福島 1,882  1.5% 3.9ku      茨城 2,892  2.3% 6.0ku    栃木 1,957  1.5% 4.1ku
群馬 1,960  1.5% 4.1ku 

埼玉 7,310  5.8% 15.2ku (2.0) 千葉 6,246  4.9% 13.0ku(2.1)東京 13,724  10.8%  28.5ku(13.2)
神奈川 9,159 7.2% 19.0ku (14.7)

新潟 2,267 1.8%  4.7ku       富山 1,056 0.8%  2.2ku     石川 1,147 0.9%  2.4ku
福井 779 0.6%  1.6ku        山梨 823 0.6% 1.7ku    長野 2,076 1.6%  4.3ku
岐阜 2,008 1.6%  4.2ku   静岡 3,675 2.9% 7.6ku(1.2)   愛知 7,525 5.9% 15.6ku 
三重 1,800 1.4% 3.7ku

滋賀 1,413 1.1%  2.9ku   京都 2,599 2.1% 5.4ku   大阪 8,823 7.0% 18.3ku
兵庫 5,503 4.3% 11.4ku   奈良 1,348 1.1% 2.8ku  和歌山 945 0.7% 2.0ku

鳥取 565 0.4%  1.2ku   島根 685 0.5% 1.4ku     岡山 1,907 1.5%  4.0ku
広島 2,829 2.2% 5.9ku(3.5)   山口 1,383 1.1% 2.9ku(8.7)     徳島 743 0.6%  1.5ku
香川 967 0.8%  2.0ku   愛媛 1,364 1.1% 2.8ku    高知 714 0.6%  1.5ku

福岡 5,107 4.0% 10.6ku   佐賀 824 0.6%  1.7ku    長崎 1,354 1.1% 2.8ku(4.7)
熊本 1,765 1.4%  3.7ku  大分 1,152 0.9%  2.4ku   宮崎 1,089 0.9%  2.3ku
鹿児島 1,626 1.3% 3.4ku  沖縄 1,443 1.1%  3.0ku(184.9)

沖縄の米軍施設は現状の184.9kuから3.0kuへと劇的に改善されます。一方東京都は28.5kuの米軍施設を負担することになります。 (すでに13.2kuの米軍施設がありますので15.3kuが追加負担となります。)本来ならば東京都はこれだけの負担をしなければなりません。
私の陳情は、沖縄県民が困難な中実施した住民投票の結果を、せめて政府が尊重するよう求める決議を都議会が行い、 それを政府に届けていただきたい、というささやかなお願いです。
令和元年12月17日
  都議会御中
                                         陳情者 大西信也

2020.3.27朝日朝刊
米軍基地問題に関する万国津梁会議
▼さっそく全文読んでみました。
「在沖米海兵隊は県外・国外分散を 普天間は訓練分散させ、運用停止、返還へ 万国津梁会議が玉城知事に提言」
右のグラフは「万国津梁会議」の提言の中で取り上げられている「沖縄県と本土の米軍専用施設面積と沖縄県が占める割合の推移」です。
水色の棒が本土、赤の棒が沖縄。 水色が大きく減っているのに対し赤がほぼ横ばい。割合にすると点線のグラフ。1978年に沖縄の割合が74.74%になって以降ほぼそのままです。

▼このグラフを見て気づいたことは本土から確実に米軍専用施設面積が減少しているのに対し沖縄はほぼ維持されていること。1965年頃本土と沖縄の割合は ほぼ半々。それ以降も本土は減少しつづけ、1959年の38.15%から20年後の1978年74.74%となっている。ここから言えることは当然 沖縄の基地負担の削減か本土の引き受けとなります。(2020.3.29)

「報告書」の内容です。まず会議の正式名は「米軍基地問題に関する万国津梁会議」でした。大事な点を挙げておきます。

1、辺野古基地が完成しても普天間飛行場の米軍による使用は継続されるというシナリオもあり得る。

2、海兵隊の(米軍)新作戦構想にとっても、160haの面積(羽田飛行場の1/10の大きさ)、1800mの滑走路を持つ辺野古新基地は、分散の推進という観点からは規模が大きすぎる ものである一方で、有事の(航空機受け入れの)来援拠点としては不十分な規模であって、軍事的にベストな選択肢とはいえない。

3、今後、地盤改良工事に着手できた後、さらに12年を要する。このことは、辺野古移設では普天間飛行場の早期の危険除去はできないことを政府自身 が事実上認めたことを意味する。

4、さらに、地盤改良後の不等沈下の問題についても政府は明確に答えていない。 (不等沈下とは)地盤改良後も、埋立地では、地盤沈下がおきることが予想され、地盤改良を実施したとしても、 約70年後も地盤沈下が続くことが予測され、長年にわたって不等沈下対策に莫大な経費を必要とする。

▼軍事的に突っ込んだ議論が万国津梁会議で行われました。政府の「辺野古が唯一の解決策」が見事に論破されています。 因みにこの会議の委員長は防衛省OBで元内閣官房副長官補の柳沢協二氏、委員に元外務省国際局長の孫崎享氏の名もあります。本土の私たちの責務はこの提言を広めていくことだとおもいます。(2020.3.29)



▼左は2018.6.29の朝日新聞朝刊です。部落の問題を考えるのに貴重な発言が多くあります。 沖縄の基地の問題を考えるのにも役立つと思いこちらにも掲載します。(2019.11.29)
民主主義の限界と可能性http://t.asahi.com/py3d
ガブリエルさん:
●民主主義の本質。「人間が人間として存在するために譲れない諸権利(=人権)に対応し、 その権利の実現を目指す政治システム」だとして、民主主義に内在する価値として「平等」を重視している。
●「だれかを拷問するかどうかを民主的な投票で決めてはいけない」民主主義の価値の重要性を民主主義によって否定することはできない。
●多様な含意を持つ民主主義について、「普遍的な価値システム」としての民主主義の重要性を強調し、「「主権」という概念はいりません。 主権なしに新しく民主主義について考える必要があります」と述べた。
●「国家は単なる形式的なシステムでなく、倫理的な基礎が必要」

▼自治とか、平等を突き詰めていくとどうしても国家が邪魔になってきます。 常々考えていることです。(2020.3.30)

               
沖 縄 の 歴 史
▼ホームページ「沖縄の歴史 - 琉球文化アーカイブ」http://rca.open.ed.jp/historyは、 私には沖縄・琉球の歴史を知るのに非常に役立ちました。 少なくともこの内容が日本社会の共通の認識になって欲しいと願っています。感謝の気持を込めてこのホームページを紹介させていただきます。
まず冒頭、ホームページ作成者は下記の文献を参考文献としてあげられています。

【参考文献】
●高校生のための沖縄の歴史/沖縄県教育委員会編集・発行 1994年 ●高等学校琉球・沖縄史/沖縄歴史教育研究会 新城俊昭著 東洋企画発行 1997年  ●南の王国琉球/NHK出版発行 1992年 ●沖縄コンパクト事典/琉球新報社編集・発行 1998年 おぺn. ●沖縄県の歴史散歩/沖縄歴史研究会編集 (株)山川出版社 1994年  ●沖縄の文化/沖縄県編集・発行 1992年 ●沖縄の文化財1〜4/沖縄県教育委員会編集 沖縄県立博物館友の会発行  ●図説 琉球王国/高良倉吉・田名真之 河出書房新社発行 1993年 ●沖縄県立博物館 総合案内/沖縄県立博物館編集・発行 1987

▼わたしがホームページで辿っていった道筋を一緒に辿っていただければ、沖縄の歴史と琉球の文化がからだの中に浸透してきて、 沖縄の今とこれからを語っておられる新垣毅さんの「沖縄の自己決定権」の意味がより深く理解できると思います。
以下「 」内はホームページの記述を要約したものです。 しかし作業を進めていくうちに「琉球藩の廃藩置県」以降は要約するのも困難でした。 従って「沖縄の歴史 - 琉球文化アーカイブ」の当該記述をそのまま掲載させていただきました。▼はわたしのコメントです。


1 はじめに
「美しい海と自然に囲まれた沖縄は、小さな島国ながらかつて琉球というひとつの国を形作っていました。」
▼沖縄は琉球という一つの国であった、と紹介されています。まずこれが大事ですね。

2 琉球列島の起源
「九州と台湾をむすぶ約1200kmにおよぶ琉球列島の、ほぼ中間から南の島々が沖縄県です。」
▼わたしもはじめて平凡社の「日本大地図帳」で確認しました。
その昔、琉球列島は、海底にあり「約1500万年から1000万年前ごろに」中国大陸や九州とつながり、 「約1000万〜200万年前には」切り離され、「約150万年前に」 また中国大陸とつながり「約2万年前に」また切り離され現在のような姿になったようです。 大陸とつながり、切り離され、つながり、切り離され、という琉球列島の地形の歴史は 琉球の人々の歴史を暗示しているようにおもいました。


3  旧石器時代の沖縄
「旧石器人の全貌を明らかにしたのが、1967(昭和42)年、沖縄県で発見された具志頭村(ぐしかみそん)の港川人(みなとがわじん)でした。 頭や手足のそろった完全な旧石器人骨の発見は、日本はおろかアジアでもはじめてのことで、年代測定の結果およそ1万7000年前の現世人類であることが分かりました。この発見によって、 日本の旧石器人の容姿が具体的に説明できるようになり、旧石器人の研究を飛躍的に発展させました。」
▼この解説を読んで日本人の源流を具体的にイメージできるようになると同時に琉球とのつながりを実感しました。

4-1  新石器時代の沖縄
▼このホームページでは高良倉吉氏の時代区分をもとに沖縄と日本の時代区分が対比されています。
2020.5.30朝日新聞夕刊 高良倉吉さん

左の表です。 日本の縄文時代〜平安末期までを沖縄の新石器時代とされています。 このような時代区分はわたしには、はじめてで、新しい発見でした。


「縄文早期と縄文前期は九州との交流が深かった」
「縄文中期は奄美諸島や沖縄諸島の独自の文化が発生」
「縄文後期は再び九州との交流が盛ん、中国とも関わる」
「縄文晩期、九州との活発な交流」
「弥生時代に九州や中国と交易」
「古墳時代から平安時代末期まで日本との交流もほとんどありません

▼古墳時代から平安末期まで、ヤマト政権は本土の治世に忙しかったのでしょう。
4-2新石器時代の3つの文化圏

種子島・屋久島などの薩南諸島の北部文化圏
奄美諸島および琉球諸島からなる中部文化圏
宮古・八重山諸島の南部文化圏

「奄美・沖縄諸島からなる中部文化圏は、九州の縄文文化が縄文前期ごろに北部文化圏を南下して定着、独自の発展をとげたもの」

南部文化圏とみなされる先島(さきしま・宮古および八重山諸島)の文化圏は、 台湾やフィリピンなどの南方諸島との関わりが深いことから、南方一帯にそのルーツがあると考えられています。」

▼この三つの文化圏の違いは注意しておく必要があります。 特に南部文化圏。宮古島、石垣島、西表島それに尖閣諸島。本土の人間はこの違いに、私を含め殆んど気づいていません。 最東端から最西端までは約1,000km、最北端から最南端までは約400km。

5-1 古琉球
12世紀のグスク時代にはじまり、琉球王国の成立をへて、1609年の島津侵入までの時代の流れを、 総称して古流球(こりゅうきゅう)とよびます。
12世紀になると沖縄の各地には按司(アジ)とよばれる指導者が誕生して、砦としてのグスクを築き、 互いが勢力を争うグスク時代を展開します。
14世紀にはより強力な三つの勢力があらわれ、沖縄島を南部・中部・北部に分断してそれぞれの地域を支配しました。
三山の中でも特に勢力を誇っていた中山(ちゅうざん)の察度は、1372年にはじめて中国の明朝へ朝貢(ちょうこう・大国へ貢物をおさめること) しました。これが、琉球と明との公式な貿易のはじまりだといわれています。明を盟主として東アジア各国が主従関係をむすび、 進貢貿易をおこなうことを冊封(さくほう・サップウ)といいます。
冊封体制のもと、北山は今帰仁(ナキジン)グスク、中山は浦添(うらそえ)グスク、南山は島尻大里(しまじりおおざと)グスクをそれぞれ拠点にして、 互いに激しい勢力争いを展開します。
この14世紀初頭から15世紀初頭までが三山(さんざん)時代とよばれる時代で、 海外貿易による経済力の拡大とともに、琉球王国の形成に着実につき進んでいきました。
朝日朝刊2020.10.29
首里城は琉球王国(1429〜1879)の王宮。政治、外交、文化の中心となった城。 高良倉吉・琉球大名誉教授 「首里城を大切に思う人がこれほどたくさんいることは、火災(昨年10.31)前、には見えませんでした。」   ▼2020年は琉球王国成立から約600年。この王国時代に復帰したいとの琉球の人々の心情を私は共有しています。(2020.11.3)
15世紀にはいると、南部からでてきた按司・尚巴志(しょうはし)が頭角をあらわし、 1422年、北山の今帰仁グスクを、1429年には南山の島尻大里グスクを滅ぼし、琉球王国が誕生します。
▼琉球王国が誕生するまでの経緯は、本土で言えば鎌倉から戦国を経て江戸幕府に至る全国統一過程に 似ているようにおもいました。
5-2 古琉球−琉球文化圏の形成

「沖縄近海をふくむ東シナ海は、交易の場となり、琉球列島は商人たちが行き交う中継地点としてにぎわいました。 中国との進貢(しんこう)貿易は、琉球王国を独立国家として存続させるための経済的活力となっていました。」
大交易時代の琉球ーポルトガル資料にみる琉球  当時の東南アジア地域において活躍し、琉球の「大航易時代」を支えた人々は、 ヨーロッパ人にも「レキオ」または「ゴーレス」として広く知られるようになりました。 当時の琉球人の姿を、ポルトガルの資料(▼後述のトメ・ピレス「東方諸国記」のこと)は次のように伝えています。
 レケオ(琉球)人はゴーレスと呼ばれる。かれらはこれらの名前のどちらかで知られているが、 レキオ(レケオに同じ)人というのが主な名前である。王国とすべての人民は異教徒である。 国王はシナ(中国)の国王の臣下で、(彼に)朝貢している。彼の島は大きく、人口が多い。
彼らは独特の形の小船を持っている。またジュンコ(ジャンク型の船)は、3、4隻持っているが、彼らはたえずそれをシナから買い入れている。 彼らはそれ以外は船を持っていない。彼らはシナとマラカ(マラッカ)で取引を行う。 しばしば彼らはシナ人と一緒に取引をし、またしばしば自分自身でシナのフォケン(福建)の港で取引をする。 それらはシナ本土にあり、カントン(広東)に近く、そこから一昼夜の航海のところにある。 マラヨ(マレー)人はマラカの人々に対し、ポルトガル人とレキオ(琉球人)との間には何の相違もないが、 ポルトガル人は婦人を買い、レキオ人はそれをしないだけであると語っている。  レキオ人は、彼らの土地には小麦と米と独特の酒と肉とを持っているだけである。 魚はたいへん豊富である。…(中略)…我々の諸王国でミラン(ミラノ)について語るように、 シナ人やその他のすべての国民はレキオ人について語る。
彼らは正直な人間で、奴隷を買わないし、 たとえ全世界とひきかえでも自分たちの同胞を売るようなことはしない。彼らはこのことについては死を賭ける。 彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い。
彼らはシナに渡航して、マラカからシナへ来た商品を持ち帰る。 彼らはジャポン(日本)へ赴(おもむ)く。それは海路7、8日の航程のところにある島である。 彼らはそこでこの島にある黄金と銅とを商品と交換(こうかん)に買い入れる。 レキオ人は自分の商品を自由に掛(か)け売りする。
そして代金を受け取る際に、もし人々が彼らを欺(あざむ)いたとしたら、彼らは剣を手にして代金を取り立てる。
トメ・ピレス「東方諸国記」 (生田滋・加藤栄一・長岡新治郎訳)『大航海時代叢書』Vより
▲上記のようにこの資料は極めて信憑性が高い。これによると琉球王国は通商国家として経済的に独立していたことがよく分かる。 沖縄は基地に依存しなくても経済的に自立できる、そういう歴史をもっていた。(2019.7.20)
▲次の中島論文もいいです。
中島 楽章(なかじま よしあき)九州大学准教授「マラッカの琉球人ーポルトガル史料にみるー」
「トメ・ピレスはリスボンの薬種商だったが、1511年にインドに渡航して、カナノールの商フェイトール館員となった。 翌1512年にはアルブケルケによりマラッカに派遣され、商館員として貿易実務にあたり、1515年にインドに戻った。 『東方諸国記』は、正式には『紅海から中国までの東洋全書』Suma Orieatal que Trata do Maar Roxo ate os Chinas という。彼がマラッカ商館員として現地で得た情報により記述した、海域アジア全域の地誌 である。

ピレスがマラッカに赴任したのは、1512年の四月〜五月ごろだった。 前述のように、この年のはじめには最後の琉球船がマラッカに入港して貿易をおこなっている。 この琉球船は、四〜九月の南西モンスーンによって帰国したと考えられる。 このためピレスは、赴任直後に琉球人を実見していた可能性があり、少なくとも 琉球船の帰航直後に、彼らと交易していた当事者から情報を得ることができた。 このためピレスの琉球情報は、きわめて詳細かつ正確である。 この記事は琉球王国の東南アジア貿易の実態を伝える史料として周知のものであり、 またかなり長文でもあるが、とくに重要な史料なので、ここでも生田滋らの訳文により、全文を三つに分けて引用することにしたい。」

六 ポルトガル史料にみる琉球のマラッカ貿易

(1)琉球船の航海時期と船数
琉球船の来航時期については、アラウジョは一月にマラッカに来航し、四月にマラッカから帰航の途につき、 往復とも四十日を要したとする〔1〕 。
一方『アルブケルケ実録』によれば、琉球船は一月ごろにマラッカに来航し、八月〜九月ごろに帰航の途についたという〔6b〕 。
一般的に、マラッカから中国への航海期は四月〜八月、中国からマラッカへの航海期は十月〜二月であり、往復ともに一月を要した。
琉球への航海期もほぼ同じだと思われる。往復四十日という航海期間も、中国の場合と比較して、ほぼ妥当であろう。

またマラッカに来航した琉球船の船数については、アラウジョは「毎年数隻のジャンク」とし〔1〕 『アルブケルケ実録』にも「毎年二、 三隻の船がやってくる」とある〔6b〕 。
これに対し、『歴代宝案』では、一年に複数の琉球船がマラッカに派遣されたことが確認できるのは、 一四七一(成化七)年と一四七二(成化八)年の二回だけである。おそらく一年に複数の琉球船を同一国に派遣 した場合でも、 『歴代宝案』では、そのうち一隻に附与した文書だけを収録したのであろう。

(2)琉球船の交易品
琉球王国がマラッカに輸出した商品については中国産の絹織物・日本産の黄金・琉球産の小麦である。絹織物 以外の中国産品としては、中国のもっとも代表的な輸出品である生糸と磁器があり、それは琉球の中継貿易においても例外ではなかった。 琉球船の輸入品のなかでも、胡椒の比率がとくに高かったことは疑いない。

(3)琉球人の印象と交易形式
ポルトガル史料では、マラッカに来航した琉球人の容貌・人品・交易形式などについても具体的に記してい る。彼らの外見については「彼らは色が白い」〔6b〕 「色の白い人々で、華人よりも良い服装をしており、気 位が高い」 〔15a〕 「色が白く、ポルトガル人と同じような印象をうける」 〔14〕など、まず色白であるこ とが目を引いたようだ。

彼らの人品については、 「品行よく物慣れた人々」であり〔6a〕 「真実を話し」 〔6b〕 「正直な人間 で、奴隷を買わないし……同胞を売るようなことはしない」 〔15a〕などとある。さらに「華人よりも正直な 「華人よりも誠実で富裕である」 〔14〕などとあり、華人よりも正直・誠実だとみなされていた。

マラッカに来航した華人は、すべて明朝の海禁に反した密貿易者だったのに対 し、琉球人は国王が派遣した使節とその随員だった。両者の身分はまったく異なり、そのことが人品の評価にも 反映しているわけである。琉球人が、 「短い期間に仕事をすませるように努力し、誰もその土地に留まろうとし ない」のも〔6b〕 彼らが国王に派遣され、国家貿易に従事しているからである。

一五一二年以降、琉球人は二度とマラッカに来航することはなかった。
▼1511年のポルトガルによるマラッカ占領のため。

小結
総じて十四世紀末から十六世紀中期までの琉球王国の海外貿易は、大きく三つの時期に分けることができ る。

第一期(一四九〇年代〜一五三〇年代)は、国家貿易の全盛期であり、明朝とは一年三回の朝貢貿易をおこ ない、朝鮮王朝や室町幕府にも、しばしば使節船を派遣している。 しかし

第二期(一五四〇年代〜一五七〇年代)には、明朝との朝貢貿易は一年に一〜二回に減少し、朝鮮王朝への派船は途絶してしまった。 さらに

第三期(一五八〇年代〜一五四〇年代)には、明朝との朝貢貿易は二年一回となり、室町幕府との通交も途絶し、博多 や堺の商人が朝鮮や日本との貿易を担うようになったのである。

▲琉球一帯は、村井章介著『海洋アジアの輝ける王国』の242頁によると、われわれのイメージからかけ離れた 集団・「境界人」の活躍する海洋であったことを明らかにしています。引用します。(2020.3.20)
胡椒をめぐる海域交流と自由人成宗
民族的出自は朝鮮人だが、北九州の武士勢力に仕え、朝鮮から官職をもらい、琉球国王の使者として朝鮮にあらわれる、といった者もいた。 こうした人間類型に担われつつ、南蛮ー琉球ー九州ー対馬ー朝鮮という海上の道をリレー式に人と物が動くという海域世界の実相。 それを成宗の胡椒種求請一件という偶発的なできごとが明るみに出した。
▲われわれの想定外の人間類型が古琉球の時代、海洋アジアで活躍していたようです。1481年頃の話です。(2020.3.27)

村井章介著『海洋アジアの輝ける王国』(角川選書)

中山、琉球三山を統一
1425年、尚巴志は明の洪熙帝の勅によって琉球国中山王に冊立される。この段階で三山統一は実質的に達成されている。(104頁)

中継貿易
琉球は、明から進貢のみかえりに入手した磁器をシャムに運び、シャムで胡椒・蘇木等を買い付けて帰国し、それを明へ進貢品としてもっていく。 同様のサイクルはシャム以外の東南アジア諸国とのあいだにも結ばれていた。 琉球の産物が介在しないこのような貿易のあり方を「中継貿易」という。
「大交易時代」の琉球の繁栄を支えた最大の要因は、東南アジアと明をつなぐこの中継貿易だった。 琉球は明にとって海外産品入手の貴重な窓口だったから、明は琉球の交易活動に手厚い助成策を施した。この面では、 琉球は明の国内制度に準ずる扱いを受けており、明直轄の貿易公社のような観を呈した。(110頁)

かけがえのない『歴代宝案』
『歴代宝案』には、1424〜1867年444年間にわたる文書4590通が収められている。
外交・貿易を重要な存立基盤とした琉球の歴史にとって、不可欠の史料であることはいうまでもないが、 明・清代の朝貢貿易体制にともなう漢文外交文書の実例を、これほどの規模と継続性をもって見わたせる 史料は、中国にも類例がない。(191頁)
▼アイヌの人たちはこうした文字文化を持たなかった。大きな違い。(2020.3.22)

漢文体とかな文体
外交の領域では漢文体がもっぱら用いられた。琉球の三山が明を盟主とする国際秩序に参入したとき、意思疎通の媒体はとうぜん漢文だった。 いっぽう、ヤマトとの往復文書はまったくようすが異なる。ヤマト中世文書にありふれた和様漢文だった。国王のそばにヤマト中世文書を 熟知した者がいたことがうかがえる。おそらくはヤマト中世の代表的な知識人層である僧侶で、琉球に渡来した者だろう。(256〜257頁)

「久米村(くにんだ)」
琉球の外交・貿易活動を支える人的資源として、東アジア外交のノウハウをもつ華人(主として福建人)が明から送り込まれた。
かれらは、自主的に琉球に移住した同胞ともども、王国の外交・貿易業務を担う専門家集団となり、那覇の一角に「久米村」 とよばれる居留区を形成し、また、そのトップは王国内に明の制度にならって設けられた「王府」の長官である 「王相」の地位に就いた。(188頁)
▼たぶん似たような制度の移入はヤマト朝廷の成立時において朝鮮半島からの専門家集団の移住によってなされた と思われる。(2020.3.21)

ヤマト僧
日琉間の外交はほとんど禅僧によって担われていた。琉球禅林を牛耳っていたヤマトからの渡海僧は、琉球国王の臣下であると同時に、あるいは それ以上に、京都五山の一員だった。この組織的・人的ネットワークを通じて、 ヤマトの宗教的・文化的・政治的影響が琉球におよんだ。(314頁)

万国津梁鐘
王権周辺のヤマト系仏教信仰圏という狭い世界のなかで、短期間だけ盛行した文化の所産で、琉球の風土にさほど深く根づいたものではなかった。 「万国津梁鐘」をより深く理解するには、こうした観点も忘れてはなるまい。(187頁)
1458年に首里城正殿前面の軒下に掛けられた大鐘、通称「万国津梁鐘」の銘は誇らしげに謳いあげる。(原漢文)
琉球国は南海の勝地にして、三韓(朝鮮)の秀を鐘(あつ)め、大明を以って輔車と為し、 日域(日本)を以って唇歯と為し、此の二中間に在りて 湧き出づるの蓬莱嶋なり。

舟楫(海船)を以って万国の津梁(かけ橋)と為し、異産至宝は十方の刹(寺院)に充満せり。地霊・人物は 遠く和夏の仁風を扇ぐ。

中継貿易のいきづまり
琉明間を往来した人びとは、生粋の琉球人、琉球に渡航した華人、琉球に居留する華人をとわず、倭寇的性格を内包していた。くわえて1511年 のポルトガルによるマラッカ占領は、琉球にとって南海貿易の重要拠点を失うことを意味した。ポルトガルはさらにジャワ・シャム・華南 にも手をのばしたので、琉球船の活動の場はますます狭くなった。1570年のシャム通交を最後に、琉球船が東南アジアにあらわれることは なかった。(363〜364頁)
『おもろさうし』の文字化事業
かな文表記の琉球史料の代表ともいうべき『おもろさうし』は、全1554首を載せる。(265頁)
▼Wikipediaによると琉球王国第4代尚清王代の嘉靖10年(1531年)から尚豊王代の天啓3年(1623年)にかけて 首里王府によって編纂された歌謡集、となっています。
▼「沖縄の歴史 - 琉球文化アーカイブ」より
「おもろ」 http://rca.open.ed.jp/history/story/hisindex2.html
沖縄・奄美に伝わる「おもろ」を採録・編集した沖縄最古の古謡集。 全部で22巻あり、収録された歌は1,248首。第1巻が1531年、第2巻が1613年、第3巻〜第22巻は1623年に編さんされている。

1609年、島津氏の琉球征服
1609年の島津氏による琉球征服は幕府の同意のもとに決行された。琉球史の時代区分ではこの年を「古琉球」から 「近世琉球」への境目とする。(380頁)

6 近世琉球
「16世紀末、全国統一をなした豊臣秀吉は、朝鮮侵略のための軍役令(ぐんやくれい・軍事的負担)を全国に発し、 独立国であった琉球へも、薩摩藩(島津氏)を通して軍役(兵糧米)を要求してきました。」
wiki秀吉
天正14年(1586年)9月9日、秀吉は正親町天皇(おおぎまちてんのう)から豊臣の姓を賜り、12月25日には太政大臣に就任し、 ここに豊臣政権を確立させた。
▼1586年が日本の植民地主義の始まりと考えてよさそうです。 以下岩波書店歴史学研究会編「新版日本史年表」より(2019.7.22)
1586年秀吉、イエズス会士コエリヨと大坂城で会い、征明の意図を語る。
1587年秀吉、対馬の宗氏に、朝鮮国王の来日を要求させる。
1588年秀吉、島津義久に、琉球王の使節派遣を要求させる。
1591年秀吉、フィリピンに入貢を促す。
▼その時の書簡。村井章介『海洋アジアの輝ける王国』373頁より。
「弾丸黒子の地を遺さず、 城中悉く統一なり、之により三韓・琉球の遠邦異域、款塞来享(帰服して貢を納む。) 今や大明国を征せんと欲するは、蓋し吾が所為に非ず、天の授くる所なり」と述べて服従の意思表示を要求した(『異国往復書翰集』18号)
▼なんと傲慢。「天の授くる所なり」。(2020.3.27)
1591年秀吉、朝鮮出兵を命ずる
1593年秀吉、台湾高山国に入貢を促す。
1596年秀吉、明使と朝鮮王子の来朝を求める。
1597年再征のため朝鮮に日本陸軍上陸。秀吉、ルソン国使を引見。
1598年家康・利家、秀吉の死(63)を秘し、在朝鮮の諸将に撤兵を命ず
▲秀吉、51歳の太政大臣就任後、63歳で亡くなるまでの12年間、狂ったようにアジアの覇者を追い求めている。 次のウィキペディアの記述は注目に値します。
イエズス会の宣教師たちは、この天正16年(1588)の段階で 「この暴君はいとも強大化し、全日本の比類ない絶対君主となった。」 「この五百年もの間に日本の天下をとった諸侯がさまざま出たが、誰一人この完璧な支配に至った者はいなかったし、 この暴君がかち得たほどの権力を握った者もいなかった。」と『イエズス会日本報告集』に記しており、 秀吉は天正16年段階ですでに日本国の完璧な支配を達成していたとする。

▼この秀吉が明治天皇に受け継がれ、日本帝国主義としてアジア侵略の道を突き進みます。左の金ピカの茶室(MOA美術館)は秀吉を象徴しているように思えます。
Wikipedia: 豊国神社(とよくにじんじゃ)豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の勅命により再興された。 1868年(慶応4年閏4月)、明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、 国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛し、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下された。
▼2019.3.1、このWikipediaに出会い、以下のコメントを「在日」コリアンのページ書いています。 「やっぱり明治政府は秀吉の妄想を引き継いでいた。日本の歴史を見ると「小 中華思想」で書かれた日本書紀の藤原不比等、 「植民地主義」の文禄・慶長の役の秀吉、「帝国主義」の韓国併合の明治天皇 とそれを引き継いだ昭和天皇、これが日本の対外政策の基調となっている。その思想は支配と差別。」と。
▲今回改めて秀吉の妄想を上記年表で再確認しました。(2019.7.24)
「琉球王国にとっての宗主国はあくまでも明であり、 島津氏(しまづし)の命令を拒んでは攻撃を受けてしまうとの危機感から、軍役の半分を負担しました。
江戸時代に入り島津氏は、1609年、幕府の力をうしろだてに、武力をもって琉球へ侵攻してきました(島津侵入)」
島津藩による琉球支配の成立
「琉球を手中におさめた島津氏(しまづし)は、検地をおこない、年貢の上納を義務づけ、 尚寧(しょうねい)王と三司官(さんしかん・国王を補佐し国務をつかさどる役人)には、 島津氏に忠誠を誓う起請文(きしょうもん・誓約書)の提出を強要しました。起請文の内容は
琉球は幕府や島津への義務を怠ったために、薩摩によって征討された。 そのため琉球はいったん滅んだが、島津の恩情により、奄美諸島をのぞく沖縄諸島以南を再びあたえられた。 この御恩は子々孫々まで忘れず、決して島津氏にそむかない
というものでした。
このいっぽう的な起請文のおしつけを最後まで拒んだ三司官の一人・謝名親方(じゃなエーカタ)は、薩摩滞在中に処刑されました。  さらに島津氏は、琉球王府を監視するための在番奉行(ざいばんぶぎょう)を送り、また15条からなる「掟(おきて)」を定めて、 琉球を統制下におきました。」
▼松前藩による1670年の西蝦夷地ヨイチに対する「アイヌ仕置」の「起請文」には「殿様にどのように仰せられようとも、 孫子一同ウタレ男女に限らずそむきません。(子々孫々に至るまでウタリ男女、松前藩への無条件の服従)」とあります。
日本列島の南端と北端で日本人植民地主義者が身勝手で不作法な侵略を行っていました。植民地主義はヨーロッパ人だけの専売特許ではありませんでした。 朝鮮半島に手を出す300年前から日本人はこのような行動をとっていたことをしっかりと記憶しておくべきだとおもいます。(2019.7.19)
謝名親方鄭迥(じゃなエーカタていどう)
「謝名親方鄭迥は、琉球王府の三司官(さんしかん・国王を補佐し国務をつかさどる役人)の一人。  島津氏(しまづし)の侵入後、尚寧(しょうねい)王とともに薩摩へ連行された際、 島津氏に忠誠を誓う起請文(きしょうもん・誓約書)を書くことを強要されますが、 国政をあずかる地位にあった謝名は、島津の侵入にいたる一連の要求をすべて拒絶して薩摩軍と戦った者として最後までこれを 拒否したため、1611年斬首されました。尚寧は約2年間の抑留ののち「子々孫々まで島津氏にそむかない」との誓約書まで書かされます。」
▲謝名鄭迥のような英雄の記憶が沖縄住民にとって現代の基地闘争に生きる。(2019.7.19)
「1611年に発布された、島津氏(しまづし)の琉球支配の枠組みを定めた「掟15条(おきてじゅうごじょう)」は、以下のような内容でした。
1. 薩摩の命令なしで、唐へ誂物(品物の注文)をしてはいけない。
2. 現在官職についていない者には知行をやってはいけない。
3. 女には知行をやってはいけない。
4. 個人で人を奴僕としてはいけない。
5. 諸寺社を多く建立してはいけない。
6. 薩摩の許可がない商人を許してはいけない。
7. 琉球人を買いとり日本へ渡ってはいけない。
8. 年貢、その他の公物は、薩摩の奉行の定めた通りに取納すること。
9. 三司官をさしおいて、他人につくことはいけない。
10. 押し売り押し買いをしてはいけない。
11. 喧嘩口論をしてはいけない。
12. 町人百姓等に定めおかれた諸役のほか、無理非道を申しつける人があったら鹿児島に訴える。
13. 琉球から他領へ貿易船を出してはいけない。
14. 日本の桝以外用いてはいけない。
15. ばくちや人道にはずれたことをしてはいけない。
以後、琉球は独立王国と称しながらも、実際は島津氏とその背後の徳川幕府に従属しながら、 中国に対しては薩摩による琉球支配が隠されます。」
▼近世日本の植民地主義は南は琉球に、北はアイヌに、西は朝鮮に向かい、 本土では身分制の強化でした。近世の植民地主義は明治維新の王政復古で日本帝国主義に転化し侵略国家の道を歩みます。 芽は近世にありました。(2019.7.20)


沖縄の近現代(幕末・明治以降)
「19世紀に入ると、欧米諸国が続々とアジアへ進出してくるようになりました。 アメリカは北太平洋の操業船や中国貿易の船舶の寄港地として、日本に着目していました。
朝日朝刊2020.10.24
上原兼善著 名古屋大学出版会。琉球船を護送してやるとの米国の懐柔にも、「小国に兵がいればかえって禍を招く基になる」と 毅然と拒否した場面に著者は独自の国家論の発現をみる。(評 戸邉秀明)
▼米軍基地拒否の現在に通じますね。(2020.11.3)
開国要求の使者として、1846年に司令長官ビッドルを日本に派遣しましたが、幕府はこれを拒絶しました。
1853年に二度目の交渉にのぞんだ米国の一行は、日本を訪れる前に5月、琉球に来航しました。 はじめて琉球に姿を現わした米国の通商要求を琉球側は断りましたが、 一行は王府の抵抗を押し切って首里城を訪問し、王府側と交渉しました。 このときの米艦隊司令長官がペリー提督です。 ペリー一行は、6月に入ると浦賀に姿を現わし日本中を騒然とさせました。 ペリーは強固に開国を要求して一旦は去ります。」
▼ペリーは浦賀へ来る前に琉球に来航しています。この事実は本土では意識されていないとおもいます。
1854年3月に再訪し、なかば強制的に日米和親条約を締結しました。 こうして日本の長い鎖国体制に終止符が打たれました。
6月、ペリー一行は再び琉球に来航し、ここでも強制的に琉米修好条約を締結しました。
条約の内容は、米人の厚遇、必要物資や薪水の供給、難破船員の生命財産の保護、米人墓地の保護、水先案内人の件などを規定するものでした。
こうして、欧米諸国の圧力によって開国を余儀なくされた幕府は崩壊し、日本は近代国家への道のりをつき進んでいきました。 同時に琉球にも、新しい時代の波が押し寄せてくることになりました。
それにともない、日本の鎖国体制は崩壊し、近代国家形成へとつき進んでいきます。 その過程において、琉球国も日本の国家体制の中に組み込まれ、 500年にもおよんだ王国時代の幕を閉じることになりました。」
▼国際的な背景を見ておきます。
「産業革命のために、 機械作業によって工業生産物の価格がますます安価になっていく結果、マニュファクチュアあるいは手工業をもとにした工業の古い体制が、 世界各国で完全に破壊されてしまった。すべての半未開国は、これまで、歴史の発展にたいして多かれ少なかれ縁がなく、その工業がマニュファクチュア をもとにしていたが、このためむりやりに鎖国状態からひきはなされた。それらの国は、イギリス人の安価な商品を買い入れて、 自国のマニュファクチュア労働者を没落させたこうして幾千年来すこしも進歩がなかったインドのような国もすっかり変革され、中国でさえも、今日 では革命に近づいている。」
▼これは1847年10月下旬27歳のエンゲルの書いた「共産主義の原理」の一節。イギリスの産業革命の結果日本に東はアメリカから 市場開放を求める圧力がかかってくる。このような視点から明治維新を見る必要があるとおもう。(2019.12.1)
エンゲルスを調べました。1820年ライン州の紡績工場主の家に生まれ、1843年マンチェスターの父の工場にはいり、 ここで資本主義の現実に接して社会主義者になった。(旺文社世界史事典より)
北インドのカピラ王国の王子、釈迦が29歳で出家し仏教を開いたことを連想させる。

琉球新報 2014年7月12日 06:02「琉球処分」 不当性が明らかになった
県民が歩んできた苦難の近現代史をたどり、沖縄の現状を考える上で新たな視座が提示された。
自己決定権の保障を求める県民世論の大きな足掛かりとなろう。

160年前に結ばれた琉米修好条約など3条約を根拠に、国際法学者が1879年の「琉球処分」は 当時の慣習国際法に照らして「不正」との見解を示した。 しかも、今日の国際法に基づき、不正の責任を日本政府に追及することが可能という。
学者らの指摘に対し、外務省は「確定的なことを述べるのは困難」と回答し、不当性を否定しなかった。 武力を持って沖縄の主権を侵した「琉球処分」の実相を見据えたい。 沖縄の主権回復を追求する県民世論の高まりは当然であろう。
「琉球処分」の後、皇民化・同化政策が推し進められ、その帰結として沖縄戦の悲劇があった。 敗戦後の米国統治下で人権を侵され、復帰後も基地の重圧に苦しみ続ける。 このような沖縄の歩みと現状を考えたとき、その源流として「琉球処分」に突き当たる。
「琉球処分」をめぐっては、さまざまな歴史的評価がある。沖縄学の創始者・伊波普猷が「一種の奴隷解放也」と評したことは特に知られている。 王国滅亡と併合を「進化」と捉えた視点だった。
しかし、「琉球処分」によって自己決定権を失った沖縄は日本政府の思惑に翻弄(ほんろう)された。 「日本への同化」を説いた言論人・太田朝敷でさえ、沖縄は植民地的な「食客」の位置に転落したと嘆いた。
「琉球処分」に端を発した不条理は今も続いている。
国際法上の不正を指摘した上村英明恵泉女学園大教授は 「米軍基地問題に見られるように、琉球人の決定が日本政府によって覆される植民地状況は今も続いている」と断じた
県民意思に反し、沖縄防衛局は普天間飛行場代替基地建設に着手した。上村氏の指摘通りだ。 「琉球処分」の不当性を踏まえると、沖縄の自己決定権を踏みにじる政府の姿勢の不当性は一層明らかだ。

3条約は日本政府が没収し、現在、外務省が保持している。その理由についても「経緯が明らかでない」と外務省は回答を避けた。 説明責任を回避する姿勢は遺憾だ。政府が保持し続ける理由はない。 沖縄が主権国家であったことの証しである3条約は、自己決定権を求める上での基礎資料ともなり得る。 日本政府に返還を求めたい。
▲上記、琉球新報の主張は至極尤もだ。なぜ日本政府は隠しつづけるのか!(2019.7.1)
▼3条約の相手方、アメリカ、フランス、オランダに照会すればよい。(2019.7.17)
其の後、琉球新報は3条約を見つけたようです。2014年7月12日の主張から半年後に資料の展示をしています。敬服!
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-238345.html 3条約の原本里帰り(琉球新報2015.2.4) このような勉強を2019.7.17出来ました。

琉球藩の設置
「開国によって新政府が誕生しようとしていた1866年、琉球では最後の王となる尚泰(しょうたい)の冊封(さくほう)式典がおこなわれていました。」
「1871(明治4)年、全国的に廃藩置県が実施されると、琉球はひとまず鹿児島県の管轄下におかれました。
そして1872(明治5)年、明治政府は東京に使者を呼び、尚泰王を「琉球藩王」 に任命することを告げました。 これがいわゆる「琉球処分」のはじまりです。
いっぽう、琉球王府はこの出来事を、管轄が薩摩から中央政府に移管しただけとしか理解できませんでした。 王国の解体という事の重大さには気づいていなかったのです。
明治政府が、琉球に対してすぐに廃藩置県を実施しないでいったん藩にし、 さらに尚泰を「藩主」ではなく「藩王」としたのは、 琉球や中国の反発を回避するためにも段階的に王国解体をおこなう必要があったからです。」

台湾遭難事件と台湾出兵
「「琉球処分」を決行する前の明治政府は、琉球と清国との関係を断絶し、 名実ともに琉球を日本の領土に位置づけることを最大の課題としていました。 ちょうどそのころ、宮古島の船が遭難して台湾に漂着、 そこで乗組員66人のうちの54人が地元住民に殺害されるという事件が起こりました(琉球船の台湾遭難事件)。
明治政府はこの事件を利用して、清国に対し琉球を日本の領土と認めることを求め、さらに台湾への進出をくわだてました。 しかし清国は、台湾は蕃地であり中国の責任下にないとして、この事件にとりあいませんでした。
そこで明治政府は、1874(明治7)年、台湾へ3,600名余の兵をさしむけました。これが台湾出兵です。 この争いは、イギリスの調停で和解が成立しましたが、日中両国間で交わされた条文には 「台湾の生蕃が日本国属民を殺害したので、日本国政府はこの罪をとがめてかれらを征伐したが、 これは自国の人民を守るための正当な行動であった」とあり、琉球人を「日本国属民」と明記しています。
つまり日本政府は、中国に「琉球人=日本人」ということを認めさせたのです。」

▼これ以降、HPからの抜粋は要約する必要がありませんのでそのまま掲載させていただいています。 読者に特に注意して欲しい箇所は下線を引きました。
琉球藩の廃藩置県
1875(明治8)年、明治政府は「琉球処分」の方針をかためると、 琉球藩に対して「琉球の王国制度を解体し、日本に属する沖縄県とする」ことを伝え、 同年には処分官・松田道之(まつだみちゆき)を派遣して次のような命令をいいわたしました。  
第一に、 清国との冊封・朝貢関係を廃止して中国と断絶すること、  
第二に、 新制度や学問を学ぶための若手官吏を派遣すること、  
第三に、 日本の他府県にならって政治制度をあらためること、  
第四に、 これらの改革を混乱なく実施するために鎮台分営(軍事施設)を設置すること、

これを受けた琉球藩は何の対策もみいだせず、日清両属的な状態を従来通り維持したいと嘆願するのみでした。
▼「沖縄の自己決定権」から引用する事。やれる限りのことを流球人はやっている。そこを伝えること。
琉球の支配層の多くは、琉球が日本に帰属するとみずからの地位や身分、財産が危うくなるのではないかと考えていたのです。 しかし、明治政府は、説得によっては琉球藩の対応がかわらないと判断し、藩王の逮捕をともなう武力行使による処分を決定しました。
1879(明治12)年3月末、政府の命を受け、警官と軍隊をひきいて来琉した松田は、 「琉球藩を廃して沖縄県を設置する」ことを王府に通達しました(廃藩置県)。 これにより、旧琉球王国の土地・人民およびそれに関するすべての書類は政府に引き渡されました。 そして、藩王の尚泰(しょうたい)は華族の身分をあたえられ、東京に居住を命じられました。 三山時代終盤から500年もの長きにわたる琉球王国はここに、崩壊することになったのです。
▼琉球処分は、1872(明治5)年、尚泰王の「琉球藩王」の任命に始まり、1875(明治8)年、 「琉球の王国制度を解体し、日本に属する沖縄県とする」と伝達し、最後は1879(明治12)年3月末、警官と軍隊をひきいて 「琉球藩を廃して沖縄県を設置」(廃藩置県)するとの武力による併合である。1910年の韓国併合に似ている。(2019.7.16)

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■「琉球」と「沖縄」
「琉球」の呼称は中国の古い資料にあらわれ、「流求」「琉求」「瑠求」の文字などがあてられています。 「琉球」の表記は、14世紀に中山(ちゅうざん)王の察度(さっと)が、明に入朝したころから使用されるようになりました。 「沖縄」は古くから地元の人々が自称していた「ウチナー」からきており、 文献では『平家物語』(長門本)にはじめて「おきなわ」の表現が用いられました。 また、『唐大和上東征伝』に記されている「阿児奈波島」を歴史上の初見とする見方もあります。

宮古・八重山分島問題
琉球問題は、廃藩置県による沖縄県設置で完全に解決されたわけではありませんでした。 清国は依然これを認めず、また琉球でも清国に救援を求め続ける人たちがいました。 清国から琉球問題の調停依頼を受けた米国前大統領のグラントは、伊藤博文ら政府高官と協議し、日清交渉をとりつけました。 その交渉の場で日本側が出した案が、日本の中国国内での欧米なみ通商権を認めることと引きかえに、 宮古・八重山を中国へ引きわたす、というものでした。これがいわゆる「分島・増約案」です。
交渉は難航しましたが、ロシアとの国境紛争も抱えて早期解決を望んでいた清国側は、やむを得ず日本案を受け入れることに同意しました。 1881(明治14)年2月、両国の代表が石垣島でおち合い、正式に宮古・八重山の土地・人民を清国に引きわたすことになりました。 しかし、いざ調印の段階になると、清国側は国内の混乱や日本の東アジア進出の危機感をおぼえて調印をためらいました。 また、琉球の清国亡命者の再三の請願書も影響して、結局は正式調印されることなくこの条約は棚上げされました。
1872(明治5)年の琉球藩設置にはじまり、1879(明治12)年の廃藩置県による沖縄県設置、 そしてこの分島・増約問題にいたる政治過程が「琉球処分」 とよばれるものです。
その後、日本の朝鮮進出によって日清間の対立は激化し、ついに日清戦争(1894〜1895年)が勃発しました。 この戦争で日本が勝利をおさめ、台湾が日本の植民地となったことにより、琉球問題はあいまいにされたまま日本に属することになりました。
ウィキペディア(Wikipedia)日清講和条約:清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、 兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)

旧慣温存策
1879(明治12)年、沖縄県が設置されると、中央から派遣された鍋島直彬(なべしまなおよし)が初代県令(県知事)に任命されました。 その後も、沖縄県政の要職は沖縄の人間ではなく大和人(ヤマトゥンチュ・他府県人)で占められ、 いわゆる「大和世(ヤマトユー)」へと世替わりがなされていきました。 行政制度や身分制度など、従来の形態が廃止されて新たに編成されるものもありましたが、明治政府の当面の方針は、琉球の古い制度(土地制度・租税制度・地方制度など)を残し急激な改革は避けるという、旧慣温存策(きゅうかんおんぞんさく)でした。 その理由は、沖縄の旧支配階級である士(サムレー)階層の反発を回避すること、中央政府が政変などの国内の動揺で具体的政策を打ち出せなかったこと、旧税制による統治のほうが中央政府にとって経済的利益が大きかったことなどがあげられます。 しかし、この旧慣温存策こそが、沖縄の近代化を大きく遅らせた要因でした。 政府は士族に対して生活の保障をおこないましたが、それは一部の有禄士族だけを対象としており、 その他大多数を占める無禄士族にはわずかばかりの資金を支給しただけでした。 生活に困った無禄士族は、なれない商売や農業をはじめるようになりました。当時の人々はこの落ちぶれていった士の姿を見て哀れんだといいます
▼本土の場合、困窮士族の受け皿がアイヌ民族の大地であった北海道の植民地化だった。(2019.7.16)

立ち上がる農民
明治政府は、廃藩置県が実施された当初、従来の苛酷な税制を改革し大幅減税することを予告していましたが、 実際に人々にあたえられたのは改革による新制ではなく、旧慣温存(きゅうかんおんぞん)という王府時代と変わらない支配体制でした。 ところが、首里王府という封建的権威の崩壊は、人々の意識を確実に変化させていました。 一般民衆=農民は、みずからの力で生活権の保障を主張しはじめたのです。 そして、旧慣温存を盾に不正をはたらく支配者層に向けた怒りは、各地で爆発しました。
1881(明治14)年に粟国島(あぐにじま)で、役人による不正徴収を農民が一丸となって糾弾したのを手はじめに、 1883(明治16)年の名護間切(なごマギリ)屋部村における富豪・久護家への財産の開放要求や、 村役人に対する不正抗議行動などが各地で起こりました。このような民衆運動を取り締まるべく、 当時の岩村通俊(いわむらみちとし)県令(県知事)は集団抗議行動の禁止令を発令しましたが、農民の怒りはおさまることがありませんでした。 このような農民の集団抗議行動は、直接的には地方役人の不正追及に向けられていましたが、それはまぎれもなく旧慣温存という制度そのものに対する不満や抵抗であり、改革要求の意思表示にほかなりませんでした。 こうした抗議行動は、1888(明治21)年の予算審議に農民代表を参加させるにいたるほど、県当局に影響力をあたえました。そして、宮古島の人頭税廃止運動でピークに達しました。

人頭税廃止運動
旧慣温存(きゅうかんおんぞん)策によって残された人頭税(にんとうぜい)は、依然として宮古の人々を貧窮させていました。しかし、沖縄全県的に広がっていた民衆運動は、ここにも飛び火し、人頭税廃止運動へと展開していきます。 人頭税廃止運動は、農民の重苦にあえぐ姿をみかねた糖業技師・城間正安(グスクマせいあん)と 実業家・中村十作(なかむらじっさく)(今日のオール沖縄運動に似る)の二人の努力なしには成立しませんでした。 二人を運動の筆頭とした宮古の農民たちは、着任したばかりの奈良原繁(ならはらしげる)知事に対し、 地方役人の数を減らすことや人頭税廃止などを請願しました。しかし、士族層の強力な抵抗でこの請願は保留になり、士族と農民の対立が激化しました。 宮古の農民たちは、城間と中村の指導のもとでなおも請願を繰り返しましたが、受け入れられるようすがないため、上京して帝国議会に直訴する計画を立てました。中村らは、上京の途上に士族や警察の妨害に合いながらも、農民代表二人をひきいて内務大臣に建議書を手渡し、宮古の内情を直訴することに成功しました。 こうした宮古農民の努力が実を結び、1903(明治36)年、ようやく人頭税は廃止されたのです。
しかし、人頭税廃止要求の建議書が第8回帝国議会を通過した1895(明治28)年当時は、日清戦争のただ中であり、 沖縄の近代化を急ぎ、国防体制に組み入れようとした中央政府の思惑がその背景にあったことも見逃せません。 それにしても、宮古の農民運動が明治政府を動かし、旧慣温存の改革を導きだしたのであり、 沖縄の近代史に大きな影響をあたえたことは特筆すべきことでしょう。
▼運動の前進は為政者の思惑抜きにありえない。しかし、そこまで追い込む事なしに思惑をも引き出すことも出来ない。 運動前進の常道。(2019.7.16)

謝花昇と県政改革運動
旧慣諸制度の改革を求める沖縄民衆運動が盛り上がると、県当局も改革を実行に移さざるを得なくなりました。 そのような時期に知事に就任した奈良原繁(ならはらしげる)は、まず王府の指導下で農民が管理、 利用した共有山林である杣山(そまやま)の開墾を許し、貧窮士族の救済策としました。 この開墾計画をおし進めたのが、農民出身で第一回県費留学生の謝花昇(じゃはなのぼる)でした。 この政策に対し農民のあいだからは、山林伐採による自然破壊や資材不足を恐れて不満の声が上がりましたが、 謝花は「耕地にしてもさしつかえない場所であれば、貧しい士族を救うためには必要である」と、農民を説得する立場をとりました。 しかし、実際におこなわれた開墾策は下級士族の救済とは名ばかりで、有力士族や本土の商人、高級役人に優先的に払い下げられました。 このような沖縄人(ウチナーンチュ)差別をともなった奈良原施政に強い不信感を抱いた謝花は、 県庁を辞職し、政治結社「沖縄倶楽部」を組織して奈良原施政を攻撃しました。 また同時に、自治権・参政権獲得運動を展開して専制政治の変革をはかりました。 奈良原県政をしぶとく攻撃する沖縄倶楽部に対し、奈良原をはじめ旧支配層は権力を持って弾圧しました。 その結果、沖縄倶楽部は消滅し、職と財産を失った謝花は1898(明治31)年、不遇のうちにこの世を去ってしまいました。 謝花らのおこなった民権運動は未解明の部分が多く、はっきりとした評価が定まっていません。 しかしながら、沖縄ではじめて農民を主体とした政治結社を組織し、その政策を県政に反映しようとした意義は大きいといえるでしょう。
Wikipedia謝花昇:東風平間切(現在の八重瀬町)出身。1882年(明治15年)に第1回県費留学生として上京し、 学習院中等科に入学。中江兆民の教えを受ける。1885年(明治18年)から東京山林学校で学び、 1891年(明治24年)に帝国大学農科大学を卒業。沖縄初の農学士となった。
▼やはり中江兆民。変革者の多くが兆民に学んでいる。(2019.8.15)

近代沖縄の社会と文化
旧慣諸制度の改革が進むと、沖縄にも近代的な文化がもたらされるようになりました。 1893(明治26)年には沖縄初の新聞『琉球新報』が創刊され、続いて数種の新聞が次々と刊行されました。 これらの新聞は、創刊当初から独自の主張展開と利害関係などで対立していましたが、県民の政治論争や新思想の啓蒙に大きな役割を果たしました

海外移民と出稼ぎ
1899(明治32)年、沖縄初の海外移民は、当山久三(とうやまきゅうぞう)らの努力によって送りだされた26人のハワイ移民で、 7年後にはハワイを中心に4670人にも達するほど増加しました。 「ソテツ地獄」によって沖縄から出て行った人々は、1923(大正12)〜1930(昭和5)年にかけての人々で、 その数は日本全体の移民の約1割におよぶほどでした。

「ソテツ地獄」
大正末期から昭和初期にかけておこった恐慌は、沖縄では「ソテツ地獄」とよんでいます。 当時の沖縄の人口の7割が暮していた農村部では、極度の不況のため米はおろか芋さえも口にできず、 多くの農民が野生の蘇鉄(そてつ)を食糧にしました。毒性を持つ蘇鉄(そてつ)は、 調理法をあやまると死の危険性があるにもかかわらず、その実や幹で飢えをしのぐほかないほど、農村は疲弊しきっていたのです。  しかし、このような県民の貧窮にもかかわらず国税は徴収され、さらに台風や干ばつなどが追い打ちをかけたため、 県民の暮らしは文字通り地獄の様相を呈していました。農家では身売りが公然とおこなわれ、 さらには海外への移民や本土への出稼ぎが増えていきました。

このような海外移民から沖縄の家族への送金は高額にのぼり、県民をはじめ県経済にとっても大きな支えとなりました。 しかし、移民となった人々は、一部の成功者をのぞいて、ほとんどが辛苦に耐えながら働き続けなければなりませんでした。 いっぽう、海外移民と時を同じくして、多くの人々が出稼ぎとして本土へ出ていきました。 出稼ぎ地はほとんどが阪神方面で、おもに製糸や紡績業などの工場労働に従事しました。
▼そう云えば子供のころ私の村にも沖縄の人がいました。こういう流れだったことを今知りました。(2019.7.18)
しかし、劣悪な条件下で働かされたり、「琉球人」とさげすまれるという屈辱を受けることも少なくありませんでした。 沖縄出身者の多くは、このような苦境に立たされても県人会を組織したり、 沖縄人労働者の地位向上を求めて活動するなど、移民先や出稼ぎ先で力強く生き抜きました。

沖縄の社会運動
資本主義が未発達であった近代の沖縄にも、出稼ぎや就学で本土へ渡った人々によって、労働運動の理論や階級闘争の思想がもたらされるようになりました。 1910年代には、教員ら知識階層の間に社会主義思想が普及し、 また小作人が地主に対して権利を主張するという小作争議もひんぱんに起こるようになりました。 (▼獄中十八年徳田球一篇:1894(明治27)年沖縄県国頭(くんちゃん)郡名護(なご)村にうまれた。 鹿児島人の父と妾の琉球の女とのあいだにうまれた。政治的目ざめの直接の動機となったのは、 中江兆民の『一年有半』である。十五歳のとき金城時男という人がわたしに読ませてくれた。)
1926(大正15)年には、本土での社会主義運動に関わっていた活動家を中心に「沖縄青年同盟」が結成され、 各職業の労働組合の結成やストライキの指導がおこなわれました。1928(昭和3)年のわが国初の普通選挙(満25歳以上・男子対象)では、 沖縄社会主義運動の指導者が立候補するなど、社会運動は盛り上がりをみせました。 また、学生運動や教員の組合運動も盛んになりました。東京の大学や高等師範学校では、沖縄出身の学生による運動が激化し、 処分を受ける者も多数出ました。八重山と沖縄本島では、1930(昭和5)年ごろに教育労働者組合が結成されました。 このような沖縄における社会運動の活発化に対応して、特高(とっこう・県警察特別高等課)による取り締まりも強化され、 さまざまな労働組合が不当な弾圧にあいました。1930年代後半には、運動家や学生らは投獄されたり、沖縄からの脱出を余儀なくされ、 1940年代の沖縄の社会運動は暗い時代をむかえることになりました。

方言論争と皇民化教育
日清戦争後、近代化の波の中で、沖縄でも生活風俗を大和風に改めようとする運動がありました。
昭和10年代になるとこの動きは熱をおびてきて、沖縄的な名字を大和(ヤマト)風に改めたり、読み替えたりするようになりました。 県の懸案だった標準語の励行という気運も、国家主義の高まりにともない次第に強くなっていきました。
1940(昭和15)年に県当局が推進した標準語励行運動は、強制や禁止、懲罰などで厳しくすすめられたため、 「方言撲滅(ぼくめつ)運動」と受け取られました。それは、来沖した日本民芸協会の柳宗悦(やなぎむねよし)らが、 標準語励行運動は行き過ぎであると批判したことから、県内外に賛否両論の「方言論争」を巻きおこしました。 この論争ははっきりした形での結論は出ませんでしたが、日本が挙国一致(きょこくいっち)体制で戦争を押し進めていた時期でもあったため、 標準語励行運動はむしろ強化されていきました。
沖縄戦がはじまると、「方言を使用する者はスパイとみなす」という日本軍は、 県民の方言使用について厳しい圧力を加え、そのことによる悲惨な事件も沖縄戦の最中におきました。
方言論争にみられた柳宗悦らの指摘は、むしろ戦後になって影響をあたえはじめ、 日本本土での沖縄蔑視問題や、沖縄側の安易な本土追随の姿勢を反省させ、 沖縄の人々が沖縄文化の豊かさを再認識させるきっかけになりました。

▼皇民化教育。朝鮮人、アイヌ人、沖縄人に。柳宗悦さんは立派。朝鮮問題でもすばらしかった。下記を読んでください。 (2019.7.25)
1919年の柳宗悦さん
▼李進熙教授は柳宗悦の「朝鮮の友に贈る書」の次の箇所を紹介されています。
「日本はかつて朝鮮の芸術や宗教によって、その最初の文明を生んだのであり、今日この事は感動をもって記憶されねばならない。 …過去の朝鮮を愛して未来を敬わないのは、過去の朝鮮に対する侮辱にすぎない。過去への全き尊敬は未来への信頼に活きねばならない。」 (李進熙『新版日本文化と朝鮮』257頁)



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沖縄戦
県外疎開と10・10空襲
アジア・太平洋戦争がはじまったころから、沖縄は航空基地あるいは本土防衛のための前線基地という位置づけが強まってきました。 沖縄各地で民家や農地が強制収用され、日本軍の飛行場が建設されはじめました。

1944(昭和19)年には、沖縄守備軍・第32軍が設置されて、沖縄諸島をはじめ先島(さきしま・宮古および八重山諸島)などへ 実戦部隊が送り込まれました。大部隊を迎えることになった地域では、兵舎として学校や民家はもとより、食糧や家畜など あらゆる物資を提供しなければなりませんでした。

アジア・太平洋戦争も終盤戦に入ったころ、沖縄県からの移住者が多いサイパン島が陥落し、県民に大きな衝撃をあたえました。 同胞を失った悲しみはもとより、サイパンの次のターゲットは沖縄と予想されたためです。 前線基地としての沖縄で持久戦を展開させるためには、戦力とならない老幼婦女子の疎開が必要でした。

日本政府は、沖縄県から本土へ約8万人、台湾へ約2万人の疎開計画を立てましたが、見知らぬ土地へ行く不安と、 すでに沖縄近海に敵戦艦が出没していたことから、計画は思うようには進みませんでした。 特に1944(昭和19)年8月21日、学童疎開者800人をふくむ乗客約1700人を乗せた対馬丸(つしままる)の撃沈は、県民の疎開に対する不安に拍車をかけました。 しかし、同年10月10日の米軍機による激しい空襲によって、一気に疎開希望者が増えることになりました。

10・10(じゅうじゅう)空襲は、北は奄美諸島から南は石垣島、東は大東島(だいとうじま) にいたるまでの南西諸島全域を対象に米軍がおこなった大規模な攻撃でした。 猛攻撃にさらされた那覇市は、市街地の90%が燃えつきたほか、琉球王国時代の貴重な文化遺産を多数失いました。 この時の米軍機はおよそ1,400機、死者は約600人、負傷者約700人にもおよんだといわれます。

沖縄戦のはじまり
2019年(令和元年)10月31日未明に火災が発生し、正殿と北殿、南殿が全焼した。 首里城が焼失したのは、1453年、1660年、1709年、1945年に次いで歴史上5度目となった。

沖縄県では、1943(昭和18)年から中等学校において軍事教練が強化されるようになりました。 同年7月には東条英機首相が来沖、11月には女子学徒を対象に看護教育がはじめられ、学徒動員体制が本格的に確立されていきました。
1944年の 10・10空襲を受けたのち、学徒の戦争動員はますます激化し、生徒たちは疎開を許されないまま、 学校をあげて軍隊へ全面協力する体制が整えられていきました。

1945(昭和20)年2月には、中等学校および師範学校の男子生徒は鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)に、 師範学校をふくむ女子生徒はひめゆり学徒隊などの従軍看護婦隊に編成され、戦場にかり出されていきました。

1944年の10・10空襲で大打撃を受けたあとの沖縄では、1945(昭和20)年に入ると米軍機の空襲がますます激しくなり、 米軍の沖縄攻略は時間の問題となりました。 そして、1945(昭和20)年3月26日、ついに米軍は慶良間(けらま)諸島(本島西の島々)へ上陸しました。凄惨を極める地上戦がはじまりました。
         

平凡社大地図帳より  
▼地名はすべて地図で確認しました。沖縄本島は南北100キロの島。(2019.7.28)
慶良間諸島に配置されていた日本軍は、海上挺身隊と特攻隊が主で、地上部隊はほとんどいませんでした。 米軍の不意の上陸になすすべのなかった日本軍は、山中の壕に逃げ込んで抵抗するのが精一杯で、特攻艇もほとんど破壊されました。 住民には、直接・間接に自決せよとの命令が出されました。行き場を失い、米軍にいい知れぬ恐怖を抱いていた人々は、 家族や親戚ぐるみで互いを殺し合う「集団死」によって、命を絶っていきました。慶良間諸島において「集団死」で絶命した住民は、 渡嘉敷島(とかしきじま)で329人、座間味島(ざまみじま)で171人、慶留間島(げるまじま)渡嘉敷島、座間味島、慶留間島はいずれも慶良間諸島の中の島)で53人にのぼりました。  このほかにも、日本軍が降伏する8月下旬までの間、日本兵による沖縄住民の虐殺や朝鮮人軍夫への虐待と虐殺が各地で発生しました。

2019.11.17毎日新聞朝刊
▼東京大空襲は1945年3月10日です。下の絵は94歳の東京三鷹市にお住いの長谷緑也(ながたに ろくや)さんの 「東京大空襲の記憶」です。 三鷹の大沢コミュニティ・センターで展示会があり出掛けて(2019.8.19)写真を撮らせていただきました。その後、毎日新聞の取材もありその 記事が左です。

長谷さんは昨年98歳で亡くなられた俳人・金子兜太(かねことうた)さんのいとこでいらっしゃいます。 「自分の技術ではあの地獄絵図を表現できない」と東京大空襲には手をつけられなかったようですが、兜太さんの死を契機に勇気を振り絞って描かれたようです。 迫るものがあります。私は空襲の恐ろしさを知りませんでした。この絵を見てはじめて体感できました。
▼今日B29の機体、性能に関して記事を見つけました。
「B29というのは、 当時の最新威力の爆撃機で、全機体は長さよりも左右の幅の方が大きく、幅43メートル 、長さ30メートル、発動機2,200馬力を4基、全重量42トン、時速600キロ、上昇12,500m、武装13ミリ機関砲10基、20ミリ砲1、爆弾4トン、サイパン東京 間2,280キロを軽々と往復できる性能をもっていた。乗員十数名、「空中の要塞」といわれた。」(370頁)『調布市百年史』(昭和43年10月1日発行)
▼恐ろしい爆撃機であったことがよくわかりました。 ところでベトナム戦争のとき嘉手納基地から飛んだ爆撃機も調べておきます。 B52戦略爆撃機。時速1037キロ、幅56メートル、長さ48メートル、「成層圏の要塞」といわれた、ということです。(2020.8.4)
▲下の地図は『あのとき子どもだった』―東京大空襲の記録(東京大空襲・戦災資料センター編2019.3.10発行) 添付の1945年3月10日の空襲時の各体験者の位置および移動経路です。
右の新聞は東京大空襲のドキュメンタリー映画「ペーパー・シティー」の取材記事です。
各体験者の位置および移動経路
2020.3.12朝日新聞朝刊


オーストラリア人映画監督エイドリアン・フランシスさんは
「空襲の悲惨さと、救済法をめぐり、 政府と戦ってきた体験者の思いを伝えたい。 オーストラリアでは広島や長崎の原爆のことは授業で学ぶが、東京大空襲のことは教わらない。 この映画を通して世界中の人に東京大空襲のことを知ってほしい。」

Wikipedia東京大空襲に依ると
日付が変わった直後の3月10日午前0時7分に爆撃が開始された。325機の出撃機のうち279機が第一目標の東京市街地 への爆撃に成功し[81]、0時7分に
   2020.7.27朝日夕刊
国家総動員で戦争に駆り立て、防空法で避難を禁じ、バケツリレーで焼夷弾に立ち向かわせた。 310万人の日本人戦没者のうち、内地民間人は50万人。戦災孤児は2万8千人。孤児の養育を押しつけられた親戚の困惑。「國からわずかでも手当が出て、 この子らを頼む、と言ってくれたら、違ったんじゃないか」
▼『あのとき子どもだった』の執筆者の一人元木さんのことばを思い出しました。(2020.7.31)
第一目標 - 深川区(現在の江東区)亀谷、江角、上原、西尾、河合
第二目標 - 本所区(現在の墨田区)正木、葉山、元木、諏訪間、佐藤、吉田
第三目標 - 浅草区(現在の台東区)
第四目標 - 日本橋区(現在の中央区)藤間
へ初弾が投下されたのを皮切りに、城東区(現在の江東区)にも爆撃が開始された。 空襲警報は遅れて発令され、初弾投下8分後の0時15分となった。

▼緑の苗字が『あのとき子どもだった』の執筆者の住んでおられた場所です。 皇居から5〜6キロしか離れていない隅田川と荒川に挟まれたまさしく東京空襲のど真ん中です。 知人の元木キサ子さんの記録からです。
祖母の家には、母の兄弟が集まっていました。
セツルメントの先生が、ご両親は私と弟を捜しながら逃げたため、 逃げきれず、火に巻かれ、菊川橋のたもとで亡くなられたでしょう、と状況を話されました。
その時、突然、祖母が泣きながら、私に言いました。「なぜ、一緒に逃げなかった、だからお母ちゃんが死んだ!  お前らが死んで、お母ちゃんが生きていればよかったンだ」
10才の私の心に、この言葉が、突き刺さったままになりました。

▼元木さんが体験された、さげすみ、偏見、差別、虐待等の場面、場面で心が停止しましたが、 私には引用させていただきました場面が一番辛かったです。元木さんには記録に書いておられる、音大に社会人入学してこられた時、出会いました。 私の職場だったのです。勿論ここまでの詳しいご体験は今回初めて知りました。(2019.10.20)

東京大空襲の半年前沖縄では1944年の 10・10空襲があったのですね。恥ずかしながら知りませんでした。


総務省・那覇市における戦災の状況(沖縄県)より
1944年(昭和19年)10月10日、米軍は南西諸島全域に大空襲を敢行した。 10・10空襲と呼ばれるこの空襲によって、那覇市は一挙に炎上し壊滅してしまった。
   2020.7.30朝日夕刊

 早朝、沖縄本島西の海上約280kmの地点に、米海軍の航空母艦・巡洋艦など100隻余りが到達、 午前5時45分グラマン戦闘機が那覇を目指して飛び立った。米軍の攻撃は、小禄飛行場や那覇港など軍事拠点を皮切りに、 午前7時前から午後4時頃まで5回にわたり行われ、延べ1,396機の艦載機が出撃した。 当時の那覇市の人口は約6万人、戸数約1万5千戸、その被害は死者225人、負傷者358人で、焼夷弾攻撃により全市域の90%近くが焼失した。

▼「市域の90%近くが焼失した」はじめてこのような事実を知りました。(10・10空襲は少し前の記事で読んでいましたが頭に入っていませんでした。 今日(2019.9.29)しっかり確認できました。その後日本全国の空襲があったとは聞いていますが、具体的には不知です。 この際主な都市の空襲を調べて見ます。

東京大空襲・戦災資料センターHP 1945年3月10日の下町大空襲より
画期になったのは1945年3月10日の下町大空襲です。すでにアメリカ軍は、都市の中で、 住宅が密集し人口密度が高い市街地を、焼夷地区1号に指定していました。 東京は当時の深川区の北部と本所区・浅草区・日本橋区の大部分などが焼夷地区1号でした。 そこをまず焼夷弾で焼き払う絨毯爆撃が、この日から始まりました。

焼夷地区1号の目標地域には、軍施設や軍需工場などの明確な軍事目標はほとんどなく、 アメリカ軍の目標となった大きな軍需工場は精工舎や大日本機械業平工場のみで、 築地、神田、江東などの市場、東京、上野、両国の駅、総武線隅田川鉄橋などが実際の目標でした。 住民を殺戮し、それによって戦争継続の意思をそぐことが、主な目的でした。
また、市街地を焼き払うことで、そこにある小さな軍需工場を焼くことも合わせてねらっていました。 アメリカ軍は春一番のような大風の吹く3月に焼き払い空襲を開始することを目指して、日本向けの油脂焼夷弾を開発し、 B29とともに大量生産をしていきました。

3月10日の下町大空襲は夜間に低高度から1665トンに上る大量の焼夷弾を投下した空襲でした。 目標地域に4か所の爆撃照準点を設定し、そこにまず大型の50キロ焼夷弾を投下しました。 これにより、大火災を起こし、日本側の消火活動をまひさせ、その後小型の油脂焼夷弾を投下する目印となる照明の役割を果たしました。
火災は北風や西風の強風もあって、火災は目標地域をこえて、 東や南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、 下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など、下町の大部分を焼き尽くしました。 罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人でした。

木造家屋の密集地に大量の焼夷弾が投下され、おりからの強風で、大火災となったこと、 国民学校の鉄筋校舎、地下室、公園などの避難所も火災に襲われたこと、川が縦横にあって、 安全な避難場所に逃げられなかったこと、空襲警報が遅れ、警報より先に空襲が始まり、 奇襲となったこと、踏みとどまって消火しろとの指導が徹底されて、火たたき、バケツリレーのような非科学的な消火手段がとられ、 火災を消すことができないで、逃げおくれたことなどの要因が重なり、焼死、窒息死、水死、凍死など、9万5000人を超える方が亡くなりました。

▼1665トンの焼夷弾。10トントラック166台分の焼夷弾が空から降ってくるということ。死者が9万5000人超。罹災者は約100万人。 恐ろしい。台風15号の千葉の大停電に心を痛めている今日この頃ですが、戦後生まれの私はこの歳まで戦争の実態に無知でした。 こうして勉強していくと少しは想像を働かせられるようになってきました。(2019.9.14)

▼2020.8.2朝日朝刊「折々のことば」に『戦中・戦後の暮らしの記録』が紹介されました。左の本です。調布市図書館から借りました。いずれ読んで 自分なりの感想をまとめたいと思います。取り敢えず編集長のことばです。(2020.8.16)
暮らしの手帖編集長澤田康彦
「結晶化された苦しみの記憶―あとがきにかえて」
「あなたは、そのとき、どこにいて、どんな体験をしましたか? 戦中・戦後の、あの約十年間―あなたは?その問いかけへの答えが本書です。」

総務省・八王子市における戦災の状況(東京都)より
昭和19年6月米軍がマリアナ諸島を攻略した後、八王子市は再三小規模な空襲を受けていたが、昭和20年8月2月未明、 米軍爆撃機B29による大空襲を受けた。約2時間にわたる空襲で八王子市街地の約80%が焦土となり、近隣の町村でも被害を受けた。 この空襲で合計1600トンの焼夷弾が投下された。八王子空襲は3月10日の東京大空襲の総投下量1665トンとその投下面積を比較しても、 密度の高い爆撃であったことがわかる。

 2020.3.13朝日新聞朝刊
安倍川近くの橋の下に隠れ、爆音が鳴りやむまで 耐えた。橋から出ると街は跡形もなくなっていた。
静岡空襲
焼夷弾に追われて安倍川へ【画:垂脇テル】  安倍川まで行けば燃えるものがないから安心と、続々と避難してきた。 その人たちの群めがけて、雨のように焼夷弾が降りそそぐ。直撃を受けて泣き叫ぶ声。 川を火が燃えながら流れていく。焼夷弾を避けるため安倍川橋の下にかたまって、生きた心地もなかった。


総務省・名古屋市における戦災の状況(愛知県)より
空襲等の状況
太平洋戦争の間、米軍は、B25による初空襲を含め、名古屋に63回の空襲を行った。 B29の来襲は2,579機に達し、投下弾は判明分のみで14,500tを超える。その被害は、死者7,858名、負傷者10,378名、被害戸数135,416戸に及んだ。

目標爆撃
東区大幸町の三菱重工業名古屋発動機は、全国発動機生産高の40%以上を生産していたが、昭和19(1944)年12月13日から翌年4月7日までに、 7回の目標爆撃を受けて壊滅した。米軍資料によると、それらの爆撃により、全屋根面積の94%に破壊又は損傷を与えたとする。 三菱重工業名古屋航空機、愛知航空機なども繰り返し爆撃された。工場疎開も行われたが、疎開先での生産は、その損失を回復するに至らなかった。
   2020.7.29朝日夕刊
野党議員提案で戦時災害援護法案が73年から14回国会で提案された。村山富市政権が94年に成立 させたのは、被爆者援護法だけだった。旧西ドイツは主権回復後の1950年、連邦援護法を施行。旧軍人と差別なく民間被災者も支援した。「なぜ経済大国 の日本が、民間人を差別するのか」
▼戦後処理をきちんとやっていないのが日本政府(2020.7.31)   

また、昭和20(1945)年6月9日の愛知時計電機等の空襲では、防空壕に退避していた工員らが、 警報の解除により工場に戻ったとき、あるいは戻りつつあるときに爆撃を受けた。その警報解除ミスにより、 死者2,068名、負傷者1,944名と、人的被害において、名古屋空襲で最大の被害を出した。

地域爆撃
昭和20年3月になると、米軍は、一万メートル前後の高空から工場に爆弾を投下するというものから、 約2,000mの低空から夜間に焼夷弾を投下するものへと、空爆の戦術を転換した。 夜間は戦闘機による迎撃も非常に少なく、また、高空で烈風と格闘することもなかったため、 機銃装備や航空燃料を減らすことができ、焼夷弾を大量に積載できるようになった。
こうして、昭和20年3月10日の東京に始まり一週間の間に、名古屋、大阪、神戸と日本の大都市に対し、 大規模焼夷弾攻撃を敢行した。
しかし、名古屋には東京より125t多く投弾したにもかかわらず、東京を壊滅したほどの効果はなく、 そのため米軍は、再度3月19日に名古屋大空襲を行った。この日一日にして39,893戸に被害があり、死者は826名、負傷者2,728名、 罹災者142,887名に達した。死傷被害を除くと、名古屋全空襲中最大のものであった。その他に大規模な市街地空襲は、 最大472機が来襲、焼夷弾2,515tを投下し名古屋城が炎上した、5月14日の北部市街地への空襲、457機が来襲し、 焼夷弾3,609tを南部市街地に投下した、5月17日の空襲などがある。
▼東京大空襲で焼夷弾は1,600t。名古屋は2,515t、3,609t等々、全体で14,500tという。想像を超える。

総務省・神戸市における戦災の状況(兵庫県)より
空襲等の概況
アメリカ軍による日本本土への空襲は、昭和17(1942)年4月18日に、東京・名古屋・四日市・神戸などを空襲したのが最初で、神戸では兵庫区中央市場付近が被害を受けたが、本格的なものではなかった。  神戸市域に対する無差別焼夷弾爆撃は、昭和20年2月4日に初めて行われた。 これは、それまでの空襲が軍事施設や軍需工場への精密爆撃から焼夷弾による爆撃へと方法を転換するための実験的焼夷弾攻撃であり、 林田区、兵庫区一帯および湊東区に投下された。

都市に対する無差別焼夷弾爆撃が、3月10日の東京大空襲を皮切りに本格化し、 名古屋、大阪に引き続き神戸は、3月17日未明の大空襲により、兵庫区、林田区、葺合区を中心とする神戸市の西半分が壊滅した。
また、5月11日の空襲では、東灘区にあった航空機工場が目標とされ、爆弾による精密爆撃が行われた。 この空襲では、灘区・東灘区が被害を受けた。
さらに、6月5日の空襲では、西は垂水区から東は西宮までの広範囲に爆撃され、それまでの空襲で残っていた神戸市の東半分が焦土と化した。
神戸工業専門学校
こうして、3月17日、5月11日、6月5日の3回の大空襲によってほぼ神戸市域は壊滅した。  空襲による現在の神戸市域の被害は、戦災家屋数14万1,983戸、総戦災者数は、罹災者53万858人、 死者7,491人、負傷者1万7,002人という大きな惨禍であった。
▼当時の神戸市の人口は約92万人、22万世帯。うち罹災者53万人、戦災家屋数14万戸。(2019.9.22)


総務省・福岡市における戦災の状況(福岡県)より
空襲等の状況
6月19日夜、10時ごろに警戒警報が発せられ、やがて警報は空襲に変わった。 間もなく夜空にB29が2〜3機不気味な爆音を響かせ、探照燈が機影を追うなかで高射砲が散発的に炸裂した。 そして、始め市内の東部ならびに西部の両地区に焼夷弾が投下され、発生した火災を目標に、後続機がその中間に投弾した。 少数機編成で次々に飛来するB29、夜空にきらめきながら油脂焼夷弾の雨が、市の中心部を始め、市南西部方面にまで降り注ぎ、 全市は火の海に包まれ、約2時間にわたる空襲で、伝統ある福岡の街は一望の焦土と化した。
被災面積は3.78km2に及び、被災戸数1万2,693戸、被災人口6万599人を数え、死者902人、負傷者1,078人、行方不明244人を出した。
西部軍関係の施設を始め、官公庁、学校、会社、工場、商店街から一般民家に至るまで、 多数の建物が被弾炎上し、交通、通信、電気、ガス、水道などの公共施設も甚大な被害を受け、 都市としての機能は壊滅的な状態に陥った。劫火の中に肉親や住まいを失った人々にとって、忘れることのできない悪夢の一夜であった。
(『福岡の歴史ー市政九十周年記念』より。ただし、数字はいずれも、『福岡市史』による)
▼当時の福岡市の人口は約32万人。2時間の空襲で6万人が被災。まさに悪夢の一夜。このような空襲が連日本土で繰り返されている。戦争終結に責任のある 人たちは日々、このような情報に接し、実際目にし、聞いているはずである。それでも終結に動かない。 庶民を見殺しにしている、としか私には考えられない。戦争責任者は自分たちの統治する「国・国家」が大事であって「そこに生活する庶民」 ではないのだ。空襲の歴史を辿っていくとこのような思いが沸きあがってきた。(2019.9.23)

総務省・仙台市における戦災の状況(宮城県)より
空襲等の状況
アメリカ軍の報告によると、昭和20(1945)年7月10日未明の空襲では、123機のB29が仙台上空に到達して、 約3,000メートルの高度より爆撃を行い、合計12,961発、911.3トンの焼夷弾と焼夷集束弾が投下された。 また、この攻撃により、建物密集地域の27パーセントにあたる1.22平方マイル(約3.16平方キロメートル)、 鉄道操車場の40パーセント、ガス工場の80パーセント、政府専売局の100パーセント、軍事施設の80パーセント、 陸軍建造物の50パーセントを破壊したと評価している。
その他、仙台市役所防衛課がまとめた報告書によると、空襲で被災した戸数は11,933戸、被災人口は5万7321人とされる。 空襲前年の仙台市の世帯数は51,814戸、人口は261,117人であったから、疎開などでの増減を考慮しなければならないが、 およそ5分の1の市民が被災したことになる。
▼7月10日未明の1回の空襲で5万7321人が被災。123機のB29爆撃機が12,961発、911トンの投下。1機当たり約100発8トンの爆弾投下。 令和元年の今を生きる人間としてその状況を自分の身に引き寄せて想像しておくことでせめてもの追悼とさせていただきたい。(2019.9.23)          
 

▼伊勢湾台風の記事が2019.9.26朝刊に出ました。台風では明治以降で最悪に被害となった、と解説されています。1959年9月26日午後6時頃 和歌山県潮岬に上陸。中心気圧929.6ヘクトパスカル。死者・行方不明5,098人。住宅全壊・半壊153,890棟。 私がなぜこの記事に注目したかと申しますと、この被害規模は神戸市の空襲に匹敵するということです。空襲は神戸市だけではありません。東京、名古屋、 大坂の大空襲はその比ではありません。空襲の甚大さをイメージしたかったし、して欲しかったのです。(2019.10.1)

▼広島の原爆。
やはり避けて通ることはできません。右は2019.10.8朝日新聞夕刊です。解説によると、50年2月に発表された 「原爆の図 第1部 幽霊」だそうです。丸木位里さんのふるさと広島に原爆が投下された45年8月6日の光景を描いたもの、とのことです。 「焼けただれた皮膚を引きずりながら歩く人々の行列」と解説されています。身が震えます。以前、丸木美術館を訪ねたことがありましたが、 これを機会にもう一度行っておきたいです。(2019.10.8)

▼『調布市百年史』(昭和43年10月1日発行)を読んでいたら米軍の 投降勧告ビラ(ハガキ大)の原文(374〜375頁)に出会いました。ちょうど75年前のいま頃(8/6〜8/9)だと思います。貴重です。 掲載させていただきます。(2020.8.3)
ビラおもて
「日本国民に告ぐ。即刻都市より退避せよ、このビラに書いてあることを注意して読みなさい。米国は今や何人もなし得なかった極めて強力な爆弾を発明 するに至った。今回発明せられた原子爆弾は只その一個を以てしても、優にあの巨大なB29二千機が一回搭載し得た爆弾に匹敵する。この恐るべき事実は 諸君がよく考えなければならぬ事であり我等は誓ってこのことが絶対事実であることを保障するものである。我等は今や日本本土に対してこの武器を使用し始めた。 若し諸君が尚疑いがあるならばこの原子爆弾が唯一個広島に投下された際如何なる状態を惹起したか調べてごらんなさい。」
ビラうら
「この無益な戦争を長引かせている事実上の凡ゆる原動力を此の爆弾を以て破壊する前に我等は諸君が此の戦争を止める様陛下に請願することを望む。米国大統領 は曩(さき)に名誉ある降伏に関する13ヶ条の概略を諸君に述べたこの条項を承諾しより良い平和を愛好する新日本の建設を開始する様我等は慫慂するものである。 諸君は直ちに武力抵抗を中止すべく措置を講ぜねばならぬ。然らざれば我等は断乎この爆弾並びに其の他凡ゆる優秀なる武器を使用し戦争を迅速且つ強力 に終結せしむるであろう。即刻都市より退避せよ。」
▼このようなビラははじめて目にしました。ポツダム宣言(7/26) の概略もビラで投下されていたことを下線部分の文言で知りました。
2020.2.7朝日新聞夕刊

▼当事者の声です。 日本原水爆被害者団体協議会代表委員の田中てるみ(87)さんは「米国で『原爆は真珠湾攻撃の報い』と言われたことが あるが、その違いを説明したら理解してもらえた。
2020.7.17朝日新聞朝刊
「原爆の子」2010年岩波文庫ワイド版
象徴的な場所である真珠湾で原爆展を開く意義は大きく、客観的に事実を伝える場になれば」と期待を寄せた。

▼やっとここまで来ました。(2020.2.9)

沖縄戦の経過
 1945(昭和20)年4月1日、読谷(ヨミタン)・嘉手納(かでな)・北谷(チャタン) 沖縄本島の中部に位置し、西側で東シナ海に面している。) にまたがる海岸に無血上陸した米軍は、
   2020.6.20朝日新聞朝刊
読谷村の海岸の「艦砲ぬ喰えーぬ残さー」の碑。艦砲射撃の喰い残し、という意味だそうです。

二つの日本軍飛行場を占領しました。日本軍が何の抵抗もせず米軍の上陸を許したのは、当初は水際作戦を計画していたものが、 兵力不足によって持久戦へと作戦変更を余儀なくされたためでした。また、そうすることによって本土への米軍侵攻を遅らせ、 本土決戦の準備を整えるというねらいがあったのです。
 米軍は、翌4月2日には東海岸に達して沖縄島を南北に分断し、さらに20日ごろには実質的に北部全域を占領しました。 そのため、飢えとマラリアに苦しみながら山中に潜んでいた避難民は、米軍の銃弾と同時に、 敗残兵となった日本兵の食糧略奪や拷問・虐殺からも身を守らなければなりませんでした。
     2020.7.21朝日新聞朝刊
ひめゆり学徒隊は1945年3月沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の学徒らが、南風原(はえばる)町の陸軍病院 に動員されたことに始まる。学徒らは血や汚物の悪臭のなか、負傷兵の看護や水・食料の運搬、遺体の埋葬などにあたった。45年6月19日朝、約100人 が潜んでいたガマが米軍のガス弾攻撃を受け、ひめゆり学徒隊42人を80人余が死亡。そのガマの横に「ひめゆりの塔」が建立されている。
▼昨年訪ねました。(2020.7.22)
 北部でもっとも戦闘が激しかったのは「東洋一」の飛行場を持つ伊江島本部半島西の島)でした。6日間にわたって展開された激しい戦闘では、 多くの兵士のほか住民も多数が命を落としました。また「集団死」でも100人以上の住民が犠牲となりました。  中南部へ侵攻してきた米軍に対し、沖縄守備軍は5月3日から数日間にわたって総攻撃をかけますが、 主戦力部隊の大半を失う大敗を喫しました。
首里城火災www.asahi.com ▼上記は2019年(令和元年)10月31日未明に発生した火災の写真ですが、1945年5月の戦災時もこのようだったでしょう。 首里城が焼失したのは、1453年、1660年、1709年、1945年に次いで歴史上5度目とのことです。(2020.11.3)
5月27日、沖縄守備軍は首里城地下の司令部壕を放棄して南部の摩文仁(まぶに)本島最南端)への撤退をはじめますが、 めざした南部のガマ(自然壕)にはすでに避難民が押し寄せており、 そこでもまた、日本軍による壕追い出しや食糧強奪、住民虐殺がおこなわれました。
▼2019.9.4ひめゆり平和記念資料館を訪ねました。

 沖縄守備軍の撤退作戦に対し、大田実司令官ひきいる小禄(おろく)飛行場(今の那覇空港)の海軍部隊は行動をともにせず、 大田司令官は「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の電文を打って自決、部隊は潰滅しました。  沖縄島南端に撤退し、最後の一戦にのぞんだ守備軍もついには敗れ、6月22日(23日説もある)の 牛島満(うしじまみつる)司令官と長勇(ちょういさむ)参謀長の自決により、組織的戦闘は終了しました。 しかし、その後も各地で戦闘は続き、米軍が沖縄作戦の終了を宣言したのは7月2日、 日本軍が公式に降伏文書に調印したのは9月7日になってからのことでした。

先島およびその他の諸島の戦況
 沖縄戦では、米軍が上陸しなかった先島(さきしま・宮古および八重山諸島)をはじめとする各島々も、大きな犠牲を払っています。  先島は米・英両軍の空と海からの攻撃を受け、大きな被害を出しましたが、それよりも深刻だったのが食糧不足とマラリアによる被害でした。  八重山では住民の多くがマラリアのはびこる山地へ強制的に退去させられ、3,647人(人口の11%)がマラリアにかかって命を落としました。 また宮古でも、人口6万余の島々に約3万人の日本兵が駐留し、極度の食糧不足とマラリアに苦しめられました。  本島北部の伊是名(いぜな)島上記地図の外の北西35キロに位置する島)では、敗残兵の命令で、漂着した3人の米兵を虐殺するという事件がおき、 続いて数人の住民が日本兵によって虐殺される事件もおきました。
しかし、本島北部の伊平屋島(伊是名島の北5キロに位置する島)や本島西部の粟国島(慶良間諸島から50キロ北では、 米軍が上陸してきたにもかかわらず、島に日本兵がほとんどいなかったことで米軍への投降がスムーズにおこなわれ、 結果的に大きな犠牲を出すことはありませんでした。日本兵の有無が住民の明暗を分けたことになります。 本島北部の瀬底島本部半島西、伊江島の南の島)では、日本軍がいると住民が犠牲になるとして、島へ渡ってきた日本兵を追い返したという例もありました。  本島中部の中城(ナカグスク)湾には砲撃基地があったため、津堅島
朝日朝刊2020.9.10
▼ 狂気、としかおもえない。(2020.9.10)
中城湾の太平洋からの入り口の島)が激戦地
となりました。 慶良間諸島北西部の渡名喜(となき)島では本島との連絡が途絶えたため、9月半ばに敗戦が伝えられるまで食糧不足に苦しみました。
▼下のHPは凄いです。一度見てください。(2020.9.10)
朝日新聞 声 語りつぐ戦争 クリックしてみてください。
 https://www.asahi.com/special/koe-senso/

戦後沖縄
 1945(昭和20)年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾して15年におよんだ戦争は終結しました。 日本は連合軍によって占領され、南西諸島もまたアメリカの軍政下におかれました。

米軍占領のはじまり
 1945(昭和20)年3月26日、慶良間(けらま)諸島に上陸した米軍は、ニミッツ布告を発し、日本帝国政府のすべての行政権を停止して、 南西諸島を米国海軍軍政府の管轄下におくことを宣言しました。 それ以来、沖縄は日本から政治的に切り離され、1972(昭和47)年5月15日の日本復帰までの27年間、本土と異なる戦後の歴史を歩むことになったのです。  1945年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍は読谷(ヨミタン)村比謝に米国海軍の軍政府をおき、南西諸島の軍事支配を本格的に開始することになります。  日本がポツダム宣言を受諾した同年8月、沖縄本島中部の石川にあった民間人収容所では、 米国軍政府の招集による戦後初の住民代表者会議が開かれました。会議の結果、沖縄諮詢会(おきなわしじゅんかい)が設置され、委員長に志喜屋孝信(しきやこうしん)が選ばれました。さらに翌年4月には、沖縄諮詢会は沖縄民政府となり、沖縄議会も設置されます。  しかし、知事や議会議員は軍政府によって任命されたものでした。その後、軍政府の担当が海軍から陸軍にかわって米国民政府がおかれますが、実質的には一貫して沖縄駐留米軍の支配下にありました。

さまざまな戦後
 沖縄県が慰霊の日と定めている6月23日は、沖縄守備軍第32軍の司令官・牛島満(うしじまみつる)中将が自決したとされる日 (実際は22日)であり、沖縄戦終結の日ではありません。日本軍と米軍の戦闘は6月23日以降も続きました。  沖縄戦は7月2日の米軍の沖縄作戦終了宣言によって終わるはずでしたが、山野にこもる日本の敗残兵が抵抗を続けたため、米軍による日本の敗残兵掃討作戦は8月15日以降も続けられました。結果的に、沖縄での実質的な戦闘は降伏調印式がおこなわれた9月7日まで続いたのです。  沖縄本島内ではまだ戦闘がおこなわれていた6月、各地の収容所ではすでに学校が開設され、授業がはじまっていました。新聞の発行も収容所からスタートしました。収容所では食糧と衣類は無償で支給され、人々はアメリカの豊かさを実感し、同時に民主主義の国アメリカを知りました。  米軍の上陸がなかった八重山では、日本兵が退去した後、人々はみずからの手で民主的な自治組織をつくり運営していましたが、12月末の米軍進駐により米軍政府の統治に組み込まれることになりました。

戦後政治のはじまり
 米国軍政府は沖縄諮詢会(おきなわしじゅんかい)の業績をふまえ、1946(昭和21)年4月、沖縄諮詢会を沖縄民政府に改称し、 民政府知事に志喜屋孝信(しきやこうしん)を任命しました。また、議会を設置し議員も任命しました。 米軍政府の意向で政治、行政機構が強引につくられていったのです。 米軍のいう「軍政府はネコで沖縄はネズミである。ネズミはネコの許す範囲でしか遊べない」という言葉にあらわれているように、 住民の自治権はかなり制限されたものになったのです。  1950(昭和25)年には、奄美群島、沖縄群島、宮古群島、八重山群島の4地域の政府が群島政府に改められ、 公選による知事と議会議員が選ばれましたが、住民の意志はあくまでも軍政の範囲内でしか反映できませんでした。  そのころの米軍は、沖縄を日本本土から切り離して占領しながらも、アメリカ本国の国務省が沖縄における基地の恒久使用に反対していたため、 1949(昭和24)年末まで明確な統治政策を打ちだすことができずにいました。そのため、沖縄は「忘れられた島」とよばれる保留状態で、 戦後の混乱状態が続いていました。
 いっぽう、1946(昭和21)年に日本国憲法が公布された日本本土では、占領下でありながらも民主的な国家が誕生していました。 しかし、沖縄住民は食糧難に苦しみ、米兵の横暴に怯え、言論・集会の自由はなく、住民自治の選挙権すらありませんでした。 このような状況の中から、本土からのひきあげ者とともに自治権拡大運動がはじめられたのです。

1947(昭和22)年5月には、戦後初の全島規模の政治集会「沖縄建設懇談会」が開かれ、 沖縄民政府知事あてに、民衆の意志が反映できる議会の設置や道徳の高揚、物資配給の適正化などを求める要求書が提出されました。 これをきっかけに、沖縄民主同盟が結成され、沖縄人民党、沖縄社会党が結成されました。 軍政府は、市町村長と市町村議員の選挙は認めますが、知事と議会議員選挙の実現には消極的でした。 それどころか配給物資の停止や食料品の値上げなどを強行し、沖縄議会を解散させるなど、横暴な手段で抑圧してきました。 この騒動で住民の自治権拡大への要求は、さらに大きな政治運動へ発展していくことになりました。

米軍占領下の住民生活
 1945(昭和20)年の10月ごろから、人々は収容所からもとの居住地への移動を許可されるようになりました。 しかし故郷の集落に戻ってみると、膨大な軍需物資が積み上げられていたり、軍用地として取り上げられたりしていて、 行き場がなくなってしまった人々も発生しました。  やがて戦前の区画をもとにした市町村組織が復活していきますが、それは文字どおりゼロからのスタートでした。食糧難に苦しむ住民たちの間では、「戦果(せんか)」として米軍の物資を盗み出し、米兵に銃撃される者も少なくありませんでした。  戦後の沖縄には1946年半ばまで通貨がなく、物と物を交換するバーター制が中心でした。その後数回の通貨交換をへて、日本円の流入によるインフレ防止のため、米軍政府発行のB型軍票(B円)を通貨とするB円経済圏が確立し、経済活動も開始されるようになりました。  しかし物価や賃金が統制され、取り引きも自由におこなえなかったため、闇取り引きや密貿易が横行するようになりました。このような不自由な生活の中でも、人々は空き缶でつくったカンカラ三線(サンシン)を弾いて歌い踊り、村の神々に祈り、沖縄再生へと立ちあがっていきました。

シーツ政策とサンフランシスコ条約
アメリカ政府は沖縄に対して、ガリオア資金(占領地域救済基金)に引き続き、1949(昭和24)年からはエロア資金(経済復興援助資金)を導入し、 本格的な経済援助をスタートさせました。 さらに米軍は、停滞していた軍政の秩序回復をはかるため、琉球軍指令部(通称 Rycom・ライカム)の司令官にシーツ少将を配置して、 軍政長官を兼任させました。シーツ軍政長官は沖縄の恒久統治と基地建設を目標に、次々と政策を遂行していきました。 彼の進めた政策を沖縄の住民のほとんどは友好的に受けとめ、「シーツ善政」と称していました。
シーツ軍政長官はまず
第1に、乱立した基地施設を整理統合し、高度に機能化された基地の建設を進めました。
第2に社会福祉の充実をはかりました。
第3に住民の自治を公認し、各群島の軍政府の権限を縮小、知事と議員の選挙を実施しました。
また、1950(昭和25)年12月にアメリカ極東軍司令部から出された指令にもとづき、米国軍政府を解消して米国民政府(通称USCAR・ユースカー) を設立しました。

1951(昭和26)年9月、米国の提案で52カ国の代表がサンフランシスコに集まり、日本に対する講和会議が開かれました。 日本では中国・ソ連をふくめた全交戦国との講和を要求する運動が高まっていましたが、吉田茂首相らはこれらの意見をおしきって講和会議に参加し、 48カ国と講和条約を締結しました(サンフランシスコ講和条約)。
この条約の第3条は、沖縄・奄美に対する米国の統治権に関する条文であったため、沖縄はこれに反対し、 3カ月の間に有権者の7割もの署名を集めましたが、日米両政府はこの行動を無視しました。 日本は同時に日米安全保障条約をも締結し、1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が 発効して日本は独立しました。
沖縄は日本から分離され、米国のアジア戦略の最重要基地としての役割を強めていくことになります。
サンフランシスコ講和条約第3条です。
第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩(そうふがん)の南の 南方諸島 (小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする 信託統治制度の下 におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。 このような提案が行われ且つ可決されるまで、 合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、 行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする
琉球政府の設置
 1950(昭和25)年9月に実施された群島知事選挙では、日本への復帰を強く主張するメンバーが当選しました。 この選挙結果を受けて政党の再編成が進み、日本復帰促進を党の基本政策とする沖縄社会大衆党(社大党)が結成されました。  各群島政府知事が選出されたあと、米国政府は沖縄の統括機関を軍政府から 琉球列島米国民政府(USCAR United States Civil Administration of the Ryukyu Islands・ユースカー)に変更し、統治方式として中央政府・群島政府・市町村という3段階による連邦制度的な組織にすることを提示しました。  しかし日本復帰をめざす各群島政府の存在は米国にとって目ざわりであったため、 1951(昭和26)年4月には恒久的な中央政府ができるまでの機関として、立法・司法・行政の三権を備えた琉球臨時中央政府を設置しました。 この臨時中央政府が登場したため、各群島政府は有名無実な組織となってしまったのです。
 1952(昭和25)年3月には、住民による直接選挙で立法院議員選挙が実施され、復帰促進派が多数を占めました。 これに危機感を抱いた米国民政府は4月1日、琉球政府を発足させると、初代行政主席に比嘉秀平(ひがしゅうへい)を任命しました。 住民の希望した公選による主席誕生はなく、また、公選で選出されていた各群島政府も解消されました。
▼沖縄の民意は無視されつづける。(2019.7.16)

戦略基地沖縄
 1950年代の沖縄は、米ソの対立激化を象徴するかのように、基地建設が急ピッチで進行していきました。 米国民政府はサンフランシスコ講和条約の発効と前後して、沖縄の軍用地の借地契約を進めました。 それ以前は、占領地である沖縄の軍用地は米軍が無償で使用していたのですが、1946(昭和21)年からはじまった 土地所有権認定作業の進展により、住民側からも軍用地料の支払い要請がなされるようになってきました。  サンフランシスコ講和条約が発効し、土地の無償使用の根拠がなくなった米軍は、 沖縄住民と土地使用契約をおこなわなければならなくなりました。米国民政府は1950(昭和25)年7月にさかのぼって地代を払うことを約束しました。 ところが、米国民政府の契約案があまりにも低価格であったため、契約作業は難航を極めました。
 思惑どおりの契約にいたらなかった米国民政府は、1953(昭和28)年4月に土地収用令を発令。立退きを拒否する住民を銃剣でおどし、 ブルドーザーで土地建物をこわしていくという、武力行使による土地の強制収用を続けていきました。

http://rca.open.ed.jp/history/story/epoch5/keyword_2.html
●土地の強制収容
米国民政府は囲いこんだ広大な軍用地の土地の賃貸契約をむすぶため、1952(昭和27)年11月、「契約権」という布告を公布しました。 しかし、9坪でコーラ1本代という安い借地料で、しかも20年使用という内容だったため、地主たちは契約に応じませんでした。 これに対し米国民政府は、契約が成立しなくても土地使用が可能であることを一方的に取り決め、 1953(昭和28)年に土地収用令を公布して無理やり土地を奪う非常手段をとったのです。
●銃剣とブルドーザー
米軍の強制的な土地収用を表現する際に使われる言葉。米軍は、立ち退きに抵抗する住民を銃剣で排除し、 家財道具を持ち出す暇もあたえないほど強制的に、ブルドーザーで畑や家屋を破壊しました。

 このように沖縄に出現した巨大な軍事基地は、土地をなくした住民の雇用の場ともなり、産業基盤の弱い、消費中心のいびつな構造をつくりあげることになりました。
▼基地建設のここまで具体的内容を知りませんでした。 誰のための、何のための基地か、建設時期と建設理由を見れば一目瞭然。(2019.7.28)

プライス勧告と島ぐるみ闘争
 1954(昭和29)年3月、米国民政府は軍用地料を10年分一括で支払うことを提示しました。 これに対し、地主の意向を受けた立法院は「土地を守る四原則」を決議、島ぐるみの反対運動を展開しました。
▼琉球新報WebNews2003.3.1より。「土地を守る四原則」(2019.7.28)
1954年4月30日に立法院が全会一致で決議した「軍用地処理に関する請願決議」の中で米政府に要請した四つの原則。 (1)米軍用地地料一括支払い反対、(2)土地の適正補償、(3)米軍が加えた損害の適正賠償の支払い、(4)新たな土地の収用反対。

 米国民政府はこれらの原則は非現実的であるとして無視し、各地で強制収用を続行しました。沖縄住民の抵抗はますます激しくなり、 これを受けた琉球政府は1955(昭和30)年5月、ワシントンに代表団を送り、「土地を守る四原則」を直接米国政府に訴えました。
▼辺野古基地を連想させる。(2019.7.18)
この要請にもとづき、米国下院軍事委員会はプライス議員を団長とする調査団を沖縄に派遣しました。  ところが、翌年アメリカ議会に報告されたプライス勧告は、沖縄住民の悲願である日本復帰には一言も触れず、 沖縄におけるアメリカの統治の経緯と現状をのべ、長期にわたって米軍が沖縄を統治することの利点などがあげられていました。 沖縄住民の期待を完全に裏切る内容だったこの勧告に対し、沖縄各地で反対集会が開かれ、1956(昭和31)年夏には「島ぐるみ闘争」 に発展していきました。
プライス勧告の内容です。
沖縄側の要請を受けて米国下院軍事委員会は、メルヴィン・プライス議員を団長とする調査団を沖縄に派遣しました。 沖縄の基地を三日間だけ視察した調査団の報告内容は、
「米軍にとって沖縄は極東の軍事基地としてもっとも重要地域である。 住民による国家主義的な運動も見られず、長期の基地保有も可能で、核兵器を貯蔵し、使用する権利を外国政府から制限されることもない。 米国は軍事基地の絶対的所有権を確保するためにも、借地料を一括して支払い、特定地域については新規接収もやむを得ない」
とするもので、このプライス勧告(報告書)は沖縄住民に衝撃をあたえました。
▼赤裸々にアメリカの意図を語っています。たぶん辺野古問題でもアメリカは日本政府に率直に見解を述べていると思います。 今は両国政府によって隠されているだけで。

こうした沖縄側の抵抗に対し、米国民政府はオフリミッツ(米軍関係者の民間地域への立ち入り禁止)を発動して経済的なダメージをあたえました。 その結果、琉球政府は米軍基地として土地を使用することを認め、米国民政府は適正価格での補償を約束して、最終的に決着しました。
▼「オフリミッツ(米軍関係者の民間地域への立ち入り禁止)」これだけでは意味不明なので更に調べました。 次の解説に出会いました。
オフリミッツとは米軍によって出される指令で、 米軍人・軍属・家族が民間地域へ出入りすることを禁止する内容です。 米軍に対する沖縄住民のデモや抗議集会などのトラブルを避けることを名目としましたが、 実際は基地に依存している地域へ経済的ダメージをあたえるという意味あいがありました。 特に基地依存の強かった沖縄本島中部地域は、この処置をもっとも恐れていました。」納得。(2019.7.28)

基地被害と住民の人権
 1959(昭和34)年6月30日、石川市の宮森小学校に米軍のジェット機が墜落する事故が発生し、 世界の航空史上まれな大惨事として内外に報道されました。児童11人をふくむ死者17人、重軽傷者121人、住宅など25棟が全半焼するという被害に、 米軍は十分な補償を確約しましたが、補償解決には3年もの年月が費やされました。
石川市の宮森小学校に米軍のジェット機墜落事故(琉球新報WebNews 2018.6.29)

沖縄では小学校に戦闘機が墜落し、子どもたちを含む18人が犠牲になるという痛ましい事故が過去に起きている。 戦後の沖縄で最大の米軍機事故と言われる「宮森小米軍ジェット機墜落事故」だ。

1959年6月30日午前10時40分ごろ、石川市(当時)上空を飛行中だった米軍嘉手納基地所属のF100D戦闘機が突然火を噴いて操縦不能となり、 同市の宮森小学校近くの住宅地に墜落した。
衝撃によって跳ね上がった機体は宮森小学校に突っ込み、 6年生のコンクリート校舎に激突した。学校に突っ込む機体から漏れ出した大量の燃料に火が付き、 住宅と2年生のトタン屋根校舎の3教室などを焼いた。
当時はミルク給食の時間帯でほとんどの児童が校内におり、18人が死亡(児童12人=うち1人は後遺症で死亡、付近住民ら6人)、 210人が重軽傷を負う大惨事となった。
戦闘機のパイロットは空中で脱出。パラシュートを用いて着地し、けがはなかった。 事故直後、米軍は原因について「故障による不可抗力」としていたが、事故報告書によると整備上の人為ミスが複合的に重なっていたことが判明した。
事故は生き延びた児童にも影を落とした。けがをした児童の中には両手がちぎれる夢を見て夜中にうなされたり、 他の子からいじめられたりした子もいた。また不眠や不登校、大きな音を怖がるなどの症状が出た児童もいた。
 この時期には、沖縄のいたる所で住民の人権を無視した米兵による事件が多発しました。事件・事故の裁判にも問題が多く、 加害者である米兵はほとんどが無罪で、有罪判決を受けても本国へ送還された後の刑の執行は不明、沖縄住民は泣き寝入りというありさまでした。  さらに、実弾演習による自然破壊、原子力潜水艦による放射能汚染、基地からの排出物による井戸や河川・土壌などの汚染は日常茶飯事でした。  米軍統治下の沖縄はすべてが米軍優先であり、住民の人権は無視された状態でした。1960年代の沖縄の基地経済による繁栄は、住民の生命の危険と人権無視の代償だったのです。

立ち上がる民衆
 沖縄教職員会、沖縄県青年団協議会、沖縄官公庁労働組合協議会が世話役となって、 1960(昭和35)年4月28日、超党派的な沖縄県祖国復帰協議会が組織されました。その後、祖国復帰運動が活発におこなわれますが、 米国民政府による沖縄統治に変化はありませんでした。  実権をにぎっていた米国民政府は、沖縄統治に都合の悪い事態が生じた場合、布令や布告を発して住民の要求を無視、または否定してきました。 1963(昭和38)年、当時のキャラウェー高等弁務官は「自治神話論」をふりかざし、米国民政府による直接統治をちらつかせました。
▼下記ウィキペディアのような知識がないとキャラウェー高等弁務官の「自治神話論」の意味がよく理解できない。
▼ウィキペディアのキャラウェイより。
キャラウェイは当時の駐日アメリカ合衆国大使エドウィン・O・ライシャワーと対立し、 大使館からの重要な情報を伝達せずに保留することが暫し行われた[6]。
ライシャワーは当時のアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの沖縄に自治権を与える計画を支持し、 日本政府に沖縄へより大きな財政援助を行うことを容認した。
キャラウェイはこれら全ての措置に反対し、彼らが沖縄に存在する戦略的に重要なアメリカ軍基地を奪うのではないかと信じた[6]。
ライシャワーの回顧録に、彼はキャラウェイを「頑固な男(bull-headed man)」、「独裁者(autocratic)」と批判し、 またキャラウェイが解雇された際には、「彼は役に立たない。彼は厄介者で、自分自身は何でも知っていると思っていたようだが、 実際何も知らなかった。」と述べている[6]。
キャラウェイは、ライシャワーは日本と陰謀を企て、 沖縄からアメリカ軍を力ずくで追い出そうとしたことに非難した[26]。
1962年ケネディ大統領は沖縄を日本に復帰させる意欲を示した。このケネディの政策により、 立法院を拒否権で抑え込んだキャラウェイの権力は制限された[27]。

1963年3月5日、那覇市のハーバービュー・クラブで行った金門クラブ月例会で、キャラウェイは「沖縄住民による自治は神話に過ぎない」と発言し、住民らによる自治を認めなかった[24][25]。
 こうした高等弁務官のおどしと、主体性のない琉球政府への不満は各階層に広がりました。沖縄全土をゆるがす復帰運動は、 日本本土はもとより国連加盟国にも届けられ、国際的にも注目されるようになります。  1960年代には米軍によるベトナム戦争が激化、米軍は国際的にも批判を浴び、大きな転換をせまられました。 結局、アメリカのジョンソン大統領はベトナムの北爆を停止、このころから沖縄の日本への返還が日米間で政治的に取りあげられるようになってきます。

大衆運動の発展
 1960年代になると土地闘争はある程度落ち着きを見せますが、基地問題は住民の生活に重くのしかかってきました。 住民はこれらの問題が異民族支配から派生するものとの認識を持ち、異民族支配を打破し、平和憲法下の日本へ帰ろうという祖国復帰運動を 展開していきます。このような運動の大衆化を通じて、「教公二法(きょうこうにほう)阻止闘争」や「主席公選運動」も展開されていきました。
 教公二法とは、地方教育区公務員法と教育公務員特例法のことで、本土ではすでに立法化されていました。 この法案には、教員の政治活動の規制が盛り込まれていたため、沖縄教職員会をはじめ多くの民主団体はこの法案を復帰運動つぶしととらえ、 立法化に反対したのでした。  しかし、沖縄民主党を中心とする保守勢力は、教公二法を通過させようと全面対決のかまえを示したため、 この法案をめぐる世論は沖縄を大きく二分することになりました。  教公二法は幾度となく議会で取り上げられた後、1967(昭和42)年2月の本会議で保守勢力により強行採決されようとしました。 しかし、立法院の周辺に集まった教職員を中心とする2万人余の大衆の阻止行動によって、この法案は廃案となりました。 議会外の大衆運動の力を背景に、議会内少数派が法案を廃案に追い込んだとして、多くの称賛が寄せられました。
▼沖縄はすばらしい闘いの歴史を持っている。

復帰運動の結末と沖縄返還
 佐藤栄作(さとうえいさく)総理大臣は1965(昭和40)年に来沖し、「沖縄が復帰しない限り、 日本の戦後は終らない」というコメントを発表しました。しかし、沖縄住民が求めてきた「祖国復帰」と、 日米両国によってすすめられた「沖縄返還」の内容には、大きなへだたりがありました。
 沖縄の復帰運動は、米国の異民族支配に反対する民族統一運動としてスタートしました。 当初は、日の丸の旗をかかげて闘いぬかれてきた復帰運動ですが、1960年代後半の教公二法阻止闘争をきっかけに、 民族統一運動から反戦・平和運動へと質的に変化していきました。
 1968(昭和43)年の行政主席選挙では、米軍基地の「即時・無条件・全面返還」を主張する革新共闘の屋良朝苗(やらちょうびょう)が、 本土との一体化を主張する西銘順治(にしめじゅんじ)を破り、県民の圧倒的な支持を得て主席となりました。 (▼この時期私は学生でした。本土ではベトナム反戦運動の最中でした。)
  また、1970(昭和45)年に実施された、沖縄からの国会議員を選出するための国政参加選挙では革新側の議員が多く誕生し、 沖縄住民が基地撤去を希望していることを国内外に示しました。
 1969(昭和44)年11月の佐藤・ニクソン会談終了後に発表された日米共同宣言では、 「核抜き、本土並み、72年返還」の基本方針を掲げていたものの、その内容は沖縄住民の要求とはかけはなれたもので、人々の反発をかいました。
米軍統治下の沖縄の文化
 沖縄戦による激しい戦闘は、琉球王朝時代のすぐれた文化遺産を徹底的に破壊しつくしました。 そのため、沖縄の文化復興は散逸した文化遺産を集めることからはじまったといえます。
 文化遺産の収集には米軍も理解を示していました。首里周辺の文化財は首里の人々の手で集められ、 1946(昭和21)年には首里市郷土博物館が開館、翌年には首里博物館となりました。
また、米軍政府は1945(昭和20)年、石川市東恩納(ひがしおんな)に沖縄陳列館を設置。 施設は翌年、東恩納博物館として米国民政府に受けつがれました。
 1953(昭和28)年5月になると、これらの博物館は統合されて琉球政府立博物館となり、現在の沖縄県立博物館に引きつがれました。
 1950年代には破壊された文化財の復元や修復がおこなわれ、園比屋武御嶽石門(スヌヒャンウタキいしもん) や守礼門(しゅれいもん)なども復元されました。
 米国民政府はまた、アメリカ人と沖縄住民との交流施設として、琉米文化会館や琉米親善センターなどを各地に設置しました。
 学校教育は収容所時代からはじまっていましたが、1948(昭和23)年には6・3・3制の学校教育が実施され、 1950(昭和25)年には首里城跡地に琉球大学が創設されました。
 異民族支配のもとでは抵抗の文学も登場し、大城立裕(おおしろ たつひろ)や東峰夫(ひがし みねお)などの芥川賞作家も誕生しました。音楽芸能関係では、琉球音楽や琉球舞踊が隆盛をきわめるようになります。米軍基地の米兵たちがもたらしたジャズやロックは沖縄の若者に受け入れられ、実力派の音楽活動家も育っていきました。そして、沖縄民謡とジャズやロックをミックスさせたオキナワンミュージックも誕生しました

返還直前の沖縄の世相
 大衆運動の盛り上がりにより、主席公選が実現して間もない1968(昭和43)年11月、嘉手納基地で米戦略爆撃機B52が離陸に失敗し、 弾薬庫近くに墜落する事故がおきました。当時の沖縄はベトナム戦争の米軍出撃基地となっており、 B52が嘉手納基地に常駐して連日ベトナムへの爆撃を続けていたのです。
2019.9.5嘉手納飛行場を見ました。「道の駅 かでな」の展望台からです。ともかく広いです。
ガイドマップに「町の総面積は 15.04平方qですが、その83%に相当する12.40平方qが米軍基地 (@嘉手納飛行場A嘉手納弾薬庫B陸軍貯油施設)となっています。」とあります。 学生時代、東京でベトナム反戦のデモに参加していましたが、 ここから直接ベトナムへ出撃したんだな、と現実味を帯びた体験をしました。貴重でした。
2020.4.3朝日新聞夕刊 昨年12月だけで嘉手納基地4258回、普天間飛行場1834回。東京の日常と考えると気がおかしくなりそう。(2020.5.23)












このような情勢を背景に、沖縄の大衆運動は反戦・平和運動へと発展していきました。
 1970(昭和45)年暮れに、コザ市(現沖縄市)中之町(なかのまち)で、 米兵の運転する車両が横断中の沖縄住民をはねるという事故が発生しました。 米兵による事件・事故の多発と、それに対する米国側の不当な処理に憤りを感じていた住民は、 この事故処理をめぐって一気に反米感情を爆発させ、70台以上の車を焼くなどして 「コザ騒動」をひきおこしました。
 この事件は、基地に依存する町で、米軍に従順と思われていた住民がひきおこしたものであるだけに米軍は大きなショックを受けました。 また、沖縄返還について交渉中であった日米両政府にも多大な影響をあたえました。
1970年12月20日 コザ反米騒動 「沖縄県公文書館資料より」
 この日の未明、午前0時15分頃、コザ市(現・沖縄市)で反米騒動が発生しました。 
発端は、アメリカ人が運転する車両が道路横断中の男性をひっかけて怪我を負わせた事故でした。 事故処理中のMP(Military Police 憲兵)を見物人が取り囲み、「糸満の二の舞を繰り返すな」と騒ぎました。 糸満市で主婦をれき殺した米兵が軍事裁判で無罪となったばかりで、米軍への反感は高まっていました。 MPの威嚇発砲をきっかけに、駐車中のMPや外人車両に次々と放火しました。
 琉球警察は全警官を非常召集し、米軍はカービン銃で武装したMP約300人を出動させましたが、約5,000人の群集とにらみあうなど、 騒ぎは朝まで続きました。この騒動で住民、警官ら23人が重軽傷を負い、19人が逮捕者されました。日本復帰を目前にした時期に起こったこの事件は、 日米両政府に衝撃を与えました。

「コザ暴動」の翌日に行われた屋良主席とランパート高等弁務官の会談記録が残っています。
USCAR渉外局文書 「1601-03 Reference Paper Files of the Preparatory Commission, 1970-1971, Reference Paper Files, 1970. Koza Incident.」 より
高等弁務官発 陸軍省宛 「高等弁務官 行政主席 会談 1970年12月21日」 1970年12月22日付【U81100953B】
【赤線部分和訳】
 主席は「米国政府が、毒ガス撤去問題に関する不安を和らげるための何かを行い、 糸満裁判において何らかの賠償の手段をとるのでないなら、昨今の沖縄の人々の態度や状況は改善されないだろう。 沖縄人は本来、その感情があおられるような何か深刻なことが起きない限り、温和な人々である。 ほかに頼みとするものがない時には、コザで起きたような騒動こそが『弱者が感情を表現できる唯一の手段』である」と述べた。 主席は弁務官に対してこのことを考慮するよう求めた。 主席は12月22日[ママ]ローカルテレビとラジオで放送された高等弁務官のコザ暴動に関する声明を引き合いに出して、 沖縄の人々は弁務官の態度が「高姿勢」で、スピーチも「ひじょうに腹立たしくひじょうに挑戦的」と感じている、と述べた。 主席は、住民の感情を鎮めるためにあらゆる努力がなされるべきであって、高等弁務官には声明で「火に油を注ぐ」ことのないよう力説した。

 日米両政府の沖縄返還交渉は、沖縄住民が希望した「核も基地もない平和な島」をないがしろにした、基地存続の方向で進んでいきました。 これに対し復帰協は「沖縄返還協定粉砕」を叫び、各地で大衆的なゼネストを決行しました。
 このような行動にも関わらず、日米両政府は1971(昭和46)年6月、東京およびワシントンで調印式をおこない、 住民の要請を無視した沖縄返還を確定しました。
 沖縄住民は、返還協定が国会で批准されて効力を発する前に協定のやり直しを求めるための、 「沖縄返還協定批准に反対し完全復帰を要求する県民大会」を開催しました。
 琉球政府は、復帰対策県民会議を主席の諮問機関として設置し、日米両政府による沖縄復帰対策要綱について検討を加えました。 答申を受けた屋良朝苗(やらちょうびょう)主席はそのつど日本政府に要請し、最終的に「即時・無条件、全面返還」の主旨で 「復帰に関する建議書」を作成、 しかし建議書提出のその日、衆議院による沖縄返還協定が強行採決され、国会で承認されることになりました。
「日本経済新聞」沖縄本土復帰40年、届かなかった建議書 変わらぬ基地、経済の苦悩2012/5/5付

沖縄は5月15日、本土復帰から40年を迎える。復帰の半年前、米軍基地が固定化されたままの復帰を危惧した当時の琉球政府は、 県民が望む復帰の姿を訴えようと、ひとつの文書をまとめた。132ページにわたる「復帰措置に関する建議書」だ。 しかし建議書は政府や国会に渡る前に、沖縄返還協定が強行採決され、沖縄の願いは届かなかった。 建議書が取り上げた米軍基地の重圧、脆弱な地場経済などの課題は今も解決していない。

■提出前に協定強行採決
建議書は1971年秋、沖縄不在のまま日米間の返還交渉が進んでいることを危ぶんだ琉球政府が職員や学識経験者を動員して、 復帰にあたっての基地や振興開発のあり方をはじめ、幅広い県民の要望をまとめたものだ。 屋良朝苗行政主席(後に初代知事)は11月17日、建議書を携えて上京した。 だが羽田空港に降り立ったころ、衆院特別委員会で沖縄返還協定は強行採決された

沖縄県公文書館「復帰措置に関する建議書」 https://www.archives.pref.okinawa.jp/proposal_document 沖縄県公文書館
「復帰措置に関する建議書」は、本土復帰に際して沖縄県の声を日本土政府と返還協定批准国会(沖縄国会)に手渡すために作成された建議書です。 当館では、その複製版が所蔵されています。 同建議書(約五万五千字)の作成を担当した琉球政府の復帰措置総点検プロジェクトチーム(本部長:副主席の宮里松正)は、 県民各層の声に照らして過去二十六年間における諸問題を総点検し、返還協定をはじめ復帰関連国内法案を総括して
@政府の行う対策の眼目は県民福祉を第一義とすべきこと
A明治以来、自治が否定された過去を省みて地方自治は特に尊重されなければならないこと
B第二次大戦で大きな犠牲を蒙り、異民族支配化の基地にがんじがらめにされた沖縄では、何よりも戦争を否定し、 平和を希求することが優先されること
C平和憲法下の人権の回復
D県民主体の経済開発
の五つを柱に最終的な訴えの内容を盛り込みました。
 「非常に難事業だった。ぼう大な資料の中から、これまでの要請書や調整文書を取り出して法案といちいち照合、 検討し、チームの審議とさらに県民会議の審議にかけて文章化したので時間はいくらあっても足りなかった」 (『激動八年 ―屋良朝苗回想録―』p.179)と、屋良氏が述懐している通り、建議書作成は容易な作業ではありませんでした。
 同建議書の完成後、屋良主席は、1971年11月17日、これを持って上京しました。しかしながら、 屋良主席の上京の前に、沖縄返還協定は衆院返還協定特別委で自民党により強行採決されてしまいました。
東京・赤坂のホテルに着いた屋良主席は、その採決を知らぬまま、報道陣から「ついさきほど返還協定が衆院沖縄返還協定特別委員会で強行採決された。 コメントを」と言われました。まさに青天の霹靂でした。屋良氏は、この時のことについて、「呆然自失、なにをいってよいかわからず、 コメントを断ってホテルの部屋に逃げ込んだ」(『屋良朝苗回顧録』p.212)と、回想しています。
 その後、沖縄返還協定は11月24日衆院本会議で自民党の賛成多数によって可決され、12月22日には、参院本会議でも可決されました。 また、復帰関連国内法案も、通常国会で三十日、自民党の単独採決で可決、成立しました。
 屋良氏は、復帰については次のように特別の思いを持っていました。
「軍事占領支配からの脱却、憲法で保障される日本国民としての諸権利の回復、そして沖縄県民としての自主主体性の確立、 これらが私たち県民にとって、全面復帰のもっている内容です。もっと簡単明瞭にいいますと、”人間性の回復”を願望しているのです。 きわめて当然な願望であり要求です」(『沖縄はだまっていられない』p.68)。
それゆえに、11月17日の強行採決に対して屋良主席がいかに無念の思いをしたかは想像に難くありません。
<主な参照文献>
屋良朝苗1977年『屋良朝苗回顧録』朝日新聞社
屋良朝苗1985年『激動八年 ―屋良朝苗回想録―』沖縄タイムス社
屋良朝苗1969年『沖縄はだまっていられない』株式会社エール出版社
屋良朝苗1972年『沖縄 今この時』株式会社あゆみ出版社
2012年10月26日朝刊『琉球新報』(見出し:「一条の光 ―「屋良朝苗日記」に見る復帰―」)
【資料コード】
R00001217B(当館所蔵の紙資料の資料コード) 【文書の作成者】
琉球政府 【文書の作成時期】
1971年11月

 1972(昭和47)年1月、佐藤栄作総理大臣はアメリカでニクソン大統領と会談をおこない、沖縄返還の期日を同年5月15日と決定しました。  こうして1972(昭和47)年5月15日、27年間におよぶ米国の統治に終止符がうたれ、沖縄は日本に返還されました。 この復帰は沖縄住民の希望するものにはほど遠い内容でしたが、沖縄に日本の国家主権が回復し、 正式に日本国の国土に組みこまれることになりました。

新生沖縄
 新生沖縄県のスタートにあたり、日本政府は東京と沖縄で沖縄復帰記念式典をおこないました。 東京での式典は日本武道館でおこなわれ、佐藤栄作総理大臣やアグニュー米国副大統領が出席し、 ランパート高等弁務官らをはじめ約1万人の参列で新生沖縄県の誕生を祝いました。  いっぽう、沖縄県でおこなわれた式典では、苦渋に満ちた屋良知事のあいさつがありました。 それは、米軍基地をはじめさまざまな問題が持ちこされたままの復帰でしかなかったためです。
 復帰運動を推進してきた沖縄県祖国復帰協議会は、沖縄返還のその日、那覇市の与儀公園で5・15県民総決起大会を開催し、 復帰に反対する決議を採択しました。いっぽう、復帰推進を掲げていた沖縄経営者協会らが組織する復帰祝賀県民大会実行委員会は、 5月14日の夕方、那覇市内で県民大会を開催して復帰を祝いました。

本土復帰デモ(1972.5.15)
1972(昭和47)年5月15日午前零時、沖縄は日本に復帰、沖縄県が誕生した。 国の復帰式典があった後、沖縄県は午後2時から「新沖縄県発足式典」を行い、琉球政府の解散と沖縄県の発足を宣言した。 一方、日米共同声明路線に基づく沖縄返還は、県民の要求を無視した“沖縄処分"だと復帰協主催の5・15抗議県民総決起大会が、 式典のおこなわれた那覇市民会館と隣り合わせの与儀公園で開かれた。この日は雨で、民主団体は雨をついてデモ行進した。
▼深刻な問題を孕んだ復帰だった。経緯を見ると「建議書」を敢えて無視した 1971年11月17日の衆院返還協定特別委での自民党の強行採決に起因しているようにおもえる。 「強行採決」は歴史の刺として後の時代の人々のこころに残っていくものだとおもいます。 運動の側から見ると新しいエネルギーの源になります。(2019.8.1)

復帰特別措置と県民の暮らし
本土復帰後の沖縄県民の暮しは、大きく変化しました。まず、通貨が米国ドルから日本円に切り替えられました。 返還時には円高ドル安という状態でしたが、それは県民に不利益であると判断した日本政府は、1ドル=360円での切り替えを約束し、 差額分は日本政府が補償しました。しかし、さまざまな問題を抱えての通貨交換であり、便乗値上げなどもあったため、 消費者物価は1カ月で14.5%も上昇しました。
日本政府は、戦後27年の間に沖縄と日本本土との間に生じた経済格差や、沖縄の政治経済制度の円滑な移行を進めるために、 復帰特別措置を講じました。
これにともない、復帰後は沖縄開発庁と沖縄県が10年ごとに沖縄振興開発計画を策定し、格差是正を進めてきました。 道路・港湾・農業基盤などの社会資本の整備がおこなわれ、県民所得も徐々に伸びてきました。 復帰記念事業として1972(昭和47)年11月に復帰記念植樹祭が、 1973(昭和48)年5月には沖縄特別国民体育大会(若夏国体)が、そして、 1975(昭和50)年7月から半年間、沖縄国際海洋博覧会が実施されました。 また、1978(昭和53)年7月30日には交通方法の変更がおこなわれ(俗称・ナナサンマル)、 「人は右車は左」へと交通方法が変更されました。

米兵暴行事件糾弾県民総決起大会(1995)
1995(平成7)年9月、沖縄本島北部で米兵3人による少女暴行事件が発生。この事件は米軍統治時代を想起させ、県民に衝撃を与えた。 戦後50年間、基地の重圧にあえぐ県民の怒りが爆発し、女性の人権、日米地位協定の不平等性などが浮き彫りになり、 基地の整理・縮小を求めるうねりが高まった。事態は外交問題に発展し、日米安保体制を揺るがした。 県議会では超党派で実行委員会を組織、10月21日に宜野湾市海浜公園で 「米軍人による暴行事件を糾弾し、地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」を開いた。 会場は8万5000人の参加者で埋まった。宮古、八重山でも3000人規模の集会が開かれた。

戦後沖縄→/新生沖縄→/現在の沖縄風景→/普天間(ふてんま)基地 普天間基地は、宜野湾市の真ん中に、市全体の25%(4.83平方km)の面積を占める米軍海兵隊のヘリコプター基地。 長さ2,800m、幅46mの滑走路を持ち、米軍機がひんぱんに離発着を繰り返しているが、
朝日朝刊2020.11.4
市民団体「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」作成の冊子「沖縄・米兵による女性への性犯罪」

周囲には16の学校をはじめとする市街地が隣接しているため、市民は絶えず事故の危険にさらされているといえる。
                              トップへ戻る
季刊 現代の理論 2015秋号 2015.11.1発行

         沖縄はなぜ、いま、自己決定権か アジアの平和を担う架け橋をめざして

                                     琉球新報編集委員 新垣 毅
少女の人権
転換期
自己決定権とは
世界の潮流
「主権」の再発見
海外に学ぶ
沖縄は植民地
沖縄経済への誤解
世界は一つ
沖縄の青写真

少女の人権
「行政をあずかる者として、本来一番に守るべき幼い少女の尊厳を守れなかったことを、心の底からわびたい」。
1995年10月21日、米軍普天間飛行場のある沖縄県宜野湾市の宜野湾海浜公園。米兵3人に沖縄の少女が輪姦された事件に抗議するため 8万5千人(主催者発表)が結集した県民大会の壇上で、当時の大田昌秀沖縄県知事はこう謝罪した。

当時、東京で学生生活を送っていた私は、自分のふるさとを見つめ直さざるを得ない気持ちに駆られた。「沖縄問題とは何だろう」と。 あれからちょうど20年。私は2人の女児の父になった。上の子は、やがて輪姦された少女と同年齢になる。 果たして私は父として彼女たちを守れるか。大きな不安を正直、抱いている。

そう、沖縄は当時と変わらない。良くなっているどころか、むしろ追い詰められている。 事件に対する怒りが爆発した県民に考慮し、日米が合意した普天間飛行場の返還問題は迷走した揚げ句、 今では県民が配備に猛反対したオスプレイ24機まで配備されている。女性へのレイプ事件はいまだ絶えない。

本土メディアではほとんど報じられないが、酔った米兵が沖縄本島中部や那覇市などのアパートやマンションをよじ登り、住宅に侵入する事件は頻繁に起きている。米軍基地が密集する本島中部から遠い場所でも、安心して眠れない。 米兵の酒酔い運転事故、傷害事件、米軍機の騒音、米軍機の墜落事故…。異常事態が「当たり前」に思えてしまうほど、 あまりにも毎日のように起きている。麻痺を通り越し、県民の多くは我慢の限界に来ている。

さらに国会では安保関連法案が成立した。「集団的自衛権の行使」の名の下で、武力行使が行われた場合、 真っ先に反撃の標的となるのは、米軍基地や自衛隊基地が集中する沖縄だ。沖縄は去る大戦で20万人余が犠牲になった沖縄戦を体験した。 住民を戦場に動員し、県民の4人に1人が死んだ経験を、また次世代にさせるのか。県民の中でそんな危機感が渦巻いている。

県民の意思を無視し、名護市辺野古への新基地建設を強行する日本政府やそれを支持する日本国民に対して、 「また沖縄を国防のための捨て石にするのか」という差別を感じる県民は多いだろう。 安保関連法案を見て、徴兵制を心配する母親たちが「わが子を戦場に行かせたくない」と思うように、 沖縄県民の多くは、子や孫に二度と沖縄戦の苦しみや悲しみを味あわせたくないと思っている。 いま、沖縄で大きなうねりとなっている新基地建設反対の動きは、県民にとってはまさに命の選択≠ネのだ。

転換期
その新基地建設反対のうねりが起こる起点となったのは、先に触れた2012年夏のオスプレイ配備強行と、 それに続く2013年1月28日の「建白書」 提出といえる。
建白書は、米軍普天間飛行場の県内移設断念と オスプレイの配備撤回を求めたもので、沖縄県内41市町村全ての首長、議会議長、県議会議長らが署名し、 首相官邸で安倍晋三首相に手渡した。
「沖縄の総意」を示した歴史的行動だったが、政府側は“無視”したまま、今日に至る。 東京でデモをした代表たちは、「売国奴」などのプラカードで迎えられ、罵声を浴びせられた。

その年の12月、米軍普天間飛行場の「県外移設」を公約に掲げていた当時の仲井真弘多知事が、公約を破り、 新基地建設に向けた辺野古沖の埋め立てを承認した。
県民は強く反発した。翌年1月の名護市長選では、米軍普天間飛行場の辺野古移設阻止を訴えた現職市長が移設推進を掲げた候補に大勝した。

昨年11月の沖縄県知事選では、「県外移設」を公約する翁長雄志氏が約10万票の大差を付けて仲井真氏を破る。 直後の12月の衆院選では沖縄全4選挙区で、翁長氏を支え「県外移設」を公約する候補者が当選した。 「沖縄の民意」は明確に出た。しかし、その直後から日本政府は辺野古での新基地建設作業を強行し、今日に至る。

こうした状況を見ると、沖縄は日本の民主主義制度を享受できない地域なのかと疑いたくなる。 このような形の訴えを打ち砕かれたら、いったいどうすれば自分たちの未来を担保できるのかという思いが県民の間で広がっている。

沖縄は戦後27年間、米国の統治下に置かれ、軍事政権による命や人権などの抑圧に苦しめられた。 独立論や米国への信託統治論もあったが、9条など平和主義をうたい、人権を保障する日本国憲法が輝いて見えた。
やがてその「憲法への復帰」を米軍への抵抗の旗印として掲げるようになり、日本への「復帰」運動が主流となる。 その運動は1960年代後半には、ベトナム戦争の泥沼化を背景に、世界的な反戦平和運動と合流し、 70年前後には「反戦復帰」の様相を帯びる。その運動の盛り上がりの中、沖縄で初めての公選による 主席(知事)=それまで米軍が主席を任命していた=が誕生し、米軍基地の撤去を掲げるまでに至る。

米軍が絶対的権力を握る中、沖縄の人々は人権擁護や自治権を主張し、米軍と激しく闘った。 沖縄の戦後史は、民主主義を実践した、まさに権利獲得の歴史といえる。その要求はやがて「基地のない平和な沖縄」に至る。

ところが、その要求は日米政府による沖縄返還協定で裏切られ、広大な米軍基地が残ることになる。 米軍は日米安保条約や日米地位協定によって基地の「自由使用」や特別な地位などの恩恵を受けている。 この沖縄返還の在り方を、復帰運動を闘った人々は1879年の日本による琉球王国併合に例えて「第3の琉球処分」と呼んだ。
その前の「第2の」は、日本側が「沖縄を半永久的に米国へ租借する」という趣旨の天皇メッセージをきっかけに、 統治権を米国に委ねた1952年のサンフランシスコ講和条約だ。 沖縄を米国に売り渡す¢繧りに日本本土は独立した。

▼「在日」コリアンの置き去りも1952年だった。(2019.7.15)
1879年琉球王国併合、第1次琉球処分。
1952年サンフランシスコ講和条約、第2次琉球処分。
1972年沖縄返還協定、第3次琉球処分。
2015年の今、辺野古基地建設強行、第4次琉球処分。

▼朝日新聞2019.9.22俳壇・歌壇にこんな歌がありました。「納めいる わが税金が 砂となり 辺野古の海を埋めていますか」(仙台市)村岡美智子
本土にもこのような人がいます。沖縄の人にお伝えしたいという気持ちとこのような人の気持を大きくし、具体的な大きなうねりを作り出していきたいと 考えています。(2019.10.2)

日本国憲法に「復帰」することで、憲法が規定する平和主義や人権保障の恩恵を受けることを目指した、 日本への「復帰」とは何だったのだろうか。果たして沖縄で「平和憲法」は機能しているのだろうか。 こうした問いや疑問が繰り返されている。現在の辺野古への新基地建設強行は「第4の琉球処分」とさえ、いわれる。 そんな中、沖縄戦や、戦後も長期にわたり基地被害を経験してきた沖縄の人々が、子や孫に負の遺産≠残したくない という強い思いから今、沸き起こっているのが自己決定権の行使を求める新たな動きだ。

自己決定権とは
自己決定権とは一般的にいえば「自分の生き方や生活について自由に決定する権利」だ。
個人の権利の側面もあるが、国際法である国際人権規約(自由権規約、社会権規約)の各第1部第1条では、 集団の権利として「人民の自己決定権」を保障している。日本語では一般に「民族自決権」と訳されているが、 沖縄では沖縄戦における住民の「集団自決」(強制集団死)を連想する「自決」という言葉が含まれているため「自己決定権」 という言い方が一般的になっている。

自己決定権は、自らの運命に関わる中央政府の意思決定過程に意思を反映させる権利だ。 その権利が著しく損なわれた場合、独立が主張できる権利でもある。 国際法学者の阿部浩己神奈川大学教授によると、この自己決定権は今や国際法の基本原則の一つとなっており、 いかなる逸脱も許さない「強行規範」と捉える見解もある。

沖縄がいま、直面している名護市辺野古への新基地建設問題に即していえば、 外交や防衛に関しては、国の「専権事項」とされているため、国はその立場を利用し建設を強行している。 しかし、その基地建設自体が、沖縄住民の運命を大きく左右することだと、沖縄住民が認識しているため、その意思決定過程に、 沖縄住民の民意を反映させよという主張が自己決定権の行使だ。

沖縄住民が民意を反映してほしいと主張している問題(基地問題)が政府の「専管事項」とされているので、 全国で叫ばれている地方分権論やその枠組みや考え方では限界があるといえるかもしれない。 いま、日中間で紛争の火種となっている尖閣諸島で突発的な衝突を含めて紛争が起きれば、 観光産業など経済も絡んで真っ先に巻き込まれるのが沖縄だ。中国脅威論が扇動され、軍備が強化されればされるほど、 当事者として沖縄の人々の危機感は高まる。

沖縄の人々は、果たして国際法でいう「集団の自己決定権」を行使する主体となり得るのか。 国際法で規定する「人民」とは、一義的な定義はない。しかし、エスニック・アイデンティティーや共通の歴史的伝統、 文化的同質性、言語的一体性、領域的結び付きなどの客観的条件と、その集団の自己認識が重要とされている。 それと照らすと、沖縄の場合、客観的条件や自己認識で当てはまる要素がたくさんある。
   2020.1.11朝日新聞朝刊
写真はロンドン大学に留学している沖縄出身の 比嘉華奈子さん。留学当初は「アイアム ジャパニーズ」と自己紹介していた。 今も日本人意識は「当然ある」。だが、最近はこっちが気に入っている。「アイアム オキナワン(沖縄人)」
▼確実に沖縄の人の意識が変化している。(2020.1.16)
ウチナーンチュ(沖縄人)というアイデンティティー(自己認識)が強く、米軍基地集中という差別的状況、 琉球王国という歴史的経験、固有性の強い伝統芸能や慣習、しまくとぅば(琉球諸語)という言語的一体性、 琉球諸島という領域的結び付きもある。

世界の潮流
国際社会のルールは国際法として、17世紀半ばにヨーロッパで出現し、主権国家を単位として19世紀に整備された。 弱肉強食の論理で差別や暴力にまみれていた時代の国際法は、イギリスやフランス、オランダなど列強国による 植民地主義を正当化する道具として使われた。 当時の国際法は植民地支配を認めていた。西洋の列強国はアジアやアフリカ、ラテンアメリカを植民地として支配し、 文明の有無で人間を差別した。文明のない人に文明を施すのは良いことという考え方を国際法はサポートした。 人間は平等で人権があるとの発想はなく、暴力的強者の論理だった。

20世紀に入ると、国際法は戦争を違法とし、平等を基本理念とする法体系に変容する。脱暴力の潮流が生まれる。 第2次世界大戦を機に国際連合(国連)がつくられ、その最も大切な目的の一つに「人権擁護」が掲げられた。 国連は暴力によって支配を広げていく植民地主義を認めない方針を表明した。

1920年代までは戦争や力による支配は認められていたが少しずつ変化し、45年の国連憲章では、脱暴力がはっきり打ち出される。 「武力行使、武力による威嚇の禁止」は国際法の劇的な変化を象徴する。武力によって支配されていた側、威嚇を受けていた人々の声が大きくなり、 武力の禁止を国際法でルール化するよう強く主張したからだ。 48年には世界人権宣言、60年には植民地独立付与宣言が国連で採択され、植民地支配の違法性が明確になった。 65年の人種差別撤廃条約では、人間は平等との考えが示された。国際法は、国家や政府ではなく、人間中心の法へと根本的に書き換えられていく。 その流れの中で、先住民族から、自分たちの政治的、経済的、社会的、文化的在り方は自分たちで決めるという 「自己決定権」=「自決権」が主張されようになる。これは国に与えてもらう権利ではなく、国際法で保障されている当然の権利なのだ。

一方、20世紀終盤〜21世紀にかけて、歴史的不正義や、過去をどう扱うかという問題が国際社会に広がった。 西洋が世界で行ってきたさまざまな不正義、植民地支配の問題が今日まで引きずっていることへの告発が活発化する。 過去をどうやって現在の問題として扱い、過去と現在を結び付け、より良き未来をどう築くかが問われるようになる。 (阿部浩己・基調報告「国際人権法と沖縄の未来」『けーし風』第79号)を参照)

2001年の「ダーバン宣言」は植民地支配の責任を追及し、過去の不正義を是正しなければ未来はないと明確にうたった。 これをきっかけに過去の不正義をただす潮流が生まれ、侵略国が不正義の事実を認め謝罪する動きが活発化する。 例えば、ハワイの先住民は、ハワイ王国時代に国々と条約を結んでいたことを根拠に、米政府に対し、 王国の併合や植民地化への責任追及を続けている。王国併合から100年後の1993年、米政府は王朝を不法に打倒したことを公式に認め、謝罪した。 謝罪決議は「ハワイ先住民の自己決定権が侵害されたことを謝罪する」とし、王国打倒を「悪事」と承認したのは、 米合衆国とハワイ先住民の和解のためだとしている。この決議で米政府が過去の責任を求めたことが評価された。 ただ、先住民への土地返還や主権回復などの課題は残る。

こうした流れは東アジアにも及ぶ。2011年8月、韓国の憲法裁判所は「慰安婦」問題は未解決だとして、 日本と再協議するよう韓国政府に求める判決を下した。12年には、最高裁判所に当たる韓国大法院が日本の朝鮮半島支配は違法だったとする 判決を出した。

だが日本はこうした潮流に対応しきれていない。 対内的には、アイヌ民族が生活していた北海道や、日本が併合した琉球王国について、日本政府は「植民地」と認めたことはなく、 琉球が日本の領土にどう編入されたかも、明確には説明していない。編入の国際法的根拠も不明なままだ。 (上村英明著『先住民族の「近代史」』平凡社参照)

「主権」の再発見
こうした世界的潮流を踏まえ、沖縄の自己決定権を考える上で今回注目したのは、 琉球王国が1850年代に、米国、フランス、オランダのそれぞれと結んだ修好条約だ。 複数の国際法学者によると、これら3条約を根拠に、琉球国が当時、国際法の主体であったことが確認できる。 その観点から、1879年の琉球併合(「琉球処分」)を捉え直すと、その出来事は、沖縄の歴史の中で 「沖縄の文明化のためには仕方なかった」「沖縄への薩摩支配からの奴隷解放だ」と見られてきた歴史観と全く違った様相を帯びる。

明治政府の命を受け、随行官9人、内務省官員32人、武装警官160人余、熊本鎮台兵約400人を伴った松田道之処分官が、 琉球国の官員たちを前に「廃藩置県」の通達を読み上げた出来事が狭い意味での「琉球処分」だ。 兵士らは首里城を占拠して取り囲み、城門を閉鎖した。このとき琉球王国は約500年の歴史に幕を下ろした。

「処分」の理由は、中国との外交禁止と裁判権の日本への移管に琉球が従わなかったことだった。 琉球にとって中国との外交や裁判権は国権の根幹だったため、明治政府に抵抗していた。明治政府はその7年前、 天皇の下へ琉球の使者を呼び、琉球藩王の任命を抜き打ちで一方的に実施した。天皇と琉球の王と「君臣関係」を築いたことにして、 天皇の名の下で琉球国の併合手続きを着々と進めた。琉球国からさまざまな権利を奪い取る「命令」に琉球が従わないとして、 最後は軍隊で威嚇しながら一方的に「処分」を実施したのだ。

琉球国の国家としての意思を無視して一方的に併合し、国を滅ぼした明治政府のやり方、すなわち「琉球処分」は後々、 現在まで、沖縄の重要な歴史的節々で、沖縄に対する日本政府の態度を批判する言葉として生き続けることになる。

この「琉球処分」という出来事をめぐる今回の取材で、複数の国際法学者から新たな見解が提示された。 「処分」の在り方は、ウィーン条約法条約第51条「国の代表者への脅迫や強制行為の結果、結ばれた条約は無効」とする規定に抵触するので、 琉球併合の無効を訴えることができるというのだ。加えて日米両政府に対し、謝罪、米軍基地問題の責任追及などだけでなく、 主権回復を訴える戦略が描けるとも指摘した。

ウィーン条約法条約とは、条約に関する慣習国際法を法典化した条約のことで、1969年に国連で採択され、80年に発効された。 日本は81年に加入している。琉球併合当時、すでにこの条項についての国際慣習法は成立しており、 それを明文化した条約法条約を根拠に、事実上、さかのぼって併合の責任を問うことが可能だというのだ。 その歴史的根拠は、国際慣習法が成立していた当時、琉球国が米国、フランス、オランダと結んだ3修好条約であり、 すなわち琉球が国際法上の主体=主権国家と見られていた事実なのだ。

沖縄の苦難の歴史的原点が指摘されるときには、よく406年前の薩摩侵攻までさかのぼっていわれることが多い。 しかしこの3条約と琉球併合の関係に焦点を当てたのは、それらの歴史は決して単なる過去ではなく、 現在の沖縄が置かれた状況を国際法の中に位置付けることが可能となり、 さらに国際法を生かして主権回復や自己決定権行使を主張する議論の地平が開かれるからだ。

海外に学ぶ
沖縄の民意が反映されない今の状況の危機感から、どう沖縄の明るい将来展望を切り開くかを模索しようと、 2014年5月1日から「自己決定権」をキーワードにした連載「道標求めて―琉米条約160年 主権を問う」を琉球新報の紙面で始めた。 連載は開始直後から反響が大きく、読者の励ましの声にも支えられ、2015年2月15日まで、100回を数える長期連載となった。 この連載は6月に『沖縄の自己決定権―その歴史的根拠と近未来の展望』(高文研)として単行本にまとめた。 三つの条約や「琉球処分」の歴史、自己決定権を主張する沖縄の展望について詳しくまとめてあるので、 興味のある方は、ぜひ読んでいただきたい。

国連の人種差別撤廃委員会
連載の狙いは主に二つあった。一つは、足元の歴史を掘り起こすことで、その教訓から沖縄のいまを見つめ直し、 未来を展望すること。二つ目は海外の事例から学べる素材を集め、国際社会との連携を模索することだ。 歴史を振り返ることが時間軸で考える縦糸とすれば、国際社会への取材は思考空間を広げる横糸の関係といえる。
横糸となる海外の取材でも得るものが多かった。スイスの国連人種差別撤廃委員会やスコットランドの独立住民投票、 米国から独立して20年の節目を迎えたパラオ、そしてEU(ヨーロッパ共同体)の本部があるベルギーを取材した。 国連は2008年に「琉球/沖縄人」を「先住民」と認め、2010年には米軍基地の集中は「現代的人種差別」だとして、 日本政府に改善を求めている。
▼沖縄に関する主な勧告 
2008.10.30自由権規約委員会勧告 配布一般ccpr/c/jpn/co/5 2008年10月30日 原文:英語
32.委員会は、締約国が正式にアイヌの人々及び琉球・沖縄の人々を特別な 権利と保護を付与される先住民族と公式に認めていないことに懸念を持って留 意する。(第27条)
締約国は、国内法によってアイヌの人々及び琉球・沖縄の人々を先住民族とし て明確に認め、彼らの文化遺産及び伝統的生活様式を保護し、保存し、促進し、 彼らの土地の権利を認めるべきである。締約国は、アイヌの人々及び琉球・沖 縄の人々の児童が彼らの言語で、あるいは彼らの言語及び文化について教育を 受ける適切な機会を提供し、通常の教育課程にアイヌの人々及び琉球・沖縄の 人々の文化及び歴史を含めるべきである。


2010.4.6人種差別撤廃委員会勧告  CERD/C/JPN/CO/3-6配布: 一般 2010 年 4 月 6 日 原文:英語
21. ユネスコは沖縄の固有の民族性、歴史、文化、伝統並びにいくつかの琉球語を認め ている(2009 年)ことを強調するとともに、委員会は、沖縄の特色に妥当な認識を示そうと する締約国の姿勢を遺憾に思い、沖縄の人々が被る持続的な差別について懸念を表明する。 さらに、委員会は、沖縄における軍事基地の不均衡な集中は、住民の経済的、社会的及び文 化的権利の享受に否定的な影響があるという現代的形式の差別に関する特別報告者の分析 を改めて表明する(第2条及び第5条)。

2014.8.20自由権規約委員会勧告/ 2014.9.26人種差別撤廃委員会勧告も重要。

EU(欧州連合)の要・ベルギーの取材では、沖縄が東アジアの「平和・交流の要」になる可能性を念頭に置いて取材した。 国境を超えた地域共同体の本部は小国に置いた方が、大国の利害調整に優位だという。 日本国内で実現に向けて叫ばれてきた「東アジア共同体」がもしできるのなら、その本部は沖縄にこそふさわしいという確信を得ることができた。

人口約2万人しかいない島国・パラオがどうやって大国アメリカから独立を勝ち取ったのか。 スコットランドの独立運動とも通ずるのが、市民による粘り強い草の根運動だった。何度も挫折を味わいながら、 アイデンティティーの基盤を再構築し、国際世論に訴える運動を継続していた。いまの沖縄の課題にも通じる。

これらの取材を通して率直に感じたのは「沖縄は自立する可能性だけでなく、独立する資格さえ十分持っている。 問題はそのビジョンを、現状打開や県民の幸せのためにどう生かしていくかが課題だ」ということだった。

沖縄は植民地
いまの沖縄の状況を分析する際、重要なのは「植民地主義」という概念だと考える。 沖縄の本当の敵は「植民地主義=植民者」という見方を基に、植民者に向けて「植民地主義と決別しよう」と呼び掛けている識者もいる。 野村浩也広島修道大教授はこう語る。
「植民地への搾取は、命も搾取する。日本人を守るために死ねと。それが沖縄戦で証明された。…いま、 政府がわざわざ尖閣問題で騒ぐのは、沖縄だけを戦場にしたいからだ」「主権がなくても、人格権を認めさせることはできるし、 それも基地をなくす方法の一つだ。…日本人が沖縄人を犠牲にするのをやめる可能性はないわけではない」。
野村氏は普天間基地の県外移設、すなわち本土の日本人が基地を引き取ることこそが、日本人が沖縄への植民地主義と決別する唯一の方法だと主張する。 圧倒的大多数の日本人が日米安保を支持しているにもかかわらず、その責任を引き受けず、 沖縄に米軍基地を押し付けるのは「差別」であり「植民地主義」に他ならないという議論だ。

在日米海兵隊の約75%が沖縄に集中しているという。米軍普天間飛行場は米海兵隊の基地だが、 沖縄への海兵隊集中を「やむなし」あるいは提唱する抑止論者がよく沖縄の地理的優位性を論拠にする。 しかしその論拠はさまざまな角度からすでに論破されている。(新外交イニシアティブ編『虚像の抑止力』旬報社など多数)。
▼沖縄の地理的優位性。現代は基地存続の根拠。古琉球時代は反映の基礎。(2020.3.20)

植民地主義をめぐってはその常とう手段として、植民地現地において植民者への協力者をつくる分断統治の問題も含む。 豊見山和行琉球大教授は、歴史学者のユルゲン・オースタハメルの学説(石井良訳『植民地主義とは何か』論創社)を引いてこう指摘する。
「植民地支配を続ける重要な方法の一つは、植民地の指導層に協力させることだ。その前提として 植民地体制の存続が得策であると思い込ませることが重要となる。物力や圧力、金によって植民地の代表者に『本国へ協力する方が得策だ』 と思い込ませ、本国による支配を貫徹する」

日本政府が沖縄振興策を政治の道具にして、沖縄に基地を押し付けてきた方法に重なる視座だ。 現在、沖縄では「オール沖縄」や「沖縄アイデンティティー」の重要性が声高く叫ばれている。 昨年11月の県知事選で、翁長雄志氏は、選挙戦からこれらの言葉を強調し、大差で当選した。沖縄の人々は、 これまで苦い目に遭ってきた、政府によるさまざまな分断工作から身を守ろうという意識が強まっている。 しまくとぅばを普及する運動など沖縄の言葉や伝統文化を復興・重視する動きも、植民者からの分断を防ぐ民族的基盤を築く役割を果たすかもしれない。 ただ、沖縄の人々は琉球併合以降、日本人からの差別と同化志向によって、自らの言葉や文化をさげすみ、捨て去る傾向さえあった。 このため、そうした民族的基盤は脆弱な状態にあり、再び取り戻すには、強力で持続的な公的部門の施策と、 一人一人の並々ならぬ努力が必要となろう。

沖縄経済への誤解
いま、沖縄で叫ばれている「オール沖縄」がなぜ、分断を乗り越える力となり得ているのか。 その背景には、「米軍基地は沖縄の経済発展にとって阻害要因」との認識が県民の間に浸透していることがある。

約百万人が住んでいる沖縄本島中南部には米軍普天間飛行場のほか、極東最大の米空軍嘉手納基地など数多くの基地があり、 交通やまちづくりの障害になってきた。一方、返還された米軍跡地の経済波及効果は著しい。
那覇新都心で生産誘発額が返還前の57億円から28倍の1624億円、雇用者が168人から93倍の1万5560人に増加した。 北谷町桑江・北前地区は生産誘発額が3億円から110倍の330億円、雇用者0人から3368人に増えている。 沖縄県の資料によると、県民総所得に占める基地関連収入の割合は、日本復帰時の1972年は15・5%だったが2012年は5・4%にまで減った。 沖縄県の経済状況は「基地がなければ食っていけない」状態とは言い難い。現在、約百万人来ている外国人観光客が150万人以上になれば、 基地経済効果を上回るという試算もある。

基地経済依存という誤解のほかにも「沖縄は国のお金をたくさんもらいすぎている」という見方がある。本当だろうか。
国からの財政移転を見ると、2013年度決算額で、国庫支出金は3737億円で全国都道府県で11位、 地方交付税は3593億円で15位、合計7330億円で14位だ。人口1人当たりでは、国庫支出金は26万4千円で1位だが、 地方交付税は25万4千円で17位、合計51万8千円で6位に位置する。こうして見ると、国からの財政移転は、 他府県と比べて突出して多いわけではない。

ではなぜ、多くもらっているように見えるのか。それは、国道整備など他府県でもやっている 普通の国直轄事業を約3千億円の沖縄振興予算の中に含ませているからだ。 財政事情を知らなければ、沖縄は国の事業の予算とは別に、振興予算3千億円を純増でまるごともらっているかのように 政府に宣伝されてしまっている。振興策の看板によって「純増の特別予算をもらっているから基地を受け入れろ」 という誤解を喚起させ、基地を押し付ける恫喝に利用されてしまっているのだ。

世界は一つ
一方、沖縄では、基地の整理縮小・撤去は県民の負担軽減や攻撃の標的となる危険性を回避するだけではなく、 跡地利用で経済振興の飛躍につながるという認識も広がっている。その沖縄にとって追い風となる世界の時勢がある。 アジア経済の勃興だ。
航空の物流拠点(国際ハブ)、外資系ホテルの相次ぐ進出、米軍基地の跡利用が経済成長率を押し上げると推測し店舗を出す人気企業、 最先端エネルギーやバイオ産業などの進出ラッシュ等々、沖縄は産業の場としてアジアを引きつける材料が抱負にある。

沖縄県の沖縄振興指針「沖縄21世紀ビジョン」は沖縄を「アジアの橋頭堡(ほ)」と位置付けている。 振興基本方針も「沖縄はアジア・太平洋地域への玄関口として大きな潜在力を秘めており、日本に広がるフロンティアの一つとなっている」 とうたい、潜在力を引き出すことが「日本再生の原動力になり得る」と強調する。 沖縄はアジアの架け橋となって、自身だけでなく日本やその他のアジア諸国の発展を担えるという。

人、モノ、経済、情報のグローバル化の進展により、地球規模で国や地域の相互依存が深まっている。 小国であっても一つの国が金融危機に陥れば、瞬く間に国境を越えて影響が広がり世界が風邪をひく。 欧州連合(EU)や北米自由貿易協定(NAFTA)のような国々の地域統合や経済連携のほか、アジアでも、 アジア太平洋経済協力会議(APEC)、東南アジア諸国連合(ASEAN)があり、 さらに自由貿易協定(FTA)を中心とする経済連携の動きが急速に進められ、政治・安全保障面でもASEAN地域フォーラムが誕生した。 環太平洋連携協定(TPP)もその一つだ。アジアのほぼ全域をカバーし、世界の人口の半分、 総生産額(GDP)と貿易総額の約3割に達する自由貿易協定・東アジア地域包括的経済連携(RCEP)も進められつつある。

その状況下で、ASEANに日中韓を加えたASEAN+3(約20億人)を軸にした「東アジア経済圏」「東アジア共同体」構想が近年、 提唱されてきた。人口約21億人に達し、EUの約4・4倍、経済規模ではEUを上回る。 これが実現すれば、世界の経済・勢力の極が西から東へ移ると目される。

もし実現すれば、沖縄はその首府となり、これまでの「軍事の要石」から脱却できるとの議論がある。 アジアの共生、物流などの経済、人や文化の交流という「平和の要石」としての役割を果たせるというのだ。 そうなれば、軍事基地から派生する戦争への恐怖、日常の基地被害から沖縄の人々が解放されるだけでなく、 現在、関係悪化が懸念されている日中韓の国民にとっても、EUのように、より平和で軍縮につながる良好関係を築くことができるだろう。

沖縄の青写真
沖縄のような人口わずか140万人余の地域が、アジアの大国を橋渡しするには、 さまざまな問題の解決の場をつくるパフォーマーの一員にならなければならない。 それには主体性や中立性の担保も重要だろう。このために必要なのが自己決定権の行使なのだ。

沖縄では市民団体や懇話会などの間で、沖縄の将来像について、既存憲法の枠内で自治権拡大を目指す案や、 道州制をにらんだ沖縄自治州のほか、連邦制案、国家連合案、独立論も議論されてきた(詳しくは拙著『沖縄の自己決定権』を参照してほしい)。 どれにも共通しているのは、「アジアの平和を担う架け橋役」という点だ。

いま、琉球民族独立総合研究学会で議論されている独立論をみても、単に日本への怨念を基にした離婚≠意味するものではない。 沖縄は、アジア・太平洋地域などと交流した大交易時代の歴史的経験を生かし、人や文化、観光・物流など経済の交流を促進し、 積極的に「平和の要石」になるという主張では他の議論と共鳴している。

日米同盟の深化と軍事強化による「抑止力」で「積極的平和」を実現したい安倍政権とは、 人や文化の交流・外交を重視する点で異なる。沖縄から見れば、集団的自衛権の行使を柱とする日米同盟の新局面は、 東アジアにおいて沖縄の人々が求める道標とは明らかに逆行しているといえよう。

日本は今、歴史教科書や「従軍慰安婦」問題などの歴史認識問題や、尖閣や竹島などの領土紛争の火種を抱えている。 取材を通して、これらの問題の解決に向けて「沖縄は対話の場になれる」という実感を持てた。 対話が実現できれば、沖縄だけでなく、日中・日韓をはじめ東アジア全体の平和構築にとって有益だ。

グローバル化と世界の国々の相互依存関係はもはや不可逆的潮流だ。中国の脅威論などにみられる偏狭なナショナリズムの強調は、 国家間の壁を高める、世界の潮流と逆行している。

沖縄が東アジアの平和の在り方や対話の場になることを提案するのは、そうした世界の潮流に沿っている。 アジアの人々の共生と深い交流につながり、日本国民にも真の平和と繁栄をもたらすチャレンジや、 その主体性を発揮するために沖縄が志向しているのが自己決定権の行使なのだ。

 あらかき・つよし
1971年、沖縄那覇市生まれ。琉球大学卒、法政大学大学院修士課程修了。1998年琉球新報社入社。中部支社報道部、沖縄県議会・政治担当、社会部デスクなどを経て、 2014年4月より文化部記者兼編集委員。2011年にはキャンペーン報道「沖縄から原発を問う」取材班キャップを務めた。
▼素晴らしい構想。全面的に賛成。この論文は昨年11月に入手していたと思います。今日改めて読んでみました。(2019.8.13)


▼左の記事は2019.3.26朝日新聞夕刊。
3月26日は沖縄戦が始まった日。その前日25日政府は辺野古の新たな区域で埋め立ての土砂投入を始めた。 上原はつ子さんは「政府の要人が沖縄の歴史をもっと理解していれば、こんなことはしない」。 74年が経ち、戦争が始まった同じ季節に、基地の建設が強行されている。
▼玉城デニー知事による、2019.6.23沖縄慰霊の日の「平和宣言」全文は以下の通り。

         平 和 宣 言
 戦火の嵐吹きすさび、灰燼(かいじん)に帰した「わした島ウチナー」。
 県民は、想像を絶する極限状況の中で、戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。
 あれから74年。忌まわしい記憶に心を閉ざした戦争体験者の重い口から、後世に伝えようと語り継がれる証言などに触れるたび、 人間が人間でなくなる戦争は、二度と起こしてはならないと、決意を新たにするのです。
 戦後の廃墟(はいきょ)と混乱を乗り越え、人権と自治を取り戻すべく米軍占領下を生き抜いた私達(たち)ウチナーンチュ。その涙と汗で得たものが、社会を支え希望の世紀を拓(ひら)くたくまいしい営みをつないできました。  現在、沖縄は、県民ならびに多くの関係者の御(ご)尽力により、一歩一歩着実に発展を遂げつつあります。
 しかし、沖縄県には、戦後74年が経過してもなお、日本の国土面積の約0・6%に、約70・3%の米軍専用施設が集中しています。 広大な米軍基地は、今や沖縄の発展可能性をフリーズさせていると言わざるを得ません。
 復帰から47年の間、県民は、絶え間なく続いている米軍基地に起因する事件・事故、騒音等(とう)の 環境問題など過重な基地負担による生命の不安を強いられています。今年4月には、 在沖海兵隊所属の米海軍兵による悲しく痛ましい事件が発生しました。
 県民の願いである米軍基地の整理縮小を図るとともに県民生活に大きな影響を及ぼしている日米地位協定の見直しは、 日米両政府が責任を持って対処すべき重要な課題です。
 国民の皆様には、米軍基地の問題は、沖縄だけの問題ではなく、我が国の外交や安全保障、人権、環境保護など 日本国民全体が自ら当事者であるとの認識を持っていただきたいと願っています。
 我が県においては、日米地位協定の見直し及び基地の整理縮小が問われた1996年の県民投票から23年を経過して、 今年2月、辺野古埋め立ての賛否を問う県民投票が実施されました。  その結果、圧倒的多数の県民が辺野古埋め立てに反対していることが、明確に示されました。
 それにもかかわらず、県民投票の結果を無視して工事を強行する政府の対応は、民主主義の正当な手続きを経て導き出された民意を尊重せず、 なおかつ地方自治をも蔑(ないがし)ろにするものであります。  政府におかれては、沖縄県民の大多数の民意に寄り添い、辺野古が唯一との固定観念にとらわれず、沖縄県との対話による解決を強く要望いたします。  私たちは、普天間飛行場の一日も早い危険性の除去と、辺野古移設断念を強く求め、県民の皆様、県外、国外の皆様と 民主主義の尊厳を大切にする思いを共有し、対話によってこの問題を解決してまいります。
 時代が「平成」から「令和」へと移り変わる中、世界に目を向けると、依然として、民族や宗教の対立などから、地域紛争やテロの脅威にさらされている国や地域があります。  貧困、難民、飢餓、地球規模の環境問題など、生命と人間の基本的人権を脅かす多くの課題が存在しています。  他方、朝鮮半島を巡っては、南北の首脳会談や米朝首脳会談による問題解決へのプロセスなど、対話による平和構築の動きもみられます。  真の恒久平和を実現するためには、世界の人々が更に相互理解に努め、一層協力・調和していかなければなりません。
 沖縄は、かつてアジアの国々との友好的な交流や交易を謳(うた)う「万国津梁(ばんこくしんりょう)」 (世界を結ぶ架け橋の意味)の精神に基づき、 洗練された文化を築いた琉球王国時代の歴史を有しています。  平和を愛する「守禮(しゅれい)の邦(くに)」として、独特の文化とアイデンティティーを連綿と育んできました。  私たちは、先人達から脈々と受け継いだ、人を大切にする琉球文化を礎に、平和を希求する沖縄のチムグクルを世界に発信するとともに、 平和の大切さを正しく次世代に伝えていくことで、一層、国際社会とともに恒久平和の実現に貢献する役割を果たしてまいります。
 本日、慰霊の日に当たり、国籍や人種の別なく、犠牲になられた全ての御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧げるとともに、 全ての人の尊厳を守り誰一人取り残すことのない多様性と寛容性にあふれる平和な社会を実現するため、 全身全霊で取り組んでいく決意をここに宣言します。

 御元祖(うぐわんす)から譲(ゆじ)り受きてぃ、太平(てーふぃー)(平和)世(ゆー)願(にげー)い愛(かな)さしっちゃる肝心(ちむぐくる)、肝清(ちむぢゅら)さる沖縄人(うちなーんちゅ)ぬ精神(たまし)や子孫(くわんまが)んかい受け取(とぅ)らさねーないびらん。  幾世(いちぬゆー)までぃん悲惨(あわりくり)さる戦争(いくさ)ぬねーらん、心(くくる)安(や)しく暮らさりーる世界(しけー)んでぃし、皆(んな)さーに構築(ちゅくてぃ)いかんとーないびらん。  わした沖縄(うちなー)御万人(うまんちゅ)と共(とぅむ)に努(ちとぅ)み尽(ち)くち行ちゅる思(うむ)いやいびーん。
We must pass down Okinawa’s warm heart we call“Chimugukuru” and its spirit of peace, inherited from our  ancestors, to our children and grandchildren. WE will endeavor to forge a world of everlasting peace. I am edetermined to work together with the people of Okinawa.

令和元年6月23日
  沖縄県知事 玉城デニー

※ウチナーグチ及び英語の訳
 先人から受け継いだ、平和を愛する沖縄のチムグクル(こころ)を後世(子や孫)に伝えなければなりません。  いつまでも平和で安心した世界をみんなで築いていかなければなりません。  沖縄県民の皆さんと共に努力していくことを決意します。
▼「沖縄のチムグクル=Okinawa’s warm heart we call“Chimugukuru”」。 この心はアイヌ民族の「ウレシパモシリ=万物が互いに互いを育てあう大地」と通ずるものがある、と感じました。(2019.8.16)

▼下のインタビュー記事から。
「札幌ではこんな話をしました。沖縄本島と札幌市の面積はほぼ同じ。札幌に日本全体の7割の米軍基地を置いた場合、どうなるか地図 を描いてみてください、と。」
2019.12.12朝日新聞

「国民一人一人が、この問題が自分の地域に持ち込まれたらと危機感を共有していただき、連帯の輪を広げることが解決する ポイントだと思う。」
「県民がもうここまでやったからいいよね、とあきらめることは決してない。」

▼私がいま基地問題で本土で進めようと考えている方向は玉城知事の考えとぴったり合っている。
2019.12.14朝日新聞夕刊

▼左の記事から。
「普天間は今すぐ撤去してほしい。でも、だから辺野古を埋め立てるというのはやっぱりおかしい」
辺野古では民主主義が土砂と一緒に埋められている
「タコやウニなどがとれた海域が今、茶色い土砂で埋まっていく。体の一部がなくなった感じ」
▼この声が日本政府に届かない。(2020.1.20)
2019.12.19朝日新聞
三浦まりさん政治学者 「憲法9条や安全保障にかかわる各種世論調査をみると、女性には強い平和志向が読み取れます。国会議員に占める女性の 割合は衆議院で1割。参議院で2割。世界191カ国中163位」(2020.5.31)

2020.1.26朝日新聞
▼上記記事。「全国紙に沖縄の声を発信する」これが私の新春の抱負である。 基地問題をめぐる生の声を、沖縄から発信していきたい。
▼沖縄の声が本土へ届かないもどかしさ、苛立ち、そして差別すら感じておられる。 投書の主は沖縄県の70歳の知念さん。本土の人間として応える責任がある。(2020.2.4)
2020.1.26朝日新聞朝刊

▼左の記事を説明します。ブルーは「横田空域」と言うそうです。
「南は伊豆半島から北は新潟県まで1都9県にわたる空域。 日米地位協定第6条を根拠に、日米合意の下で米軍に管制を委任。
日本の民間航空機は米軍の許可なしに侵入できない。」
このように解説されています。
                詳しく記事から拾います。
「首都圏の上空を覆う巨大な空域は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が管制を把握。今も日米地位協定を根拠に日米合意で米軍が管制を握り、日本の民間機は米軍の許可なしに進入できない。」
「最高高度7000メートルの横田空域が壁となり、羽田空港を発着する民間機の飛行ルートは急上昇や旋回を強いられる。」
「米軍ヘリは日本の航空法に違反する低空飛行で飛来する。いまだ占領状態が続いていると実感する。」
「23日、那覇市で「日米地位協定改定への始動」と題する勉強会があった。全国の地方議員ら約60人を前に沖縄県の謝花喜一郎副知事は地位協定について 政府に抜本的見直しを要請してきたが一顧だにしない。どう解決するか、日本全国民の問題として捉えていただかないといけないと訴えた。」
「日米両政府が改定に踏み出す機運はない。防衛省幹部は、協定改定に踏み込めば、日本の要求をのむどころか、米軍にさらに厳しい条件を突きつけられ 『パンドラの箱』になる。日米首脳の政治的リーダーシップがないと無理、と語る。」
▼問題の所在は明白。日米首脳が動くこと。そのための運動を作り上げること。(2020.2.3)
2020.11.15朝日朝刊

▼恥ずかしながら「沖縄意見広告運動」の存在を知りませんでした。昨日、 運動のHPがあることを新聞で読み、開いてみました。(2020.11.19)
「沖縄意見広告運動」とは?
沖縄の痛みを、全ての人びとの痛みとして、みんなで受けとめよう!
「普天間即時閉鎖、辺野古(海・陸)やめろ、海兵隊いらない」
このような想いのもと、沖縄意見広告運動は2010年3月に発起されました。国内外の新聞各社への意見広告掲載を中心に様々な活動を行なっています。 意見広告には、公表可能な賛同者の方々のお名前を掲載しています。
第1期〜第8期までの意見広告
第一期意見広告
▼できればこれまで私が考えてきた「沖縄の米軍基地を本土が応分の負担をすることを求める陳情(案)」を意見広告の中に織り込んでもらえないかを打診したいとおもいます。(2020.11.19)

2020.1.17朝日新聞朝刊

▼左の記事から。上原正三さんは1937年沖縄生まれ。1月2日82歳で亡くなられる。
「自分はずっと『琉球人』だと思って生きてきました。」と上原さん。
加藤勇介さんが語る思い出。
一緒に沖縄ロケをした時に、沖縄人としての上原さんに初めて触れた。 私が広大なサトウキビ畑に感動していたら、上原さんは「沖縄は 元々は漁業と貿易の島で、サトウキビは島津藩から強制された産業だ」と言う。だから「ざわわ…」と歌う「さとうきび畑」の歌はあまり好きでなく 「本当の沖縄でないサトウキビが平和の象徴なんて、二重に悲しい話です」とも。

Wikipedia上原昭三
『ウルトラセブン』の未発表脚本「300年の復讐」は虐げられた沖縄の人間の視点で描いた内容であり、 薩摩藩の琉球侵攻をヒントに作られたした作品であったため、後のインタビューで「ぜひとも実現したかった」と述壊している。 上原は「薩摩侵攻で琉球が占拠されたその時の強引さが今も続く。この時に処刑された謝名親方が僕の先祖で、今でもいつも僕の心の中に謝名がいる」 とも話している[3]。
謝名親方クリックしてください。 「謝名鄭迥のような英雄の記憶が沖縄住民にとって現代の基地闘争に生きる」と2019.7.19に書いています。 今日上原正三さんと謝名親方が繋がってよろこんでいます。(2020.2.5)
朝日朝刊2020.11.8

▼寄稿 作家・真藤順丈(しんどう じゅんじょう)さん
「故郷のただなかに異国があるということ。あるいはそこに自分の生きた証が囚われてもいるということ。……大城さんの作品群は、ひとつの島が 背負った現実を尊いまでに結晶化させていた。」

いずれ大城さん、真藤さんのの作品を読みたい、とおもいました。(2020.11.13)

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