マイノリティーの声(VOM)


トップページ 国連基準 BURAKU 在日コリアン アイヌ民族 沖   縄
アイヌ 民 族・地球環境28200
アイヌ民族史年表(ユポさん年表ベースに) 3040〜15119 アイヌモシリ回復訴訟の準備ノート 19034御料牧場と強制移住 17551 シマフクロウ 24191市民会議 22500ウポポイ 16955海外の先住民族
日本史で記憶すべき出来事
1910年大韓帝国純宗皇帝の勅諭
「太平洋戦争」 「ポツダム宣言」
「降伏文書」
ユーチューブ
世界の先住民族 アイヌ 国連広報センター 阿部ユポさん5:10
二風谷アイヌ文化博物館など 二風谷の紹介5:13
現代世界をどう捉えるか(9本の動画)
1.あるダムの履歴書:二風谷ダム(1)〜(9)88:48
2.萱野茂さん心の旅(1)〜(3)44:02
3.「アイヌとして生きる」川村兼一さん 出原昌志さん61:41
4.「先住民族サミット」アイヌモシリ2008 結城幸司さん3:50
5.「TOKYOアイヌ」7:21
6.アイヌのイベントに坂本龍一さんを4:48
7.伝統の歌に願いをのせて ウポポ14:41
8.アイヌの言葉で歌いたい 熊谷たみ子さん5:04
9.ポロトコタンの歌姫 本間詩穂さん5:22
アイヌ少女 知里幸恵の闘い(ビデオ)42:30
アイヌの若者たち 結城陸さん 結城幸司さん 結城庄司さん7:48
ハンター門別徳司(あつし)さん3:14
ハルコロ宇佐照代さん1:10
Kinko Itoさんのインタビュー  Have You Heard About The Ainu? Elders of Japan's Indigenous People Speak 1:18:06
アイヌの誇り 北原次郎太さん アイヌ民族の歴史・井上勝生さん25:08
アイヌプリ アイヌの心をつなぐ 秋辺日出男さん  貝澤徹さん 30:00
カムイと共に〜白糠のアイヌ文化〜漁師 磯部雄次さん28:05
踊り(リムセ ホリッパ) 阿寒地方・平取地方 1:00:15


















訴訟関係
二風谷ダム訴訟 505〜2180 木村二三夫さん(一通の嘆願書) /19872 一通の嘆願書 原告と訴訟物 「国有林すべてアイヌ民族に返せ」17039/
アイヌ民族の歴史
 野村義一理事長 1992年12月10日国連演説
 阿部ユポ副理事長 2017年6月IMADR総会
 記念講演373
 二風谷ダム訴訟 505〜1840
 アイヌ わが人生 908
 アイヌの碑(いしぶみ) 1250
 葉月浩林さん 釧路湿原 1022
 漁業権回復の道 1904
 田中宏弁護士 マグナカルタ 2219
アイヌ民族史年表(ユポさん作成の年表をベースに)
 3078〜15119

 今につながる運動の開始 1960年
 縄文文化 3143
 オホーツク文化 3223
 東北エミシ 3571
 @ コシャマインの戦い〜「夷狄商舶往還の法度」の100年間
 3943
  熊本藩の密偵4925
 千島列島4153
 A シャクシャインの戦い 4608  こんぶロード 4885
 三井越後屋 5331
 場所請負制 4148
 B クナシリ・メナシの戦い  6091
 ●フランス革命 近代 6223
 勝海舟 江戸城無血開城 6850
 明治2年8月15日アイヌモシリ消滅 6869
 和人地以外はアイヌモシリ 7612
 榎森先生講演「歴史に見るアイヌ先住権」7612
 入北記7808
 ●「アイヌはアイヌモシリ」 179市町村、ロシアに確認。7267
 ●土地の収奪(明治5年) 小西和(こにし かのう)8020
 ●俵孫一北海道長官の答弁 8418
 準備ノート 土地 1−@ (和人地)『入北記』
 準備ノート4 鹿猟
 海面官有宣言 明治8年12月19日  8689 
 あいぬ物語@明治8年12月 8730
 あいぬ物語A明治19年コレラ天然痘 9895
 10万坪の面積 9938
 あいぬ物語B明治26年帰郷 10456
 150万坪の面積 10714
 あいぬ物語C明治42年冨内村小学校11091
 あいぬ物語D大正2年南樺太地図11232
 ●海の収奪  漁業権回復の道(方法)9414
 ●静狩定置漁業権 9847
 カムイチェプ「鮭川漁禁制」9096 
 海と川の漁業回復に向けた基礎資料 10086 
 片山論文と石狩場所の人口 10086 
 「井上研究ノート」10456
 準備ノート2 鮭漁8954
 明治32年(1899)「保護法」下付地の実態(山田論文)10818
 近文給与地問題 6555
 痛みのペンリウクさん 9670
 対華21カ条の要求 10699
 アイヌ民族の戸口 10205
 アイヌ民族甦生援護ニ関スル歎願 小川佐助さん 12417
 新札幌市史:民族としての復権をめざして12832
 1984年(S59)5月27日  北海道ウタリ協会、総会で
 「アイヌ民族に関する法律(案)」を決議 12417

 アイヌ民族自立化基金 6884
 ●UNDRIPまでの道のり 12062 
 ●1994年萱野茂国会質問 12744 
 1997年二風谷ダム判決 「アイヌ文化振興法」7662
 イオル計画  2005年7月開始(帯広市、釧路市、旭川市、
  平取町、札幌市、新ひだか町、白老)13808

 ●旭川市 14028素晴らしイオル計画
 ●平取町14476 不動産鑑定士
  北海道・民有地に対するの地代の考え方 吉原秀喜さん

 ●二風谷保育所・アイヌ語塾15762
 ●15兆円の訴訟物14894
 ●訴訟物と印紙代14625 釧路湿原をアイヌの国に
 門別徳司さん 八谷麻衣さん  14460 
 2008年5月14日  国連人権理事会の勧告 8318 
 2008年6月6日   ユポさんの講演  8545
 先住民族権利宣言を受けて2008年の動き 10700
 2008年9月17日有識者懇談会加藤忠理事長発言 17248
 2009年7月29日「アイヌ政策の在り方に関する有識者懇談会」の
  報告書並びにその批判的考察(吉田論文)17741

 常本照樹「アイヌ民族と「日本型」先住民族政策」11077
 奴隷補償・植民地補償・北海道の地代 11516
 ●小西和(こにし かなう)15656
 ユポさんの年表は2014年のここまで 17579
裁判準備ノート
アイヌモシリ回復訴訟の準備ノート21033 
 吉田論文 
 再度吉田論文を読む 12700
御料牧場と強制移住 16751 
  準備ノート 強制移住 3ー@   16751 
  「瀧澤論文」15593
  山本融定 『新冠御料牧場史』14767
  入殖詮衡委員会 15583
  土地問題 「鈴江英一論文」 15359
  王子製紙 16854
  近文給与地問題
  準備ノート 強制移住 3ーA  15890
  平山『地図でみる』強制移住 17244
  強制移住 「小川正人論文」18024
  裁判で回復させる先住権 18021
  人口推移 25525
  訴訟物18259
  アメリカ合衆国独立宣言17159
シマフクロウ 24191  2021.1.11弁護団
  原告と訴訟物 24002
  「国有林すべてアイヌ民族に返せ」24002
  北大演習林 24226
  常本見解の整理 25059
  有識者懇談会報告書 25393
  「民族の集団的権利」 25651
  準備ノート 土地 1ーA 23749
  本気の謝罪23440
  ●「BURAKU」ハンセン病に飛ぶ
  ハンセン病謝罪裁判23543
  ●訴訟物と貼用印紙額 23849 大きな転換
  立法不作為23629
  野村義一さん 貝澤正さん19557  萱野茂さん
  木村二三夫さん(陳述 遺骨の問題も)26323 
  準備ノート 強制移住 3ーB 24119
  元神部川1 元神部川2  元神部川3
  強制移住の原告適格者
  ●先住民族権利宣言を考える 22960
  ●UNDRIPの国際法上の効力 23400
  ●近代の準備 ジョン・ロック『市民政府論』 25105
  わが友阿部ユポさん20783
  「はじめての先住権裁判」25074
  市川守弘『アイヌの法的地位』
  ラポロアイヌネイション・シンポジウム 25329
  北大キャンパス内のアイヌのコタン  28397
新しいアイヌモシリの創造 25329










































市民会議 22500
宇梶静江さん  25820
田澤守さん(樺太アイヌ協会)  24583 /
川村兼一さん /21968
木村二三夫さん /22099
準備ノート3 強制移住 一通の嘆願書 /25986
萱野志朗さん /28833
畠山敏さん /26816 クジラ 冊子「カムイチェプ」22936
井上勝生さん 28542/有識者懇談会「報告書」批判
吉田邦彦さん 15455/
貝澤耕一さん 九州芸術工科大学講演 23854/
石井ポンペさん /15980
秋辺得平さん(長老) /27908
アトイさん(縄文思想) /29243
CDレクイエム /29395
砂澤ビッキーさん(彫刻家) /28652
門別徳司さん(狩人)八谷麻衣さん /14125
日テレ差別 27351
杉田水脈問題 28821
竹田恒泰敗訴 27323
多原良子さん /26035 巡回展「先住民族アイヌは、いま」
市民会議中間リポート /
話者の絶えた樺太アイヌ語 14150 /
竹田恒泰と茂木誠のYouTube /














































環境問題(やはり環境問題を取り上げます。)(2020.12.1)
斎藤幸平『人新世の「資本論」』 へ飛んでください。(2022.10.5)



















1992年12月10日国連総会「世界の先住民の国際年」記念演説
                          北海道ウタリ協会 理事長 野村義一(当時)
アイヌ民族の権利の実現に向けて
                      
各国の政府代表部の皆さん、そして、兄弟姉妹である先住民族の代表の皆さんにアイヌ民族を代表して、 心からご挨拶を申し上げます。また、ここに招待してくださったブトロス=ブトロス=ガリ国連事務総長、 そしてアントワーヌ=ブランカ国連人権担当事務次官に対し心からお礼を述べたいと思います。
本日は国連人権デーですが、1948年に世界人権宣言が採択されて45周年の、人類にとって記念すべき日に当たります。 また、国際先住民年の開幕の日として、私たち先住民族の記憶に深く刻まれる日になることも間違いありません。

これに加えて、本日12月10日が、北海道、千島列島、樺太南部にはるか昔から独自の社会と文化を形成してきた アイヌ民族の歴史にとっては、特に記念 すべき日となる理由がもう一つ存在します。 すなわち、それは、ほんの6年前の1986年まで、日本政府は私たちの存在そのものを否定し、日本は世界に類例を見ない 「単一民族国家」であることを誇示してきましたが、ここ に、こうして国連によって、私たちの存在がはっきりと認知されたということであります。もし、数年前に、この 様な式典が開かれていたとすれば、私は、アイヌ民族の代表としてこの演説をすることはできなかったことでしょ う。私たちアイヌ民族は、日本政府の目には決して存在してはならない民族だったのです。 しかし、ご心配には及びません。私は決して幽霊ではありません。皆さんの前にしっかりと立っております。

19世紀の後半に、「北海道開拓」と呼ばれる大規模開発事業により、アイヌ民族は、一方的に土地を奪われ、強 制的に日本国民とされました。日本政府とロシア政府の国境画定により、私たちの伝統的な領土は分割され、多く の同胞が強制移住を経験しました。

また、日本政府は当初から強力な同化政策を押しつけてきました。こうした同化政策によって、アイヌ民族は、 アイヌ語の使用を禁止され、伝統文化を否定され、経済生活を破壊されて、抑圧と収奪の対象となり、また、深刻 な差別を経験してきました。川で魚を捕れば「密漁」とされ、山で木を切れば「盗伐」とされるなどして、私たちは 先祖伝来の土地で民族として伝統的な生活を続けていくことができなくなったのです。

これは、どこの地でも先住民族が共通に味わわされたことであります。第二次世界大戦が終わると、日本は民主 国家に生まれ変わりましたが、同化主義政策はそのまま継続され、ひどい差別や経済格差は依然として残ってい ます。私たちアイヌ民族は、1988年以来、民族の尊厳と民族の権利を最低限保障する法律の制定を政府に求め ていますが、私たちの権利を先住民族の権利と考えてこなかった日本では、極めて不幸なことに、私たちのこうし た状況についてさえ政府は積極的に検討しようとしないのです。

しかし、私が今日ここに来たのは、過去のことを長々と言い募るためではありません。アイヌ民族は、先住民の 国際年の精神にのっとり、日本政府および加盟各国に対し、先住民族との間に「新しいパートナーシップ」を結ぶ よう求めます。私たちは、現存する不法な状態を、我々先住民族の伝統社会のもっとも大切な価値である、協力と 話し合いによって解決することを求めたいと思います。私たちは、これからの日本における強力なパートナーと して、日本政府を私たちとの話し合いのテーブルにお招きしたいのです。

これは、決して日本国内の問題にだけ向けられたものではありません。海外においても、日本企業の活動や日本 政府の対外援助が各地の先住民族の生活に深刻な影響を及ぼしています。これは、日本国内における先住民族に 対する彼等の無関心と無関係ではありません。 新しいパートナーシップを経験することを通して、日本政府が、 アイヌ民族に対するだけでなくすべての先住民族に対して責任を持たねばならないことを認識されるものと、私 たちは確信を抱いております。

日本のような同化主義の強い産業社会に暮らす先住民族として、アイヌ民族は、さまざまな民族根絶政策(エス ノサイド)に対して、国連が先住民族の権利を保障する国際基準を早急に設定するよう要請いたします。また、先 住民族の権利を考慮する伝統が弱いアジア地域の先住民族として、アイヌ民族は、国連が先住民族の権利状況を 監視する国際機関を一日も早く確立し、その運営のために各国が積極的な財政措置を講じるよう要請いたします。

アイヌ民族は、今日国連で議論されているあらゆる先住民族の権利を、話し合いを通して日本政府に要求するつ もりでおります。これには、「民族自決権」の要求が含まれています。

しかしながら、私たち先住民族が行おうとする「民族自決権」の要求は、国家が懸念する「国民的統一」と「領土の保全」 を脅かすものでは決してありません。 私たちの要求する高度な自治は、私たちの伝統社会が培ってきた「自然との共存および話し合いによる平和」を基 本原則とするものであります。これは、既存の国家と同じものを作ってこれに対決しようとするものではなく、私 たち独自の価値によって、民族の尊厳に満ちた社会を維持・発展させ、諸民族の共存を実現しようとするもので あります。

アイヌ語で大地のことを「ウレシパモシリ」と呼ぶことがあります。これは、「万物が互いに互いを育て あう大地」という意味です。冷戦が終わり、新しい国際秩序が模索されている時代に、先住民族と非先住民族の間 の「新しいパートナーシップ」は、時代の要請に応え、国際社会に大いに貢献することでしょう。この人類の希望 に満ちた未来をより一層豊かにすることこそ私たち先住民族の願いであることを申し上げて、私の演説を終わり たいと思います。
イヤイライケレ。ありがとうございました。
▼野村義一さんのこの国連演説にアイヌ民族の進むべき道がはっきりと指し示されています。「高度な自治と諸民族の共存」。
先に在日コリアンの勉強をしましたが、そこでの最終目標は「エスニシティ(民族性)の複合と重層を許容する」 日本社会でした。アイヌ民族の問題も結局は同じところに行きつくのだな、と感じました。
「海外においても、日本企業の活動や日本 政府の対外援助が各地の先住民族の生活に深刻な影響を及ぼしています。これは、日本国内における先住民族に 対する彼等の無関心と無関係ではありません。」この指摘もこころしなければなりません。
▼今日改めて野村さんの国連演説を読み返しました。この演説の理念、思想で アイヌモシリ回復の裁判を進めていくべきだとおもいました。それと 「1988年以来、民族の尊厳と民族の権利を最低限保障する法律の制定を政府に求め ています」との運動が大事だとおもいます。 (2020.4.2)
▼野村さん(1914年10月20日 - 2008年12月28日)の生きておられる時まで実現したことを出発点に考えたいとおもいます。(2020.6.3)
▲野村理事長の国連演説の経緯が語られています。読んで下さい。(2024.4.25)
下記論文アプローチの仕方。
論文のタイトルをコピーしてインターネットで検索。関法 第70巻 第5号が見つかります。 あらためて一読してみるとすごい内容です。精読すること。とりあえず目次だけ掲載。(2024.12.11)
関法 第70巻 第5号
グローバル化を手がかりとした アイヌ政策推進にむけた 国内外での活動と成果(T)
――中曽根・単一民族国家発言と1987年の国連先住民作業部会 での北海道ウタリ協会の活動(1)―― 角 田 猛 之
目 次
は じ め に
T 中曽根康弘の単一民族国家発言とウタリ協会による抗議――国連人権委員会への調査・審 議の要請 T-1 中曽根のアメリカ・知的水準発言と日本・単一民族国家発言 T-2 単一民族国家発言へのウタリ協会の抗議と国連人権委員会への調査・審議の要請 T-2-1 単一民族国家発言へのウタリ協会の抗議 T-2-2 単一民族国家発言に対するウタリ協会による国連人権委員会への調査・審議の要請 T-2-2-1 ウタリ協会会員に対する要請についてのアピール T-2-2-2 国連へのアイヌ民族としてのはじめての公式要請書 U ウタリ協会代表の国連先住民作業部会への参加と声明 U-1 ウタリ協会代表の国連先住民作業部会への参加 U-1-1 『先駆者の集い』での参加予告記事の掲載 U-1-2 国連先住民作業部会とウタリ協会 U-1-3 ウタリ協会の国連活動に対する市民外交センターによるサポート (以上、第70巻5号)
関法 第70巻 第6号
U-2 ウタリ協会理事長・野村義一による第?会期声明(以下、本号) U-2-1 声明に先だつ野村理事長のメッセージ U-2-2 声明の全文、主要添付資料の検討 U-2-2-1 中世、近世から明治に至る収奪、抑圧と差別の歴史 U-2-2-2 北海道旧土人保護法の差別性と違憲性 U-2-2-3 日本政府のアイヌ民族に対する基本的な認識と「内なる国際化」の必要性 U-2-2-3-1 自由権規約第27条に関する日本政府の第?回報告書批判――資料5 U-2-2-3-2 単一民族国家論にかかわる国会での質問と中曽根首相答弁――資料6・7 U-2-2-3-2-1 衆議院議員・五十嵐広三の少数民族に関する質問主意書――資料6 U-2-2-3-2-2 五十嵐広三議員の質問に対する中曽根首相の答弁――資料7 U-2-2-3-3 単一民族国家論と資料6、7の検討 U-2-2-4 総 括 U-2-3 ウタリ協会の「先住民に関する国連作業部会に対する声明」に関する日本日本政 府の声明 U-2-3-1 「日本政府代表部中村参事官による声明 国連先住民会議」(仮訳)(1987年 8月5日) U-2-3-2 政府見解の問題点とウタリ協会の今後の検討・活動計画 U-2-3-2-1 政府見解の問題点 U-2-3-2-2 ウタリ協会の今後の検討・活動計画
むすびにかえて
「日米先住民族政策の比較」手島武雅
1997年(H9)
●「二風谷ダム判決」(3月27日)土地強制収容は違法、アイヌ民族を「先住民族」と認定
●「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」 (5月14日成立、7月1日公布)「北海道旧土人保護法」廃止
この法律に対するユポさんの評価。
*「アイヌ文化の振興、アイヌの伝統等に関する知識の普及」を謳った法律が制定されたのは、日本の歴史上初めて/アイヌ民族が自らの伝統的文化を伝承し、 発展させる活動を、誇りを持って積極的に行える状況ができた。
・1984年「アイヌ新法案」骨抜き、6項目の要求のうち、3番目の教育・文化の文化のみの法律/「先住権」なし/アイヌ民族の 社会的、経済的施策なし/北海道限定の法律(アイヌ民族政策のローカル化)(46都府県は何もしない.基本方針・基本計画・予算)
2019年(H31)
●「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」 (略称「アイヌ施策推進法」4月18日成立)
▲この法律に対する私の評価。
「基本理念、差別禁止、国及び地方自治体の責務、国民の努力、内閣総理大臣の責任、アイヌ民族の儀式に必要な 林野、内水面の利用、内閣官房長官をトップとした政策推進本部の設置、5年のちの検討、 附帯決議のなかでの「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の趣旨を踏まえること、我が国のアイヌ政策に係る国連 人権条約監視機関による勧告や、諸外国における先住民族政策の状況にも留意し、アイヌの人々に関する 施策の更なる検討に努めることの確認」
といった肯定的な内容も織り込まれています。
これらを活用しながら今後、先住権(土地・資源・自治)を中心1984年の「アイヌ新法案」の内容を実現していくよう アイヌモシリ回復訴訟を含め運動を進めていくことだとおもいます。
この法律に対するユポさんの評価を伺うこと。
アイヌモシリ回復訴訟の内容をまとめること。(2020.6.4)
        トップへ戻る@

アイヌ民族の権利の実現に向けて
                         阿部 ユポ(あべ ゆぽ)北海道アイヌ協会副理事長

明治時代、日本は国策として海外移住を進めたが、移住先での過酷な労働や土地取得の難しさから海外移住をやめ、 今度は北海道に行けと言った。被差別部落の人たちにも北海道に移住しろと言った。これは北海道新聞の「北海道開道100年」に書いてある。

150年前、それまで蝦夷地と呼んでいた私たちの土地を江戸末期に北海道、樺太、千島を探検したことで知られる 松浦武四郎の意見書を参考にして明治政府により北海道と呼びかえられた。

その時まで函館、松前、江差にしか日本人はいなかったが、日本の25%もある広大な土地をアイヌから一方的に取りあげた。そこは、蝦夷地でもなければ、北海道でもない、 アイヌの土地=アイヌモシリだ。人が住む静かな大地という意味である。それをどうして、アイヌ民族に一言の相談もなしに奪い取れるのか。

生家跡のユポさん (2021.11.24)
そしてアイヌ言葉を禁止し、宗教も文化も、何万年も営んできた生業である狩猟、漁労、採集をすべて禁止しただけでなく、 アイヌに和人の姓名を名乗るように強制した。いわゆる「創氏改名」である。 そして、1871(明治4)年から1873(明治6)年にかけて戸籍法を制定して、アイヌ民族を強制的に日本国民にした。

1997年に人種差別撤廃委員会から出された「先住民の権利に関する一般的勧告23」の項目5には 「そこにいた先住民族の同意なしに奪った土地、領土、資源は返しなさい」といった内容が書かれている。
1997年の二風谷ダム裁判でもアイヌ民族を先住民族と認めた。しかし日本政府は判決を20年間も無視している。

自分たちのことは自分たちで決めるという権利を宣言にしたのが、「先住民族の権利に関する国連宣言」(2007年9月)であり、 日本政府も採択に賛成した。

菅官房長官がオリンピックまでにアイヌに関する法律を作る、世界に恥ずかしくない法律をつくると約束した。 もし約束が破られたら抗議しなくてはならない。これからも先住民族の権利を勝ち取るために活動を続ける。

(上記は2017年6月9日 反差別国際運動(IMADR)第29回総会・記念講演での阿部ユポさんの報告をIMADR事務局にてまとめたものです。)
▼ユポさんについて。「私は 96 年以来、年に2回、 スイスのジュネーブで開かれていた国連の先住民の 権利宣言作業部会や先住民作業部会に参加し 「先住民族の権利宣言」の採択に向けての活動をしてきました」。
▼以上の講演内容は阿部ユポさんご本人とIMADR事務局の許可を得て掲載させていただきました。 文中の「創氏改名」は植民地化した朝鮮半島において明治政府が朝鮮人に強要したものと同じです。
阿部ユポさんのお話の内容をきっちり理解するために私にとって確認が必要である次の項目を詳しく調べました。
(拡大) 2018.3.27さっぽろ自由学校「遊」発行SDGs北海道の地域目標をつくろう。(2021.12.6)
改めて読み返しました。大変よくまとめられています。ユポさんの立ち位置が惜しいです。(2024.12.9)
先住民族基本法の制定 ユポさんの最終目標が簡潔にまとめられています。(拡大)
松浦武四郎について。クリックしてください。松浦武四郎さんの「知床日誌」が読めます。
「(1818-1888)江戸後期・幕末期の北方探検家。伊勢の人。 函館奉行所属として1856年以降幕府の蝦夷地支配に従事。1869年(明治2年)開拓判官となり、道名・国名の選定にあたったが、 開拓使を批判して辞任した。(角川書店「日本史辞典」) 
松浦武四郎は江戸時代後期の北海道、樺太を広く探検し、地理、アイヌ語地名、 アイヌ人口に関する貴重な調査記録を残したのみならず、普遍的で客観的な視点を持ち、アイヌの人々からの信頼をも得ていた人物であった。 後に、この松浦武四郎の日誌および地理取調図を中心に近世における沙流川流域アイヌに関する文化人類学的、歴史生態学的分析が行われた。」

▲山川力『政治とアイヌ民族』204p 「かつて蝦夷地といわれたこの北の島がいまはもはや日本の 植民地即領土なのだ、とうい現状認識であり、かれの「土人」への同情も、 ……弱者のたちばにたいするいっぺんのあわれみとみたい。」はじめての武四郎批判。(2022.12.9)
▼函館、松前、江差の位置の確認
いづれも渡島(おしま)半島の津軽海峡・日本海に面した沿岸。こんな初歩的なことも確認しておきたかった。 (平凡社「日本大地図帳」)
▼日本の25%もある広大な土地
日本全体の面積は37万7千平方キロ。北海道は8万3千平方キロ。従って北海道は日本全体の22%。日本全体は記憶に残っていたが北海道を確認したのははじめて。
▼人種差別撤廃委員会は人種差別撤廃条約 の第9条に規定されている委員会 のことです。
▼「先住民の権利に関する一般的勧告23」の項目 5 については 「先住民の権利に関する一般的勧告23」 を見てください。
▼今日コメントを追加します。「菅官房長官がオリンピックまでにアイヌに関する法律を作る」との約束は2019.4.19成立のアイヌ新法で果たされた、ということでしょう。 (2020.4.2)
                 

▼次に二風谷ダム裁判にいきます。たまたま判決文に出会いました。読むとアイヌ問題の本質が詰まっています。原告は萱野茂 (かやのしげる)さん(アイヌ文化研究者・アイヌ初の日本の国会議員・1994年から1998年まで参議院議員)と貝澤正さん (元北海道ウタリ協会副理事長)です。 
▼1997年の二風谷ダム裁判 とは
▼日本政府も採択に賛成した 先住民族権利宣言の全文

                               トップへ戻る
二風谷ダム訴訟(概要)
平取(びらとり)町の二風谷ダム建設を巡り、地権者である故萱野茂さんと貝沢耕一さん(父 正さんが亡くなられたあと耕一さんが原告に)が北海道収用委員会に、 土地強制収用の裁決取り消しを求めた行政訴訟。札幌地裁は1997年(平成9年)3月27日の判決で、 アイヌ民族を司法の場で初めて先住民族と認定。ダム建設がアイヌ文化に与える影響について調査を怠り、 アイヌ民族の文化享有権を軽視したと指摘し、国の事業認定と道収用委裁決をいずれも違法とした。 ダム本体が完成していたことを考慮し、請求は棄却した。

▼裁判の場において原告である萱野茂さんと貝沢耕一さんが 「アイヌの声」をどのように届けられたのかを知るのにこれ以上の資料はないとおもいます。 このホームページを読んでくださる方もアイヌの人たちの心情を是非ご自分のものにして 日本社会全体のものにしていただきたいとおもいます。
彫刻家・ 知足院(ともたり)美加子さんのHP を開いてみてください。知足院さんのこころに触れたあと判決文を読んでいってください。

今日、改めて知足院さんのHPを読んでみました。20年前に書かれたものです。 私もほぼ2年、「マイノリティーの声」に没頭しています。お気持ちがよくわかります。(2020.6.17)


二風谷石彫設置プロジェクト
アイヌ民族とニ風谷ダム問題         九州芸術工科大学 知足院(ともたり)美加子(彫刻家)

北海道の二風谷ダムは、古来からアイヌ民族が生活をしてきた大切な土地に建設されました。 アイヌ民族である貝澤氏、萱野氏は、ダム計画に対して「二風谷ダムを盾として、人間としての権利を求め」訴訟を起こし、 「アイヌ民族の先住性」が認められ「ダムは違憲である」との判決を得たにも関わらず(1997年)ダムは施工されてしまいました。
このダムを契機として作られた作品がニ風谷に設置された経緯を、ニ風谷プロジェクトとして報告します。 彫刻台座に碑文をつけました。
「遠い昔から,この豊かな大地で生活してきた先住民族アイヌの人々。 その事実をだれが変えられるだろうか。貝澤耕一氏(父,正氏)と共に,受け継ぐ文化の大切さを訴えた人々にこの像を捧げる」


公共事業の方向性を変えることがこれほど困難なのはなぜなのか、近代の中で構造としての差別が残っていくのはなぜなのか、 また、メディアで流れてくる情報内容と当事者の実感がこれほどかけ離れていくようになったのはなぜなのか、 私たち日本人が「考えること」を後回しにしてきたものの重みを感じ、問い直したいのです。
問いかける力、新たな認識の呼び水になる力が「芸術」に残存していることを期待します。


朝日刊2021.9.17(拡大) 被災地の木で彫刻をつくる

▲ 知足さんが朝日新聞「ひと」の欄に登場されました。二風谷の1999年の制作から22年経過しています。 記事によるとあゆみは少しも変わっておられません。「記憶のみちしるべ」として中越地震、東日本大震災、 九州北部豪雨にもこころを寄せてこられたようです。敬服。(2021.10.3)


                                             トップへ戻る
国際人権法と二風谷ダム裁判 大阪弁護士会・専門委員会での田中宏弁護士の講演記録(2005.1.22)
二風谷ダムをめぐる二つの裁判  「札幌行政訴訟フォーラム」での田中宏弁護士講演記録(2013.9.7)
▲貴重です。収用委員会での陳述と裁判での争点の違いが判明しました。(2021.11.5)
二風谷ダム裁判判決文
札幌地方裁判所民事第三部
                 裁判長裁判官 一宮 和夫
                      裁判官 堀内  明
                      裁判官 小原 一人
(三)本件事業計画の実施により失われる利益ないし価値
(1)二風谷地域の住民の民族性
原告らはアイヌ民族であり、アイヌ 民族が「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(以下これ を「B規約」という。)二七条 にいう少数民族であること及び
  二風谷ダム概要 山川力「いま、アイヌ新法を考える」178p
(拡大)
▲猪熊議員の質問は具体的で良い。(2023.3.6)
総貯水量3,150万立法b
一つの想定:深さ30b、幅500b、長さ2,100b

水没面積586ha、
内民有地199ha。
土地所有者153名、
うちアイヌ85人。
   定置漁業権 山川力「いま、アイヌ新法を考える」181p
(拡大)
▲定置漁業権 沖合8キロ(2023.3.6)
二風谷地域にアイヌの人々が居住し、独自の文化を有してい ることは争いがないところ、証拠(証人田中、原告貝澤)に よれば、平成五年四月当時、二風谷地域の人口約五〇〇人の 八割に当たる約四〇〇人がアイヌ民族であること、平成七年 一二月一四日当時、
貝澤耕一さん撮影(拡大)
同地域の人口は五〇〇人弱であり、そ の七割以上がアイヌ民族であることが認められ、この事実と 弁論の全趣旨によれば、本件事業認定時において、本件収用 対象地を含む二風谷地域の人口の多くを占める住民がアイヌ 民族であり、アイヌ民族が多く居住している北海道内の他の 地域と比較しても、その割合は極めて高いものであることが 認められる。

ところが、証拠(乙ロ一八)によれば、本件事 業計画が実施されることにより、本件収用対象地を含む二風 谷地域が広範にわたりダムにより水没し(水没面積は全体で 約五三〇へクタールであり、その予定範囲は、別紙「二風谷 ダム貯水池平面図」のとおりである。)、また住宅等五〇戸が 支障物件になることが認められ、この事実と弁論の全趣旨を 総合すると、本件事業の実施がこの二風谷地域に暮らすアイ ヌ民族に離散をもたらせたり、そうでなくてもその生活やそ の文化に大きな影響を及ぼすであろうことは容易に推認する ことができる。
▼二風谷ダム 全景 (現地案内板 拡大可)2018.7.18撮影
貝澤耕一さん撮影(拡大)
二風谷ダム貯水池平面図 記録91頁 2024.12.9(拡大)

530ヘクタールとはどのくらいの広さか?
1,000m×1,000m=100ha 仮に1キロの幅だとするとが5キロの長さで500haになる。5平方qです。 広大さがすこしイメージできます。今日(2019.11.1)もう一度振り返りました。530ヘクタールを。ヘクタールより平方qの方が考えやすいです。 5.3平方qは 1q×5.3q 0.5q×10.6qが考えられます。 上流まで行っていないので確実なことは言えませんが 現地のイメージからすると0.5q×10.6qでしょうか。 


▼以下は1996年設立日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌 のHPから引用させていただきました。
沙流川(さるがわ)のもとの名前はシ・シリムカ(シ=本当に シリ=辺り ム=詰る カ=させる)だそうです。 そのわけは次の萱野さんの説明で納得です。
(萱野茂「沙流川沿いの地名」より)。


「分かりやすくいうと、大雨が降り水かさが増すと、上流から大量の土砂が流れてきて、 河口が鵡川のほうへ寄ったかと思えば、次の雨では門別の方へ移るという具合であったのです。それで、本当に河口がふさがる川と、 アイヌたちは名付けて暮らしていました。

そこへ、あちこちからのアイヌ語の地名を日本語に付け代えて歩いていた役人が来て(略)、 そうか、河口がふさがるということは上流から土砂が流れて来るのだな、それでは沙の流れる川 沙流川とつけよう、 というわけでシシリムカが沙流川と名前が代えられました。
ちなみに、沙流川の右隣の川の古い名前は、ムカ、これも詰るという意味で、 それが武川になり、左隣がモペッ、これは静かな川というのが門別になったのです」。

『アイヌ わが人生』
(拡大) (拡大)
本田勝一『先住民族アイヌの現在』259p (拡大)
収用委員会での貝澤正さんの陳述「アイヌに狩猟権と漁業権を与えるようにしていただきたい」「100年分の補償を」の貝澤正さんの心情は全くそのとおり。 (2021.11.5)
『同書』261p
(拡大)
明治5年「地所規則」でアイヌ民族の土地を取り上げ、 サケ漁も狩猟も禁止、「保護法」の給与地でやっと生活できるとなった矢先にダムで給与地も取り上げる。これが二風谷ダムの背景。 (2021.11.7)
『同書』262p (拡大)(2021.11.7)
▼次の貝澤正さんのご体験は深刻だとおもいました。 (『アイヌ わが人生』貝澤正 84、104頁)より。
「1882年に明治政府はアイヌを狩猟民族から農耕民族にしようと言うことで、 鍬やタネを与えてアイヌに農業を教えました。

沙流川の川筋は沖積土で土地がよく肥えていたので、 農業を始めた頃は、1反(約10アール=1000平方m)の土地にヒエを蒔いておけば、無肥料で1年間食べられるぐらいの収穫があったそうです。 おかげでその頃の二風谷の生活は裕福で、自給する食糧も豊富になり、大豆もよくできて、 それを馬の背に乗せて門別の浜まで持っていって金に換えて、現金収入も十分あったようです。

しかし、木が切り倒され奥地が乱開発されるようになると水害が起こるようになり、 その度に沙流川の流域は一面にわたって水がたまり海のようになりました。 そのような大きな水害が10年に一度は起こるようになり、二風谷のアイヌは貧乏のどん底になってしまったのです。 1910年、苫小牧に王子製紙工場が出来、沙流川上流の松丸太が乱伐された。」
▼王子製紙は今何を考えているのだろうか? 二風谷から門別まで約20キロ。馬で行くのにちょうどいい距離。

(2) アイヌ民族の文化的特色
証拠(甲二〇、四七、証人大塚、原告ら)によれば、アイ ヌ民族は、主に川筋を生活領域とし、コタンと呼ばれる集落 において地縁集団を形成し、狩猟、採集、漁撈を中心とした生活を営み、アイヌ語と呼ばれる独自の言語を用いるものの、 文字を持たず、その文化を口承伝承し、獣や魚などの自然物との関係を重視し、これら自然の恵みを人間に与える神々と 共生するという自然崇拝の価値観を持っていたこと、アイヌ民族は「イオル」と呼ぶ空間領域をひとつの単位として生活 を営んできたが、そこには、家屋があり、またイオルの人々が共同で用いる生産の場や墓地などが設けられていたこと、 イオルには、それ以外に神話的な伝承を持つ山や川などの特 定の場も存在し、アイヌの人々の生活を体系づけてきたこと、 アイヌの人々にとって、イオルはそこで生まれそこで生涯を閉じるという性格のもので、ここに生きる人々は「出自集団」 として結ばれていたこと、したがって、神話的な伝承を持つ山や川などを含むイオルは、単に歴史的遺産に止まらず、民 族的な文化を現代に持続させるための手段となる極めて重要なものであることが認められる。
▼裁判所によるイオルの解説と定義。アイヌ民族の生活と文化の特質を実に簡潔にまとめられている。川筋でのイオルの復活が回復されるべき姿。(2020.4.3)
 次の貝澤美和子さんのイオルの説明。素人にもよくわかります。
                     2006年 9 月5 日(月)18:00〜19:30 札幌会場
                         講師 貝澤 美和子 アイヌ文化活動アドバイザー
                「イオル(IWOR)とアイヌ語地名」
              https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1705.pdf
「イオルというのは、動物を獲ったり山菜を採る場所のことで、いわば、アイヌ民族にとって生活の場のことで す。
「レジリエントな地域社会」 (拡大)貝澤美和子さん
かつてアイヌたちがこの北海道を「アコロモシリ」(私たちの大地)といって暮らしていたころは、この北海道中 がアイヌのイオルでした。
狩猟採集で生活のほとんどを支えていたアイヌたちは、仲間とのコミュニケーションのた めに、とても丁寧に地名をつけました。普段、私たちがよくなじんでいる地名も、その意味を知ってみると、つくづ く先人たちの知恵に驚きと尊敬を感じます。そして、このアイヌ語地名こそが、北海道がアイヌのイオルだったこと の証しでもあります。
(拡大)画像は貝澤耕一さん
(拡大)泉精一氏イオル地図
私たちの沙流川流域も、ほとんどの山や川は、どこそこのコタンのイオルと決められていて、よそのコタンのイオ ルに侵入することはかたく禁じられていました。
図2(右) は、泉靖一氏が古老に聞いて調査したもので、1952年に発表した 「沙流アイヌの地縁集団におけるIWOR」という論文中にあるものを見やすくしたものです。長い間厳し く守られてきたアイヌ間の決まりごとのおかげで、イオルと同時に北海道の大自然も守られてきました。」
▼「イウオロ」 狩りに行くときの自分の持っている場所。行きつけの山ふところ。 (「萱野茂のアイヌ語辞典」より)2018年7月18日二風谷に行ってきました。辞典も萱野茂二風谷アイヌ資料館で購入しました。
▼イオルの画像は貝澤耕一さんからいただきました。こちらの方が視覚的でよくわかります。 原典は泉精一1952年論文「沙流川アイヌの地縁集団におけるiwor」 『民族学研究』16巻3.4号(2021.10.29)

ハオリン(浩林:中国語読み)修論:イオルについて
葉月浩林 東京外国語大学 修士課程 2 年 地域文化研究科 日本専攻 5204463
(拡大)
「泉(1952)が調査した iwor という概念には狩猟域としての iwor、つまり一定の集団ないし、ある家族が専有する土地とし ての iwor が存在する。泉は「沙流アイヌの地縁集団における IWOR」は「その川筋の住民に専有せられ、他の川筋の住民の無 断侵入は許されない」場所である「領域としての iwor」と「各 kotan によって規制された区域」である「生活の場としての iwor」との二つの概念を提示している(奥田 1998:245)。しかし、アイヌ文化振興法のイオルでは「伝統的生活の場」となっ ているが、概念としては文化的な要素のみが組み込まれ、本来あったはずである生業の領域としての概念が外されている ともいえる。」(3p)
「 何度も先住権について述べたが、さいごに先住権とはどのような権利であるか、スチュアート(2002b)による定義をのせ て、この段落をしめくくる。 『先住権は、国民一般の権利(公民権)に加えて、先住民のみが享受する権利であり、先住民が狩猟や漁労などの生業活動 や民族法に基づく自治などの伝統的活動を行なう権利のことである。一方、権原はある行為や動産・不動産の占有を正当化 する法的根拠であり、先住権の場合には、植民地化と国民国家樹立以前から地域に居住し自立的な社会を営んできたとい う先住性(植民地化以前から住んできたこと)に基づいて判断される先住権の法的根拠のことである』」(10p)
「2003 年の秋に、私は阿寒に行った。そこで、私はアイヌのエカシ、山本文利氏と行動を共にし、つれづれに色々なお話を 聞く機会に恵まれたのである。山本氏ご本人は民族復興運動などには参加していないのが、アイヌの古老を独自に訪ね歩 きお話しを聞き、民具などを受け継いだ。山本氏の生活そのものがアイヌ様式であるのだが、山本氏はアイヌ文化振興運動 をしていた故山本多助氏の次男でもある。」(29p)
      釧路湿原 写真:宮島岬
公園面積28,788ha
国有地15,338ha
公有地3,458ha
私有地9,992ha(拡大)
将来、アイヌ会館をこの広大な釧路湿原に建てられれば、と夢みています。カナダ、アメリカ合衆国の先住民はすばらしい 環境で自治政府活動を展開しています。(2024.12.9)
「ここで全ては述べられないのだが、アイヌの人々が、自分らしくのびのびと空気を吸って生きていくには、この日本とい う国はあまりにも窮屈だと思う。
だからこそ、アイヌの人々が求める先住権などについて日本政府はもっと聞く耳を持っ て、話し合いを続けていく義務があると思う。山本氏の口癖は、この広い釧路湿原をアイヌの国にさせてくれたらいいのに なというものだった。
北海道で暮らしていた人々、アイヌの人々の地に和人が入り、土地を奪い、生活手段を奪い、文化を奪った。それは、アイ ヌの人々のアイデンティティーを脅かし、誇りを奪い、心の平安を奪うことであった。心に負った傷は癒えることなく、その 苦しみを抱えている人はたくさんいる。そのような負担をアイヌの人々に背負わせたのが、この日本という国の歴史であ るのだ。」(33p)
1-3.イオル構想に関する年表

1982 国際連合 「先住民に関する作業部会」
1984 北海道ウタリ協会、総会で「アイヌ民族に関する法律(案)」を決議
1987 北海道ウタリ協会、国際連合「先住民に関する作業部会」に参加
1992 国際連合「世界の先住民の国際年」
1993 平取町二風谷にて国際先住民年フォーラム開催
1994 国際連合「世界の先住民の国際 10 年」

1996 ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会報告書(国) 内閣官房長官の私的諮問機関として有識者による懇談会が設置され、今後の新たな施策のひとつとして、伝統的生 活空間(イオル)の再生が提案された。

1997 アイヌ文化振興法制定 アイヌ文化の振興を目的に、「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」 が制定された。
1998 伝統的生活空間の再生に関する基本構想(北海道) アイヌ関係者と有識者による検討委員会が設置され、地元としての基本的な考え方がまとめられた。
2000 「アイヌ文化振興等施策推進会議」を設置(国)
2002 伝統的生活空間の再生構想の具体化に向けて(北海道) 北海道会議を設置し、イオル適地として 7 地域を選定するなど具体的な提案をまとめる。
2003〜2004 イオル再生等アイヌ文化伝承方策基礎調査(アイヌ文化振興財団) イオル再生の適地とされた地域等を対象に伝承活動の特徴や動植物の分布状況等に関する調査が行なわれた。
2004〜 イオル推進委員会(北海道ウタリ協会) イオルの適地とされた 7 地域で委員会を設置し、アイヌ民族の立場からの検討をはじめた。
2005 イオル再生等アイヌ文化伝承方策報告書(国) 学識経験者や伝承実践者による検討委員会を設置し、イオル再生の基本構想の素案となる報告書がまとめられた。(11p)
▼今日、たまたまこの論文に出会う。貝澤輝一さん(萱野茂さんの弟)を探していた時。 アイヌ民族の歴史を知ればだれでもハオリンさん のようにおもう。「2003 年の秋に、私は阿寒に行った。そこで、私はアイヌのエカシ、山本文利氏と行動を共にし、つれづれに色々なお話を 聞く機会に恵まれたのである。山本氏の口癖は、この広い釧路湿原をアイヌの国にさせてくれたらいいのに なというものだった。」やっぱり!(2021.11.5)
▲論文再読。多くを学ぶ。特に二風谷の取り組みについて。ハオリンさん女性の研究者。たぶん現在48歳くらいだと思う。(2022.1024)
▲田中宏先生から送っていただいた「イオル」に関する大塚教授の見解をここにまとめること。 (2022.8.14)
イオル1
裁判記録341p(拡大)
イオル2
裁判記録349p(拡大)
イオル3
裁判記録349p(拡大)
オキクルミ伝説のハヤビラのチャシのあたり? (拡大)










イオル 1
「アイヌはイオルとよぶ空間領域をひとつの単位として生活をいとなんできました。」
「チセが点在。生産の場。死後の世界である墓地。神話的な伝承をもつ山や川などの特定の場もイオル内に存在。」
「イオルはアイヌにとってイオルのなかで生まれ、そこで生涯を閉じる空間領域。」

イオル 2
「アイヌの人たちは一つのイオルを単位として生活を営んでいる。」
「場全体をセットで一つのイオルという領域を村々が設定していたわけです。」

イオル 3
「そこには当然また様々な神話的な装置といいましょうか、伝承を持つ山、川とかいろんなものがありまして」
「沙流川の今のダムの下流のところの大きな橋のすぐそばのハヤビラのチャシにオキクルミという神がいる」
オキクルミ伝説

オキクルミ伝説と義経神社 http://geo.sgu.ac.jp/geo_essay/2016/140.html
「義経神社は、名前からして義経伝説にまつわるもののように思えますが、実は違います。 江戸時代後期(1798年)に、幕臣の近藤重蔵が北方調査をしてこの地を訪れた時、 アイヌたちが祀っていたオキクルミを源義経と混同してしまいました。そして、1799年、仏師に源義経像を作らせ、 アイヌに与えたのが始まりだそうです。 神社は日本式ですが、祀っていたのは、アイヌの神、オキクルミだったのです。」


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(3) 二風谷地域におけるアイヌ文化
『アイヌの碑』萱野茂
15p(拡大)
ニタイ=密林
「裏山が密林。たくさんの鹿が群れをなしている。目に浮かんできます。」
▲やはりそういう二風谷を取り戻す!(2021.11.8)
証拠一中(三の二、四の一・二、七、九、一一、一四、二〇、 二八、二九、四七、乙一二、証人大塚、原告萱野)及び弁論 の全趣旨を総合すれば、次のアないしエの事実が認められる。

ア  二風谷地域の地域性について
二風谷地域を含む沙流川(さるがわ)の周辺にはサルンクルというア イヌ民族の中での有カなグループが生活していたといわれ、 このサルンクルの伝説等から、二風谷地域を含む沙流川流 域がアイヌ民族の聖地と呼ばれることがある。
『アイヌの碑』
萱野茂さん

二風谷地域に住むアイヌの人々にとって、同地域は一つのイオルであ り、自己の民族的アイデンティティを確認できる地域であ る。また本件収用対象地近くの沙流川右岸には、アイヌ語 の地名が二三箇所もつけられており、その理由はアイヌの人々がその一つ一つにカムイ(神)の存在を認め、水を汲 む場所,山菜の採れる場所各々においてカムイと対話して いたからであるといわれている。
墓標3 「44才の母が8才と12才のこどもを養う、22才の倅と16才の娘を連れていかれ57才の爺一人残される。」
▲血も涙もない「場所」の実態。1858年のこと。維新10年前。(2023.11.6)
(拡大)
墓標2 ▲家主(やぬし)、夫婦もおかまいなく22才〜25才の一番働き盛りの家人が「徴用」された。日本の戦中のようだ。 謝罪の対象。加害者(武士)がい筈だ。その子孫もいる筈。(2023.11.6)
(拡大)
墓標1 ▲まさしく「強制徴用」(2023.11.6)
(拡大)











鮭は、アイヌの人々が主 食を意味するシエペと呼び、アイヌ民族にとって重要な食 料であって、その採取方法、調理方法、食事の儀式等、 鮭に関する独特の食文化を数多く有している。また、鮭の皮を用いて衣服や靴を作る等、食物以外においても鮭は生活 の重要な素材である、アイヌ文化の象徴ともいえる魚である。
本田勝一『先住民族アイヌの現在』228頁
(拡大)
収用委員会での萱野茂さんの陳述「アキアジの捕獲権をアイヌに返してほしい」(2021.11.4)
沙流川は、このような鮭や、ウグイ、鱒等の豊富に獲れる川であり、また二風谷地域は、その周辺にアイヌの 人々の食生活を支えたキノコ、シイタケなどの植物が豊かにに生殖し、北海道の中では気候も温暖で雪も少なく、居住 の条件に恵まれていたことなどから、前記のとおり、同地域には多くのアイヌ民族が生活していた。そして、 この二風谷地域は、アイヌ民族の伝統的、精神的、技術的文化を承継する人々を数多く輩出し、豊かな自然とあいまって、 アイヌ民族の伝統文化が保存されてきた地域である。アイヌ民族の長編叙情詩であるユーカラは、二風谷地域を中心 に育まれ、二風谷地域は、ユーカラの優れた伝承者が数多く、言語学者の金田一京助をはじめ国内外から多くの研究 者等がこの地域を訪れるなど、アイヌ文化研究の発祥地ともいわれている。
▼裁判所の事実認定のキーフレーズ
・二風谷地域を含む沙流川(さるがわ)の周辺  ・有カなグループ サルンクル  ・アイヌ民族の聖地
・一つのイオル  ・民族的アイデンティティを確認できる地域  ・沙流川右岸にはアイヌ語の地名が23箇所
・ユーカラは二風谷地域を中心に育まれた  ・多くの研究者等がこの地域を訪れる  ・アイヌ文化研究の発祥地
▼実際二風谷に行ってみて、景色、風土に触れ、実に住みやすい所と感じました。 そのことを資料館の萱野館長の奥様に話したらここは雪も少なくいい所です、とのことです。我が意を得たり。 矢張りこういうところを選んで先人は住むのだな、とおもいました。
サルンクル=沙流川の人。(「萱野茂のアイヌ語辞典」より)

イ  チプサンケについて

写真はチプサンケに使われる舟
(拡大)画像は貝澤耕一さん
(拡大)画像は貝澤耕一さんから
チプサンケとは、もともとアイヌ民族に伝わる新造舟の舟おろしの儀式のことで、昭和二三年ころまでは新造舟が できたときに行われてきた。近年毎年八月二〇日ころ、二風谷地域で行われているチプサンケの祭りは、昭和四七年
チプサンケの場所●印 (拡大)裁判記録100p
ころから原告萱野らがアイヌ文化の伝承と振興を意図して始めたものであるが、以前から行われてきたチプサンケの 場所(別紙図面(一)のE付近) より上流側で舟を川に下ろし、 以前からのチプサンケの場所で祈りを行ってきている。 その具体的内容は、アイヌの人々がアイヌ民族伝統の丸木舟に地域の住民らを乗せて沙流川を下ったり、事前にイナウ と呼ばれるヤナギの内皮を削った祭具を作ったり、舟の安全に感謝して川の神、舟の神などに祈りの言葉を捧げたり、 和人と一緒に盆踊りをする等して、アイヌ文化の伝承やア イヌの人々と和人との交流を図り、アイヌの人々の主宰に よる地域に密着した祭りとなっている。
本件事業計画が実施されると、チプサンケは、従来行っ てきた場所で開催できなくなる。
▼チプを実際に資料館で見て余りにも大きいのに驚きました。 20メートルくらいあったように思います。大木を切り倒し、それをくりぬいて舟に仕上げるのは大仕事と実感しました。 だから完成の暁には舟おろしの儀式(チプサンケ)=進水式が行われるのもわかりました。 チプ=舟 サンケ=出す 舟を出すの意味(「萱野茂のアイヌ語辞典」より)
ウ  チャシ等の遺跡について
チャシとは、水(河川や海、湖沼)にのぞむ高所に作ら れ、砦、城、柵、見張所、聖なる地などといわれている遺 跡である。
オキクルミ伝説(拡大) 宇田川洋『アイヌ伝承とチャシ』91p
地域別チャシの数
(拡大)
宇田川洋『アイヌ伝承とチャシ』222p平取は日高地方に分類されています。
チャシの種類(拡大) 宇田川洋『アイヌ伝承とチャシ』218p
▼チャシは日本人的感覚では村の鎮守、氏神を祀る神社のような存在か? その後「萱野茂のアイヌ語辞典」を見るとチャシ(casi)は柵、囲い、垣根、城、砦とありました。 するとそれぞれのチャシがどのようななものであったのか具体的に知る必要がありそうです。
▼先月の研修旅行で4/9オキクルミチャシの近くを通りました。(2021.5.9)
▼宇田川洋『アイヌ伝承とチャシ』でチャシの全貌が掴めました。チャシの種類は@闘争伝承、A見張り伝承、B聖地伝承、 C談判伝承、D人文神等の伝承、E説話伝承、に分類されています。全体で203の伝承が1981.5時点で確認されています。 最も多いのはアイヌの内部の闘争の77チャシです。そのうち44が日高・十勝・釧路です。オニクルミはD人文神等の伝承に分類されています。(2021.11.7)
沙流川流域には、近世のチヤシ跡が多く、現在 二七箇所が知られている。
「遺跡の写真」(拡大可)

沙流川流域のチャシ跡 宇田川洋『アイヌ伝承とチャシ』北海道におけるチャシの分布図の部分 (拡大)
二風谷地域には、ユオイチャシ跡、ポロモイチャシ跡、ポンカンカンチャシ跡などの遺跡が分布している。
ユオイチヤシ跡及びポロモイチャシ跡は、 沙流川に面した段丘上に位置しており(別紙図面(二))、 空堀による区画と居住跡などによって構成されている。 これら のチヤシに付属する遺構からは、 近世アイヌ文化を代表する多数の鉄製品などが発見された。また、ポロモイチャシ 跡からは、柱を立てる穴が多数見つかったことから、規模の大きな建造物があったとも推定され、 アイヌ民族の歴史を知る上で重要な遺跡である。
本件事業計画が実施される ことにより、ユオイチャシ跡及びポロモイチヤシ跡を発掘 調査直後の状態で保存することは不可能となる。特にポロモイチャシ跡の場合は、 本件ダムの建設に伴い完全に消滅する。
瀬田内チャシ (拡大)チャシのイメージのために(2021.11.9)
宇田川洋『アイヌ伝承とチャシ』
ユオイチャシと
ポロモイチャシ
ダムの総合案内看板(拡大)
森岡健治学芸員講演 写真、上部が上流。川から一段上がった所にチャシが造られたようです。チャシの柵列の左側の河川敷と川がダムになった。 (2021.11.15)(拡大)
沙流川歴史館森岡健治学芸員講演
森岡健治学芸員講演 チャシのイメージ。右の瀬田内のチャシと雰囲気が似ている。 手前が上流ポロモイシャチ跡、先が下流ユオイチャシ跡。右側に沙流川が流れている。 (拡大)










▼ユオイチャシ、ポロモイチヤシが湖底に沈んでいるのか? 現地に行ってみてユオイチャシはダムの左岸近くでチャシ公園にされていることがわかりました。 ポロモイチヤシを探したのですが見つかりませんでした。判決をよく読んでみると 「ダムの建設に伴い完全に消滅する」とありました。怒りの混じった喪失感を味わっています。
森岡健治学芸員講演
樽前山噴火1667年(拡大)
樽前山(拡大)
1667年の噴火は大きく65`メートル東の二風谷のユオイチャシ、 ポロモイチヤシも火山灰で覆われたようです。
その後当日撮った「遺跡の写真」を見ると上のような1枚がありました。 ポロモイチヤシ遺跡は沙流川上流左岸に沈んだことがわかりました。 ダムの着工前と完成後の写真を掲載しておきました。 この「遺跡の写真」を見ながら想像してください。
▼総合案内図の右上流にカンカン遺跡がありますが、その手前にポロモイシャチがあったのではないか、と思います。(2021.11.15)
▼アイヌ語ポロモイを調べました。ポロ=大きい。モイ=川の曲がり角の水のゆるやかに流れている所。 (知里真志保『アイヌ語小辞典』)(2021.11.8)カンカンは川などが小腸のように屈曲して流れている部分。(同『小辞典』 2021.11.15)
ダム後
平山『地図でみる』195p(拡大)
ダム後
(拡大)
ダム前
(拡大)
「遺跡の写真」(拡大可)
右地図
●1 ユオイチャシ跡
●2 ポロモイチャシ跡 
ダム前

平山『地図でみる』195p
A・B・Cチノミシリ(拡大)
ダム前の説明
平山『地図でみる』195p(拡大)

















▼ 「ダム前」写真の上方が上流。沙流川は手前に向かって流れている。
「川向い」と呼ばれた場所が上流から見て右岸、湾曲した畑地。 ここがダムで沈んでしまっていることが「ダム後」右の写真で確認できる。(2021.4.16)

▲「ダム前」平山『地図でみる』でチプサンケの 舟降ろし□1  舟揚げ□2 場所が確認できる。 (2022.9.7)

▲「遺跡の写真」でユオイチャシ跡とポロモイチャシ跡が正確に確認できる。 (2022.9.7)

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エ  チノミシリについて
文化的景観3次選定 ▲1次、2次の過去の経緯はここで分かる。(2022.10.13)
ルオマナイ
古くから二風谷地域から穂別地域へ抜ける生 活用道路として活用されてきた山道。
二風谷B地区重要構成要素
番号の説明 1にぶたに湖右岸の国有林 2オプシヌプリ 3スルクウンコツ  4ルオマナイ 5イオルの森 6ウカエロシキ 7アイヌ文化博物館 (拡大)
チノミシリは、アイヌ語で我々が祭る場所を意味し、これは、神がアイヌの人々に火事、水難、病気の流行等の吉 凶を教える場所であり、またアイヌの人々がそこにいる神に対しお祈りをする場所であって、アイヌ民族にとって、 神聖な地であり、心の拠り所であるとされている。そして、この他は、アイヌ民族以外の人に漏したり、汚したり、傷 つけたり、地形を変えたりすることをしてはならないとさ れている。二風谷地域におけるチノミシリは、別紙図画一 のAのぺウレプウッカのチノミシリ、同図面のBのカンカンレレケへのチノミシリ、同図面のCの三箇所であるとさ れている。
田中宏弁護士「二風谷ダムをめぐる二つの裁判」 :「現場検証で、ダム建設により三つのチノミシリが影響を受けることが初めて明らかになりました。 うち二カ所は水没。」このチノミシリを知りたい。 チャシの間違い? 2021.11.7
チノミシリ 上村英明さんグループの研究 https://www.keisen.ac.jp/extension/research/peace/pdf/peace_research_2013_02.pdf


ウカエロシキ
=ペウレプウッカ
=熊の姿岩(拡大)

上村グループ研究の写真。ダム水門近くの対岸
にぶたに湖右岸に大きく張り出す 3 段の頂きを持つ特徴的な岩塊。下流側から眺望すると 大きな熊が山を駆け上がる姿のような形状。アイヌの伝説ではオキクルミカムイにより親子連れの熊が岩石にされた岩で、地域の人々 からは「熊岩」と呼ばれている。「平取町文化的景観」より

オプシヌプリ(拡大)
上村グループの写真。

稜線に馬蹄形の穴が開いている特長的な景観が形成、夏至前後には対岸のカンカンチャシの視点場から、こ の穴に夕日が沈むという、期間限定での特別な風景が眺望される。アイヌ伝説では人々に 生活文化を教えたオキクルミカムイが、ヨモギの矢で打ち抜いた穴と伝えられており、 1898(明治 31)年の大水害の時までは、馬蹄形の上の部分が繋がっており、穴の状態だっ たと言われている。「平取町文化的景観」より
被告らは、これらのチノミシリの位置に関する証拠とし ては、原告菅野自身の著作である「おれの二風谷」(甲一一) の関係記事部分と同原告の供述しかないところ、両者は一致していないことや、地元住民もチノミシリの位置を知ら ないこと、更にはダム建設に当たってこれら住民から特に異議がでなかったことを理由として、右図面の各位置にチ ノミシリがあるとは認められない旨主張する。
にぶたに湖(拡大)




オプシヌプリの位置
平取町教育委員会文化財課発行のリーフレット









オプシヌプリ伝説 『おれの二風谷』270p
カンカンレレケヘのことのようだ。(2021.11.19)











スルクウンコツ伝説
 271p









熊の姿岩伝説 272p
ウカエロシキとも、ペウレプウッカともいう。
なるほど、「おれの二風谷」の関係記事部分には、カンカンレレケへのチノミシリについて、オポウシナイ沢とパラ タイ沢の間にある山であると記されていて、それによれば別紙図面(一)のBの位置ではないことが認められるが、これ は原告萱野自身誤記であると自ら認めているところであっ て、しかも右著書の該当箇所にはカンカンレレケへのチノ ミシリについて「カンカンレレケウン チノミシリ」(かんかんの向い側・我ら拝む所)との記載があり、カンカン 沢の向い側に位置すると明示されていることが認められるから、そこが別紙図面(一)に表示されているオポウシナイ沢 とパラタイ沢の間ではなく、 オポウシナイ沢とタイケシ沢の間にあること、すなわち同図面Bの位置にあることが窺えるのであり、 この点の被告らの主張は理由があるとはいえない。

▼(平取町教育委員会文化財課発行のリーフレット「アイヌの伝統と近代開拓による沙流川流域の文化的景観」の 左上の地図(拡大可)「にぶたに湖」上流の右岸に赤い点を挟んで右がオポウシナイ沢、左がタイケシ沢であることが確認できます。)

またぺウレプウッカのチノミシリの位置について は右著書の記事と原告宣野の供述に相異があると評する 程の違いはないと解されるから、この点の被告らの主張も理由がない。

また、原告萱野の指摘する右三つのチノミシ リ (熊の姿岩のチノミシリ、カンカン向かいのチノミシリ、オケネウシのチノミシリ)
裁判記録 三つのチノミシリ 482p(拡大)
チノミシリの位置 (拡大)裁判記録100p
ダム前

平山『地図でみる』195p
Aペウレプウッカ
B オプシヌプリ
C  オケネウシ
のチノミシリ
(拡大)
ダム前の説明
平山『地図でみる』
195p
●1  ユオイチャシ跡
●2 ポロモイチャシ跡
(拡大)

の位置について地元の人々が知らなかった点についても (もっとも、甲七にはその後の工事進行の過程でチノミシ リの一ケ所はクレーン設置のために剥土にされてしまって いる、この工事をみた地元の古老たちは、「神聖な場所をい いかげんな扱いで工事したのだから、やがて事故が起きる であろうと予言していた。」とあり、原告萱野らを除く地元 の人々すべてがこの点を知らなかったかどうか疑問があ る。)、前記チノミシリの秘密性に加えて二風谷地域に居住 するアイヌの人々の年齢やアイヌ文化尊重の程度等の事情によりこれを知る人が少ないとみられることが原告宣野の 供述により認められるから、被告らが主張するこれらの事 情をもってしても、右認定を左右するには足りないという べきである。

▼被告・国側の腹立たしいまでの重箱の隅を突っつくような「反論」。常套手段ではあるが、それでも腹が立つ。 裁判長は「認定を左右するには足りないというべきである」といなしている。当然。
▼上記リーフレットの地図を見るとダムの左岸上流にカンカン遺跡の場所が確認できます。
▼チノミシリを「萱野茂のアイヌ語辞典」ではCi=nomi=si r 我ら祭る所、と説明されています。次のような例文もあります。 「私どもの二風谷では熊の姿岩のチノミシリ、カンカン向かいのチノミシリ、オケネウシのチノミシリ、3か所あって、 そこへ神のお告げが聞こえたら村人全部が気をつけるものだ。」まさしく聖なる場所がチノミシリであることがわかります。 nomi は祭る、祈る、の意味のようです。
▼今回の研修旅行でも4/8、二風谷を見下ろす3箇所にチノミシリがあったと、木村さんから説明をうけました。 (2021.4.16)


(四)本件事業により失われる諸価値に対しなされた配慮
(1)埋蔵文化財等
参加人(国のこと)は遅くとも本件事業認定申請時までには、二風谷地 域がアイヌの人々の多数住む地域であることを認識していた が(乙ロ二〇の一ないし一五、証人田中、弁論の全趣旨)、更に、証拠(乙ロ六ないし一二、一四、一五、二三、二四、二 五、証人田中)によれば、次のア、イの事実が認められる。

ア チヤシ等の埋蔵文化財について
北海道開発局内で本件事業を担当する室蘭開発建設部長(以下「室蘭開発部長」という。)は、昭和五一年(1976年)一一月及 び昭和五七年(1982年)二月の二回にわたり、文化財保護法等に基づ き北海道教育委員会(以下「道教委」という。)に対し、埋 蔵文化財包蔵地の確認調査を依頼したところ、道教委から、ユオイ チャシ跡及びポロモイ チヤシ跡の本体部分につい ては事前の調査が必要であり、また両チヤシの周辺部及び両チャシ間についても遺跡の拡がりが予想される旨の回答を 受け、更に、昭和五八年(1983年)七月二七日付けで、ユオイ チャシ跡及びポロモイ チャシ跡の間に二風谷遺跡も存在すること が確認されたので、工事計画の変更が困難な場合はこれらの遺跡の発掘調査が必要である旨の回答を受けた。このた め、室蘭開発部長は、道教委に対し、ユオイ チャシ跡、ポロモイチヤシ跡及び二風谷遺跡の発掘調査を依頼し、道教 委は、これを受けて、財団法人北海道埋蔵文化センターに発掘調査を依頼した。同センターは、右依頼に基づき発掘 調査を実施し、昭和六一年(1986年)三月二六日、「ユオイチャシ跡 ポロモイ チャシ跡 二風谷遺跡」と題する報告書(乙ロ一二) を作成し発行した。
▼ユオイ チャシ跡 ポロモイ チャシ跡 二風谷遺跡が工事の事前に確認されている。 位置は前述「遺跡の写真」参照。
また、室蘭開発部長は、本件事業認定の申請を行うに当たり、道教委に対し土地収用法に基づく意見照会をしたが、 道教委は、昭和六〇年(1985年)七月一一日、「当該起業地内に、周知の埋蔵文化財包蔵地が別表のとおり所在していることが確 認されています。したがって、当該地域にかかる起業については、文化財保護法に留意し取り扱われるよう願います。」 との回答をしている。 平取町長は、室蘭開発部長に対して、昭和五九年(1984年)九月七日付けの要望書(乙ロ一四)を提出し、文化財保存施設の 設置について要望したが、これに対し、室蘭開発部長は、同年九月一二日付けの回答書(乙ロ一五)において、「埋蔵 文化財の保存施設については、地城の特殊性を考慮し実現できるよう努力します。」と回答した。
▼このダムの問題は昭和五一年(1976年)ころから起きている。
道教委は室蘭開発部長に対し、 昭和六〇年(1985年)「文化財保護法に留意し取り扱われるよう願います」と要請している。にもかかわらず工事は強行された。
平取町長は、昭和五九年(1984年)文化財保存施設の 設置について要望し、室蘭開発部長は「実現できるよう努力します」と回答している。それがどうなったか?
▼今回の現地訪問(2018.7.18)で文化財保存施設の設置は「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」がそれにあたるのかな、とおもいました。 大きなところで遺跡を破壊し、小さな要望は受け入れる、これが二風谷ダムの国の基本姿勢だと感じた。
イ  チプサンケについて
平取町長は、前記要望書において、アイヌ文化の継承の ために、チプサンケなどの行事を本件ダム直下の河川敷地 で行うことができるよう同所を公園広場に利用させてほし い旨要望した。
これに対し室蘭開発部長は、前記回答書に おいて、「ダム直下のダム管理区域は、今後、河道整理をし た後の高水敷で公園広場等に利用可能な敷地については、 ダム周辺環境整備として町と協議し実施します。」と回答し た。
▼このチプサンケは現在おこなわれているようだ。たぶんダム直下の沙流川だとおもう。電話で平取町役場に確認できた。
(2) 本件事業認定申請等
証拠(乙ロ二、三、一八)及び弁論の全趣旨によれば、本件工事実施計画、本件基本計画、本件事業認定申請いずれの 中でも、本件事業がアイヌ文化へ及ぼす影響についての言及は全くなされていないこと、本件事業認定は決定書が作成さ れておらず、申請どおり認定がなされたことが認められる。
▼「実施計画、基本計画、認定申請いずれの中でも、本件事業がアイヌ文化へ及ぼす影響についての言及 は全くなされていない」。信じられない対応。申請者(北海道開発庁室蘭開発建設部長)も 認定者(建設大臣)も国の機関の身内で、全くアイヌ文化へ及ぼす影響などは眼中にないということだ。沖縄、辺野古の国の対応も同じ。 身内が身内に申請して許可する構図は全く同じ。
(3) 被告らの主張について

被告らは、アイヌ文化に配慮した周辺環境整備を進めた と主張し、その根拠として、
開発局が昭和五六年(1981年)及び昭和五 七年(1982年)に農学・文化人類学・経済学等の学識経験者や平取 町議会議員等を構成員とした二風谷ダム周辺環境整備構想 調査会を設置し、
本件ダム周辺地域の生活文化、生活基盤 についての総合的な調査、研究をし、
その報告を受け、昭和六〇年(1985年)には、二風谷ダム周辺地域環境整備調査会を設置 し、
歴史的な文化を活かした地域振興を図るための地域整 備基本計画を作成し、
開発局は、このような調査、研究を 踏まえつつ、
地元平取町、平取教育委員会、二風谷自治会、アイヌ文化保存会等とも協議を重ねてダム周辺環境整備事 業等を行ってきたことを掲げる。 なるほど、証拠(乙ロ二三、証人田中)によれば、被告らが指摘する右事実は認められるものの、各調査会の調査、 研究の内容が判然としないのみならず、
その主な目的は、
本件ダム建設を既定の事実として、地域振興を図ることに ねらいがあったことが
右証拠及び弁論の全趣旨により窺え るのであり、
前掲チヤシ等の埋蔵文化財の保護やチブサン ケの代替場所等の配慮以上に、二風各地域におけるアイヌ 文化の十分な研究に基づいて本件ダム建設による古文化の影響に対する対策を講じたことを窺わせる証拠はない。
▼被告の弁明に対し「対策を講じたことを窺わせる証拠はない」と一刀両断でバッサリ。 被告がやったことはチャシの一部とチプサンケの代替場所だけ。

被告らは、アイヌ文化の象徴である鮭の遡上と本件ダム の建設とは関係がなく(もともと鮭は沙流川下流で門別漁 業協同組合が捕獲していたことから、本件ダムの建設予定 地まで遡上していなかった。)、また本件事業認定時におい て、本件ダムにおいては、ダムまで遡上した魚が更にその上流に遡上できるように魚道を設ける計画が立てられ、そ の設置により、鮭を含む魚類の遡上に大きな支障はないと判断されたと主張し、この点もアイヌ文化に対する配慮で ある旨主張する。
▼被告よ、何も知らない裁判所に何でも言えば通る、とでも思っているのか。
証拠(乙ロ一七、二〇の三ないし五・七、二三、証人田中)によれば、 門別漁業協同組合が従前から沙流川下流の地点に鮭を捕獲するウライを設置しており、 本件事業認定 時には、本件収用対象地付近の沙流川までは鮭が遡上して
元門別町長(拡大)
「あるダムの履歴書
 2-3」

「1985年(昭和60)北海道庁が説得に動く。新たに3箇所の定置網漁業権の提案」「定置網を3か所貰える!!」
▲こうして道庁は町長にダム建設を同意させる。
定置網権は国の権限?道庁の権限?。どれだけのアイヌの人が定置網権を持っているか。この権限も取り戻す事。 アイヌモシリに海岸を含ませること。(2022.8.15)

映像5:07の解説「川に入ったサケは国の財産とされる。」
▲不覚にも知らなかった。ならば川もアイヌモシリ回復の対象。(2022.8.17)



「あるダムの履歴書 6」

「沙流川が清流で心配ないと言ったことに対し町民からおこられます。」「沙流川をだめにしたじゃないかと。」
▲「定置網3か所」で門別町も国にまんまと騙された。(2022.8.15)

門別定置漁業権5号
門別定置漁業権6号
門別定置漁業権7号
▲これを昨日、見つけました。6号の延長線上に7号がある。 浜辺から7キロも沖。こんな、定置漁業権の設定は異例。定置漁業権の面積は一般的に30ha〜60ha。(2023.3.8)



小田(こだ)報告書
1976年(拡大)

「あるダムの履歴書 2」堆砂によるダムの寿命
25年
▲着工前から砂のダムになることがわかっていた。(2022.8.18)


宮田平取町長(拡大) 「あるダムの履歴書 3」
1986年「道庁から15億円の地域振興の基金が提案された。国も協力する。」「町長はダム建設に同意」

▲町長、アイヌの人たちの意見を聞いたか。(2022.8.17)

中道氏は、昭和10年11月14日生、平取町出身、中央大卒。平成4年(1992)7月町長就任
(拡大) 「あるダムの履歴書 5」

「ダム湖周辺環境整備等が進むことによって地域の経済の活性化や産業の振興につながる。 そのへんがダムができるメリットだと思う。」

レイクサイドパーク構想(拡大)
▲この構想はどうなったのか?
いなかったこと、したがって本件用地交渉等の際、原告ら が本件収用対象地付近の沙流川まで鮭の遡上を可能にして 欲しいと要望したこと、これに対し本件事業者側は漁業権の回復は困難又はほぼ不可能であるとの認識を有していた が、北海道や右漁協、更には平取町に陳情、相談したとこ ろ、北海道条例等に照らして不可能であるとの結論は動か なかったこと、本件事業認定時には主として遡河性の魚であるサクラマスの資源保護のため、本件ダムに魚道が設置 されたが、それは特に鮭を対象としたものではなかったこ と、以上の事実が認められる。
そうすると、起業者たる参加人において、原告らの要望を受けて鮭の遡上について関係機関に陳情したことは明ら かであるが、その程度に止まるものであって、本件事業に よつて侵害されたアイヌ文化について特に配慮して行動し たといえる程の評価ができる事実ではないというべきである。

▼おそらく昔は二風谷まで鮭は遡上していたのだろう。 「用地交渉等の際、原告らが本件収用対象地付近の沙流川まで鮭の遡上を可能にして 欲しいと要望」、それを受けて事業者も「北海道や漁協、平取町に陳情、相談」、しかし漁業権の回復は不可能と判断。
ここから見えてくるものは国のみならず北海道行政も門別の漁業協同組合も二風谷が、アイヌ民族の聖地が、 湖底に沈むことを容認していたということ。
アイヌの人たちの現地での四面楚歌の闘いが想像できる。東京の自分も関心を示していなかった。申し訳ない。 なぜ大きな世論にならなかったのかが問題。
しかし裁判所は、起業者たる参加人(すなわち国)が、アイヌのためにやったと主張することにたいし「アイヌ文化について特に配慮して行動し たといえる程の評価ができる事実ではない」とバッサリ。
ウライとは? 川にのぼってきたサケをつかまえる場所・捕獲場で、川をふさいでサケが通れないようにする「しきり」のこと、ヤナともいう。
実際2018年7月18日、現地に行って改めて考えるに、やはり二風谷まで鮭が遡上できるように対処すべきであった。 門別漁業協同組合の対応もひどい。アイヌ民族の土地に植民して、河口で鮭を先取りして、その結果、鮭は二風谷まで遡上していなかった、 と言っているに等しい。 日本社会の少数者、弱者に対する振る舞いの典型を見るようで恥ずかしい。 今からでも二風谷に鮭が遡上できるように対策を講じるべきである。それが21世紀の日本人の責務である。
▼「アイヌ語辞典」を読んでいた。シペ=サケ。アイヌはサケを主食としていたし、定住の場所はサケの来るところまでと決まっていた、とある。 つまり二風谷までサケは遡上していた、ということ。
                                                  トップへ戻る

被告らは、チノミシリの存在については一般に知られていなかったのみならず、本件収用裁決に対する審査請求時 にはじめて原告萱野から主張され、本件事業認定時には原告らを含めて誰からも主張されたことはなかったのである から、これを考慮することは不可能であった旨主張する。
なるほど、証拠(甲一一、乙ロ二二、二三、証人森田、 同田中、原告萱野)によれば、チノミシリについては、前 記「おれの二風谷」と題する書物(甲一一)に言及されて いるだけで、一般にその存在が知られていなかったこと及 び本件事業認定時までに原告らを含めて誰からもチノミシ リについては指摘されなかったことが認められる。
しかしながら、アイヌ文化が明治政府の政策等により衰退を余儀なくされてきたことは後記のとおりであり、このような経 緯やチノミシリの性格等もあって、二風谷地域のアイヌ民 族が神聖な場所であるチノミシリを一般にしらしめなかっ たことや参加人に開示しなかったことが容易に推認できるから、このこと自体無理からぬ事情があったといえるうえ、 むしろ後記のように、アイヌ民族の文化享有権の重要性に照らせば、参加人は本件事業認定時までに本件ダム建設の アイヌ文化への影響を十分調査、研究すべきであったので あり、これを行っていれば、チノミシリの存在についても 確認できた可能性は否定できないということができるから、 被告らの主張を被告らに有利に掛酌することはできない。
▼被告・国側の「知らなかったから考慮することは不可能」との主張に、逆に「十分調査すべきであった」とバッサリ。 小気味がいい。
2 比較衡量
(一)比較衡量に当たっての考え方

土地収用法二〇条三号所定の要件は、事業計画の達成によって得られる公共の利益と事業計画により失われる公共ないし私 的利益とを比較衡量し、前者が後者に優越すると認められる場合をいうことは前記のとおりであるところ、この判断をするに 当たっては行政庁に裁量権が認められるが、行政庁が判断をするに当たり、本来最も重視すべき諸要素、諸価値を不当、安易 に軽視し、その結果当然尽くすべき考慮を尽くさず、又は本来考慮に入れ若しくは過大に評価すべきでない事項を過大に評価 し、このため判断が左右されたと認められる場合には、裁量判 断の方法ないし過程に誤りがあるものとして違法になるものと いうべきである。
本件において前者すなわち事業計画の達成によって得られる公共の利益は、洪水調節、流水の正常な機能の維持、各種用水 の供給及び発電等であって、これまでなされてきた多くの同種事業におけるものと変わるところがなく簡明であるのに対し、 後者すなわち事業計画により失われる公共ないし私的利益は、 少数民族であるアイヌ民族の文化であって、これまで論議され たことのないものであり、しかもこの利益については、次のような点が存在するから、慎重な考慮が求められるものである。
▼「事業計画の達成によって得られる公共の利益は、多くの同種 事業におけるものと変わるところがなく」一方 「失われる公共ないし私的利益は、 少数民族であるアイヌ民族の文化であって、慎重な考慮が求められるものである。」 裁判所は極めて公平な観点に立っている。
漁業権回復の道
新規参入
令和3年(2021) 9月 7日
都道府県水産主務部長 殿
水産庁資源管理部管理調整課長 増殖推進部栽培養殖課長

            新たな漁業権を免許する際の手順及びスケジュールについて

漁業法等の一部を改正する等の法律(平成30年法律第95号)が令和2年 12 月1日 に施行され、漁業法(昭和24年法律第267号。以下「法」という。)が改正された。 改正後の法では、漁場を適切かつ有効に活用している既存の漁業権者の漁場利用を 確保しながら、円滑な規模拡大や新規参入による生産性の向上や漁場の有効活用が図 られるよう規定が整備された。
今般、これらの趣旨及び規模拡大や新規参入に関するニーズを踏まえ、5年に一度 の海区漁場計画作成の時期によらずとも、新たな漁業権(定置漁業権、区画漁業権) を免許する手続が円滑に行われるよう、その想定される手順及びスケジュールを別添 のとおりとりまとめたので通知する。
新たな漁業権の設定を希望する者は、漁業協同組合の組合員を含め、都道府県に対 して直接、漁業権に関する相談を行う場合があるが、これらの新たな漁業権に関する 相談に対し、海面利用制度等に関するガイドライン(令和2年6月 30 日付け2水管 第 499 号水産庁長官通知)に基づき、客観性・公平性・透明性に留意しつつ、関係す る漁業者、漁業協同組合、関係機関等との議論を促進するなどし、漁業調整その他公 益に支障を及ぼさないようにしながら、誠実、かつ責任をもって対応されるよう配慮 願いたい。
▲アイヌの人たちの新たな漁業権取得にこの規定を活用できる。(2023.3.8)

(二) 少数民族が自己の文化について有する利益の法的性質について被告らは、仮に少数民族の自己の文化を享有する等の権利が 尊重すべきものであるとしても、土地収用法上の要件に該当す るか否かを検討するに当たって、これが他の考慮すべき事情に 比べて優先順位を与えられるものと解する根拠はない旨主張す るので、少数民族が自己の文化について有する利益の法的性質 について検討を加えておきたい。
▼被告(国)は「土地収用法上の要件に該当するか否かを検討するに当たって、これが他の考慮すべき事情に 比べて優先順位を与えられるものと解する根拠はない」と主張。いいかげんにしてくれ。元々だれの土地だった!
国側の主張の、少数民族、先住民族に対するあまりにも無知をさらけ出しているのに怒りすら覚える。この裁判は明治時代の裁判ではないのだよ。
このダムは、成長神話がまだ日本人を捉えていた安定成長期に計画され、バブル崩壊後完成している。1997年の判決時は冷戦も終わり 新しい時代作りに差し掛かっている。そのような空気を裁判所も察知しなければいけない時代だった。
(1)B規約との関係
国際連合総会は、昭和四一年(1966年)に「B規約」を採択し、我が国は 昭和五四年(1979年)に国会の批准を受けて同年条約第七号として公布している。 この規約は、人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等のかつ奪い得ない権利を認めることが世界における自由、 正義及び平和の基礎をなすものであり、またこれらの権利が人間の固有の尊厳に由来することを確認するなどの前文の文 言の下に五三箇条から成り、本件のアイヌ民族の文化享有権と関係する条文は、第二条一項、二六条、ニ七条である。
第 二条一項は、
「この規約の各締約国は、その領域内にあり、か つその管轄の下にあるすべての個人に対し、人種、皮膚の色、 性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位等によるいかなる差別 もなしにこの規約において認められる権利を尊重し及び確保することを約束する。」と、
二風谷ダム一宮判決
▲一宮判決の文化的適用の考えを援用すれば、第一条1項と2項を、先住権すなわち 漁業権、狩猟権、森林権の回復に使えそう。
第一条
1 すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、 その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、 社会的及び文化的発展を自由に追求する。
2 すべての人民は、互恵の原則に基づく国際的経済協力から生ずる義務及び国際法上の義務に違反しない限り、 自己のためにその天然の富及び資源を自由に処分することができる。 人民は、いかなる場合にも、その生存のための手段を奪われることはない。
▲「自決権に基づき経済的、 社会的及び文化的発展を自由に追求する。」「自己のためにその天然の富及び資源を自由に処分することができる。 生存のための手段を奪われることはない。」
アイヌ民族はまさしくこのような権利を奪われてきた。この条項を根拠に漁業権、狩猟権、森林権の回復を主張していけそう。(2021.11.9)


第二六条は、
「すべての者は、法 律の前に平等であり、いかなる差別もなしに法律による平等の保護を受ける権利を有する。 このため、法律は、あらゆる差別を禁止し及び人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的 意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生 又は他の地位等のいかなる理由による差別に対しても平等の かつ効果的な保護をすべての者に保障する。」と、
第二七条は、
「種族的、宗教的文は言語的少数民族が存在する国において、 当該少数民族に属する者は、その集団の他の構成員とともに 自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自 己の言語を使用する権利を否定されない。」と、
それぞれ規定している。
参加人たる国は、平成三年(1991年)、国際連合人権規約委員会に対し、B規約四〇条に基づく第三回報告を提出し、アイヌ民族 が独自の宗教及び言語を有し、また文化の独自性を保持していること等から、B規約二七条にいう少数民族であるとして 差し支えないとし、本件訴訟においても、アイヌ民族が同条にいう少数民族であることを認めている(以上争いのない事 実又は当裁判所に顕著な事実)。
▼国はアイヌ民族がB規約27条にいう少数民族であることを認めている、このことは重要。
右によれば、B規約は、少数民族に属する者に対しその民 族固有の文化を享有する権利を保障するとともに、締約国に 対し、少数民族の文化等に影響を及ぼすおそれのある国の政 策の決定及び遂行に当たっては、十分な配慮を施す責 務を各締約国に課したものと解するのが相当である。
▼B規約27条の少数民族の文化享有権を国のそれに対する配慮責務にまで広げた裁判所の解釈は正当である。
そして、アイヌ民族は、文化の独自性を保持した少数民族としてその文化を享有する権利をB規約二七条で保障されているのであ って、我が国は憲法九八条二項の規定に照らしてこれを誠実に遵守する義務があるというべきである。
もっとも、B規約二七条に基づく権利といえども、無制限ではなく、憲法一二条、一三条の公共の福祉による制限を受 けることは被告ら主張のとおりであるが、前述したB規約二七条制定の趣旨に照らせば、その制限は必要最小限度に留め られなければならないものである。
▼有斐閣「判例六法」憲法13条の項に二風谷ダム事件のこの札幌地裁が判例として掲載されている。
(2)憲法一三条との関係
憲法一三条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生 命、自由及び幸福追求に村する国民の権利については、公共 の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊 重を必要とする。」と規定する。
この規定は、その文言及び歴 史的由来に照らし、国家と個人との関係において個人に究極 の価値を求め、国家が国政の態度において、構成員としての 国民各個人の人格的価値を承認するという個人主義、民主主 義の原理を表明したものであるが、これは、各個人の置かれ た条件が、性別・能カ・年齢・財産等種々の点においてそれ ぞれ異なることからも明らかなように、多様であり、このよ うな多様性ないし相異を前提として、相異する個人を、形式 的な意味ではなく実質的に尊重し、社会の一場面において弱 い立場のある者に対して、その場面において強い立場にある 者がおごることなく謙虚にその弱者をいたわり、多様な社会 を構成し維持して全体として発展し、幸福等を追求しようと したものにほかならない。
このことを支配的多数民族とこれ に属しない少数民族との関係においてみてみると、えてして 多数民族は、多数であるが故に少数民族の利益を無視ないし 忘れがちであり、殊にこの利益が多数民族の一般的な価値観 から推し量ることが難しい少数民族独自の文化にかかわると きはその傾向はつよくなりがちである。
少数民族にとって民 族固有の文化は、多数民族に同化せず、その民族性を維持す る本質的なものであるから、その民族に属する個人にとって、 民族固有の文化を享有する権利は、自己の人格的生存に必要 な権利ともいい得る重要なものであって、これを保障するこ とは、個人を実質的に尊重することに当たるとともに、多数 者が社会的弱者についてその立場を理解し尊重しようとする 民主主義の理念にかなうものと考えられる。
▼裁判長のすばらしい憲法13条の解釈論。敬意を表します。 特に「少数民族にとって民 族固有の文化は、その民族に属する個人にとって、 自己の人格的生存に必要な権利ともいい得る重要なもの」との理解はすばらしい。
また、このように解することは、前記B規約成立の経緯及 び同規約を受けて更にその後一層少数民族の主体的平等性を 確保し同一国家内における多数民族との共存を可能にしよう として、これを試みる国際連合はじめその他の国際社会の潮 流(甲四一ないし四人、証人相内)に合致するものといえる。
そうとすれば、原告らは、憲法一三条により、その属する 少数民族たるアイヌ民族固有の文化を享有する権利を保障さ れていると解することができる。
もっとも、このような権利といえども公共の福祉による制 限を受けることは憲法一三条自ら定めているところであるが、 その人権の性質に照らして、その制限は必要最小限度に留め られなければならないものである。
▼公共の福祉による制 限。何度も何度も公共の福祉による制限が強調される。どうも気にかかる。
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(三) アイヌ民族の先住性
B規約二七条は「少数民族」とのみ規定しているから、民族 固有の文化を享有する権利の保障を考えるについては、その民 族の先住性は要件ではないが、少数民族が、一地域に多数民族 の支配が及ぶ以前から居住して文化を有し、多数民族の支配が 及んだ後も、民族固有の文化を保持しているとき、(▼先住民族という。国連では特別な権利が認められている。)このような 少数民族の固有の文化については、多数民族の支配する地域に その支配を了承して居住するに至った少数民族の場合以上に配 慮を要することは当然であるといわなければならないし、この ことは国際的に、先住民族に対し、土地、資源及び政治等につ いての自決権であるいわゆる先住権まで認めるか否かはともか く、先住民族の文化、生活様式、伝統的儀式、慣習等を尊重す べきであるとする考え方や動きが強まっていること(甲四五、 四六、証人相内)からも明らかである。
▼この判決の後、2007年国連で 先住民族権利宣言が採択された。「先住民族に対し、土地、資源及び政治等につ いての自決権であるいわゆる先住権まで認めるか否かはともかく、」の部分が時代遅れになっている。(2021.11.9)
▼文化を認めて土地、資源を認めない理屈は成り立たない。(2021.11.17)
(1) アイヌ民族の先住権について検討することとするが、その前提として先住民族の定義について考えたい。
そもそも「先 住民族」の概念自体統一されたものはなく(証人相内)、これ を定義づけることの相当性について疑問がないわけではない が(一口に先住民族であるとはいっても、その民族が属する国家により、その民族が現在置かれている状況、歴史的経緯 等が異なり、そうである以上共通に理解することができない ことは当然である。)本訴においては、被侵害利益であるア イヌ文化の重要性、その文化を享有する権利の保障の程度等を検討することが必要であり、そのためにはアイヌ民族の先 住性に言及することが不可避であるといわざるを得ないと考えるから、必要な限度で定義づけることとする。 証拠(甲四二、四三の二・三、四四ないし四六、証人相内) 及び弁論の全趣旨を総合して考えるに、
先住民族は、歴史 的に国家の統治が及ぶ前にその統治に取り込まれた地域に、 国家の支持母体である多数民族と異なる文化とアイデンティ テイを持つ少数民族が居住していて、その後右の多数民族の 支配をうけながらも、なお従前と連続性のある独自の文化及 びアイデンティティを喪失していない社会的集団であるとい うことができる。(▼下線は引用者)

(2) 次に、アイヌ民族が右にいう先住民族であるかどうかにつ いて、考察することとするが、アイヌ民族が文字を持たない 民族であることは前述のとおりであり、そのため右のような 先住性を証する上で役立つアイヌ民族の手による歴史文書等 がなく、アイヌ民族がアイヌ民族としての社会集団を構成し て北海道あるいは本州の北部にいつごろから定住し始めたの かは、本件全証拠によっても明らかではない。ここでは主に アイヌ民族以外の日本人(原告らの用法に従って、以下「和 人」という。)の手によって記された中世及び近世のアイヌ民 族に関する文献等を主たる証拠として右の意味での先住性を 判断することとする。
証拠(甲五、一九の一・二・三の一・四ないし六・八・一 二・一三、証人田端)及び弁論の全趣旨を総合すれば、

▼以下中世から近世の日本列島でのアイヌ民族の歴史が概括される。
鎌倉 時代の末期ころ(14世紀半ば)までには、
北海道に居住するアイヌ民族と和 人の交易商人との間で、北海道の特産品である魚類や獣類と 和人の物を物々交換する形で、北海道におけるアイヌ民族と 和人との交易による接触は始まつていたこと、

一五世紀の半ばころは、
私人の中小の豪族が函館等の道南を中心に北海道 に居住するようになっていたが、右豪族間あるいは右豪族と アイヌ民族の間で争い事等が繰り返されていたこと(たとえ ば、康正二年(西暦(以下省略)一四五六年)のコシヤマイ ンの戦い)、

一六世紀の中ころには、
松前藩の前身である蠣崎 家と松前地方のアイヌ民族との間に「夷狄の商船往還の法度」 という交易秩序の維持のための御法度が定められたが、その ころのアイヌ民族と和人との交易形態は、北海道の各地の居 住先からアイヌの人々が松前付近に出て来て、和人の商人が 本州からそこへ集まり物々交換をするというものであったこ と、

慶長九年(一六〇四年)には、
松前藩は、江戸幕府によ る幕藩体制の下に入り、同藩は、その家臣らに対し知行地と して商場(交易をする場所)を与え、アイヌ民族と交易をさ せ、それから生じる利益に関税を掛けることなどにより、藩 の財政基盤を確保していたこと、そのころは和人は北海道内 の自由通行を認められていなかつたが、アイヌ民族には許さ れていたこと、
右の地図(拡大可)。赤い所の静内川の河口付近にシャクシャイン城跡があります。 二風谷から東南直線距離で約40q
静内シャクシャイン城跡(拡大)


寛文九年(一六六九年)、
和人とアイヌ民族が関係するシャクシャインの戦いが起こったこと(右の地図)、
遅くとも一 八世紀半ばころには、
和人の商人は、松前藩から近い地域に おいて、独占的に漁場を経営したり、対アイヌ交易を行った りする請負場所を設定し、その請負場所において、漁猟生産の労働カとしてアイヌ民族を使い始めたこと、
▼香港、マカオ的植民地政策のようだ。(2020.4.2)
一八世紀の終わりころには
その地域が北海道東部にまで及び、その請負場 所において、和人によるアイヌの人々の酷使が原因となって、 和人とアイヌ民族との争い事が発生していること(寛政元年 一七八九年のクナシリ・メナシの戦い)、

幕末期には、
沙流川周辺においては山田文右衛門という和人が沙流場所 (現在の苫小牧市から静内町にかけての漁場)を請け負い、右山田はアイヌの人々の主要な働き手を厚岸等の請負場所まで 出稼ぎとして連れて行き、これを酷使していたこと、地域によっては家ぐるみで別の場所に移転させられたこと、

安政五年 (一八五八年)、
北海道(蝦夷地)の調査をしていた松浦武四 郎が二風谷地域を訪れ、同地域に居住するアイヌの人々の人 数、年齢、生活の状況などを記録していること、松前藩は和 人とアイヌの人々を完全に分離し、交易等を通じた接触に止 める政策をとったため、アイヌの人々は民族として和人とは 異なる文化、伝統を維持し得たこと、江戸幕府は、北海道の 地に対するロシア勢力の進出を危倶していたことなどから、

一八世紀後半から一九世紀半ばころまでの間、
アイヌ民族を 和人化させるためにアイヌ民族に日本語を使用させることや 米を食べさせるようにすることなどのいわゆる同化政策を何 度か打ち出したが、アイヌ民族の強い反発などから、結局、 右政策は貫徹されなかったことが認められる。

▼この裁判所の事実認定から言えることは、江戸末期まで北海道は少なくとも松前藩の領地以外はアイヌの大地だった。 今後のアイヌモシリ回復においてこの裁判の意味は大きい。(2020.4.2)
                                      トップへ戻る
右認定事実に弁論の全趣旨を総合すれば、
江戸時代に幕藩 体制下の松前藩による統治が開始される以前に、二風谷地域 をはじめ北海道には、アイヌ民族が先住していた地域が数多 く存在しており、その後も、松前藩による北海道の統治は全 域に及ぶものではなく、アイヌ民族は、幕藩体制の下で大き な政治的、経済的影響を受けつつも独自の社会生活を継続し、 文化の享有を維持しながら北海道の各地に居住していたこと が認められ、
その後、後記(四)認定のとおり、アイヌ民族に対 し採られた諸政策等により、アイヌ民族独自の文化、生活様 式等が相当程度衰退することになつたことが認められる。
しかしながら、証拠(甲四七、証人大塚)、原告らによれ ば、
現在アイヌの人々は、我が国の一般社会の中で言語面で も、文化面でも他の構成員とほとんど変わらない生活を営ん でおり、独自の言語を話せる人も極めて限られているものの、
民族としての帰属意識や民族的な誇りの下に、個々人として、 あるいはアイヌの人々の民族的権利の回復と地位向上を図る ための団体活動を通じて、アイヌ民具の収集、保存、博物館 の開設、アイヌ語の普及、アイヌ語辞典の編さん、アイヌ民 族の昔話の書物化、アイヌ文化に関する講演等を行い、アイ ヌ語や伝統文化の保持、継承に努力し、その努力が実を結ん でいることが認められる。

(3)以上認定した事実を総合すれば、
アイヌの人々は我が国の統治が及ぶ前から主として北海道において居住し、独自の文 化を形成し、またアイデンティテイを有しており、これが我 国の統治に取り込まれた後もその多数構成員の採った政策 等により、経済的、社会的に大きな打撃を受けつつも、なお独自の文化及びアイデンティティを喪失していない社会的な 集団であるということができるから、前記のとおり定義づけ た「先住民族」に該当するというべきである。 (▼下線は引用者)
▼説得力のある事実認定と「先住民族」の定義づけ。すばらしい。
▼「我国の統治に取り込まれた後も」の表現が気に入らない。明治政府によって植民地化された後、と正確に表現すべき。(2020.4.3)

国連は2007年先住民族権利宣言を採択した。
第28条にはつぎのように書かれている。
1.先住民族は、自己が伝統的に所有し、又はその他の方法で占有若しくは使用してきた土地、領域及び資源で、 その自由で事前の及び事情を了知した上での同意なしに、没収され、占拠され、使用され、又は損害を受けたものについて、 原状回復を含む方法により、それが可能でない場合には正当で公平かつ衡平な補償によって、救済を受ける権利を有する。
2.関係する民族が自由に別段の合意をしない限り、補償は、同等の質、規模及び法的地位を有する土地、領域及び資源という形態、 金銭的補償又はその他の適当な救済の形態をとらなければならない。
▼宣言28条を読むと日本政府はアイヌ民族に対して 大きな、大きな仕事をしなければならないことがはっきり見えてくる。

(四)アイヌ民族に対する諸政策
先住民族であるアイヌ民族が我が国の統治に取り込まれた後、 仮に少数であるが故に我が国の多数構成員の支配により、経済 的、社会的に大きな打撃を受け、これがため民族の文化、生活 様式、伝統的儀式等が損なわれるに至るということがあったと すれば、このような歴史的な背景も、本件の比較衡量に当たっ て斟酌されなければならない。

証拠(甲二一の三ないし六・八、証人田端、原告萱野)によ れば、

明治政府は、蝦夷地開拓を国家の興亡にかかわる重要政策と位置付けて、これに取り組み、北海道に開拓使を送ったこ と、
▼蝦夷地開拓を蝦夷地「植民地化」と読み替えること。(2020.4.3)

明治五年九月、
もともとアイヌの人々が木を伐採したり、狩猟、漁業を営んでいた土地を含めて北海道の土地を区画して 所有権が設定され、アイヌの人々にも土地が区画されたが、農 業に慣れていなかったことから、アイヌの人々が農業で自立す ることは困難であったこと、

石狩川(拡大可)

豊平川

発寒川
▼アイヌ民族は狩猟、漁業、林業が生業。農業ではない。(2020.4.3)
改修前の石狩川 (拡大)
明治六年、
木をみだりに切ること や木の皮を剥ぐことが禁止され、また、豊平、発寒、琴似及び 篠路の川の鮭漁に関して、アイヌ民族の伝統的な漁法の一つで ある

ウライ(拡大)
ウライ網の使用(川を杭で仕切って魚が上れないようにし、 その一部分のみを開けておいてそこに網を仕掛けて採魚する漁 法)が禁止されたこと、
豊平のHP
▼豊平のHPを読むと実に無邪気なもので、自分たちがアイヌの大地への植民地主義者・侵略者であった、 との自覚が全く感じられません。(2020.4.3)

アイヌ民族の従来の風習で ある耳輪や入れ墨等が罰則を伴って禁止され、また毒矢を使う アイヌ民族の伝統的な狩猟方法が禁止されたこと、

明治一一年、
札幌郡の川における鮭鱒漁が一切禁止されたこと、
▼鮭鱒漁が一切禁止。これは酷い。なぜここまで追い詰めるのか。(2020.4.3)

明治一三年、

チセ
死者の出た家を焼いて他へ移るというアイヌの人々の風習等が罰則を伴って禁止され、更に、日本語あるいは日本の文字の教 育が施されるようになつたこと、
その後、千歳郡の河川において鮭の密猟が禁止されたり、アイヌ民族の伝統漁法の一つであるテス網による漁が禁止されたりした後、

明治三〇年には、
自家用としても鮭鱒を捕獲することが禁止されたこと、
このように魚類等の捕獲の禁止が強化されていったことや私人がアイヌの人々の開拓した土地を奪うようなことがしばしばあったこと などからアイヌの人々の生活が困窮したため、
▼自家用としても鮭鱒の捕獲禁止。なぜここまで。 明治維新後30年間、アイヌ民族絶滅策が実施されたとしか思えない。明治政府は国外では明治27年に日清戦争を起こしている。 (2020.4.3)

明治三二年

裁判記録
二風谷裁判認定事実

 529p
 530p(拡大)
北海道旧土人保護法が制定され、農業の奨励による生活安定のため の土地給付等が図られたが、アイヌの人々に給与される土地は 法律で上限とされた五町歩をはるかに下回り、しかもその中に二割近い開墾不能地があったことなどから、アイヌの人々の生 活水準は極めて低いままであり、生活の安定を図ることはでき なかったこと、

以上の事実が認められる。

右認定事実に弁論の全趣旨を総合すれば、前記のような漁業等の禁止は、主に漁猟によって、生計を営んできたアイヌの人々 の生活を窮乏に陥れ、その生活の安定を図る目的で制定された北海道旧土人保護法も、アイヌ民族の生活自立を促すには程遠 く、また、アイヌ民族の伝統的な習慣の禁上や日本語教育などの政策は、和人と同程度の生活環境を保障しようとする趣旨が あったものの、いわゆる同化政策であり 和人文化に優位をおく一方的な価値観に基づき和人の文化をアイヌ民族に押しつけ たものであって、アイヌ民族独自の食生活、習俗、言語等に対する配慮に欠けるところがあったといわざるを得ない。これに より、 アイヌ民族独自習俗、言語等の文化が相当程度衰退す ることになったものである。
▼すばらしい認定と評価。(2020.4.4)
▲改めて読み返すと「二風谷ダム」判決は大いに使えそう。(2022.6.2)
▲この認定事実はそのまま国に対する謝罪を求める根拠となる。(2022.8.13)

                                               トップへ戻る
一 争点1 について
(原告らの主張) 本件収用裁決は、憲法二九条三項に違反する。
憲法二九条三項は、私有財産は正当な保障の下にこれを公共の目 的のために用いることができると規定しているが、これは一般原則 を定めたものに止まり、憲法の他の規定は条約更には事柄の性質に 照らして、そもそも収用自体が許されない場合に収用を行うことは 憲法二九条三項に違反するというべきところ、本件収用は次のとお り同条同項に違反する。

すなわち、憲法一三条所定の個人の中には少数先住民族たるアイ ヌ民族に属する原告らが含まれることは明らかであるから、同条は 我が国政府が我が国内に共存するアイヌ民族に対しても民族の尊厳 を最大限尊重し、それを損なったり、その文化そのものやその伝承 にマイナスの影響を与えてはならない義務を負う。
▼弁護団 まず収用は憲法一三条違反と主張。(2020.4.4)

また、我が国は、国連総会が昭和四一年(1966年)に採択した「市民的及び 政治的権利に関する国際規約」(以下これを「B規約」という。)を 昭和五四年(1979年)に批准し公布しており、その二七条は「少数民族の文化 享有等の権利を否定されてはならない」と定めている。それととも に我が国は、条約法条約(いわゆるウィーン条約)を昭和五六年に 批准し、同条約は条約第一六号として公布されており、同条約二六 条には「効力を有するすべての条約は当事国を拘束し、当事国はこ れらの条約を誠実に履行しなければならない」と規定されていて、 締約国の条約遵守義務を定めている。これらの規定と憲法九八条二 項の条約遵守義務の規定とを併せ考慮すれば、我が国政府は、少数 先住民族たるアイヌ民族の権利を侵害してはならないのは勿論として、 その権利行使が不十分でないよう諸々の政策を行うことを義務づけ られているというべきである。

更に少数先住民族であるアイヌ民族は独自の言語と生活様式をも っており、沙流川流域はアイヌ文化を育てた地であり、本件の土地 収用対象地である二風谷地域はその中心地域として、チャシなどの 遺跡が残存し、チプサンケなどの伝統行事が復活し毎年行われ、三 つのチノミシリというアイヌ信仰の聖地が現存している。したがっ て、性質上金銭で補償することが到底できない土地である。

以上によれば、本件収用裁決は、憲法一三条及びB規約二七条等 に違反する違法なものであるから、そもそも収用手続の限界を超え 憲法二九条三項に違反した処分といわざるを得ない。
▼弁護団の説得力ある主張。(2020.4.4)

(原告らの主張)
(二)本件ダムにより失われる利益
アイヌ民族は、歴史的にみて主に本州から北海道に渡ってきた アイヌ民族以外の日本人(原告らの用法に従って、以下「和人」 という。)よりはるか以前に北海道に先住し独自の言語・風俗・風 習を有していた先住民族であることが明らかである。
ところが、明治に入り、明治政府は、そのアイヌの人々の土地、 言葉、宗教、習慣、食物、生活資料の取上げとアイヌ民族消滅政 策ともいうべき民族の同化政策により、アイヌ民族の民族として の存在すら否定しようとしてきたが、アイヌの人々は抑圧され差 別され窮乏化しながらも、アイヌ文化を伝承してきた。
▼「アイヌ民族消滅政策」。私が明治30年の箇所で感じたことを原告の 主張として展開されている。まさに民族抹殺政策だ。(2020.4.4)
▼金達寿著『日本の中の朝鮮文化1』(講談社文庫p34〜p36)を読んでいたら 「大磯の高麗神社は1897年の明治30年に高来神社にされている。…日本の 歴史が一貫して朝鮮というものを消し去ろうとしたことの一つあらわれ」の文章に出会った。 明治帝国主義政府のアイヌ民族、朝鮮民族蔑視の腹の底が見えた気がした。(2020.4.5)

二風谷地 域は、アイヌの人々が最も多く居住しているところであり、アイ ヌの人々の居住人口の割合が高い地域で、民族の伝統的文化がよ く保存されている地域であり、アイヌ文化の心臓部でもある。
元々文化は、目に見える形のあるもののみを指すものではなく 人の生き方人の生き様総体であり誕生から死亡までその 節々において様々な営みを行なう、その総体である。
文化というも のは、各構成要素が点で存在するのではなく、自然環境とリンク して一体となった持続性のあるものである。そして、その中には、 自然と共生するという精神文化も含まれるし、イオルという空間 領域も含まれ、また民族に特有の神話的伝承も含まれる。
▼アイヌ民族の文化を知るのに格好の教材。(2020.4.4)
二風谷地域におけるアイヌ文化の要素等を掲げると、次のとお りである。

オキクルミ伝説(拡大) 宇田川洋『アイヌ伝承とチャシ』90p
▲拡大して読んでください。正しい伝説の場所がわかります。(2022.8.15)
額平川沿いの切り立った山並みが重なり合う 荒々しい景観の中、一際切り立った岩肌が目立つ標高約 180m の崖山。
アイヌの伝承では アイヌに生活文化を教えたとされるオキクルミカムイの好んだ荷負での拠点(住処)とさ れている。 名勝ピリカノカに指定。
「平取文化的景観」より
(1)沙流川自体「サルンクル」と呼ばれる集団が多数居住してお り、オキクルミのカムイ(神)がシンタと呼ばれた「揺りかご」に乗って降りてきて、アイヌ文化を作った場所である。
シンタ(拡大)
▼サルンクル(sar-un-kur un〜所 kur人)=沙流川の人。 門別川の人=モペドンクル(モペツ ウンクル) 鵡川の人=ムカウンクル 静内川の人=シペチャリウンクル 新冠の人=ニカプンクル(ニカプ ウンクル) アイヌが相手を呼ぶ場合たいてい出身地を先に言うものである。サルンクル萱野茂という風に。
オキクルミカムイ=オキクルミの神。アイヌに生活文化を教えた神の名。沙流川に降臨したということでオキクルミの砦伝説などがある。 (「萱野茂のアイヌ語辞典」)
▼二風谷の聖地と言われる由縁がよくわかる。


(2)二風谷地域のアイヌの人々にとって、二風谷地域は「イオル」 空間であり、自己の民族的アイデンティティを確信できる空間 である。「出自集団」として小世界(小宇宙)を作っている。

(3)沙流川に遡上するシェぺ(鮭のこと)は、アイヌ民族の食文 化の中で最も重要なものであり、アイヌ民族は自然との共生を 考えた捕獲方式をとってきた
▼にもかかわらず明治6年石狩川上流の豊平、発寒、琴似、篠路でのウライ網漁は禁止された。(2020.4.5)

(4)チプサンケという伝統的儀式は、これを通じてアイヌ民族の 若者がイナウ等の祭具の作り方を学び、儀式の意義と方法を学 び、その中で民族の自覚を得る重要な機会である。 なお、アイヌの人々は、チプサンケに限らず、季節や生活、 人生の節目にカイムノミという儀式を行い、この儀式に参加す ることで民族的自覚も芽生える。
(5)二風谷地域にはチノミシリという心の拠り所として、汚したり、 傷めたり、地形を変えたりしてはならない場所が三箇所ある。 アイヌの人々は、日常の中でチノミシリを意識しながら生活し ている。
▼「二風谷では熊の姿岩のチノミシリ、カンカン向かいのチノミシリ、オケネウシのチノミシリ、 3か所あってそこへ神のお告げが聞こえたら村人全員が気をつけるものだ。」(「菅野茂のアイヌ語辞典」)
(6)二風谷地域は、民族に特有の神話であるユ−カラ伝承の地で ある。
(7)アイヌの人々は一つ一つの地形を大事にしている。一つ一つ の地形が小さい川であれ、小さい湧き水であれ、文化伝承の場 所とされている。 本件水没地の沙流川右岸には、アイヌ語の地名が二三箇所も 付けられており、その一つ一つにアイヌの人々はカムイ(神) の存在を認め、水を汲む場所、山菜の採れる場所各々において カムイと対話している。

                                               トップへ戻る
以上述べたいくつかの要素等が総体としてアイヌ文化を形成 しているのである。
このように、二風谷地域は、アイヌ民族の歴史、伝説等に照 らし、高度の文化的価値を有する地域であり、その景観的、風 致的、宗教的、歴史的諸価値は、将来にわたり、長くその維持、 保存が図られるべきものである。

本件ダムが建設されると、ア イヌ民族の尊厳が否定されるばかりでなく、それまでの二風谷 地域の環境が損なわれ、土地の地形は著しく変更され、チャシ の遺跡、神聖なチノミシリは破壊され、チプサンケの場所も水 没させられ、また、上流への鮭の遡上は不可能となる。
参加人(国)は、前述したとおり、明治政府成立以来、先住民族であるアイ ヌ民族の土地、言葉、宗教、習慣、食物、生活資料を取り上げ てきたのであり、更に、本件事業認定において、右のような二 風谷地域におけるアイヌ文化の存在そのものを無視したのであ り、アイヌ民族の尊厳は、本件ダム建設により蹂躙されている のである。

仮に、事業認定の目的に沿うダムを建設する必要性があると したとしても、これをアイヌ文化の心臓部である二風谷地域に 建設しなければならない合理的必要性はない。
▼「アイヌ文化の心臓部である二風谷地域」。この叫びを国はどう受け止めているのか。(2020.4.5)

実際に、参加人は、本件事業計画を立案するに際し、本件二風谷地域にダムを 建設する案の外、その上流あるいは下流に建設する計画案を検 討し、結局、コンクリ−トの体積が最も少なく、経済的である という理由により、中流案である二風谷地域を選択しているので あるが、前述のような文化的価値の保全を重視するなら、いか ほどの費用を要するにせよ、 他の土地を選択するべきであった。 (▼因みにダム工事費をダム管理所に問い合わせたら約520億円ということだった。)

比較衡量の結果 土地収用法二〇条三号所定の「事業計画が土地の適正かつ合理 的な利用に寄与するものであること」という要件は、その土地が その事業の用に供されることによって得られるべき公共の利益と、 その土地がその事業の用に供されることによって失われる利益と を比較衡量した結果、前者が後者に優越すると認められる場合に 存在するものであると解されるところ、本件においては前者の公 共の利益は前述したとおり乏しいといわざるを得ない一方、後者 の利益は、世界の先住民の自主的権利尊重の潮流の下で正当に解 釈されるべき憲法一三条、B規約二七条に基づく少数先住民族た るアイヌ民族の何物にも代え難い民族的価値である自己の文化を 享有する権利に属するものであって、このことは、争点1の原告 ら主張において既に述べたとおりである。
▼そのとおり。(2020.4.5)

そうであるとすれば、本件の認定庁たる建設大臣は、本件事業 計画の策定から、事業認定の申請、そして事業認定に至るまでの 間に、不当に軽視してはならずむしろ本来最も重視されるべきア イヌ民族の尊厳や文化的価値を鋭意調査すべきであったところ、 次に述べるとおり、本件において二風谷地域にダムを建設するこ とが持つアイヌ民族に対する民族的影響や文化的影響が考慮され た事実はないのである(文化財保護法に基づく埋蔵文化財として のチャシの調査を行ったのみであるが、この手続は法律上当然行 うべき手続であり、格別アイヌ文化とは関係がない。)。

以上からすれば、本件事業計画は土地収用法二〇条三号所定の 前記要件を満たすものとは到底いえず、本件事業認定とこれを前 提とした本件収用裁決は違法なものであり、取り消されるべきで ある。

1994年萱野茂国会質問
陳述内容
萱野茂
裁判を終えるに
あたって1

裁判記録505p
(拡大)1

▲この部分はアイヌ語での陳述。日本人にはさっぱりわからない。 逆に言えば明治のはじめ、アイヌ民族はさっぱりわからない日本語の世界へ投げ込まれた。(2022.8.13)

萱野茂
裁判を終えるにあたって2

裁判記録505p(拡大)2

「あなたたちは、日本という、別の国から来た、別の民族なので、アイヌ語を聞いてもわからないのです。」
「その昔にアイヌのおばあさん、アイヌのおじいさんが、日本人を見たら、鬼(nikne-kamuy) よりもおそろしがった」


▲「鬼よりもおそろしがった」、当事者の抱いた感情。アイヌ民族に対する恐怖政治。和人、自覚すべし。(2022.8.13)
萱野茂
裁判を終えるにあたって3

裁判記録506p(拡大)3

「4万箇所のアイヌ語地名があると考えられます。」 「でっかい島を日本人に売った覚えもないし、貸した覚えもない、日本人よ 年貢ぐらいだしたらいいでしょう。(『アイヌの碑』)今もその考えは変わって いないのであります。」

▲「日本人よ 年貢ぐらいだしたらいいでしょう。」 我々の目指す裁判はアイヌモシリ回復と年貢(地代)の請求。(2022.8.13)
萱野茂
裁判を終えるにあたって4

裁判記録506p(拡大)4

「アイヌ語の地名の上を歩きながら 「無主地」とは呆れてものも言えないというのがアイヌ民族、私の偽らざる気持ちです。」

▲どんな法律論よりも説得力がある。(2022.8.13)


萱野茂
裁判を終えるにあたって5

裁判記録507p(拡大)5

「チノミシリ、最後まで誰にも教えたくなかった。民族の心の部分 であったのだ。鮭のことにしても、侵略者によって主食をうばわれた民族は、世界中で、アイヌ民族だけですよ。」

▲謝罪と補償は当然。今準備中の裁判はやはりこの思いの継続。(2022.8.13)
萱野茂さん
「あるダムの履歴書 3」
「日本の国は知らん顔して、しらっぱくれて」
























貝澤耕一さん陳述書
 父の願い1

 父の願い2
1996年12月19日
裁判記録508p(拡大)

「あるダムの履歴書 4」(拡大)

「あるダムの履歴書 6」1996年(拡大)
「先祖の残してくれた大地に小屋を建て、湖水の底の人柱となる 決心を固めている。そうでもしなければ、先祖のところへいっても、なんとも弁解のしようもない。アイヌモシリ破壊を認めた責任をとらなければ ならない。」
父はこの言葉を残して1992年この世を去った。


▲左上「チノミシリの一つを削り取って工事用のクレーンを設置」

▲左。ダム建設で壊されたペウレプウッカでご先祖に詫びる儀式を執り行う耕一さん。 つらい光景。
▲耕一さん、だから、やっぱり「アイヌモシリ回復」訴訟ではないですか。 (2022.8.18)

本件事業認定が違法であり、その違法は本件収用裁決に承継されるから、
▼あれあれ、ここからがおかしい!(2020.4.5)

本来であれば本件収用裁決を取り消すことも考えら れるが、既に本件ダム本体が完成し、湛水している現状においては、本 件収用裁決を取り消すことにより公の利益に著しい障害を生じる。
ダムの砂地に雪が積もった 画像貝澤耕一さん(2021.10.31)

▼これはないでしょう、裁判長!これでは違法をやって 先に事実を作った者が大手振って歩くことになるでしょう。法治国家で許されるのですか。(2020.4.5)

他方、チヤシについて一定限度での保存が図られたり、チプサンケについて代 替場所の検討がなされる等、不十分ながらもアイヌ文化への配慮がなさ れていることなどを考慮すると、本件収用裁決を取り消すことは公共の 福祉に適合しないと認められる。
▼違いますね。(2020.4.5)

よって、本件収用裁決は違法であるが、行政事件訴訟法三一条一項を 適用して、原告らの本訴訟をいずれも棄却するとともに本件収用裁決が 違法であることを宣言することとする。
▲これを事情判決というらしい。はじめて知る。『アイヌ民族二人の反乱』から。(2023.11.11)
(拡大)
事情判決1 本田勝一(拡大)
事情判決2 弁護士・房川樹芳
(拡大)
事情判決3 行政事件訴訟法31条1項(拡大)
▲この規定は酷すぎる。(2024.12.9)
事情判決4 「先住民族」の認定意義も結論で損なわれた。(拡大)
▼裁判長は法律家として最大限の論理と誠意で原告の主張を吟味して、 国の事業認定を違法、との正しい結論を導きながら、最後の最後で「ダム本体が完成し、湛水している現状」では収用裁決を 取り消すことは「公共の福祉」に適合しないと、とんでもない判断をしてしまっている。
物事の判断というのは、知性よりも、論理よりも、すぐれて人間としての勇気・胆力の問題である。肝心のところで筋を曲げては 人間として尊敬されない。残念である。
この事件の結論はダムを壊し、二風谷に元の景色と生活を回復させることである。 日本人としてアイヌの人たちへの償いと責任である。わたしはそう考える。例えば伊勢神宮がダムで水没してしまう! 多くの日本人はどう思うか。そのような想像をはたらかせてほしい。(2018年7月6日)

▼次の年表を見てほしい。判決が出た1997年はどのような時代であったか。
1989年 H1
スイス・ジュネーブでのILO総会は、過去の同化促進を否定し、先住民族の固有性、社会的、 経済的文化的発展のためILO・107号条約から、ILO・169号条約に改正。
日本政府は、内閣内政審議室を中心に10省庁からなる「アイヌ新法問題検討委員会」を設置
1990年 H2
国連総会は1993年を「世界の先住民のための国際年(略称 国際先住民年 )」とすることを採択。
1991年 H3
国連先住民作業部会エリカ・イレーヌ・ダイス議長一行、アイヌ民族の地位を視察。シンポジウムが東京と札幌で開催された。
1992年 H4
ニューヨーク国連本部総会会議場で行われた国際先住民年(▼コロンブスから500年) の開幕式典に世界の先住民族から18人、2 団体が招待され、 理事長野村義一がアイヌ民族を代表して記念演説
1993年 H5
グァテマラ先住民リゴベルタ・メンチュウ・トゥム(1992年ノーベル平和賞受賞者、国際先住民年国連親善大使) を北海道に招待、アイヌ代表と交流 国際先住民年を記念して様々な催物が日本国中で開催され、アイヌ民族の理解促進が図られる契機となった。
国連は、1994年12月10日から「世界の先住民の国際10年」の開始を決議
1994年 H6
国連は、「国際先住民の10年」の間、毎年8月9日を「国際先住民の日」として祝うことを決議
1995年 H7
連合政権(自由民主党、日本社会党、新党さきがけ)に、アイヌ新法検討プロジェクトチームを設置
「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」(内閣官房長官の私的諮問機関/座長伊藤正巳)設置
1996年 H8
「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」の報告書提出
▼このような動向から見ると「先住民族」を認めた意義はとても大きいが 「公共の福祉」に引きずられた判決と言わざるを得ない。(2018年7月6日)
▼私は今このつづきの裁判を準備しています。(2020.4.5)
▼一宮 和夫裁判長に聞いてみたい。「なぜダム破壊の判決を出さなかったのか」(2021.7.29)

二風谷ダムの建設について http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=251
昭和44年3月 (1969)沙流川水系工事実施基本計画決定
  48年4月 沙流川総合開発事業実施計画調査に着手
    12月 平取町、門別町計画調査に同意
  57年8月 平取町が「生活再建相談所」設置
  59年3月 (1984)「沙流川総合開発事業に伴う損失補償基準」妥結調印
    9月 平取町、ダム着工に同意 ▲議会、二風谷の地元にどのような説明が行われたか? (2022.9.12)
  60年3月(1985) 「水源地域対策措置法」に基づくダム指定
    12月 門別町、ダム着工同意 ▲議会、地元にどのような説明が行われたか? (2022.9.12)
  61年4月 土地収用法に基づく事業認定申請
    9月 二風谷ダム堤体工事発注
    12月 事業認定の告示
  62年11月 (1987)北海道開発局、貝沢正氏と萱原茂氏の所有地の強制収用、明け渡しの採決を北海道収
      用委員会に申請
平成元年2月 (1989)北海道収用委、両氏の所有地の強制収用を認めると採決
    2月 両氏、土地買収の補償金の受取りを拒否
    3月 両氏は、建設省に採決取り消しの審査請求と、強制収用の執行停止を申し立てる
▲訴訟の開始(2022.9.12)
  3年3月 札幌国税局、両氏の補償金計2900万円を差し押さえる 所得税など計 570万円を強制徴収
    12月 二風谷ダムアイヌ文化博物館開館
  4年2月 (1992)貝沢正氏死去、子息耕一氏訴訟を受け継ぐ
  5年4月 (1993)建設省、採決不服審査請求、強制収用執行停止の申し立てを棄却
    5月 両氏(原告)、北海道収用委員会(被告)を相手取り、収用採決取り消しを求めて札幌地裁に提
       訴
    7月 二風谷ダム裁判初回口答弁論
    10月 被告側の国の補助参加認める
  6年2月 (1994)原告側は日本に少数先住民族のアイヌ民族が存在するか、二風谷でアイヌ民族が独自の
       文化をもって暮らしているかについて、被告側に見解を求めた。
    7月 萱野茂氏、参議院議員となる
    10月 被告側は、アイヌ民族は少数民族であり二風谷ダムにアイヌの人々が独自の文化を持ちながら暮
       らしていると回答
    11月 被告側はアイヌ民族が先住民族かどうかを認否する必要はないと回答
  8年4月 (1996)二風谷ダム試験湛水開始
    6月 試験湛水終了
    8月 ダムの水抜きが行われ、旧会場でチプサンケ(舟おろし祭)が行われる
    12月 裁判結審
  9年3月 (1997)判決・両氏の土地明渡し請求を棄却した。
         ・北海道収用委員の強制裁決は違法である。
          アイヌ民族は先住民族に該当すること、先住民族の文化享有権を認めた。
         ・収用裁決は取り消さなかった。二風谷ダムの水抜きは公共の福祉に適合しないとした。
    4月 国、北海道収用委は控訴せず
▲訴訟の終了(2022.9.12)
▲1969年沙流川水系工事実施基本計画決定から1997年裁判の確定まで28年。 1989年強制収用執行停止申立からだけでも8年。「アイヌモシリ回復訴訟」も10年はかかる。(2021.10.31)

▲『アイヌが生きる河』279pより
 数か月後東京で報告会が開かれた。貝澤耕一が壇上に上がった。
「この判決が出て、二風谷で祝ってくれる者はいないのです。」
 
ショック!(2022.8.22)

     7月 「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識及び啓発に関する法律」(アイヌ文化振興
        法)の施行
       「北海道旧土人保護法」の廃止
       アイヌ文化振興・研究推進機構の発足
    8月 ダム下流の代替地でチプサンケ開催
       チプサンケとは別に二風谷湖水祭りが初めて開催
    10月 二風谷ダム完成式典
  10年4月 (1998)二風谷ダム管理所発足
    7月 沙流川歴史館開館
耕一さん願い1 1998.1.25
裁判記録29p(拡大)
耕一さん願い2 裁判記録29p(拡大)
耕一さん願い3 裁判記録30p(拡大)
耕一さん願い4 裁判記録30p(拡大)
耕一さん願い5 裁判記録31p(拡大)








耕一さん願い6 裁判記録31p(拡大)
耕一さん願い7 裁判記録32p(拡大)
耕一さん願い8 裁判記録32p(拡大)
耕一さん願い9
裁判記録33p(拡大)







「願い2」 1988年2月15日の収用委員会で父は「沙流川周辺コタンの裏山にある社有林全部を元の地主であるアイヌ民族に返してほしい。 ただで北海道の土地を取り上げたのであるから、 ただでアイヌ民族に返すこと。」と述べています。

「願い5」 父の訴えたかった事は「自然林を取り戻すための前提として、コタン(村)の裏山(社有林、国有林)を返し、アイヌ民族共有とし、 自然保護、文化伝承の場とすること」であったように思います。

▲耕一さんの父・正さんの「願い」の中で実現していない課題は、 「コタンの裏山をアイヌ民族共有として取り戻すこと」。萱野茂さんの「日本人よ 年貢ぐらいだしたらいいでしょう。」とを合わせると 我々の目指す裁判はアイヌモシリ回復(アイヌ民族共有地)と地代(年貢)の請求。(2022.8.17)

平取町・国有林・民有林 貫気別川両岸、沙流川左岸は民有林
(三井の森5,769ha)
国有林 41,513ha   民有林 21,243ha

(拡大)
(拡大)画像は貝澤耕一さん
▲平取町・国有林・民有林の地図とイオルの地図のFニプタニを合わせると、Fニプタニ・コタンのアイヌの人たちが原告になりニプタニ イオルの国有地、民有地を訴訟物とすることは裁判として成り立つように思う。

今考えている「アイヌモシリ回復訴訟」は貝澤正さん、萱野茂さんの「願い」であり、「二風谷ダム」裁判の継続でもあると思う。 (2022.8.19)


▲原告を「ニプタニ・コタンのアイヌの人たち」に限定する必要はないと思う。この人たちを含む「アイヌモシリの会」 でいいと思う。(20222.9.7)


田中宏弁護士 (拡大)

▲田中宏弁護士訪問(2022.4.5) オフィスの壁に「マグナ・カルタ」
自由なイングランドの民は、国法か裁判によらなければ自由や生命、財産を侵されない。(第38条)

イギリスの現行法令集(Halsbury's Statutes、ハルズベリー法典)に載っている条文は、1225年のヘンリー3世の時代に作られた 新しいマグナ・カルタを、1297年にエドワード1世が確認したものである。
前文と4か条(1条、13条、39条、40条)が廃止されずに残っている。

前文 国王エドワードによるマグナ・カルタの確認
第1条 教会の自由
第9条(1215年の原マグナ・カルタの13条に相当) ロンドン市等の都市・港の自由
第29条(原39条および40条) 国法によらなければ逮捕・拘禁されたり、財産を奪われない(デュー・プロセス、適正手続)
▲デュー・プロセスは日本国憲法31条に受け継がれている。マグナカルタ(1215年)からという意識はなかった。 (2022.4.9)
1232年貞永式目
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/goseibaishikimoku/index.html#kazoku
▲1224年親鸞「教行信証」1253年道元「正法眼蔵」。日本の知的水準。(2022.4.11)
権利章典(Bill of Rights 修正第1条〜第10条 1791年)修正第5条
何人も、大陪審の告発又は起訴によるのでなければ、死刑又は自由刑を科せられる犯罪の責を負わされることはない。 ただし、陸海軍において起こった事件、又は戦時若しくは公共の危険に際し、現役の民兵の間に起こった事件については、 この限りでない。何人も、同一の犯罪について、再度生命身体の危険に臨まされることはない。 また、何人も刑事事件において、自己に不利な供述を強制されない。 また、正当な法の手続によらないで、生命、自由又は財産を奪われることはない。 また、正当な賠償なしに、私有財産を公共の用途のために徴収されることはない。
延喜式 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1273518
貞永式目と合わせ勉強すること。(2022.4.12)

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アイヌ民族史年表                                    2018・07・21
                                        北海道アイヌ協会・阿部 ユポ
この「アイヌ民族史年表」は北海道アイヌ協会副理事長の阿部 ユポさんが、北海道の大地の形成から現代まで、 アイヌ民族がどのようにアイヌモシリで生きてきたかを年表の形で纏められたものです。
この年表を2か月間、読んで、勉強して私が強く感じたことは、アイヌ民族の戦いの記録であるということです。 そしてアイヌ民族がこれからどのように生きていくべきかということのユポさんの活動家としての強い思いでもあります。 私は深く共感しながら勉強させていただきました。
この記録は、恥ずかしながら私も含めて普通の日本人にとって常識になっていない歴史でもあります。 多くのわからないところは主にWikipediaのお世話になりました。▼の印の所は私が調べて補足したものです。 ユポさんの意図をできるだけ読み取り、理解するために出典を確認し、出典のないものは調べて入れておきました。

年表のすべてを追っていくことはかなり根気のいる作業ですので、是非とも読んでいただきたい箇所を以下に挙げておきます。 ユポさんの思いが一人でも多くの日本人の常識になることを願っています。(2018年10月4日)
1789年 「クナシリ・メナシの戦い」
1893年(M26)第五回帝国議会「北海道土人保護法」提案  加藤政之助
1923年(T12)知里幸恵「アイヌ神謡集」
1931年(S6)バチラー八重子「若き同族(ウタリ)に」
1946年(S21)「アイヌ民族甦生援護ニ関スル歎願書」
1984年(S59)北海道ウタリ協会、総会で「アイヌ民族に関する法律(案)」を決議
1989年(H元)「ILO169号条約」(Convention concerning Indigenous and Tribal Peoples in Independent Countries独立国における原住民及び種族民に関する条約) 成立。全文本HP「国連基準」の頁に掲載。
1997年(H9)CERD第51会期・「先住民の権利に関する一般的勧告XXV」決議 (全文本HP「国連基準」に掲載)
二風谷ダム判決
2007年(H19)国連総会(第61会期)「先住民族の権利に関する国際連合宣言」採択 (9月13日)。全文本HP「国連基準」に掲載。
2008年(H20)2月13日 豪政府、アボリジニに公式謝罪
6月6日、衆参両議院本会議にて「アイヌ民族を先住民族とすることを求める国会決議」全会一致で採択
7月1日、国会決議を受け、政府・首相官邸内に「アイヌ政策の在り方に関する有識者懇談会」設置、(委員8名中、アイヌ委員1名) 第2回加藤理事長発言要旨
 〃 (H20)「国連「先住民族宣言」とアイヌ民族」と題する 阿部一司(ユポ)さんの講演
2014年(H26)国連総会での世界先住民族会議(9月22日)成果文書採択。 成果文書本HP「国連基準」に掲載。

(2019.1.14ユポさんの確認が得られましたので順次年表を掲載いたします。アイヌ民族の頁、本日2019.1.31一応完成しました。 これから細部に手を入れます。)

                                                  トップへ戻る
北海道の誕生(アイヌモシリ・蝦夷地)
 ・銀河系宇宙空間に地球が誕生したのは40数億年前
 ・北海道の生成は、1500万年前(北米プレートとユーラシアプレートの衝突)
 ・さらに北海道の原形は、1000万年前
 ・旧石器時代
 ・3万年前、日本列島は大陸と陸続き、マンモスハンター渡って来る(ウルム氷河期=襟裳岬、夕張、上士幌(かみしほ   ろ)、千歳、遺跡)
 ・北海道が島になる
 ・日本列島に土器があらわれる
縄文文化
 ・1万年前、日本列島.縄文文化時代(縄文人)、古代人の往来、交易(大量の遺物.遺跡=千歳キウス.丸子山.有珠遺跡) 千歳キウス周堤墓遺跡  千歳丸子山遺跡   伊達市有珠遺跡   wikipedia縄文遺跡
 ・北海道に石刃鏃.土器があらわれる
ウルク:絵文字発祥の地 現在のイラク領ムサンナー県のサマーワ市からおよそ30キロメートル東にある。(2023.6.5)
絵文字 縄文中期(拡大)
草創期:約16,000年前 - (ただし、縄文文化的な型式の変遷が定着するのは草創期後半から)
草創期後半から始まった縄文土器は、以後、次の段階を経て発展していく。
縄文中期の土器 火焔型土器
▲文字の発明と同時期(2023.6.4)(拡大)
カマン・カレホユック
ヒッタイトの鉄
エジプト新王国と勢力を二分したヒッタイト帝国(紀元前1200〜同1400年)の中心部。トルコ・アナトリア地方の古代遺跡。 (2023.6.5)
縄文晩期(拡大)
早期:約11,000年前 -
前期:約7,200年前 -
中期:約5,500年前 -人類史上で初めて「文字」の起源だと考えられているのは、紀元前3200年頃の西アジアのシュメール人の都市ウルクで使い始められた絵文字だと言われています。
後期:約4,700年前 -
晩期:約3,400年前 - (ただし、晩期から弥生時代への移行の様相は地域によって相当に異なる)
旧約聖書は、紀元前1400年頃から約1000年間にわたる神とイスラエル民族との関わりの歴史と、救いの約束を描いた書物です。 ヘブライ語で書かれ、ユダヤ教の経典でもあります。
メキシコ古代文明
2023.6.15朝日朝刊
(拡大)

マヤ文明の領域
古代メキシコ文明 大河のほとりの「四大文明」とは違う文明。
(拡大)
ギリシア神話として知られる神々と英雄たちの物語の始まりは、およそ紀元前15世紀頃に遡ると考えられている。
イスラエル・モーゼの時代に飛ぶ
▲旧約聖書、紀元前1400年頃から約1000年間の歴史、縄文晩期。ギリシア神話、物語の始まりは、 およそ紀元前15世紀頃。これも縄文晩期。神話、伝説の世界。火焔型土器は縄文中期。神話、伝説以前の世界。(2023.6.6)
物語は、その草創期においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。紀元前9世紀または8世紀頃に属すると考えられるホメーロスの二大叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』は、 この口承形式の神話の頂点に位置する傑作とされる。口承でのみ伝わっていた神話を、文字の形で記録に留め、神々や英雄たちの関係や秩序を、 体系的にまとめたのは、ホメーロスより少し時代をくだる紀元前8世紀の詩人ヘーシオドスである。
▲紀元前500年の世界をイメージしておくことが大事。(2023.6.6)亀ヶ岡文化は晩期縄文(2024.12.9)
三内丸山遺跡 ▲遮光器土偶の時代は西洋・東洋の紀元前500年の世界と同時代。(2023.6.6)
(拡大)
遮光器土偶 宮城県大崎市田尻蕪栗(かぶくり)恵比須田遺跡
(拡大)
亀ヶ岡文化圏
紀元前500年頃

平山『アイヌ語地名が語る』23p(拡大)
亀ヶ岡
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紀元前500年頃の世界
孔子(前551年 - 前479年) - 春秋時代の魯の思想家(儒家)・諸国遍歴後に教育に携わる・言行録に『論語』がある
ヘラクレイトス(前540年頃 - 前480年頃?) - エペソス出身の哲学者・万物の根源を「火」とし「万物流転」を唱える
ソポクレス(前496年 - 前406年) - アテナイの悲劇作家・三大悲劇詩人の一人・作品に『オイディプス王』などがある
ヘロドトス(前485年頃 - 前425年頃) - ハリカルナッソス出身の歴史家・ペルシア戦争をもとに『歴史』を著し「歴史の父」と呼ばれる
ソクラテス(前469年頃 - 前399年) - アテナイの哲学者・対話を通じて「無知の知」を探求・弟子にプラトンやクセノポン・死刑にされる
ゴータマ・シッダッタ(シャカ)(前463年 - 前383年、生没年は諸説あり) - 仏教の開祖・釈迦(釈尊)や仏陀とも呼ばれる
 ・続縄文文化時代(続縄文人=アイヌ)(恵山文化.江別文化.東北地方までの拡がり)
 ・擦文文化時代、(擦文人=アイヌ.オホーツク文化=ギリヤーク.土師器文化.鉄器) 
*「アイヌの文化や社会は、考古学の研究成果を踏まえると、遅くとも日本の古代に相当する時期 ≪旧石器.縄文.擦文≫から周辺の諸民族との接触・交易を媒介にして大きな変容を遂げてきている (北東アジア.東南アジア.サハリン.クリール.カムチャッカ.アリューシャン.日本)」
「日本人の起源」洋泉社 (拡大)
アトイの縄文
▲昨日アトイさんの「縄文」を見て聞きました。 この人は思想家。この人の音楽は人間の呼吸そのもの。ペウタンケに人類の、地球の、進む方向が歌われている。 アイヌ・ネノアン・アイヌ=人間そのもの。アトイさんは「アイヌモシリの会」の思想的・文化的支柱かつ表現者、体現者。(2023.3.8)(拡大)
「北海道の新石器人(縄文人)は、北東アジアの先住民族の仲間 と位置づけられおそらくは北東アジアから移住してきたもの と考えられる。」
平山『地図でみるアイヌの歴史』17p(2022.7.27)
▲南からの北上者でなく北からの南下者。頭の切り替えが必要。(2022.9.5)


▼左の時代区分表を見てください。日本本土の縄文時代までは沖縄も北海道も共通です。本土は弥生・古墳・飛鳥・奈良と展開していきますが、 北海道は縄文の次に続縄文擦文時代を経てアイヌ文化期に展開していきます。アイヌ文化期は本土の鎌倉時代に成立しています。

▼続擦文時代にオホーツク文化につづきトビニタイ文化が並行して展開しています。 左の時代区分表はそのことが分かり易く図示されています。作図は篠田謙一さんです。(「日本人の起源」27頁洋泉社 2018.7.5)
▼続縄文文化とは(Wikipediaはwp と略) wp:本州の住民が水稲栽培を取り入れて弥生時代に移行したときに、気候的条件からか水田を作らず、 縄文時代の生活様式を継承した人々が営んだ文化が続縄文文化である。本州が弥生・古墳文化に移行するときまで 本州と北海道の住民は同じ縄文文化を共有していたが、ここで道が分かれることになった。
▲「ここで道が分かれ」この認識に疑問符。平山裕人『アイヌ民族の現在、過去と未来』21p
「北海道・東北地方の新石器文化は東日本の影響と、北東アジアの影響を受けながら、文化を形成していった。」 凄い歴史観。北東アジアの強調。はじめて。(2022.7.20)


▼榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館16頁から。
擦文土器北見市 オホーツクの町北見市(拡大)
江別式土器

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江別・北大・擦文土器の分布(拡大)
江別・北大・擦文文化の年代と広がり(拡大)
「続縄文文化期の土器文様に、近世アイヌ文化に特有なアイヌ文様に類似した文様形式が認められ、 かつそれにつづく擦文文化は、集落のありかたや出土遺物のありかたなどから、 アイヌ社会への連続性が非常に強いものといわれている。」


▼(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館16〜17頁)
擦文文化とは一般的には7・8世紀〜12・13世紀に展開したものとみられている。
主な文化圏は現在の青森県北部から北海道にいたる地域である。
擦文文化の物質的特徴は、土器に付された文様が「縄文」ではなく、幾何学的な「擦痕(さつこん)」の文様を付した「擦文土器」である。
この土器は東北地方の土師器の影響を強く受けて成立したものとされている。
同文化の晩期には金属製品が続縄文文化期よりも遥かに多くなる。 これは日本社会との交易を従来以上に活発に行うようになったことを示している。
▼擦文文化のキーワード: アイヌ社会への連続性・ 文化圏は青森県北部から北海道にいたる地域・ 東北地方の土師器の影響(2020.4.10)
▲擦文土器:刷毛で表面を擦ったような土器。平山「アイヌ語地名が語るアイヌ史の世界」14p。 (2023.6.3)


オホーツク文化
(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館33頁)
オホーツク文化
北方では、古くオホーツク文化にブタ飼育の痕跡が見られ、「アイヌ民族:歴史と現在」7頁
2020.7.11朝日新聞夕刊 北構保男(きたかまえ やすお)さん。 海獣の狩猟と漁撈を営むオホーツク人がつくったオホーツク文化の解明者(拡大)

オホーツク文化とは3、4世紀から12、13世紀にかけてサハリンから北海道のオホーツク海沿岸地域およびクリール諸島(千島列島)の南部地域 (主にクナシリ島とエトロフ島等)にかけて展開した文化で、大陸文化との関係が非常に強い文化とされている。 オホーツク文化は擦文文化とは全く異なる文化なのである。この文化を担った人々は一体いかなる人々だったのだろうか。 筆者はギリヤーク説が妥当だと考えている。
オホーツク文化の人びと
平山『地図でみる』66p

 オホーツク文化1
5世紀頃、サハリン・道北地方に現れ、北海道オホーツク海から千島列島にまで広がった文化。 10世紀にはサハリンに後退し、12世紀頃消滅した。
平山『地図でみる』17p


地図Hトビニタイ遺跡
平山『地図でみる』68p(2022.9.5)
羅臼町飛仁帯
ニブフ=ギリヤーク
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オホーツク文化の
遺跡

遺跡からは道北はむしろオホーツク人(ニブフ)が先住民(拡大)
オホーツク文化2
平山『地図でみる』45p
オホーツク文化3
平山『地図でみる』67p(拡大)
 北見市常呂遺跡
トビニタイ文化の存在から、オホーツク文化の人々の一部は擦文文化の人々と混血したことが考えられています。 オホーツク文化のクマを崇拝する風習なども、その後のアイヌ文化に影響を与えたのではないかと考えられています。
(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館33〜35頁)
トビニタイ文化とは北海道の東部地域を舞台にオホーツク文化と擦文文化が「融合」し、9、10〜12世紀ころ 「トビニタイ文化」という独特の文化が形成された。 その担い手は基本的には擦文文化期のアイヌであったとみることが可能であろう。
「自然人類学の視点」
平山『消えた「アイヌ」』より(拡大)
この「トビニタイ文化」が非常に興味深いです。アイヌとギリヤーク(ニブフ)の民族的融合でしょう。 DNAでもそれが篠田謙一さんによって解明されてつつあります。
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ユポさんの年表に戻ります。
BC(before christ)
300年・・・・・本州は弥生時代へ(〜AD200)/北海道は続縄文時代へ(続縄文アイヌ) ↓
AD(Anno Domini) ↓
3C後半〜7C末……本州は古墳時代/北海道は続縄文時代(5〜7C東北地方北部も)            
7C末から13C末……本州は奈良・平安・鎌倉時代 *北海道は擦文時代(擦文アイヌ) 交易の時代=サハリン・大陸・クリール・カムチャッカ・日本
▼(榎森進『アイヌ民族の歴史』17頁)
須恵器
「アイヌ民族:歴史と現在」8頁

「擦文文化を担った人々(アイヌ)は、日本社会との交易を従来以上に活発に行うようになったことは須恵器、 能登の珠洲焼、金属製品の使用から窺がえる。」
▼(榎森進『アイヌ民族の歴史』65頁)
「擦文文化期のアイヌは、12世紀以降次第に、「交易の民」へと大きな変容をとげてきていたのである。」
北海道アイヌの移動 7世紀〜8世紀 10世紀後半〜11世紀前半 12世紀前半〜13世紀前半

平山『地図でみる』63p(拡大)
北上、日本海からオホーツク・太平洋、北海道アイヌの移動がよくわかる。(2022.7.31)
蝦夷の歴史は関東からはじまっている。田中勝也『エミシ研究』北海道アイヌの前提を揺るがす研究。(2025.1.11)
▼大変興味深い文章に出会いました。(榎森進『アイヌ民族の歴史』35〜36頁)
「オホーツク文化と擦文文化の関係のあり方を解釈するうえで注目しておきたい問題は、 アイヌ民族の代表的な口承文芸である「アイヌユーカリ」の内容である。「アイヌユーカリ」は一般に「英雄叙事詩」と称されているが、 注目しておきたいことは、この英雄叙事詩の基本モチーフは、ヤウン・クル(内陸の人)とレプウン・クル(沖の人)の戦いとして描写されていること、 ヤウン・クルはアイヌ、レプウン・クルはオホーツク人つまりギリヤークに比定されるのでヤウン・クルとレプウン・クルの戦いは、 擦文文化期のアイヌとギリヤークとの戦いを謳ったものとみられることである。」
なぜか私は日本の万葉集の歌たちを思い浮かべていました。
▼wp :トビニタイ文化とは、北海道の道東地域およびクナシリ付近に存在した文化様式の名称である。 1960年に東京大学の調査隊が羅臼町飛仁帯(とびにたい)で発見した出土物が名称の由来。
12C〜  本州は鎌倉・室町・安土桃山時代
13C〜  北海道は第1期アイヌ文化形成期に入る アイヌ民族交易の時代、日本・サハリン・大陸・クリール・カムチャッカ
▼この交易の時代が、アイヌ民族が一番輝いていた時代であったようにおもわれます。(2018.10.30メモ)
▼(榎森進『アイヌ民族の歴史』96頁)
「13世紀後半から14世紀を画期に擦文文化が急激な変容をとげ、 その結果「アイヌ」文化と「アイヌ民族」が形成されるに至った。 その最も大きな要因は、日本社会との「交易」の急速な発展にあった。」

▼下の年表。アイヌ文化の位置づけが色ではっきり理解できます。和人文化もせいぜい鎌倉時代から 少し入ってきたことが目で確認できます。
年表(6頁)






『アイヌ民族:歴史と現在―未来を共に生きるために―』表紙の地図『北海道国郡図』松浦武四郎(第9版2018.8公益財団法人アイヌ民族文化財団)

13C〜  道南に和人の移住
▼和人が北海道の渡島に移住を始めたのはやっとこの時期。しかも流刑地として。
ここまでは、ユポさんは大きくアイヌの文化を概括され、以後文献に基づきアイヌ関連の記録を追っていかれます。 まず720年に成立した『日本書紀』の、西暦95年の武内宿禰「東方諸国視察」からです。
▼注意:『日本書紀』の性格付けについて『新版日本文化と朝鮮』(李進熙)に次の指摘があります。
「きびしい資料批判なしに『日本書紀』の朝鮮関係記述を使うわけにはいかないが、 八世紀において、できあがったばかりの律令体制を維持・強化するためには、内にあっては 天皇を「神国の聖王」とし、万世一系の「皇統」をつくり出さねばならなかった。いっぽう、 「夷狄」と「藩屏(はんべい)国」を設定 する必要がある。720年に完成した『日本書紀』は、こうした政治的要求を満たす目的で編纂されたのであった。
「小 中華思想」にもとづく政治書であるために、実際とは関係なしに統一新羅を「藩屏国」だとし、 朝鮮三国が古くから「朝貢」をつづけてきたかのように 修飾した。そしてまた、渡来人を「天皇」の徳化に帰附(きふ)したとして、 「帰化人」にしてしまうのであった。」(85頁)

▼ここで指摘されている「小 中華思想」にもとづいて蝦夷が「夷狄」とされます。
▼現在、佐々克明著「天皇家はどこから来たか」二見書房(昭和51年7月15日4版)を読んでいます。「日本書紀」と「古事記」の謎に迫っています。私たち 日本人が朝鮮半島との関係を抜本的に見直しする必要のある問題提起の書です。(2020.4.19)
2024.12.12鈴木頌さんのブログに出会いました。「東北エミシの年表」で検索できます。まずブログの全文を載せます。 ユポさんの年表を補う形の鈴木頌さんのブログからの補足は●をつけました。(2024.12.13)
阿倍比羅夫による蝦夷地域への遠征
「蝦夷」は初期においては東北の毛人(縄文人)を指した。蘇我蝦夷のエミシである。東北地方の聘定が一段落すると、 津軽・陸奥に残存する縄文人を指す言葉となり、そこも和風化すると北海道の縄文人を指す言葉となった。この場合は蝦夷と読むようになる。
比羅夫以前の蝦夷
400年頃 東北北部に続縄文文化が広がる。
年代不詳400年ころ? 日本書紀の景行天皇条。「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、 人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と記される。 関東甲信越地方は縄文時代にもっとも人口稠密な地域であった。この縄文人が「熟夷」として大和勢力に服属するのは400年前後のことと思われる。 したがって日高見は関東より北、すなわち東北地方であろう。
年代不詳450年頃? 田道(たじ)将軍、蝦夷(エミシ)の為に敗られて、伊寺水門(イシノミナト)に死(ミマカリ)ぬ(『日本書紀』巻十一仁徳天皇の条)
https://www.touken-world-ukiyoe.jp/youkai-oni-tengu/art0002410/
touken-world-ukiyoe 上毛野田道(かみつけのの たじ)の肖像は1873年(明治6年)に国立銀行(日本銀行発足前に存在した銀行)が発行した1円札の図柄にも採用されました。
田道将軍 (拡大)
田道将軍2 (拡大)

▲王政復古の精神がこういうところに生きている。2025.1.6


http://www.j-koreans.org/exhibit/exhibit_01.html j-koreans
お札に表れた侵略性
武内宿禰銀行券 (拡大)
植民地期、朝鮮人は日本に渡航する時、下関で朝鮮銀行券を日本銀行券に交換させられたが、両者は等価交換であった。 しかし札に印刷された人物は違っていた。日本銀行券は聖徳太子(100円)、藤原鎌足(10円)、菅原道真(5円)などで時代によっても肖像は変わったが、 朝鮮銀行券だけは1円、5円、10円、100円などすべて長くひげを伸ばした武内宿禰(たけのうちのすくね)であった。
1911年朝鮮銀行券制定以来1945年の朝鮮解放まで首尾一貫していた。武内宿禰は5代の天皇に仕え300余歳の長寿をまっとうしたという日本の神話上の人物で、とりわけ第14代仲哀天皇の后として「新羅征伐」を敢行し、朝鮮を古代日本の属国にしたという神功皇后の総参謀長として知られた日本の武神である。毎日手にするお札の肖像の狙いは、古来から「朝鮮は日本領である」との明治日本の国家意志の表明であり、「韓国併合」の侵略性を隠蔽する意味を持つ。
▲仙台塩釜港石巻港区は、古くから伊寺水門と称される北上川河口。
弥生人・その末裔の大和勢力は軍事・武力集団と認識するのが 日本の歴史を理解する要になりそう。(2024.12.14)

粛慎 (拡大)
綾糟 (拡大)
金刺宮 三輪山の麓 私の故郷大福から3q (拡大)
488年 中国の史書「宋書」、478年に送られた倭王武の上奏文に触れる。倭王武はこの上奏文のなかで、 「東は毛人55国を征し」たと述べる。また「旧唐書」では、「東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと」 述べる。大山は箱根を指すといわれる。
▲仏教伝来538年金刺宮 聖徳太子574年〜622年 蘇我馬子551年〜626年
544年 日本書紀の記事に粛慎(あしはせ)が佐渡島に来着し、漁撈を営んだとの記載あり。 https://note.com/halgie_lenonx/n/nbe1b384e732f 粛慎
581年 蝦夷が辺境で反乱を起こす。その首長綾糟らが朝廷に服する。▲敏達天皇の時代
https://nihonsinwa.com/page/1739.html
nihonsinwa 綾糟(アヤカス)たちは、畏まり、恐れ、泊瀬(ハツセ=初瀬川=奈良県の大和川の上流のこと)の少し下りて、三諸岳(ミモロノオカ=奈良県桜井市の三輪山)に向かって、 水をすすって誓って言いました。
586年 蘇我蝦夷が誕生。東国に住む「えみし」の名は強者の象徴であったとされる。神武東征記にも「愛瀰詩」の名で登場する。
▲「愛瀰詩」全く新しい出会い。
http://ikomashinwa.cocolog-nifty.com/ikomanoshinwa/2011/10/post-67ff.html
ikomashinwa 縄文時代に生駒付近で住まいしていた人々(縄文人)のことを日本書紀は愛瀰詩(えみし)と呼んでいる。 これは、三文字とも麗わしい文字を使用しているように尊称である(「瀰」は水の盛なさま、「詩」は志が言葉となったもの、という意で、 愛瀰詩とは、愛のみちわたる言葉を話す人々という意味になる)。 日本書紀は愛瀰詩を「一人で百人に当るほど強いが、戦わない人々」と畏怖・畏敬の念を持って紹介している。
蘇我氏家系図 ▲武内宿禰から出ている


藤原氏家系図 ▲鎌足から出ている。
蘇我氏と藤原氏、酷似。(拡大)

637年 蝦夷が反乱し。上毛野の形名将軍が討伐する。
渟足の位置 (拡大)
岩船の位置 (拡大)
トキサラ柵
の位置
渟足と岩船の中間?
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有間浜の位置 (拡大)
米代川の位置 (拡大)
645年 大化の改新。道奥国が置かれ、東国国司が派遣される。
▲大化の改新とは、東国侵略の号砲!明治維新が蝦夷地・アイヌモシリ侵略の号砲であったように。(2025.1.7)
647年 大和朝廷、日本海側の海岸線沿いに渟足柵(ぬたり)を造営する。渟足は現在の新潟市阿賀野川河口付近。
▲まず日本海側から侵略し、支配を及ぼしていく。(2024.12.13)
648年 渟足柵に続いて磐船柵(いわふね)が造られる。磐船は新潟県村上市岩船。
「蝦夷に備え、越と信濃の民を選んではじめて柵戸を置く」(日本書紀)またその後の10年のあいだに、都岐沙羅柵(つきさら)が設置されている。 都岐沙羅は念球ヶ関説、最上川河口説、秋田県南部説などがある。
649年 高志(北陸)の豪族である阿倍氏の当主、内麻呂が死亡。傍系の引田系の阿倍比羅夫が後を引き継ぐ。 引田臣比羅夫は越(高志)国の国司に任じられ、北方警護の責任者となる。
▲阿倍比羅夫、諸論あるが高志(北陸)の豪族と見た方がその後の軍事行動を理解しやすい。(2025.1.7)
評(こおり、ひょう)とは、古代朝鮮および古代日本での行政区域の単位である。
日本では7世紀後半に各地で置かれたが、701年以降は「郡」に改められた。
650年頃 評、国が設定され、陸奥の国が置かれる。
650年ころ 唐の史料に、流鬼(オホーツク人?)が黒テンの毛皮を献上したとの記載あり。
655年 難波朝(難波京の朝廷)で北蝦夷99人と東蝦夷95人を饗応する。北蝦夷は出羽、東蝦夷は陸奥を指すとされる。 −『日本書紀』斉明天皇元年柵養蝦夷と津軽蝦夷を叙位。
https://kahoku.news/articles/20221130khn000015.html 河北新報
赤井官衙遺跡は「関東からの移住者を中心とした集落の形成、それを基にした郡家(ぐうけ)ないし城柵の造営といった 変遷をたどることができるとともに、 蝦夷の居住域内における官衙の実態や郡司(ぐんじ)をはじめとする官人(かんじん)の出自をたどることができる。 律令国家成立期の東北経営を理解する上で重要な遺跡」として、2021年3月25日に国史跡に指定されました。
▲支配を及ぼすと人民を植民させる。イスラエル西岸、開拓使も同じ。(2025.1.11)

阿倍比羅夫の遠征
658年(斉明4年)4月 第一回目の北征。軍船180隻を率い日本海を北上。
▲ここも日本海側から支配を及ぼしていく。(2024.12.13)
658年 齶田浦(あぎたのうら 秋田の古名)(飽田)に達する。当地の蝦夷の首長の恩荷(オガ)を恭順させる。 小乙上(せうおつじやう)の位を授け、渟代(ヌシロ)と津軽(ツカル)の郡領に任命。津軽郡大領・少領に冠位・武具を授ける。
658年 陸奥の蝦夷を連れて有間浜に至り、渡島蝦夷(わたりしまのえみし)を招集して饗応する。 有間浜は@深浦から鰺ヶ沢付近、A岩木川の河口、十三湖中島付近説がある。
▲渡島蝦夷まで饗応!
658年7月 ツカル・ヌシロの蝦夷200余人が、飛鳥の朝廷に朝貢。
▲日本海側の蝦夷は朝貢する関係(外国)になっている。(2024.12.13)
200人の朝貢!大集団。すごい光景だ。 古代史の理解は、想像力を働かせること。(2025.1.11)

658年11月 阿倍比羅夫、渡島蝦夷の北方に住む粛慎(ミシハセ)を討ち帰還。熊二頭とクマの皮70枚を献上。(日本書紀 斉明天皇4年) 粛慎に関しては諸説あり。読み方もミセハシ、アシハセ、ミシハセなどまちまち。南下したオホーツク人(現ウィルタ人)であろうと思われる。
▲渡島蝦夷の北方に住む粛慎を討ち!ここまで遠征しているとは!
659年3月 二回目の北征。飽田・渟代・ツカルを制圧。これら三郡のほか胆振?(いふりさへ)の蝦夷20人を集めて饗応。
659年 その後肉入籠(シシリコ)(米代川中流地域一帯)に渡る。先住民の勧めにしたがい、 後方羊蹄(しりべし)に郡領(コオリノミヤッコ)を置いたとの記述。 (58年と59年の北征は、同じ出来事を別々の原典から取った可能性もあるとされる)
▲「後方羊蹄(しりべし)に郡領(コオリノミヤッコ)を置いた」。領有の意志表示。見逃せない記述。(2024.12.15)
659年 中国の史書「新唐書」の「通典」、日本から「使者与蝦夷(夷)人偕朝」と述べる。このとき使者は、 「蝦夷(エミシ)には都加留(つがる)・アラ蝦夷(あらえみし)、そして熟蝦夷(にぎえみし)の三種類の蝦夷がいる」と説明したという。 遠い順に並べたとすれば
津軽が縄文語を話すエミシで、
アラエミシが出羽と陸奥のエミシ(おそらくバイリンガル)であり、
ニギエミシは関東甲信越の先住民であったと想像される。
ニギエミシは倭王武の時代に征服された「東は毛人を征すること五十五国」の人々であり、この頃にはほぼ和人化されていると思われる。
659年 日本書紀ではこれに対応して、遣唐使が「道奥の蝦夷(エミシ)の男女2人を唐の天子(当時は高宗の時代)に貢した」とある。
660年3月 三回目の北方遠征。
200艘の船で日本海を北上。大河のほとりで、渡島(ワタリシマ)の蝦夷の要請を受け粛慎と戦い、これを殲滅する。 海の畔に渡嶋の蝦夷一千余の集落があり、そこに粛慎の船団が攻撃して来る。阿倍比羅夫は絹や武器などを差し出し、相手の出方を探る。 粛慎からは長老が出てきて、それらのものをいったん拾い上げるが、そのまま返し、和睦の意思がないことを示す。 その後粛慎は弊賂弁嶋(へろべのしま)に戻って「柵」に立てこもる。比羅夫はもう一度「和を請う」たあと攻撃を開始。 激戦の末、粛慎は敗れ、自分の妻子を殺したのち降伏する。比羅夫の側でも能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)が戦死。
5月 阿倍比羅夫、朝廷に粛慎など50人を献上。
奥尻 (拡大)
奥尻青苗漁港 (拡大)
瀬川さんは弊賂弁嶋を奥尻としている。青苗にオホーツク人の遺跡があることから、この説は説得力がある。この際、大河は瀬棚に注ぐ後志利別川に比定される。
▲水産庁の青苗地区 直轄特定漁港漁場整備事業 事前評価は今後のアイヌの漁港つくりの参考になる。2025.1.10
▲いずれにしても大和朝廷の蝦夷地への進出の兆しは660年頃には確認されている。 大和朝廷の活発な活動の広域を認識し直す必要がある。(2024.12.14)
このメモ修正。645年の国司の派遣からと。(2025.1.8)

大和朝廷の北進が一時停滞
660年 百済、唐=新羅連合軍の攻撃を受け滅亡。朝廷は北方進出を中断し、すべての水軍を百済復興に振り向ける。
661年 阿倍比羅夫、百済救援軍の後将軍に任じられる。
663年 阿倍比羅夫、新羅征討軍の後将軍に任じられる。ほぼ同じ頃、筑紫大宰府帥にも任命される。
白村江の戦い (拡大)
663年 日本水軍、白村江の戦いで唐・新羅連合軍の水軍に惨敗。壊滅状態となる。このあと、船団を組んでの蝦夷征伐はなくなる。
668年(天智7年) 天智天皇が即位する。
672年 壬申の乱。北方への進出は一時停滞。
689年 優嗜曇柵(うきたみ)が設置される。優嗜曇柵は米沢盆地のある置賜郡。同じ頃仙台市郡山にも柵が形成された。
東北侵略1 (拡大)
東北侵略2 (拡大)
東北侵略3 (拡大)
東北侵略4 河北新報(拡大)
東北侵略5 山形の城柵(拡大)
https://kahoku.news/articles/20221123khn000005.html kahoku.news
【東北学院大博物館学芸員・佐藤敏幸氏】
乙巳の変 (拡大)
第3部 律令国家の形成と境界域の石巻地方
<城柵設置し蝦夷を服属>
 仙台市郡山官衙(こおりやまかんが)遺跡、蔵王町十郎太(じゅうろうた)遺跡、大和町一里塚遺跡、 大崎市名生館(みょうだて)官衙遺跡、南小林(みなみおばやし)遺跡、三輪田・権現山遺跡、 東松島市赤井官衙遺跡は800メートル〜300メートル規模の遺跡で、外側を栗の木を加工した直径25センチ前後の丸柱を隙間なく並べた塀で囲んだ遺跡です。 内部は竪穴住居や掘立式の建物で構成され、設計基準も塀の方向に沿うように建てられています。
 これらの遺跡からは共通して、それまでとは違う北武蔵(きたむさし)地域(埼玉県北西部から群馬県東部) の特徴を持った土器が多量に出土します。大化改新直後に一斉に出現し、規模が大きく、関東系の土器を多数伴い、 外側を柵で囲むという特徴から、私は飛鳥の王権が造営した「柵」と考えています。日本海側の渟足柵、磐舟柵、都岐沙羅柵などに対応するように、 太平洋側にも複数の柵が造営されたと考えられます。
https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/handen-shujuho/
touken-world 班田収授法
「班」は分けること、「田」は田んぼ、「収」は収めること、「授」は授けることを意味。
班田収授法のもとでは土地と人民はすべて天皇、つまり国家の所属。 そのため、国はどこにどれだけの土地があり、どんな人がどれだけ住んでいるのかを把握しなければなりません。 このような個人情報を管理するために、「戸籍」と「計帳」(けいちょう)が作成されました。
人民は6年ごとに更新される戸籍への登録が義務付けられ、計帳には年齢・性別・容貌・税負担の有無などが記載されたのです。
班田収授法では、戸籍に基づいて6歳以上の男女に「口分田」(くぶんでん)と呼ばれる田んぼが貸し与えられます。 面積は男子が2段(約2,400u)で、女子はその3分の2と詳細に決められていました。 土地が貸与されるのは一代限り。売買はできず、死後は国に返さなければなりません。 また税法についても厳密な決まりが設けられ、口分田から収穫したお米の約3%を「租」(そ)と呼ばれる税として朝廷に納める義務が課せられました。
他には、地方の役所である「国府」(こくふ)の命令で年60日間工事に駆り出される義務もあり、この制度は労働を意味する「庸」(よう)と呼ばれました。 お米以外にも布や地域の特産品を納めることを義務付けたのが「調」(ちょう)。この3つの税をまとめて「租庸調」と言います。
▲646年以来1379年間、日本列島住民は班田収授法に馴らされてきた。2025.1.10

粛慎(みしはせ)憧憬〜見えてきた蝦夷の北の世界
https://ameblo.jp/dodongo-neroga/entry-12684370094.html
粛慎(みしはせ)はオホーツク人
オホーツク人 (拡大)
渤海 (拡大)
696年 大和朝廷、渡島蝦夷の伊奈理武志(イナリムシ)、粛慎の志良守叡草(シラスエソウ)らに錦、斧などを送る。(日本書紀 持統天皇10年)
https://www.city.hokuto.hokkaido.jp/bunkazai/data/nen1-1.htm
北海道北斗市
▲持統天皇の時代に蝦夷地のアイヌ、中国大陸の粛慎との交流があったことに驚き!(2024.12.15)
698年 靺鞨の一族である震国が唐朝の冊封を受け、渤海国と称する。一説では高句麗の末裔で豆満江流域を中心に交易国家を建設。
7世紀末 陸奥国から石城国と石背国(福島県の浜通と中通)が分立。陸奥の国は仙台平野と大崎平野だけからなる小国となる。
仙台郡山遺跡 (拡大)
仙台市南部の第二期郡山官衙遺跡は寺院を付設し、 多賀城建設までのあいだの旧国府と目される。
▲多賀城の前に郡山があったことを記憶すべし。(2024.12.17)
和人の東北地方への本格的進出
越から出羽への陸上進出

700年頃 大臣武内宿禰の東国巡視の報告(日本書紀)。 「東の夷の中、日高見国がある。男女ともに入れ墨をし、勇敢である。土地は肥沃で広大である。征服してとるべき」である。 現在の仙台平野から北上川流域に広がっていたと思われる。
大宝律令 (拡大) 律令制 (拡大)
700年 越後北部に石船柵(イワフネ)を造営。越後國は出羽郡の新設を申請し、北方進出策を強める。 (岩船の柵はすでに648年に建設されており、出羽の柵の間違いではないか。
709年に「諸国に命じ、兵器を出羽柵へ運搬」したとの記載があり、出羽の柵の建設はそれより以前ということになり、年代的には符合する)
701年 大宝律令が制定される。
明治太政官制成立過程に関する研究 1 田村安興 
高知論叢. 社会科学, 2010 kochi.repo.nii.ac.jp
▲岩倉具視が蝦夷地の取り込みを主導しているようだ。図4 年次別上奏事項(幕末・明治初年)から。2025.1.9
708年 越後の国の一部として新たに出羽郡が造られる。出羽郡以北は日本海側もふくめすべて陸奥の国の管轄。
709年3月 朝廷、陸奥への進出を本格化。鎮東将軍に巨勢(コセ)朝臣麻呂を任命。遠江、駿河、甲斐、信濃、上野から兵士を徴発し派遣。
最上川 (拡大)
709年 蝦夷の越後侵入に対し征討のため、征越後蝦夷将軍に佐伯宿禰石湯(イワユ)を任命。 越前、越中、越後、佐渡の4国から100艘の 船を徴発。船団は最上川河口まで進み、 ここに拠点として出羽柵(イデハノキ)を造設。「陸奥・越後二国の蝦夷は、野心ありて馴れ難」いとされ、 大規模な反 乱があったことが示唆される。
710年 都が飛鳥から平城京に遷される。
712年 越後の国出羽郡、陸奥ノ國から最上・置賜の二郡を分割・併合し出羽の国が設立される。渡嶋(蝦夷が島)は出羽国の管轄となる。 このあと、太平洋側(海道)のエミシは蝦夷、日本海側(北道)のエミシは蝦狄と表記されるようになる。(ただしそれほど厳密な使い分けはしていない) これについて太政官は、「國を建て、領土を拡げることは武功として貴ぶ所である。官軍は雷のように撃ち、北道の凶賊蝦狄(エミシ)は霧のように消えた。 狄部は晏然(アンゼン)になり、皇民はもう憂えることはない」とし、これを承認。
名生館遺跡 (拡大)
▲大和朝廷は奈良時代から蝦夷地・渡嶋への支配の意志を示している。新しい発見。(2024.12.15)
713年 古川を中心とする大崎平野に丹取郡が置かれる。玉造の柵が造設される。玉造の柵は現在の古川市名生館(みょうだて)遺跡と目される。
714年 尾張・上野・信濃・越後の国の民200戸が、出羽柵にはいる。このあと諸国農民が数千戸の規模で蝦夷の土地を奪い入植。移住は総計で3千戸におよんだ。
▲1100年後の明治の開拓使時代とまったく同じ。まさしく王政復古だ。この感覚で維新政府もアイヌモシリを浸食していった。(2024.12.19)
715年 陸奥の蝦夷、邑良志別君宇蘇弥奈(おらしべのきみ うそみな)と須賀君古麻比留(すが の こまひる)の要請により、香河村(不明)と閇村(宮古市付近)に郡家を立てる。
718年 陸奥の南部を分割し、常陸国菊多から亘理までの海岸沿いを石城国、会津をふくめ白河から信夫郡までを石背国とする。
18年 渡度島蝦夷87人が大和朝廷に馬千匹を贈る(信じがたい!)
第一次エミシ戦争
エミシによる最初の抵抗
720年 渡島津軽の津の司の諸君鞍男(もろのきみくらお)ら6人を靺鞨に派遣し、その風俗を観察させる。(渤海国のことか?)
720年(養老4年)9月 蝦夷(えみし)の叛乱。按察使の上毛野朝臣広人(かみつけの の ひろひと)が殺される。持節征夷将軍と鎮狄将軍が率いる征討軍が出動。
ja.wikipedia:史上初の大規模な蝦夷による反乱
721年4月 征討軍、蝦夷を1400人余り、斬首・捕虜にし都に帰還。
▲征討軍の武力、半端じゃない。
721年 出羽の国が陸奥按察使の管轄下に置かれる。
724年3月(神亀元年) 海道の蝦夷が反乱。陸奥大橡(だいじょう 国司の三等官)の佐伯宿祢児屋麻呂(こやまろ)を殺害する。勢力範囲は気仙・桃生地方や牡鹿地方とされる。
724年 朝廷は藤原宇合(うまかい)を持節大将軍に任命。関東地方から三万人の兵士を徴発し、これを鎮圧。
▲三万人の兵士! 驚き。
724年 大野東人(あずまひと)により陸奥鎮所が設営される。東人は鎮守将軍(東北地方の最高責任者)として、郡山に駐在していたものと思われる (石碑によって確認される)。陸奥鎮所はのちに多賀柵と改名される。
724年 出羽の蝦狄の叛乱。小野朝臣牛養が鎮狄将軍として派遣される。
725年 陸奥国の俘囚を伊予国に144人、筑紫に578人、和泉監に15人配す。この後和人に抵抗する蝦夷が数千人規模で諸国に配流される。
727年 渤海より最初の使者が派遣される。出羽の海岸に漂着。蝦夷に殺害されるが生存者8名が聖武天皇との会見。その後200年にわたり使者を交流する。
733年 大野東人、出羽地方の本格的平定に乗り出す。蝦夷との境界となる出羽柵が、山形庄内地方から秋田村高清水岡(現秋田市)に移設される(続日本紀)。
736年 朝廷は、出羽平定作戦を承認。藤原不比等の息子である藤原麻呂を持節大使に任命。関東6国から騎兵1千人が配備されるなど大規模な征討軍を編成する。
736年 陸奥の国では出羽出陣後の保安のために色麻柵、新田柵、牡鹿柵などが造営される。 また田夷で遠田郡領の遠田君雄人(とおだのきみおひと)を海道に、帰服の狄である和賀君計安塁(けあるい)を山道に派遣し、住民慰撫を計る。
737年早春 大野東人がみずから大軍を率い、多賀城を出発。日本海側の出羽柵(秋田)にいたるルート確立を目指す。 騎兵196人、鎮兵499人、陸奥の国の兵5千人、帰服した蝦夷249人の陣容。
737年早春 出羽討伐軍、奥羽山脈を越え大室駅(現在の尾花沢近く?)に至る。ここで出羽国守の田辺難破の軍と合流。 田辺軍は兵500人、帰服した蝦夷140人の陣容。
▲720年から737年までの大和政権の侵略の勢いは強烈。(2024.12.21)

737年春 討伐軍、雄勝峠(有屋峠?)を越え比羅保許(ひらほこ)山まで進出するが、蝦夷が反撃の姿勢を示したため撤退を決断。 出羽の国司が撤退を勧め、討伐軍がこれを受け入れたことになっている。
740年 大野東人、九州の藤原広嗣の乱に際し持節大将軍として出兵。
大規模な砂金鉱の発見
749年 百済王敬福が涌谷町の黄金山で黄金を発見。その後陸奥の国に複数の金山が発見される。朝廷は「多賀郡よりも北の地方からは、税金として黄金を納める」よう命令。
750年 大和朝廷、桃生柵・雄勝柵などの城柵をあいついで設置。桃生柵は現在の桃生郡河北町飯野。
757年 藤原恵美朝臣朝狩が陸奥の守に就任。
757年 桃生柵でさらに本格的な築城が始まる。
760年 雄勝城(おかちのき)が藤原朝?(朝狩)により確立。没官(もっかん)奴233人・女卑277人が雄勝の柵戸として送られる(現横手市雄物川町)。 雄勝城の後身である払田柵の規模は多賀城を遥かに凌ぐとされる。
760年 出羽柵は秋田城へと改変される。
762年 多賀城の大改修が始まる。「不孝・不恭・不友・不順の者」が数千の規模で捕えられ、陸奥に送り込まれる。
767年 伊治城の建設が完了する。伊治は現在の栗原郡築館町。
東北大戦争(38年戦争)
宇漢迷公(ウカンメノキミ)・宇屈波宇(ウクハウ)の反乱
770年(宝亀元年) 海道の蝦夷の宇漢迷公(ウカンメノキミ)宇屈波宇(ウクハウ)、桃生城下を逃亡し賊地にこもる。 大和朝廷への朝貢を停止。呼び出しに応じず、城柵を襲うと宣言。「賊地」は登米郡遠山村とされる。
登米郡の位置 (拡大)
紫波の位置 (拡大)
桃生城の位置 (拡大)
胆沢の位置 (拡大)
772年 下野国から「課役」を逃れるため、農民870人が陸奥へ逃げ込む。
774 宇屈波宇が反乱。蝦夷・俘囚を結集し桃生城を攻略。
▲4年前のリベンジ。(2025.1.4)
774年 大和朝廷の大伴駿河麻呂、二万の軍勢を率いて東北に侵攻。遠山村(登米郡)を攻撃。東北地方全土を巻き込む「38年戦争」が始まる。
776年 大伴駿河麻呂、海道を制圧しさらに山道に進出。出羽国志波(岩手県紫波郡)で蝦夷軍と対決。蝦夷軍は一時これを押し返すが、 駿河麻呂は陸奥軍三千人を動員してこれを撃破。胆沢(水沢市付近)までを確保する。(岩手県は陸奥ではなく出羽に属していたようです)
776年 出羽国の俘囚358人が、大宰管内と讃岐國に配流される。うち78人が諸司と参議に献上され、賤の身分におとされる。(▲差別思想
778年 出羽の蝦夷が大和朝廷軍を打ち破る。朝廷軍は俘囚から編成した俘軍を編制し蝦夷軍と対抗。俘囚の長で陸奥国上治郡の大領、伊治公呰麻呂(いじのきみ・あざまろ) が伊治柵の司令官となる。

https://sousyanomiya.jp/column/rekishinokaze133/
呰麻呂は蝦夷の出身で、宮城県北の栗原地方の在地有力者と考えられています。蝦夷の征討に参加し、国から外従五の下(げじゅごいのげ)という官位を授けられたり、陸奥国の上治郡(かみじぐん)(此治郡=後の栗原郡の誤記とする説などがある)の大領(たいりょう)(長官)に任ぜられるなど、按察使(あぜち) (多賀城の最高指揮官)紀広純(きのひろずみ)からも信頼されていました。
呰麻呂は伊治城において、日ごろ自分を見下す態度をとっていた牡鹿郡大領道嶋(おしかぐんたいりょうみちしま)の大楯(おおだて)を、次いで紀広純を殺害しました。
▲呰麻呂の立ち位置が興味深い。2025.1.4

780(宝亀11) 呰麻呂が蜂起。伊治柵の参議で陸奥国按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)らを殺害。さらに多賀城を略奪し焼き落とす。 同僚の道嶋大楯(みちしまのおおだて)からの差別や、城作の造営への地域住民の酷使への反感から決起したといわれる。(▲この蜂起もすごい
780年 朝廷は藤原継縄(つぐただ)を征東大使に、大伴益立・ 紀古佐美(紀広純のいとこ)を征東副使とする討伐隊を編制。 数万の兵力で多賀城を奪回するが、伊治公呰麻呂は1年にわたり抵抗を続ける。主な指導者として伊佐西古、諸絞、八十嶋、乙代らの名が残されている。 (▲状況が目に浮かぶ
780年 反乱は出羽地方の蝦夷へも拡大。朝廷は出羽鎮狄将軍に阿倍家麻呂を任命。出羽国司に渡嶋蝦夷への饗応を指示する。( ▲渡嶋蝦夷が蜂起に加わらないようの饗応
784 大伴家持、征東将軍として陸奥に派遣される。高齢の為にまもなく死亡。
アテルイの奮戦
786 桓武天皇、蝦夷征伐と東北平定を命じる。
788年7月 桓武天皇、紀古佐美を征夷大将軍に任命。東海・東山・板東から兵員を集める。 日高見国のえみしは、胆沢の大墓公阿弖流為(たものきみ・あてるい)と磐具公母礼(いわぐのきみ・もれい)を指導者として防衛体制を固める。
789年3月 5万の大軍を与えられた紀古佐美は、多賀城を出発。エミシの集落14村・家800戸を焼き払いながら侵攻。 アテルイは遅滞攻撃をかけながら徐々に後退。(以下は紀古佐美の報告にもとづいた「続日本紀」の記載による)
3月 紀古佐美軍、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯。賊軍の激しい抵抗の前に前進を阻まれる。
5月末 紀古佐美軍、桓武天皇の叱責を受けて行動を再開。中軍と後軍の4千人が北上川西岸の三ヶ所の駐屯地から、川を渡って東岸を進む。
5月末 中軍と後軍は、「賊帥夷、阿弖流爲居」を過ぎたところでアテルイ軍約300人を見て交戦を開始。アテルイ軍を追いながら巣伏村に至る。
5月末 アテルイ軍、巣伏村で渡河を試みた前軍を撃退。前線に800人の増援部隊を送り込む一方、後方の東山に400名を送り、紀古佐美軍の退路を断つ。
5月末 朝廷軍は急襲にあい惨敗。部隊の半分が死傷。このうち別将の丈部善理ら戦死者25人・矢にあたったもの245人・河で溺死したもの1036人・ 河を泳ぎ逃げたもの1217人とされる。アテルイ側の兵力はわずか1500名、戦死者は89人だったとされる。
9月19日 帰京した紀古佐美は喚問され、征夷大将軍の位を剥奪される。
791年7月 大伴弟麻呂が征夷大使に任命される。百済王俊哲、坂上田村麻呂ら4人が征夷副使となる。侵攻に備え10万の大軍が編制され、 26万石の食料が準備される。(この年と794年の2回征討作戦があったとは考えにくいので、とりあえずあいまいに書いておきます)
792年 征東大使大伴弟麻呂、副使坂上田村麻呂に率いられた第二次征東軍が侵攻。十万余に及ぶ兵力で攻撃をかけるが制圧に失敗。(794年の攻勢との異同は不明)
792年 斯波村の蝦夷の胆沢公阿奴志己らが朝廷に帰順。伊治村の俘に遮られて王化に帰することが出来ないので、これと闘って陸路を開きたいと申し出る。
794年4月 朝廷軍10万が日高見へ侵攻開始。蝦夷側は75の村を焼かれ、馬85匹を奪われた。朝廷軍は首457級を上げ1501人を捕虜とする。 アテルイは攻撃をしのぎ生き延びる。
6月 副将軍坂上田村麻呂ら、蝦夷を征すと報告。
11月 大伴弟麻呂が帰京して戦果を奏上。
795年11月 渤海の国使が蝦夷の志理波村に漂着。現地で略奪されるが出羽国の出先に保護される。志理波村は余市のシリパ岬周辺とみられる。
796年 この年だけで関東一円を中心に、9000人の諸国民が伊治城下の旧蝦夷領に入植。おそらく日高見侵攻作戦の参加者が褒賞として与えられたものと思われる。
▲この手順、明治維新後の開拓使と入植に酷似2025.1.3
日高見国の滅亡
797年11月 蝦夷征伐で戦功を上げた田村麻呂が征夷大将軍に任命される。田村麻呂は各族長に対する「懐柔工作」によって抵抗力を削ぐ。
▲蝦夷はバラバラだった。大和政権にこれでは勝てない。)
800年頃 奥州から青森(外ヶ浜)に通じる交易路がこの頃に開かれたとされる。
閉伊村の位置 秋田・盛岡・宮古
同じ北緯39度(拡大)
801年2月 征夷大将軍坂上田村麻呂、第三回目の日高見国攻略作戦。4万の軍が胆沢のアテルイ軍を破る。アテルイとモレイは度重なる物量作戦により弱体化。
801年9月 坂上田村麿、「遠く閉伊村を極めて」夷賊を討伏したと報告。
802年1月 田村麻呂、アテルイの本拠地に胆沢城を造築。多賀城から鎮守府を遷す。住民を追放した土地に、 関東・甲信越から4000人が胆沢城下におくり込まれ、柵戸(きのへ)として警備にあたる。
4月15日 アテルイとモレ、生命の安全を条件とし、500余人を率いて田村麻呂に降伏。二人は平安京に連行される(日本紀略)。
7月10日 アテルイとモレ、田村麻呂に従って平安京に入る。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるよう提言する。
8月13日 朝廷、「蝦夷は野生獣心、裏切って定まりない」とし、アテルイとモレを河内国杜山で斬刑に処す。 (写本により椙山、植山、杜山との記載があるが、どの地名も現在の旧河内国内には存在しない)
征夷作戦の中止へ
802年 律令政府は三次にわたる戦役で捕虜となった蝦夷を、夷俘として各地に移配する。風俗習慣に慣れていないという理由で田租の納入を免除されるなど一定の配慮。
802年6月 朝廷の出羽太政官、渡島蝦夷との私交易を禁止。熊やアシカの皮の品質確保を狙ったものとされる。
803年3月 坂上田村麻呂、造志波(しわ)城使に任じられ、造設にあたる。志波城は北上盆地のほぼ北端に位置し、それから北は奥深い山林となる。

https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/rekishi/1009476/1009482/1009486.html
全てのエミシが朝廷に従わなかったわけではありません。 エミシの中には、斯波村(しわむら)の「胆沢公 阿奴志己(いさわのきみ あぬしこ)」のように朝廷と手を結び、朝廷のもつ最新の技術や文物を手に入れようとしたものもいました。 逆に、胆沢地方の族長「大墓公 阿弖流為(あてるい)や「盤具公 母礼(もれ)」、宮城県北部の伊治郡のエミシ「伊治公砦麻呂(これはりのきみのあざまろ)」、気仙地方のエミシ族長の「宇漢迷公宇屈波宇(うがめのきみうくはう)」などのように、朝廷に対抗し、武力衝突を起こしたものもいました。 当時のエミシ社会は、「部族制」の社会だったと考えられます。エミシたちは国をもたず、地域ごとにリーダーを置くというような社会だったようです。そのグループが、おおよそ村として把握されていたと考えられます。その村ごとに、朝廷と対抗したり、朝廷と手を結んだりしたようです。 多くの反抗したエミシたちも含めて、当時のエミシたちにとって、朝廷のもたらす物資は必要なもので、交流があったのは間違いないですし、反乱を起こした族長たちも、一時期は朝廷の職員・官人として働いていた時期もありました。 しかし、「エミシだ」ということで、都の人々から差別されたり、馬鹿にされたり、蔑視されることがあったようです。
▲地方の研究が進んでいる!

804年 第4次の征夷作戦が計画される。目標は岩手県の北から青森県にかけて。坂上田村麻呂は再び征夷大将軍に任じられる。 板東・陸奥7カ国に動員令がだされ、兵糧が小田郡中山柵に運び込まれる。
805年12月 桓武天皇の御前で「天下徳政」相論。北進継続を主張する菅野眞道に対し、藤原緒嗣は「方今、天下の苦しむ所、軍事と造作なり。 この 両方の事を停(とど)めれば百姓安んぜん」と主張。帝は藤原緒嗣の意見を採り、第4次の征夷作戦が中止になる。 「衆の推服する所のもの一人を撰び之が長と せよ」との触れが出される。
▲熟議2025.1.5
度重なる大規模出兵にもかかわらず、エミシの抵抗が収まらないことから、朝廷のトップにまで厭戦気分が広がったものと思われる。
805年 播磨国に配されたアイヌ人俘囚が反抗。吉弥侯部兼麻呂・吉弥侯部色雄ら十人が、「野心を改めず、しばしば朝憲に背く」ため、遠島に流される。
806年 近江國の夷俘の六百册人が大宰府に派遣され防人となる。「平民と同じくするなかれ」とされ、一段低い身分を押し付けられる。 809年 藤原緒嗣、東山道顴察使に加えて陸奥出羽按察使に任命され多賀国府に赴任。緒嗣は三度に渡って「自分の任ではない」と辞退したという。 811年(弘仁2年)の平定作戦 2月5日 文室(ふんや 文屋とも書く)綿麻呂、紫波城より北方の爾薩体(にさったい)、弊伊(へい)の2村の蝦夷を攻撃することを上申。「出羽国の夷が邑良志閇村を攻撃。同村の降俘の代表、吉弥侯部都留岐が国府に救援を要請」したとされる。 綿麻呂は810年の薬子(くすこ)の変に巻き込まれ幽囚の身となるが、坂上田村麻呂の助命嘆願により救われ、藤原緒嗣に代わる陸奥・出羽按察使に任命される。 4月17日 綿麻呂は征夷将軍に任ぜられる。2万5千の兵力を要請するが、実際には1万人足らずにとどまる。現地の俘囚の同盟軍を加え2万の軍を編制。爾薩体、弊伊、都母の村を侵略。 10月13日 文室綿麻呂の38年戦争終結宣言。戦功が認められ征夷将軍に任命される。陸奥國の公民の内、征夷の戦いに参加した者に対しては調庸(税金または使役)を免除。 812年 陸奥国胆澤に鎮守府を設置。和我(和賀)・稗縫(稗貫)・斯波(紫波) の三郡を設置。占領地を律令政府の行政区画に組み入れる。盛岡には志波城を移転した徳丹城を建設。 エミシ虜囚の反乱 813年5月13日  陸奥で止波須可牟多知(トヒスカムタチ)の反乱。トヒスカムタチは帰順した蝦夷で吉弥侯部の姓を持つ。綿麻呂がふたたび征夷将軍に任ぜられる。津軽の狄俘の反乱に備え胆沢・徳丹城に糒や塩を備蓄させる。 津軽は常に容易ならざる敵として認識されている。津軽に朝廷の手がおよばなかったのは、遠隔であったからではないようだ。一番美味しい北海道都の取引を考えれば、むしろ喉から手が出るほど欲しかったのが津軽であったろう。 814年 出雲国意宇でエミシ俘囚の乱。この反乱で米が奪われたため、神門三郡の未納稲は十六万束になる。甲斐國でエミシ俘囚の乱。賊首とされた吉弥侯部井出麿ら男女13人が伊豆に流される。 815年 文室綿麻呂、按察使を離任し京に戻る。これに代わり、小野岑守が陸奥守に任ぜられる。 最後のタカ派が更迭されることにより、朝廷は守りの体制に入った。これは戦略としては最悪である。俘囚が次々に殺害されていることが知られれば、前線基地は怒りと恨みの中に取り残されることになる。 任務を果たした後は、停戦に持ち込み撤退すべきであろう。 815年 小野篁、父・岑守に従って陸奥国へ下る。その詩に「反覆は単干(匈奴の王)の性にして、辺城いまだ兵を解かず」と、従軍のきびしさを託す。(827年作成の「経国集」に掲載) 830年 大地震により秋田城が損壊。 847年 日向国の記録に「俘囚死に尽くし、存するもの少なし」との記載。 848年 上総国でエミシ俘囚の乱。丸子廻毛らが反乱。まもなく当局により57人が捕らえられ処刑される。 エミシによる反撃の開始 反乱のきざし 855年 陸奥国の奥地で俘囚が互いに殺傷しあったため、非常に備えるために援助の兵2千人を発し、さらに近くの城の兵1千人を選んで危急に備える。 当初は、朝廷側が再攻撃のための口実かと考えたが、力関係から言えば逆のようだ。抑圧された側の反撃はまず恭順派の排除から始まるわけで、それが内紛と見えたのだろう。内紛としか捉えられなかった情報収集能力が問われる。 875年 渡島の荒狄(あらえびす)が水軍80隻で秋田・飽海(酒田)地方に襲来、百姓21名を殺害。 これは重要な内容をふくんでいる。百姓というのは和人入植者であり、稲作最前線が秋田まで到達していることを意味する。 百姓に対する攻撃は、和人・農民を敵とする考えに基づく行動である。その考えが渡島までふくめたエミシ共通のものとなっていることが分かる。 渡島から80隻が船団を組んで来襲した事実は、エミシ側の並々ならぬ動員力を物語る。 北海道のエミシは「渡党」と呼ばれ、この頃はオホーツク人と海上覇権をめぐる争いの只中にあったから、戦闘は慣れたものでっただろう。 875年 下総国でエミシ俘囚の乱。「官寺を焼き討ちし、良民を殺戮」する。 朝廷は「官兵を発して以って鋒鋭を止め」よう指示。さらに武蔵・上總・常陸・下野の国に各三百人の兵を派遣するよう命じる。まもなく反乱は鎮圧され、 100人以上が処刑される。朝廷は行過ぎた弾圧を批判。 元慶の反乱 878年(元慶2年) 東北地方に飢饉。出羽の国では苛政に対し不満が高まる。 2月 元慶の乱が発生。秋田の蝦夷が反乱。秋田城を攻める。出羽国守の藤原興世は城を捨てて逃げ走る。城司の良岑近は「身を脱れて草莽(く さむら)の間に伏し竄(かく)れ」たという。逆徒(げきと)は蟻のごとくに聚り、兵営や要塞を囲み、城と周辺の民家に火を放つ。 3月 朝廷は陸奥国に出羽を救援するよう指令。陸奥の守は精騎千人歩兵二千人を編制し、藤原梶長を押領使とする軍を派遣。 4月 陸奥の軍勢と出羽軍2千が、秋田川のほとりに達する。このとき霧にまぎれて、賊徒千余人が早船で奇襲攻撃。同時に数百人が背後より攻める。官軍は狼狽して散じ走った。 戦闘の顛末: この戦闘で500余人が殺され虜となる。逃げ道では互いに踏み敷かれて、死するもの数え切れず。軍実甲冑は悉くに鹵獲される。 文室有房(副官)は瀕死の重傷を負い、小野春泉(副官)は死せる人の中に潜伏してかろうじて死を免れる。藤原梶長は深草の間に隠れ、5日間も飲まず食わずに送り、賊去りし後、徒歩で陸奥まで逃れた。 5月 陸奥軍大敗の報を受けた朝廷は、藤原保則を出羽権守に任命。小野春風を朝廷軍指令官とする。陸奥・上野・下野に動員をかけ、4000人の兵で秋田に入る。陸奥権介の坂上当道(坂上田村麻呂の曾孫)も討伐軍に加わる。(一説に孫の坂上好蔭) 5月 秋田の北東12か村が反乱。秋田城が急襲され、朝廷軍は大敗。食料・軍備を奪われる。「賊虜強く盛にして、官軍頻に敗れ、城或は守を失ひて群隊陥没」する。 6月 小野春風の率いる陸奥=俘囚の軍、反乱集団の多くを懐柔することに成功。「夷虜は叩頭拝謝し、態度を改めて幕府に帰命」する。その証として、帰順を拒否する首長二人の首を斬って献上する。秋田城を包囲して攻撃。反乱軍2000人が逃亡。 12月 鹿角の反乱軍300余人が降伏。元慶の乱が終結。 879年1月 渡島の蝦夷の首103人が3千人を率いて秋田城に詣でた。朝廷はこれを歓迎する(日本三代実録)。この頃のものとみられる夷の印入りの土師器の杯が札幌、余市から出土している。 渡島蝦夷の態度がいまいちはっきりしない。津軽・出羽のエミシを飛び越え、中央政権とチョクで交易を望んだのか、津軽・出羽と連携して武力を誇示すべく大軍団を組んだのか。 いずれにしても渡島蝦夷の強さが際立つ印象的な場面である。彼らは札幌、余市までも勢力範囲とし、これを秋田まで船上輸送する力を持っていた。朝廷はこれを「歓迎」せざるを得なかった。少なくとも北海道については一目置いたことになる。 なお津軽についても同様の扱いとなっている。出羽国司は「津軽の夷俘は、その党多種にして幾千人なるを知らず、天性勇壮にして常に習戦を事とす。もし逆賊に招かば、その鋒当り難し」と報告している。(901年の「三代実録」に記載)かなりビビっていることが分かる。 883年 上総国市原郡で俘囚の乱。40人あまりの集団が「官物を盗み取り、 人民を殺略。民家を焼き、山中に逃げ入」る。当局は「国内の兵千人で追討」する許可をもとめる。朝廷は「群盗の罪を懼れて逃鼠した」に過ぎず、人夫による 捜索・逮捕で十分であるとし、国当局の申請を棄却する。 883年 結局、俘囚は全員が処刑される。太政官は討伐隊の戦功をたたえつつも、@渠魁を滅ぼし、梟性を悛めることがあれば務めて撫育せよ。A事態が急変したのでなければ、律令に勘據し太政官に上奏せよ、と注文。 893年 出羽でふたたび反乱が発生。国司は中央には「出羽の俘囚と渡島の狄との戦い」が発生したと報告。城塞を固めて万一に備える。 900年 この頃から津軽で製鉄・須恵器の生産が盛んとなる。製品は主として北海道に持ち込まれる。津軽では人口が激増。逆に出羽以南では人口が激減する。出羽のエミシが大量に津軽へ移入した可能性あり。北海道でも松前から桧山一帯に津軽型文化の遺跡が急増する。 900年 この頃から陸奥国奥六郡の俘囚長、安倍氏が力をつける。厨川柵(現盛岡市)を築く。 939年 天慶の乱 4月 出羽国で、俘囚による反乱。秋田城軍と合戦。天慶の乱と呼ばれる。 938年に朝鮮の白頭山が噴火し、世界的な冷害をもたらした。 5月6日 賊徒が秋田郡に到来し、官舎を占拠し官稲を掠め取り、百姓の財物を焼き亡くす。朝廷は陸奥の守に鎮圧を指示。 6月 平将門の謀反。平将門が兵1万3千人を引き連れて陸奥・出羽を襲撃するとのうわさが流れる。将門の父良将は征夷大将軍として陸奥国に出征している。 940年2月 将門追討の官符を受けた平貞盛、下野の豪族藤原秀郷を味方につけ平将門軍を破る。 関東武士集団は対エミシ強硬派を代表していた。それは直接彼らの利権(入植)にも絡んでいた。彼らには朝廷の弱腰が我慢できなかったのであろう。このあと、東北の争いは関東武士とエミシとの争いに様相を変えていく。 947年 陸奥国の狄坂丸の一党が鎮守府の使者並茂を殺害。 950年 この頃、鹿角経由で奥州と津軽(油川)を結ぶ奥の大道が作られる。また安代で分岐して糠部に向かう「馬の道」も形成される。

95年 (景行天皇25年7月3日条)「武内宿禰を遣わし北陸、東方諸国視察させる」 (景行天皇27年2月12日条)
倭夷国境線の移動
▲西暦300年代前半から西暦800年頃の500年間に蝦夷(アイヌ)を追い詰めていった。2025.1.2
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ヤマトタケルの
東征ルート
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「東夷(あずまのひな)の中、日高見国(ひたかみのくに)あり、其国人男女並に椎結(かみわけ)身を文(もどろ)げて、 人となり勇悍(いさみたけし)、是を総て蝦夷(えみし)という。土地沃壌(くにこ)えて廣し。撃ちて取りつべし。」 (『日本書紀』上・297頁日本古典文学大系・岩波書店)
▼wp:第12代景行天皇紀25年7月3日条、 同27年2月12日条 武内宿禰は北陸及び東方に派遣され、地形と百姓の様子を視察した。 帰国すると、蝦夷を討つよう景行天皇に進言した。
▼次に倭建命、「蝦夷征伐」の記述に入ります。
田中勝也『エミシ研究』53頁 「西暦4世紀前後崇神帝から景行帝の大和王権と蝦夷族との勢力均衡の状況を見ることができるのではあるまいか。」
▲このころ蝦夷族は関東一円が勢力圏。19世紀後半・明治2年太政官布告で大和王権による蝦夷族の征服は完了。1500年にわたる侵略だった。(2024.12.4メモ)
110年 (景行天皇40年7月条) wpでは景行天皇40年は西暦110年となっている。
     wikipedia景行天皇 実在したとすれば4世紀前期から中期の大王と推定されるが、
▼『日本書紀』上・302頁の注記・補注には
「以下の蝦夷の習俗・性質に関する記載は、漢籍に夷蛮の習俗として 記すものをそのまま採ったもので、実態を示すものとみるのは疑問。ここは蝦夷に関する初めて出るところなので、日本書紀の編者は後の 記事への導入としてとくに入念な紹介を行おうとしたのであろう。」
とあります。編者たちは漢籍に通じていて時の支配者の意向に沿うように「忖度」して筆を進めたのでしょう。 (2020.4.6)


「東夷の中に、『蝦夷』是れ尤(はなは)だ強(こわ)し。
男女交居りて父子別(かぞこ わきだめ)なし。冬は則ち穴に宿(ね)、夏は則ち巣に住む。毛を衣(しき)、 血を飲みて兄弟(このかみ おとと)相疑う。
山に登ること飛禽(とぶとり)の如く、草を行(はし)ること走(にぐる)獣(けもの)の如し。
恩(めぐみ)を承けては則ち忘れ、怨(あだ)を見ては必ず報ゆ。
是を以って、箭(や)を頭髻(たきふさ)に蔵(かく)し、刀(たち)を衣の中に佩(は)けり。
或は党類(ともがら)を聚(あつ)めて辺界(ほとり)を犯し、或は農桑(なりはひのとき)を伺い以って 人民(おおみたから)を略(かす)む。撃てば則ち草に隠れ、追えば則ち山に入る。故(か)れ往古以来 未だ王化(みおもぶけ=教化服従) に染(したが)わず。」

「願わくば深く謀り(良くない事をたくらむ事)遠く慮(はか)りて、姦(かだま)しき(心がねじけている)を探り、 変(そむ)くを伺いて、示すに威(いきおい)を以ってし、壊(なつ)くるに徳(うつくしび)を以ってして、 兵甲(つわもの)を煩さずして自らに臣隷(まうしたが)わしめよ。
即ち言(こと)を巧みて暴神(あらぶるかみ)を調(ととのえ)え、武(たけきこと)を振いて姦しき鬼を攘(はら)え。」 (『日本書紀』上・302頁日本古典文学大系・岩波書店)
▼『日本書紀』は随分勝手な書き方をしています。ヤマトによる征服、侵略。アイヌ民族から見れば抵抗の歴史はこの時代から始まっている? 
▲下線は引用者。『日本書紀』の時代から対アイヌ政策は変わっていない。(2022.9.17)
367年 *「大和朝廷」成立 
▼367年は『日本書紀』の神功皇后47年に当たります。なお最近読んでいます 『新版日本文化と朝鮮』(李進熙NHKブックス1995.3.24発行)によれば
「私の問題提起をきっかけに好太王碑文を根本史料にして日朝関係史や日本古代史を構築してきたことへの反省が高まり、 古代国家成立の諸条件を検討し直す作業がはじまった。そうして、その成立の時期を6世紀後半にさげるのが今や学会の常識となった。」(50頁)
とあります。『日本書紀』の記述を200年くらいずらす必要があるということ。(2019.2.24)
景行天皇40年は西暦110年を200年ずらすと310年4世紀前半となります。このころ日本武尊が関東に東征したことになります。 アイヌとの戦いは4世紀からはじまっていいます。まず関東で。310年から1869年明治2年で1559年ということ。大きく括りますと1500年間アイヌとの抗争はつづいたとなります。(2024.12.5)
538年  仏教伝来
607年  憲法17条制定
▼この頃から朝鮮半島の百済・新羅の渡来人による、唐に倣った中央集権律令制の日本の国家作りが始まる。この国の形が1200年以上幕末までつづく。 明治維新によって西欧の先端文化を取り入れ、西欧人の手引で帝国主義国家作りに邁進し、太平洋戦争の敗戦で終結する。 戦後アメリカGHQによる国連平和主義国家の建設に着手するが東西冷戦でアメリカ主導の軌道修正をしながら今日に至る。 こうして日本の国作りを俯瞰してみると、いづれも当時の世界の潮流を受け止めながら渡来人、西欧人、GHQの人たちに頼った 国作りをしてきたといえる。私見ですが。
▼昨日上記私見をメモしておきましたら今朝の朝刊(2019.2.16朝日新聞)で次のような記事に出会いました「政治季評」のコラムです。

「フランスの思想家ルソーによれば、古代ギリシャの諸国には、国の重要な法を外国人が作る習慣が存在したという。国に制度を与える「立法者」は、国内に利害関係をもつべきではない という考えからだ。…ただ、ルソーは「立法者」に高い知性を求める。この観点からすると、日本がGHQの優秀な人材を憲法の起草者に得たことは 、幸運であった。彼らは教養と専門知識を持ち、アメリカ合衆国憲法という世界で最も成功した成文憲法を、これが基づいた古代ギリシャ以来の統治 をめぐる議論とともに継承した人々であった。」(豊永郁子 早稲田大学教授)
渡島
ミシハセ=オホーツク人(拡大)

630年  遣唐使
645年  大化の改新
646年  「戸籍」・人別台帳の作成、納税台帳としての戸籍
658年  第1次「蝦夷」征討、阿倍比羅夫(斉明天皇4年)『日本書紀』
渡島地図 平山『地図でみる』54p(拡大)
▼wp:阿倍比羅夫が蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷(おが)を渟代(ぬしろ)・津軽二郡の郡領 (こほりのみやつこ)に定め、有馬浜(ありまのはま)で渡島(わたりのしま)の蝦夷を饗応。
▼wp:恩荷(おが/おんが)は、飛鳥時代に秋田地方にいた蝦夷の人物。 現在の秋田市周辺の蝦夷の長であった。斉明天皇4年(658年)に阿倍比羅夫の水軍を齶田(秋田)で迎え、 朝廷への服属を誓い、小乙上の冠位を与えられた。
▼渡島:海を渡ったかなたの辺境という意味。(『日本書紀』下・331頁頭注・日本古典文学大系・岩波書店)

▲蝦夷の記録は658年がはじめとおもっていたが、『エミシ研究』を読み300年遡る必要を感じました。 認識を根本的にあらためること。300年代から大和政権の東征がはじまっていた。(2024.12.5)
659年  遣唐使、道奥(みちのおく)の「蝦夷」男女2人を連れ、唐の天子に謁する。(斉明天皇5年)『日本書紀』
(天子)「これ等の蝦夷の国は何れの方にあるぞや」
    「『蝦夷』の国は、東北(うしとらのかた)にあり」
(天子)「蝦夷は幾種(いくくさ)ぞや」 
    「類(たぐい)3種(みくさ)あり。遠き者をば都加留(つがる)と名(なづ)け、次の者
     をば麁(あら)『蝦夷』(えみし)と名け、近き者をば熟『蝦夷』(にぎえみし)と名
     く」
(天子)「その国に五穀(いつつのたなつもの)ありや」
    「無し。肉(しし)を食ひて、存活(わたら)ふ」
(天子)「国に屋舎(やかず)ありや」
    「無し。深山(みやま)の中にして、樹(こ)の本(もと)に止住(す)む」
               (『日本書紀』下・339〜340頁日本古典文学大系・岩波書店)
▼「類(たぐい)3種あり」は、のちの「日ノ本・唐子・渡島、此三類」と繋がるようにおもえる。
▲日本書紀は蝦夷地まで念頭にない。津軽まで。(2022.9.18)
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660年  阿倍比羅夫、北征・「沈黙交易」(粛慎・みしはせのくに)
▼wp:沈黙交易についての日本の最古の記録としては、『日本書紀』の斉明天皇6年3月の条における阿倍比羅夫が粛慎(オホーツク人)と戦う前に行なった 行為があげられる。
▼「沈黙交易」にまでユポさんの関心が及んでいることに驚かされます。
712年  『古事記』(現存する日本最古の歴史書、全3巻・712年)
720年  『日本書紀』(?〜697を記す、全30巻、六国史の一)
     「征夷将軍」(日本型華夷思想)「征夷」とは「夷を征討する」の意味
     「東夷(とうい)」「西戎(せいじゅう)」「南蛮(なんばん)」「北狄(ほくてき)」
      中華思想(華夷思想)の「四夷」。 西戎 ― 華 ― 東夷
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』12〜13頁
「古代の中央貴族が都から遠く離れた北越や奥羽地方に住む人を「エミシ」「エビス」と呼び、 「毛人」「夷」「蝦夷」「狄」をあてた。「エミシ」は、「あらぶる者」「まつろわぬ人」敵対者の意味。」
・「安倍氏」(「六箇郡の司」・「東夷の酋長」)六箇郡とは胆沢郡・江刺郡・和賀郡・稗貫郡・斯波郡・岩手郡。
・「清原氏」(「出羽山北(せんぽく)三郡の俘囚(ふしゅう)主」)山北三郡とは雄勝郡・平鹿郡・山本郡。
「郡を建てるということは、そこに郡司を置き、律令制国家の内国なみの支配をおよぼすということを意味している。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』25頁)
▼wp:征夷大将軍は、朝廷の令外官(りょうげのかん)の一つ。令外官とは、律令の令制に規定のない新設の官職。現実的な政治課題に対して、 既存の律令制・官制にとらわれず、柔軟かつ即応的な対応を行うために8世紀末の桓武期の改革の際に多くの令外官が置かれた。 
征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つで、太平洋側から進む軍を率いた。これとは別に、日本海側を進む軍を率いる将軍は征狄将軍(鎮狄将軍)、九州へ向かう軍隊を率いる将軍は征西将軍(鎮西将軍)という。これは、「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ中華思想の「四夷」を当て嵌めたためとされている。
●エミシによる最初の抵抗
●720年(養老4年)9月 蝦夷(えみし)の叛乱。按察使の上毛野朝臣広人が殺される。持節征夷将軍と鎮狄将軍が率いる征討軍が出動。
●721年4月 征討軍、蝦夷を1400人余り、斬首・捕虜にし都に帰還。
724年  陸奥(みちのおく)「蝦夷」、大規模蜂起 多賀城設置
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多賀城 (拡大)
●724年3月(神亀元年) 海道の蝦夷が反乱。陸奥大橡(国司の三等官)の佐伯宿祢児屋麻呂(こやまろ)を殺害する。勢力範囲は気仙・桃生地方や牡鹿地方とされる。
●724年 朝廷は藤原宇合(うまかい)を持節大将軍に任命。関東地方から三万人の兵士を徴発し、これを鎮圧。
●724年 大野東人(あずまひと)により陸奥鎮所が設営される。東人は鎮守将軍(東北地方の最高責任者)として、郡山に駐在していたものと思われる (石碑によって確認される)。陸奥鎮所はのちに多賀柵と改名される。
●724年 出羽の蝦狄の叛乱。小野朝臣牛養が鎮狄将軍として派遣される。
●725年 陸奥国の俘囚を伊予国に144人、筑紫に578人、和泉監(いずみのげん)に15人配す。この後和人に抵抗する蝦夷が数千人規模で諸国に配流される。
▼通常の年表では「蝦夷反乱する」となっている。
ユポさんはアイヌ民族の立場から「蜂起」または「戦い」と表現される。
大事なこと。

725年  陸奥の俘囚(服属蝦夷)144人を伊予へ配し、578人を筑紫に配す 
▼wp:俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。 日本の領土拡大によって俘囚となったもの、捕虜となって国内に移配されたものの二種の起源がある。
774〜811年  陸奥「蝦夷」蜂起、(38年戦争)
                       
ナイ・ペツの
アイヌ語地名分布
平山『アイヌ語地名が語る』10p(拡大)

亀ヶ岡文化圏 平山『アイヌ語地名が語る』23p(拡大)
青森・秋田・岩手の
アイヌ語地名
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▼wp:宝亀5年(774年)には 按察使(あぜち)大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、弘仁2年(811年)まで特に三十八年戦争とも呼ばれる蝦夷征討の時代となる。
▼「蝦夷」の抵抗の歴史はこのあと1789年のクナシリ・メナシの戦いまで1000年つづく。 すごい歴史だ。このことをしっかり記憶に留めたい。
▼右の地図にはアイヌ語の地名が残る場所が赤点で示されている。(「アイヌ民族:歴史と現在」9頁) 陸奥「蝦夷」蜂起とはアイヌ民族の抵抗を物語っている。(2020.4.7)
780年(宝亀11年) 陸奥出羽の俘囚・アザマロ蜂起
▼wp:宝亀の乱(ほうきのらん)とは 奈良時代の日本の東北地方で起きた反乱。宝亀11年(780年)、 陸奥国の一部地域(のちに陸前国、宮城県などと呼ばれる地域)にて、大和朝廷(ヤマト政権、中央政権)に対し、 俘囚の指導者が軍を率いて起こしたもので、首謀者の名を採って伊治呰麻呂の乱 (これはりの・あざまろのらん、これはるの・あざまろのらん)とも呼ばれる。
789年(延暦8年)「蝦夷」(えみし)の首長、大墓公阿弖流為(たものきみアテルイ)、 胆沢(いざわ)に侵攻した「征夷軍」を破る。 アテルイ、モネ
▼wp:アテルイについて。陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)へと侵出した 紀古佐美(きのこさみ)率いる朝廷軍を巣伏(すぶし)の戦いで撃退したが、
巣伏(すぶし)の戦い  衣川
雄物川 秋田ー大曲ー横手
雄物川より北は蝦夷地
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衣川(ころもがわ)は、岩手県奥州市および西磐井郡平泉町を流れる北上川水系北上川支流の一級河川である。衣川は平安時代末期まで、 蝦夷の勢力と倭人の勢力とを分ける境界線の川であった。
衣川 横手ー衣川
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衣川・北上川・中尊寺 (拡大)
胆沢城 巣伏の戦い (拡大)
2021.3.10朝日夕刊 アテルイ(拡大可)
続く大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)率いる朝廷軍、 坂上田村麻呂率いる朝廷軍にたて続けて敗北。のち自ら降伏し、田村麻呂も助命を嘆願するが、京の公卿達の反対により河内国で処刑された。
▼坂上田村麻呂について。大和に住んだ百済系の漢(あや)人たちは東漢(やまとのあや)であって、その宗家的地位にあった坂上家は多くの武将を出した。 征夷大将軍の坂上田村麻呂はその子孫。(『新版日本文化と朝鮮』李進熙55頁より)
792年  第2次・「蝦夷」征討
2021.3.11朝日朝刊(拡大可)
民族学者・赤坂憲雄
「植民地という言葉は、東北の『蝦夷征討』以来千年の歴史を背負わされています。北海道のアイヌの人々、沖縄、 台湾、朝鮮半島、満州、国民国家としての日本は『帝国』化の歴史の中で、その周縁部に異質な文化や民族をたくさん抱え込んできた。 『内なる植民地』を生み出してきた。」

794年「征『夷』大将軍」 @大伴弟麻呂
797年「征『夷』大将軍」 A坂上田村麻呂  『続日本紀』(797年、全40巻・697〜791年を記す、六国史の二) 
801年(延暦20)第3次「蝦夷」征討・坂上田村麻呂・上渡嶋狄(エミシ)
(この後、平氏政権と織豊政権は「征『夷』大将軍」に任じられず)
   ▼wp:坂上田村麻呂が征夷大将軍として遠征。
802年  アテルイ、モレ(盤具公母礼・いわぐのきみモレ)処刑
    ▼wp:母礼(母禮) 802年9月17日、河内国で処刑された蝦夷の指導者の一人と    見られている人物。
811年(弘仁2)文屋綿麻呂蝦夷征伐終了を奏上。
▼ユポさんの年表にはありませんが38年戦争の一つの区切りとして 挿入しました。
▼wp:閏12月11日、蝦夷を全滅させたことにより、兵士配備の縮小、百姓に対する徴兵の廃止・4年間の課税免除を上奏し、許される。
▼平安時代は貴族社会で軍事力行使のイメージはなかったが、「蝦夷征伐」の歴史を勉強してとんでもない 間違いであったことが分かった。
840年  『日本後紀』(全40巻・792〜833年を記す、六国史の三)
▼六国史とは次の 一〜六の歴史書のこと。 ▼wp:
秋田城 (拡大)
復元秋田城 (拡大)
六国史の一 720年『日本書紀』
六国史のニ 797年『続日本書紀』
六国史の三 840年『日本後紀』
六国史の四 869年『続日本後紀』
六国史の五 879年『日本文徳天皇実録』
六国史の六 901年『日本三代実録』
869年  『続日本後紀』(全20巻、833〜850年を記す、六国史の四)
878年(元慶2年) 出羽の「蝦夷」蜂起、秋田城を焼く(元慶の乱)・(『日本三代実録』)
▼wp:元慶の乱(がんぎょうのらん)は平安時代に起きた夷俘 (蝦夷)の反乱である。
奥六郡 (拡大)

元慶年間の初頭、干ばつにより全国的に飢饉に襲われ、各地で不動倉が開かれ、賑給※が実施された。

wp:賑給(しんごう/しんきゅう)とは、賑恤(しんじゅつ)とも呼ばれ、律令制において 高齢者や病人、困窮者、その他鰥寡孤独[1](身寄りのない人々)に対して国家が稲穀や塩などの 食料品や布や綿などの衣料品を支給する福祉制度、あるいは支給する行為そのものを指す。)

直接記録に残ってはいないが、東北地方も例外ではなかったと考えられている。それに秋田城司による年来の苛政が重なり、夷俘の不満は頂点に達した。
元慶2年(878年)3月、夷俘が蜂起して秋田城を急襲、秋田城司介良岑近は防戦しかねて逃亡した。 夷俘は周辺に火を放ち、出羽守藤原興世も逃亡してしまう。津軽・渡嶋の蝦夷も蜂起した蝦夷を支援する。
朝廷は左中弁藤原保則を出羽権守に任じて討伐にあたらせることとした。保則は文室有房、上野国押領使南淵秋郷に命じて 上野国兵600人と俘囚300人をもって夷俘に備えさせた。
俘囚料から見た 俘囚移配先(拡大)

「集落からみた俘囚移配の様相(予察)」栗田則久。貴重な論文です。俘囚を畿内以外のどこに移配したのか、具体的に知ることができます。九州熊本が多いです。 (2024.12.12)
北秋田市マタギ駅 2023.1.14朝夕刊(拡大)
▲マタギ:アイヌ語でマタンキ=猟(2023.1.16)

これら軍事的措置をすませたうえで、朝廷の不動穀を賑給して懐柔にあたった。 この寛大な政策をおこなって苛政によって逃亡した夷俘の還住を促すことこそ上策であると朝廷に意見した。朝廷はこの意見を容れて3月、 征夷の軍を解いた。
アキタ川(雄物川)
雄物川大曲大平山
雄物川大曲付近
(拡大)
藤原保則は武力によらず寛政によって反乱の鎮撫に成功した一方、夷俘は降伏したが朝廷による苛政をくつがえし、 力を示したことで一定の成功を収めたと考えられる。
▼811年に38年戦争が終わって60数年後の878年にまた大きな戦いが起きている。

▲平山裕人先生の「アキタ俘囚側がアキタ川より北を自分たちの領域として認めよ」との指摘は極めて重要。しっかり記憶すべし。(2024.12.12)
アキタ蝦夷
アキタ川以北の独立要求

平山『地図でみる』
59p(拡大)

「三大実録」
元慶2年6月7日(拡大)
和人権力はじめて非を認める
平山『地図でみる』
60p(拡大)



東北エミシの行方
平山『地図でみる』
61p(拡大)
▲元慶の乱を
平山裕人著『アイヌ民族の現在、過去と未来』31pは
「アキタ俘囚の独立戦争」と表現。まったく新しい。
「アキタ俘囚側がアキタ川より北を自分たちの領域として認めよ」という要求を出した。「アイヌモシリ回復」訴訟に通ずる。 (2022.7.20)

▲アキタエミシ、878年、今から1144年前、アキタ川以北の独立要求。その後の東北エミシの行方、 和人社会に同化されていく過程は不吉な予感がする。北海道アイヌ、二の舞にならないことを祈る。(2022.9.18)
▲「三大実録」の当該部分を見つける。元慶2年6月7日だった。大した記録だ。(2022.9.19)
879年  『日本文徳天皇実録』(全10巻、850年〜858年を記す、六国史の五)
901年  『日本三代実録』(全50巻、858年〜887年を記す、六国史の六)
947年   狄(エミシ)坂丸一党、鎮守府使者殺害(『日本紀略』)
▼鎮守府使者殺害。大変なことだっただろう。878年から60数年後。
1062年  前九年合戦、安倍氏滅びる
wp: 陸奥国の土着で、有力豪族の安倍氏は、陸奥国の奥六郡 (岩手県北上川流域)に柵(城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していた。 陸奥(むつ)の安倍頼時(頼良)が陸奥(むつ)の奥六郡(おくろくぐん)を領しながら, 賦貢・徭役(ようえき)を納めなかったので、1051年朝廷は源頼義・義家父子を派遣して討伐させた。
『ウィキペディア(Wikipedia)』 奥六郡(おくろくぐん)は、律令制下に陸奥国中部(東北地方太平洋側、後の陸中国)に置かれた 胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六郡の総称。 現在の岩手県奥州市から盛岡市にかけての地域に当たる。
陸奥の国


北上川

(拡大) 衣川から盛岡まで

(拡大) 七時雨山

(拡大)

陸奥国骨寺村絵図 2024.3.19朝日夕刊(拡大)
陸奥国骨寺村地図 (拡大)
wp:この戦争は、源頼義の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までに要した年数から、 元々は「奥州十二年合戦」と呼ばれており、『古事談』『愚管抄』『古今著聞集』などにはその名称で記されている。 ところが、『保元物語』『源平盛衰記』『太平記』などでは「前九年の役」の名称で記されており、それが一般化して現在に至る。

さらに、「役」の表現には「文永の役」「弘安の役」(元寇)同様、華夷思想の影響が多分に見られ、 安倍氏が支配した東北が畿内から異国視され、安倍氏自体も「東夷」として蛮族視されていたことを物語る。 しかし後世に成立した『平家物語』などでは、安倍氏に同情的な記述も見られる。また、 今日では「前九年合戦」という表記がなされることもある。
▼ユポさんは華夷思想を排除されるから前九年合戦と表記されている。(2020.4.7)

▲梅原猛『日本の深層』125p〜126p
東北の旅でつくづく感じたのは、北上川の重要さである。私たち日本本島の中央部に住む人間は、川というものは日本列島を横断するものだと思っている。 真ん中に山脈があって、そこから東西あるいは南北に川が流れる。ついうっかりと、そう思ってきた。実際日本の川は、多くそのように流れているのである。
しかし、北上川は違う。それはまさに、東北地方を縦断する川なのである。それは東の北上山脈と西の奥羽山脈のあいだの多くの水を集めて、長く南下するのである。 従って、川の流域には縄文時代から多くの人間が住みついて、この川が一つの交通路となって、ここにひとつのまとまった社会をつくったに違いない。 縄文時代から物資の交流は驚くべきほど盛んであるが、その交流に、北上川が大きな役割を果たしたことは言うまでも無い。
北上川は、この地の土着民にとっても重要な意味をもった交通路であったろうが、蝦夷征伐を試みる大和朝廷もまた、北上川を北上して徐々にその支配地を広げたのである。
多賀城、伊治城、胆沢(いさわ)城、徳丹城、すべて北上川の流域にある。
この、蝦夷にとって「母なる川」というべき北上川は、まさに大和朝廷の侵略の進路と化したのである。 平泉の藤原氏の遺跡のある北上川、安部氏の滅びを語る北上川、賢治の童話に出てくる北上川、啄木の歌に出てくる北上川。 北上川にはどこかに悲しいイメージが伴っているのは、このような歴史のせいだろうか。 しかし、その北上川も七時雨山(ななしぐれやま)(標高1060m・岩手県)のあたりで尽きる。そこから川は、東と西に流れるのである。
https://isikari.genin.jp/kitanokodaisi/kitanokodaisi/umeharaC/genriyuu.html
wp:源氏の神話化の原点としての前九年の役
「前九年の役」における河内源氏の源頼義・義家の戦勝は、 河内源氏が武門の家の中でも最高の格式を持つ家である根拠として、中世以降、繰り返し参照されるようになった。 実際、頼義・義家の家系からは後に源頼朝が出て鎌倉幕府を開いただけでなく、室町幕府を開いた足利尊氏も河内源氏であった。 彼らが武門の棟梁の象徴として征夷大将軍を名乗った背景には、頼義が蝦夷を征討した形となった戦役がある。

1087年  後三年合戦、清原氏滅びる・奥州平泉藤原氏台頭

後三年合戦「世界の歴史まっぷ」:
永保3年〜寛治元年(1083〜1087)に奥羽で起きた戦い。 前九年の役後、奥羽に力を伸ばした清原氏の内紛に陸奥守(むつのかみ)として赴任した源義家が介入し、 藤原清衡を助けて清原家衡・武衡を滅ぼしたもの。清衡は奥羽の地盤を引き継ぎ、源氏は東国に基盤を築いた。
▼この後100年間、奥州藤原氏の平泉文化
                                        トップへ戻る
1189年  源頼朝、奥州平泉の藤原氏を滅ぼす

▼wp:関東の後背に独立政権があることを恐れた源頼朝は1189年7月、義経を長らく匿っていたことを罪として 奥州に出兵。贄柵(にえさく)(秋田県大館市)において家臣の造反により泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅んだ。

▼東北の豪族は、1062年阿部氏、1087年清原氏、1189年藤原氏、130年かけて源氏により次々滅ぼされる。(2020.4.7)
源頼朝と田村麻呂伝説
1189年、「出羽・陸奥は蝦夷の地」と言われていた。源頼朝は、28万4千騎を率い、平泉藤原氏を滅ぼしている。

源頼政・武士で歌人 2023.5.14朝日朝刊(拡大)
鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」には、
源頼朝が平泉を攻め、藤原泰衡らを討伐した後、鎌倉への帰路にある達谷窟(たっこくいわや)に目をとめ、 その名を尋ねると、「それは、達谷窟で、田村麻呂、利仁らの将軍が、綸旨(りんじ)(蔵人所が 天皇の意を受けて発給する命令文書)を受け賜って夷を征する時、賊主である悪路王や赤頭らが、 城塞を構えていた岩屋」だと教えたという。

そして源頼朝の平泉征討は、「坂上田村麻呂」になぞらえて書かれている。
つまり平泉政権に対する戦いは、古代以来の「征夷」の延長として中央権力から位置づけられていたのである。


▼「源頼朝は、28万4千騎を率い」を読み、凄さがイメージできました。「征夷」の意味もよく分かりました。田村麻呂の801年から数えて388年。 朝廷の為政者から見れば約400年かけて悲願を達成したということ。それが延暦20年。天台宗が開かれた時期でもある。都の勢いが地方にこのように「征夷」という形で及ぶ。(2020.4.8)

1191年  強盗・海賊の類を「『蝦夷』島」へ流す。『都玉記』(とぎょくき)

▼『吾妻鏡』に1216年、1235年、1251年に夷島流刑の記述。(榎森進『アイヌ民族の歴史』44頁より)。
オーストラリアが英国の、シベリアがロシアの流刑地であったように北海道が鎌倉幕府の流刑地だったようだ。 そして700年後、明治維新の動乱(佐賀の乱、熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱、西南の役など)が全国各地で起き、 多数の国事犯・重罪人が出たため、明治新政府は、「北海道」を流刑地として囚人を送り込んだ。 1881年(M14)「樺戸(かばと)集治監」設置。以後空知、釧路、網走、十勝。
▼wp:『吾妻鏡』または『東鑑』は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から 第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。 成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。

1192年  源頼朝、「征『夷』大将軍」となる(1190年右近衛大将)           
1200年〜 蝦夷地のアイヌ民族、サハリン進出、ギリヤークと抗争
▼アイヌ民族のサハリン進出にともないサハリンの先住民 のギリヤークとの抗争が絶えなかったということ。
ギリヤークは「オホーツク文化」の担い手であり、アイヌの「擦文文化」と融合して「トビニタイ文化」が生まれたことを 下記の著書、論文から勉強しました。
▼この研究は榎森進『アイヌ民族の歴史』「長く続くギリヤークとの抗争」46頁〜50頁に詳しいです。
また『中世後期における東アジアの国際関係』(大隅和雄・村井章介編・山川出版)のなかの 中村和之「十三〜十六世紀の環日本海地域とアイヌ」の論文もあります。
中村さんは「十三〜十五世紀の北海道の社会は、周辺諸地域との活発な交流のなかで、 近世アイヌ文化の形成に向かう活力に満ちたものでありました。」(147頁)と書いておられます。
少なくとも私のこれまでのアイヌ民族へのイメージを一新させられる論文でした。 アイヌ民族にとって誇りと勇気を与えられる論文だと感銘しました。
▼そして最後に右上の棒グラフ(拡大可)と右の円グラフ(拡大可)です。ユポさんから紹介されました篠田謙一さんの「日本人の起源」(洋泉社)の論文です。
まず右上の棒グラフですが本土日本人と比べてアイヌ民族はピンクのYが多いです。
そして右。
平山『消えた「アイヌ」』 アイヌとオホーツク人のつながり(拡大)
オホーツク文化を担った人たち(円グラフの上から2番目)とアイヌ民族(円グラフの上から3番、4番)は 共通のピンクのYグループのDNAを持っているという研究です。
これで「ユーカリ」の謎が解けます。
「アイヌユーカリ」のレプウン・クル(沖の人)はオホーツク文化を担った人たちで、その人たちのDNAがアイヌの人たちに入っていた。 ということは民族的にも融合が進んでいたということですね。「ユーカリ」の中に登場するのも当然ですね。
1264年  モンゴルとサハリン・アイヌ民族の戦い(以後1308年まで44年に及ぶ戦い)
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』46頁
「『元史』1264年11月辛巳条に「gu-wei(アイヌ)を征(せいばつ)す。 是より先、jilimi(ギリヤーク)内附(ふくぞく)し言わく。其の国の東にgu-wei、yiliyu両部有り、歳(まいとし) に来りて彊(さかい)を侵すと。故に往きてこれを征す。」
▼この1264年はフビライの時代。
38年間の元王朝との戦い 平山『地図でみる』74p(拡大)
▼以下は榎森進『アイヌ民族の歴史』50頁の要約です。
1284年〜1286年の3年間毎年サハリンの「アイヌ」征討実施。
1296年アイヌ・ギリヤーク共同で反元行動。
1297年アイヌ・ギリヤークが元軍と戦う。
  同年7月の戦闘でアイヌ軍が元軍を破る局面も。
  8月ギリヤークが元軍にアイヌを討つことを要請。
1308年アイヌ降伏。
▼アイヌとギリヤークの関係は同盟と抗争がいりまじっています。1297年の7月から8月の1ヶ月に何があったのか。
▲「アイヌ民族は北海道だけの民でなかった。アイヌは日本の中の一つの民族ではなかった。日本とは別に北東アジアの中で 自立して生きてきた民族なのだ。」平山『アイヌ民族の現在、』38p。しっかり記憶しておくこと。(2022.7.20)
外交の不在2 2023.2.5朝日朝刊
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▲外交の不在は鎌倉幕府だけではない。日本にはその後も、それ以前も外交は不在。今も。 (2023.2.15)
外交の不在1 2023.2.5朝日朝刊
(拡大)
シラヌシ
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落石
(拡大)
1274年  元軍、九州に来襲(文永の役)
1281年  元軍、再度来襲 (弘安の役)
1296年  僧日持、落石(おっちし)に住む
▼wp:日持(にちじ、建長2年(1250年)- 没年不詳)は、鎌倉時代  中期から後期にかけての日蓮宗の僧。新潟から秋田、青森、函館、松前、江差を経て渡樺し、 本斗郡好仁村(ほんとぐん こうにむら)の白主(しらぬし)、1295年(永仁3年)樺太の本斗郡本斗町阿幸に上陸した後、 北樺太の落石(オッチシ)(アレクサンドロフスキ・サハリンスキー)から海外布教を志し満洲に渡ったとも、 蝦夷地で没したともいう。
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1308年  サハリン・アイヌ民族、元朝に朝貢を約す
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』50頁(もと資料は『元史』)
「元軍と果敢な戦いを行ったアイヌも遂に元軍の圧力に屈し降伏を乞い、 刀や兜を差し出し以後元朝に毎年獣皮を貢納して朝貢することとなった。」
1323年 「聖徳太子絵伝」に「十歳降伏蝦夷所」の図(581年 蝦夷蜂起)
「聖徳太子絵伝」の「十歳降伏蝦夷所」の図
▼「日本における北方研究の再検討」(煎本孝)論文より
聖徳太子絵伝
蝦夷の人物絵
この頃、蝦夷の記事。年表に頻繁に表れる。(2022.9.18)(拡大)
「1323年ころ作成された「聖徳太子絵伝」中「十歳降伏蝦夷所」には、 581年アヤスカをはじめ古代蝦夷の首長たちが大和にある朝廷にやって来て服従の誓言のおり、
聖徳太子絵伝
白馬に跨り指揮を執る太子
太子のもう一つの顔
当時10歳の聖徳太子が敏達天皇に献言して蝦夷の大将アヤカスらを初瀬川のほとりに召して説服されたという、 伝説の場面が描かれている。
これは今日残る最古のアイヌ風俗画とされるものであるが、 『日本書紀』の記載からこれが北海道のアイヌではなく本州の蝦夷(エミシ)を描こうとしたことは明白である一方、 古代蝦夷は、日本の北部地域である現在の青森県、秋田県、宮城県北部に住み、 多くの日本の専門家たちは彼らが形質的にも言語的にもアイヌの祖先と関係ある人々であったと考えている。」

▼1336年室町幕府成立。上記「太子絵伝」は当時の合戦の雰囲気を表わしていると思う。(2022.9.19)
1356年 『諏訪大明神絵詞』(諏訪大進房小坂円忠・諏訪神社神主)
▼「諏方大明神画詞」は、室町幕府で要職にあった諏訪(小坂)円忠が、 編纂した「諏方大明神縁起※」の詞書(文章)部分だけを写本として今日に伝わったもので、 本来は絵画も描かれていました。(2022.9.14メモ) 
「東『夷』蜂(起)シテ奥州騒乱スルコトアリキ、『蝦夷』カ千島ト云エルハ、我国ノ東北ニ当テ大海ノ中央ニアリ、
日ノモト・唐子・渡島、此三類各三百三十三ノ島ニ群居セリト、 
諏訪大明神絵詞
(拡大)
諏訪大明神絵詞アイヌの部分
▲2022.9.14やっと見つける。(拡大)
一島ハ渡島ニ混ス、 其内ニ 宇曾利鶴子別(うそりけ しべつ・箱館)ト 前堂宇満伊犬(まとうまいん・松前)ト云小島トモアリ、 此種類ハ多ク奥州津軽外ノ浜ニ往来交易ス、

夷一杷ト云ハ六千人也、相聚(あいあつま)ル時ハ百千杷ニ及ヘリ、

日ノモト・唐子ンノ二類ハ其地外国ニ連テ、形躰夜叉ノ如ク変化無窮(むきゅう)ナリ、
人倫、禽獣・魚肉ヲ食トシテ、五穀ノ農耕ヲ知ス、九訳ヲ重ヌトモ語話ヲ通シ堅シ、

渡島ハ和国ノ人ニ相類セリ、但鬢髪多シテ、遍身(へんしん)ニ毛ヲ生セリ、言語俚野也ト云エトモ大半ハ相通ス、

此中ニ公超霧ヲナス(霧を起こす)術ヲ伝エ、公遠隠形ノ道(身を隠す方法)ヲ得タル類モアリ、

戦場ニ望ム時ハ丈夫ハ甲冑・弓矢ヲ帯シテ前陣ニ進ミ、婦人ハ後塵ニ随ヒテ木ヲ削テ弊幣(へいはく)ノ如クニシテ、 天ニ向テ誦呪ノ躰アリ、

男女共ニ山壑(やまたに)ヲ経過スト云エトモ乗馬ヲ用ス、
其身ノ軽キ事飛鳥・走獣ニ同シ、 彼等カ用ル所ノ箭ハ遺骨ヲ鏃トシテ毒薬ヲヌリ、纔(わずか)ニ皮膚ニ触レハ其人斃(へいせ)スト云事ナシ・・・・」

▼「諏訪大明神絵詞」は、1365年に、長野県にある諏訪神社の円忠という人が書いた本で、安藤氏の内乱について書いたところに、蝦夷についての 記録がある。(「アイヌ民族:歴史と現在」10頁)
『諏訪大明神絵詞』 左記をクリックしていただくと『諏訪大明神絵詞』を読むことができます。29コマ目が当該ページです。 2行目から「東夷蜂起シテ奥州騒乱」と読んでいけるとおもいます。(所蔵者:愛知県西尾市立図書館(岩瀬文庫)国文学研究資料館の資料です。) この記述は鎌倉末期の「安藤氏の乱」を記述した場面だそうです(榎森進『アイヌ民族の歴史』66頁)。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安藤氏の乱(あんどうしのらん)は、鎌倉時代後期、エゾの蜂起と安藤氏の内紛が関係して起こった乱。 蝦夷大乱、津軽大乱[1]とも呼ばれる。
発端は、1268年(文永5年)に津軽でエゾの蜂起があり、蝦夷代官職の安藤氏が討たれた事件である。 エゾの乱は1333年に滅亡する幕府の腐敗を示す例として評され、幕府衰退の遠因となったとする見解もある[9]。
▲「諏訪大明神絵詞」とアイヌがやっと結び付いた。(2022.9.19)


**蝦夷地における日本民族の植民活動の始まり**(商業植民地)
北海道植民史と近世植民史の一致は、単にその始期を同うするばかりではなく、その活動が主として戦に馴れ、 また封建制度の下に失墜せる勢力を他に求めんとする武士によって始められたことであった。

▼このユポさんの短いコメントに的確な指摘がなされています。「戦に馴れ」がそれです。 日本人は実に「戦」が好きな民族のようです。古代から現代に至るまでも。

「日本における北方研究の再検討」(煎本孝)論文 4頁で、
「アイヌ文化の成立は考古学的には12世紀と考えられているが、12世紀末鎌倉幕府の成立から16世紀末室町幕府 の滅亡までの中世において、奥州の安東の乱の鎮圧の資料として1356年に成った『諏訪大明神絵詞』に(上記の内容が)記されている。
金田一京助(1925年)は「日ノモト」とは東国、すなわち東蝦夷、後の千島アイヌなどであり、 「唐子」とは韃靼海峡を経て満州文化の影響を受けたアイヌ、すなわち後の樺太アイヌなどであり、 「渡党」とは奥州より敗走した……アイヌであると比定している。」
と書かれています。
たまたま『アイヌ民族:歴史と現在』(公益財団法人アイヌ民族文化財団10頁)に「日ノモト」「唐子」「渡党」の勢力図を見つけました。 右の北海道の地図(拡大可)です。元資料は『中世の蝦夷地』(海保嶺夫・吉川弘文館)のようで、162頁に中世蝦夷地(想定図)となっています。 想定図は文章で読むより遥かによくわかります。感謝。
1413年  明、永楽帝時、サハリン・アイヌ民族の記述
▼「1413年の『勅修 奴児干永寧寺記』(ヌルカンえいねいじ)には「海西より奴児干に至り、海の外にある苦夷(アイヌ)の諸民に及ぶまで、 衣服・器用をもってし」たという記述があります。」(大隅和雄・村井章介編『中世後期における東アジアの国際関係』 中村和之「十三〜十六世紀の環日本海地域とアイヌ」論文・山川出版) 「新発見の「重建永寧寺碑」拓本をめぐって」中村和之「会報」No.23 2003.7.1 2003年度第1回研究会報告要旨(その1)
▼ユポさんの年表の一行から中村さんの「新発見の「重建永寧寺碑」拓本をめぐって」にたどり着きました。 この出会いは不可思議です。
永寧時の碑 (拡大)
「新発見の「重建永寧寺碑」拓本をめぐって」より。
「15世紀の初頭、明の永楽帝は女真人の亦失哈(イシハ)を派遣し、 かつて東征元帥府のあったところに奴児干都司(ヌルカンとし)を設置した。
以後、明はアムール川流域・樺太の諸集団に積極的に支配を及ぼしたが、 現地で活躍した官吏のなかには、アムール川流域の住民から登用された者もいた。
明は、貂皮などの朝貢の見返りとして絹織物を下賜したが、 そのなかには竜袍(りゅうほう)・蟒袍(もうほう)などといわれた役人の服が含まれていた。 これが蝦夷錦とよばれるものである。」

▼アイヌの人たちが蝦夷錦をいつ、どのように入手したかに以前から興味があったがやっと疑問が解けた。(2020.4.7)
1443年以降のアイヌ民族の歴史は和人による植民地化の歴史と捉えたほうが事の真相が明確に理解できる。(2020.7.13)

1443年
津軽十三湊(とさみなと)豪族・安東盛季とその配下、「『蝦夷』島」へ逃亡渡島半島南部に「舘」を築く(道南12舘)。
     アイヌ民族の居住権をおびやかし、略奪的交易を強いる
道南12館wikipediaより (拡大)
   ▼道南12舘と位置図(拡大可)(「アイヌ民族:歴史と現在」公益財団法
   人アイヌ民族文化財団14頁より転載  地図の右端から海岸沿いに下記の
   舘が位置しています。)
   志苔館(函館)、箱館(函館)、茂別館(下の国の守護)、中野館、
   脇本館  (知内)、穏内館(福島)、草部館(松前)、大館(松
   前の守護)、禰保田館  (松前)、原口館(松前)、比石館(上
   ノ国)、花沢館(上ノ国の守護)
   ▼これがアイヌ民族の苦難のはじまり。


1456年 (アイヌの大闘争時代1456年〜1789年) 
wikipedia:コシャマインの戦い
  「コシャマインの戦い」(武田信広〔26歳〕蠣崎家の養子に)
      「渡島半島南部に拠った12の舘主は、アイヌ民族との交易権の拡大をめざしたため、アイヌ民族の自由な
       交易活動は次第に制限された。各舘主間の利害は、アイヌ民族および本州地方との交易をめぐって対立
       し、抗争は激化した。その矛盾はアイヌ民族に対する収奪・抑圧に集約され、渡島半島のアイヌ民族の自
       由な生活は急速に破壊された。」(ユポさんのこの文章の出典?)
     ・道南12舘のうち、茂別舘・花沢舘を除く、10舘、陥落
コシャマイン父子を討つ
新羅之記録
コシャマインの戦い
平山『地図でみる』88p(拡大)
            
▼茂別舘は下の国の守護、花沢舘は上ノ国の守護、守りが堅かったのだろう。
     ・花沢舘の武士・武田信広は敗走した和人勢力を再編し、苦戦の末、       謀略を以ってコシャマイン父子を討つ
     ・東は鵡川、西は余市に至る和人居住者、松前上ノ国天の川に移住
     アイヌ民族の歴史年表より。
     1457年5月14日 オシャマンベの首長コシャマインを盟主とするア
     イヌ同盟軍が蜂起。兵力は9千人(東部アイヌ約四千強、北部アイヌ
     約二千強、西部アイヌ約三千)といわれる。総兵力300人の志海苔館はまもな
     く陥落。

     ▲「兵力は9千人」、本当か?(2022.8.4)
▼12舘のうち10舘が陥落とは! 凄いことだ。
コシャマイン父子を討つ、は函館市中央図書館のデジタルアーカイブ の『新羅之記録』で確認できます。 上の画像が『新羅之記録』です。3行目「胡奢魔犬(コシャマイン)父子二人斬殺(キリコロス)」が読み取れます。
▼コシャマイン蜂起の歴史的背景は榎森進『アイヌ民族の歴史』132〜134頁でも確認できます。
「下国安東氏が夷島のみを唯一の経済的基盤にするにいたったということは、 とりもなおさず夷島におけるアイヌ民族との交易権のより一層の強化や夷島に居住する各館主を初めとする 和人集団に対する支配を強化するにいたったことを意味している。 …コシャマインの戦いの大きな要因の一つにこうした事実があったことは間違いないであろう。」
▼アイヌ民族への圧迫がじわじわ忍び寄って来るのが感じられる。と同時にアイヌ民族はすぐに蜂起で応えている。このあと蜂起がつづく。
  Wikipediaコシャマインの戦い
応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起。
現在の北海道函館市にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、 渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬)を中心とするアイヌが蜂起。
最終的には平定され、松前藩形成の元となった。
▼「和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけ」。 米国の黒人差別を思い浮かべる。日常の差別・蔑視が些細なことで大事件に発展する。 これも似ている。これ以降、より一層和人側はアイヌ民族への支配を強化していく。 事件が起きた志濃里から北100qに位置する長万部(オシャマンベ)の首領コシャマインが蜂起を指導した。 (2020.4.9)
                                        トップへ戻る
1494年の世界分割(拡大可)
マルク・フェロー『植民地化の歴史』p94〜p95 ▼1494年トルデシリャス条約(スペインとポルトガルの世界分割)ブラジルを除く南北アメリカ大陸は スペインの支配下。それ以外はポルトガルの支配下。
世界史のこのような状況下での蝦夷地における和人の植民地的支配拡大とアイヌ民族の蜂起であった。(2020.7.13)
1492年のアメリカ大陸(拡大可)
マルク・フェロー『植民地化の歴史』p68(新評論 片桐祐、佐野栄一訳 20173.31発行) ▼地図で確認すると先住民族の居住地は
南北アメリカ大陸の主に太平洋側。

*「戦乱の一世紀」(約100年)
1469年 アイヌ民族蜂起
1471年 アイヌ民族蜂起
1473年 アイヌ民族蜂起
1512年 東部のアイヌ民族蜂起。宇須岸、志濃里、与倉前の3舘陥落、舘主戦死
1513年 アイヌ民族蜂起、大舘で戦闘、舘主相原氏自害
1515年 ショヤ・コウジ兄弟蜂起、光広饗応し和睦を装い斬殺
1525年 「東西」のアイヌ民族蜂起
1528年 蠣崎義広に対するアイヌ民族蜂起
1529年 タナサカシ(セタナイの首長)、工藤氏を破り、和喜舘に攻め入るも、 義広謀略を持って討つ
1531年 蠣崎義広に対するアイヌ民族蜂起、大舘を攻める
1536年 タナサカシの女婿・タリコナ蜂起。義広和議を申し入れ、謀略を以って斬殺
▼この100年の戦いの記録・記憶は被圧迫先住民族にとって、とても貴重だとおもいます。
非常に特徴的なのが、1515年光広饗応し「和睦を装い」斬殺、1529年義広「謀略」を持って討つ、 1536年義広和議を申し入れ「謀略」を以って斬殺。いずれも「謀略」「謀略」。腹黒い・こ狡い和人  卑怯。 対アイヌ民族に対しては恥ずかしい歴史しか和人は持っていない。(2020.4.8)
▼アイヌ民族の歴史年表http://www10.plala.or.jp/shosuzki/japan/ainu%202.htmには
「1536年6月 タリコナ、義広を狙って勝山館を強襲、兵力に劣る蛎崎氏は再び和睦を乞う。 館内での酒宴の最中にタリコナ夫妻を惨殺。これ以後アイヌの攻勢はなくなった。」とあります。(2020.4.9)
▼次の『夷狄の商舶往還の法度』を読んでみてタリコナの蜂起後14年間で蛎崎氏とアイヌ民族の力関係が大きく変わったことに気づきました。 つまり支配に組み込まれた、との印象です。(2020.4.10)

1550年(1551)「夷狄(いてき)の商舶往還の法度」(蠣崎季広)『新羅之記録』天文19(20)年6月23日(蠣崎氏
       と東西アイヌ民族の通商協定)

新羅之記録上巻表紙

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新羅之記録商舶往還
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利別川(勢田内)・知内川(志利内)

渡党の広がり
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夷狄商舶往還の法度
和人とアイヌの条約ともいえるもの。平山『地図でみる』91p

「勢田内の波志多犬(ハシタイン)を召寄せ上之国天河の郡内に居へ置きて西の伊(イン・長官)と為し 亦志利内の知蒋多伊(チコモタイン)を以って東夷の伊と為し、 『夷狄の商舶往還の法度』を定む。
故に諸国より来れる商賈(しょうこ・商人)をして年棒を出さしめ、 其内を配分して両酋長に賚(たま)ふ。之を夷役と謂ふ。
而る後西より来る『狄』の商舶は必ず天河の沖にて帆を下げ休んで一礼を為して往還し、 東より来る『夷』の商舶は必ず志利内の沖にて帆を下げ休んで一礼を為して往還する事、偏に季広朝臣(あそみ) を慫敬(しょうけい・おそれうやまうこと)せしむる処なり。」
▼右の写真は函館市中央図書館のデジタルアーカイブスからの転載で 『新羅之記録』の原本です。 終わりから5行目以降が「勢田内の波志多犬(ハシタイン)を召寄せ…」の記述になっています。
『新羅之記録』表紙

▼今、『熱源』を読んでいますがその中でアイヌを侮蔑する呼び方として「あ イヌ」と出てきます。最初わからなかったのですが古い書籍に ハシタインは波志多犬と書き、コシャマインは胡奢魔犬と書いています。 これがのちに蔑称になったんだなと思いました。不愉快です。(2020.7.2)

「蠣崎政権にとって、アイヌ民族との緊張関係を少しでもやわらげ、そのことによって権力基盤の安定を 確立するうえで大きな役割を果たしたのが『夷狄の商舶往還の法度』であった。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』146頁)
▲榎森先生のこの評価より下記の平山先生の評価のほうが私には説得力があります。 (2022.10.4)

コシャマインの戦いの結果 平山『地図でみる』91p(拡大)

「和人勢力は一時、ヨイチからムカワのラインまで居住しアイヌの人たちと 共住する地域となった。1457年に始まる100年戦争の結果、和人勢力を松前半島の片隅に追いやった」。
この評価はすばらしい。左上「渡党の広がり」参照。(2022.8.5)

▼このころのアイヌ民族はまだまだ和人と戦う力を持っていました。しかしご承知のように 「1543年8月ポルトガル人、種子島に来て鉄砲を伝え」(『新版日本史年表』(1984年・岩波書店))、 和人が鉄砲を手に入れた為にアイヌ民族への支配が決定的になったと思います。

▲改めて1456年コシャマインの戦いから1550年「夷狄商舶往還の法度」までの100年間を振り返りました。 平山先生の「和人勢力は一時、ヨイチからムカワのラインまで居住しアイヌの人たちと 共住する地域となった。1457年に始まる100年戦争の結果、和人勢力を松前半島の片隅に追いやった」の視点が欠落していました。 大きな成果のあった100年の戦いだったと見方が変わりました。平山先生に確認します。(2022.10.4)
1565年 イエズス会宣教師、ルイス・フロイス、「蝦夷」交易を記す
アイヌ民族の歴史年表に下記の記述があります。
1565年 宣教師ルイス・フロイスによりはじめてヨーロッパにアイヌの情報が伝わる、 出羽国の秋田に、アイヌが多数交易にくる様子などを記録
1578年(天正6) 蠣崎正広、安土で織田信長に謁す
▼HP函館市中央図書館のデジタルアーカイブス『新羅之記録』 をクリックしていただくと「天正年…安土ニ於テ信長公ニ謁シ奉ル」と見えます。
1585年 秀吉、関白となる
1586年 秀吉、太政大臣となり、豊臣の姓を賜る
1590年(天正18)蠣崎慶広、上洛し「狄之嶋主」として、聚楽第で豊臣秀吉に拝謁慶広、前田利家、木村秀綱、大谷
     吉忠らと会う      
1592年(文禄元) 慶広、秀吉の朝鮮出兵に応じ、大阪、肥前名護屋に出陣
1593年(文禄2) 豊臣秀吉より、慶広「朱印状」賜る(志摩守に任じる)
「松前に於いて、諸方より来る船頭商人等、『夷人』に対し、地下(じげにん・和人=一般日本人) と同じく非分(ひぶん)の義、申し懸けるべからず。
並びに船役(ふなやく)の事、前々より有り来るが如く之を取るべし。 自然(もしも)此の旨に相背(そむく)族(やから)之在るに於いては、急度言上(きっとごんじょう)すべし、 速(すみ)やかに御誅罰(ごちゅうばつ)を加えらるべきもの也。」
蠣崎志摩守トノへ  文禄2年正月5日 秀吉朱印
・アイヌ民族に対する非法行為の厳禁
・船役(関税)徴収権の公認 
・蠣崎氏、安東氏の支配から自立し、独立の大名となる
・慶広、東西アイヌ民族を集めて秀吉の朱印状を読み聞かせる
▼この秀吉の朱印状は、蠣崎氏を通して中央政権の支配がいよいよ 北海道のアイヌの地に及び始めたということでしょう。(2020.4.11)
                            トップへ戻る
1600年(慶長5) 蠣崎慶広、家康に謁し姓を松前に改める(慶広とその子孫のみの改姓) 『新羅之記録』
1603年 徳川家康、「征夷大将軍」となる
▼家康、夷を征する大将軍か。(2020.4.11)

**前松前藩治時代**
17C~  松前藩(現松前郡松前西舘)の成立、アイヌ民族との交易権の独占
1604年(慶長9) 徳川家康より、「蝦夷交易の制三章」・「黒印状」を下賜される
        ▼下の画像は 徳川家康からの制書で松前町のHPからです。
家康制書 (拡大)

1 諸国より、松前へ出入りの者共、志摩守に相断らずして、夷仁(いじん)と直に商売仕
 (つかまつり)候儀、曲事(くせごと)たるべき事
2 志摩守に断り無く渡海せしめ、売買仕候はば、急度(きっと)言上致すべき事
  付(つけたり)、夷之儀は何方へ往行し候共夷次第に致すべき事
3 夷仁に対し非分の儀申し懸けるは、堅く停止(ちょうじ)の事
  右条々若し違背の輩に於いては、厳科に処すべきもの也。仍(よっ)て件(くだん)の
  如し。
  慶長9年正月27日  家康黒印  松前志摩守とのへ (「松前家文書」読み下し文)

「徳川実録」
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「徳川実録」
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▲平山『アイヌ民族の現在』51p家康の黒印状。「付(つけたり)、夷之儀は何方へ往行し候共夷次第に致すべき事」に注目された。 日本の統一政権がアイヌ民族に対し、「どこへ行こうとも自由」と宣言したものとの読み取りは凄い。(2022.7.24)
・松前藩の成立(松前志摩守慶広)
・無高大名(1万石格)・アイヌ民族との交易独占権によって経済を支える(藩主と家臣団の経済のため)
・幕府に対する軍役奉公
・参勤交代(6年に一度)
・蝦夷地沿岸部を藩主直轄と、上級家臣への知行地として区分
(アイヌ民族の居住地に対応する形で商場を設定し、原則として一つの商場に一つの知行権(交易権)が設定された。)
・「城下交易体制」から「商場知行(交易)制」へ
▼国立国会図書館デジタルコレクションのHP 「徳川実録」 コマ番号57を選んでください。慶長9年の頁最後の4行に「蝦夷貿易之制」 の見出しで「蝦夷交易の制三章を授らる」との記事が出て来ます。
▼函館市地域史料アーカイブで 「松前氏の成立 安東氏より独立」 の頁が出て来ます。以下です。アーカイブの全文を載せておきます。

「室町時代の末頃(1573年滅亡)、東北地方の豪族である安東氏の代官として、入港の商船から税を徴収することが主な仕事であった蠣崎氏は、 徐々にその実権を強化していき、第五代蠣崎慶広(よしひろ)は、天正十八年(1590)十二月京都に上って豊臣秀吉に謁見し、 従五位下民部大輔に任ぜられ、安東氏の支配から脱し、蝦夷島の支配を認められた。 次いで文禄二年(1593)一月肥前の名護屋において秀吉に謁し、志摩守に任ぜられ「朱印の制書」を賜わったのであるが、 その法令の内容は次のとおりであった。(新北海道史第二巻所載)

於松前、従諸方来船頭商人等、対夷人、同地下人、非分儀不可申懸。
並航役ノ事、自前々、如有来、可取之。
自然此旨於相背族在之者、急度可言上、 速可被加御誅罰者也。
文禄二年正月五日 朱印               蠣崎志摩守とのへ 

これを書き下し文にしてみると、 
松前に於て、諸方より来る船頭商人等、夷人に対し地下人と同じく、非分の儀申懸くべからず。
並びに船役の事、前々より有り来りの如く、これを取るべし。
自然この旨に相背く族(うから)これあるに於ては、急度言上すべく、速かに御誅罰加えられるべきもの也
   文禄二年正月五日 朱印            蠣崎志摩守とのへ 

この法令の示すところは、松前に来る船や商人から、従来どおり税を取り立てる権利を認めるという内容で、 実質的には安東氏の臣下を脱して、一国の領主として認めるというものであった。 その後、慶長三年(1598)八月秀吉が没し、政治の実権を徳川家康が握ると、 慶広は慶長四年(1599)十一月家康に謁し、蝦夷島地図及び家譜を奉り、この時から「蠣崎」の姓を「松前」と改めている。 次いで慶長九年(1604)家康から黒印の制書を受け、徳川氏の家臣として秀吉の時よりも、より広い権限を持つことになった。 家康から受けた黒印の制書を、書き下し文で示すと次のようになる。
▼ユポさんの上記「松前家文書」読み下し文がつづき)
かくして松前氏は、徳川氏の臣下となり交代寄合の資格(大名に準ずる格式)で、一藩を形成するに至った。 このように松前藩は、蝦夷地に支配地を持つようになったのであるが、最初の実支配地は、 普通和人地と呼ばれた西は熊石より東は亀田に至る限られた地域が中心であり、 それ以外の蝦夷地と呼ばれた地域には、あまり松前藩の勢力は及んでいなかった。 」
▼1643年のヘナウケの戦いの地図の赤ポイントがセタナイです。セタナイから南40qに熊石があります。亀田は函館です。(2020.4.15)

▼「秀吉の朱印状と比較すると、家康の黒印状は松前氏に対するアイヌ交易の独占権の公認という性格をより明確に規定している点で、 両者間に質的な相違が見られた。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館162頁より)
▼9年前の秀吉の朱印状とこの家康の黒印状をよく読み比べてみてください。

▼マルク・フェローの『植民地化の歴史』(片桐祐・佐野栄一訳・新評論)という634頁に及ぶ、 世界の700年間の植民地化の歴史を概括している著書があります。
翻訳者・片桐裕さん 2022.7.4撮影
2017年4月から3カ月かけて読みました。歴史の息づかいが伝わってくる片桐さんの名訳です。
マルク・フェローはその緒言で
「日本人はロシア人がサハリンに、フランス人がカナダに到着するまえの時代に、 エゾを征服し植民地化していたのである」(13頁)

と書いています。
そして本文の「16世紀には日本人も植民地化へ」 との見出しで
「日本人による領土拡張と植民地化は、西洋世界の伝統的歴史が一般に伝えるよりも古い。 …日本による植民地化は、16世紀に西洋が極東に地歩を固めようとあれこれ試みたと時期を等しくするのである。」(89頁)

▼私は衝撃をうけました。アイヌ民族の歴史を勉強して十分過ぎるほど納得しました。
                                  トップへ戻る
1618年 イエズス会宣教師ジェロニモ・アンジェリス、松前公広に会う。 公広「松前は日本ではない」と語る。
▼宣教師 ジェロニモ・デ・アンジェリスについてのHPの記事です。
「ジェロニモ・デ・アンジェリスは1568年イタリアのシチリア島に生まれました。
元和キリシタン跡地
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キリシタン処刑跡地
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リスボンで司祭となり、カルロ・スピノラと同じ船で日本に向けて出港しましたが、 いろんな事情が生じて、出発から4年後の1602年に到着。伏見や長崎でも働きましたが、 禁教下になってからは主に東北で活動し、北海道にも渡りました。
1621年、江戸に呼び戻されて働いている時に、 密告でシモン遠甫と共に捕縛され、小伝馬町の牢に投獄されました。
1623年12月4日(当時19歳)将軍になったばかりの家光の命により、 芝の札の辻で火刑に処されました。」
キリシタン史 江戸初期の大迫害
元和キリシタン遺跡<芝・札の辻>
1620年 イエズス会宣教師デイオゴ・カリュワーリュ、松前と千軒岳の金山でミサを行う 
▼宣教師 ディオゴ・カルワリオ神父Diogo Carvalho S.J.(1578-1624) についてのHPです。
出典は『北方探検記』H・チースリク編のようです。

和人地

「日本北方史の論理(海保嶺夫著)雄山閣、1974年」(拡大)
渡党の広がり
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平山『地図でみる』91p「和人勢力は一時、ヨイチからムカワのラインまで居住しアイヌの人たちと 共住する地域となった。 1457年に始まる100年戦争の結果、和人勢力を松前半島の片隅に追いやった」
▲この100年戦争の評価はすばらしい。(2022.10.7)
1624年 松前藩、蝦夷島を「和人地」「蝦夷地」に区分 ・「城下交易体制」(蝦夷地唯一の城下町・松前城下での商人とアイヌの交易)から「商場知行(交易)制」へ(~1644)
▲1604年家康黒印状から20年、家光の時代、蝦夷地でも新たな動き。今ではよくわかる。 「BURAKU」の頁 家光の時代へ飛ぶ。 参勤交代で江戸に藩邸がある。幕府の情報が地方の藩でもよくわかる時代。
(2022.10.3)


・蝦夷地沿岸部を藩主直轄と上級家臣への知行地と区分(アイヌ民族の居住地に対応する形で商場を設定し、 原則として一つの商場に一つの知行権(交易権)が設定された。)
・特定地域でのアイヌ民族との独占交易権
・鷹場所設定・[知行地・鳥屋(とや)場](鷹待・たかまち)
・鮭漁の開始・漁業権の設定・知行権(大網による鮭の大量捕獲)
砂金掘り集団
・アイヌ民族の通行圏を蝦夷地に限定、松前地への自由往来禁止
・アイヌ民族の「蝦夷地」封じ込め政策
・不平等交易
・河川の汚染、鮭の大量捕獲でアイヌ民族の生活を脅かす
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館より。
「寛永期(1624〜1643)を画期にして蝦夷地が「和人地」(松前地)と「蝦夷地」 という二つの地域に制度的に区分され、かつそれを前提として「蝦夷地」を対象とした商場知行制が成立すると、 「蝦夷地」のアイヌ民族が交易のために奥羽地方に赴くことはいうまでもなく、松前藩主に対する御目見という 政治的儀礼のために松前に赴くことを除けば、松前藩との交易を主たる目的として城下に行くことは事実上不可能となった。
というのも、商場知行制の成立によってアイヌ民族との主たる交易の場が従来の城下から新たに 「蝦夷地」内に設定された各「商場」へと移行していったからである。

つまり、アイヌ民族は、蝦夷島の制度的分断によって 「蝦夷地」のなかに閉じ込められただけでなく、商場知行制の制度的成立によって、「交易の場」じたいさえもが 「蝦夷地」内の特定の商場のみに限定されてしまったのである。」(175頁)

「「商場」は、まさにアイヌ民族に対する支配と収奪を実現するために、アイヌ社会の内部に上から設定された新たな形の 収奪の場、しかも「蝦夷地」内に網の目のようにはりめぐされた収奪の場であった。」(同179頁)

「「商場」が設置された地域はアイヌ社会の基本的な生産と生活の場である河川流域の漁猟場・漁猟圏で、 交易のあり方は、藩主・上級家臣が各「商場」に毎年交易船を派遣して、「商場」内のアイヌと物々交換をするというものであった。」 (同177頁)

「元和・寛永期(1615〜1643)を画期に盛んになった河川流域での砂金場の開発である。 河川での砂金採取業の発展は、河川への鮭の遡上に障害をもたらしただけでなく、鮭の産卵場を破壊する結果を招いた。」(同179頁)


▼「商場」の成立時期の整理
商場知行制の成立は17世紀初頭
寛永期(1624~1644年)集中的に「蝦夷地」の各海岸部に相次いで商場を設置
貞享期(1684~1688年)松前藩、西蝦夷地ソウヤに藩主の商場設置

▼寛永期(1624〜1643)松前藩がアイヌ社会の生活・生業・交易の場であった漁場を「商場」にすることにより、 植民地的収奪の場に変質させたということ。1623年から1651年まで3代将軍家光の時代。 この時代の実態は私を含めほとんどの日本人に意識されていない。(2018.11.09)

▼今日、改めてユポさんの年表の箇条書を読んだあと、榎森先生の解説を読んでみるとユポさんの意図がよく理解できる。
家光は1623年〜1651年まで28年間将軍の地位に君臨する。和暦は寛永・正保・慶安。 おもな出来事を年表(新版日本史年表歴史学研究会編)で拾う。
1623年キリシタン50人を江戸芝で火刑。
1637年天草・島原の一揆。
1639年鎖国の完成。
1643年蝦夷西部のヘナウケ騒動を起こす。
1650年猟師のほか関東中農民の鉄砲所持を禁ずる。(2020.4.18)
                                     トップへ戻る
1639年 幕府、キリスト教禁制通達、松前藩、領内キリシタン106人処刑
『海峡の十字架』 松前の百六人殉教    若林 滋 著
豊臣秀吉の天正禁令に始まる日本のキリシタン迫害史は、そのまま殉教史でもあった。 徳川幕府に引き継がれたキリシタン政策は、三代将軍家光の時代に苛烈さを増し、取り締まりと処刑による殉教が本州各地で引き起こされていく。 その弾圧の刃に追われて北へと逃れ、信者たちは津軽海峡を越えて松前へと渡った。 砂金採取に湧き金掘り鉱夫に寛大な松前で、穏やかな信仰生活を得たかにみえた信者たちを待ち受けていたのは、 1639(寛永16)年夏、強まる迫害の中で起きた松前藩による信者106人の斬首だった。

クリスチャンでも研究者でもない筆者がキリシタン殉教に取り組んだのは、二〇一二年秋急逝した友人の勧めによるものでした。 彼が倒れる直前、ぜひ蝦夷キリシタンの殉教を書いて欲しい、と言われたのです。
殉教ゆかりの地を訪ね資料や文献を読み、命を賭した信仰と伝道に深い感銘を受けると同時に、 徳川幕府と諸大名の迫害の非道さ残酷さ、親と共に殉教した幼子たちの斬首の記述に震えました。

「キリスト信者は自分の幸せのために洗礼を受けるのではない。イエス・キリストと共に愛に生きるため、 神の栄光のために受けるものであり、殉教もお恵みであり、神のなさる業なのである」
続橋師は著書の中でこう述べています。

▼「殉教もお恵みであり、神のなさる業なのである」。 この呪縛から信徒が解かれるのは20世紀ローマ法王ヨハネ・パウロ2世によってである。 1981年。広島のカトリック教会の神父深堀升治さんは 「自身の被爆体験を話すことは神の計らいに愚痴ることになる」と考え、 あの日の思いはずっと封印してきたが、 その考えを変えたのは、ヨハネ・パウロ2世の広島訪問時の「戦争は人間の仕業です」のことばだった。(2019.11.17朝日新聞朝刊) (2020.7.2)

1643年 ヘナウケの戦い(西蝦夷地、シマコマキ、セタナイのアイヌ民族)
▼(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館180〜181頁)
せたな・島牧・駒ヶ岳 シマコマキはセタナイから約35q北の村、駒ヶ岳は80q南(拡大)

ヘナウケの戦い 平山『地図でみる』108p
「この戦いの後、シマコマキより北の、シャコタン半島周辺やイシカリ湾沿岸でも、商場知行制が行われるように なった。」
▲この指摘、すばらしい。(2022.9.6)
(拡大)
「1643年のヘナウケの戦いは、松前藩成立(1604)後、最初のアイヌ民族の戦いであった。
松前藩は寛永期(1615〜1643)に集中的に「蝦夷地」の各海岸部に相次いで一方的に商場を設置し、 その結果、セタナイは谷梯(やにはし)氏、シマコマキは並川氏の商場となった。
砂金堀り2
セタナイ・シマコキ(拡大)
『瀬棚町史』(拡大)
こうした商場の設置が、それまでのアイヌ社会内部における一大交易地というセタナイの位置に大きな打撃を与えたであろうことは推察に難くない。
1640年6月13日、駒ケ岳の大噴火。津波により昆布採り船100余隻が一瞬にして波に呑まれ、和人・アイヌ、計700余名の死者を見た。
1631年以降、シマコマキでも砂金の採掘が行われるようになった。砂金の採掘は水路を変え、 砂床を掘るのでアイヌ民族の鮭漁に大打撃を与えたことは推測に難くない。
1643年に、セタナイ地域のアイヌ民族がいち早く一斉に反松前藩の行動に立ち上がった背景には こうした事情が事情が潜んでいたものと見られるのである。」
▼wp:
ヘナウケの戦いは、1643年に渡島半島西部で起こったアイヌの首長ヘナウケによる松前藩との戦い。
寛永20年(1643年)、シマコマキ(現島牧郡島牧村)の首長ヘナウケが松前藩に対して蜂起を開始。
セタナイ今金 地理院地図(拡大)
今金地区は河口から15キロ程上流に突如現れる町。 たぶん往時の金堀り人たちが拓いた町だろう。(2022.2.9)
この蜂起の背景として、まず金掘り(砂金掘り)の存在があげられる。元和2年(1616年)から蝦夷が島(現北海道) においてゴールドラッシュが発生し、
佐渡金山(拡大) 佐渡金山は1601年開山。1603年江戸幕府の天領。この流れに蝦夷が島のゴールドラッシュもあると思う。(2022.2.11)
多数の金掘りが本州から渡って来た。寛永8年(1631年)にはシマコマキでも砂金の採取が始まっている。 また蜂起の3年前にあたる寛永17年6月13日(1640年7月31日)には内浦岳(現駒ヶ岳)が噴火しており、松前では14日から15日にかけて 空が火山灰に覆われ闇夜のような状態になったという。
この噴火によって渡島半島周辺は大きな被害を受け、翌年の夏には亀田の金掘りが津軽に逃亡するという事件も発生している。
この天災が蜂起の一因になったと見られている。
▼二つの見解を読み比べて榎森進氏の分析の深さを実感する。
                                       トップへ戻る
『新羅之記録』 (拡大)
熊本藩の密偵 朝日朝刊2023.5.20
(拡大)
1646年『新羅之記録』(松前藩の正史・松前景広編)成る。
越前敦賀、三井寺、新羅大明神、奉納  
▲熊本藩を調べる。「天正16年(1588) 加藤清正、肥後北半国19万5千石の領主として隈本城(古城)に入る 慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い。この頃大天守完成 慶長12年(1607) 新城が完成し、隈本を熊本に改称 慶長16年(1611) 清正、49歳で死去。息子忠広が二代藩主となる 寛永9年(1632) 加藤家が改易となり、細川忠利が肥後へ入国」。細川家で今もつながる。(2023.5.21)
1669年 「シャクシャインの戦い」(寛文9年)
「砂金採取や木材伐採で自然を荒らし、暴力的に詐欺的交易を強行、アイヌ民族の漁業を妨げる大網漁業を 蝦夷地に拡げる和人勢力に対して本格的な民族の戦いを組織した。」

平田剛士|2018年11月21日10:30AM
アイヌ英雄像差し替えが暗示する政府の“だまし撃ち”
シャクシャイン像差し替え (拡大)

2018年10月28日、旧像が取り壊され台座のみが残る真歌公園で、最後まで旧像存続を訴えていた顕彰会会員たちがイチャルパ(慰霊の儀式)を執りおこなった。 参加者の一人はこう語った。「350年前と同じことが今またアイヌに対して繰り返されているのではないか」。


「松前藩は、幕府の支援体制のもとに鉄砲を用意、
和人の鉄砲 (拡大)
(拡大) 1543年鉄砲伝来。
1544年国産銃完成。
2023.5.10朝日夕刊 ポルトガル人漂着ではなかった、と。中国船とも(拡大)
シャクシャインの軍勢を破り、 最後は偽りの和睦でシャクシャインを謀殺、松前藩とアイヌ民族の力関係は、決定的な、和人優勢の関係となった。 この力関係を背景に18世紀にはいると経済的関係も変わり、特定の商人に蝦夷地各場所の対アイヌ民族交易、 漁業の権益を与え、かわりに運上金を上納させる「場所請負制」が一般化した。」
砂金堀り シブチャリ(拡大)
平山『地図でみる』107p
英雄時代の定義(拡大) 海保峯夫『日本北方史の論理』78頁
▼砂金採取に関してピクシブ百科事典 の「寛文蝦夷蜂起」を読んでみて驚いたのは
「当時三万とも五万とも居たといわれる本州からの出稼ぎ者。シブチャリには三つの金山があったらしい」 とあります。この記事の真偽のほどはよくわかりませんが、砂金採取の熱狂を伝えていると思います。
日高の歴史 砂金 https://www.hidaka.pref.hokkaido.lg.jp/hk/kks/summaryhidakahistory2.html
・蝦夷地の鉱業は、江戸時代初期からの「砂金が最初だろうが」、1604年(慶長9年)に幕府は松前藩に金山管理を一任。
・しかし寛永年間(1623年〜)をピークに「砂金源は乱採取で急速に枯渇」。
・日高も寛永年間に全盛を極めたが、1668年(寛文8年)のシャクシャインの乱で、和人(採金抗夫)が介在したため、 「これを契機に坑夫が東蝦夷地に入ることを禁じ」、日高鉱場は急速に衰える。

▲「寛文蝦夷蜂起」から
新冠(にいかっぷ)戦  シャクシャイン対佐藤権左衛門季信。
「和睦を祝う酒宴の奇襲戦。酒宴会場となった小屋は焼き討ち、脱出したシブチャリ軍の主要人物も殺害される。 シャクシャイン、カンリリカ、チクナシはこの戦闘で死亡。」
▲佐藤権左衛門季信は74歳だったという。卑怯な策士。(2022.9.6)
▼ 同HP「ピクシブ百科事典」の シブチャリ周辺
「シブチャリ(渋舎利、染退、シベチャリとも)とは現北海道新ひだか町にある河川名。 メナシクル、ハエクル、金堀の各集団がいる」
とあります。メナシクルとはアイヌ語で東の人、という意味。 蜂起が西から東に移ってきた、と感じました。(2020.4.16)
▲平山『地図でみる』107p
「当時、松前の和人の人口は1万人ほどであったが、 1620年に松前に来たカルワーリュは、その人数が昨年 は5万人を越え、本年も3万人以上いるだろうと書いている。 商場知行制はゴールド・ラッシュとともに一気に広がっていったものと思われる。」
商場知行制の広がりをゴールド・ラッシュと結びつける。慧眼。(2022.9.5)
▼wp:北海道アイヌ シャクシャインの戦い前後のアイヌ地域集団
出典が海保峯夫『日本北方史の論理』であることを確認。海保さんの「英雄時代」を勉強すること。(2021.9.25)

墓標の型式・昭和6年調査(拡大) 河野広道『北方文化論』
著作集T 97頁
78p「英雄時代ー初歩的な国家が成立した時代。寛文9年の段階でシャクシャインあるいは他の惣大将が蝦夷地全域の最初の統一的君主となる(真の民族的統一が達成される)可能性を示唆したもの と考えるべきであろう。」
118p「寛文期の五つの地域集団は、17世紀全般にわたるアイヌ民族の国家形成への 胎動期というべき英雄時代の所産であると考える。」

▼海保さんのこの総括はとても重要。昭和6年の河野さんの墓標の型式という文化研究と自身の寛文期の政治勢力分布のという 政治研究を結びつけたこと。さらに寛文期の五つの地域集団を国家形成への胎動期との指摘したこと。二つの大きな功績を感じる。(2021.9.28)

寛文期の5つの集団
(拡大)
海保峯夫『日本北方史の論理』118頁
十勝のアイヌ文化と川
シベチャリチャシ
「十勝のアイヌ文化」(拡大)
シャクシャインとオニビシの勢力図 「十勝のアイヌ文化」(拡大)
▼アイヌの人たちは国家形成の一歩手前行ったが、ついぞ国家を持つに至らなかった。
一方琉球では、「14世紀初頭から15世紀初頭までが三山(さんざん)時代とよばれる時代で、 海外貿易による経済力の拡大とともに、琉球王国 の形成に着実につき進んでいきました。 15世紀にはいると、南部からでてきた按司・尚巴志(しょうはし)が頭角をあらわし、 1422年、北山の今帰仁グスクを、1429年には南山の島尻大里グスクを滅ぼし、琉球王国が誕生します。」
琉球で言う三山時代は、アイヌの場合はシャクシャインを筆頭に五つの地域の英雄時代に相当します。
「アイヌモシリの会」は五つの集団を統合したような準国家的なものにできないか?夢想しています。(2021.9.25)

ピンク色のメナシクル地域の首長がシャクシャイン
Wikipedia(拡大)
シャクシャイン攻撃経路62p(拡大)









『日本北方史の論理』
「西エンヂウ(余市アイヌ)とは北海道、樺太の日本海岸の、かつての山丹交易のルートに沿って分布している系統。」 (115p)「内浦アイヌがシュムクルを通り越してメナシクルと近い関係にあった。」(117p)
上 寛文内浦アイヌ
下 昭和シュムクル
116p(拡大)
上 寛文余市アイヌ
下 昭和西エンヂウ

114p(拡大)
上 寛文石狩アイヌ
下 昭和シュムクル

111p(拡大)
上 寛文メナシクル
下 昭和メナシクル

『日本北方史の論理』
107p(拡大)
上 寛文 サンクル
下 昭和メナシクル
103p(拡大)
▲サッポロはサンクル












▲民族の誇り・英傑シャクシャインと現代アイヌ民族を直結させること。アイヌの英雄をこころの拠り所にしたい。(2021.9.30)
 **搾取植民地**(搾取植民時代)
・不平等交易、オムシャ交易(商人の進出)、鷹狩り、砂金掘り、イオルの破壊 商場交易=商人の進出=商人への経営(交易)権の委譲=請負 近江(近畿)商人の進出、両浜組=近江商人団、荷所船(にどこふね) 商人による松前藩への融資、交易体制
両浜組 https://kousera.exblog.jp/5532564/
1602年(慶長7年)津軽の鯵ケ沢に出店を開設し活躍していた柳川(現在の彦根市)出身の田付新助は、 共に活躍していた同郷の建部七郎右衛門と一緒に、1610年(慶長15年)北海道の松前に渡り、 福山に出店を開いて、本州との交易に従事しました。
岡田八十次 石橋彦三郎
〒047-   : 小樽市
1610年(慶長15年)田付新助は同郷の建部七郎右衛門と一緒に北海道の松前に渡り、福山に出店を開く その後、薩摩(現在の彦根市)出身の宮川権右衛門や八幡商人であった岡田弥惣右衛門、西川伝右衛門たちがつづく
福山 (拡大)

八幡、柳川・薩摩の商人たちは、「両浜商人」と呼ばれ、松前藩との間に場所請負人のとりきめを交わし、幕末まで大いに活躍した
一方、枝村(現在の豊郷町)出身の藤野喜兵衛は
1806年(文化3年)松前藩から数か所の場所請負を許可され
1817年(文化14年)千島、 国後島を手始めに根室、花咲、目梨、色丹島、択捉島を請負って活躍し、北海道や北方領土の産業の発展に尽くした

〒049-    : 松前郡松前町
福島屋   田付新助 柳川出身
材木屋   建部七郎右衛門元重 柳川出身
恵比須屋  岡田弥三右衛門 八幡出身
畑屋     山本七左衛門 柳川(薩摩)出身
住吉屋   西川伝右衛門 八幡出身
近江屋   西川市左衛門 八幡出身
柏屋     藤野嘉兵衛 近江愛知郡下千枝村出
井筒屋    大橋久右衛門 柳川出身
扇屋     柴谷長兵衛 柳川出身

▲2022.6.30小樽平山ツアー。恵比寿神社があった。記憶でメモ。(2022.7.5)

▲このコーナーで北海道と琉球、さらに中国とのつながり、仲介としての富山の位置、これをを明らかにしたかった。 こんぶと薬。北前船。西廻り航路の開拓。いずれも家光の時代から元禄にかけて準備された。この本州の活発な動き。 これの蝦夷地への波及を考えること。(2022.10.3)

琉球「こんぶロード」
こんぶロード (拡大)
京都鰹節 (拡大)
薩摩藩と松前藩、つまり現在でいえば鹿児島と北海道を結ぶ海上交易ルートが存在した。そのメインの商品が昆布だった。
そこに深く関わっていたのが、越中富山の「クスリ売り」と近江出身の「両浜商人」(柳川&薩摩)だったのだ。
北前船のメインの商品は、昆布だった。
そして帰り荷には、珍しい中国の漢方薬の原材料が越中富山に運ばれていた。

北海道・松前→越中・富山→近江→京都・大阪
北海道・松前→越中・富山→(出雲)→下関→大阪
北海道・松前→越中・富山→(出雲)→下関→薩摩→琉球・沖縄→中国(清)
京都鰹節
http://www.kyoto-katsuo.co.jp/konbu.html
北前船 (拡大)
万葉の昔では、貴重な薬として、また平安時代では特権階級の食物とされておりました。
昆布が広く庶民の食べ物として普及していくのは、18世紀西回り航路が開かれ、蝦夷地、東北から大阪まで、 大量に、安く、早く、安全に物資を輸送することが可能となり、北海道と上方との間で物資の売買が盛んに行われるようになってからです。
北前船は当初、北海道と畿内を結ぶルートは、海路で小浜・敦賀に至り、そこから琵琶湖を渡ると言うものでした。
それゆえ中継地点の敦賀では昆布の加工業が早くから盛んになりました。
その後、北海道から下関を経由して、海路のみで大阪に至る西廻り航路が開通し、より多くの昆布が直接、大阪に荷揚げされるようになりました。

富山藩
富山藩主 前田正甫 (拡大)
1639年に加賀藩から分藩した富山藩は多くの家臣や参勤交代、江戸幕府から命じられた委託事業(手伝普請など)、 生産性の低い領地といった要因で財政難に苦しめられていた。そこで富山藩は本家の加賀藩に依存しない経済基盤 をつくるために産業を奨励した。その一つに製薬(売薬商法)があった。
17世紀終期、富山藩第2代藩主・前田正甫(まさとし)(1649年〜1706年)が薬に興味を抱いて合薬の研究をし、 富山では最も有名な合薬「富山反魂丹(はんごんたん)」が開発された。
▲元禄時代にはじまった。(2022.10.3)

・石狩アイヌ首長「ハウカセ」
「松前の殿は松前の殿、われわれは石狩の大将に候えば、松前殿に構え申すべきも無之候。又は松前殿も此の方へ構え申義もなるまじく候。 商船此方へ御越しなられまじく候とも、別にかまいござなく候。 総じて昔より蝦夷は米酒下されず候。魚・鹿ばかり下され、鹿の皮を身に着け、たすかり申すものにござ候。 商船御越成られ候義も御無用の由申し、通路の者返し申し候由。其上商船御越しなられ候わば、一人も通し申すまじく候」 「蝦夷風土記」(新山質)
▼北海道大学北方資料データーベースで 「蝦夷風土記」 が読めます。
蝦夷風土記より

寛文9年
シャクシャインの記事
(拡大)
日高アイヌオムシャの図
(市立函館図書館所蔵)『アイヌ民族の歴史』
p207


ウイマムとオムシャ
(拡大)
wp:オムシャとは、もともと松前藩とアイヌの間の交易上の交歓の意味の儀礼であったが、 後に交易や漁労の終了時のアイヌに対する慰労行事となり、更にアイヌ統治の手段として転化していくことになる。 儀式の執行者は当初は場所請負制の下で請負を行った商人であったが後には松前藩もしくは江戸幕府の役人が行った。
▼右の図。支配の儀式であることがはっきりしている。(2020.1.30)


津軽一統志表紙
1コマ(拡大)
津軽一統志の蝦夷地図

169コマ。170コマから寛文9年の記事(拡大)
ハウカセの啖呵

271コマ。(拡大)
▼上記石狩アイヌ首長「ハウカセ」の歌舞伎の「啖呵」のようなセリフの原典と背景。
これは寛文10年6月24日の津軽藩士牧只右衛門・秋元六左衛門の石狩での聞き取り調査の記録です。 原典は『津軽一統志』です。
原文は「北方史史料集成【第四巻】210頁 翻刻・解説 海保嶺夫1998年6月20日発行・北海道出版企画センター」 に依ると次のようになっていました。
「松前殿は、松前の殿、我等は石狩の大将に候得は、松前殿に講可申様も無之候。
又は、松前殿も此方え構申義も成間敷候。
商船此方え御越可被成も被成間敷にも別て構無御座候。
惣て昔より蝦夷は米酒不被下候。魚鹿計被下、鹿の皮を身に着、 たすかり申物に御座候。
商船御越被成候義も御無用の由申、 通路の者返し申候由。其上商船御越被成候はゝ、一人も通し申間鋪候由と、物語仕候事。」(『津軽一統志』)巻第十之下)

▲イシカリ首長ハウカセ。
「本来のアイヌ文化とは、和人の従属物ではないぞ」という気概がある。
「シャクシャイン後、和人が1年の一定時期に交易に来たら、あとは和人地に戻るようになった。和人の進出に制限を加え、 約200年間和人がアイヌモシリで居住することを止めた。」(平山『アイヌ民族の現在』55p)

つまり明治2年、1869年まで止めた、ということ? (2022.7.25)



日本差別史関係資料集成第8巻
第8巻 日本差別史関係資料集成 (近世資料篇3: アイヌ研究1) The Collected Historical Materials of Japanese Discriminations in Yedo Era (III): The Study of Ainu Race I 〈2012/平成24年5月刊行〉

本巻においては、中世以降、松前藩と大商人による過酷な労働搾取により受難 の歴史を余儀なくされたアイヌ民族の経済的・政治的な支配の歴史を実証するために編纂された。
アイヌ民族の生活・民俗を詳細にかつ美麗な筆で描いた「蝦夷島奇観(えぞがしまきかん)」及び 「蝦夷國奇観(えぞのくにきかん)」、シャクシャインの蜂起とその政治的・経済的な背景を詳述した「津軽一統史」を、 原文に解読文を加えて掲載した。この巻を所蔵している機関は少なく、 編者は、善本と推定される「弘前市立弘前図書館岩見文庫所蔵本」を使用した。

シャクシャインの叛乱
アイヌ民族対大和民族の抗争は、コシャマインの戦い後も一世紀にわたって続き、 最終的には、武田信広を中心にした大和民族が支配権を確立することとなった。しかし、松前藩の成立後も、アイヌ民族の大規模な蜂起は起こっている。
十五世紀頃から始まった交易や幾多の抗争などによって、蝦夷地は文化的・政治的に統合され、十七世紀に至っては、 河川、海浜、山林を中心とした複数の狩猟場、漁労場などの領域を含む、広い地域を政治的に統合する、惣大将と呼ばれる有力首長が現れていた。
シャクシャイン、イシカリの首長ハウカセ、ヨイチの八郎右衛門、シリフカのカンニシコルなどがこれに相当する。 シャクシャインはその中でも武勇に優れたアイヌ民族の指導者であった。  
太平の夢を結ぼうとするこの時代に、蝦夷地を支配していた松前藩と江戸幕府にとっては、一六六九(寛文九)年六月のアイヌ民族の叛乱は、 青天の霹靂のごとき、体制を揺るがすような大事件であったに相違ない。

カンニシコルの訴状(吉田かなっぺHP)
岩内町 (拡大)
「請負人は松前(福山)に住んでいて、雇い人(アイヌ語通訳・帳場・番人など)を漁期になると場所に派遣して、 アイヌを働かせて漁獲物を松前に送ります。 雇い人は漁期が終わると松前に帰りました。」
▲請負人の実態が手に取るように分かる。(2022.9.13)
「シリフカ(堀株)(現岩内町)のアイヌ酋長カンニシコルの訴状 ・・・松前志摩守様の時には、米二斗入り大俵でもって干鮭五束(100本)との御交換でした。近年 蔵人(くらんど)様の扱いになってからは、米七、八升入にて干鮭五束ずつの御交換・・・松前よりお越しになり・・・鮭を自由気ままにとり・・鮭がなくなり、私たちは餓死します・・・ -「津軽一統史」より- 寛文9年(1669年)の頃」


「松前藩は蝦夷地を約 85ヵ所の「場所」と呼ばれる区画に分け,その区画での交易権を知行 (ちぎょう) として上級家臣に与えた。」
徳川幕府の北方政策―蝦夷地の内国化とアイヌへの同化政策 堀込 純一 http://www.bekkoame.ne.jp/i/ga3129/ainudoukasaku.html
▲この堀米論文はすばらしい。熟読してHPの表面に出すこと。(2024.12.8)最後の結論だけ今日引用します。
「おわりに
 近代の初期は、「先占の法理」をもって西洋の大国が他国を併合したり、国家をもたない先住民の地を支配・併合する動きが一段と強まる。地球支配をめぐる植民地主義の猛烈な競争である。  遠く古代から版図拡大を推し進めてきた中国は、清朝時代に最大の版図をもったが、西洋列強の植民地化の攻撃を受け、この頃にはむしろ逆に守勢にまわり、半植民地にころげおちる状況につきすすんでいた。  同じように西洋列強から植民地化ないしは従属化の攻撃をうけた日本は、当時、政治権力を握っていた徳川幕府が、蝦夷地とアイヌの支配をめぐってロシアとの攻防を展開した。その際に、幕府の蝦夷地の警備・経営のための思想は、古くから影響をうけた華夷思想とともに、西洋の植民地思想であり、「先占の法理」であった。  明治維新で確立した天皇制国家は、維新の過程でも侵略の触手をアジアとりわけ朝鮮に伸ばしていたが、日本近代の侵略思想はすでに幕末に形成されていたのである。  それは、幕末、蝦夷地で実践化された徳川幕府の華夷思想と西洋の植民地主義をミックスした侵略思想に基づくものである。1945年までつづく日本帝国主義の植民地主義は、世界に稀にみる極悪非道なものであったが、それは東洋と西洋の誤った思想の混合したものであったからである。そのことは、徳川幕府や松前藩のアイヌに対する酷(むご)い仕打ちの中に既に示されている。  しかし、支配階級は、戦後もアイヌ民族への同化政策など一顧だにせず、まったく反省もしないで、単一民族論をふりかざしていた。それが、日本内外の批判によって、ようやくアイヌ民族を日本民族と異なる民族として、不十分ながら認めた法律「アイヌ文化振興法」(正式名は「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」)が成立したのは、1997年5月14日である(施行は同年7月1日)。その第一条は、「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する国民に対する知識の普及及び啓発を図るための施策を推進することにより、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重さる社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与することを目的」とする、としている。だが、そこでは、和人のアイヌ民族に対する歴史的な残虐非道な仕打ちや、現代における差別については全く触れていない。  アイヌ民族に対する反省を単に歴史問題に止めるのではなく、先住民として「特別自治州」を獲得する権利を承認し、 アイヌ民族の民族自決権を名のあるものにするのが、今日の日本人民の責務であろう。             (了)P.177」

『アイヌ民族の歴史』(山川出版2015)によると、「元文年代(一七三六〜四二)には、このような場所請負の形になっている例が拡大していて 、藩主直領の場所など数カ所を除いて、その他はすべて請負場所になっていた(「蝦夷商賈聞書」)。一八世紀後半には、 藩主直領も請負場所になっている。」(P.94)のであった。

場所の位置

場所(点から面へ) ▲場所が点でなく面になっている様子がわかる。(2022.9.13) (拡大)

コタン・イオル
(拡大)
場所請負制の盛んな「天明年間(*1781〜89年)には、東蝦夷地場所三八、西蝦夷地〔場所〕四〇、計七八場所あった。」 (『北海道の歴史』山川出版社 1969年 P.68)と言われる。図表5は、同書(P.68)による。
「場所請負人は、当初商場で交易を行っていたが、次第に運上金を回収し更なる収益を挙げるべく、 商場に集うアイヌ集団の領域を面として捉え、大網を導入しアイヌを雇用しての漁業経営を行うようになる。 商場交易から場所経営への転換」(谷本晃久著「近世の蝦夷」 P.86)である。

大西秀之論文2006.1.7 https://www.chikyu.ac.jp/sociosys/PDF/onishi-04.pdf
イオル論
「領域」、「生活の場」を意味する
←コタン(集落)と対概念
←「ナワバリ」的な占有権は含まず?

商場知行制から場所請負制への移行
東蝦夷地:寛政11年(1799年)までに移行
西蝦夷地:文化4年(1807年)までに移行
→場所設置による行政区分
→自立的な生計活動から和人との交易を前提とした活動に移行
→自分稼ぎと請負人による労働力提供

 
この時代の経済情勢を俯瞰してみよう。当時、アイヌ民族は松前城下や津軽や南部方面まで交易舟を出し、 大和民族の生産した鉄製品、漆器、米、木綿などと、彼らの産物である獣皮、鮭、鷹羽、昆布などと交換していた。
しかし、十七世紀以降、幕藩体制が成立すると、幕府によりアイヌに対する交易権は、松前藩が独占して、他の藩には禁じられることになった。
アイヌ民族にとっては、対和人交易の相手が松前藩のみとなったことを意味し、自由な交易が阻害されることとなった。 この事は、松前家の事跡を記した「新羅之記録」により、豊臣秀吉から、蠣崎家に交易の独占を保証する朱印が与えられていることが見て取れる。 江戸時代にあっては、徳川家の歴史を記した「徳川実紀」によれば、徳川家康から黒印状を与えられ、交易の独占権をより強固なものとすることが 可能となった。
年貢としての米を徴収出来ない松前藩にとって、アイヌ民族との一方的な交易は、超過利潤とも言える、莫大な不当利益を得るための、 強権的な搾取システムを形成することになったといっても、過言ではない。五公五民どころではない、 このような搾取のシステムの基本構造となったものが「場所請負制度」と「商場知行制度」である。
幕府権力を背景にした松前藩は、十七世紀後半には、アイヌ人との交易は、松前城下などでの交易から、 「商場知行制度」に基づく交易体制へと移行した。

これは、松前藩が蝦夷地各地に「知行主」(松前藩主、藩主一族、上級藩士など)と彼らの「知行地」である「商場」を設定して、 「知行主」は直接「商場」に出向き、そこに居住するアイヌ民族との交易する権利を与えられた。
その「商場」に居住するアイヌ民族にとっては、和人との交易が特定の「知行主」に限定される不自由な交易体制であった。 この「商場知行制度」により、交易の権利は次第にアイヌ民族に不利なものとなっていった。また、和人からアイヌ民族に交易を一方的に強要する 「押買」の横行や、大名の鷹狩用の鷹を捕獲する鷹侍や砂金掘りの山師が蝦夷地内陸部を勝手に切り開く行為、 松前藩船を用いての大網による鮭の大量捕獲などが、アイヌ民族の生活基盤を脅かし、和人への不満は大きくなっていった。 アイヌ民族が交易に応じない場合、「子供を質に取る」と脅迫していた証言も得られている。

もう一つの搾取の柱が、「場所請負制度」である。徳川幕府からアイヌ民族との交易の独占的権利を一六七二年に保証された松前藩は、 大商人に交易の権利を委託し、彼らから徴収する請負金を藩の収入の源の一つととしていた。その際、アイヌ人との取引は、 法外な利益を大商人にもたらしたのみならず、松前藩にとっても、圧倒的に有利な交易であったと言える。
一例を挙げれば、シャクシャインの戦い前夜の一六六五(寛文五)年には、松前藩は、財政難を理由として、一方的に、 従来の米二斗で干鮭百本の交換比率を、米七升で干鮭百本に改定した。米一斗で乾鮭五十本が、十四本に変更され、 約三倍近くも価格が上昇していることになる。まさに、全国的な飢饉が発生している時期にである。 また、蜂起が起こる二年前の一六六七(寛文七)年、松前藩は米三千俵の拝借を幕府に要請していて、困窮ぶりが窺える。
さらに、前述した、鷹狩り、金採掘、千島列島などでの漁業の際の苦役の強制である。また、戦いの後の和睦のための貢ぎ物のアイヌ人からの 強制的な取得など、法外とも言える搾取の構造はさらに強化されていく。

 シャクシャインの戦いは、一六六九(寛文九)年六月に、シブチャリの首長シャクシャインが指導した、 松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起である。「寛文」年間に発生したことから、「寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)」とも呼ばれる。
事件の経過は以下のように記述される。
シブチャリ以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団メナシクルと、シブチャリからシラオイにかけてのアイヌ民族集団であるシュムクルは、 シブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いを続けていた。
シャクシャインとオニビシの勢力図 「十勝のアイヌ文化」(拡大)
両集団の対立は、文献においては多くの死者が出たとされる一六四八(慶安元)年の春の戦いまで遡ることが出来る。 メナシクルの首長であるカモクタインや、シュムクルの首長であり、ハエに拠点を持つオニビシもまた惣大将である。 シャクシャインはメナシクルの副首長であり、カモクタインが一六五三(承応二)年にシュムクルによって殺害されたために首長となった。
惣大将間の抗争を危惧した松前藩が仲裁に乗り出し、一六五五(明暦五)年、両集団は一旦講和に応じた。 この事件が契機となって、シュムクルと松前藩が接近する。
しかし、一六六五(寛文五)年頃から両者の対立が再燃し、一六六八(寛文八)年五月三十一日(寛文九年四月二十一日)、 オニビシはメナシクルによって殺害される。
シャクシャインにオニビシを殺されたハエのアイヌは、松前藩に武器の提供を希望するも拒否されたうえ、 サルの首長ウタフが帰路に疱瘡にかかり死亡してしまった。このウタフ死亡の知らせは、和人への不信感も相まって、 アイヌ民族には「松前藩による毒殺」と誤って伝えられた。この誤報により、アイヌ民族は松前藩ひいては和人に対する敵対感情 を一層強めることになった。

シャクシャインは蝦夷地各地のアイヌ民族に向けて、松前藩への蜂起を呼びかけ、多くのアイヌ民族がそれに呼応した。
こうして事態は惣大将や地域集団同士の争いから、多数のアイヌ民族集団による松前藩に対する蜂起へと移行した。
 一六六九(寛文九)年六月二十一日(寛文九年六月四日)、シャクシャインらの呼びかけにに応じて、 イシカリ(石狩地方)を除く、東は釧路のシラヌカから西は天塩のマシケ周辺において、一斉蜂起が行われた。
鷹待、砂金掘り人、交易商船に乗り組む船員、水主、通詞などを襲撃した。突然の蜂起において、 東蝦夷地では二百十三人、西蝦夷地では百四十三人の和人が殺された。
一斉蜂起の報告を受けた松前藩は、家老の蠣崎広林が部隊を率いて胆振のクンヌイに出陣して、シャクシャイン軍に備えるとともに、 幕府へ蜂起を急報し、援軍や武器及び兵糧の支援を求めた。幕府は松前藩の求めに応じ、津軽藩、盛岡藩、秋田藩に対して、 蝦夷地への出兵準備を命じ、と同時に、松前藩主松前矩広の伯父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣した。 津軽藩兵は杉山吉成を侍大将にして、松前城下での警備にあたった。

シャクシャイン軍は松前をめざして進軍し、同年七月末にはクンヌイに到達して、松前軍と戦闘を展開した。戦闘は八月上旬頃まで続いたが、 シャクシャイン軍の武器が弓矢主体であったのに対し、松前軍は鉄砲を使用していたこと及び内浦湾一帯に居住するアイヌ民族集団と分断され、 協力が得られなかったことなどが原因で、シャクシャイン軍に不利な情勢となった。
このために、シャクシャインは後退し、松前藩との長期抗戦に備えた。同年九月五日(八月十日)には、松前泰広が松前に到着、 同月十六日(八月二十一日)、クンヌイの部隊と合流し、同月二十八日(九月四日)、軍勢を指揮して東蝦夷地へと進撃した。 さらに松前泰広は、幕府権力を背景にした恫喝により、アイヌ民族間の分断とシャクシャインの孤立化を進めた。

シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えを変えなかったために、 戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた松前藩は謀略をめぐらし、 シャクシャインに和睦を申し出た。
シャクシャインはこの和睦に応じ、十一月十六日(十月二十三日)、 ピポクの松前藩陣営に出向き、和睦の酒宴の最中に謀殺された。
戦いに勝って謀略にやぶれる 山川力(拡大)
この他、アツマやサルに和睦のために訪れた首長なども同様に、謀殺あるいは捕縛された

翌十七日(二十四日)、シャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落した。
指導者層を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。
翌一六七○(寛文十)年、松前軍はヨイチに出陣してアイヌ民族から賠償品を取得し、 各地のアイヌ民族からも賠償品を受け取り、松前藩への恭順の確認を行った。戦後処理のための出兵は一六七二(寛文十二)年まで続いた。

このシャクシャインの戦い以降、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至った。
その後、松前藩はアイヌ民族に対し七ヵ条の起請文によって服従を誓わせた。 これにより松前藩のアイヌに対する経済的かつ政治的支配は、緩和策をとりながらも、 さらに強化された。
また前掲の「津軽一統志」にみられるように、惣大将というアイヌ有力首長によって統一されていた広大な地域は、 「商場知行制度」や「場所請負制度」が発展及び強化により、場所ごとに分割され、 独自の自立性をもつアイヌ民族の文化や政治的な主権は剥奪され、地域的な政治結合も解体されていった。


▼かなり長い紹介です。しかし、アイヌ民族の内部事情、松前藩・江戸幕府の危機感と対応の狡猾さ、さらに この戦いの後のアイヌ社会の変容も説得力をもって解説されていると思い、長さに対するご批判を覚悟のうえで紹介いたしました。
▼このシャクシャイン以前のアイヌ社会に戻すことが今日的課題。(2020.4.16)

wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%82%A5
金肥(きんぴ/かねごえ)とは、購入肥料(こうにゅうひりょう)とも呼ばれ、 農家がお金を出して購入する肥料を指す[1]。これに対し、 刈敷・草木灰・厩肥など農家による自家生産が可能な肥料を自給肥料と呼ぶ[2]。
日本では江戸時代中期に都市の発達による商品作物流通の増加と貨幣経済の発達が、 金肥の需要・供給の双方の増加をもたらした。この時代の金肥の代表格は干鰯(ほしか)・鰊粕 などの魚粉や菜種油・胡麻油・綿実油などを生産する時に生じる油粕などであり、 特に干鰯は都市に干鰯問屋が形成されるなど広く用いられた。
▲金肥がキーワード。これを作るためにアイヌは強制移住、強制労働させられた。 (2022.10.2)
wikipedia:参勤交代
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参勤交代地図 (拡大)
各地方の主な藩の江戸までのおおよその道程・日数・大名行列の諸表[21] 現在の地方 藩 石高 藩庁 道程 日数 行列規模 経費

伊達家・仙台藩 63万石 仙台城 92里(368km) 8-9日 2,000-3,000人 3,000-5,000両
前田家・加賀藩 103万石 金沢城 119里(480km) 13日 2,000-4,000人 5,333両
池田家・鳥取藩 33万石 鳥取城 180里(720km) 22日 700人 5,500両
伊達家・宇和島藩 10万石 宇和島城 255里(1,020km)30日 300-500人 986両
島津家・薩摩藩 77万石 鹿児島城 440里(1,700km)40-60日 1,880人 17,000両
江戸からの距離によって異なるが、参勤交代の費用は藩収入の5%から20%、江戸藩邸の費用を含めれば50%から75%があてられた。
▲この制度の導入も社会的に、経済、文化への影響が甚大だった。ともかく家光の時代の変革は巨大。(2022.10.2)

▲1669年の本州は?「BURAKU」の頁へ(2022.10.2)
                                      トップへ戻る
1670年  松前藩、「アイヌ仕置」西蝦夷地ヨイチ(弘前藩領のアイヌを通辞として同行)
「起請文」
1 殿様にどのように仰せられようとも、孫子一同ウタレ男女に限らずそむきません。(子々孫々に至るまでウタリ男女、松前藩への無条件の服従)
2 仲間で逆心する者あれば充分意見致し聞かなければ早急にお知らせ致します。(謀反人の密告義務)
3 殿様の御用にてシャモが浦々に来た場合には手抜かりなくお世話いたします。シャモが自分の用で来ても充分ごちそう致します。 (蝦夷地におけるシャモ通行の保証。遊びでも・ご馳走)
4 鷹侍や金堀にもじゃませず手抜かりなくお世話いたします。(鷹師・金堀夫への乱暴の禁止)
5 商船にはわがままを申さず、他国よりの物は買わず、私たちの産物は他国に売らず、他国の産物など持参するときは仰せの通り致します。 (交易船への乱暴の禁止と他藩との交易の禁止。余所の国)
6 これからは米一俵に毛皮五枚、干し鮭五束とし、交換物は米に応じて取引します。産物の多いときは米に比べて値を下げても良いです。 (交易の価格の規定。交渉の禁止・向後値上げなし)
7 殿様の御用の状使い、鷹送り、伝馬、宿送りには昼夜を問わず手抜かりなくお世話致します。鷹の餌にする飼い犬は無料で早々に差し上げます。 (状使・鷹送り・伝馬・宿送りの保証)
 右の旨孫子一同男女に限らず叛きません。もしそむくものあらば、神様の罰を受け子孫が絶え果てますまで起請文の通り約束を致します。
▼「この起請文は、松前藩への無条件の全面的な服従を強要したものであった。」 (榎森進『アイヌ民族の歴史』204頁)(『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書』『蝦夷蜂起』)
▼貝沢正さん『アイヌわが人生』190p「この起請文を読むのさえ私達アイヌの血は怒りに燃えます。 アイヌは骨抜きにされ、シャモに対して従順にさせられた。」今日、この一文に出会いました。全く同感です。 だから貝澤さんの無念を晴らしたいのです。(2021.3.27)
1671年 「アイヌ仕置」東蝦夷地シラオイ
1672年 「アイヌ仕置」噴火湾沿岸クンヌイ
江戸の商人河村瑞賢 (拡大)
寛文11年(1671)冬、幕府より陸奥国伊達地方(福島県)の幕府領地米を江戸に廻漕することを命じられた江戸の商人河村瑞賢は、 数々の工夫をして東回り航路で、その輸送を行っている。
西廻り航路 (拡大)
しかし、翌寛文12年(1672)に、出羽国(山形県)の幕領米の輸送を命じらた時には、 房総半島沖に加え津軽海峡の危険度も考え、距離的には遠いが、運航実績のある北国航路、瀬戸内海航路、江戸上方間航路 を繋いだ西廻り航路を採用した。
東回り航路の出発点となった仙台市南の「荒浜」で、御城米保管用の米蔵が並んでいた所は、今は小学校になっている。 現地を訪れ、何人かの人に尋ねたが、今は何の遺跡もなく、記念碑も立っていない。
一方、最上川河口の「酒田」は、 その後の海運での繁栄を感謝し、日和山公園には瑞賢の銅像を建て、千石船の展示を行うなど、事跡の保存に力を入れている。
▲この物流革命があったからこそ商品経済が飛躍的に発展したと思う。(2022.9.29)
▲飛ぶ BURAKU「家光の時代」へ。(2022.9.30)


三井越後屋 (拡大)

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大江戸歴史散歩を楽しむ会
延宝元年(1673)高利52歳のとき、長兄俊次の病死を機に宿願であった江戸進出を果たした。 翌年、日本橋本町1丁目(現日銀新館)に間口9尺(2、7m)の三井越後屋呉服店を開業した。
武家地と町人地 (拡大)
延宝4年(1678)近くに間口7間(12.7m)の2店目を開き両店とも繁盛したが、同業者から蛇蝎(だかつ:へびとさそり)の如く嫌われ、 その迫害と江戸の大火を機に天和3年(1683)日本橋の目抜き通り、駿河町の現在地に移転した。 江戸本店(三越本店)の間口35間(63.6m)、江戸向店(三井本館)21.5間(39.1m)の大店である。
江戸市中には、三河・遠江、駿河など家康の旧領から移住してきた直参の旗本・御家人は武家地に、 商工業者は日本橋など町人地に移り住んだ。
▲延宝元年(1673)から天和3年(1683)は僅か10年。驚くべき急成長。IT革命を見るようだ。(2022.9.29)
▼シャクシャインの蜂起後、松前藩はアイヌ民族に対して、「全面服従」を強要(仕置)した。
1685年 「アイヌ御目見」西蝦夷地のアイヌ(~1686)
西蝦夷地 東蝦夷地(拡大) 海保峯夫『日本北方史の論理』221p
ウイマム(御目見) (拡大)
ウイマム (拡大)
ウイマム (拡大)
「西蝦夷地では、シャクシャインの戦いに参加した主要な地域の大部分の首長が 藩主に御目見するようになっていることが注目される。 しかも、このアイヌ民族の首長の藩主への儀式は、『福山秘府』にあるように、藩主に 「対面致し候節ハ、鉄砲弐百丁・弓数張・大筒等も仕懸け置き見せ申し候」とあるように、武器をちらつかせながら 藩主への忠誠を誓わせる場となっていたのである。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』206〜207頁)
▼「鉄砲」で威嚇しながらの、なんと趣味の悪い儀式。
1684年  西蝦夷地に商場設置(~1688)
▼この商場の設置は、榎森進『アイヌ民族の歴史』の年表17頁によると「松前藩、西蝦夷地ソウヤに藩主の商場設置」と、 藩主によるソウヤでの設置、となっています。商場設置は、大部分は寛永期(1624~1644年)ですが。
▼なぜソウヤなのか。
「ソウヤ商場はサハリンのアイヌ民族との交易の場として重要な商場であった。
サハリンアイヌ
『地図でみる』93p

サンタン交易 『地図でみる』95p(拡大)

1790(寛政2)年にはサハリン南部に初めて松前藩主の商場を設置した。」
(榎森進『アイヌ民族の歴史』314頁)
「サハリンのアイヌ民族は、清朝に朝貢した際に、清朝から「賞賜」として与えられた朝服、緞袍、青布袍、 長棉襖、袴子をソウヤに設置された松前藩主の「商場」を介して和人との交易に活用していたものと見られる。 アイヌ民族にとって清朝に朝貢することは、経済的に極めて多くの利益をもたらすものであったと見て間違い無いであろう。」(同書325頁)
▼ wp: 江戸時代の宗谷郡域は西蝦夷地に属し、慶長8年(1603)、 松前藩によって宗谷に利尻・礼文・樺太を司さどる役宅が置かれた後、 貞享2年(1684)以降ソウヤ場所が開かれていた。
江戸時代後期になると、南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え 文化4年(1807)宗谷郡域は天領とされた。この時は会津藩が警固をおこなった。文化6年以降、 津軽藩がソウヤに出張陣屋を築き警固に当たった。文政4年(1821)には一旦松前藩領に復したものの、 安政2年(1855)再び天領となり今度は秋田藩が出張陣屋を築き警固をおこなった。
1693年 「知行主」がアイヌ民族を「奴僕」化することを禁止
「風俗は格別賤しく、倫理の道も知らず候故、父子兄弟も相嫁し、五穀なければおのずから鳥獣魚物を食とし、山にかけり、 海に入り、偏に禽獣の類にて御座候」 (松宮観山・『蝦夷談筆記(えぞだんひっき)』)
「蝦夷談筆記」のHPです。 上記記録の頁はいずれ見つけます。それにしても偏見に満ちた文章のように思えます。
▼「風俗は格別賤しく、倫理の道も知らず候故、父子兄弟も相嫁し、………偏に禽獣の類にて御座候」は以前読んだことがあります。 たしか、『日本書紀』だったと思います。見つかりました。年表110年を見てください。 720年に成立した『日本書紀』の記述が1000年後のこの時代も知識人、支配階級で共有されていた、ということですね。(2020.4.17)
▼「奴僕」化の禁止令が藩から出るということは「知行主」(実際は商場の請負商人) による搾取が激しかったということ。
18C~ 「商場知行制」から、漁業経営・「場所請負制度」へ
1711年 ロシア人、千島に来 る(シュムシュ=占守島・パラムシュル=幌筵島)
『アイヌ民族の歴史』p299
(草風館2007.3.1)
ギルバート『ロシア歴史地図』 
斜線部分は1478年以降
1710年までのシベリア地方のロシア人移住地

1562年イルクーツク、
1649オホーツク、
1659年ネルチンスク、
1740年カムチャツカ半島のペトロパウロス建設
1850年ニコラエフスク、
1858年ハバロブスク(拡大)


ロシアのシベリア進出


ロシアの千島侵攻 平山『地図でみる』123p

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千島列島のアイヌ民族先住に関する資料
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北千島と南千島
平山「コタンの歴史」
47p
シムシル島(拡大)
▲マルク・フェロー『植民地化の歴史』88頁(新評論2017.3.31)
「もともと歴代ツアーリは東方への拡大に懐疑的だったといわれる。 にもかかわらず、川から川へと要塞が築かれ、徐々に版図が拡がっていった。1649年にはついにカムチャツカ半島までいたった。」
「千島列島のアイヌ民族先住に関する資料」(1983.5.21北海道ウタリ協会発行)より。
1738年シュムシュ島3コタン44人。
1747年シュムシュ島235人。
1799年エトロフ島700人に過ぎず。
1801年エトロフ島190軒1,118人。
1807年シコタン島のアイヌを花咲(根室)に移す。15戸105人。(強制移住のはじめ)
1808年エトロフ島186戸994人。
1809年クナシリ島132戸555人。
1822年クナシリ島106戸347人。
1830年北千島85人、オンネコタン島99人。
1841年エトロフ島155戸608人。
1854年エトロフ島、ウルップ島間を日露の国境とする。
1856年エトロフ島89戸498人。
1868年(M1)クナシリ島18戸69人。
1873年(M6)エトロフ島78戸378人。
1875年(M8)「樺太・千島交換条約」締結(5月7日)・ 樺太はロシア領、千島を日本領とする
1876年(M9)クナシリ島62人、エトロフ島684人。
1884年(M17)北千島のアイヌ17戸97人、シコタン島に強制移住。
1889年(M22)シコタン島移住の北千島アイヌ、新生児14人加えても66人に減る。
▲97+14=111−66=45つまり97人のうち45人が亡くなった。強制移住は生活の激変。 生きていくのが困難。このことをしっかり肝に銘じて置くこと。生きていくことの否定。人権侵害で片付けないこと。 生きていくことを軸に物事を考え、見ること。(2022.6.14)
1891年(M24)千島全島685戸3,822人。うち335戸1,084人がアイヌ。
1900年(M33)シコタン島15戸62人。
1901年(M34)『北千島調査報文』1875年(M8)の伝聞。エトロフ島、約100年前、日本人が初めてこの島に来たりし時アイヌ人約1500人。日本人が 来たりしより人口減少1875年に450人以下となれり。
▲エトロフ島は明治の100年前、1,000人を超えるアイヌ人が住んでいた。 江戸後期、日本人が行くようになって半分以下になった。ざっとこのような認識。千島アイヌの中でもエトロフ島は特別な位置を占めているようだ。(2022.6.16)
1921年(T10)クナシリ島9戸38人、シコタン島16戸41人、エトロフ島65戸347人。
1929年(S4)ズメナンスキー『ロシア人の日本発見』「18世紀中葉エゾ島3万人以上のアイヌがいた。日本人に服従していたのはマツマイクリール人だけで、 ウルップ、エトロフ、クナシリの住民はそうではなかった。アイヌ民族の人口減少の責任はロシア人、日本人にある。」と書いている。
1935年(S10)エトロフ島68戸309人、シコタン島15戸44人。
1945年(S20)『根室市史』(1968年)択捉・国後、色丹・歯舞の16,000人。アイヌについてはひとことも触れていない。
19頁「島名あるいは地名ひとつひとつがその土地に住んでいる、あるいは住んでいた住民の居住証明とでもいうべきものであることは異論のないところであるが、千島も例外ではない。北海道と同じく 全千島の地名の殆んどがアイヌ語に由来している。
▼「日本における北方研究の再検討」(煎本孝)論文「18世紀にはロシアの南下政策に対する幕府の 蝦夷地調査隊の派遣、さらに第1次の蝦夷地の幕府直轄時代が始まる。」
▼18世紀はやはり新しい時代のはじまりのようだ。
1716年 本州の交易商人への請負(場所請負制度の原形) が、はじまる
*封建領主的特権*(~1736)
一定の運上金(貢租)を納付して、各場所の交易を一手に請負う
「17世紀末から18世紀初頭にかけた時期に、 松前藩によるアイヌ民族に対する政治・経済的な支配が急速に強まっていった。 享保・元文期(1716−1740)ころまでには、多くの商場経営が、アイヌ民族との交易を主体にしたものから、
17世紀末幕藩領主の石高 (拡大)榎森進「日本におけるアイヌ民族の国家的位置」2020.9.19講演

商場内での商人の請負による漁業経営を主体にしたものへと変質 (商場知行制→場所請負制)するに至って、 アイヌ民族は「交易相手」という立場から事実上漁場の下層労務者へと変質させられたのみならず、 共同体そのものが漁場経営のための有力な労働力の供給源として位置づけられた。 そして、各商場内のアイヌ民族が特定の場所請負人の集中的な収奪の対象とされるにつれ、 アイヌ社会の横のつながりは次第に分断され、その結果、本来のアイヌ社会が根底から破壊されるという、 かつて見られなかったような新たな危機に直面していくこととなった。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』209頁〜210頁)
▼榎森進さんのこの分析はすばらしい。アイヌ民族の自由人から半奴隷的境遇への転落。エンゲルスの『イギリスの労働者階級の状態』を思い出す。
▼yahoo知恵袋:松前藩では知行(領地)の代わりにアイヌ民族との交易場であった商場(あきないば)を家臣に与えていました。 これが「商場知行制(あきないばちぎょうせい)」です。その後、潤沢な資金力を有する近江などの大商人が 蝦夷地に進出してくると松前家臣は商場の交易権を商人に譲渡し、代償として毎年一定額の運上金を受け取るようになりました。 これが次の段階の「場所請負制」です。商人たちが商場から一銭でも多く利益を搾り取ろうとした結果、 アイヌ民族に対する搾取は過酷極まりないものとなりました。商場知行制の成立は17世紀初頭、 場所請負制に移行していったのは18世紀初頭と言われています。
前期場所請負制への移行 平山『地図でみる』126p
1739年頃の商場。
▲松前を中心に商人の請負による商場が密。(2022.9.8)(拡大)

▼商場知行制から場所請負制への移行を見ていると社会を動かす経済の力の大きさを改めて感じる。 銭しか目に入らない商人達に委ねられた場所請負がアイヌ民族の悲劇を生む。
▼17世紀末から18世紀初頭に松前藩による場所請負制度の導入によってアイヌ社会の破壊・アイヌモシリの植民地化が 完璧に進行した、とはっきり認識すること。(2020.7.2)
▲場所請負制に前期と後期を認識すること。
「(前期)1710年代〜1780年代、松前藩士に代わって商人がアイヌと交易する時代、(後期)1789年の クナシリ・メナシの戦いを挟んで、それ以降あたりからアイヌを漁場労働者として使役するようになっていく。その使役が奴隷扱いになっていくのが、松浦 武四郎がアイヌモシリを往来した時期。」(平山『アイヌ民族の現在』56p)(2022.7.24)

▲植民地化の進行と領有化、領知化は別。榎森先生に確認すること。(2023.12.15)
                                           トップへ戻る
1720年 新井白石『蝦夷志』(東北諸夷の国)
▼wp: 『蝦夷志』とは新井白石が享保5年(1720年)に松前藩の情報や内外の諸書を参考にして作成した、 体系的な蝦夷地誌(漢文)。現在の北海道、樺太、千島の山川、風俗、産物が記され、 この写本の巻末には十余枚の貴重な彩色アイヌ風俗画が付けられている。 画家は不明であるが、アイヌの衣服など絵画が細密に描かれており、当時のアイヌの風俗を知るうえで重要な文献になっている。 絵師が実際にアイヌ人らの生活を直接観察して描かれ、図版の繊細度、色彩等、現存の写本の中では保存状態がよい。    
▼図4 蝦夷錦 新井白石『蝦夷志』 二十四頁(早稲田大学図書館古典籍データベース) より
蝦夷錦

1721年 松前藩、「沖の口制度」(一種の税関)の整備を行う
▼ニッポニカ「沖の口制度」とは:松前藩が、旅人、諸物資、船舶の出入を管理し、 徴税を行うために、松前、箱館、江差の3港に設けていた役所。
1723年 秋、西蝦夷地イシカリ(石狩)鮭不漁、冬より翌年7月までにイシカリ・アイヌ200人餓死、東蝦夷地シコツで      もアイヌ餓死者
松前藩知行地の拡大 海保峯夫『日本北方史の論理』210p(拡大)
1457年→1669年→1754年→1790年→1800年→1861年


1734年 ロシア人、パラムシル(幌筵)・アイヌ民族にロシア正教を伝える(1748年
     シュムシュ、パラムシルで信者208人に)(1756年 シュムシュに礼拝堂、教
     会と学校を兼ねる)
   ▼wpパラムシル:島の名前の由来はアイヌ語の「パラ・モシル(広い・島)」
1738年 ロシア人、千島列島根室の近くまで探検、翌年仙台付近まで行く(~1739)
1750年 ロシア人、北千島(パラムシル島)アイヌに牧畜を伝える

本州1750年
▲本州の1750年を意識すること。本州では何が進行していたのか。(2022.9.24)

1751年 知行主、知行地での場所の境界争い(~1764) 石狩十三場所
松前屏風
江刺屏風
宝暦年間
(1751〜1763)
小玉龍圓齋貞良(拡大) ▲松前、江刺の繁盛ぶりは目を見張る。全くの想定外。この屏風に出会うまでは。(2023.4.13)
津軽のアイヌ 平山『地図でみる』116p(拡大)

ロシアの千島侵攻
平山『地図でみる』123p
エトロフ島に最初に侵攻した「文明」人はロシア人だった。(拡大)

1754年 松前藩、クナシリ島へ交易船を派遣
▼wpクナシリ:アイヌ語の「クンネ・シリ(黒い・島→黒い島)」
1755年 松前藩財政難、多額の借財の引き当てとして場所を商人に委ねる
1756年 弘前藩(通称津軽藩)、津軽半島のアイヌ民族に同化政策を実施。これを拒んだアイヌは山中に逃亡
1766年 ロシア人、第7島シャシコタン(捨子古丹)ヘ(~1767)
▼wpシャシコタン:アイヌ語の「シャシ・コタン(昆布・村)」
1768年 ロシア人、「ウルップ(得撫)島」、「エトロフ(択捉)島」に来る。アイヌ民族に暴虐、毛皮税徴収
▼wpウルップ:アイヌ語「ウルプ(紅鱒)」、「シャシ・コタン(昆布・村)」「ルシ・オ・ア(毛皮が・そこに・豊富にある)」(この伝統から千島での漁業を。(2023.4.14))
1770年 ロシア人、ウルップ島でエトロフのアイヌ長老を殺害、
1771年 エトロフ、ラショワ(羅処和)のアイヌ民族、ロシア人に報復、21人を殺害 ロシア人、ウルップ島より退去
▼wpラショワ:「ルシ・オ・ア(毛皮が・そこに・豊富にある)」
▼アイヌ民族、すごい。
海の魚(拡大)2022.4.5朝日夕刊 建部凌岱(たてべ りょうたい)1719〜1774弘前藩家老の次男江戸生まれ、弘前育ち。 江戸中期の自由人。一方でこういう人材も活躍していた。上田秋成(1734〜1809)と同時代。(2022.4.14)
1773年 飛騨屋久兵衛、商場経営を請け負う(アッケシ、クナシリほか)
飛騨屋の請負場所と請負山 (拡大)
飛騨屋久兵衛
根室、厚岸、クナシリ島で、最初に交易を行った商人は、飛騨国増田郡湯之島村 (現:岐阜県下呂市)飛騨屋の武川久兵衛である。 松前藩は、飛騨屋に借金があったため、借金返済の変わりに、クナシリなどとの交易権を飛騨屋に与えた。
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』によると
「「クナシリ」と「キイタップ(霧多布)」の両商場の経営を請け負っていた飛騨屋久兵衛が 「クナシリ」と「キイタップ」商場内の「メナシ」地域で鮭・鱒の〆粕生産を開始して以来、両地域のアイヌの首長達を初め 首長以下の「ウタレ」(部下)から「メノコ」(女性)に至るまで〆粕生産に動員され、しかも彼等は冬に至るまで酷使されただけでなく 生産した「〆粕割合の手当」が無いばかりか「雇い代」も極めて少なかった。
その結果、河川での鮭漁、海での漁業や海獣狩猟、山野での狩猟や 採集等のアイヌ民族本来の生産活動である「自分働(じぶんはたらき)」が出来なくなり、 そのため当該地域のアイヌ民族の生活が困窮し、冬には餓死する者さえ生じるに至っていた。」(254頁)
「「商場」は、まさにアイヌ民族に対する支配と収奪を実現するために、アイヌ社会の内部に上から設定された新たな形の収奪の場、 しかも「蝦夷地」内に網の目のようにはりめぐされた収奪の場であった。」(同179頁)

▼飛騨屋の場所請負は商業資本を通り越して産業資本そのものの行動であるとおもわれます。その請負場所の数は上記地図の多さです。 榎森進『アイヌ民族の歴史』292頁によると1739年頃、蝦夷地の53か所の商場のうち46か所が請負経営、 1786年には、85か所全てが請負経営となっていたようです。
▲この頃の本州の状況をここに入れること。(2022.10.6)

1774年 ツキノエ、飛騨屋の交易船を妨害(以後6年交易船の派遣停止)
1778年 ロシア人、ツキノエの案内で、ノッカマップ(根室半島)で松前藩に通商要求(翌年拒否される)
1779年 ロシア皇帝エカテリーナ2世(女帝)アイヌ民族からの毛皮税徴収を禁止(勅令発布)
エカテリーナ二世
対外政策では、オスマン帝国との露土戦争(1768年-1774年、1787年-1791年)や3回のポーランド分割 などを通じてロシア帝国の領土を大きく拡大した。 まず、オスマン帝国との2度にわたる露土戦争(1768年-1774年、1787年-1791年) に勝利してウクライナの大部分やクリミア・ハン国を併合し(キュチュク・カイナルジ条約)、 バルカン半島進出の基礎(ヤッシーの講和)を築いた(南下政策)。 また、エカチェリーナ2世は第1次、第2次、第3次のポーランド分割を主導し、 ポーランド・リトアニアを地図上から消滅させた。
▼エカテリーナの拡張政策の一環としてのロシア人の千島への出没(2020.4.28)

1780年 『福山秘府』全60巻成る (松前広長)
▼ニッポニカ:松前藩関係史料の大集成。全60巻。 1776年(安永5)松前藩主道広(みちひろ)の命を受けて家老松前広長(ひろなが)が編集に従事し、80年12月に脱稿した。
1783年 『赤蝦夷風説考』(仙台藩江戸詰藩医・工藤平助・ロシアとの交易、蝦夷地防衛を説く)。
仙台藩医の工藤平助は、迫りくる北方の大国ロシアの脅威に備えるため「赤蝦夷風説考」を天明3年(1783年)、 当時の幕府老中、田沼意次に献上した。これが田沼の蝦夷地開発の原点になったといわれる。 田沼は、蝦夷地調査団に、まず、経世家の本多利明を招聘しようとしたが、辞退されてしまう。 代わりに本多から推薦されたのが最上徳内であった。
・天明大飢饉、宗谷・目梨アイヌ(900人)・樺太アイヌ(180人)餓死 
天明・寛政の凶作▲本州も14年間大変な時代。 それが松前藩の蝦夷地政策にも影響しているようだ。(2022.9.23)
『東遊記』(平秩東作・へつつ とうさく アイヌの文化・人情・風俗を描く)
▼wp:「赤蝦夷」はロシア人を意味する当時の用語。

▼wp天明の大飢饉とは江戸時代中期の1782年(天明 2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。 江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる。

天明飢饉之図 (拡大)
被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、死んだ人間の肉を食い、 人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、 目も当てられない風情にて」と記されている。

1787年(天明7年)5月には、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、江戸では千軒の米屋と八千軒以上の商家が襲われ、 無法状態が3日間続いたという。その後全国各地へ打ちこわしが波及した。これを受け、7月に幕府は寛政の改革を始めた。

▼1789年に「クナシリ・メナシの戦い」が起きるがこの飢饉と無縁とは考えられない。
 
「正保御国絵図」ある意味、興味深いHPです。
「1644年(正保元年)、「正保御国絵図」が作成されたとき松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれ、
1715年(正徳5年)には、松前藩主は幕府に対し「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
1731年(享保16年)には、国後・択捉の首長らが松前藩主を訪ね献上品を贈っている。
1754年(宝暦4年)松前藩家臣の知行地として国後島のほか択捉島や得撫島を含むクナシリ場所が開かれ、 国後島の泊には運上屋が置かれていた。
1773年(安永2年)には商人・飛騨屋がクナシリ場所での交易を請け負うようになり、 1788年(天明8年)には大規模な搾粕(しめかす)製造を開始するとその労働力としてアイヌを雇うようになる。
▲1789年にクナシリ・メナシの戦いが勃発。ひどい労働だったんだ。(2022.7.26)
一方、アイヌの蜂起があった頃すでに北方からロシアが北千島まで南進しており、 江戸幕府はこれに対抗して1784年(天明4年)から蝦夷地の調査を行い、1786年(天明6年)に得撫島までの千島列島を最上徳内に探検させていた。」
(このHPは閉じられていることが分かりました。2020.4.27)
▼平秩東作について以下を見つけました。出典:小学館 日本大百科全書。
東作の自由人的な心境は、「井蛙」の題の一首「身を守る かくれ所はこゝこそと ちゑを古井に蛙(かはづ)なくなり」 からもうかがわれる[浜田義一郎]と、ありました。
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1785年 幕府、蝦夷地調査隊派遣、(樺太、クナシリ島)
1786年「蝦夷地新田開発政策案」を提出
wikipedia田沼意次
田沼は、蝦夷地を調べるために幕府メンバーには、青島俊蔵、最上徳内、大石逸平、庵原弥六などがいた。 また、蝦夷地の調査開発をすすめる事務方には、勘定奉行松本秀持、勘定組頭土山宗次郎などがいた。

蝦夷地調査で鉱山開発やロシア交易の実現性を調べ、蝦夷地開発の可否を決定することとなった。
調査隊は4月29日、松前をたち、東から国後、西から択捉の二隊に分かれて進んだ。 翌、天明6年2月、佐藤玄六郎による調査報告があがった。結果、最終的に田沼は蝦夷の鉱山開発、ロシア交易を放棄した[25]。

蝦夷地の鉱山開発・ロシア交易の構想が頓挫したことで、松本秀持は新田開発案に転換した。 田沼失脚後、蝦夷地開発をいったん中止となった。

しかし、この政策は老中を含む幕府の大多数に支持されていた。 開拓反対派である松平定信も早急での開拓に反対しているだけで将来的な蝦夷の開拓自体は肯定派だった。
その後、定信が失脚した後の寛政11年(1799)、幕府は東蝦夷地を直轄とし
中止されていた蝦夷地開発を開始した。
文化4年(1807)には松前から領地を取り上げ全蝦夷地を直轄した。
田沼が提唱した幕府による蝦夷開発計画はその後 は紆余曲折はあったものの文政4年(1821)に中止されるまで
継続していくこととなる[25]。
▲事の善し悪しでなく、和人による蝦夷地植民の端緒は1786年、明治維新の80年前、田沼意次が開いている。 林子平が「三国通覧図説」を刊行。下の地図参照。(2022.9.28)
エトロフ島にわたる、ロシア人と会う。次いでウルップ島にわたる。樺太にて「清朝」から姓長(ハラ・イ・ダ) に任命されたアイヌ民族の首長、ヨウチイテ・アイヌ(中国名・楊忠貞)の子ヤエンクル・アイヌに会う。
*調査中止、蝦夷地開発計画頓挫(老中、田沼意次、失脚)
「お試し交易」「秋味漁」実施
林子平地図全体
天明5年1785年
(拡大)
地図上の色の違い
天明5年1785年
(拡大)
蝦夷地の当時の認識
黄色 和人地
橙 蝦夷地(2022.4.18)
最上徳内地図(拡大) 寛政2年1790年
林子平地図から5年後。これほど地図が正確になったことにおどろき。(2022.3.10)
▼「1778年松前藩が藩主の商場であるソウヤに家臣工藤清左エ門を派遣した際、サハリン西海岸ナヨロのアイヌの 首長「ヤウチウテイ」が交易のため、同商場に来ていたので、工藤が彼の名を聞いたところ、 楷書で「楊忠貞」と記した唐紙を差し出したという。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』325頁) 原資料は最上徳内の『蝦夷草紙』(1790年)のようです。

1789年「クナシリ・メナシの戦い」
クナシリは右上の島メナシは根室・釧路辺り (『アイヌ民族の歴史』p247)(拡大可) チュルイ、シベツを地図で確認すること(2022.12.27)
『新撰北海道史第二巻』2023.4.14(拡大)


▼この戦いの前提に1716年の項の場所請負制の導入がある。 70年間のアイヌ社会破壊の怒りが「クナシリ・メナシの戦い」であった。(2020.7.2)
・エカシ・長老の説得
ノッカマップの処刑(ペウタンケ(危機を知らせる叫び声)・37人処刑、首を塩付けにして松前城下でさらし首、 夷塚、28年でクナシリ・メナシ絶滅)
「クナシリ・メナシ地方のアイヌ民族がこの地で漁場の経営を行っていた。場所請負人らの横暴や、 アイヌ民族への強制的な使役に対して立ち上がり、現地にいた支配人ら71人を殺害した。」
小川正人「「アイヌ学校」の設置と「北海道旧土人保護法」・「旧土人児童教育規程」の成立」1991年3月発表
266頁
まず,幕府・松前藩の政策がアイヌ社会に与えた影響を概観する。
蝦夷地(1)では,場所請負制(2)の展開とともに交易はアイヌにとって収奪同様に行なわれるに 至り,アイヌは交易の主体から漁場における主要で、安価な労働力へと落としめられた。
本来のコタン (3)は川筋などに散在していた(例として[図 1-a] にトカチにおけるコタンの分布を示
コタンの大きさ

「場所」の分布 (拡大)

した)が,「場所」は河口などの海浜に設定された([図 2])。
「場所」の経営が大規模になるに従い,請負人は労働力となるアイヌをコタンから引き離して 「場所」へと徴用した。 更に,場所の収益に比してアイヌ人口が多いと「介抱」の費用がかさむため,議負人はア イヌを他の場所へ出稼ぎさせるようにもなった。例えばアプタ(虻田・アプタ)・モルラン(室 蘭)のアイヌをアツタ(厚田)へ,サル(沙流川流域)のアイヌをイシカリ(石狩),ヲグル(小 樽),アツケシ(厚岸)へ, トカチ(十勝)のアイヌをホロイツミ(幌泉,現えりも前)へ,ア パシリ(網走)とシャリ(斜里)のアイヌをクナシリ(悶後)へ,モペツ(北見紋別)のアイヌ をソウヤ(宗谷)やリシリ(利尻)へなど,多くの地域でアイヌの強制連行が行なわれた。
従事させられる労働も,漁撈にとどまらず,場所の経営が大規模になるにつれ炊夫,小間使や道路の 開削等にも使役された。徴用は 2年 3年という長期に及ぶようになり,青壮年男子のみでなく 女・子供まで駆り出されるに至った。例えば沙流川流域では, 1858年において, 11-50才のアイ ヌのうち男性は82.3%,女性は35.7%が徴用されているから,その後のコタンに残るのは老人, 幼児,病弱者と僅かの婦女子ばかりという有様だった。
278頁
(1)松前藩は,北海道島を,和人村落の所在地であり「内国」に等しい地域として設定した 「和人地」 と,アイヌの居住地であり交易地である「蝦夷地」とに区分した。この地域区分体制は幕府の直轄期 においても継続された。「和人地」は当初渡島半島の南端のみであったが,幕末にかけて徐々に拡大 した。
▲「和人地」の定義がこれで明解。「場所」は「和人地」ではない。 明治2年の時点で和人地は渡島半島とオタルナイで間違いない。(2023.4.14)
(2) 松前藩は,蝦夷地におけるアイヌとの交易場所(「場所」)を家臣への知行として与え(「商場地行制」), 知行主はこれを商人に請け負わせた。これが場所請負制であり,「場所」は交易の場から商人による漁 場経営の場へと変容した。
(3) たとえ一戸でもそれを単位として人が生活していればアイヌコタンである。普通は数戸の規模であ り,十数戸になるとかなり大きいコタンだった。
264 頁
(6) 1916年の調査では 「(アイヌは一筆者注)大体に於て同種族関の通話にはアイヌ語を用ひ和人に 対しては和語を使用す」(『旧土人に関する調査』北海道庁 内務部教脊兵事課, 1919年, 95頁)とされ, 1920年代末の調査では「現在に於て殆どアイヌ語を用ふる者なく,青年等は大体之を知らぬ」(『土人概要』 ,北海道庁 学務部社会課, 1929年 4頁)とされているのを見れば,アイヌ語はとくに1900年 頃より後に生まれた者において徹底して奪われていったことがわかる。
▲アイヌ総合大学の創設でアイヌ語を取り戻す。(2022.7.5)

「場所請負人の飛騨屋は1788年から急に交易中心から、鮭〆粕をつくるためにクナシリやメナシのアイヌ民族を強制的に使役した。」
「1年中毎日働かされて自分たちの冬の食料もとることができない。報酬もまともにもらえない。 番人に棒で打ち殺された女もいた。妻が番人に暴行されたので抗議をしたら逆に償いをとられた。 支配人が女を女房同様にし、子まで産ませた。ほかに多くの女が犯されたので男たちが抗議したが、受け入れられなかった。」

*メナシ領シベツ(士別)では、粕作りが始まってから〆粕割合の手当てというものはまったく無く、 〆粕の雇い代は首長が米一俵にたばこ一把、一般アイヌはたばこ半把にマキリ(小刀)一丁なので、 …自分の荷物も何もなく、土産がもらえるわけでない。去年から〆粕作りが始まっているので冬中食べ物が不足し、 妻子を養うにも難渋している。ことにシトノエというアイヌ女性は、働きが悪いということで薪で強く打たれて病気になり、亡くなった。

*同所(メナシ領シベツのこと)のシリウというアイヌは、妻と妾の二人がともに稼ぎ方の和人たちに密夫(姦淫・凌辱)されたが、 抗議したら逆に道理に合わない文句を言われるので、言えないでいる。

*同所(メナシ領シベツで)働かないと、男女を問わず残らず粕とともに殺すぞ、と稼ぎ方に言われた。

*同所(メナシ領シベツで)稼ぎ方は、当年よりアイヌを残らず殺すといって、犬を縄に縛って川へ沈めて殺した。 シャモ(和人)が多数のアイヌを殺すのだな、とアイヌは推量した。

*メナシ領チュウルイ(阿寒湖には、大島、小島、ヤイタイ島、チュウルイ島の四つの島がある。)では、 稼ぎ方たちが昨夏より大きな釜を三つ用意し、男と女と子供のアイヌに分けて粕とともに煮て殺すと脅し、 実際に子供を背負った女性を釜に入れたが、大勢のアイヌがやってきてこの時はなんとか助かった。

*同所(メナシ領チュウルイでは)ケウトモヒシケは、妻と妾に稼ぎ方が密夫したので、アイヌ式のツグナイを求めたら理不尽にもぶっ叩かれた。

*同所(メナシ領チュウルイの)サンヒルというアイヌが、妻が密夫されたので抗議したら、稼ぎ方は激しく腹を立てて サンヒルの髭をマキリで切ると脅された。

*クナシリのセセキ(セセキ温泉は知床半島の羅臼町にある海中温泉地)という所の支配人左兵衛は、 ウテクンテというアイヌ女性を居所へ引き連れて夫婦同様にして子供を産ませた。その他に密夫している例は多く、 悔しい思いでいるが、抗議すれば逆にツグナイを求められるので黙っている。

*同所(クナシリ)支配人の左兵衛の言うには、当年のお目付け役の勘平は難しい人物で、 アイヌが〆粕作りでしっかり働かないと当島に下さる米、酒、味噌に至るまで毒を入れ、アイヌを残らず殺して、 これまでアイヌが住んでいた所へ町屋をこしらえて江戸より和人を多数取り寄せて商売をすると言ったそうだ。 

南千島アイヌ・北海道アイヌの老人、幼い者も酷使
アイヌ民族への搾取、禁じる者も、監視する者もいない
夷酋列像(1790)
(拡大)
長老による説得(ノッカマップの大虐殺・37人の処刑)
民族共同体の崩壊
飛騨屋の請負、召し上げ
(和人の犯した非道、虐待、クナシリ島の奴隷労働、場所請負人の横暴、暴力、脅迫、餓死者続出、働けぬものは毒殺、女性は姦される)
* 松前藩の失政=財政難・財政破綻・借金=請負商人の横暴を許す
* 「フランス革命」
▲1789年、彼我の差。虐殺と人権宣言。(2022.12.28)
名古屋大学 一七八九年フランス人権宣言前文試訳(石井三記)
「国民議会を構成するフランス人民の代表者たちは、公の不幸と政府の 腐敗の唯一の原因は人の権利にたいする無知、[意図的な]忘却ないし 軽視であると考え、人の生まれながらにもつ、譲りわたすことのできな い、そして神聖な諸権利を、厳正なる宣言で広く示すことを決議した。」
ミネソタ大学 フランス人権宣言全17条
ナポレオン法典原典 フランス革命の初期1804年に制定されたフランスで最 初の近代的な統一民法典である。 交響曲第3番 変ホ長調 作品55『英雄』は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1804年に完成させた交響曲(拡大)
フランス民法典(ナポレオン法典)1804年京都外国語大学
フランス民法典(ナポレオン法典)1804年翻訳立命館大学
京都大学哲学研究会 『キリスト教の本質』1841年に刊行されたフォイエルバハの主著で、彼の名を不朽にした宗教哲学の傑作である。 フォイエルバッハと、関係する哲学者の年代については以下の通り。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル 1770年8月27日 - 1831年11月14日
ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ 1804年7月28日 - 1872年9月13日
カール・マルクス 1818年5月5日 - 1883年3月14日
フリードリヒ・エンゲルス 1820年11月28日 - 1895年8月5日

▲プロイセン民法典との比較も調べておくこと。(202212.31)
松山大学論集 第 31巻 第 7 号 抜 刷 2020 年 3 月 発 行
ドイツ民法832条の生成史(1)銭 偉栄
「1815年にウィーン議 定書(Wiener Kongresakte)によって発案され,ドイツ連邦規約に基づいて結 成されたドイツ連邦(Deutscher Bund)は統一国家たる連邦国家ではなく,「主 権的諸侯と自由都市」が「ドイツ内外の安全と個々のドイツ諸国の独立および 不可侵性の維持」(同規約2条)を目的として結成された領邦国家の同盟にす ぎず,いかなる立法権も有せず,連邦は各邦共通の草案を作成し,その採用 を各邦に勧告しうるにすぎなかった,という状況にあったのである。
1834年,それまで鼎立していた北ド イツ関税同盟(1828年2月成立),中部ドイツ通商同盟(1828年9月成立)お よび南ドイツ関税同盟(1828年1月成立)を統合して小ドイツ(オーストリ アを除く)の大部分地域を包含するドイツ関税同盟(Deutscher Zollverein)が 創設され,全ドイツの政治的統一ないし法統一のための決定的な一歩を踏み出 した。」
▲EUの生成も関税から。(2022.12.31)
池田先生の近代の解説:「近代」とは、
近代・渡辺京二さん 2023.1.12朝日朝刊(拡大)
「日本の近代化…西洋から学びたかったのは軍事力と産業力、中央集権型の国家構造だけ。」 ▲池田先生のご指摘の人権の思想は排除。(2023.1.16)
概ね18・19世紀前後を中心とする市民革命期あるいはその直前の時期で、近代国家誕生の時期。 この時代の歴史性を最も典型的に表現する形容詞は英語で言えばcivilですがこれは「民」ではなく、まして「私」ではない、 むしろ「公」に近接したニュアンスを持つ言葉だったことです。 civilは「キビタスの(に関わる)」という古典ローマの用語法を受け継いだ言葉で、 16世紀から19世紀初頭までのフランスでは、deoit civilは、通常は「民法」ではなく、「国法」と訳します。 (1806年制定のフランス民法典も、「国法典」という意味が近い) もともとcivilに「民の」とか「民的」とかいった意味はありません。 19世紀の80年代辺りまでは「私法」でもありませんでした。 こういうことを述べるのは、幕末の松前藩の施策はもちろん(まだ近世権力ですから)、 明治維新政府の北海道政策、とりわけアイヌ民族への扱いの仕方が全く近代ではありません。 今日人権と叫ばれるのは、その前提に近代法、近代的自我、近代的人格把握等々の 一連の歴史的な段階規定を経た社会思想・国家思想や制度、ルールが一定の前提となっています。
2022.6.15弁護団会議検討会資料
二つの「近代」:
政治的自由主義に対応する「近代」A 
経済的自由主義に対応する「近代」B
自由主義Aは、歴史上、近代ブルジョワ革命期の思潮と内面的関連性が強い。
自由主義Bは、歴史上、産業革命を礎とする産業資本主義時代との関連性が強い。Aの否定でもある。
(因みに、これらの自由主義は、1970代から広まった新・「自由主義」とは概念的に反対物)
「国家」現象の産物である法・法学上、近代法と連関するのは自由主義A Ex) 若干の異物・まじりものはあるが、 自由主義Aを体系的・徹底的に見事に描出したナポレオン法典(1804年)
自由主義Aを通過し、その展開・変容の中で、Bに対応する論理一貫性を示すBGB( Burgerliches Gesetzbuchドイツの民法典) (但し物権は雑多混成)。 1896年公布,1900年1月1日から施行された。
▲日本の明治民法は1898年(明治31)に公布。ドイツの民法典の流れ。 旧民法は1890年(明治23)公布。フランス民法を基本にボアソナードなどが起草。(2023.1.18)

▼ユポさんの「*メナシ領シベツ(士別)では、…」の記述は『アイヌ民族の歴史』榎森進著・草風館出版2007年3月1日発行251頁以下 「メナシ夷共申口」「クナシリ夷共申口」からの引用のようです。
私も読んでみて、ユポさんが取り上げられているのは、松前藩の鎮圧隊の最高責任者・新井田(にいいだ)孫三郎の 「寛政蝦夷乱取調日記」が元資料で、「クナシリ」アイヌの、和人を殺害した14名と、「メナシ地域」アイヌの和人を殺害した23名から、 事の経緯について「申口(もうしぐち)」つまり調査官の聞き取りに対するアイヌの人たちの証言記録からでした。
ただその前の「クナシリ・メナシ地方の…強制的に使役した。」の文章の出典はよくわかりませんが恐らく榎森進さんだろうとおもいます。
▼「クナシリ・メナシの戦い」とは
wp:1789年(寛政元年)、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、 首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、 和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。
wp:鰊粕の製造には大量の薪を必要とするため、北海道の沿岸部では森林破壊が進んだ。 また、先住民族のアイヌは和人商人のもとで鰊粕製造その他の労働に従事させられ、従来の民族コミュニティの変容や破壊がもたらされた。
▼読むと和人に対する怒りが禁じ得ません。蜂起は当然です。この蜂起者たち37名はノッカマップで処刑されています。 「アイヌ民族への搾取、禁じる者も、監視する者もいない」、ユポさんのこころの叫びです。 私の気持もぐんぐんユポさんに引き付けられて行きました。
▼和人のやりたい放題!この歴史を肝に銘じておくべき。ただ、人道主義者・松浦武四郎さんに和人として救われる。

wp:クナシリ・メナシの戦いを鎮圧した後に討伐隊は藩に協力した43人のアイヌを松前城に同行し、 さらに翌年の1790年にも協力したアイヌに対する二度目の謁見の場が設けられた。 藩主・松前道広の命を受けた蠣崎波響は、アイヌのうちもっとも功労があると認められた12人の肖像画を描いた。 これが「夷酋列像」である。
Wikipediaから
イコトイ(乙箇吐壹)の像

山川力『政治とアイヌ民族』
「強制されたなりのひとびとの図を、どうして民族の風俗(「アイヌ絵」)だといえるだろうか。」198p同感。 (2022.12.9)
マウタラケ(麻烏太蝋潔) - ウラヤスベツ惣乙名
チョウサマ(超殺麻) - ウラヤスベツ乙名
ツキノエ(貲吉諾謁) - クナシリ惣乙名
ションコ(贖穀) - ノッカマフ乙名
イコトイ(乙箇吐壹) - アッケシ乙名
シモチ(失莫窒) - アッケシ脇乙名
イニンカリ(乙噤葛律) - アッケシバラサン乙名
ノチクサ(訥窒狐殺) - シャモコタン乙名
ポロヤ(卜羅亜鳥) - ベッカイ乙名
イコリカヤニ(乙箇律葛亜泥) - クナシリ脇乙名
ニシコマケ(泥湿穀末決) - アッケシ乙名
チキリアシカイ(窒吉律亜湿葛乙) - ツキノエの妻、イコトイの母
▼私はこの 「夷酋列像」にある種の違和感を抱いています。
▲山川力『政治とアイヌ民族』読みました。「夷酋列像」に詳しい。私の違和感が当たっていた。(2022.12.5)

▲平山『アイヌ民族の現在』63p「過酷な漁場労働は、クナシリ・メナシの戦いが初期で、それ以降、激しさを増していくようだ。 だから前期場所請負制〜クナシリ・メナシの戦い〜後期場所請負制という流れを提示した。」これは大事な指摘。(2022.7.25)
1792年 ロシア使節アダム・ラクスマン、根室に8ヶ月滞在。住居建設、幕府許可。
松平定信(日本の地ではないので、根室で待つのだ)  四つの窓口 @長崎=オランダ・中国 A対馬=朝鮮 B薩摩=琉球 C松前=アイヌ民族
1798年 *近藤重蔵、エトロフに「大日本恵登呂府」の標柱
**前幕府直轄時代**
1799年 ロシアの南下政策への対応
1799年(寛政11年)第1次幕府直轄〜1821年(文政4年)
ロシア船根室1792年、1796年イギリス船虻田来航
ナポレオンロシア侵略モスクワ炎上 (拡大)

1855年(安政2年)第2次幕府直轄〜1867年
1854年日ロ和親条約
▲蝦夷地の幕府直轄は対外対策。(2021.9.5)
▲市川守弘『アイヌの法的地位』は商場知行制→場所請負制を「幕府の蝦夷地直轄と無関係でなかった」(72p)として、 その時期を享保年間(1716年以降)とするが、年代が合わない。第1次直轄は1799年である。(2021.9.5)
▲市川は場所請負制を1799年以降と考えているようである。cf.83p「19世紀に入ってからの商人による激しい経済的収奪のもとで」(2021.9.5)
東蝦夷地守備 (拡大)『新旭川市史』
1799年 浦河から知床 兵、南部藩、津軽藩各500人
1800年 八王子の千人頭率いる、白糠50人、勇払50人警護、農を兼ねる。 屯田の最初。
1807年 露艦択捉来寇。幕府南部、津軽に守備、厳にさせる。
▲19世紀に入り幕府は本格的にロシア対策に危機感を持って向き合っていることが窺える。(2022.4.18)
幕府直轄による、東蝦夷地仮上知(上地・あげち・幕府による没収)
蝦夷地経営(東蝦夷地では、交易所運上屋を会所と呼ぶ)
・支配人、通辞、帳役、番人を駐在させる 
・アイヌ民族への同化政策(松前藩は禁止してきた日本語・文化)
「三章の法」
1 邪宗門に従う者、外国人に親しむ者、其罪重かるべし
2 人を殺したる者は、皆死罪たるべし
3 人に疵つけ、又は盗する者は、其程に応じ咎めあるべし
*アイヌ民族の風習を全く無視したものであったために、幕府はアイヌ民族の抵抗を恐れて、現実には実施されなかった
* キリスト教を禁止し、クナシリ・エトロフ・ウルップに高札をたて、アイヌ民族に仏教をひろめようとした 「蝦夷三官寺」(仏教・国教の強制・檀家なし、財政・幕府持ち)
幕府のエトロフ島支配 平山『地図でみる』134p
「1803年クナシリ、エトロフ島のアイヌがウルップ島を往来することを禁止。」
▲ひど過ぎますね。江戸幕府はここまで支配の実態をつくろうとした。(2022.9.11)(拡大)
1 有珠・善光寺(浄土宗)
2 様似・等ジュ院(天台宗)
3 厚岸・国泰寺(臨済宗)
「日本語使用の強制・風俗改め」(髭剃・月代・髪結・和服着用)
「農耕奨励」(アイヌの農耕禁止解除、穀食は文明、肉食は野蛮)
「創氏改名」(アイヌ名を日本名に・1876年(M9)年アイヌ民族、1939年(S14)年朝鮮にて創氏改名)
「ウイマム・オムシャ」の強制(裃、羽織の着用義務づけ)
「帰俗土人」・「新シャモ」と呼び、褒賞を与え、帰俗を奨励した。 コタンコロクル(村長・むらおさ)を乙名(おとな)に任命、場所ごとに惣乙名、脇乙名、小使(三役・役土人)、土産取を任命した
* ほとんどの者は、自分の名前を知らず、山にかくれる者、先祖から受けた姿を失い、衆人と交わりをできない(最上徳内「蝦夷草子」)
*風俗改め強制、長万部の首長トンクルは、大勢に押さえつけられ髭をそり落とされ、髪を結われ、以後は和人風になし、 徳右衛門と名乗れと言われ、飲食を絶って死を遂げた。(松浦武四郎・「近世蝦夷人物誌」)
▲平山『アイヌ民族の現在』59p。「コタンコロクル(村長・むらおさ)を乙名(おとな)に任命、場所ごとに惣乙名、脇乙名、小使(三役・役土人)、 土産取を任命した」がアイヌ首長層の土台はしっかり残っている。こういう点もきめ細かく見ておくこと。
▲幕府直轄はアイヌ政策が質的に違う。(2022.7.25)

▲明治初期のアイヌ政策は江戸幕府1799年の焼き直し。(2022.8.5)
▼帰俗とはアイヌの風俗を改め日本風にすることだとユポさんに教わりました。
▼最上徳内「蝦夷草子」のHPです。
▼「従来、幕藩制国家の対外編成上「異域」として位置づけられてきた「蝦夷地」は、「異域」から一挙に「内国」化されるに至ったのである。」 (榎森進『アイヌ民族の歴史』306頁)
「その総てが対ロシア関係を強く意識したうえでの「蝦夷地」の「内国」化を装飾するための政策以外の何ものでもなかった。 アイヌ民族に対する風俗改めや和風化策が和人に近い地域よりも、むしろロシアに接したエトロフ島で最も積極的に行われたという事実は、 そのことを端的に物語っている。」(同書308頁) トップへ戻る
安田雷洲「増訂日本輿地全圖」天保2年(1831) 東北大学デジタルコレクション掲載許可令和2年10月15日東北大学図書館長(拡大)
蝦夷地が日本與地に含まれていないことに注意。2020.10.20
旧国名地図(明治2年までの)(拡大)
1800年 * 富山元十郎、ウルップ島に「天長地久大日本属島」の標柱
1801年 幕府、東蝦夷地を永久上知する、「(蝦夷)箱館奉行」を置く
1804年 蝦夷三官寺建立、善光寺(有珠)・等ジュ院(様似)・国泰寺(厚岸)
1807年 幕府、松前・西蝦夷地を上知(あげち・幕府による没収)
*対ロシアへの防備上、アイヌ民族の同化政策のため(エトロフでもっとも積極的) 松前藩を奥州の梁川(やながわ・福島県)に転封、松前奉行を置く 蝦夷地全域を幕領化 旧国名地図(明治2年までの) https://www.chikumashobo.co.jp/kyoukasho/tsuushin/rensai/man-you-shuu/images/kyuukokumei.pdf
1807年千島・樺太守備 (拡大)1807年択捉島・内保露艦上陸。官兵、津軽兵300人及ばず、幕府兵を増強、露兵去る。1809年露船樺太に上陸。 ▲千島・樺太、日露せめぎ合いの場。先住民を無視して。(2022.4.18)
▼この時期の幕府とロシアへの対応(榎森進『アイヌ民族の歴史』342頁〜344頁)
1804年 レザノフ長崎に漂流民を伴い来航
1805年 レザノフに通商要求拒否の「教諭書」を渡す
1806年 ロシアの軍艦のフォヴォストフらサハリン上陸。アイヌの子供を連行、運上屋を襲撃、倉庫を焼く
1806年 フォヴォストフらエトロフ島のシャナを襲撃。リシリ島付近で日本船襲撃
1807年 幕府、東北諸藩にサハリンを含む蝦夷地へ出兵を命ずる
1809年 幕府、ソウヤのアイヌ民族が「サンタン人」に対する「古借」を返済。「カラフト」を「北蝦夷地」に改称
▼後の日露戦争の火種がこの頃に醸成されているようにおもう。
1809年 このころよりアイヌ民族に御目見(ウイマム)強制(松前奉行) 間宮林蔵、「間宮海峡」発見
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』から
「サハリンのアイヌ民族の歴史で特徴的なことは、北海道・クリル諸島や北東北のアイヌ民族に比して、 中国の歴代王朝との関係がきわめて強かったという点にある。」(323頁)

「1809年 松前奉行が西蝦夷地「クドウ」場所から「北蝦夷地」に至る各場所詰めの幕吏に対して、
 1806年場所一覧3 (拡大)択捉島まで
 1806年場所一覧2   宗谷岬・樺太まで
 1806年場所一覧1 『苫小牧市史』
クドウは熊石の上
以後各場所のアイヌの「乙名」達を3年に1回宛松前奉行に御目見させるよう厳達。
1815年 5年に1回宛松前奉行に御目見を命ず。
この命令によって幕府は、東は「エトロフ」から西は「北蝦夷地」に至る「蝦夷地」全域のアイヌ民族の首長層に対する松前奉行への御目見体制 を名実共に整備・完成させたわけで、こうした体制の整備は、「カラフト島」のアイヌ民族を「日本に従属した民」として 位置づけるうえで歴史的に大きな役割を果たした。

換言するならば、ここに至って、サハリンのアイヌ民族を含めた「蝦夷地」全域のアイヌ民族の「日本」への朝貢体制が整備されたのである。 このことは、サハリンのアイヌ民族を清朝の「辺民制度」から脱却させ、日本=幕藩制国家への朝貢体制に再編したことを意味するものであった。」 (347頁)

▼このような江戸時代末期の、幕府のアイヌ民族への植民地的支配の前提で、 明治維新後のアイヌ民族無視の政策が展開されることになったようだ。
▼今日改めてこの箇所を読んでみると、この江戸期のやり方がそっくり 明治期の琉球王国を清朝から引き離す際にも用いられていることに気づきました。 江戸期と明治期は支配者のあいだでは実によくひと続きであることがわかります。 逆にアイヌモシリ回復訴訟では江戸期の責任を問う根拠にもなると思います。(2020.7.2)

1818〜1830年 石狩アイヌは、「自分稼」「自分商売」で和人と交易 
  伊能小図北海道1818年 (拡大)文化遺産オンライン
1785年林子平地図 1790年最上徳内地図と比べると格段の進化
1843年東蝦夷地守備 (拡大)『新旭川市史』戍(ジュ まもり)を箱館外11の要所に置く。
▲ロシアに対する幕府の危機感。 (2022.4.19)

**後松前藩治時代**
1821年 松前藩、復領(幕府直轄1807〜1821の14年・財政負担の増大)
場所請負人に場所内の経営権と行政権をまかせる(支配搾取体制)
アイヌ人口の激減
渡島、胆振、日高、十勝以外は激減.(拡大)
平山『地図でみる』
ペンリウクさん 1832年生まれる
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水戸講道館 1841年斉昭設立
2023.1.16朝日夕刊 儒学、歴史、歌学、医学、蘭学の講義、研究。武術の教練、天文台、神社、孔子廟も設置。▲進んでいた。(2023.2.5)
ワイタンギ条約 1840年締結
2023.1.21朝日朝刊
▲こういう動きもあった。(2023.2.5)









1845年 松浦武四郎この年から6回にわたり蝦夷地調査、アイヌ民族の生活を記録する。
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(男女とも12〜13歳から、働ける者はすべてコタンから強制的に漁場に連行され、コタンの生活は徹底的に破壊され、 人口は激減し、あわや民族全滅の瀬戸際まで追い詰められたといっても過言ではない。)
▼たまたま「共産党宣言」へのエンゲルスの1890年のドイツ語版序文を読んでいたら次のような一節に出会った。 「1848−1849の革命当時には、ヨーロッパの君主たちだけでなく、ヨーロッパのブルジョアもまた、ロシアの干渉を、ちょうどはじめて目ざめつつあった プロレタリアートからの唯一の救いと考えていた。ツァーリはヨーロッパの反動の首領である、と宣言された。」 このようなロシアが樺太に迫っていた、ということ。(2019.11.28)
▼時の皇帝はニコライ1世(ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ1796年7月6日 - 1855年3月2日)。 ロマノフ朝第11代皇帝(在位:1825年12月1日 - 1855年3月2日)

1853年 幕府、ロシアとの領土交渉(「大日本古文書幕末外国関係文書之三」) 「アイヌは蝦夷人のことにて、蝦夷は日本所属の人民なれば、アイヌ居り候ところは即ち日本領に候」
▼1792年の「日本の地ではないので、根室で待つのだ」との整合性は?
日露国境の変遷168p (拡大)片桐さん 良く分かる地図

1854年 「日露和親条約」締結  上村論文ー日露和親条約

エトロフ(択捉)島とウルップ(得撫)島の間を国境とする、樺太は雑居の地とする。(ロシア、樺太の国境画定をせまる)
・ 箱館が開港
幕府、140人余の大規模調査隊を東西蝦夷地、樺太に派遣、松前藩の防衛能力の貧困さとアイヌ民族酷使の実態が報告される    ▼出典は?
市川守弘『アイヌの法的地位』86p
「幕末、徳川幕府は諸外国との間でさまざまな条約を結んだ。ロシアと日露和親条約で国境を定めた。アメリカ、 イギリスとの和親条約で下田、箱館の港を開いた。明治政府はそのまま遵守した。 しかしアイヌとの関係では幕府がとったアイヌとの法的関係をすべて放棄した。幕府・松前藩とアイヌの関係は、1604年(慶長9年)の黒印状以来 、幕府・松前藩とアイヌとの間で守られてきたいわば国際法に基づく関係であった。」
▼この指摘はすばらしい!!(2021.9.6) 
追加:138p
「日本がロシアとの条約で蝦夷地を日本の領土としたとしても、それはあくまで日本の政府が、アイヌコタンとの土地買い取り権を他国に先んじて 得たということにすぎない。千島列島問題も同様。勝手に和人が入り込んだり、 アイヌを強制的に移住させたりすることは当時の国際社会からすれば違法なことであった。」
▼この指摘もすばらしい!!(2021.9.7)

**後幕府直轄時代**
▼「日本における北方研究の再検討」(煎本孝)論文「鎖国から開国へと激動する国内、国際情勢の変化に伴い、 蝦夷地は幕府の第2次直轄時代(1855年〜1867年)を迎える。」

2019年松浦武四郎生誕200年記念展静嘉堂文庫美術館。
1845 松浦武四郎、1回目の蝦夷地踏査(1858 年まで計 6 回)
1855年全蝦夷地守備 (拡大)『新旭川市史』江戸幕府の危機感がひしひしと伝わる。 一方で松浦武四郎さんの調査でアイヌ民族の実態、生活がよくわかる。ほぼ植民地。(2022.4.19)
1855年  幕府、松前周辺を残し、木古内(きこない)、乙部(おとべ)村以北の全蝦夷地を再直轄
     東北諸藩に蝦夷地警備を命ずる(対ロシア対策)
1856年 箱館奉行、アイヌ民族を役土人・平土人とする、日本語の奨励
1857年 アイヌ民族への同化政策再開(蝦夷地の混乱を招く)
1858年 (安政5年) 松浦武四郎「戊午(ぼご) 東西蝦夷山川地理取調日誌」
アイヌ民族への非道の実態を暴く(支配人、番人のメノコ姦奪) アイヌ民族の人口の激減(他場所との縁組を禁止)、 蝦夷地の荒廃(アイヌ虐待、松前藩・御用商人の非道暴露糾弾) 刺客につけねらわれる
松浦武四郎さんの『知床日誌』につぎの報告があります。
奈良女子大学学術情報センターの「知床日誌」のHPです。 有難い研究です。感謝。

「見る影もなく破れて只肩に懸る斗のアツシを着 如何にも菜色をなしける病人等 杖に助りセカチ男子  カナチ女子等大勢其汐干にあさりけるか 我等を見て皆寄来りし故 其訳を聞に

舎利アハシリ両所にては 女は最早十六七にもなり夫を持へき時に至れは  クナシリ島へ遣られ 諸国より入来る漁者船方の為に身を自由に取扱ハれ
 男子は娶る比に成は遣られて  昼夜の差別なく責遣ハれ 其年盛を百里外の離島にて過す事故 終に生涯無妻にて暮す者多く  男女共に種々の病にて身を生れ附ぬ

病者となりては働稼のなる間は五年十年の間も故郷に帰る事成難く  又夫婦にて彼地へ遣らるゝ時ハ 其夫は遠き漁場へ遣し 妻は会所また番屋等へ置て番人稼人皆和人也の慰ミ者としられ  何時迄も隔置れ

それをいなめは聞し由を委に話しけるに 此一事ハ同人も深く心を用ひ居らゝ由にて  懇にうけかひ呉られけるも嬉し
余も今はかゝる事まても彼等の言の訳る迄に其国言に通せしそ嬉しけれは  取敢す一首の腰折を其壁にしるし置ものなり 日数へし程もしられて 蝦夷人の言も聞わくまてに成けり          知床日誌終」

1859年(安政6年) 幕府、蝦夷地を東北6藩の分領支配とする ロシアと樺太の領土交渉
西蝦夷地石狩場所絵図 1860年頃(拡大)
人種主義の歴史1 人種主義の歴史2 平野千果子(拡大)
頭蓋測定
サミュエル・モートン(1799−1851)
1862年(文久2年) ロシアと樺太の領土交渉
▼交渉の経緯をWikipediaで読むとロシアは樺太全部を領有したい意図が見える。
(2018.11.15 取り敢えずここまで完了しました。)

1865年 英国領事館員、森(もり)村、落部(おとしべ)村のアイヌの墓を盗掘する
▼アイヌ人骨盗掘事件。大問題だった。
▼昨晩すでに布団に入っていた私を家内がわざわざ起こしに来てくれた。ETV特集選「アイヌ民族苦難の歴史いまを生きる若者たち」をやっているからと。 北海道大学のアイヌ人の盗掘した頭蓋骨の返還のシーンがあった。アイヌの川村兼一さんの謝罪要求に対して大学側は押し黙って「謝罪」を拒む。 耐えきれず同席していた大学の若い研究者一人涙ながらに謝罪する。このシーンを見て、私は今朝4時半に目が覚めて眠れなかった。 アイヌ民族の無念さが心に刺さったままだった。
大政奉還 容堂の建白だからこそ 2022.11.25朝日朝刊(拡大)

やはり自分はやらなければ、との思いを強くした。(2019.10.27)
1866年 英国公使アイヌ民族に謝罪
1867年(慶応3) 第15代将軍徳川慶喜「大政奉還」
▼マルクス(49)『資本論』発行(マルクス地球環境問題の研究開始いわゆる後期マルクス。  この頃帝国主義はじまる)

1867年(慶応3年)12月9日 王政復古の大号令
王政復古の大号令 (拡大)

 *開拓使・三県・道庁時代**(居住植民地)
1868年(M元)
1・3「鳥羽伏見の戦」
2・27清水谷公考(しみずたに きんなる)、高野保建両公卿、「蝦夷地開拓に関する建議書」提出
3・12 廟議に基づき蝦夷地開拓の大方針樹立
3・9天皇三職(総裁・議定・参与)を召し蝦夷地開拓の可否を下問
3・10 天皇再度三職を召し蝦夷地鎮撫使差遣遅速に関する建言を促す
勝海舟ノート(拡大)
▲海舟、勉強家(2023.2.1)
勝海舟 2023.1.31朝日朝刊(拡大)
江戸城無血開城 https://shirobito.jp/article/313
「勝海舟と西郷隆盛の出会いは江戸の危機から4年前、第一次長州攻めのとき(1864年 海舟41歳 西郷36歳)。 この当時の薩摩藩はまだ幕府側でしたが、幕府がいつまでも長州への攻撃を開始しないので、 動向を探ろうと思った西郷隆盛が勝海舟を訪ねたのです。
このとき勝海舟は西郷隆盛に幕府の政治がもう機能しなくなっていることと、だれでも参加できる共和政治の必要性を説明しました。
▲蘭学を通してヨーロッパの情勢に通じていたようだ。(2023.2.1)
勝海舟は幕臣なのに、外部の人に幕府の批判をしてみせたのですから、驚いてしまいますよね。 もちろん西郷隆盛も驚きましたが、勝海舟にはしっかりと自分の考えを貫く肝の太さがあるのだと感心しました。 一方の勝海舟は、まったく新しい政治構想に純粋な興味を示す西郷隆盛に器の大きさを感じます。 二人はお互いに、初対面から相手に一目置いていたのです。」
▲このような出会いと信頼があったので無血開城につながる。(2023.2.1)
「山岡鉄太郎は西郷隆盛に勝海舟との会談をとりつけ、西郷隆盛は3月13日に急いで江戸の薩摩藩邸に入り、 14日に勝海舟と西郷隆盛の会談が持たれます。」
▲結果は見事というほかない。(2023.2.1)
3・19 清水谷公考等蝦夷地問題に関する再申書を提出
津軽と南部 青森は津軽と南部に分かれていた(拡大)
3・25 副総裁岩倉具視 三職、徴士に対し蝦夷地開拓の事宜三条を策聞
4・12「箱館奉行」を「函館裁判所」に  
4・15 政府、松前・津軽・秋田・南部・仙台・各藩に箱館警備を命ず 
4・17 政府蝦夷地開拓条項7か条指令
5・24「函館裁判所」を「函館府」と改称  
小樽内騒動(※漁民一揆)(4月、御用所襲撃・御用金強奪)
箱館裁判所を箱館府に清水谷公考を知事に
御一新の布告
箱館ハリストス正教会創立
松浦武四郎「蝦夷山川取調調書等」献上
10・20 榎本武揚.幕府脱走軍.函館府を襲撃、清水谷府知事.津軽へ避難
「戊辰戦争」・「明治維新」改元9月8日
「5カ条の誓文」・東京遷都
国会図書館:法令全書
国会図書館:太政官職制沿革原文
政体書1 御誓文(拡大)
政体書2 ▲三権分立を最初に謳っている。
官武一途。
朝廷と武家が一体となって。
政令二途の患いを無くする。
朝廷と幕府が別々の命令を出すことの弊害を無くする。

(拡大)
政体書3 (拡大)
武家か天皇か1 2023.11.25朝日朝刊(拡大)
政体書4 (拡大)
武家か天皇か2 ▲二つの政治軸が一本になった、それが官武一途の意味。(2023.11.28)
(拡大)
政体書b (拡大)
政体書(せいたいしょ)は、明治初期の政治大綱[1]、統治機構について定めた太政官の布告である。 副島種臣と福岡孝弟がアメリカ合衆国憲法および『西洋事情』等を参考に起草し、慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に発布された[2]。 同年4月27日頒布[1]。
▲支配階級、進んでいる。今は市民の方が進んでいる。(2023.11.28)
「天皇 蝦夷地開拓方針下問」
▼明治天皇1852年生まれ、御年16歳。側近が政治を動かしたということ。
▼wp:三職
慶応3年旧12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が出されると、依然として強力な政治体制を維持していた 江戸幕府に代わる政治体制の確立が急務となった。そこで、幕府・征夷大将軍・摂政・関白に代わるものとして、
総裁(有栖川宮 熾仁親王・ありすがわのみや たるひと しんのう)
議定(皇族2名・公卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)、
参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)
の三職が任命された。
慶応4年2月の主な人事  [総裁] 有栖川宮熾仁親王 [副総裁・議定] 三条実美、岩倉具視
▼wp:有栖川宮熾仁親王 時の皇族の第一人者として明治天皇から絶大な信任を受けた。熾仁親王の葬儀は国葬
▼wp:参与
議定の会議は上議院ないし上の議事所、参与の会議は下議院ないし下の議事所とよばれていた。 なお同じく参与でも、廷臣出身のそれは上の参与、藩士いいかえれば徴士(ちょうし)からなる参与は下の参与とよばれた。 しかし、下の参与は西南雄藩出身の有力藩士たちであったから、維新政府の実質的な指導部はここにあった。
▼(HP「屯田兵と北海道の開拓」から)
明治新政府は、次のような「蝦夷地開拓条項」(7カ条)を清水谷公考に指令した。(上記年表の4・17 「政府蝦夷地開拓条項7か条指令」は下記の内容)
一、総督に開拓の用務を委任する。
一、蝦夷の呼称をやめ、測量の上、南北二道に分けて呼称を定めること。
一、各藩から土地開拓の権威を招き、総督の管轄の下に現地の実用に応じて順序を建てて開拓を進めること。
一、蝦夷地からの税収は開拓費に充て他用しないこと。
一、開拓を希望する諸藩に土地を割渡し(割譲)してもよい。開拓した場合は検査の上、相応の課税をする。
一、北蝦夷地(樺太)が見える宗谷付近に一府を設定すること
一、蝦夷地開拓の目途がつき次第、北蝦夷地開拓の方策を立てること。
▼2月、3月の動きを見ると明治政府の喫緊の課題が対ロシアのための北海道開拓にあったことがよくわかる。 しかし、そもそも誰の土地を開拓しようとしているのか。 アイヌ民族が全く眼中にない。特に問題は「開拓を希望する諸藩に土地を割渡し(割譲)してもよい」との点。
▼wp:ハリストス(ギリシア語: Χρiστοs, 教会スラヴ語・ロシア語: Христос)は、 中世以降のギリシア語の発音(フリストス)を基にした教会スラヴ語・ロシア語での発音に由来する、日本ハリストス正教会において使われる表記。
1869年(M2)
5・18  榎本武揚・脱走軍・降伏、五稜郭・明け渡し
5・21「蝦夷地開拓御下問書」・「蝦夷地開拓の大方針」
(拡大)精度の進化
1785年林子平地図 1790年最上徳内地図
1818年伊能小図
1869年開拓使地図
「蝦夷地の儀は皇国の北門、山丹・満州に接し、経界祖定といえ共、北部に至りては、 中外雑居致候処、是迄官吏の土人を使役する、甚だ苛酷を極め、外人は頗る愛恤を施し候より、 土人往々我邦人を怨離し、彼を尊信するに至る。
一旦民苦を救うを名とし、土人を煽動する者ある時は、其禍忽ち箱館、松前に延及するは必然にて、 禍を未然に防ぐは、方今の要務に候間、箱館平定の上は、速に開拓教導等之方法を施設し、 人民繁殖の域となさしめらるべき儀に付、利害得失各意見忌憚無き申し出ずべく候事。」
(蝦夷地は日本防衛の北の最重要地であり、国境を粗(あら)く定めたとは言え、 北部(樺太・サハリン)では日本人とロシア人が雑居しており(1855年、日露通交条約で千島の択捉島と得撫島の間に国境を設けたが、 樺太については設けず、1867年の「樺太千島ニ関スル仮規則」で両者の雑居地とみなすと定めた)、日本人は官吏がアイヌを酷使しているのに対して ロシア人は丁重に扱っているので、アイヌは日本人よりもロシア人を信頼している。
もしロシア人がアイヌを煽動したら、その禍は箱館・松前にまで及ぶ。だからそれを未然に防ぐために「箱館平定」 (榎本軍平定)後はすぐに開拓教導し、人民繁殖の域とするべきだ。そのことで十分に意見を出してほしい。)

*天皇から蝦夷地開拓総督中納言議定・鍋島直正への勅宣  鍋島直正の詩が新政府の志向をよく表している。(2022.1.6)
「蝦夷地の開拓は皇威隆替の関する處、一日も忽せにすべからず、汝直正深く国家の重きに荷ひ、 身を以て之に任ずるを請ふ、其憂国済民の至情嘉納に堪えず、獨り恐る、汝高年遽かに殊方に赴くを。 然共朕之を汝に委して、始めて北顧の憂なし仍而督務を命ず。他日皇威を北彊に宣る、汝が方寸にあるのみ、汝直正懋せよ」
(いかに蝦夷地の開拓が国際的に重視されたかを知る)
         
6月「版籍奉還」領地領民を天皇に返上、松前兼広、館藩知事に「知藩事」(藩知事)

「開拓使」設置、開拓使時代へ(1869〜1881)
北海道行政機構のうつりかわり
「カムイチェプ読本」26p(拡大)

北海道庁(ほっかいどうちょう)は、1886年(明治19年)に設置され1947年(昭和22年)まで存在した、 内務省直轄の行政区画北海道を管轄する地方行政官庁である。(ウィキペディア)
青字・橙色区分が北海道11国(渡島・胆振・日高・後志(しりべし)・北見・千島・石狩・天塩・十勝・釧路・根室)
 黒字が現在の14振興局(拡大)


7・8 「開拓使」(明治政府の直轄機関)設置、東京芝増上寺。 長官・佐賀藩主・中納言議定・鍋島直正(8・6退任)
8・15「蝦夷地」を「北海道」と改称、

太政官日誌 (拡大) (拡大) (拡大)
太政官氏名 (拡大)

太政官布告提案者 岩倉具視提案(拡大)
明治太政官制成立過程に関する研究 1
田 村 安 興 高知論叢99号2010年11月




明治2年8月15日太政官の構成員
右大臣 三条実美
大納言 岩倉具視・徳大寺実則
参議 副島種臣・前原一成・大久保利通・広沢真臣の7人。
▲行政としてはしかるべき手続きを踏んでいるようだが、肝心のアイヌ民族の同意を得ていない。 明治政府の第一番の決定的失政。それ以降は言わずもがな。まずこの布告の取り消しからMIP回復ははじまる。(2024.12.14)
11か国(渡島・胆振・日高・後志(しりべし)・北見・千島・石狩・天塩・十勝・釧路・根室 )86郡を置く、 千島国はクナシリ、エトロフ、「蝦夷地」の「和人地」化(人口6万人、含むアイヌ)
アイヌ民族にとって「アイヌモシリ」の消滅を意味する事
海保峯夫『日本北方史の論理』(拡大) 268p蝦夷地の消滅
『日本北方史の論理』192p和人地の拡大(拡大) 「1865(元治2)年にはヲタルナイ場所が和人地に準ずる「村並」 の穂足内村となるほどだった。」
1833年〜1836年天保の飢饉で東北からヲタルナイに移住者が急増。 大坂拓論文より(2022.5.3)
▼8・15「アイヌモシリ」の消滅。こういう8・15があったことにはじめて気づきました。(2020.7.3)
▼「太政官日誌」で実際の太政官布告を見ました。東京城に甲寅(きのえとら当時の8/15の表記)高札として告知されたようです。 (2021.10.5)
▲海保峯夫『日本北方史の論理』268p
「明治2年(1869)8月、明治政府は蝦夷地を北海道と改称した。 これは、本来、蝦夷人の土地という意味を持つ 蝦夷地に対して、そこが天皇制国家の領土そのものであることの内外への宣言であり、 蝦夷地に対するアイヌ民族の主権を完全に否定したもの と解することができる。」(2021.9.27読む)

「蝦夷地」は「和人地」(シャモ地松前地)と区別された「異域」。
蝦夷地は幕藩制国家の支配の及ばない異域、あるいは異民族の地を指し国家外を意味する。
道は、古代国家に淵源をを持つ領域概念

和人地  和人地の定義
歴史に見るアイヌ先住権  榎森先生講演記録
http://kaijiken.sakura.ne.jp/symposium/online2021/Emori_Susumu_20220123.pdf(2023.2.2見つける)
歴史に見るアイヌ先住権1(拡大) 榎森先生講演記録2022.1.23


入北記
歴史に見るアイヌ先住権2(拡大) ヲタルナイも「和人地」と確認。(2022.5.6)


玉蟲左太夫
(たまむしさだゆう)
榎森先生仙台駅で
2023.1.30
歴史に見るアイヌ先住権3(拡大)
ヲタルナイも含む「松前地」のみが日本国の「領知」であった。 それ以外はアイヌモシリとして回復の対象。(2022.5.15)
歴史に見るアイヌ先住権4(拡大)
アイヌ民族は課税対象外。 明治時代の土地台帳・戸籍には番外地、無号地と表記。
1865年の和人地
▲和人地に関する研究の到達点は上記地図とおもわれる。(2023.2.2)
歴史に見るアイヌ先住権5(拡大) ▲サケマス捕獲権・先住権の証拠。
榎森先生のこの資料は安政4年(1857)・明治維新11年前、 玉蟲左太夫が箱館奉行に随行して巡検した模様を著わした『入北記』に基づいている。当時の道東の「場所」での交易の実態が分かる記録。(2022.5.15)
ドイツ人ケンペル
(拡大)
ケンペルの地図
▲松前だけが日本。北海道のそれ以外は蝦夷=アイヌモシリ(2023.1.30榎森先生から直接いただく。)
▲松前が一つの島とイメージされている。渡島として地名に刻まれている。 蝦夷島とは別の島と考えられていたのだろう。(2023.2.2)














北海道市町村区域地図
和人地現在の市町村
▲渡島総合振興局の11市町と檜山振興局の今金町とせたな町の北部を除く6市町の17市町プラス小樽市の18市町が和人地と思われる。 (拡大)
▲慶応元年1865年の海保地図と重ね合わせると179市町村のうち161市町村がアイヌモシリとなる。この事実の確認をすること。(2023.1.31)(拡大)
▲「北海道市町村区域地図」を見ると14の振興局があり、それぞれの振興局に市町村が包含され、全道で179の市町村があります。 和人地は渡島総合振興局の11市町と檜山振興局の今金町を除く6市町と小樽市の18市町となります。つまり179の市町村から18の市町村を除いた161市町村が 明治2年時点のアイヌモシリとなります。それに南カラフト、千島が入ります。この事実をロシアを含む北海道の161の市町村議会でまず確認決議を行っていただきたいと考えています。(2023.2.1)

▲アイヌMIP回復運動が始動しはじめたら「国連・先住民族権利宣言」 の実現を支援する全国的な市民組織を立ち上げること。(2023.2.1)

北海道179の市町村
石狩・後志振興局
檜山・渡島振興局
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留萌振興局
空知振興局
北海道市町村区域図
(拡大)
宗谷振興局
上川振興局
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オホーツク振興局
根室・釧路振興局
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十勝振興局
日高振興局
胆振振興局
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▲松前町を筆頭に15の町、函館市、小樽市、北斗市の3市も和人地として確認の議会決議をお願いしたほうがよさそうですね。 (2023.2.2)

9/1 シャマニ228p 9/2 ウラカワ233p 9/2 ミツイシ239p 9/3 シツナイ244p 9/14 ユウフツ269p 9/17 シラヲイ279p  9/19 ホロベツ283p 9/20 モロラン288p 9/21 ウス291p 9/22 アフタ301p
▲玉蟲左太夫さんの行程が見えてきた。秋、季節のいい、道東・道南の巡検の旅。(2022.5.15)
▲『入北記』安政4年(1857)閏5月11日箱館を発ち、西蝦夷地を宗谷まで行き、6/11樺太に渡リ、7/22宗谷に戻り、 オホーツク沿岸を通り、太平洋沿岸の道東・道南を巡り9/27に戻る4ヵ月の玉蟲左太夫さんの巡検随行記である。主人は鎮台堀利熙公、総勢31名の大巡検。 「其節ノ見分筆ニ任セテ記ス」。(2022.5.16)
▲『入北記』を読みます。
スッツ (拡大)
『入北記』シヤマニの箇所(拡大)
▲文化3年(1806)創建天台宗等ジュ院の記述(2022.5.15)
スツツ、和人137軒、土人3軒18人。疱瘡のため56人中38人死亡。 
ヲタスツ、和人150軒、土人ナシ。疱瘡のため土人19人中10人死去、残り9人山中に引き籠り帰らず。
イソヤ、和人116軒、土人3軒。
イワナイ、和人310軒、土人15軒。
ヨイチ、和人60軒、土人84軒。
ヲシヨロ、出稼ぎ102軒、土人30軒。
タカシマ、出稼ぎ123軒、土人18軒。
ヲタルナイ、出稼ぎ280軒、土人25軒。
▲ヲシヨロ、タカシマ、ヲタルナイ、出稼ぎ和人102軒〜280軒で圧倒的に和人の数が多い。 出稼ぎ人で「和人地」の実態を作っている。(2022.5.17)
石狩川、出稼ぎ42人、土人165軒。「この場所は秋味のみ故秋にならざれば出稼人来らざるなり」(5.24記) 「松浦竹四郎(39才)旅宿へ参り(玉蟲は34才)同人案内蝦夷の細工並びに雇小屋等一見したり」 (5.26記)
マシケ (拡大)
ハママシケ、出稼ぎ215人、土人51軒、204人。
マシケ、出稼ぎ768人、土人32軒、99人。
▲マシケの出稼ぎ768人。驚き。ヲタルナイは280軒だが人数が分かればなお良し。(2022.5.17)
ルルモツベ、出稼ぎ368人、土人56軒、199人。「土人大いに支配人等へ服し居るよう見へたり。」
トママイ、出稼ぎ37人、土人26軒、114人。「開墾なるべき所多し。」「石井文左エ門、真実開墾其の外土人の撫育を志居り」
▲最初、和人の支配地とアイヌモシリの区分への関心から人数だけに絞ってメモを取っていたが武四郎さんに会ったとか、開墾のことも目に止まるようになった。 気が付いたことをメモる。(2022.5.19)
テシホ、出稼ぎ数十人、土人62軒、268人。
ソウヤ、出稼人ナシ、土人84軒、395人。
「舟中の景色西リイシリ山を目前に見、北カラフト島を遠望絶景とも云うべし。」
北緯50度の意味 (拡大)『植民地化の歴史』168p
1905年の地図で明らかなように北緯50度はカムチャッカ半島の先端でもあります。 今日片桐さんの地図で気づきました。(2022.5.26)
カラフト北緯50度 (拡大)АТЛАС СССР
樺太コルサコフ (拡大)
▲ここまで来て初めて出稼ぎ人ナシ。逆にアイヌの人の多さに驚く。
次はカラフトに渡る。(2022.5.19)

▲安政4(1857)年7月10日の記録。エンルモコマフ滞留時の記録。
南樺太地図 九春古丹(拡大)
「クンシュンコタン(九春古丹)支配人清水平三郎方へ参り種々談話。ナヨロへ渡来した露人の一条承る。 彼(露人)は50度を以って界と致しき所存。土人は山奥へ隠れ彼に服せざるように見えたり。 近々南部津軽等へ及ぶも知れず。厳重警衛ありたきものなり。」
▲幕府にとっては超一級の情報。(2022.5.22)
クシュンコタン(コルサコフ、大泊)、土人187軒、1,711人。78カ村、内無民家20カ村。役土人帰俗の者名前(例 ラムランケ事 蘭平)、24人。
▲面白い記録の転写。クンシュンコタンの毎日の気温。安政3年(1856)同所詰足軽内藤道太郎の記録。
5/22朝55度、日中62度、夕57度に始まり安政4年2/29朝24度、日中40度、夕29度とまで毎日記録。 華氏で記録。
摂氏に直すと5/22朝12.7度、日中16.6度夕13.8度、
安政4年2/29朝-4.4度、日中4.4度、夕-1.6度。
当時華氏を使っていたことに意外でした。
一番気温の高いのが安政3年7/8日中79度(26.1)、低いのが12/15朝1度(-17.2)です。 玉蟲さんはよほど興味があったのでしょう、克明に転写されています。私も興味がありました。(2022.5.22)

▲カラフト・アイヌの中に帰俗の人が居たということは江戸幕府と何がしかの繋がりがあった、ということ。 (2022.5.19)
樺太シラヌシ(拡大) 明治樺太地図で検索
シラヌシ(白主)、6.26弁天社へ詣でける。嘉永6年(1853)堀鎮台の廻島命を受けた次第を認めた額。
▲7月22日ソウヤに戻る。
エサシ〜チカフトムシ、42軒、169人。
モンベツ〜トコロ、155軒、692人。
ノトロ〜アハシリ〜トウブツ、94軒、376人。
シャリ〜シレトコ〜シャリ〜アヲシマイ、82軒、327人。
子モロ〜ウヱンベ、133軒、615人。
アツケシ〜ウヱンベ、48軒、8村、201人。
8/19台場並びに国泰寺(御朱印百俵45両)。「文化元年(1804)4月〜5月天台・浄土・禅3宗の寺院蝦夷地に建立」(新版日本史年表)。 「仮陣屋佐藤保太夫を尋ねし、数年来の面会兼ねて厳制を敗り、一杯酒を傾けたり」「夜五ツ時ニモナリ」「是より禁杯」。
クスリ、247軒、1,324人。
トカチ、31村、261軒、1,251人。 「地味も宜しく開墾等には極上の地と思わる」
ホロイツミ、27軒、106人。
シャマニ、9月朔日、28軒、183人。「サテ此辺ニ至りテハ大イニ風土変ジ気候宜シク開墾等ニハ極上トモ云ウベシ」
「等ジュ院。御朱印百俵12人扶持御手当48両。気候とてもアツケシ等に比すれば雲泥の異なり。畠抔(など)は自由に開けべし。」
ウラカワ、91軒、467人。
ミツイシ、49軒、226人。「漁業モ可ナリノ由ナリ」
シツナイ、127軒、675人。「地味宜シク開墾ニハ極妙ト云フベキナリ」
ニイカツフ、110軒、410人。「土人家モ数多アリテ西北海岸トハ雲泥ノ違ヒナリ」「地味宜シク…在住ヲ願フ者アラバ此辺第一ト云フベシ」
サル、250軒、1,165人。「其傍ラニ義経ノ像アリ。
コトニ山(三角山) 千歳川 (拡大)
「コトニ、ホンコトニ、シンノシケコトニ、シャクシコトニ、何レモコトニ山ヨリ落ル河ナリ。此辺鹿熊多シ」「ウシウスベツ 鱒多シ」「千歳  鮭サルカニ多シ」「千歳川ハ文化年中ヨリ名付…此川鶴多キユヘ」
ユウフツ、35村、229軒、1,146人。(ユポさんの春日の江戸期の地名 キリカツ村、4軒、19人、下キナウス村、4軒、24人)
シラヲイ、85軒、413人。
ホロベツ、52軒、266人。
モロラン、46軒、264人。
ウス、95軒、481人。
アフタ、138軒、593人。
ヤムクシナイ、84軒、365人。
落部、49軒、179人。
9月27日。「是ニテ終リト致シケル。」

吉川仁論文「アイヌ民族の土地権に関する序論的考察」 https://core.ac.uk/download/pdf/267847804.pdf
吉川仁論文要点(拡大)

「先住民族としてのアイヌ民族の土地に対する権利・利益を主張する可能性を求めることが重要」
▲ まさしく今回の裁判で取り上げようとしていること。(2022.9.10)

ウィキペディア:高島郡
郡発足以降の沿革
北海道一・二級町村制施行時の高島郡の町村(2.高島村 紫:小樽市)
明治2年
分領管轄(拡大) 分領管轄の実際『瀬棚町史』より

8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、後志国および高島郡が設置される。開拓使が管轄。
9月14日(1869年10月18日) - 兵部省の管轄となる(北海道の分領支配)。
明治3年1月5日(1870年2月5日) - 再び開拓使の管轄となる。
▼開拓使と兵部省の勢力争い?加藤好男著「石狩アイヌ資料集」108pを読んでいて。(2021.5.5)

萱野茂
「アイヌはアイヌモシリ、すなわち日本人が勝手に名づけた北海道を日本国へ売った覚えも、貸した覚えもございません。」
▲かつて北海道、千島、南樺太はアイヌモシリであった。 北海道の179市町村と千島、南樺太のロシア当局にこの事実を正式に確認すること。アイヌモシリ回復の準備作業として。 平山先生、榎森先生の協力を得て。(2023.1.1)
市川守弘『アイヌの法的地位』91p
「もし明治政府が蝦夷地の土地を欲するならば、明治政府はアイヌの各コタンと条約を結んで土地を買い取る必要がある。一官庁(太政官外局)にすぎない 開拓使がアイヌの権利・権限に関わる事柄を決定し、執行していたということは、その合法性において大いに問題のあるところである。」
▼この指摘もすばらしい。市川弁護士はここを裁判で確認されたか?(2021.9.6)
追加:147p
「明治政府が条約を締結することもなしに、各コタンが有していた主権や先住権を各コタンの意思にかかわらずに奪うことはやはり合法的とはいえず、 明確に違法行為、つまり日本国家、ときの明治政府による侵略行為であった。したがって、各アイヌコタンは、依然としてその主権や〈先住権〉を回復 する正当な権利を持っているのである。」
▲すばらしい内容だが文章のトーンに弱さを感じる。私が8.28に考えた国連の「先住民族権利宣言」からでなく、 この歴史的事実と1830年代のマーシャル判決以来の国際慣習法を根拠に、アイヌモシリ回復を主張できないか。(2021.9.7)
追加:150p
「私は、アイヌに対し、まずは土地の返還を考えるべきだと思う。」
▲私がこの本を前回読んだのは、2021.2.21。そのときのコメントに、なぜこれをやらないのか?と書いている。今回も同じ 感想を持った。(2021.9.8)
常本照樹「アイヌ民族と「日本型」先住民族政策」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/16/9/16_9_9_79/_pdf/-char/ja
▲上記論文は恰好の批判の対象。市川本と同時に読み進めること。(2021.9.8)

北海道は皇国の北門 ▲この布達の表題は「北海道開拓大義」。「撫育の道を尽くし、教化を広め、風俗を敦すべき事。土人と協和…心を尽くすべき事」 と謳っている。いつから間違え始めたのか。(2022.6.26)(拡大)


「なぜ、アイヌモシリとアイヌ民族は日本に属するのか」津軽藩、南部藩、伊達藩が、青森県、岩手県、宮城県と改称されたのとは質が異なる。
近代天皇制国家によるアイヌ民族への「植民地支配」の開始  
9月 「開拓使」函館出張所、第2代長官・東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)赴任
「場所請負人」(場所請負制度)廃止(松浦武四郎の強い建議)。
翌年「魚場持(ぎょばもち)」と改称(M3年10月)
アイヌ民族を奴隷のように酷使して濡れ手にアワのように大儲けした商人たちは連名で嘆願状を出し 従前どおり搾取を続けた(奸商は開拓使長官と取引、松浦武四郎開拓使判官辞任)
▲武四郎は新政府に期待を掛けた(それは鍋島の詩を地図に書き込んでいることから窺える) が失望したのだろう。(2022.1.6)
10月 根室・宗谷に出張所設置 
▼3月  天皇、東京に転居
▼17歳の天皇が55歳の病身の鍋島直正への勅宣は直正(2年後に亡くなる)への懇請とも聴こえる。
▼8・15「蝦夷地」を「北海道」と改称したときの「北海道」の人口はアイヌ民族を含んで6万人だったようです。 当時日本全体の人口は3,110万人(壬申戸籍による)です。
▼ wp:「開拓使」という名称は、律令制の下で使用された令外官の職名であり、太政官などとともに明治になって再度使われた。 令外官の多くは、〇〇使という名称が充てられた。
開拓使は、北方開拓のために明治2年(1869年)7月8日から明治15年(1882年)2月8日まで置かれた。 明治政府は中央・地方官制に頼らず、国家権力の独自の政策、つまり、「蝦夷地之儀ハ皇国ノ北門」という認識であり、 ロシアに対する危機感とともに開拓自身が近代国家の任務と考えられ、開拓のための臨時の地方行政機関であった。 省と同格の中央官庁の1つで、北方開拓を重視する政府の姿勢の表れだが、 初めの数年は力不足で、内実が伴いはじめるのは明治4年(1871年)からであった。

▼ wp:「開拓使の2代長官・東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)は、農工民約200人をともない、 イギリスの雇船テールス号で品川を出帆。9月25日に箱館に着任した」とあります。 開拓の、侵略の、意気込みが分かります。
 1870年(M3)
* 黒田清隆、5月開拓使次官に就任(参議〈国務大臣〉・陸軍中将、屯田兵統理を兼務) 北海道は黒田王国と呼ばれる
*開拓使の施政方針「開拓見込大略」
開拓見込大略 (拡大) (拡大) (拡大)
開拓見込大略・北海道大学北方資料データベース
1 海漕を利し、以って人民に便し、且諸物品の有無を通すべき事。
2 人民を移し、開拓の基を立べき事。
3 移住人え恒産を制し与え、専ら開墾を勉め、農業を勤むべき事。
4 漁場を増開て、海に遺利無之様致すべき事。
5 地宣(よろしき)を相(み)て、生産を阜(さかん)にすべき事。
6 金銀鉱を開て、貨源を広むべき事。右当務也。
7 内地同様、府県の制を定べき事。
8 海陸軍を置て、防備を厚くすべき事。
9 大小学校を興して、大に皇化布施すべき事。
  右後来見込也。当見込大綱、如此御座候事。
    明治3年5月  開拓使
▼ユポさんは「開拓見込大略」を
アイヌ民族の生存権の無視・否定
アイヌ民族の自決権の無視・否定
「アイヌモシリ」の無視・否定
と断じられる。
▼わたしは、少なくとも1870年以前の、場合によってはシャクシャイン以前の アイヌ社会を取り戻すための訴訟を準備しています。(2020.7.3)
対ロシアへの国防・軍事的観点から見る重要な地
明治政府による「北海道開拓」の最大の目的
和人・シャモによる開拓
*「オムシャ」廃止
*「移民規則」制定 12月
・農家伍組の制を立て、村長および惣取締を置き手当てを支給
*夕張アイヌ民族、強制移住
▼明治政府はもっぱら対ロシアへの国防・軍事的観点から蝦夷地開拓を考えている。
現在の沖縄の米軍基地問題と似ている。
明治政府はアイヌ民族を犠牲にして対ロシア軍事政策、アイヌ民族は眼中にない。
現在は沖縄を犠牲にして対中国・ロシア軍事政策、沖縄人は眼中にない。
いずれも東京の「日本」を守るため。

明治3年のこの「蝦夷地開拓の大方針」がアイヌ民族のその後の運命を決定づけた。
▼オムシャとは、資料を読むとアイヌ民族に服従を強いる儀式。
1871年 (M4)
開拓使布令録
 コマ番号104

開拓使布達31号10.8
(拡大)
「廃藩置県」、館藩(松前藩)は、「館県」に、箱舘は「箱舘県」に
「開拓使」・「北海道開拓10年計画」樹立、黒田清隆 献言
*「投資植民地」から「居住植民地」へ *  
アイヌ民族を、法律によって、生活、生業の全てを拘束した
4月「戸籍法」公布  アイヌ民族を日本国民に「強制編入」 「帰化土人」「古民」「土人」「旧土人」
10・8(開拓使布達)
開拓使への請書1(拡大)
開拓使への請書2(拡大)
*アイヌ民族の風俗習慣の禁止
▲この布達の原文を確認すること。謝罪の第一。(2022.6.20) 国会図書館のデジタルコレクションで確認。(2022.6.23)
・@死亡者の居家焼却、転住の禁止
(これがどういう辛いことだったのか、参照 「旭川アイヌの近・現代史
  川村兼一)

・A女子の入墨の禁止
・B男子の耳輪の禁止
・C日本語の「強制」・アイヌ語の「禁止」
・アイヌ民族の開墾者に日本式家屋、農具を与える
アイヌ民族への新たな支配と差別の始まり
アイヌ民族の日本人化・皇国の臣民化(強制同化政策)
明治の礎「北海道開拓」第ニ章
朝日夕刊2021.9.8 (拡大)「言葉を奪うということはもっとも慙愧すべき罪」
(詩人・茨木のり子)

「黒田清隆が10年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画を建議し、いわゆる「開拓使10年計画」が決定される。」
wikipedia:黒田清隆
明治3年(1870年)5月に樺太開拓使次官。開拓使本庁を札幌に移し、北海道の開拓に本腰を入れなければならないと論じた建議書を提出。
明治4年(1871年)1月から5月まで、アメリカ合衆国とヨーロッパ諸国を旅行した。 旅行中、米国の農務長官ホーレス・ケプロンが黒田に会って顧問に赴くことを承諾し、他多数のお雇い外国人の招請の道を開いた。
帰国後、10月15日に開拓長官東久世通禧が辞任した後は、次官のまま開拓使の頂点に立った[5]。
▲やはり洋行している。岩倉使節団より早い。(2023.11.27)
明治4年の国家予算歳出合計は5,773万円。(池田さなえ「皇室財産の政治史」14頁 人文書院)
統計表一覧:財務省
第1期30,505,085
第2期20,785,839(明治元年)
第3期20,107,672(明治2年)
第4期19,235,158(明治3年)
第5期57,730,024(明治4年)
第6期62,678,600(明治5年)
第7期82,269,528(明治6年)
▲20,000,000円の膨らみ。岩倉使節団だろう。(2023.11.27)
第8期66,134,772(明治7年)
明治8年度69,203,242
明治9年度59,308,956
明治10年度48,428,324
▼ wp:明治末以降には、北海道・樺太などの開拓に伴いアイヌ民族を公式に「旧土人」と称した。
1899年(明治32年)(北海道旧土人保護法)新札幌市史によると元々の住民アイヌ民族を旧土人、開拓者を新土人と概念上区分し、 旧土人が官庁用語として残ったとある 。
新札幌市史編集長海保洋子. “近代のアイヌ民族史”. 公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構. 2016年11月15日閲覧。
「「古民」、「土人」は土地の人という意味で、本州で古くから使われているのですが、それを「旧土人」に呼称を統一します。 なぜ「旧土人」かということを申しますと、近世の呼称の「土人」を「旧土人」にしたわけです。では、 「新土人」は誰かといったら、開拓者たちが相当するのですが、もちろん「新土人」という言葉の使われ方はありません。」                                   

岩倉使節団
三条実美 (拡大)
岩倉使節団とは、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)明治6年(1873年)9月13日まで、日本 からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に派遣された使節団。
岩倉具視を全権府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。
▲岩倉使節団。すごかった。(2023.11.26)
当初の目的であった不平等条約改正の交渉は果たせなかったものの、 日本近代化の原点となる旅として、明治政府の国家建設に大きな影響を与えたことから、 日本の歴史上でも遣唐使に比すべき意味をもつ使節とも言われる[1]。
wikipedia:遣唐使
▲遣唐使は20回、200年以上つづいた。比較の対象にならない。(2023.11.27)
出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に、太平洋郵船の「ゴールデンエイジ」号で横浜港に帰着した。 留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が争われ、使節帰国後に明治六年政変となった。
wikipedia:征韓論
西郷の使節派遣は西郷自身も失敗を予想した上で開戦を期した主張であり、交渉不成功の場合は政府は面子上開戦を覚悟しなければな らないものだった[25]ため、
征韓論 (拡大)
遣欧使節団の岩倉・木戸・大久保は内治優先論の立場からこれに反対し、 三条や参議大木らもその意見に同調するようになった[26]。
10月14日、朝鮮問題に関する閣議が開催され、西郷は遣使即行を主張し、大久保や岩倉と対立した。 この日は決定には至らず、10月15日に再度閣議が開催され、参議各々に意見を陳述させ、参議を引き取らせた上で 三条・岩倉の間で協議が行われた。
西郷の圧力とそれに伴う軍の暴発を恐れた三条は、太政大臣としての自らの権限 で西郷の即時派遣を決定した[27]。しかしこれに反発した岩倉・大久保らが辞表を提出し[28]、 収拾に窮した三条は病に倒れた[29]。
10月19日、岩倉が太政大臣代理となり[30]、10月23日に三条の裁断による即時派遣か、 岩倉自身の考えである遣使延期かという2つの意見を上奏した[31]。
これを受けて10月24日に明治天皇は遣使を延期する という裁断を行った[32]。政変に破れた西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野することとなった[33]。
明治六年政変
明治六年政変(めいじろくねんせいへん)[注釈 1]は、明治6年(1873年)に発生した政変。 西郷隆盛をはじめとする参議の半数が辞職したのみならず、軍人、官僚約600人が職を辞することとなった。直接の原因が征韓論にあったため、 征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも称される。

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1872年(M5)
3月、「開拓使仮学校」東京芝増上寺に開校。同校と青山開拓使官園にアイヌ子弟35人を「強制連行・強制入学」
(拡大)
三官園 (拡大)
増上寺〜三官園4.5q (拡大)
第一官園は青山学院あたり。
第二官園は青山通りを挟んで国連大学がある。
第三官園は日赤病院あたり。
 「開拓使仮学校跡」
東京・港区の芝公園。その一角に「開拓使仮学校跡」と書かれた小さな石碑があります。
(拡大可)

(拡大可) 中央の民族衣装姿が琴似又市さん
石碑には「1872年、北海道開拓の人材を養成するための学校がここに建てられた」とは書いてありますが、 同じ場所に付属施設「北海道土人教育所」もあったことはわかりません。 明治政府はアイヌの男女38人を強制的にこの「教育所」へ連れてきて、日本語や和食、洋装の強制――つまり「同化教育」を行なったうえで、農業技術などを教えようとしたのです。 しかし、慣れない生活への拒否反応から、衰弱死や脱走が相次ぎ、2年で廃止されました。 2003年以降、毎年8月に、首都圏のアイヌがこの場所に集まり「イチャルパ」(先祖供養)を行なっています。東京に連れてこられて亡くなったり、北海道を離れて関東に移り住まざるを得なかったアイヌの同胞たちを追悼しているのです。 現在、首都圏には個人の活動のほか、「ペウレ・ウタリの会」「関東ウタリ会」 「レラの会」「東京アイヌ協会」「チャシ アン カラの会」など複数のアイヌ団体があります。
▼東京在住アイヌの人を探していたらこの頁に出会いました。 「ペウレ・ウタリの会」「関東ウタリ会」「レラの会」「東京アイヌ協会」「チャシ アン カラの会」に接点を持ってみます。(2021.1.31)

1872年の千歳郡のアイヌ(拡大) 山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』164p
▼胆振国千歳郡がかなり身近にイメージできます。畑は1戸当たり1.7反。裏庭の野菜作りの感覚。(2021.10.6)

5月、日本語教育、和風化教育
* 黒田清隆開拓次官、正院に届書提出〔正院(せいいん):天皇を補佐して国政を統轄する為に設置された太政官の最高官庁で現在の内閣にあたる〕

「元来、北海土人の儀、容貌言語全く内国人とは異種の体をなし、従て風俗も陋習を免れず、即今開拓盛挙の折柄、従前の風習を脱し、 内地と共に開化の域に進み、彼我の殊別なからしめ度」
▲黒田清隆のアイヌ民族への差別・憎悪の塊のような「届書」。容貌・言語異種、風俗陋習。 「陋」は最大の差別、侮辱用語。(白川静『字通』参照)(2022.6.27)
アイヌ民族の風俗習慣は陋習(悪い習慣、いやしい習慣)醜風(みにくい、恥ずべき風習) で北海道開拓の邪魔になるから、内地人と同じように開化しなければならない

9月、「開拓使」本府を札幌に置く

「開拓使」本府

石狩アイヌ大資料集
加藤好男(拡大)
「土地の収奪」
土地売貸規則第1条「原野山林等一切の土地官属及び従前拝借の分、目下私有たらしむる地を除くの外、 全て売下、地券を渡し、永く私有地に申しつくる事。」
地所規則7条「山林川澤、従来土人等漁猟伐木仕來し地と雖、更に区分相立、 持主或は村請に改め是又地券を渡、爾後15年間除租地代は上条に準ずべし。 尤深山幽谷人跡隔絶の地は、姑く此限に非ざる事。」
地所規則8条〜13条「土地売貸規則第1条〜6条に同じ。」
地券発行条例第 15 条「山林川澤原野等は当分総て官有地とし其差支なき場所は人民の望に因り 貸渡し或は売渡すことあるべし。」
地券発行条例第 16 条 「旧土人住居の地所は其種類を問わず当分総て官有地第三種に編入すべし。但し、地方の景況と旧土人の情態に因り成規の処分を為すことあるべし。」

▲やっと土地問題が自分なりに納得できた。土地売貸規則、地所規則、地券発行条例を丁寧に跡付けたことによって。
●土地売貸規則1条「原野山林等一切の土地官属」
●地所規則7条「山林川澤、従来土人等漁猟伐木仕來し地と雖、持主或は村請に改め是又地券を渡」
●地券発行条例第 16 条「旧土人住居の地所は其種類を問わず当分総て官有地第三種に編入」
原野山林官属、山林川澤持主或は村請に改め是又地券を渡、旧土人住居の地所官有地第三種。
北海道の原野、山林、川澤、居住地の地所まで官有地、ということ。
アイヌモシリとして回復しなければならないものはこれらすべて。川も澤も。(2023.4.13)

▲改めて規則、条例を読み直すと詰まるところアイヌモシリの全否定。アイヌの土地を含む山、川、澤への関係性をバッサリ、近代所有権で切り落としたのが 規則、条例の意味するところ。アイヌモシリの回復とはこの規則、条例の全否定。(2023.4.14)
「地券発行条例」
土地売貸規則第1条 (拡大)
土地売貸規則全9条 (拡大)
地所規則その2
(拡大)
地所規則その1
(拡大)











*「開拓使以後のアイヌ民族無視の土地政策」 9.20「北海道土地売貸規則」(全9条)・「地所規則」 16条〜18条参照(全19条) (16条〜18条は売貸規則7条〜9条に同じ。)
北海道は「無主の地」としてすべてを国有地に編入
「深山・幽谷・人跡隔絶の地」を除き、全ての土地を私有地として、開拓者に下付するための政策。
「私有地」としての下付対象者は、「永住寄留人」移住した和人。アイヌ民族は対象外。
「山林川沢、従来土人等漁猟伐木仕来し土地と雖、更に区分相立、持主或は村請に改て、是又地券を渡」・・イオルも和人に譲渡。
和人開拓者に、1人10万坪(33ha)、10年(15年)間 除租。
小西和(こにし かのう)
山川力『いま、アイヌ新法を考える』23p(拡大)
 小西和(こにし かのう)
山川力『いま、アイヌ新法を考える』37p(拡大)
旧土人法は憲法27条違反の可能性の指摘。凄い(2023.3.4)
▲明治5年の「北海道土地売貸規則」(全9条)・「地所規則」(全19条) (「売貸規則」、「地所規」とも太政官布告)が北海道は「無主の地」としてすべてを国有地に編入 、これが大きな間違い。この国有地が御料地になり、また民間に払い下げられていく。 (参照:「無主の地」の払下げ状況 鈴江論文

 小西和(こにし かのう) 1916年6月25日第41回帝国議会の記録。山川力『いま、アイヌ新法を考える』24p(拡大)
俵孫一北海道長官の答弁「彼等ガ北海道一般ヲ彼等の天地トシテ居住シテ居ッタ」。 決定的。アイヌモシリ回復の根拠。(2023.3.4)
国有地は「閣議で了承さえ得れば、官有地第三種の主として「山林・原野・田畑屋敷」等から、官有地第一種の「皇宮地」へ地所名称区分の変更 手続きで事足りる」(『新旭川市史』2巻29p)。つまりマネーロンダリングまがいの土地ロンダリングの温床・装置。(2022.4.1)
▲「売貸規則」第1条の研究。瀧澤論文「明治初期開拓使の土地改革とアイヌの土地―おもに北海道地所規則第7条をめぐって―」 2011.12.20発行.北大史学51号。瀧澤先生から電話で教わる。(2022.6.20頃)
▲萱野さんの「売った覚えも、貸した覚えもない」 これで裁判で国が反証できないのか、を瀧澤先生に確認すること。(2022.6.25) 今回の創設「呼びかけ」を瀧澤先生に送り確認の作業をすること。(2022.11.3)

▲小西和さんと政府委員との質疑で 「アイヌモシリがアイヌ民族の天地であった」ことを北海道長官俵孫一がみずから語っている。 これでアイヌモシリの問題は決着。(2022.12.17)
市川『アイヌの法的地位』99p
「アイヌの人たちが今まで漁猟してきた土地であっても土地を分割して地券を発行して和人へ払下げ ていく、ということにしたのである。したがって、これらの規則によって、それまでコタンが有していた独占的・排他的支配地であった漁猟・狩猟 の土地が奪われたことになる。」

▲こういう事実をまず日本政府に認めさせ、ひろく日本社会に周知したい。 政策はその次。長期戦(2021.9.6)
▲沿岸漁業・鮭鱒漁の回復の勉強を今日から始めますが土地と結びついた漁業権であることに一定の困難が伴いそうだ。(2022.5.2)
▼下記法令の全文を『北海道農地改革史』上巻ですべて確認すること。(2022.1.3)
明治5年「北海道土地売貸規則」(全9条)・「地所規則」(全19条)
明治6年「地租改正条例」
明治8年「山林荒蕪地払下規則」
明治10年「北海道地券発行条例」(全58条)
明治19年「北海道土地払下規則」(全13条)
明治30年「北海道国有未開地処分法」

「地租改正条例」で、山林を国有地に、北海道で明治政府は、発展の見込める原野や森林は皇室財産に組み入れ、 残る地質の良い未開地は、公家や貴族たちに払い下げ、天皇の「御料地」「皇室財産」とした。
▼ユポさんの上記記述は「地所規則」の下記条文に依っています。
第七条「山林川沢従来土人等漁猟伐木仕来シ地ト雖モ更ニ区分相立持主或ハ村請ニ改メ亦地券ヲ渡シ…尤深山幽谷人跡隔絶ノ地ハ姑ク此限ニアラサル事」
第八条「原野山林等一切ノ土地官属…都テ売下ケ地券ヲ渡シ永ク私有地ニ申付ル事」
第九条「売下之地一人十万坪ヲ以テ限リトシテ」
「地所規則」はユポさんご指摘のようにアイヌ民族から土地を収奪したもの。これへの補償が150年後の今、問われています。 私は特に第七条の「従来土人等漁猟伐木仕来シ地ト雖モ」という明治政府の姿勢が許せません。
「1872(明治5)年以降1885(明治18)年までに「北海道土地売貸規則」によって和人に売り下げられた土地は、 2万9239町歩、無償貸し付け地は7768町歩の計3万7007町歩にのぼる。これらの事実は、 和人によるアイヌ・モシリの奪取、しかも法による奪取が確実に進行し出したことを示すものであった。」 (下線は引用者)(榎森進『アイヌ民族の歴史』(395〜396頁))
▼ 3万7007町歩=366平方キロメートル 琵琶湖=670平方kmすなわち琵琶湖の54%が和人の手に渡った。
当時アイヌ人口は16,270人だったようです。
「地所規則」がアイヌの人たちにも適用されていたとすれば 16,270×33ha=536,910 ha=5,369平方kmすなわち琵琶湖の8個に当たる広さの土地がアイヌ民族に割り当てられることになります。
▲仮に個人でなく1戸あたり33haとしても16,270人の5分の1、3,254戸として107,382haとなります。最低でもこの程度の耕地を割り振るべきだったでしょう。 (2022.1.2)

▲北海道地券条例明治10年。私的所有権の登記開始。少なくとも明治19年には手続きが完了していると考えられる。その時点の人口は30万人。 3万ha(琵琶湖6.7万ha)が民有地。現在の民有地は273万ha。270万ha増加。アイヌ民族から取り上げた土地を民間に払い下げた結果ということ。 この民有地から現在、北海道の179の市町村は固定資産税を徴収している。その額年間710億円。しかし本来の地主はアイヌ民族。 アイヌ民族は民有地に「地代」を請求・徴収する権利がある。判例(固定資産税の2.4倍)を基に算出するとその額1000億円(710×1.4)。(2023.12.27)

北海道の開拓と移民
明治2(1869)年に約6万人に過ぎなかった北海道の人口は、開拓使、三県時代を経て、 北海道庁が設置された明治19(1886)年には約30万人になりました。(中略)また、明治19(1886)年に3万町歩(29,730f)にも満たなかった 耕地面積(以下略)。


国民教育 に お け る軍事教育の 形成過程
安 藤 忠
明 治 以後 の 近 代 日本 は天皇 制 中央 集権 体 制 の も とで 富国強兵 を目指 した 。 こ の た め 明 治 5 年 の 学 制 以 降 の 初等教育に お け る 国民 皆 学主 義は 国民 皆 兵 の 前 提 と して の 側 面 を も っ て い た 。 さ ら に 、中 等教 育 以 上 に お い て は 、 指 導者 あ る い は 専門 家養 成 の 面 で 富 強主 義 の 主 導 的役割 を期 待 され た。 こ の こ とか ら、明 治 5 年 の 学制 以 降 の 教 育 制 度 と明 治 6 年の 徴 兵令以 降の 兵役 制度 とは 不 可 分 の 関係 をも ち、そ の 接合点 と して 学校 内の 軍 事教 育 を形 成 して い くこ と と なる 。

▲江戸時代の厳しい「御触れ」の縛りから解かれる間もなく、縛りを解く間もなく、 庶民は「学校と軍隊」で支配者の、お上の、従順な「国民」に仕立てられて、1945年の敗戦でやっと自由になるが、 しかし、江戸時代の身体に染みついた、お上に従順な意識は、無意識も含め今も容易に解放されていない。(2022.9.23)

1873年(M6)
ウライの仕掛(拡大) 知里「小辞典」138p

札幌郡にて、鮭のウライ漁を「禁止」
▲まず鮭のウライ漁「禁止」から漁業権の剥奪が始まっています。(2022.5.2)
「徴兵令」(1月)
「福山騒動」(5月)
「江差騒動」(6月)
「地租改正条例」(7月) 「屯田兵設立建白書」(12月25日)
アイヌ人口16.270人(全道111.196人)樺太348戸2.372人
「福山騒動」について
開拓使が漁権税を引き上げたことに抗して福山、江差周辺の漁村民が強訴し騒擾を起こした事件で、 開拓使は第二鎮台から二個小隊(青森)の派遣を受け鎮圧。北海道に軍事面と開拓両面から屯田兵制度の実施が必要であると確信していた 黒田清隆はこの機をとらえて制度実施の建白を行うこととなる。
▲漁権税から開拓使が手を着けている。手っ取り早くまず漁業から。(2022.5.2)
▼ wp:地租改正は、1873年(明治6年)に明治政府が行った租税制度改革。 この改革により、日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立したことから、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。 上諭(じょうゆ)と地代の3%を地租とする旨を記載した1ヶ条の地租改正法と具体的な規定を定めた 地租改正条例などから成る太政官布告第272号が制定され、明治政府は翌年1874年(明治7年)から地租改正に着手した。
▼ 上諭(じょうゆ)とは、日本国憲法の施行前の日本において、 天皇が法律、勅令または皇室令を裁可し公布する際に、その頭書に天皇の言葉として当該法令を裁可し公布する旨を記した文章のことである
▼ wp:壬申戸籍の項目を見ると、アイヌ人口16.270人(全道111.196人)樺太348戸2.372人がほぼ理解できる。
先の「地所規則」がアイヌの人たちにも適用されていたとすればを訂正します。正しくは樺太348戸2,372人を加えると (16,270+2,372)×33ha=615,186 ha=6,152平方kmすなわち琵琶湖の9個に当たる広さの土地がアイヌ民族に割り当てられることになります。(2020.4.28)
屯田兵設立の経緯
このHPによると明治6年11月18日「屯田兵設立建白書」が開拓使次官 黒田清隆から右大臣 岩倉具視に出され、 太政官は大蔵・陸軍・海軍の関係三省に諮問の結果、いずれの省も屯田兵の設置には基本的に賛成し、12月25日には太政大臣 三条実美から開拓使宛に原則的に黒田の建議を承認する達書を送り、ここに屯田兵制度の設置が決定を見ることになった、となっている。
1874年(M7)
北海道開拓の村
旧納内屯田兵屋
(拡大)
屯田兵村の全体(拡大)
札幌から旭川にかけて多くの屯田兵村がつくられた。(2022.4.19)
*「屯田兵制度」設ける(6月)(古代大和天皇国家武装植民「柵戸経営」)
▼札幌市のHPより
明治7(1874)年に札幌に初めて屯田兵が、 琴似屯田兵村 に入植しました。


屯田兵の目的 山川力「明治期アイヌ民族政策論」45p▲まず琴似村から始まっている。注意。(2023.3.21)(拡大)

山川力「明治期アイヌ民族政策論」
(拡大)
「屯田兵例則」
「台湾出兵」
*鹿の乱獲*
・開拓使「美々鹿肉燻製製造所・脂肪製造所」建設(M17廃止)
(M12・人造硝石床製造所(鹿の臓腑、血液)併設)
・缶詰・鹿皮・角
・10年間に40万頭捕獲、絶滅寸前、アイヌ民族に食糧危機
▼ wp:屯田兵の根拠となる太政官達
屯田兵(拡大) 平山『地図でみる』150p
@〜D屯田兵の移民地
開拓次官の黒田清隆が1873年11月に太政官に屯田制を建議した。樺太と北海道の兵備の必要と、そのための費用を憂え、 「今略屯田の制に倣い、民を移して之に充て、且耕し且守るときは、開拓の業封疆の守り両ながら其便を得ん」
琴似屯田兵村 (拡大)
というものであった。 黒田が考えたのも士族の活用であったが、彼の場合旧松前藩と東北諸藩の貧窮士族を想定していた。 太政官は黒田の提案に賛成し、1874年(明治7年)に屯田兵例則を定めた。 1875年(明治8年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地で、屯田が開始された。
▼ ユポさんの年表になぜ「台湾出兵」なのか不思議でした。榎森進さんの『アイヌ民族史』(379〜381頁)を読んで納得しました。
琉球問題から解き起こされています。
「琉球は、近代初頭に至るまで中国(明朝、清朝)と日本の「両属国家」になっていた。 幕藩制国家が崩壊し、近代天皇制国家の形成を目指す新政府が成立するや、新政府は、琉球を清朝の冊封体制から切り離し、 名実共に日本の支配下に再編しようとする動きをし始めた。
それを実行するうえで恰好の材料となったのが1871(明治4)年11月6日、琉球の宮古島の船員が台湾南部に漂着し、 現地先住民「生蕃(せいばん)」に殺害される事件であった。
まず地ならしとして1872(明治5)年9月14日、一方的に琉球を「琉球藩」、 国王を「藩王」と称するよう勅令を以って示達し、この事件を清国領の領民が日本国民である琉球の人々を殺害した重大な事件である、 との枠組みを用意する。
そして1874(明治7)年5月、台湾蕃地事務都督西郷従道が率いる 3600名の日本兵が台湾南部の先住民の居住地を掃討するにいたった。これが「台湾出兵」である。
その後9月、この問題での清国との交渉過程で琉球人が、清国の冊封体制から離れて「日本国属民」であることを認めさせることに成功する。
明治政府はこれを大きな土台にして1879(明治12)年4月4日、琉球藩を廃止して沖縄県を設置し、 琉球を名実共に日本の一部に編入するに至ったのである。この一連の過程が「琉球処分」と呼ばれるものである。
この台湾出兵問題は、対外関係での「脱亜」にとどまらず近代日本における内なる「脱亜」をも強力に迫ることとなった。 それが「蝦夷地」の内国化とアイヌ民族の日本国民化であった。」
(拡大) 美々鹿肉罐詰所
このような背景が「台湾出兵」を「アイヌ民族の歴史」でユポさんが取り上げられる理由であることに合点いきました。 琉球とアイヌはこうして繋がっています。ユポさんの感覚に脱帽です。
美々鹿肉燻製製造所跡     苫小牧市史
開拓時代の美々(現・新千歳空港周辺)はエゾジカの天国だった。 美々には鹿肉罐詰所と脂肪製造所が設けられましたが、当時 千歳一帯は石狩地方に比べて冬場の積雪が少ないので鹿が食を求めて大挙群集していたのだとか。 鹿の乱獲と大雪による食糧難からの餓死、鉄道の開道による開拓などで、鹿の数が激減し、さらには官 営工場だったこともあって経営は振るわず、明治17年に工場は廃止されています。
                               トップへ戻る
1875年(M8) 「樺太・千島交換条約」締結(5月7日)
・ 樺太はロシア領、千島を日本領とする
         2020.2.17朝日新聞朝刊(拡大) 「「豪州の日」と呼ばれる記念日がある。1788年1月26日に英国の船団が上陸したことを祝う。 しかしそれは先住民からすれば「侵略の日」に他ならない。他者の目で歴史を見る。そのことに私たちは慣れていない。」
私のHPはまさしく「他者の目で歴史を見る」作業です。(2020.5.25)
あいぬ物語@ (拡大)
「明治8年私達の生まれた故郷樺太島は露西亜の領土になって了った。私の長い流転の生涯が此から始まるのであった」山辺安之助「あいぬ物語」 (11p)
函館丸 (拡大)
「九春古丹から函館丸に載せられ北海道宗谷へ送られた。」(13p)
「明治6年10月開拓使本庁が落成しました。」 近代技術の粋を結集。函館丸。開拓使本庁。(2023.9.29)









9月9日〜10月1日 樺太から92戸841名のアイヌ民族を宗谷に「強制移住」( ▲榎森進『アイヌ民族の歴史』407p戸数で26%、人数で35%)
10月7日 石狩原野へ再移住を指示(アイヌ民族、移住反対上申書を開拓使に提出)翌年、 官憲を動員して6月13日から小樽経由で石狩国 対雁(ついしかり)に「強制移住」
樺太アイヌ
「山林荒蕪地払下規則」
海面官有宣言
「太政官布告第195号(明治8年12月19日)  従来人民ニ於テ海面ヲ区画シ捕魚採藻等ノ為メ所用致居候者有之候処 右ハ固ヨリ官有ニシテ本年2月第23号布告以後ハ所用ノ権無之候条 従前ノ通所用致度者ハ前文布告但書ニ準シ借用ノ儀其管轄庁ヘ可願出此旨布告候事」
▼wp:「樺太・千島交換条約」
樺太での日本の権益を放棄する代わりに、エトロフ島以北の千島18島(第1島シュムシュ島…第18ウルップ島) をロシアが日本に譲渡する。
▼日露の都合で翻弄されるカラフト・アイヌ民族
▼(5月23日)「山林荒蕪地払下規則」全8条
「家禄奉還資本金を受け取った者で家産営業の為北海道で地所払下を願出でた場合は、 「北海道土地売貸規則」により、規則に規定された地価の半額を以て払下げ、 規則の2倍に当る20カ年租税を免除し、代金は公債証書も苦しからず。 …明治維新政府が直面した一番大きな問題の一つは士族にたいする政策であった。」(『北海道農地改革史』上巻41頁)
▼維新当時、士族(含む卒)は42万人、その家族を含めると194万人になる(明治5年の族籍別人口表より)。 今風に言えば、42万人の行政マンとその家族を維新というリストラで路頭に迷わせ、 その対策としての北海道開拓が明治政府の考えであった。アイヌ民族そっちのけで。
1876年(M9)
全てのアイヌ民族に「創氏改名」(明治9年7月19日第48号布達)
樺太アイヌ申上書(拡大)
明治9年の「樺太アイヌ申上書」が明治以降のアイヌ民族の活動のはじまり?(2021.12.28) 『アイヌ民族近代の記録』15p

「平民」籍に編入(族称・華族・士族・平民)
解放令によって被差別部落の人たちを「賎民」から「新平民」
「穢多・非人」の身分を廃し身分職業とも平民同様とすること
アイヌ民族の「皇国の臣民化」
アイヌ民族の民族性の抹殺・民族の根絶
「本願寺道路」完成(東本願寺)7月、アイヌ民族強制労働
アメリカから西部開拓を学ぶため、米国第2代農務省長官ホーレス・ケプロン開拓顧問団招聘。10年余で78人を招いた。 太政大臣より高い年棒1万ドルの給与。4年の在任中、3回の来道、北海道開拓のマスタープラン作成。
インデイアン政策をアイヌ政策に実施(ドーズ法)。
開拓使札幌本庁9.30 (拡大)

「風習の洗除」(開拓使布達・9月30日)
「北海道旧土人従来の風習を洗除し教化を興し、漸次人たるの道に入らしめんが為、 辛未(しんぴ・1871年)10月中告諭(趣旨を告げたもの)趣も之有り、既に誘導を加え候処、 未だ其風習を固守候者之有る哉に相聞、旨趣貫徹致さず不都合の次第候。 元来誘導教化は開明日新の根軸に候処、今に右様陋習之有り候ては、往々知識を開き物理(物事の道理)に 通じ事務を知らしめ均しく開明の民たらしむるの気力を振作するの妨害と相成、忽にす可らざる儀候条、就中(なかんずく) 男子の耳輪を着け出生の女子入墨致等、堅相成らぬ旨、父母たる者は勿論、夫々篤く教諭を尽くし、 自今出生の者は尚更厳密検査を遂げ、此風俗を改候予防方法相立取締致すべし。 而して自今万一違反の者之有り候ば、己(やむ)を得ず厳重の処分及ぶべき筈(はず)に付 時々詳細具状致す可きは勿論、予(かね)て能此(よくこの)懲罰あるを戒置(いましめお)くべし。」

▲アイヌ民族の文化の全否定。この開拓使布達も注意。ユポさんの怒り。(2021.10.7)
▲「風習の洗除」。民族の文化の全否定。この明治9年9月30日開拓使布達を明治4年の布達と合わせての原本を読むこと。 謝罪の第一。(2022.6.20)
「アイヌ民族の戸籍」完成
・創氏改名(アイヌ人口1万7千人)
・「鹿猟禁止」(和人の猟師による鹿の乱獲)
改正北海道鹿猟規則(拡大) 明治11年6月29日
乙第20号布達
▲遊猟を認め猟税は職猟の2倍。アイヌにも猟税を課す。猟者の人数の拡大と具体化。 札幌管内職猟500名(遊猟30名)、箱館管内100名(10名)、根室管内130名(10名)。猟税拡大の意図が見える。(2022.5.13)
北海道鹿猟規則(拡大) 明治9年11月11日
乙第11号布達
▲この規則は前文で猟濫殺防止の為と謳い、鹿猟の鑑札制の導入とアイヌの毒矢の禁止を定めている。 職猟者上限600名。出猟は11/1〜翌2/28迄。(2022.5.13)
夕張外三郡鹿猟規則
明治8年11月8日
「達」(拡大)
胆振日高鹿猟仮規則2 明治8年9月30日
「達」(拡大)
▲「規則取扱心得」でアマッポの設置に関しては場所等が危険でなければ願書でなく申立で免許鑑札を交付。 いきなりアイヌの人たちに日本語での行政に無理があったことが伺われる。(2022.5.13)
胆振日高鹿猟仮規則1 明治8年9月30日
「達」(拡大)
▲この仮規則は免許制。アマッポも免許制。猟税徴収。(2022.5.13)












獣猟毒矢禁制1 明治9年9月24日布達甲26号(拡大)
▲毒矢の風習、獣類生息妨害少なからず。(2022.5.13)
獣猟毒矢禁制2 明治9年9月24日布達甲26号(拡大)
▲和人の銃猟は生息妨害が少ない?明治の官僚は理性を失くしているの?(2022.5.13)


(拡大)
萱野茂「アイヌの民具」
154pアマッポ
山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』21p(拡大)
▲「開拓使事業報告附録布令類聚上」で直接規則類を確認しました。 明治8年の仮規則、明治9年布達甲26号の毒矢禁制、布達乙11号の北海道鹿猟規則、仕上げは明治11年布達乙20号の改正狩猟規則。 猟銃が安全でアマッポが危険であるとの立法趣旨ですが合理的理由ではありません。つまり差別法令です。 よって鮭漁の禁止と同様、アマッポ、毒矢を禁止した規則は無効と考えます。(2022.5.14)
・9月30日「胆振日高両州方面鹿猟仮規則」(従来の猟法は「洗除」されるべき「旧習」との理由……山田伸一著書37p) ・仕掛け弓・毒矢猟の「禁止」(9月)(アイヌの事実上の狩猟禁止)
・「北海道鹿猟規則」(11月)
▲山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』19p〜113pに詳しい。(2021.10.1)
「札幌農学校創立」 
「日朝修好条規」
* 開拓使、「官営工場」(官営麦酒醸造所の設置、後に大倉喜八郎 (※Wikipedia:大倉は明治元年(1868年)に有栖川宮熾仁親王御用達)に格安で払い下げ。 他数十件の払い下げ、資本投入1000万円以上、払い下げ価格、数十万円。)
▼ ユポさんがなぜ本願寺道路を特に取り上げておられるのか。調べてみました。
▼ wp:「本願寺道路は、明治初年に東本願寺が石狩国の札幌と胆振国の尾去別(おさるべつ)とを山越えで結ぶ街道として建設した道路で、 1871年(明治4年)に開通した。
本願寺街道(拡大)
建設は東本願寺による北海道開拓政策の中心事業の一つとなるもので、「本願寺街道」「有珠街道」ともよばれる。
現在の国道230号の基礎となった。
アイヌ古老は、結局労働の土台となっていたのはアイヌであると指摘している。」

要するにアイヌ人の労働であったことがわかりました。
▼ 東本願寺は現在この事実をどのように捉えているか、大変興味があります。仏教者としてアイヌ民族への「償い」を考えているのか。

▼『北海道農地改革史』上巻第6章第4節「北海道旧土人保護法による土地処分」では、 アイヌ民族に対する所有権の付与の変遷が97頁〜104頁まで詳述されています。
結論としてその過程が「北米合衆国のインディアン保留地の処分に彷彿たるものがあった。」と締めくくられています。 つまり明治9年に発想されたことがその後のアイヌへの土地政策を規定したといえます。
『北海道農地改革史』上巻は昭和29年、編集・発行の北海道の記録史。

▼ドーズ法についてwp より要約:
ドーズ法は、1887(M20)年2月8日に成立。この法案は、 「小土地所有農民としての自立・同化がインディアンにとって最善である」という信念をもった、 「インディアンの白人同化」を前提とした「人道的」な勢力と、インディアンの土地への欲望に駆られた産業界、 移住者との意向が一致して成立したものであったが、当事者であるインディアンは大部分が反対した。

もともとスー族やシャイアン族、コマンチ族といった大平原と以西の狩猟民族たちにとって、 土地は「狩猟の領域」であり、誰のものでもなかったのである。
インディアンはそもそも大地を母と考え、今でもティーピーの柱を建てる際にも大精霊に許しを乞うような民族である。 個人が土地を割り当てられて農場を強制されたからといって、自給自足が成立するなどという考えは、 そもそもが農耕民族である白人たちの机上の空論に過ぎず、ただ社会を堕落させるのみだった。 同様の問題は、豪州のアボリジニなどに見られ、未だにこれは解決されていない。


▼大地に対する考えはインディアンもアイヌ民族も共通。
そもそも土地は「狩猟の領域」であり、誰のものでもなかったのである。
土地の個人所有という観念が馴染まない。

▼「男子の耳輪を着け出生の女子入墨致等、堅相成らぬ」わざわざ念入りに。
▼「アイヌ民族の戸籍」について。
榎森進『アイヌ民族の歴史』では「このアイヌの戸籍への登録、「日本国民」への編入の問題で見落としてならないことは、 それがアイヌ民族の民族文化の否定策や和人への同化策のみならず、新たな身分差別と並行して行われたということである。」(389頁) と指摘されている。
「風習の洗除」「創氏改名」がそれである。

▼明治9年人口17,000人。記憶しておくべき人数。
▼「鹿猟禁止」について。榎森進『アイヌ民族の歴史』(396〜398頁)
「アイヌ民族の生産や生活に大きな打撃を与えたのが、開拓使が鹿猟に関する新たな規則を定めたことであった。
 ●1875(明治8)年9月30日、「胆振・日高両州方面鹿猟仮規則」により、アイヌがアマッポ(仕掛け弓) で鹿猟を行う場合は、それを設置する場所を届け出る必要があった。
山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』169p
「アイヌ民族の生業活動を否定する際に、さしたる裏付けもなく他の生業で生計が立つだろうという 見通しを開拓使がもち出すのは、1876年10月に根室支庁管内西別川での漁場割渡しに際してアイヌ民族からの出願を却下した時にも、また同年 9月の「北海道鹿猟規則」の制定と毒矢猟禁止の時にも見られ、この時期における開拓使のアイヌ政策の本質につながっていると思われる。」 (2021.10.6掲載)
 ●11月には夕張・空知・樺戸・雨竜、
 ●翌1月には十勝まで適用。
 ●9月には毒矢の使用を禁止し、
 ●11月には北海道全域を対象とした「北海道鹿猟規則」を定めた。 アイヌ民族の生産・生活で大きな役割を果たしてきたのが、河川での鮭漁を初め海での漁業や海獣狩猟と山野での狩猟、 特に鹿猟で捕獲した鹿は、肉は食料として、皮は自家用及び和人向け商品として大きな役割を果たしてきた。 河川及び海での漁業権が一方的に奪われ、しかも鹿猟も禁止され、こうした明治政府の政策のため餓死するアイヌが続出した。」

▼ wp「日朝修好条規」について より。
修好条規は12款で構成され、条文は漢文と日本語で書かれた。 両国の国名はそれぞれ「大日本国」、「大朝鮮国」と表記することとした。
第一款 朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める。
近代国際法の立場から見て、当時の朝鮮をどのように位置づけるかは種々の意見があったが、日本はこの一文を入れることで、 朝鮮を近代国際法に於ける独立国に措定しようとした。「自主の国」=独立国という解釈であった。
つまりそう措定することで清朝が朝鮮に介入する余地を無くそうとした。
             
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海の収奪
定置漁業権 https://www.jfa.maff.go.jp/j/enoki/attach/pdf/gyogyouken_jouhou3-45.pdf
漁業権の免許状況 https://www.jfa.maff.go.jp/j/enoki/gyogyouken_jouhou3.html
準備ノート2 鮭漁
カムイチェプ
カナダ先住民族の漁業権回復訴訟 (拡大)47p
定置網漁
曳網漁法 ▲アイヌの伝統的な川漁とは違って定置網も曳網も大量に捕獲する方法(拡大)

サケマスの捕獲権
榎森先生講演記録2022.1.23
▲「開拓使乙第30号布達」を読むこと。(2022.5.6)

明治6年10月3日 本庁達854p
▲ウライ漁厳禁のこの「達」にもすでにアイヌ民族への差別が感じられる。(2022.5.12)

明治7年8月29日
本庁達856p
▲ウライ漁と夜間漁の厳禁。アイヌへ狙い撃ち。 (2022.5.12)

ウライ/テス (拡大)
明治11年11月20日


本庁布達乙第30号
850p
▲和人の曳網は許可、アイヌの夜間漁、支川漁は一切相ならぬ。露骨な差別法令の完成。(2022.5.12)

明治11年乙第30号布達 1878年10月20日
(拡大)

明治9年9月21日 乙第10号布達
「従来漁場持今般一切相廃シ都(すべて)テ上知申付」(拡大)
明治9年9月21日 乙第10号布達 「漁場持の排除、漁場の自由解放、これが大乱獲の開始、急増であった。」(井上)
(拡大)
明治9年8月28日
乙第9号布達 845p
(拡大)
明治9年8月28日
乙第9号布達 846p
▲テス漁、夜間漁の厳禁。露骨な差別布達。(2022.5.12)
(拡大)










1878年に根本的問題・山田伸一 (拡大)「カムイチェプ」 31p



















▲布達、達、等
●明治6年(1873)10月3日の達、
 ▲ウライ網厳禁のこの「達」にもすでにアイヌ民族への差別が感じられる。(2022.5.12)引網は許すが税金を払え。(2022.8.25)
●明治7年(1874)8月29日本庁達、
 ▲発寒、琴似、篠路の引網漁禁止。豊平も夜間引網漁禁止。ウライ網は一切禁止。
 ▲明治8年(1875)ロシアと千島・樺太交換条約調印。後の鮭鱒政策で千島が特別扱いされている。 そのことに驚く。(2022.8.26)

●明治9年(1876)8月28日 乙布達9号、
 ▲テス漁、夜間漁の厳禁。露骨な差別布達。(2022.5.12)
●明治9年(1876)9月21日 乙布達10号 (漁業、和人へ自由化)、
●明治11年(1878)11月20日 乙布達30号。
 ▲「鮭鱒河漁ノ儀ハ、自今、曳網ノ外都テ差止候、最、曳網タリトモ、 夜中及支川ニ於テハ一切相成ラス」、この一片の布達がアイヌ民族の生活を窮乏の淵に沈める。(2022.6.3)

 ▲その後の禁止の流れ「カムイチェプ」29p山田伸一さんの年表より。
●明治27年(1894)北海道庁「鮭鱒ノ泝上(そじょう)スル河川湖沼ノ漁業並鮭鱒ノ沖網漁業制限」
●明治30年(1897)北海道庁「北海道鮭鱒保護規則」自給のためのサケ漁を禁止
 ▲第10条「鮭鱒は許可を受くるに非れば捕獲することを得ず」一方的に禁止。(2022.8.25)
 ▲第1条1号「特にしてしたる場所」→「鮭鱒場所指定」千島国色丹、得撫、新知、占守の沿岸とエトロフ島北東端〜西南端の東海岸。このように 千島列島まで範囲指定している。(2022.8.26)

●明治34年(1901)漁業法制定
 ▲全35条。34条に「従来の慣行による漁業者は1年以内に出願すれば免許が与えられる」となっている。 アイヌの人たちの「慣行」は明治6年〜明治11年ですでに禁止されていたから対象にならないのか?(2022.8.26)
▲改めて「海面官有宣言」を勉強中。旧漁業法の「慣行」には明治6年〜明治11年に禁止されたアイヌ民族の慣行はことごとく禁止 されているから沿岸漁業(地先2〜3里)の慣行も無視されたことが容易に推察できる。(2023.12.2)
準則漁業組合の府県別内訳 (拡大)
神奈川大学国際常民文化研究機構年報 2 123-148, 2011-08-31
「近代における漁業組合の諸相」
―― 青森県の事例 ―― Some Phases of Fishermen's Associations in Modern Japan : The Case of Aomori Prefecture 小岩 信竹 KOIWA Nobutake
▲明治25年(1892)時点。北海道110組合。この中にアイヌコタンがどれだけ入っているか?ゼロの可能性が大きい。国会図書館と北海道庁に照会すること。 (2023.12.1)

明治漁業法「コトバンク」
日本の漁業制度は明治時代に組合準則(1886),旧漁業法(1901)を経て成立した,いわゆる明治漁業法 (1910)によって確立した。
その体系は海藻貝類の採取業や定置・地引・船引網などの沿岸漁業および養殖業などは漁業権により営む漁業として, 地方長官の免許(専用漁業権は大臣免許)を必要とした。
漁業権制度は明治漁業法(1901)において規定されたもので,定置,区画,特別,専用の4種の漁業権が設定され, これらは免許制に基づいて認可された。このうち,専用漁業権には,おおむね村落を単位に構成された漁業協同組合地区 の地先水面をもっぱら用いて行う地先水面専用漁業権と漁業法以前の慣行に基づいて与えられる慣行専用漁業権の2種があったが, 地先水面専用漁業権は,江戸時代の地先漁業権をほぼそのまま踏襲するものであった(地先漁場地元主義)。

▲アイヌ民族の漁法は地先水面専用漁業権と慣行専用漁業権のどちらかで認可されるべきものであった、 と思われる。(2022.8.27)

地先漁業権のイメージ
沿岸漁業の漁場はそこの集落の縄張りであり、その縄張りの元締めが各漁協にあり、その本拠が第1種漁港であるという図式が目に浮かびます。  だから、こんなにたくさん第1種漁港があるわけですよ。というか、なければならないという事です。
この漁業権は、第26条によると、相続以外は原則他に売り渡すことができないんですね。 そして、この漁業権は都道府県知事が認可するんですが、その際にはそこの地域の漁組員にならないといけませんし、 「海区漁業調整委員会」という組織の意見を常にきかなければ認可できません。
このシステムは、実は江戸時代からずっと続いている、前浜の漁業慣行の仕組みをそのまま引き継いだものです。
つまり、「漁業法」が制定され、漁業権というものが、明治時代に法文化されたわけなんですけど、 それが江戸時代からの漁業慣習に従うというのが基本になったわけです。 つまりは、1漁村に1組合という形をとりました。つまり、一村専用漁場という江戸時代の慣行を1集落1漁組という形で管理させ、 その集落の漁民を「組合員」と位置づけたわけです。そして、それを地先水面専用漁業権という、 「ヨソ者」には漁をさせないというシステムをとったわけです。
そして、漁業権の主体は「集落」に一個の漁組に対して免許を与え、集落の漁組が管理するという形態をとりました。 そして、その漁組に属した集落の漁民=組合員は、各自で前浜で漁をおこない(漁業行使権)、 その利益は各自に帰属するという形をとりました。
現在に至ってもこの仕組みの根本は受け継がれています。つまり、「入会権」的な性質は、 江戸時代から何ら変わっていないので、漁業権はある意味「世襲」のものになり、漁業の廃業も、 新規参入もなかなか出来にくくしている状態が、現在の漁業権であり、その象徴が第1種漁港であるのだということなのです。
北海道の第1種漁港
北海道には282の漁港(H26.4.1)があり、漁船の利用範囲によって、第1種から第4種までの漁港に分類されています。 第1種漁港:その利用範囲が地元の漁業を主とするもの(210港)
北海道の第1種漁港一覧
令和4年4月1日現在 167
漁業権の成立過程 (出村雅晴)
『農中総研 調査と情報』 2005年03月号 第213号 4 〜 8ページ
『コタンの歴史と実態』
平山裕人
日本海岸の各場所
▲各場所にアイヌ集落があり沿岸漁業があった。 これは明治になっても確保されるべきであった。江戸時代、日本海側のほうが場所は密。アイヌの集落も多かったということ? (2022.8.28)
太平洋岸の各場所 ▲やはり地先漁業権は「場所」のコタンに認められるべき。(2023.12.3)
(拡大)
明治政府は、地租改正等土地制度の改正と平行して、漁場についても江戸時代の漁場使 用関係を解消し、新しい制度に切り替えようとした。すなわち、1875年に雑税廃止と海面官有宣言をおこなった。
1901年の明治漁業法(以下「旧漁業法」)では、沿岸漁業は漁業権を中心に組み立てられ、 その基本的な枠組みは江戸末期の漁場利用関係を継承していた。その意味では、従来の「慣行」が 漁業権という形で権利化されたのである。
▲アイヌの「慣行」はどうされたのか。和人の「慣行」で権利化された実態を知りたい。 (2023.11.29)
その実態は、漁業組合に前浜漁場の特権的な地先専用漁業権を与え、その実質的な容認を前提に、個人、組合、会社 などによる排他的な個別漁場の漁業権、すなわち定置漁業権、区画漁業権(養殖漁業)、特別漁業権(地曳網等)を認めるというもの であった。
海面官有宣言
「太政官布告第195号(明治8年12月19日)  従来人民ニ於テ海面ヲ区画シ捕魚採藻等ノ為メ所用致居候者有之候処 右ハ固ヨリ官有ニシテ本年2月第23号布告以後ハ所用ノ権無之候条従前ノ通 所用致度者ハ前文布告但書ニ準シ借用ノ儀其管轄庁ヘ可願出此旨布告候事」

海面官有宣言の取消
領海3里 (拡大)
海は国有地

大坂論文
地先漁業権

(拡大)
▲ならばアイヌ民族の漁法、漁場も権利化されるべきであった。(2022.8.27)
▲これまで大地の回復だけに注意を集中して海を置き去りにしてきた。1875年(明治8)の太政官布告による一方的な海面官有宣言。 大地と同じように目を向けること。



漁業権回復の道。(2023.3.9)

▲仮称「アイヌ・オホーツク漁業協同組合」を立ち上げ、港と船、団地(10世帯50人程度) を政府の責任で整備をチャランケする。 アイヌの海の権利をまったく無視した明治政府のせめてもの償いとして。(2023.12.3)
オホーツクの水産
アイヌ・オホーツク漁業協同組合 (拡大)
アイヌの旗(一例) (拡大)
▲網走と斜里の間(約40q)にアイヌ・オホーツク漁業協同組合の設置を政府にチャランケする。
ロシア政府にもアイヌ・オホーツク漁業協同組合の漁船はオホーツクでの漁を自国漁民と同じ扱いとすることをチャランケする。 漁船には識別できるようアイヌの旗を立てる。(2023.12.4)

鱒浦漁港2 網走漁港と鱒浦漁港の距離4.5q(拡大)
鱒浦漁港 小さな漁港(拡大)
知布泊漁港 小さな漁港(拡大)
鱒浦漁港と知布泊漁港 その距離51q(拡大)
知布泊漁港 (拡大)





▲鱒浦漁港と知布泊(ちっぷどまり)漁港の距離は51q。この中間にアイヌ・オホーツク漁港を造成する。 (2023.12.5)
漁港の画像
知布泊漁港画像
斜里第一漁業協同組合 漁港種別第1種
(拡大)
jicareport
スリランカ・キリンダ
漁港建設
1984年スリランカの事例(拡大)
漁港の建設費 86p(拡大)
▲13億円。50年前のスリランカでの試算。今、北海道で新たに建設 するとなれば3倍強の40〜50億円?(2023.12.5)
▲漁港の形状は知布泊漁港の雰囲気でよいと思う。建設費はキリンダ漁港が参考になる。 (2023.12.6)




北海道の漁港一覧
雅咲内(わかさくない) (拡大)
雅咲内漁港 (拡大)
▲(新設)アイヌ・オホーツク漁港と雅咲内漁港から樺太・千島での漁業の道を切り開く。田澤さんと夜話す。深刻な問題をアイヌの中で 抱えているとのこと。取り組む。 (2023.12.7)
▲第一種漁港はいづれも規模が小さい。(2023.12.9)


静狩付近 (拡大)
静狩 (拡大)
静狩 定置漁業権 ▲静狩の定置漁業権は海面共同共同漁業権の海域の中に設定されている。(2023.3.10)(拡大)
静狩付近の
海面共同漁業権
(拡大)








▲上記作業で他の海面共同漁業権の海域での、例えば様似あたりでのアイヌ民族の定置漁業権設定の方向性が見えた。
和人社会とアイヌ民族の共存の方向で考える。
しかし国の責任で和人の海面共同漁業権設定海域でのアイヌ民族の定置漁業権設定の作業を進めることだと思う。 明治8年海面官有宣言を行った政府のせめてもの回復措置だろう。(2023.3.11)


  能取湖から止別川 網走・久保さん。可能性を探る。(2023.4.23)
  久保征治さん 可能性があることを確認(2023.4.26)
漁業を始める(拡大)
菊地さんの定置漁業権の可能性探る
2023.3.25見つける
菊地修二さん 2023.2.23(拡大)
様似共同漁業権7号 共同漁場は台形(底辺6.4キロ、2キロ、2.8キロ)面積約1,500ha(拡大)
▲様似漁港の東が菊地さんの様似町大通り。共同漁業権の海域を離れた所から定置漁業権の可能性がありそう。左の地図と図で検討。 約50haの定置漁業権の設置をチャランケしていこう。当然設置費用は国の負担。償いのしるし。(2023.3.25)
▲2023.4.25新千歳空港で菊地さんと2時間会う。様似でのアイヌ民族の漁業の可能性はない。翌4.26網走に久保さんを訪ねる。昔のアイヌ民族の漁業基地とわかる。 むしろ網走での復活の可能性を追求したい。(2023.4.28)




鎖塚 (拡大)
▲網走を研究すること。千島をふくめて。(2023.4.28)
網走の水産業 一番最近の数値? 6万トン100億円(令和2年)(拡大)












▲やはりアイヌ民族の漁業権は1901年の旧漁業法の段階で権利化されるべきものであった。 1899年「旧土人保護法」が成立してアイヌ問題がすでに明治政府の課題に浮上しているのだから土地問題のみならず漁業も取り上げるべきであった。 (2022.8.27)

旧漁業法は、その後漁業権の法律的性格の物権化(1910年)をはじめ1933年、1943年と3回の内容的改正を経る。この改正 過程においても、漁場管理利用法としての基本法的性格や枠組みに変化はなかった。
▲漁業法を受けてのつぎの「北海道漁業取締規則」。やっと繋がりが理解できた。(2022.8.27)

●明治36年(1903)北海道漁業取締規則
 ▲全部で73条。アイヌの人たちも和人と同様の縛りを受けることになる。先住権など全く無視されている。 (2022.8.26)
●昭和8年(1933)貝澤清太郎さん「密漁」容疑で検挙
●昭和39年(1964)北海道内水面漁業調整規則
 ▲昭和39年11月12日規則第133号平成6年9月30日第92号改正
  北海道内水面漁業調整規則をここに公布する。
  漁業法(昭和24年法律第267号)第65条第1項及び水産資源保護法(昭和26年法律第313号)第4条第1項の規定に基づき、 並びにこれらの法律を実施するため、この規則を制定する


藻べつ川:
定置漁業権設置海域

十勝川:
定置漁業権設置海域

二風谷ダム・沙流ふ化場

沙流川:
定置漁業権設定海域

石狩川:
定置漁業権設置海域

自由学校遊












海と川の漁業回復に向けた基礎資料
▲江戸時代のアイヌの漁業の実態を知るために鮭の獲れた川の確認。交易が行われた「場所」の確認。 漁業復活の基礎作業。(2023.12.18)
▲川の数49本。河口、川沿いにアイヌのコタンがあった、ということ。
平山『アイヌ地域史資料集』から人数を入れる。
読み始めると天然痘の影響が甚大とわかる。調べる。下記論文に出会う。(2024.1.2)

知里真志保 天然痘
ア イ ヌ の 疱 瘡 神 「パ コ ロ ・カ ム イ 」に 就 い て
久 保 寺 逸 彦
知 里 眞 志 保
試 み に 、北 海 道 史(大 正7年 、北 海道廳刊)の 記 す る と こ ろ に徴 す れ ば 次 の 如 く で あ る。
(1) 寛永元年(1624)天然痘
(2) 萬治元年(1658)天然痘
(3) 元祿十一年(1698)天然痘
(4) 寳暦三年(1753)痲疹(はしか)
(5-1) 安永五 年(1776)痲疹(はしか)
(5-2) 安永八 年(1779)天然痘。石狩地方のアイヌが、約650人以上亡くなったと伝えられています。
(5-3) 安永九 年(1780)天然痘留萌以北 に蔓延 し、蝦夷 の死 するもの647人(上記と重複?) 石狩地方最 も惨状 を呈せ り。
(6) 寛政十年(1798)〜寛政十一年(1799)天然痘
(7) 寛政十二年(1800)天然痘死者40余人。敷年の間流行。
(8-1) 文化 二年(1805)天鹽 ・宗谷地方に於て蝦夷の死亡せしもの509人
(8-2) 文化 三年(1806)利尻 ・禮文二嶋 の蝦夷の大部分が滅亡
(8-3) 文化 六年(1809)函館尾札部(ヲサツベ)に天然痘流行し、蝦夷死亡するもの十に七八
(8-4) 文化 十四年(1817)石狩地方天然痘 流行し、蝦夷の死亡せるもの甚だ多く
(9) 文政元年(1818) ・二年(1819)尚流行せ り
▲その後の様子が松前天然痘の記事。

松前天然痘

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(1) 寛永元年(1624)初 夏 より天然痘 流行 し和人 ・夷人死す るもの多 く、殊 に小児 は残 るもの 少な し。慶廣 の第八子満廣(18歳)・ 公廣 の長子兼廣(10歳)も 亦死亡せり。(157頁)
(2) 萬治元年(1658)春 夏 の際、天然痘流行し死するもの多し。(233頁)
(3) 元祿十一年(1698)又 西蝦夷地に流行 し、和人・夷人死す るもの多 し。(233頁)
(4) 寳暦三年(1753)秋 、痲疹 流行 し、死傷少 なか らず。(275頁)
(5) 安永五 年(1776)痲疹流行せ り。同八年夏 、西蝦夷地天然痘流行 して増毛に至 り、處 々蝦 夷 の死する者多かりき。同九年に至り一暦猖獗を極め、留萌以北 に蔓延 し、蝦夷 の死 する もの647人 、石狩地方最 も惨状 を呈せ り。(413頁)
(6) 寛政十年(1798)冬、蝦夷地天然痘 流行 して翌年 に至 りぬ。
(7) 寛政十二年(1800)二 月長萬部 よ り來 りし一夷 、東蝦夷地 に於 て、天 然痘 を發 し、忽 ち流行 して死 亡せ しもの40餘人、尋(つい) で虻 田 ・幌別 に傳染せ り。蝦夷男女皆鍋墨 を面 に塗 り、山中に避 難せ り。此疫東蝦夷地 に於 ては、幌別 に止 ま りしが、終 に西宗谷地方 に於 て蝦夷地 に蔓延 し、敷 年の間流行 し。(628頁)
(8) 文化 二年(1805)には四月 より閏八 月に至 る間に、天鹽 ・宗谷地方に於 て蝦 夷の死亡せ しもの509 人 に達 し、同三年 も亦流行 せ り、利 尻 ・禮文二嶋 の蝦夷 の大部分が滅亡 せ しは、蓋 し此際 にあ りと云ふ。 同六年(1809)6箇 場所 の内尾札部に天然痘流行 し、蝦 夷 死 亡 す るもの十に七八、 因 りて同地夷人歩役 金 を減ぜ り。同十四年石狩地 方天然痘 流行 し、蝦 夷の死亡せ るもの甚 だ多く、之が爲め、石狩場所請負人は、介抱に費用を要 し、且つ漁獵減 じたるの故を以て 蓮上金を半減せられたり。(628頁)
(9) 文政元年(1818) ・二年(1819)尚流行せ り。(628頁)
以上 、北 海道 史所載 の記録 を見 て も、疱病 が如何 に蝦夷地 に於 いて猖獗 を極 めて惨 害 を逞 し くしたか を推察す るに難 くない であ ら う。

▲石狩では石狩天然痘 のつぎの記事。(2024.1.4)
石狩での伝染病に関する記録は、安永8(1779)年の天然痘大流行が最初です。 このときは、石狩地方のアイヌが、約650人以上亡くなったと伝えられています。 文化14(1817)年にも天然痘が大流行し、鮭漁のために石狩に集められたアイヌ約2,000人のうち、約900人のアイヌが亡くなったと言われています。 石狩川河口の鮭漁には、石狩川流域のアイヌが広く集められていたため、大量の死者を出したことは、流域のアイヌ社会に大きな打撃を与えました。
明治に入っても天然痘、コレラがたびたび流行しています。明治4(1871)年には、生振(おやふる)村で天然痘が発生し、 生振のアイヌたちが一時的に避難しています。

「樺太アイヌの碑」
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明治期コレラの流行
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また、明治18(1885)年から翌年にかけて、石狩で鮭漁業をおこなっていた樺太(からふと)アイヌの間にコレラが流行し、 約300人が亡くなりました。八幡(はちまん)墓地には、この時犠牲となった方々を含め明治政府により強制移住させられた 樺太アイヌの人々を慰霊する「樺太アイヌの碑」が建立されています。


川鮭明治21年サケの川の確認(2023.12.17)






西海岸

@天塩川
1807年(文化4)川筋百余里に229人


A浜益川(黄金川)
1855年(安政2)204人
B石狩川

C余市川

D堀株川









E尻別川

F朱太川

G後志利別川

H厚沢部川

I天の川







J石崎川

K及部川






北海岸

@頓別川

A北見幌別川

B湧別川

C猿間川

D網走川

E斜里川








東海岸

植別川〜西別川
@植別川A崎無異川B久根別川C古多糠川D虫類川E伊茶仁川F標津川G床潭川H西別川

I風連川J平戸家川

釧路川〜十勝川
K釧路川L十勝川M大津川










南海岸(紋別川2つあり。十勝と長万部)

南海岸1
@知内川A木古内川B茂辺地川C遊楽部川

南海岸2
D国縫川E長万部川F長流川G幌別川

長万部紋別川

南海岸3
H白老川I鵡川J新冠川K渋退川L三石川

南海岸4
M元浦川N様似川
O十勝紋別川








北海道の面積は
(78,421平方q)
青森から栃木に
(79,453平方q)
匹敵

北海道地図
これから「場所」のデータを地図に入れる。(2023.12.18)
とりあえずの手掛かり東蝦夷地場所1805年(文化2)
@アブタAヤムクシナヰ(山越内)BウスCヱトモDホロベツEシラヌイFユウフツGサルHニイカップIシツナイJミツイシKウラカワLシャマニMホロイズミ NトカチOクスリPアッケシQネモロRクナシリSヱトロフ



寛政期(1789〜1801)
東蝦夷地場所 @ヲヤス(亀田)Aトヰ(亀田)

西蝦夷地場所
西蝦夷地
西蝦夷地
平山裕人『アイヌ地域史資料集』久遠郡セタナイから稚内600q












@久遠郡(ウスベツ、ヲヲタ)
A奥尻郡(オコシリ)
B太櫓郡(フトロ)
C瀬棚郡(セタナイ)
利別川上流、スツキ除く

利別川 砂金?

スツキ







D島牧郡(シマコマキ)
トコマイ場所
E寿都郡(スッツ)
黒松内村除く
F歌棄郡(オタスツ)
G磯谷郡(イソヤ)
H岩内郡(イワナイ)






I古宇郡(フルウ)
J積丹町(シャコタン)
K余市(ヨイチ)
L忍路(オショロ)

L忍路・鰊漁






M高島
Nヲタルナイ

Nかつての小樽内川
N星置川






R石狩13場所
石狩川の全体図
サケがのぼる千歳川・
豊平川(拡大)
石狩低湿地帯
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恵庭市:イザリ・モイザリ
恵庭をふくむ石狩低地帯は、初期の松前藩の代表的交易品だった鷹の主要産地であり、一七世紀ごろの寛文年間までに、 多くの「鳥屋場(鷹を捕まえる場所)」が作られていることから、 一七世紀後半には「鳥屋場」の名でイザリ・シママップの二つの場所が成立していたと考えられます。

1808年(文化5年) 石狩アイヌのシレマウ力、イザリ・モイザリの漁業権を訴えでる。
イザリは、アイヌ語で「イチャン」(サケの産卵する場所)からきています。その名の通りイザリ川(漁川)・モイザリ川(茂漁川)は 古くからサケの好漁場で、一八世紀末の寛政期にはイザリ場所だけで年間三万尾以上を出荷しています。
この漁業権問題は、イザリ川・モイザリ川にウラエ(川をせきとめて漁をする場所)を持ち、 サケ漁をしていた石狩アイヌのシレマウカが幕府の東蝦夷地の直轄によってイザリ・モイザリが幕府領となったために 漁を禁じられたことから起こりました。争いは石狩アイヌと勇払アイヌ、石狩の役人・請負人と勇払の役人・請負人の争いに発展し、 解決までに二十数年を要し、ようやくシレマウカの子のシリコノエに漁業権が戻ったのでした。
▲石狩アイヌのシレマウカがはるか上流の、たぶん50q以上も離れたイザリ・モイザリの漁業権を持っていた。おどろき。(2023.12.22)

モイザリチャシ跡 (拡大)
イザリ川・モイザリ川
漁川と茂漁川の位置
(拡大)
1810年ころ(文化年間)
ユウフツ場所惣支配人 山田文右衛門、イザリブト−千歳の千歳越えを開く 一七九九年(寛政一一年)、東蝦夷地は幕府の直接支配に置かれ、島松川を境に恵庭は幕府領となります。 それまでのイザリ・モイザリなどシコツ十五カ所(十六場所)の運上屋は改められ、ユウフツ会所が設けられ、 シコツ場所をふくめた広大なユウフツ場所が生まれました。
▲石狩13場所。勇払16場所。石狩〜勇払ラインの重要性改めて認識。(2023.12.22)

島松〜美々 島松〜千歳は36号線とJRが走っている。いまも重要な交通の幹線。(拡大)
このユウフツ場所とイシカリ場所を結ぶルートは重要な幹線道路で、ユウフツ場所惣支配人山田文右衛門(八代有智)は、文化年間にイザリブト−千歳間の道路を開き、千歳−ビビ間の道路を改修し荷馬車を通わせました。北海道での荷馬車の物資輸送は、この山田文右衛門が最初といわれています。 この千歳越えは、安政年間には、箱館奉行所の新道計画にもとづき、銭函から千歳にいたる 幅二間 (約三・六m)の「札幌越え新道」大道路工事がおこなわれ、一八五七年(安政四)ユウフツ場所請負人 山田文右衛門(十代清富)によってイザリフト−シママップ間が開かれ、交通の要衝としての恵庭の基礎が作られていきます。


島松布・札幌本道 (拡大)
シママップ川左岸に駅逓所 (拡大)
石狩〜苫小牧ルート 北広島の山を越えなければならない(拡大)
北広島市
札幌越新道は、安政4年(1857)江戸幕府が幕臣を石狩に派遣して開削に当たらせ、安政5年(1858)に開通した。こ の時、トヨヒラと千歳の中間地点であるシ ュママップ(島松)に休息小屋が置かれた。


▲そして片山論文に出会いました。(2023.12.26)
1993年片山広子論文 石狩13場所
江戸時代の人口
西蝦夷地石狩場所絵図 1860年頃(拡大)
石狩場所の概観 ▲片山論文で石狩13場所が特定できる。河口からの距離も。すばらしい。
(拡大)
石狩13場所:@トクピタAハツシヤブB下サツホロC上サツホロDシノロEナイギF下ツイシカリG上ツイシカリ HシママップI下夕張J上夕張K下カバタ L上カバタ






片山論文と石狩場所の人口
石狩場所のアイヌ人数 「寛政年間 (1789〜1800) におけ るア イヌの数 は 2万 数千人 とみ なせば大 きな誤 りはない と思われ る。」 ▲文化の時代拡大。文政に激減。
寛政4年657人。文化4年2285人。文化7年3067年。文政4年1158人。安政3年655人。 (拡大)
北海道の人口推移
世帯  人数
元禄 14年(1701) 9月 3 003  20 086
宝永 4年(1707) 12月 2 758  15 848
寛延 2年(1749) … … 21 107
宝暦 6年(1756) 9月 … 22 632
10年(1760) 10月 4 636 21 651
明和 7年(1770) … 5 966 26 604
安永 6年(1777) 冬 6 422 26 633
天明 7年(1787) … 6 705 26 564

データなし(寛政年間 (1789〜1800) 2万 数千人 とみ なせば大 きな誤 りはない)
文化 4年(1807) … 8 479 31 353
天保 10年(1839) … … 41 886
嘉永 3年(1850) 秋 13 301 59 554
6年(1853) 9月 13 787 63 834
19世紀蝦夷地の人口 (拡大)
▲激減の説明
「文 政 元 (1818) 年, 村 山 家 は 「イ シ カ リ場 所」 と 「イシカリ十三場所」 を 『石狩場所』 と して統合 し一括 して請負 うと, アイヌ を集落 に 固定 させず 自在 に動か し, 川や海での漁 に従事 させ る とい う方策 をとった。 同年, 和人が持ち込んだ病気である疱瘡が流行 して アイヌが833人 も死亡 した。 第2表 で示 すとお り, 3,000人 をこえた アイヌが約3分 の1の1,158人 に まで減った。」
19世紀蝦夷地の人口 明治6年(1873)和人105,058人、 アイヌ18,630人、合計123,688人。信憑性高い。 北海道の人口推移はアイヌも含まれていると思われる。 (2024.1.6)
裁判準備ノート人口推移へ飛ぶ

イキコマナイ=雅咲内
咲内(わかさかない)の由来は、アイヌ語の「ワッカサクナイ」(飲み水が・ない・川)当時は飲み水に大変苦労したようである。1840(天保11)年には現在の市街地より北に数キロ行った場所に官設宿泊所が設置され旅人の便を図ったが当時は道なき道だった。 この部落が開発されるのは戦後であり、樺太からの引揚者が多いようである。



宗谷場所
平山裕人『アイヌ地域史資料集』

▲大変興味深い地図。場所は沿岸だけ。オホーツクのアイヌ人口。多い。数える。 漁業復活の基礎資料。(2023.12.21)
▲オホーツクのアイヌ人口2186人。(2023.12.24)








東蝦夷地
東蝦夷地
平山裕人『アイヌ地域史資料集』










▲東西蝦夷地の「場所」の確認、明治20年頃の川漁の川の確認、ここからアイヌ民族の海と川における漁業復活の正当性が見えてくる。(2024.1.1)

井上研究ノート
論文「内村鑑三と石狩川サケ漁、アイヌ民族」

はじめに
千歳川下流 (拡大)
▲実際に見て、支流のイメージ を遥かに超える大きな川でユポさんともども驚く(2022.6.7)
明治19年ころの茨戸付近 アイヌ資料集(拡大)
札幌県勧業課農務係漁猟科御用係、内村鑑三は、1882(明治15)年12月、千歳川サケ漁 を視察し、「復命書」(報告書)を札幌県令調所廣丈(ちょうしょひろたけ 幕末の薩摩藩士)宛に提出した(1)。
北海道最大であり、 日本でも第二位の長さの石狩川、その下流部に流れ込む支流が千歳川である。 千歳川は、石狩川を遡上するサケの「三分ノ一」を占め、石狩川水系、第一位の支流であった。 千歳川のアイヌ民族は、サケを漁し、サケを「常食」として生活を営んできた。

1878年11月、「明治一一年・乙第三〇号」布達で、支流のサケ漁を全面禁止(5)。 サケ漁を引網だけに限定して認め、支流のサケ漁を全面禁止にする。当時の引網漁の主流 は、長さ400間から600間(720m〜1,080m)、漁夫30人ないし50人、船1、2隻を使った 資本力のある和人漁業家の、沿岸部や河口部でなされる大規模漁法である(6)。
井上勝生研究ノート (拡大)2017年3月北大文書館年報
▲和人に沿岸部、河口部で大規模のサケの引網漁(船1,2隻、.網長さ720m〜1,080m、漁夫30人〜50人)を認め、 アイヌに対して支流(上流)のサケ漁を全面禁止した1878年明治11年の開拓使乙第30号布達は、公序良俗に反する差別法令で 近代法の観点からは発令の時点で無効である。依ってサケ漁に関するその後の法令もアイヌ民族には無効である。 (2022.5.8)
▲今、改めて無効だと思う。(2023.3.8)
▲恐らく鹿猟禁止令も同じ構造だと思う。調べること。(2022.5.9)
▲「井上研究ノート」をベースに置く。ラポロネイション訴状はその視点が欠落。(2022.5.10)
▲札幌で井上勝生先生に面談。東学党農民戦争の研究中、と伺う。(2022.6.7)
またさらに、 1882年、開拓使を引き継いだ札幌県は、密漁監視人を支流へ派遣し始めた。(1p)

千歳川合流地点 (拡大)
都市およびその近郊に優良な農地が広がる千歳川流域の低平地は、明治40年頃には広大な湿地でしたが、 治水事業や農地開発、舟運利用などを目的とした幌内運河や馬追運河の開削などによって、 昭和40年頃には豊かな水田となり、その後も治水事業の進展による地下水位低減や、 水田から畑への転換により畑作が盛んになりました。
内村鑑三の復命書別紙の次のような内村自身の文言は、鈴木繁や山田伸一が述べている ように、永く記憶されるに値するものであろう。
依テ彼等(千歳アイヌ民族―井上注)饑餓ノ民ヲ救フ法、他ナシ、彼等ニ千歳川ノ漁ヲ許シ、以テ家計ヲ立テシムルニアリ

サケ禁漁下のアイヌ民族を「饑餓ノ民」と呼んで、彼等アイヌ民族に「千歳川ノ漁ヲ許」 す以外に方法がないと報告する。アイヌ民族、サケ漁業権の問題に係わる重い言葉である。 また、同じ復命書別紙に記された次の文章も重要である。

諺ニ曰ク、飢餓ハ法規ヲ知ラスト、彼土人モ亦然リ、官若シ漁ヲ禁セハ、 餓スルカ法ヲ犯スカノ二途アルノミ(傍点、原文)

札幌県布達の支流禁漁によって、千歳川アイヌ民族は、生存権を侵害されつつあった。 アイヌ民族の生存のための密漁は法を超えた正当性があると言う。
これもアイヌ民族の漁業権に係わる問題であった。 千歳協同組合漁業に資源監視を委任すれば、と同じ別紙の結びで内村は、次のように記す。
彼等ニ漁ヲ許サハ、永ク生計ヲ失ハス、又鮭蕃息(さいそく)ノ基ヲ堅シ、永ク千歳川ノ鮭ヲ保持スルニ至ラン

アイヌ民族が生計を立てることができ、かつまた、永く千歳川のサケを保持することができる、と言う。
内村の提案は、採用されなかった。歴史を見ると、石狩川サケは、絶滅はしなかったが、1893年の大凶漁を画期として、 以後、壊滅的に減少していった。壊滅の画期をなした大凶漁は1876年、 アイヌ民族へのサケ漁規制から17年後――20年も経たなかった――であり、 内村の1882年復命書からわずか11年後であった(11)。内村の提言は、大きな、切実な意味を 持っていた。
ここでは、内村鑑三と石狩川サケ漁について、今まで埋もれていた事実関係 を掘りおこしたい。(2p〜3p)


「支川鮭漁の制」は、「明治九年・乙第九号」布達のアイヌ民族のテス網、夜漁の小規模 漁業の禁止であり、また二年後、「明治一一年・乙第三〇号」布達、支流サケ漁の禁止で ある。 先に説明したように、これは、乙第九号布達の翌月出された乙第一〇号布達、場所持の廃止、 すなわち河口部や沿岸部の広大な漁場の開放と合わせて読まなければならない のである。
奪われた漁場
(拡大)榎森進『アイヌ民族の歴史』393p 「アイヌ民族には、和人の直接生産漁民に与えられたような漁業の権利を与えられなかった。」
▲漁業権回復を求める。このような差別は違法であり、先住民族権利宣言(20条2項、26条、27条、28条) も援用しながら訴えていきたい。(2022.5.2)
定置漁業権の取得のチャランケでこの事実は使える。(2023.3.8)
1876年乙第一〇号布達は、場所持の不当な漁場独占、「人民移住の障害」を排除すると いう文言が入れられていた。漁場持の排除、漁場の自由解放、これこそ、広大な漁場での 移住漁家たちのすさまじい大乱獲の開始、または急増であった。一方では、旧場所請負商 人の廃止は、極論すれば、アイヌ民族の解放のようにも受け取られかねない。だが、すで にその一ヶ月前、開拓使布達によってアイヌ民族は、生存に重要なサケ漁、テス網や夜漁 を明確に禁止されていた。山田伸一も指摘するように、また内村鑑三もこの乙第九号を名 指しで批判したように乙第九号布達は、サケ保護策などの役割をすることはなかった。上 流部での、監視体制未整備やアイヌ民族の生存無視など、現実の施策のないままの禁漁令 は、移住和人の無秩序な乱獲を広げたのであった。(23p〜24p)

(拡大)
 注
 8) 山田伸一『近代北海道とアイヌ民族―狩猟規制と土地問題―』第4章、北海道大学出版会2011、初 出「千歳川のサケ漁規制とアイヌ民族」『北海道開拓記念館研究紀要』32号、2004。
 10) 榎森進「明治開拓期根室地方漁業構造の史的展開」(『北海道経済史研究』19号、1960)の和人漁夫 の分析は、今も、参考になる論文である。
 67) 乱開発をアイヌ民族がどう見ているのか。
たとえば貝澤正『アイヌ わが人生』岩波書店1993の「北 海道収用委員会における貝澤正の申立」に、「僅か一二〇年の間によくも北海道をこんなに荒らしたも のだと驚くのは私だけじゃないと思います。魚を捕り尽くし、木を伐り尽くし、地下資源を掘り尽く し、必要がなくなったといって鉄道を廃止したり、そのうえ、人口が少ないからと北海道を核のゴミ 捨て場にしようとして……」181頁。
貝澤耕一の「あとがき」、「約五〇〇年の間、日本は北海道の資源 を食い尽くした。ニシン、シシャモ、サケ、マス、シカ、クマ等々の動物も失われつつある。そして ついには森林までをも。大自然の北海道といわれているが、北海道に大木はない。大木の生い茂る大 森林などない。……弱々しい木々が立っているだけだ。これだけ森・川・平野を破壊して、災害が起 きないはずはない」334頁。
▲「テス網と夜漁禁止の乙9号は8月28日、漁場持一切廃止の乙10号は9月21日。従来この2つの布達は別個に検討されている。」 (2017.3.31井上研究ノート)
▲山田伸一論文「千歳川のサケ漁規制とアイヌ民族」2004年『北海道開拓記念館研究紀要』32号。井上研究ノートで紹介。山田さん当時36歳。 (2022.6.1)
▲井上論文 注67)で貝澤正さん、耕一さんの指摘が特に取り上げられている。(2022.8.28)



1877年(M10)
「魚場持」(ぎょばもち)制度廃止(ユポさん1876年のようです)、 河川の生態系の破壊、乱獲、漁撈禁止
9月 箱館を函館に改称
11月「北海道在住令」(全4条)
「移住民」募集開始、北海道に籍が無くても、居留して開拓を志す者、 在住官員で開墾志願の者に土地を割譲する、藩解体の藩主、藩士(3ヵ年食料下付)
12月13日「北海道地券発行条例」(全58条)  アイヌ民族の居住地をすべて官有地第3種に一方的に編入
*「旧土人住居の地所は、其種類を問す当分総て官有地第三種に編入すべし」
(第16条・アイヌが将来農耕するための土地として一時国で保管しておく)アイヌ民族は未開の土人であるから、 土地の管理能力が無い、国家が管理する。
「地券発行条例」
地券発行条例その1 (拡大)
地券発行条例その2 「地券発行条例」15条 16条参照(拡大)
地券発行条例その3 「地所規則」7条、8条(全19条)(拡大)
地券発行条例その4 (拡大)
*北海道人口191,170人(アイヌ民族17,098人)
大坂 拓
後志(しりべし)地方の近代アイヌ社会と民具資料収集の射程 ―旧開拓使札幌本庁管下後志国9郡を対象として― 大坂 拓
地券発行条例官有地第三種編入大坂論文
▲市川『アイヌの法的地位』94pによると「北海道地券発行条例」は開拓使達。これだけ大きなことも一片の通「達」で処理してしまう。 (2021.9.6)
▼『北海道農地改革史』上巻(37〜39頁)の「北海道地券発行条例」に依ると
「明治政府は地券発行に際し、…地租を課さない官有地と地券を渡し地租を課する民有地に大別した。
「北海道地券発行条例」でも北海道の土地を官有地と民有地に二大別した。
官に於いて使用管理する土地は勿論、未だ利用の確定しない「山林・川沢・原野等」も悉く官有地とした。
先住民族のアイヌの住居地は、その種類を問わず当分すべて官有地第三種に編入した。(条例16条)」(下線は引用者)

▼榎森進『アイヌ民族の歴史』によると
「新政府は、1869(明治2)年9月、場所請負制を廃止した。
その目的は場所請負人による排他的独占的な漁場及び土地の占有を廃止し、幕末に急成長を遂げてきた直接生産漁民を初め、 新たに北海道に移住する漁民に漁場を与えることにあった。
萱野茂「アイヌの民具」181頁
アイヌ民族には、和人の直接生産漁民に与えられたような漁業の権利は与えられなかった。)
しかし一挙にに廃止することができず、10月には、旧場所請負人を当分「漁場持」とした。
場所請負制が名実共に廃止されたのは、1876(明治9)年に「漁場持」の名称が廃止されてからである。
新たな漁業制度が実施される中で、
鮭の遡上する河川や豊富な海の幸を与えてくれる海での漁業権の多くが 和人の旧場所請負人や新旧の直接生産漁民に与えられた結果、河川や海におけるアイヌ民族の漁場が奪われることとなったのである。」 (393頁)
(下線は引用者)
▼明治政府の10年間はアイヌ民族にとっては生活手段をことごとく奪われ、 文化を破壊され、民族の尊厳は無視され、和人化を強要される10年であった。
土地に対する権利、漁業に対する権利の回復が当然のこととして必要になってくる。
石狩川支流でのサケマス漁の禁止令(拡大)
『アイヌ民族の歴史』p425(草風館)

1878年(M11)
アイヌ民族の呼称を「旧土人」とする
▼「旧土人」の呼称については1871年(M4)の補充を見てください。
* 鮭・鱒の川漁「禁止」10月
▼石狩川支流での川漁の禁止。このことでこの地域の琴似アイヌが旭川に移住せざるを得なくなった。 (2021.5.1)
1879年(M12)
「琉球処分」琉球藩を廃し、沖縄県を設置
▼1874年(M7)「台湾出兵」の補充で「琉球処分」の背景についても触れられています。
1880年(M13)
日高国 佐瑠太学校平取分校開設 有珠村にアイヌ学校開設
1881年(M14)
「官有物払い下げ事件」(国会・北海道議会 開設運動へ)
「樺戸(かばと)集治監」設置(以後空知、釧路、網走、十勝、囚人使役 )
▼ wp:開拓使官有物払下げ事件は、北海道開拓使長官の黒田清隆が開拓使官有物を同郷薩摩の政商五代友厚らの 関西貿易商会に安値・無利子で払下げることを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、 払下げ中止となった事件を指す。
▼明治3年から10年余黒田清隆の開拓使時代の終焉。勢いのある政治家の最後はやはり汚れた形で終わる。 今、日産のゴーン前会長の役員報酬が問われている。
▼「樺戸(かばと)集治監」設置について月方町HPより:
明治維新の動乱(佐賀の乱、熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱、西南の役など)が全国各地で起き、 多数の国事犯・重罪人がでたため、明治新政府は、収容する施設を早急に整備する必要に迫られた。
そこで、当時未開の地「北海道」を流刑地として囚人を送り込めば、反政府の危険分子を隔離することが出来き、 また、農耕に使役して食糧を自給自足すれば経費負担も軽減できるとして、明治13年、内務省から北海道に調査団を派遣しました。
朝日夕刊2020.10.17 日本一の一直線
29.2キロメートル

明治14年、東京・宮城に続き全国で3番目、北海道で最初の集治監「樺戸集治監」が、収容者数約1500人規模の「農事監獄」として始まった。
樺戸集治監は後に北海道の大動脈ともいえる上川道路(札幌→旭川)(国道12号)の開削に着手。 囚人の外役作業として過酷な労働を強いることになった。しかし、このことによって、 北方警備と開拓者としての屯田兵や移民が入植できるようになり、開拓の基礎を樺戸集治監の囚人が担った功績はとても大きい。

▼北海道は鎌倉時代から流刑の地、と中央政権から見られていたようだ。

1882年(M15)
三県地図(拡大) 三県の管轄範囲を確認
※「瀬棚町史」231p「開拓使は、10年計画の終了する明治15年1月をもって廃止。明治5年1月から起算して、ちょうど満10年。」 (2022.2.2補足)
開拓使にかわって「函館」「札幌」「根室」の三県・一局を置く(3年間)


1883年(M16)
鹿鳴館落成の1883年(明治16年)より1887年(明治20年)までの時期がいわゆる鹿鳴館時代である。
▲東京の鹿鳴館時代と北海道アイヌ民族の飢餓が同時進行。(2023.12.30)

市川守弘『アイヌの法的地位』
101pサケ漁より

1873年(明治6年)開拓使8.29布達 札幌市内のウライ漁などの禁止 10.3布達 引網漁の課税対象
1878年(明治11年)開拓使10.17布達 札幌の郡内一切禁止 その後全道の河川で実施されていく。
十勝川の「鮭漁禁止」
・十勝アイヌ民族、飢餓状態となる
「北海道転籍移住者手続」・太政官布達
「旧土人教育基本金」(明治大帝陛下恩賜金・1000円)
*「土人救済方法」
「旧土人教育方法協議会」設立流会



▼榎森進『アイヌ民族の歴史』
「1883(明治16)年の十勝地方の河川での
十勝川・安骨
(拡大)
鮭の禁漁に伴って生じたアイヌの惨事は目を覆うばかりのものとなった。
すなわち、1883(明治16)年5月、札幌県は、十勝管内大津川より中川郡安骨村字チャシコチャまでを除く(河口から15q)他の河川での鮭漁を禁止したが、 これにより翌1884(明治17)年、十勝川上流のアイヌは、食糧不足から飢餓に襲われ
「漸次食絶エ、飢餓旦夕(たんせき)ニ迫リ、只座シテ死ヲ待ツカ如シ」(『晩成社日記』)状態に追いやられたのである。」 (399頁)
(下線は引用者)
▼明治政府よ、ここまでやるのか!この時から135年経っている。どう償うべきか。これも回復訴訟の対象。(2020.7.3)

▲準備中のbookletに是非この事実を入れること。(2023.12.31)
マルクス死亡(64)
1884年(M17)
(拡大)
北千島アイヌ民族97人を、色丹島に「強制移住」
6月30日〜7月6日(支度に2日間)
釧路アイヌ民族27戸を阿寒郡セツリに「強制移住」
アイヌ民族に「勧農事業」開始
新冠郡、勇払郡、沙流郡地方のアイヌ民族飢餓状態に陥る。
結核、コレラ、天然痘、免疫のないアイヌ民族に蔓延(コロナの今、よくわかる。2020.7.3)
民族絶滅の危機、エスノサイド(民族絶滅)、ジェノサイド(集団殺戮)
wikipedia:ジェノサイド
Article II In the present Convention, genocide means any of the following acts committed with intent to destroy, in whole or in part, a national, ethnical, racial or religious group, as such:
(a) Killing members of the group;
(b) Causing serious bodily or mental harm to members of the group;
(c) Deliberately inflicting on the group conditions of life calculated to bring about its physical destruction in whole or in part;
(d) Imposing measures intended to prevent births within the group;
(e) Forcibly transferring children of the group to another group.
▼三県時代もアイヌ民族にとっては極めて厳しい時代。ユポさんをして 「民族絶滅の危機、エスノサイド(民族絶滅)、ジェノサイド(集団殺戮)」と言わしめる所まで追い詰めた和人の明治政府。 われわれ日本人の責任。
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』(428〜429頁)
1911(明治44)年、日高の荷負(におい) 尋常小学校(現平取町内)に赴任した青年教師教師吉田厳は、この地のアイヌの悲惨な生活を目のあたりにして、
日高国 荷負(拡大)

その様子を怒りをこめて次のように記している。
「じめじめした室内、暗室の掘立小屋、煤と塵とで埋まってる窓や器物、 不潔狼藉、日光もなく通風もない。奥まった暗がりにキョトンと二つの光った病人の目には時々涙をかわした。 食物の欠乏か、飲料水の不備か、栄養の不良か、生気なく、なえしなび、よぼよぼ風にたへぬオヤジ、 朦朧として炉辺にうつむいているパッコ(老婆)、生けるミイラかとがっかりする。」
(下線は引用者)
▼これはたぶん病気の児童の家庭訪問の時の光景だと思う。心が痛む。その大きな原因をつくり出しているのがわれわれ 日本人であることを思うと、今生き残っているアイヌの人たちに何とか償いをしなければ、という気持ちになる。
1885年(M18)
「旧土人授産事業」開始(農業指導中心、農具種子、10カ年計画)
「天津条約」
「内閣制度」発足
▼12.22「内閣制度」発足、すなわち「太政官制」の廃止。明治は新たな段階に入った。翌1886年1.26北海道庁設置。6.29「北海道土地払下規則」制定。 急速に資本主義制が取り入れられる。「富国強兵」の「富国」とは国家資本主義の導入ということ。 庶民から税金を巻き上げて資本家に廻す、という政策。1889年(明治22)明治憲法公布。北海道の動きも内地の動きを念頭に入れながら見ること。 (2022.1.11)
▼なぜ「天津条約」なのか。Wikipediaより。
◇天津条約(てんしんじょうやく、英語:Convention of Tientsin)は、1884年12月に朝鮮において発生した甲申政変によって 緊張状態にあった日清両国が、事件の事後処理と緊張緩和のために締結した条約。
1 日清両国は朝鮮から即時に撤退を開始し、4箇月以内に撤兵を完了する。
2 日清両国は朝鮮に対し、軍事顧問は派遣しない。朝鮮には日清両国以外の外国から一名または数名の軍人を招致する。
3 将来朝鮮に出兵する場合は相互通知を必要と定める。派兵後は速やかに撤退し、駐留しない。
◇甲申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月4日に朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデタ。 親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。
◇親日派のクーデタが失敗し、多くの独立党の人びとが処刑され、あるいは亡命を余儀なくされたことは、 朝鮮半島における日本の立場を後退させた。親日派の力によって日本の政治的・経済的影響力を強めていこうとする構想はここで頓挫し、 やがて、軍事的に清国を破ることで朝鮮を日本の影響下に置くという構想へと転換していった。
▼明治政府による朝鮮支配と日清戦争を理解するためにユポさんは「天津条約」に注目されたようです。 飽くまでも朝鮮半島を支配したいとの明治政府の意思が鮮明。
1886年(M19)
「北海道土地払下規則」(全13条)〔6月29日〕
岩村通俊 (拡大)
10万坪のイメージ ▲(2023.10.28)
(拡大)
開拓者1人につき10万坪(33.3ha、これまで通り)国有未開地処分(アイヌ民族対象外)
*「特許植民会社」
*(大資本)強大な統治権
農業植民地への転換
*「北海道庁」設置(三県廃止)

(初代北海道庁長官岩村通俊(いわむら みちとし)・「貧民を植えずして富民を植えん」)
「住民を奨励保護するの道多しといえども、渡航費を給与して、内地無頼の徒を召募し、 北海道をもって貧民の淵藪(えんそう・よりあつまるところ)となす如きは、策のよろしき者にあらず。(中略)
自今以往は、貧民を植えずして富民を植えん。是を極言すれば、人民の移住を求めずして、資本の移住を是求めんと欲す。 よって之を奨励するために、馬耕、農業保護法を設け、一個人又は一会社にして、満五年以内に20町歩以上の土地を懇成したるものには、 その費用(一町歩金70円を以って算す)に対し、懇成後、10カ年間、利子を下付すべし。
民間資本による北海道開拓へ転換
各地で原野を「植民地」として和人に解放、アイヌ民族には一部を生活維持のために「保留地」として確保した。
あいぬ物語A
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不慮の災難
明治19年(拡大)
「三百幾十人という土人が木でも倒れるように吾々を遺して世をさった。虎疫と痘瘡との流行のためであった。」
「コレラ病の始まりは19年の年の夏からで秋までに段々激烈になって行って冬かけて春近くまでに物の沈んで行くように 親戚の人や親しくしていた友達が後から後からみな私を置いて世を去った。翌年の2月になって病気も少し衰えかけた頃私もとうとう 罹って了った」(38p)
▼山辺安之助19歳。

・対雁(ついしかり)の樺太アイヌ民族、コレラと天然痘で300人死亡
▼樺太で生活していた先住民族のアイヌが1875年(明治8年)国籍の選択を迫られ、841名ものアイヌが海を渡り いったん宗谷へ移住後、翌1876年に対雁に強制移住させられたという。(2021.4.28追加)
・日高、網走でアイヌ民族の「強制移住」
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▼「北海道土地払下規則」を調べました。
第一条「北海道官有未開ノ土地」ハ本規則ニ依リ北海道庁ニ於イテ之ヲ払下クヘシ 
第ニ条 土地払下ノ面積ハ一人十万坪ヲ限トス但盛大ノ事業ニシ此制限外ノ土地ヲ要シ其目的確実ナリト認ムルモノアルトキ 特ニ其払下ヲ為スコトアルヘシ
第十三条 明治五年北海道土地売貸規則 明治七年開拓使布達明治十一年開拓使布達ヲ廃止ス

雑誌名「日本人の労働と遊び・歴史と現状」 巻 16 ページ 69-81 発行年 1998-08-06
        「第5章 北海道開拓民の労働と遊び」 桑 原 真 人
さて、初代道庁長官 に就 任 した岩村通俊 は、1887年5月 、全道 の郡長 ・区長 を集 めて行 った 「施政方針演説書」 において、周知 のように 「直接保護」政策か ら 「間接保護」 政 策 へ の転 換 を明 らか に した。 それは、 岩村 の言 をか りるな らば、「自今以往ハ、貧民 ヲ植 エズ シテ富民 ヲ 植 エ ン」 という政策であ り、 「是 ヲ極言 ス レバ、人民 ノ移住 ヲ求 メズシテ、 資本 ノ移住 ヲ是 レ 求 メ ント欲 ス」 とい うものであ った(北 海道庁 「新撰北海道史』第6巻)。 このよ うな間接保護政策 は、 とりわけ、移民政策 において顕著 であ った。す なわ ち、道庁設 置以前の移民を 「渡航費 ヲ給与 シテ、 内地無頼 ノ徒 ヲ召募」 し、北海道全体 を 「貧民 ノ淵藪 」 とす る行 為であ ると批判 す る岩村 は、以後 の移民政策 の重点 を、従来 のよ うな 「貧民」で はな く 「富民」 に、言い換 えれば 「人民ノ移住」 ではな く 「資本ノ移住」 に求 めようと したので あ る。 そのため には、北海道 が 「資本ノ移住」 に とって適合的 な条件 を備 えた地で なければな らな い。具体 的 には、土地政策 の変更 である。
す なわち、明治以降 の北海道 の土地政策 をみ ると、
10万坪のイメージ ▲確かに資本家が進出するには10万坪(600m×555m)は狭い。 11年後の明治30年「国有地未開地処分法」では150万坪に広げられる。 (2023.10.29)
(拡大)
明治初年 の段階で全道 を無主 の国有地 とみな した政府 は、1872年 に 「北海 道地所規則 」 及 び 「北海道土地売貸規則」を制定 し、 これ によって移住者 への土地処分を行 って いた。 だが、 そ の処分面積 の上限 は1人10万 坪(=33.3町 歩)とされ、 内地の資本家が、 北海道で広大な農場や牧場を経営するにはやや無理があった。

▲資本家が進出するには「1人10万坪」は制限がきつ過ぎる、という意味。(2022.1.2)
そ こで、1886年 に前記 の両規則 は廃止 され、新 たに 「北海道土地払下規則」 が制定 された。 この規則 の最大の特徴 は、 その第2条 にあ った。土地処分面積 は、一応1人10万 坪 を限度 に無 償貸与 されたが、「盛大 ノ事業 ニシテ此制限外 ノ土地 ヲ要 シ、其 目的確実 ナ リト認 ムルモ ノ ア ル トキハ、 特 二其払下 ヲ為 ス コ トアルヘ シ」 という但 し書 きがあ って、制限外の土地処分 を行 うことが可 能であ った。
▲1872年(明治5)に 「北海道地所規則 」 及 び「北海道土地売貸規則」、
1886年(明治19)「北海道土地払下規則」、
1897年(明治30) 「北海道国有未開地処分法」 。
25年かけて植民者のための土地政策を完成させている。この流れの中にアイヌ民族の扱いが入る。 「無主の地」「官有地」の扱い。植民者たちを優遇しようとすれば反射的にアイヌ民族の権利の無視につながる。 (2022.1.2)


事 実、 明治20年 代後半 になると、全貸下面積 に占める10万坪以上貸下 の占め る割 合 は徐々に上昇 し、1894年(明 治27)に は、前 年 の8.6パ ーセ ン トか ら36.9パ ーセ ン トに増加 し、以後 も30パ ーセ ン トを越 えている。 このよ うな大土地所 有形 成の流れは、 まさに内地資本 の要求 に沿 ったものであ り、 それ は、 やがて1897年(明 治30)の 「北 海道 国有未開地処分法」 の制定 に帰結 して いったのであ る。 一方、 こう した北海道 国有未開地 の大量処分 と平行 して、 明治20年 代 に入 ると、 内地農村 か ら多数 の北 海道移民が流入 し始めた。1886年 か ら1922年(大 正11)ま で の36年 間でみ ると、 北海道へ の流入人 口は、明治20年 代後期 の3万 人台が同30年 代 には5〜6万 人 台 とな り、 大正前 期 には最多 の8万 人台 とな って いる。 この36年 間の移住者総数 は約201万 人 に達 してお り、 これ らの人 々が、近 代 の北海 道 開拓 に さまざまな形 で関 わ ったのである。

▼たまたま「BURAKU」の頁を作っていて743年の墾田永年私財法に出会いました。 Wikipediaで読んで見ると1886年の「北海道土地払下規則」に似ていることに気づきました。明治の官僚貴族は王政復興で奈良時代のこのような制度まで 復興させていたことがわかりました。おどろきです。感覚的にはルネッサンス期のヨーロッパ人がその範をギリシア哲学に求めたのに似ています。 おどろきをご自分で実感してみてください。1100年前の法令と目的をWikipediaから引用しておきます。
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)は、奈良時代中期の聖武天皇の治世に、天平15年5月27日(743年6月23日)に発布された 勅(天皇の名による命令)で、墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永年私財化を認める法令である。 古くは墾田永世私有法と呼称した。荘園発生の基礎となった法令である。

勅。如聞。墾田拠養老七年格、限満之後、依例収授。由是農夫怠倦、開地復荒。 自今以後、任為私財。無論三世一身、悉咸永年莫取。其国司在任之日、墾田一依前格。 但人為開田占地者、先就国申請、然後開之。不得因茲占請百姓有妨之地。若受地之後至于三年、本主不開者、聴他人開墾。
  天平十五年五月廿七日 『類聚三代格』より

現代語訳: (聖武天皇が)命令する。これまで墾田の取扱いは三世一身法(養老7年格)に基づき、満期になれば収公し、(国有田として他の耕作者へ)授与していた。しかし、そのために(開墾した)農民は意欲を失って怠け、開墾した土地が再び荒れることとなった。今後は、私財とすることを認め、三世一身に関係なく、全て永年にわたり収公しないこととする。国司の在任中における申請手続きは、三世一身法に準ずるものとする。ただし、耕地を開墾してその土地を占有しようとする者は、まず国に申請すること。その後で開拓せよ。また、公衆に妨げのある土地を占有する申請は認めない。もし許可を受けて3年経っても開墾しない場合は、他の者へ開墾を許可してもよいこととする。   天平15年5月27日

ただし『続日本紀』巻十五の同日条を見ると、同じく天皇による命令形式である詔として出され、その中に次の逸文が入っていたことが分かる。 この部分は、位階に応じて私有面積の上限を定めた規定であるが、この部分が上記の『類聚三代格』では削除されている。

「(悉咸永年莫取。)其親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。 六位已下八位已上五十町。初位已下至于庶人十町。但郡司者、大領少領三十町、主政主帳十町。若有先給地過多茲限、便即還公。 姦作隱欺、科罪如法。((其)国司在任之日。)」

現代語訳: ……(その土地の広さは)
親王の一品と一位には五百町、
二品と二位には四百町、
三品・四品と三位には三百町、
四位には二百町、
五位には百町、
六位以下八位以上には五十町、
初位以下(無位の)庶人に至るまでは十町(とせよ)。
ただし、郡司には、大領・少領には三十町、
主政・主帳には十町とせよ。
もし以前に与えられた土地で、 この限度よりも多いものがあれば、すみやかに公に還せ。不正に土地を所有して隠し欺くものがあれば、 罪を科すことは法の如くにする。……

直木孝次郎ほか訳注 『続日本紀 2』 平凡社〈東洋文庫〉(ISBN 4-582-80489-6)による)

▼位による墾田の広さの違いは明治では資本による違いに置き換えられているだけである。 200万町歩の皇室の御料地の維新政府・貴族官僚の発想も「分かる」気がする。
▼岩村通俊とはwp:北海道開拓の重要性を政府に説き、北海道庁設置を働き掛ける。これが認められ明治19年(1886年) に北海道庁が設置されることとなり通俊が初代長官に任命される。
▼wp:1887年(明治19年)にコレラと天然痘が流行し、移住した樺太アイヌの40パーセントが死亡した。
山辺安之助は「明治十九年の夏から秋まで段々激烈になって冬から春にかけて物が沈んでゆくように 親戚の人や友達が後から後から私を置いて世を去った」
『あいぬ物語』)と語っている。
▼「物が沈んでゆくように」…、つらい。読むだけでもつらいのに、書くことはもっとつらかっただろう。ご冥福を祈ります。 この人たちの無念もふくめて今を生きる和人として償わなければならない。(2019.2.5)
「北海道土地払下規則」によって実際に払い下げられた土地は1896(明治29)年までの11年間に、 42万6,800余町歩。4,221平方q 琵琶湖6個分。(榎森進『アイヌ民族の歴史』423頁を参考にしながら)
▼当時のアイヌ民族の人口は17,098人。開拓者1人につき10万坪(33.3ha)であれば17,062×33.3ha=568,164 ha=5,681平方q 。  琵琶湖=670平方qであるから8.5個分。この規模の土地がアイヌ民族に確保されていてもおかしくない。因みに北海道の広さは 83,450平方q。琵琶湖125個の広さ。125個の広い空間がアイヌモシリだった。そのうちの8.5個分。ささやかな措置。それすら全くなされていない。

1888年(M21)
1887年(明治19年)にコレラと天然痘流行。 1888年(M21)色丹島の北千島アイヌ民族5年間で97人のうち45人死亡。
色丹島の北千島アイヌ民族5年間で97人のうち45人死亡
北海道人口354,812人(アイヌ民族17,062人)
市制、町村制公布
枢密院設置
▼樺太アイヌ、千島アイヌ次ぎ次ぎ死亡。
1889年(M22)
*新十津川村の原野を和人に解放するに当たって、アイヌ民族11戸を、給与予定地を選定し「強制移住」させる
現在の新十津川町

新十津川村http://www.zck.or.jp/site/forum/1213.html
▼このHPでは新十津川村の歴史を語る際アイヌの強制移住は全く触れられていない。驚き。(2021.4.28)
▼右の現在の市街地の写真は今日掲載しました。十津川の人のご苦労もさることながら アイヌの人たちの犠牲の上に築かれていることに思いをいたしてほしい。(2021.12.15)
*美幌アイヌ民族を「強制移住」させる
内大臣・首相・三条実美「華族組合雨龍農場」(三条・蜂須賀・菊亭ら華族)原野49,500町歩 (≒5万ha 1億5千万坪)規則上限の1500倍(1町歩は、約1ヘクタール)
wikipedia:三条実美
三条実美 (拡大)
明治4年(1871年)には制度改革により、太政大臣となった。この太政大臣は律令下のものと異なり天皇の代行者としての役職であり、 「万機条公に決」される体制を目指したものであった[68]。
華族組合雨龍農場
明治19年に北海道庁が設置されると、北海道も本格的な開発計画が推し進められ、 特に北海道内陸部は一気に賑わいを見せます。※「北海道土地払下規則」が公布。
これにより、華族・政商・豪農たちが大農場開拓に手を伸ばします。 明治22年、皇室御料地として全道に200万haが設定され、華族組合雨竜農場へは5万haが払い下げられます。
お公家様にお殿様、高級官僚の皆さま…さて、この華族組合は三条実美公爵・蜂須賀茂韶侯爵・菊亭修季侯爵の連名により、 明治22年10月北海道庁へ申請され同年12月18日付けで許可されます。
明治23年に道庁職員だった町村金称が組合農場の支配人として開墾がはじまります 明治24年に筆頭者の三条実美が死去します。 貴族院の議長でもあった蜂須賀茂詔は、明治26年に雨竜農場の解散を決定します。 支配人として功績があったとして町村金称は、80町歩の土地を譲り受けます。 金称長男の敬貴が牧場経営(現:町村農場)、五男の金五が政治(金五の次男が町村信孝)

「大日本帝国憲法」発布 
1890年大日本帝国憲法と1850年プロイセン憲法の比較
フランス1791年憲法
▲フランス1791年憲法は1947年の日本国憲法に近い。 1850年プロイセン憲法をお手本にしたことによって150年遅れた。回り道をした。(2022.12.26)
▼wp:1889年に起きた奈良県吉野郡十津川村での十津川大水害の被災民がトック原野に入植し新十津川村と称した。 1890 年 600 戸2489 人がトック原野(徳富川流域)に移住。
明治の礎「北海道開拓」。とても参考になるHPです。
明治22年、皇室御料地として全道に200万haを設定、華族組合農場へは未開地5万haが払い下げられます。 公爵三条実美、旧徳島藩主の蜂須賀氏らが設立した華族組合雨竜農場は、このときに払下げを受けて創立されたものです。      
 池田さなえ『皇室財産の政治史』(人文書院2019.3.30)

「本書は、皇室財産のなかでも議会開設直前に設定された膨大な不動産である「御料地」に着目し、その政治史的意義を解明することを通じて 明治立憲制創設後の宮中と府中との実態的関係を考えるものである。およそ君主制をとる国家であるならば、国家を維持するために必要 とされる費用のほかに、大なり小なり君主の「家」を存続させるために特別に設けられた財産を有する」(13頁)
上川離宮予定地 (拡大)
▲アイヌの近文給与地問題を考える際、 当時の明治政府が上川にどういう構想を持っていたのかを知ること。
一つが軍事基地、もう一つが離宮。(2022.3.31)
「御料地は明治22年から23年にかけて集中的に編入された。」(21頁)
▲国会開設が明治23年に迫っていたため「国有財産と未分化であった皇室財産を区別して、皇室独自の私有財産として設定 することにより、国会論議の埒外に置く」(『新旭川市史』第2巻29p)ための編入。(2022.3.31)
「北海道御料林は、拓殖の対象地とされていた官有地の中から約200万町歩という広大な面積を編入して誕生したものであった。しかし、明治 27年にその約3分の2というこれまた広大な面積が北海道庁に下付される。」(36〜37頁)
「北海道御料林除去が明治30年3月27日公布の「北海道国有未開地処分法」を準備することとなった」(329頁)
「新冠御料牧場は明治17年から18年にかけて日高国新冠郡所在官有地約20,800町歩を御料牧場として編入したものである。」(332頁)
「三条は関東鎮将府鎮将を務めていた明治元年9月に記した意見書の中で北海道開拓を主張しているように、かなり早い段階から北海道開発に関心 を有していた。…特に三条は、自らも華族、特に旧公卿華族の代表格として…華族の中でも資力のある蜂須賀茂韶(もちあき)らと組んで三条・華族 組合農場を組織し、場所を雨竜に定めた。」(333頁)
「全道の森林地籍を仮に4百万町歩と算し之を折半し一半を御財産に編入する」(334頁)
「「北海道土地払下規則」は19年6月に公布されたもので、それまでの「北海道土地売貸規則」による大土地所有に歯止めをかける目的で 制定されたものであった。しかし、同規則には大土地所有への抜け道もあり、また大土地所有者への便宜を与える条項もあったため、その後 これは乱用され北海道の大土地所有の隆盛につながったとされている。」(341頁)

井上馨渋沢資料館所蔵(如水会報2020.12)

「殖民ノ気運漸ク熟シ」(これは明治26年4月8日の北垣北海道庁長官の井上内相・後藤農相への内請の一節)(343頁)
榎森進『アイヌ民族の歴史』(429頁)全道人口
明治6年111,196人、
明治11年191,172人、
明治16年239,632人、
明治21年354,821人、
明治26年559,959人
「北垣道庁長官時代(明治25年19日〜明治29年4月6日)は、それまで理念のレベルや漠然とした構想段階にとどまっていた北海道開拓政策が大きく具体化し、現実的条件が整えられていった とされているが、そのための準備として北垣道政の最初に画策されていたのが御料林の官林編入であった。」(344頁)

(328頁)(拡大)
(360頁)(拡大)
左地図
明治23年時点の御料地(色塗り全体)200万ha→ 明治27年の御料地(黒い部分)63万ha


  右地図 明治29年時点の北海道御料地

▼池田さなえさんの論文で北海道の土地政策のつながりが見えてきました。 これまでは年表で断片的だった知識がつながるようになりました。特に御料地の地図は具体的でよかったです。感謝です。(2020.9.3)
▼200万ha=2万平方q 北海道は8万3,450平方q 。つまり北海道の4分の1、琵琶湖30個分を皇室御料地にする(明治23年時点の御料地)。 「華族組合雨龍農場」50,000ha=500平方q 琵琶湖の75%分。
▼「強制移住」をここでまとめること419頁参照
1875年(M8) 9月9日〜10月1日 樺太から92戸841名のアイヌ民族を宗谷に「強制移住」
10月7日 石狩原野へ再移住を指示(アイヌ民族、移住反対上申書を開拓使に提出) 翌年、官憲を動員して6月13日から小樽経由で石狩国対雁(ついしかり)に「強制移住」
1884年(M17) 北千島アイヌ民族97人を、色丹島に「強制移住」
6月30日〜7月6日(支度に2日間)釧路アイヌ民族27戸を阿寒郡セツリに「強制移住」
1886年(M19) 日高、網走でアイヌ民族の「強制移住」
1889年(M22) 美幌アイヌ民族を「強制移住」
1916年(T5)「新冠御料牧場」・姉去のアイヌ民族80戸、平取村上貫別に「強制移住」
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1890年(M23)
浅草凌雲閣 (拡大)
33年後の草凌雲閣
2023.2.2朝日朝刊(拡大)
「屯田兵土地給与規則」
*バチェラー、幌別(室蘭の東)にアイヌ児童教育のため愛隣学校開設
ルーシー・ペイン、釧路にアイヌ学校開設
*旭川近文(ちかぶみ)原野の開放に際して、150万坪をアイヌ給与地に予定
* 英国人ネトロシップ、函館にアイヌ学校開設
「府県制、郡制公布」
第1回帝国議会開会(第1回衆議院選挙)
*「御料地」全国の56%が北海道に(北海道の総面積の4分の1)
▼第一条「屯田兵トシテ北海道ニ移住スル者ニハ一戸凡ソ一万五千坪ノ土地ヲ給与ス」
▼1万5000坪=5町歩=5 ha 





1891年(M24)* 旭川郊外の近文原野、150万坪(500ha)「土人給与予定地」決定 
▼150万坪=500ha=5平方q 私の住んで居る東京調布市は21平方q。 国立市は8平方q。東京ディズニーランド51 ha。500haは約10個分。
1893年(M26)
* 第五回帝国議会「北海道土人保護法」提案   加藤政之助
1894年に飛ぶ
○加藤政之助君(二百二十二番)
 「北海道土人保護法案を提出致しましたる理由を弁明致します、
「1893年、自由民権運動の活動家でもあった加藤政之助(立憲改進党)によって帝国議会に提出」(上村論文207p) ▲納得。(2023.1.26)
我日本国は上に叡聖慈仁なる御歴代の皇帝在しまして、下には仁義の数を以て本と致したる所の国民を以て組織して居ります、
夫が故に我日本国人民は此の世界各国に対しても常に義に依り、義に勇み、強を挫き弱を助くることに於ては世界第一と自らも思ひ、 世間でも称して居ります所の国柄でございます、
この如き国柄でございまる故に、若し欧米の人々にして不道理にも此の弱国に強暴な行を以て臨み、 人種が異った者に対して無礼を加へまするやうなことがございますならば、我々日本国民は常に彼等の挙動を憤慨し、 彼等の挙動を非難して止まざる所でございました、
この如き国民でございます以上は、己れ自らは一点の此の落度もないやうに一点の欠目もないやうに、 強を挫き弱を助ける義に依って此の義に勇むと云ふことは努めなければならぬのである、

然るに私自ら北海道の地に臨んで二回程彼処の地を実見致しましたが、其の結果として我日本国民が当に為すべきの義務を怠って居る、 当に保護しなければならぬ所の責務を怠って居ると云ふことを発見致しました、
夫は何であるかと申しますると云ふと、我日本の一隅即ち北海道に住みて居りまする所の彼のアイノ人種である、 之に対する所の我々同胞兄弟の挙動である、
此の挙動に就いては今日我々が自ら顧みて謹まねばならぬ、 否謹むばかりではなく、自ら進んで彼等弱者を保護しなければならぬと云ふ地位にあると云ふことを考へます、
彼の北海道の土人アイノなる者は其の古、歴史に徴して見ますと云ふと、 北海道ではなくして我内地に住居致して居ったものゝ如くに見えて居ります、
併ながら夫等のことは古に属してほとんど漠然と致して居りますから、夫等の議論は暫く措きまして、 少なくとも彼等アイノ人種は近古迄は北海道即ち日本のほとんど四分の一に当る所の面積を彼等自ら占領致して、 此の北海道の大地を以て己れの衣食の料に供して、己れの生活の資に充てゝ居ったものに疑はござりませぬ

然るに我内地の人々が北海道に参りまして彼等と生存競争を致し、此の生存競争の結果彼等古の人種は
三千の土人
政之助さん三軒の読み違え?
(拡大)『瀬棚町史』

北海道の幕末から明治初期アイヌの人口推移 小川正人論文(拡大)
次第々々此の内地の人々の生存競争に堪へずして、内地に引退いて仕舞ったと云ふ形跡を為して居った、
否尋常一様の競争ではない、
此の内地の人々が彼等の弱に乗じ、彼等の無智なるに乗じて之を虐待したと云ふ事実は、今日まで歴々現れて居るのでございます、
で其の一例を申せば私共が親しく草鞋を穿いて旅行致しました処の後志の国瀬棚郡と云ふ処に於きましては、 ほとんど今より百年前若くは百五十年前までは三千の土人が居りましたと云ふことである、
セタナイ武四郎地図 セタナイ・アイヌ戸口 (拡大)

然るに昨今此の土人がどれ丈に減じたかと申しますれば、僅に数十戸になりまして今や二百人に充たないと云ふ有様に陥りました

で是が何故であるかと申しますると内地の人々が彼等を虐遇致した故である、彼等に対して不穏の挙動をした故である、
独り此の内地の人々が左様な働きを致したと云ふことばかりでございますならば、まだ恕すべきことも出来ますが、 北海道長官即ち北海に在って北海道の人民を撫育しなければならない所の北海道庁の役人等が、彼等を虐遇した、 彼等の金銭を猥に失はしめたと云ふやうな事実が現れて居ります

夫れは何であるかと申しますると、北海道十勝の国大津川と云ふ川があって、此の川はほとんど鮭や鱒其の他の漁が余程多い所でございます、
夫が故に此の川の沿岸には、古より漁場が沢山ございます場所でございます
夫が維新後北海道庁を置かれて漁場の制度抔も立って、古の請負の制度を解いて、之を相当の権利ある者に貸与へ、
若くは之を下与へると云ふことが起こりました時分に、十勝の国の此の大津川の沿岸の土人等は沿岸の漁場を数箇持って居りましたのでございます、
此の漁場を持って居りましたが故に、漁場を他人に貸与へ、若くは他人に売渡すと云ふ結果より致して、 彼等は明治七年にほとんど三万有余円の金を得たのでございます

此の三万有余円の金を如何にしたかと申しますると云ふと、
之を其の儘置いてはいけないと云ふので、政府に保護を依頼してどうか此の金を保護して利殖して貰ひたいと云ふことを 時の北海道庁に申出した処が、
初め此の金をどうしたかと云ふと郵船会社の株券を買ひ、さうして之をやつたのだそうでございます、
夫が此の次だうなつたかと云ふと、知らず識らずの間に彼の北海道のほとんど衰減に垂んとして居る所の製麻会社、 若くは製糖会社の株に此の三万余円の郵船会社の株が変って仕舞ったと云ふことである――、
今日彼等土人の共有金は如何になったか、
分配も碌々受けることは出来ないと云ふ憫れ敢果ない所の境界になって居る、
実に政府たるものが之を為すべき処分でございませうか、
彼等弱者に向ってこの如き計ひをすると云ふは、実に怪しからぬ、
加之其の辺の町村役場の役人等、若くは北海道庁の役人等は土人等の財産ある者に向っては、 ほとんど脅迫同様なる処置を以て之を借り受け、さうして之を濫費したと云ふ形跡も今日まで往々現れて居るのでございます、
でこの如きことを人民も為し又政府の役人も為すと云ふ結果より致して、彼等はほとんど居住に堪へない、
夫が故に内地の人民が一歩北海道に進めば彼等は一歩内地に退くと云ふ今日の形勢に立至りました、
而して彼等の住って居りまする土地も次第々々に内地人民が相当なる現行法律の手続を経て借受け之を自分の所有と為し、
彼等はどうであるかと申しますると無智無育であるから、今日の現行法律の下に立って相当なる手続を経るならば土地を貸下げることが出来る、 開拓することが出来るけれども、其の手続を履むことを知りませぬ、
故に彼等は自分に住って居る所の土地即ちエジツタまで内地の人々に取られて仕舞って、ほとんど住むべき土地もない、流浪の民となると云ふ 今日の有様に陥って居ります、

夫が故に如何にして生活して居るかと申しますれば、土地を所有して居る者抔は皆無と云って宜しい、
唯山海――山に海に唯猟を求めて、さうして其の獲物で生活するか、若くは他人の下に労役に伏して辛き幽けき生活をして居ると云ふ 今日の境遇であるので北海道の土人が今日どれ丈の数がありますかと申しますれば、
一万七千百四十八人と云ふものが今日の現在である、
其の中男が八千四百五十二人、女が八千六百九十六人と云ふ数でございます、
そこで学齢児童はどれ丈あるかと申しますると云ふと、 三千百六十二人、学齢児童の数がある、
然るに此の中で以て学校に就いて居る者が幾人ある、僅に五百七人即ち全数の六分の一 と云ふものほか学校に就いて居らない、
諸君、内地の此の学齢児童がどれ丈今日就学致して居りまして、どれ丈不就学の者がございませうか、
内地を調べて見ると云ふと、七百二十万程学齢児童がある、而して此の就学して居ります所の数が三百十九万あってほとんど 百分の四十八と云ふものが学に就いて居ります、
然るに北海道では僅かに土人の子弟は六分の一弱ほか就いて居らないと云ふ憫れな今日の有様でございます、
加之彼等は衛生の法を知らずして病に罹りましても医者の治療を受けることを知らない服薬することを知らない、
夫が故に次第々々に身体は不健康になりまして、病に罹ったために人種は今日減ずる有様を為して居る、
で彼等の住家はだうかと云ふに十勝、日高辺りで見ますると云ふと、相当の家屋に住んで居る所の者もあるけれども、 極めて少数であって、多くの土人はほとんど内地の乞食にも劣る処の憫れなる小屋に這入って其の日々々を送って居るのでございます、
若し今日の儘に放任して置きましたならば、私は思ふ彼濠太利亜の土人が全く人種が絶滅致しましたと同様に彼の北海道のアイノ人種は 数十年ならずして人種が減するのであらうとか様に考へるのである、

諸君、彼等は北海道の土地全土を有して彼等の生活の料に供して居った所のものである
然るに此の土地を次第々々に内地の人に奪はれて仕舞って、ほとんど住むべき土地もないと云ふ境遇に陥り、 然も強暴にして内地の人に抵抗する所の悪い人種暴悪なる人種でございますれば兎も角、
彼等は至って従順なる人種、至って温厚なる人種である、
内地の人々に向っては、実に温和なる人種でございます、
かくの如く温良なる、かくの如く従順なる北海道のアイノ人種を彼等の住って居る所の土地まで悉く奪ひ去って、 前途彼等は其の人種すら滅せんとする今日、我々が此の義侠の心に富みたる我々日本人民が、 之を保護せずに済みましたならば、天下に向かって日本人は義侠心ありと称することが申せるでありませうか、

私は此の際に是非とも彼等アイノ人種を保護してやらなければならぬと思ふ、
好し一旦敵となりました所のものでござりましても、一たび降参をすれば之を款待すると云ふは常である、
好し王師に抗したりと云ふ人間であっても一たび帰順致したならば是は同じく日本の臣民である、
彼等アイノ人種は北海道の全道を占領して居たる所の者が、今日の境遇に陥ったと致しましたならば、 我々は彼等に向って今日多少の保護を与えて其の生存発達と云ふものを助けなければならぬと思ふ、

併しながら或論者は此の時に於てか様なことを申します、是は優勝劣敗は世の中の自然の勢である、 彼等アイノ人種は劣等な人種である、我内地人種は優等な人種である、此の優等の人種が劣等なる所の アイノ人種に対するときには、彼等が自然消滅すると云ふことは是は勢の然らしむる所で、如何ともすべからざるものである、
夫が故に到底此の前途に絶滅する人種であるとするならば、是等は保護を加ふる必要はない、 か様なことを申しまする所の人々があるかも知れませぬ、
併しながら是は如何にも残酷な議論であると思ふ、
若し此の論法を以て申したならば、ここに不治の病に罹って居る病人があったときに、 彼は不治の病人である、到底医療を加へて治すべからざるものである、 夫が故に彼は自然に任して顧みぬでも宜いと云って、病人を度外すると一般なる話であります、

我々は好し北海道の「アイノ」人種は劣等な者であるので、前途絶滅する者と致しましても、 日本国民の義侠心より致して彼等を救ひ、彼等を保護すると云ふことは多少為さねばならぬとか様に考へるのでござります、
況や私共の見まする所に依りますれば、彼等も左迄劣等な人種ではない、教ふれば随分教へ得る所の民である、
学校に往きまする生徒の成績抔を見ましても、随分物の数も知り商買の勘定をすることが今日出来るやうになって居る者共が余程ござります、
是等の成績に徴して見ますれば、若し彼等に十分教へたならば相当に此の前途に其の人種を続けて参ると云ふことも出来るだろうと考へます、

夫が故に此の仁愛なる此の義侠心に富んだる所の日本四千万の人民に訴へて、私は聊々ながら此の保護案と云ふものを今日通過致して、 彼等北海道「アイノ」人種を保護したいとか様に考えます。」(下線は引用者)


▼ユポさんの年表のたった一行の背後にこのような事実があります。2018年7月札幌ではじめてお会いしたとき年表を頂き、 その次東京でお会いした時この「第5回帝国議会衆議院議事録」を頂きました。
加藤政之助氏の提案理由は時代の制約はあるものの、実に立派です。大事な事実が多く含まれています。
特に
「アイノ人種は近古迄は北海道即ち日本のほとんど四分の一に当る所の面積を彼等自ら占領致して、 此の北海道の大地を以て己れの衣食の料に供して、己れの生活の資に充てゝ居ったものに疑はござりませぬ」 「彼等は北海道の土地全土を有して彼等の生活の料に供して居った所のものである」
との指摘は今日的意味を持ちます。現在の日本政府も受け継ぐべき性質のものだと思います。

因みにこの加藤氏の提出法案は本会議で否決されています。 そして6年後の1899年(M32)に同趣旨趣旨の法律が成立しています。その時の提案趣旨は読むに耐えません。 読むのも憚られます。読み比べて見てください。 
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あいぬ物語B
(拡大)
明治26年(拡大)
「明治26年8月雷札13日河崎船13人で帰郷の途につく。」山辺安之助26歳(52p)
▲ 明治38年日露講和条約で日本南樺太獲得。明治42年12月冨内村小学校完成。安之助42歳。教育への深い思いが完成に。この人の思いを受け継ごう。(2023.10.2)
飛んだ先
1894年(M27)
*旭川 近文原野、「土人給与予定地」150万坪(500ha)のうち45万坪(150ha)のみ、 利権屋の暗躍、北海道庁長官あて請願書
*千歳、十勝、北見などでアイヌ民族が多く住んでいた原野を開放する際、アイヌ一戸当たり五町歩(5ha)以内の「保護地」を設け、 「北海道地券発行条例」の第16条に基づき官有地の第三種の土地とした。
他にも同類の原野がある場合には同様にすべき事を本庁決議で決定した。
「日清戦争」(〜95)
wikipedia下関条約 ▲本州で何が起きていたかを見ておくこと。(2023.5.30)
下関条約1 遼東半島割譲交渉
(拡大)
下関条約2 中国のケーキ(拡大)
下関条約3 李鴻章の覚書(拡大)
▲李鴻章は立派な外交官だった。 はじめて知る。恥ずかしい。1895年、李鴻章72才、伊藤博文54才。(2023.5.30)
下関条約4 講和条件(拡大)
▲陸軍の意向(大連湾、旅順口)と海軍の意向(台湾)。 陸奥宗光は普仏戦争処理を参考に。日本外交の本質。(2023.5.30)
日清戦争・劉公島 (拡大)
日清戦争・劉公島 朝日朝刊(拡大)
日清戦争・劉公島 2023.12.29(拡大)

▼「北海道地券発行条例」第16条 旧土人住居ノ地所ハ其種類ヲ問ス当分総テ官有地第三種ニ編入スヘシ但地方ノ情態ニ因リ成規ノ処分ヲ為ス事アルヘシ(下線は引用者)
▼近文(ちかぶみ)原野の「土人給与予定地」45万坪(=150ha 東京ディズニー3個分)、のちに大きな問題になる。
▼これまでの土地処分・給与のまとめ
1872年(明治5年)「地所規則」和人開拓者1人10万坪(33.3ha)
1886年(明治19年)「北海道土地払下規則」開拓者1人10万坪(33.3ha)
1889年(明治22年)皇室御料地200万ha=2万平方q=琵琶湖30個=北海道1/4、
          華族組合農場5万ha=500平方q=琵琶湖75%(根拠法?)
1890年(明治23年)「屯田兵土地給与規則」1戸5ha
1891年(明治24年)アイヌ近文原野「土人給与予定地」45万坪(150ha)
つまり屯田兵30戸分ということ(2020.4.29)

1896年(明治29年)
(明29.7)新冠御料牧場沿革誌;
左 厚別川と右 新冠川に挟まれた新冠御料牧場 (拡大可)

出版者: 新冠御料牧場; 出版年月日: 明29.7; (国立国会図書館デジタルコレクションの「新冠御料牧場沿革誌」より)
沿革誌 9コマ目に明治26年12月31日現在の牧場の地積と面積が記載されている。 新牧場8,532町歩 旧牧場28,772町歩 ペラリ1,058町歩 牧草地61町歩 耕地32町歩 合計38,455町歩

1897年(M30)
「北海道国有未開地処分法」(3月27日)
(拡大)無償貸付、開墾成功後、無償付与(処分法3条)。4月勅令第98号によって会社・組合はこの2倍。天皇の名において なされる「勅令」という奥の手が、ここでも、こうしてつかわれる。山川力33p
150万坪の面積 500ha(2.5`×2`)1,000ha(3.33`×3`)
(拡大)
明治33年60歳の渋沢栄一 (拡大) 十勝開墾合資会社
3630万坪(12,000ha)
無償貸付(拡大)
(拡大) (拡大)
*「北海道土地払下規則」廃止(処分法22条)
*「自今以往は、貧民を植えずして富民を植えん。是を換言すれば、人民の移住を求めずして、資本の移住を是れ求めんと欲す」
・「大地主」「大資本家」対象、(アイヌ民族対象外)
・無償貸付、開墾成功後、無償付与(処分法3条)
・富豪、資本家、華族、高級官僚、政商
(4月勅令第98号・北海道国有未開地処分法第3条に依る貸付の面積)
・開墾150万坪(500ha)会社・組合はこの2倍
・牧畜250万坪、      同上
・植樹200万坪、      同上
▼「北海道国有未開地処分法」により1908(明治41)年までの12年間に この法律で処分された土地は183万余町歩。18,098平方q 琵琶湖27個分。全北海道の22%。 (榎森進『アイヌ民族の歴史』423頁を参考にしながら)
▲如水会報2023.11号で渋沢達の十勝開墾合資会社に無償貸付された土地は150万坪の2倍=300万坪の12倍。破格。規則は無きに等しい。 (2023.11.26)


(拡大)
第3条の適用の実態(拡大)
山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』
281p 「1戸当たり2町5反で5町歩が明治期の北海道で1戸が農業経営を行うのに適切とされていた面積。生計の確立を図るための基本的 条件を欠くことになる」
298p「下付地中の没収面積の割合を見ると、全道的には約2割という数値が得られた。」
▲「右上表」下付地の面積自体が生計の確立を無視。明治政府は真剣に アイヌ民族の勧農政策を考えていなかった。
「下表」さなきだに少ない下付地面積の内24%の23.8平方qが没収されている。 (2021.10.1)


主な土地問題の整理:
琵琶湖670平方q(67,000ha)を基準 何個分

@明治5年開設・明治21年 新冠御料牧場
 384平方q(38,400ha)     0.57個
A明治19年〜明治29年
「土地払い下げ規則」 4,221平方q(422,100ha) 6.3個
B明治22年
華族組合 雨竜農場 500平方q(50,000ha) 0.75個
C明治27年
 旭川近文原野 1.5平方q(150ha)
D明治30年〜明治41年
「未開地処分法」 18,098平方q(1,809,800ha) 27.0個
E明治32年
「旧土人法」による下付地 96平方q(9,600ha) 0.14個 本来の1/60
▲「未開地処分法」のあとの耕作不能地の下付。 明治19年「土地払い下げ規則」時のアイヌ民族の人口は17,098人。 開拓者1人につき10万坪(33.3ha)ならば17,062×33.3ha=(568,164 ha)=5,681平方q。琵琶湖8.5個分(2021.10.7〜9)

『近代北海道とアイヌ民族』 目次
第一部 明治期の狩猟・漁業規制とアイヌ民族の生業

第一章 「北海道鹿猟規則」の制定過程──毒矢猟の禁止を中心に  
 はじめに
第一節 狩猟規制法規の制定過程  第二節 毒矢猟禁止に対するアイヌ民族の対応  第三節 毒矢猟の一部容認と全道的な禁止へ
 おわりに
第二章 「北海道鹿猟規則」施行後のシカ猟
 はじめに
第一節 自律的な狩猟秩序の破壊  第二節 その後の「北海道シカ猟規則」の改正  第三節 「北海道鹿猟規則」の運用状況 第四節 シカの急激な減少  
 おわりに
第四章 千歳川のサケ漁規制とアイヌ民族
 はじめに
第一節 開拓使によるサケ漁規制  第二節 札幌県の対応  第三節 天然孵化から人工孵化へ
 おわりに
1898年(M31)
勅令第37号「北海道植民地」と書かれる
1899年(M32)
旭川に第7師団設置(師団兵舎造営工事請負、大倉土木組) 大倉土木組大倉喜八郎、道庁の官吏と「土人給与地」を詐取図る
浜田鋭一「北海道鉄道史」25頁
1903(明治 36)年に旭川村を訪れた 徳富蘇峰は町の様子を次のように 語っている。
「上川郡は北海道師団設在地に して、其の発達の模様可驚候。旭川一町に於て、三十一年に五千八百人の人口あり、三十二年に 七千百人になり、昨年に至りて(明治 35)、二万三千三百余人に相成候。一年に師団新設の為に金 の落つること四百万円と申候へば、その突如として繁昌を来したる偶然にあらず候」
▲今日、見つける。(2023.11.4)
*「北海道旧土人保護法」制定
東京大学卒(拡大)
白仁武(しらに たけし)
「人情為さヾるべからざるの責任」

『アイヌ民族近代の記録』452p(拡大)
土地所有権の制限
旧土人法制定時の質疑1 土地所有権の制限
▲法制定時からアイヌ民族の権利の侵害はわかっていた。これはショック。(2023.3.4)
▲19世紀最後の年。旧土人保護法制定。その意図は。白仁武の言葉に当時の世論が的確に表現されている。 (2022.2.13)
明治憲法
「第二十七條 日本臣民ハ其ノ所有權ヲ侵サルヽコトナシ
公uノ爲必要ナル處分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」
北海道旧土人保護法
「第二條 前條ニ依リ下付シタル土地ノ所有權ハ左ノ制限ニ從フヘキモノトス
一 相續ニ依ルノ外讓渡スコトヲ得ス
二 質權抵當地上權又ハ永小作權ヲ設定スルコトヲ得ス
三 北海道廳長官ノ許可ヲ得ルニ非サレハ地役權ヲ設定スルコトヲ得ス
四 留置權先取特權ノ目的トナルコトナシ
前條ニ依リ下付シタル土地ハ下付ノ年ヨリ起算シテ三十箇年ノ後ニ非サレハ地租及地方税ヲ課セス又登録税ヲ徴収セス
舊土人ニ於テ從前ヨリ所有シタル土地ハ北海道廳長官ノ許可ヲ得ルニ非サレハ相續ニ因ルノ外之ヲ讓渡シ又ハ 第一項第二及第三ニ掲ケタル物權ヲ設定スルコトヲ得ス」

第1条・北海道旧土人にして農業に従事する者、又は従事せんと欲する者には一戸に付土地一萬五千坪(5ha)以内を限り無償下付することを得 
第2条・相続に因るのほか譲渡することを得ず
(跡継ぎのいない家、子が家出をして連絡が取れない・没収・不在地主。一般小作農民が群がった。)
北海道長官の許可を得るにあらざれば地役権を設定することを得ず。譲渡、売買禁止。
小作権の設定は可(99年・高利前払い)。
第3条(没収規定・15カ年ごとの手続き)
15カ年を経るも開墾せざる部分はこれを没収す。
(読み書きのできない旧土人、法務局の登記簿台帳は没収、役場の納税台帳は旧土人名義のままで納税をさせていた)
▲第3条の適用の実態を明らかにしたもの。山田伸一『近代北海道とアイヌ民族』259p〜307p(2021.10.1)
▲更に山田『同書』309p〜328pで第2条第3項の問題を深く理解する事。(2022.8.7)


第10条 北海道長官は共有者の利益のために共有財産の処分を為し、又必要と認めるときは、その分割を拒むことを得。
(共有財産、共有者、アイヌの主権を認めず北海道長官すなわち国家の名においてどうにでもできるという内容)。

「北海道旧土人保護法」同「施行規則」(1899・4・8、内務省令第5号)
同「施行細則」
第1条・保護法第一条に依り未開地の下付を受けんとする者は第一号書式の願書に図面及家族調を添へ北海道庁長官に差出すべし (1899・6・13、北海道庁令第51号)(北海道庁訓令第37号、)(昭和22年3月21日改定後も・新憲法制定後・差別)

*「国有未開地処分」のあと旧土人に農業の奨励土地の給付(初めてアイヌ民族に土地の下付)給与地・1戸につき1万5千坪=5ha=5町歩 アイヌ語の申請不可
*共有財産管理規定(北海道・樺太・千島)(32年10月3日)
[漁業、放牧経営、就業資金、御下賜金、救恤費の余剰金]
[共有財産処分][北海道庁長官管理] 
勧農、日本語教育、日本人化政策、アイヌ民族絶滅政策
2条の2「質権抵当権地上権又は永小作権を設定することを得ず」(S22年3月21日改正削除)

「北海道旧土人保護法提案理由書」
「北海道旧土人の保護については、だれかれの差別無く平等にこれを愛する天皇のお考えを受けて 明治のはじめから施策を講じてきたが、いまだ充分にその目的を達してはいない。
思うに旧土人が天皇の仁政の感化をうける日が浅く、その知識の啓発が大変低いがために 古くからのその生命を託していた自然の恩恵をだんだん内地からの移民に搾取され、 時が経るにつれ生活基盤を失い、ただ飢えと貧困に困り果てるだけの状態になってしまった観がある。
これは優るものが勝ち劣るものが負ける自然の成り行きでありどうすることもできないのだろうか。 しかしながら旧土人も等しく天皇の臣民であり、いまやこのような悲境に落ちぶれているのを目にしてこれに手だてをしないわけにはいかない。 そこでこの救済の方法を設けて災いを除き、窮状を哀れんで適当な産業によりその生活を保全し、 その家計を成すようにするのは、誠に国家の義務であり、天皇のお考えに添うものであると信じるものである。 これがこの法案を提出する理由である。」
▼和人のやってきたことを棚に上げてよくもこのような提案理由を述べられるのかと、怒りがこみあげてくる。加藤政之助さんの比ではない。
ユポさんのコメントは上記のように明治30年(1897年)の「国有未開地処分の後、旧土人に農業の奨励、土地の給付。 初めてアイヌ民族に土地の下付、しかも未開地」。
北海道の土地問題は明治5年(1872年)からはじまり明治32年(1899年)の「北海道旧土人保護法」で 明治政府としては決着をつけたようだ。
しかし、それから100年後の1997年、国連・人種差別撤廃委員会が採択した 「先住民族に関する一般的勧告」及び2007年、国連総会が採択した 「先住民族の権利に関する国際連合宣言」で先住民族の土地問題が急浮上してくる。

▼「北海道旧土人保護法」の背景を榎森進『アイヌ民族の歴史』(447〜451頁)では次のように指摘されている。
「この法律は1887年米国議会で制定されたインディアンに対する「一般土地割当法」(通称ドーズ法)をモデルとして 立案・制定されたものと解されている。両法は先住民族を農業に従事させる目的で一定面積の土地を私有地として無償で付与していること初め、 先住民族の農民化を促進するために、色々な補助手段を講じている等共通点がある。
しかし大きな違いもある。
「北海道旧土人保護法」では、土地付与の対象が「農業ニ従事スル者又ハ農業ニ従事セント欲スル者」に限定され、 しかも単位面積が「一戸ニ付」5町歩以内と、個人ではなく、家単位に付与されたのに対し、 「ドーズ法」ではインディアン全員、つまり個人が対象であり、その単位面積も世帯主一人当たり160エーカー(65.3町歩)18歳以上の単身者には80エーカー(32.6町歩)18歳未満の単身者及び孤児には40エーカー(16.3町歩)の土地が付与された。
▼「ドーズ法」
世帯主1人65.3町歩=65.3ha
18歳以上の単身者32.6町歩=32.6ha
18歳未満の単身者及び孤児16.3町歩=16.3ha
▼1872年「地所規則」
開拓者1人33.3ha。
アイヌの人たちにも適用を考えた。琵琶湖8個分となった。
「ドーズ法」から見ておかしくなかった。 むしろ「地所規則」は「ドーズ法」を参考に作られた可能性もある、ということか。
「北海道旧土人保護法」は「一戸ニ付」五町歩=5ha。過去の経緯を忘れたか。問題外。(2020.4.29)

ではなぜ時の政府は、「北海道旧土人保護法」を立案・制定するに当たってアメリカの「ドーズ法」を参考にしたのであろうか。 これは、時の政府が大きな課題としていた欧米列強との「条約改正」の問題と密接に関わっていたものと思われる。 外国人が当時のアイヌ民族が置かれていた悲惨な状況を実見し、日本は未だ「非文明」の国との批判を防ぐためににも 先住民族であるアイヌ民族を「保護」するための法的措置を講じることが緊急の課題になったものと推察される。」

▼今後アイヌ民族のアイヌモシリ回復を考えるとき「ドーズ法」が参考になると思っています。 回復されるべき土地の広さ、また農業者だけでなく、家単位でなく、アイヌ人全員が生きていけるモシリの回復が実現されるべきだと私は考えています。 (2018.12.5)
▼旭川に第7師団設置についてwp:第7師団(だいしちしだん)は大日本帝国陸軍の師団の一つ。 北海道に置かれた常備師団として北辺の守りを担う重要師団
1900年(M33)
・道庁、アイヌ給与地を、大倉組に払い下げ決定。アイヌ民族を天塩(てしお)川上流山地に強制移住を命令
・移転反対運動おこる 
・道庁長官、強制移住を撤回、留住を認める。
近文給与地問題
近文給与地問題 このいきさつを旭川市HPで勉強しました。
1894年 (明治27)
近文アイヌ36戸に、給与予定地150万坪のうち49万坪を割り渡す
近文 自衛隊敷地150ha。給与予定地は500haだった。

1899年(明治32)
「北海道旧土人保護法」制定(1万5,000坪(5ha)以内の土地を無償付与、教育・共有財産管理などを規定)。
大倉組、鷹栖村字近文で第七師団建設請負工事着工(1902年竣工)
1900年(明治33)
道庁、近文の給与予定地の大倉組への払下げを決定し近文アイヌに天塩への移転を命じる(第1次給与地問題)。
鷹栖村総代人ら、近文アイヌの給与地移転に反対し「旧土人留住請願書」を道庁に提出(2月)。
鷹栖村有志とアイヌ代表上京、政府要人に給与地移転中止を陳情(4月)。
道庁長官、近文アイヌの留住を認める(5月)。
1903年(明治36)
近文アイヌ38人、道庁に移転嘆願書を提出(第2次給与地問題)
1906年(明治39)
道庁、旭川町にアイヌ給与地として46万坪(152ha)の貸付を許可(旭川町はアイヌに1戸当たり1町歩を貸し付け、残地は和人に有償で貸与
1932年(昭和7)
アイヌ給与地の旭川市への貸付期間満了に伴い第3次給与地問題発生。 旭川市会議員・近文アイヌ代表、給与地付与を求めて上京、各方面に陳情(4月)。近文アイヌの荒井源次郎ら上京、陳情運動を行う(6月、11月)
1934年(昭和9)
「旭川市旧土人保護地処分法」制定(近文アイヌ49戸に、1戸当たり1町歩の土地を付与、残地は共有財産)

▼旭川市のHPでは近文給与地問題は1894年(明治27)からですが、問題の芽はユポさんが取り上げられています 「1890年(M23)旭川郊外近文原野に、150万坪(500ha)「土人給与予定地」予定、1891年(M24)決定」
にあるとおもいます。
その「給与予定地」に第七師団が移転してくることになり、 武器・軍事政商大倉喜八郎(大倉組)が一儲けしようと介入したことが問題を引き起こしたようです。 大倉喜八郎は現在ではホテルオークラの創業者として有名ですが、汚れていますね。
▲『アイヌ民族近代の記録』(小川正人・山田伸一編集 1998.1.20初版 草風館)から抜粋。この記録に運動が詰まっているようだ。 掘り返す事。(2022.2.22)

「天川恵三郎手記」より。
明治32年和人三浦市太郎の甘言、ならば近文の他に天塩のテーネムを貰いたい。 ウソ。北海道庁長官 園田安賢、陸軍大臣桂太郎、大倉喜八郎の悪巧み。三浦市太郎を告訴。
明治33年天川恵三郎に応援求む。上京、内務大臣西郷、大隈重信に会う。甘言取り消し。下付の条件開墾。河田より2000円借金。開墾後も園田下付せず。
明治37年栗山、天川を告訴。9月未決監に入監。38年5月出獄。
明治38年6月旭川町長奥田千春を告訴。奥田に対し、アイヌに返還せよとの判決。 奥田に会い、町役場がアイヌを保護するとの条件で示談。その後も土地はアイヌに返って来ない。栗山は移転願書を出したと聞いている。
▲天川恵三郎は最後は旭川町長奥田千春を頼る。給付地の返還実現せず。(2022.2.22)

「栗山國四郎翁手記」より。
近文は墳墓の地。貸付地でなく給与地。
天川恵三郎は偽書作成、河田某と売買契約書、混乱を作り出す。
明治35年来、運動を開始。天川を訴え、収監される。
明治維新39年道庁は旧土人保護規程を定め管理を旭川町に託す。
願わくば青年諸氏自治自営奮闘努力以って…

▲アイヌ民族の中の活動家の2つの典型。町長にすり寄る天川、自治自営の栗山翁。 今日までつづく。(2022.2.23)
▲「新旭川市史」を勉強中。運動のこと、1984年のアイヌ新法の背景、今と同じような問題が近文の歴史に詰まっている。 (2022.3.21)
                                                 トップへ戻る
1901年(M34)
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桂 太郎(1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉- 1913年〈大正2年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。 内閣総理大臣、台湾総督、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣、大蔵大臣、貴族院議員、内大臣、外務大臣などを歴任。 日露戦争時の内閣総理大臣。
第1次桂内閣は、陸軍大将の桂太郎が第11代内閣総理大臣に任命され、 1901年(明治34年)6月2日から1906年(明治39年)1月7日まで続いた。 本内閣の成立後、藩閥政府の主宰の座を山縣有朋から引き継いだ桂と、 元老筆頭の伊藤博文から立憲政友会を引き継いだ西園寺公望が協調、交互に首班となって組閣したことから、 1913年(大正2年)の大正政変までの時期は桂園時代(けいえんじだい)と呼ばれている。
▲1901年〜1913年、桂園時代。日露戦争と韓国併合。ロシアの影響を排除して韓国を植民地化。(2023.4.29)
「旧土人教育規程」・「旧土人学校」設立(10ヵ年計画・21校)
・平取(びらとり)にまず設置、(1909年21校に) 
・和人児童と区別しアイヌ児童に簡易教育(年限・科目)を施す 
・アイヌ語禁止、日本語による教育
1902年(M35)
弁開凧次郎、八甲田山遭難者捜索のため出動
▼wp:日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦したため、 さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、それに向けて準備をしていた。 日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊の課題であった。
八甲田雪中行軍遭難事件が発生した際、凧次郎は、6人以上のアイヌからなる救出捜索部隊を組織し、 2月9日に八甲田山で遭難者の捜索活動を展開する。
地元民から歩兵第5連隊が遭難した周辺の地名を聞き出し、退避しそうな場所を重点的に探索するという遺体収容手法によって注目される。
同年4月22日に、作業終了する。67日間の捜索活動で遺体11体と多数の遺品を発見した。
▼このことが日本人にどれだけ知られているだろうか。私も初めて。

1903年(M36)
 大阪「内国勧業博覧会」、「人類館」事件発生
  ペンリウクさん ▲ペンリウクさんの生涯、1832年〜1903年は植民地主義・帝国主義の時代。 MIPの回復によって痛みを癒す。(2022.12.28)
  (拡大)
▼wp:19世紀半ばから20世紀初頭における博覧会は 「帝国主義の巨大なディスプレイ装置」であったといわれる。
博覧会は元々その開催国の国力を誇示するという性格を有していたが、帝国主義列強の植民地支配が拡大すると、 その支配領域の広大さを内外に示すために様々な物品が集められ展示されるようになる。
生きた植民地住民の展示もその延長上にあった。
1903年に大阪・天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、
アイヌ・台湾高砂族(生蕃)・沖縄県(琉球人)・朝鮮(大韓帝国) ・支那(清国)・インド・ジャワ・バルガリー(ベンガル)・トルコ・アフリカなど合計32名の人々が、 民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国が自分たちの展示に抗議し、 問題となった事件である。
▼なんと趣味の悪い博覧会のことよ。
1904年(M37)
米国「セントルイス万国博覧会」、アイヌ民族8人参加
「日露戦争」(〜05)
「北鎮」の墓碑銘:第七師団第二十五聯隊の記憶」渡辺浩平 https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/2173
森鴎外は軍医部長として日露戦争で第二軍に従軍した。第二軍は広島の宇品(現広島港)から出港し、 遼東半島に上陸、大連から遼陽へと進軍する。鴎外は征途につく前に広島で「第二軍」という歌をつくっている。 1904年(明治37年)3月27日のことだ。太平天国(長髪族)のくだりまでを引く。
 海の氷こごる北国も/春風いまぞ吹きわたる/三百年来跋扈せし/ろしやを討たん時は来ぬ/十六世紀の末つかた/ うらるを踰えしむかしより/虚名におごる仇びとの/真相たれかはしらざらん/ぬしなき曠野しべりやを/我物顔に奪ひしは/浮浪無頼のえるまくが/おもひ設けぬいさをのみ/黒龍江畔一帯の/地を略せしも清国が/長髪族の叛乱に/つかれしからの僥倖ぞ…… (森林太郎「第二軍」『うた日記』春陽堂、1907年(明治40年)(復刻版、1971年、日本近代文学館))(漢字かなの旧字体は新字体に改めた)  「第二軍」には曲がつけられ、戦地に向かう輸送船のなかでうたわれていたという。 記者として従軍した田山花袋が書きのこしている(田山花袋『第二軍従征日記』雄山閣、2011年)。 『うた日記』は鴎外が日露戦争の心模様を歌でつづったものだ。
▼今日、このHPに出会いました。 「ろしやを討たん時は来ぬ/ぬしなき曠野しべりやを/我物顔に奪ひしは」鴎外にしてこの認識。朝鮮半島、北海道、琉球のことは鴎外の頭にはなかったようだ。 時代に巻き込まれることは恐ろしい。自戒すべし。(2021.1.29)

「第1次日韓協約」
▼「セントルイス万国博覧会」に下記のような背景があったことを知りました。紹介させていただきます。
セントルイス万国博覧会と日本 〜公式ガイドおよび関連文献復刻集成〜 (全4巻+別冊解説)Louisiana Purchase Exposition, St. Louis in 1904:A Collection of Official Guidebooks and Miscellaneous Publications監修・ 解説: 大井浩二(関西学院大学名誉教授)

アメリカによるフランスからのルイジアナ購入の100周年を記念し、セントルイスで1904年に開催された万国博覧会は、 世界44カ国より約2000万人が参加、1900年パリ万博の4倍の土地に1500以上の展示用建設物が作られたそれまでで最大規模の万博となり、 まさに「アメリカの世紀」の始まりを予感させる大イヴェントとなりました。
西洋各国や初めて万博に参加した中国などがそれぞれの文化、芸術に関する華やかな展示を催す一方、 米国は統治を始めたフィリピンより連行した多くの先住民族を「フィリピン村」の中に住まわせ「人種の展示」を行い、 それは同時に帝国主義や人種差別など、負の20世紀史の始まりを象徴する出来事であったともいえます。

日露戦争中であった日本政府も、西洋列強と肩を並べつつある国力を背景に、またそのプロパガンダのために積極的に参加し 、従来万博に出品していた美術工芸品に加えて、教育制度に関する展示や工業製品も数多く出品し、 近代化の進む社会を印象付けようと試みました。
しかし一方では、多くの芸者が参加し日本を売り込み、ジャポニズムのイメージがそれまでの万博のように日本の展示を支配していたようです。
また「フィリピン村」に倣うかのように設置された「アイヌ村」で、日本から連れてこられた7人の成人男女と2人の女児が「陳列」されていたことは、 セントルイス万博の白人至上主義的な性格を裏付けています。
さらに、この万博には、民間人や企業の関心も高く、その中には星一(後に星製薬、星薬科大学を設立)のように 日本展のハンドブックを自費出版し、会場で販売するような起業家もあらわれました。(下線は引用者)


「第1次日韓協約」wpこの協約が締結されたとき、日露戦争はつづいていたが、朝鮮半島での日露の戦闘は終了し、 韓国は事実上日本の占領下に入っていた。
協約の内容は、 大韓帝国政府は日本政府の推薦する日本人1名を財務顧問に、外国人1名を外交顧問として雇い、 その意見にしたがわなければならない、また、外交案件については日本政府と協議のうえ決定・処理しなければならないというものであり、 韓国保護国化の第一歩となるものであった。(下線は引用者)
1905年(M38)「第2次日韓協約」
*日露戦争で南樺太を手に入れる、樺太アイヌ帰国
1905年のアイヌモシリ
平山『地図でみる』166p(拡大)
「すべてのアイヌモシリが日本の一部にされた」
▼wp:第二次日韓協約は、日露戦争終結後の1905年(明治38年)11月17日に大日本帝国と大韓帝国が締結した協約。 これにより大韓帝国の外交権はほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となった。(下線は引用者)

1906年(M39)9代目北海道庁長官・河島 醇
1907年(M40)「第3次日韓協約」
▼wp:第二次日韓協約によって外交上の日本の保護国となり、 すでに直接の外交権を失っていた大韓帝国(朝鮮王朝)は、この協約により高級官吏の任免権を韓国統監が一部権限を持つこと(第4条)、 韓国政府の一部官吏に日本人を登用できること(第5条)などが定められた。
これによって、朝鮮の内政は日本の強い影響下に入った。また非公開の取り決めで、 韓国軍の解散と司法権・警察権の委任が定められた。

1909年(M42)伊藤博文暗殺
▼朝鮮民族の当然の反発。
冨内村小学校
明治42年12月山辺安之助
冨内村小学校 (拡大)

落帆川 (拡大) あいぬ物語C (拡大)
▲ 1909年(明治42年)、山辺はトンナイチャの総代となり、 樺太アイヌのための最初の学校を富内村西部のオチョポカ(落帆)に建設する (佐々木漁場が資金支援をおこなう)。落帆(オチホ)は樺太東海岸、落帆川の河口近くの地名。もとはアイヌ語の オチョポッカ=オチョポホカ(Ocopohka)。「魚がいるところ」が語源であると言われる。 やっぱり教育だ。 (2023.10.1)
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1910年(M43)
*「外国人の土地所有権に関する法律」  北海道は台湾、樺太(サハリン)同様日本の植民地である
近文(ちかぶみ)アイヌ民族居住地に小学校設置
*「北海道開拓15カ年計画」(9代目北海道庁長官・河島 醇)
道内に7千キロの道路開削
9つの港湾整備/ 主要26河川の治水調査
国有未開懇地払い下げ、開発
北海道の人口を153万人から300万人に増加させる
予算総額7千万円
・ 土地不当払い下げ問題にからむ緩んだ規律の粛清
「韓国併合条約」
▼「外国人の土地所有権に関する法律」
明治43年3月1日第26年度回帝国議会衆議院「外国人ノ土地所有権ニ関スル法律案」委員会議録(速記)第2回の外務大臣小村寿太郎発言
「北海道、台湾、樺太の如き、今まだ植民地の位地に居る此の如き未開の地に於きましては、 土地を基礎と致しまする殖民を成るべく多く移住せしむる必要がありますから、斯る土地に於きましては、 外国人に土地の所有を許さぬことになって居ります」(下線は引用者)

▼「北海道開拓15カ年計画」は壮大な計画だと思い政策の背景を知る必要があると考えました。国土交通省の資料を見つけました。 北海道開拓15カ年計画をクリックしてください。計画の全容が一覧表になっています。 この国土交通省の資料を見ると
明治 2〜14 年「開拓使時代」
・士族授産と北辺防備が主な目的
明治 34〜42 年 「北海道 10 年計画時代」
・日清戦争の勝利により日本経済の発展がもたらされた一方、急激な人口増加、資本主義の発達に伴う貧農の発生などの問題が生 じ、その解決を北海道開拓に求める機運
明治 43〜昭和元年「北海道第 1 期拓殖計画時代」
・日露戦争後、我が国の人口が急激に増加する傾向が現れ、北海道は食糧、資源の供給地として、また、新たに領土となった樺太への基地とし ての役割を担うに至る
昭和 2〜21 年「北海道第 2 期拓殖計画時代」
・北海道の拓殖事業は、国内における人口並びに食糧政策の上からも重要
・一方、北海道の開拓が専ら資源の掠取に走り、また、移民の招来に努めたものの、その生産安定のため政策が不十分であるなど、新たな問題
昭和 22〜26 年「戦後緊急開拓時代」
・戦後の我が国経済を復興し、国民生活を安定させるため、国内資源を開発し、食糧難の打開と人口問題の解決を図ることが急務とされ、 広大な開発適地と豊富な資源を包蔵する北海道の開発が重要な国家的課題として大きくクローズ・アップされる
▼北海道は国家戦略上、明治の初めは士族授産と北辺防備の役割を担い、その後、食糧と資源の供給基地の役割を担ってきたことがよくわかります。
▼明治43年度の歳出は5.7憶円、7千万円は12%に当たる。
▼wp:韓国併合(英: Japan's Annexation of Korea)とは、1910年(明治43年)8月29日、 韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記される。 この後、日本による統治は1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が米国に降伏するまで、35年間続いた。
▼wp:韓国併合ニ関スル条約とは「韓国皇帝が大韓帝国(韓国)の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」 ことなどを規定した条約のこと。
条約公布に際し大韓帝国皇帝(純宗)が公布した勅諭
「皇帝、若(ここ)に曰く、
朕否徳にして艱大なる業を承け、臨御以後今日に至るまで、維新政令に関し承図し備試し、 未だ曽て至らずと雖も、由来積弱痼を成し、疲弊極処に至り、時日間に挽回の施措望み無し、
中夜憂慮善後の策茫然たり。
此に任し支離益甚だしければ、終局に収拾し能わざるに底(いた)らん、
寧ろ大任を人に託し完全なる方法と革新なる功効を奏せいむるに如かず。
故に朕是に於いて瞿然として内に省み廊然として、自ら断じ、
茲に韓国の統治権を従前より親信依り仰したる、隣国大日本皇帝陛下に譲与し、
外東洋の平和を強固ならしめ、内八域の民生を保全ならしめんとす。
惟爾大小臣民は、国勢と時宜を深察し、煩擾するなく各其業に安じ、
日本帝国の文明の新政に服従し、幸福を共受せよ。
朕が今日の此の挙は、爾有衆を忘れたるにあらず、専ら爾有衆を救い活かせんとする至意に出づ、
爾臣民は朕の此の意を克く体せよ。
隆煕四年八月二十九日 御璽」
▼この韓国・純宗皇帝の言葉は日本人として胸が痛む。
1876年(M9)の「日朝修好条規」に始まり、
1904年(M37)「第1次日韓協約」、
1905年(M38)「第2次日韓協約」、
1907年(M40)「第3次日韓協約」、
1910年(M43) そしてついに「韓国併合」。
日本人らしく(いやな意味で)じわりじわり植民地化を進め、 最後に純宗にこのようなことまで言わせている。朝鮮民族の尊厳を踏みにじり、そして朝鮮人差別。 日本人としてこれでいいのか。相手の身になって心を寄せるべき。
▼全くの植民地化(colonization)ではないか。併合(annexation)という生易しいものではない。(2020.3.20)
旅する文学 2022.12.3朝日朝刊
(拡大)1912年 『土』旧日立鉱山155メールの煙突。1914年完成。
▲ 富国強兵の時代。今日の中国。(2022.12.6)


1911年(M44)
帝国劇場 明治44年完成。2月10日新築落成披露会。招待2000名。(拡大)
*「猟虎膃肭獣保護条約」
・アイヌ民族は土人(aborigens・native)=先住民族として狩猟権を認めた(日・英・米・露の4カ国締結の国際条約)
* 北海道人口170万人
▼「猟虎膃肭獣保護条約」の英語原文は 「CONVENTION FOR THE PROTECTION OF FUR SEALS」日本語訳の土人は4条 aborigines、 11条naitivesの2種類が使われている。

*苫小牧に王子製紙進出(「アイヌ わが人生」209p)
あいぬ物語D (拡大)
南樺太地図
知床・胡蝶別・内友・白主・札塔・弥満別・冨内(拡大)
あいぬ物語翻訳
金田一京助全集第六巻(拡大)
1913年(T2)
樺太アイヌ民族山辺安之助口述「あいぬ物語」発刊
▼wp:山辺安之助、アイヌ名「ヤヨマネクフ」(Yayomanekuh)。 樺太アイヌの指導者として、集落の近代化や、子どもたちへの教育に尽力した。
1914年(T3) 
「第1次世界大戦」勃発(セルビア)、日本参戦
中国に21か条の要求
▼日本はなんのために第一次大戦に参戦したのか?濡れ手に泡のような振る舞い。
▼下記の1号から5号の各項目について合計21条にわたって要求。中国にとっては屈辱的。特に第5号。大隈内閣は何を考えていたのか。 日本が中国から攻撃を受けていたわけでもない。以下Wikipediaからの要約。
第1号(4条)山東省について ドイツが山東省に持っていた権 益を日本が継承することなど。

第2号(7条)南満州及び東部内蒙古について 旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長することなど。

第3号(2条)漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について 日中合弁化すること。

第4号(1条)中国の領土保全について 沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと。

第5号(7条)中国政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として有力な日本人を雇用することなど。

▼どうも気になりました。中国に21か条の要求。きっちり全体を読む必要があると考えHPに取り込みました。 (2020.7.4)
対華21ヶ条要求
ドイツの捕虜 (拡大)
▼上の記事。
「日本は1914年、中国大陸でドイツの拠点だったチンタオを占領。捕虜として 約五千人のドイツ人を日本各地の収容所に連れてきた。ドイツ人捕虜には比較的若い技術者が多かった。狛江市の市民団体 「ヘルマン・ウオルシュケさん の足跡をたどる会」のヘルマンは戦後も日本に残り身につけていた食肉加工技術を伝えた。」
戦闘はいつの時代も若者。(2022.9.15)
第1号 山東問題の処分に関する条約案
日本国政府及支那国政府は、偏に極東に於ける全局の平和を維持し且両国の間に存する友好善隣の関係を益々鞏固ならしめんことを希望し、 ここに左の条款を締結せり。
1 支那国政府は、独逸国が山東省に関し条約其他に依り支那国に対して有する一切の権利利益譲与等の処分に付、 日本国政府が独逸国政府と協定すべき一切の事項を承認すべきことを約す。
2 支那国政府は、山東省内若くは其沿海一帯の地又は島嶼を、何等の名義を以てするに拘わらず、他国に譲与し又は貸与せざるべきことを約す。 
3 支那国政府は、芝盃又は龍口と膠州湾から済南に至る鉄道とを聯絡すべき鉄道の敷設を日本国に允許す。
4 支那国政府は、成るべく速に外国人の居住及貿易の為自ら進で山東省に於ける主要都市を開くことを約す。其地点は別に協定すべし。

第2号 南満東蒙に於ける日本の地位を明確ならしむる為の条約案
日本国政府及支那国政府は、支那国政府が南満州及東部内蒙古に於ける日本国の優越なる地位を承認するに依り、ここに左の条款を締結せり。
1 両締約国は、旅順大連租借期限並南満州及安奉両鉄道各期限を、何れも更に九九カ年づつ延長すべきことを約す。
2 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て、各種商工業上の建物の建設又は耕作の為必要なる土地の賃借権又は其所有権を取得することを得。
3 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て、自由に居住往来し各種の商工業及其他の業務に従事することを得。
4 支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける鉱山の採掘権を日本国臣民に許与す。其採掘すべき鉱山は別に協定すべし。
5 支那国政府は、左の事項に関しては予め日本国政府の同意を経べきことを承諾す。
南満州及東内蒙古に於て他国人に鉄道敷設権を与え、又は鉄道敷設の為に他国人より資金の供給を仰ぐこと
南満州及東部内蒙古に於ける諸税を担保として他国より借款を起こすこと
6 支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける政治財政軍事に関し顧問教官を要する場合には、必ず先ず日本国に協議すべきことを約す。
7 支那国政府は本条約締結の日より九九カ年間日本国に吉長鉄道の管理経営を委任す。

第3号 漢冶萍公司に関する取極案
日本国政府及支那国政府は、日本国資本家と漢冶萍公司との間に存する密接なる関係に顧み且両国共通の利益を増進せんが為、左の条款を締結せり。
1 両締約国は、将来適当の時機に於て漢冶萍公司を両国の合弁となすこと、 並支那国政府は日本国政府の同意なくして同公司に属する一切の権利財産を自ら処分し又は同公司をして処分せしめざることを約す。
2 支那国政府は、漢冶萍公司に属する諸鉱山付近に於ける鉱山に付ては同公司の承諾なくしては之が採掘を同公司以外のものに許可せざるべきこと、 並其他直接間接同公司に影響を及ぼすべき虞ある措置を執らんとする場合には先ず同公司の同意を経べきことを約す。

第4号 中国の領土保全の為の約定案
日本国政府及支那国政府は、支那国領土保全の目的を確保せんが為、ここに左の条款を締結せり。支那国政府は、 支那国沿岸の港湾及島嶼を他国に譲与し若くは貸与せざるべきことを約す。

第5号 中国政府の顧問として日本人傭聘方勧告、其他の件
1 中央政府に政治財政及軍事顧問として有力なる日本人を傭聘せしむること。
2 支那内地に於ける日本の病院、寺院及学校に対しては、其土地所有権を認むること。
3 従来日支間に警察事故の発生を見ること多く、不快なる論争を醸したることも少からざるに付、 此際必要の地方に於ける警察を日支合同とし、又は此等地方に於ける支那警察官庁に多数の日本人を傭聘せしめ、 以て一面支那警察機関の刷新確立を図るに資すること。
4 日本より一定の数量(例えば支那政府所要兵器の半数)以上の兵器の供給を仰ぎ、 又は支那に日支合弁の兵器廠を設立し日本より技師及材料の供給を仰ぐこと。
5 武昌と九江南昌線とを聯絡する鉄道及南昌杭州間、南昌潮州間鉄道敷設権を日本に許与すること。
6 福建省に於ける鉄道、鉱山、港湾の設備(造船所を含む)に関し外国資本を要する場合には、先ず日本に協議すべきこと。
7 支那における本邦人の布教権を認むること。
▼やはり考えが変わりました。中国を部分的に植民地にするという内容です。 よくもここまで中国を見下したものですね。日本人はこの事実を認識したうえで21世紀の今日の日中関係を 考えていく必要があると思います。(2020.7.4)

上貫気別(拡大)

1916年(T5)
「新冠御料牧場」・姉去のアイヌ民族80戸、平取村上貫別に「強制移住」
▼二風谷ダムのある沙流川に流れ込む貫気別川の上流、緑の矢印のあたり。

「第2次旧土人教育規程」公布
▼以下は様似(さまに)小学校開校110周年記念事業の記念誌 からの抜粋です。
「1916年(大正5年)、庁令86号を以て、アイヌの子弟に対する特別なカリキュラム「旧土人教育規程」が公布されました。
アイヌの人たちの学校の教育内容も、修業年限を4年とし、就学年齢のはじまりを7才(一般は6才)よりとしました。 学校では主に修身、国語(日本語)、算術、体操を教え、実業(農業、裁縫)をも教えることとしました。
一方、家事手伝いを認め、週18時間まで、授業時間を減らすことができるようにしました。
しかし、この簡略を旨とした教育、特に、地理、歴史、理科をのぞいた措置は、アイヌの人たちのみならず教師側からも反対があり、 大正11年より本規程を破棄して、他の子どもたちと同じ一般法によることになりました(『日高教育史』(上巻):P.226)。
就学年限は6カ年とし、就学年齢も7才から6才となり、地理、日本歴史、理科、図工も加わりました。 勿論、アイヌ語などアイヌに関することは学習内容として盛り込まれてはいませんでした。」

1917年(T6)
朝日朝刊2020.12.9
駒野さんの記事はいつも示唆に富んでいます。特に私が惹かれたのはウイルソン大統領の理念です。以前からレーニンとの共通性 を感じていたからです。(2020.12.9)
「史上最悪のインフルエンザ」の著者アルフレッド・W・クロスビーは「『戦争というすべての戦争をなくし、人類を 高いモラルを持つ新たなレベルまで引き上げようとする任務』に自ら着手した男であった」と述べています。

「ロシア革命」11月(10月革命・ロシア歴・10月)
レーニン=「平和に関する布告」(無併合・無賠償・民族自決権)
     「土地に関する布告」
1918年(T7)
北海道、開道50年記念博覧会開催

武隈徳三郎「アイヌ物語」発刊
「ソビエト社会主義共和連邦」誕生(1918〜1991)
「アメリカ大統領・ウイルソン」・「年頭教書」
*[14ヵ条の平和原則]発表
・公海の自由・秘密外交の禁止・経済障壁を取り払う
・軍縮をする・無併合、無賠償の原則・国際連盟の創立
・民族自決権による植民地問題の解決
「シベリア出兵」
「第1次世界大戦」終結(11月・ドイツ降伏)
▼開道50年記念博覧会wp:1918年(大正7年)8月1日から9月19日まで開かれた地方博覧会。 東京、大阪以外の地方博覧会としては、かつて見られなかった大規模なものといわれるが、 それだけに博覧会景気も空前の好景気となった。観覧者総数は142万3661人。
▼wp:シベリア出兵(英: Siberian Intervention)とは、1918年から1922年までの間に、 連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が 「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。
日本は兵力7万3,000人(総数)を投入。アメリカが7,950人、イギリスが1,500人、カナダが4,192人、イタリアが1,400人の兵力を投入。
▼因みにInterventionとは干渉。英語は明快、ことの本質を曖昧にしない。
1919年(T8)「ヴェルサイユ条約」締結
▼wp: 第一篇(1条から26条)国際連盟規約
第二篇(27条から30条)ドイツの境界 
第三篇(31条から117条)ヨーロッパ各国の政治について 
第四篇(118条から158条)ドイツの国外権益について 
第五篇(159条から213条)ドイツの軍備について
第6篇(214条から226条)捕虜や抑留者の返還 
第7篇(227条から230条)「前」ドイツ皇帝への訴追条項および一般戦争犯罪の裁判について 
第8篇(231条から247条)ドイツが連合国等に支払う賠償
第9篇(248条から263条)占領に伴う経費等の支払い方法 
第10篇(264条から312条)ドイツにおける関税、通信(万国郵便連合・万国電信連合関係)、債務・私有財産等の扱いについて 
第11篇(313条から320条)航空の分野における連合国の権利について 
第12篇(321条から386条)ドイツの港の利用、ドイツ国内河川の交通と鉄道について 
第13篇(387条から427条)国際連盟の姉妹機関とされた国際労働機関の規約 
第14篇(428条から433条)ドイツに対する監視措置 
第15篇(434条から440条)その他の条項
▼実に膨大な440条からなる条約である。
第一篇で国際連盟、第13篇で国際労働機関の設立が規定されている。
第四篇(118条から158条)ドイツの国外権益についてで、膠州湾租借地と、それに関連する特権は日本に譲渡する(山東問題)。 ドイツが放棄した植民地については、国際連盟に指名された国が統治する委任統治に移行。 マリアナ諸島、カロリン諸島、パラオ、マーシャル諸島すなわち 南洋諸島の受任国は日本となっている。

1920年(T9)
道庁、平取村に「沙流病院」開院
「国際連盟」成立(スイス・ジュネーブ)
・(イギリス・イタリア・フランス・日本・理事国) (新渡戸稲造7年間事務局次長)
・国際労働機関(ILO)成立
・常設国際司法裁判所(オランダ・ハーグ)成立
▼wp:1920年1月に発効した国際連盟規約第14条では、 「聯盟理事会ハ、常設国際司法裁判所設置案ヲ作成シ、之ヲ聯盟国ノ採択ニ付スヘシ。」 と規定されていた。
1920年6月、国際連盟が任命した法律家委員会が、常設的な司法裁判所の規程の草案を作成し、 判事任命の具体的指針を示した。このようにして作成された常設国際司法裁判所規程(英語版)は、 1920年12月13日にジュネーヴで採択された。

                                          トップへ戻る
1921年(T10)「ILO」・[先住民労働者の権利に関する報告書]
1922年(T11)
「旧土人教育規程」廃止アイヌ子弟教育を一般規定に準拠させる
「全国水平社」結成
「日本農民組合」結成
「日本共産党」結成 
▼世界の空気が変わってきたように思う。
1923年(T12)知里幸恵「アイヌ神謡集」発刊
◆アイヌの遺産「金成マツノート」の翻訳打ち切りへ 朝日新聞 2006年08月12日  樺太アイヌ語学研究者の村崎恭子・元横浜国立大学教授は「金成マツノートは、日本語でいえば大和朝廷の古事記にあたる物語で、大切な遺産。アイヌ民族の歴史認識が伝えられており、 全訳されることで資料としての価値が高まる」と話している。
▲「アイヌモシリの会」でやろう!(202310.30)

『アイヌ民族の歴史』p464

金田一京助26歳・啄木と。神謡集は36歳 NHKビデオより
最初の先住民族宣言(拡大)

                    序
マツ・幸恵 マツの母はアイヌの口承文芸の名手と称された金成モナシノウク
▲モナシノウク、マツ、幸恵・真志保の三代でアイヌ文学が継承された。(2023.10.30)
(拡大)
その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。 天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼らは、真に自然の寵児、なんという幸福な人達であったでしょう。
冬の陸には林野をおおう深雪をけって、天地を凍らす寒気をものともせず、山また山をふみ越えて熊を狩り、 夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い?の歌を友に木の葉のような小船を浮かべて、ひねもす魚をとり、 花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久にさえずる小鳥と共に歌い暮らして蕗とり蓬つみ、 紅葉の秋は野分けに穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、 圓かな月に夢を結ぶ。嗚呼何という楽しい生活でしょう。
平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。 僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。
人口変異グラフ 第8小委員会(拡大)
▲知里幸恵さんのこの序文は大正11年(1922)に書かれている。 第2次激減期である。(2022.11.11)
しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、 鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、 なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。
時は絶えず流れる。世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、 いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩を並べる日も、やがては来ましょう。 それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。
けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、 それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。
おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語 の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。
私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。
   大正十一年三月一日
                                     知里幸恵
▼知里幸恵「アイヌ神謡集」序文。
余りにも悲しすぎる。和人の責任。 明治に時代が変わってからのアイヌ民族の苦難、屈辱、切なさをこれ以上に伝える文章に出会っていない。 生活はこのように落ちぶれた。その根本に土地問題があった。

明治以降のアイヌ民族人口推移参照
   アイヌ民族の戸口(拡大) 『近代民衆の記録 5アイヌ』434p〜435

北海道人口の推移(拡大) 榎森『アイヌ民族の歴史』429p
▼北海道人口の推移。
明治6年(1873)11万の人口が大正12年(1923)には240万に急拡大。 その内アイヌ人口は1.6万から1.5万と減少。知里幸恵さん の悲しみはこの現状を吐露されたもの。(2021.5.9)

日本海岸の人口推移1 平山冊子「コタンの歴史と実態」
28p、29p(拡大)
日本海岸の人口推移2 平山冊子「コタンの歴史と実態」
29p、33p、34p(拡大)















▲平山裕人「近代に入る前に、日本海岸の各コタンは壊滅的な打撃を受けていたということが、近代になって、コタンが 軒並み、衰退し、あるいは消滅していく、大きな原因になりました。」30p
▲イシカリ13場所をはじめて知る。平山裕人『コタンの歴史と実態』37p:下サッポロ、上サッポロ、 ナイホウ、ハッシャフ、シノロ、下ツイシカリ、上ツイシカリ、シママッフ。下ユウハリ、上ユウハリ、下カバタ 上カバタ。トクヒラ。(2022.7.6)
太平洋岸の人口推移 平山冊子「コタンの歴史と実態」30p(拡大)
太平洋岸の各場所
平山冊子「コタンの歴史と実態」31p(拡大)

日本海岸の各場所
平山冊子「コタンの歴史と実態」29p(拡大)
▲アイヌ民族の戸口。
文化3年1806年 21,696人
文政5年1822年 21,768人
安政6年1859年 16,136人
明治5年壬申1872年 15,275人。

1822年文政5年から1872年明治5年壬申の50年間に6,493人減。異常。(2021.12.31)

むしろ1822年と1859年を比べる。5,632人減。 この幕末の鰊漁の影響ということを平山先生から教わる。(2022.7.6)

*9月1日「関東大震災」
▼朝鮮人虐殺。本HPの「在日コリアン」のページを見てください。 在日の人たちが最も力を込めてこの問題を取り上げ、憤りをもっておられます。 この後、急速に日本の軍国主義化が強まります。
1924年(T13)
・道庁、アイヌ給与地予備調査、8245町歩のうち成墾地5614町歩、うち45%を和人が賃借地としている
*道庁、アイヌ民族の負債整理、賃貸地管理のために「互助組合」の設立を通達

▼上記写真と文章は「全国水平社創立宣言と関係資料のユネスコ記憶遺産登録をめざして」 に推薦文を寄せられた北海道アイヌ協会加藤忠理事長とそのおことばです。
「全国水平社結成の刺激を受けて、その名を模したアイヌ解放組織「解平社」が1926年に旭川市にうまれ、 「圧迫に堪えかねん、アイヌの団結 水平運動起こる」と新聞報道もされました。」
▼アイヌ民族の闘いと解放同盟とのつながりが確認できました。

1925年(T14)
「治安維持法」
「普通選挙法」
1926年(T15)
「ILO」・[先住民労働者の権利に関する専門部会]設置
▼ユポさん「ILO」の動きに注目される。
1927年(S2)
「十勝旭明社」設立(アイヌ民族教化目的)
1930年(S5)
違星北斗「コタン」発刊
*「北海道アイヌ協会」発足、機関紙「蝦夷の光」創刊
▼『ユーカラ邂逅』天草季紅著・2018年7月1日新評論発行208頁に北斗自身の次の文章がありました。
朝日朝刊2021.9.19 違星北斗歌集(拡大)
「北斗は号であって、瀧次郎と云ふ。小学校をやっと卒業した。シャモに侮辱されるのが憤慨に堪へなかった。 大和魂を誇る日本人のくせに常にアイヌを侮辱する事の多いことに不満でした。
その後東京付市場協会に雇われて1年と6カ月都の人となりました。 見るもの聴くもの私を育ててくれるものならざるはなく、私は始めて世の中を暖かく送れるように晴ればれとしました。
けれどもそれは私一人の小さな幸福であることを悲しみました。
アイヌの滅亡―それも悲しみます。
私はアイヌの手に依ってアイヌの研究もしたい。アイヌの復興はアイヌでなくてはならない。
強い希望にそゝのかされて嬉しかった。東京をあとにして、コタンの人となったのです。」「淋しい元気」 (「落穂帖その一」増補版『コタン』所収)

▼違星北斗の「私一人の小さな幸福であることを悲しみました」の気持は痛いほどわかります。 私が今こうして日本社会の「マイノリティーの声」に注ぐ情熱も北斗さんの気持と同じです。
▼wp:1931年(昭和6年)7月には初めての北海道アイヌの統一組織である「北海道アイヌ協会」が設立されるが、 その主要メンバーの中には北斗の影響を受けた者が多く含まれていたことからも、 北斗が生涯を賭けた運動が及ぼした影響は、決して小さなものではなかったといえる。
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1931年(S6)
バチラー八重子「若き同族(ウタリ)に」発刊
北海道札幌でアイヌ人青年大会開催(尭祐寺参加者71人バチラー主催)
白老のアイヌ民族青年貝沢藤蔵(かいざわとうぞう)「アイヌの叫び」を著す
▼天草季紅著『ユーカラ邂逅』(160頁)バチラー八重子「若き同族(ウタリ)に」から。

「父の家 嗣ぎてつたえよ 孫曾孫に 亡びの子では 無いといふこと 
ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名 誰しかこれを 取り返すべき 

寄りつかむ 島はいづこぞ 海原に 漂ふ舟に 似たり我等は 
死人さへ 名は生きて在る ウタリの子に 誰がつけし名ぞ 亡びの子とは 

古のヌプルクイトプ 知らせけり ポイヤウンペの 行くべき道を 
どん底に つき落とされし 人々の 登らむ梯子 ありなばと思ふ 

たつせ無く 悩み悩みて 死する外に われらウタリの 道はなきかや 

過ぐる日は のどけくありし トットモシリ 今は憂いに とざされにけり 
亡びゆき 一人となるも ウタリ子よ こころ落とさで 生きて戦へ」


バチラー八重子さん
「一人となるも ウタリ子よ こころ落とさで 生きて戦へ」
知里幸恵さん
「いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩を並べる日も、やがては来ましょう。 それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います」
違星北斗さん
「アイヌの復興はアイヌでなくてはならない。強い希望にそゝのかされて嬉しかった。 東京をあとにして、コタンの人となったのです」
▼これらの祈り、願いがユポさんの活動に繋がっているように思います。
▼wp:バチラーの主宰による全道アイヌ青年大会は熱気にあふれ、「我々は最早眠っていてはならない、 私等は声を揃えて眠れるウタリたちを呼び起こそう」というアピールを採択。
1932年(S7)
第3次近文(ちかぶみ)アイヌ地問題
第3次近文(ちかぶみ)アイヌ地問題にまで至る経緯に関する旭川市のHPです。
「アイヌ給与地の旭川市への貸付期間満了に伴い第3次給与地問題発生。旭川市会議員・近文アイヌ代表、給与地付与を求めて上京、 各方面に陳情」
「満州国建国宣言」
英国人マンロー、二風谷でアイヌ民族の診療と研究に従事
朝日朝刊2021.9.19

柳条湖事件(拡大)
先川祐次さん(101歳)「人生の最後に後世のために残したいと思った」(取材:三浦英之記者)
▲やはり最後は「後世のために」となる。三浦記者の取材も立派。
奉天(拡大) 満鉄創設時
(拡大) (拡大)
▼wp:ニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro、1863年6月16日 - 1942年4月11日)は、 イギリスの医師、考古学者、人類学者。エジンバラ 大学で医学を学び、インド航路の船医として29歳で 日本にやってきた日本人女性と結婚し、1905年(明治38年)に日本に帰化した。
1932年(昭和7年)北海道沙流郡平取町二風谷に住所を移し、医療活動に従事する傍らアイヌの人類研究、 民族資料収集を行った。アイヌ文化の理解者であり、アイヌ民具などのコレクションの他、 イオマンテ(熊祭り、1931年製作)などの記録映像を残した。

▲二風谷は10年間だった。萱野さん6才〜16才。マンロー先生69才〜79才。異国の立派なおじいさん、という感じ。(2023.4.7)
1933年(S8)「国際連盟脱退」
1934年(S9)「旭川市旧土人保護地処分法」公布
近文給与地問題の経緯です。
近文(ちかぶみ)アイヌ49戸に、1戸当たり1町歩の土地を付与、残地は共有財産。
▼1町歩では北海道ではやっていけないでしょう。
1936年(S11) 知里真志保・金田一京助「アイヌ語法概説」発刊
「ILO」・[先住民労働者の募集に関する条約]採択・50号条約日本政府、1938(S18)年批准 (国際機関が作った先住民族の権利に関する初の条約)(全文32 条) 
先住民労働者の募集に関する条約
(第50号)(1938年9月8日批准登録)
国際労働機関ノ総会ハ国際労働事務局ノ理事会ニ依リジユネーヴニ招集セラレ 千九百三十六年六月四日其ノ第二十回会議トシテ会合シ右会議ノ会議事項ノ第一項目タル 特殊ノ労働者募集制度ノ規律ニ関スル提案ノ採択ヲ決議シ且 該提案ハ国際条約ノ形式ニ依ルベキモノナルコトヲ決定シ 千九百三十六年ノ土民労働者募集条約ト称セラルベキ左ノ条約ヲ 千九百三十六年六月二十日採択ス
第一条
本条約ヲ批准スル国際労働機関ノ各締盟国ハ土民労働者ノ募集ガ存在シ又ハ将来存在スルコトアルベキ各地域ニ於テ 左ノ規定ニ従ヒ其ノ募集ヲ規律スルコトヲ約ス
▼第1条から第30条までの条約です。募集に関して「土民労働者」を保護することが目的のようです。
▼土民労働者の英語を知りたい!Indigenous Workersだと思われます。 1939年の雇用契約書条約で土民労働者が英語ではIndigenous Workersとなっています。

1937年(S12)
「北海道旧土人保護法」改正公布(給与地譲渡制限緩和、旧土人学校廃止)
「日中戦争」(満州事変から6年、4年後に真珠湾)
wikipedia「国家総動員法」
▼wp:国家総動員法は、1938年(昭和13年)第1次近衛内閣によって第73帝国議会に提出され、制定された法律。 同法によって国家統制の対象とされたものは、以下の6点に大別できる。
1 労働問題一般 - 国民の産業への徴用、総動員業務への服務協力、雇用・解雇・賃金等の労働条件、労働争議の予防あるいは解消
2 物資統制 - 物資の生産、配給、使用、消費、所持、移動
3 金融・資本統制 - 会社の合併・分割、資本政策一般(増減資・配当)、社債募集、企業経理、金融機関の余資運用
4 カルテル - 協定の締結、産業団体・同業組合の結成、組合への強制加入
5 価格一般 - 商品価格、運賃、賃貸料、保険料率
6 言論出版 - 新聞・出版物の掲載制限
国家総動員法は成立後廃止されるまでの間に計3回改正されている。 2回目の1941年の改正は 全50条のうちの25条を改正するという大規模なものだった。 これにより、あらゆるものが統制の対象となった。
wikisource「国家総動員法」
▼wikisourceで条文を実際に読んだ方が実感できます。(2020.7.4)
昭和十三年三月三十一日法律第五十五號(官報 四月一日)
國家總動員法
第一條 本法ニ於テ國家總動員トハ戰時(戰爭ニ準ズベキ事變ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ) ニ際シ國防目的達成ノ爲國ノ全力ヲ最モ有效ニ發揮セシムル樣人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ
第二條 本法ニ於テ總動員物資トハ左ニ掲げる掲グルモノヲ謂フ
兵器、艦艇、彈藥其ノ他ノ軍用物資
二 國家總動員上必要ナル被服、食糧、飮料及料
三 國家總動員上必要ナル醫藥品、醫療機械器具其ノ他ノ衞生用物資及家畜衞生用物資
四 國家總動員上必要ナル船舶、航空機、車輛、馬其ノ他ノ輸送用物資
五 國家總動員上必要ナル通信用物資
六 國家總動員上必要ナル土木建築用物資及照明用物資
七 國家總動員上必要ナル燃料及電力
八 前各號ニ掲グルモノノ生産、修理、配給又ハ保存ニ要スル原料、材料、機械器具、裝置其ノ他ノ物資
九 前各號ニ掲グルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル國家總動員上必要ナル物資
▼第九項があれば勅令で何でも指定できる。(2020.7.4)
第三條 本法ニ於テ總動員業務トハ左ニ掲グルモノヲ謂フ
一 總動員物資ノ生産、修理、配給、輸出、輸入又ハ保管ニ關スル業務
二 國家總動員上必要ナル運輸又ハ通信ニ關スル業務
三 國家總動員上必要ナル金融ニ關スル業務
四 國家總動員上必要ナル衞生、家畜衞生又ハ救護ニ關スル業務
五 國家總動員上必要ナルヘ育訓練ニ關スル業務
六 國家總動員上必要ナル試驗研究ニ關スル業務
七 國家總動員上必要ナル情報又ハ啓發宣傳ニ關スル業務
八 國家總動員上必要ナル警備ニ關スル業務
九 前各號ニ掲グルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル國家總動員上必要ナル業務
▼また勅令。以下すべて勅令。(2020.7.4)
第四條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ 帝國臣民ヲ徴用シテ總動員業務ニ從事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ

第五條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ 帝國臣民及帝國法人其ノ他ノ團體ヲシテ國、地方公共團體又ハ政府ノ指定スル者ノ行フ總動員業務ニ付協力セシムルコトヲ得

第六條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ 從業者ノ使用、雇入若ハ解雇、就職、従業若ハ退職又ハ賃金、給料其ノ他ノ從業條件ニ付必要ナル命令ヲ爲スコトヲ得

第七條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ 勞働爭議ノ豫防若ハ解決ニ關シ必要ナル命令ヲ爲シ又ハ作業所ノ閉鎖、作業若ハ勞務ノ中止 其ノ他ノ勞働爭議ニ關スル行爲ノ制限若ハ禁止ヲ爲スコトヲ得

第八條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ物資 ノ生産、修理、配給、讓渡其ノ他ノ處分、使用、消費、所持及移動ニ關シ必要ナル命令ヲ爲スコトヲ得

第九條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ 輸出若ハ輸入ノ制限若ハ禁止ヲ爲シ、輸出若ハ輸入ヲ命ジ、輸出税若ハ輸入税ヲ課シ又ハ輸出税若ハ輸入税ヲ揄ロ若ハ減免スルコトヲ得

第十條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ總動員物資ヲ  使用若ハ收用シ又ハ總動員業務ヲ行フ者ヲシテ之ヲ使用若ハ收用若ハ收用セシムルコトヲ得

第二十條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ新聞紙其ノ他ノ出版物ノ掲載ニ付制限又ハ禁止ヲ爲スコトヲ得 政府ハ前項ノ制限又ハ禁止ニ違反シタル新聞紙其ノ他ノ出版物ニシテ國家總動員上支障 アルモノノ發賣及頒布ヲ禁止シ之ヲ差押フルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ併セテ其ノ原版ヲ差押フルコトヲ得

▼すべて勅令。これは法律ではありません。法律の原文に当ってよかったです。(2020.7.4)

1939年(S14)
「ILO」・[先住民労働者雇用契約条約]採択・64号条約 
「第2次世界大戦」
▼「ILO」のHPよりを見ますと条約の英語名は 「Convention concerning the Regulation of Written Contracts of Employment of Indigenous Workers」であり、日本は未批准ですが、外務省の訳は「土民労働者の文書による雇用契約の規律に関する条約」で Indigenous Workersは土民労働者としています。現在であれば先住民労働者と訳すべきでしょう。 また日本語訳は条約ですが、TreatyではなくConventionを使っています。
知恵袋 treatyは2国間で結ばれた条約を指し、conventionは多国間の条約を指します。(2020.7.4)       
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朝日朝刊2020.11.28真山仁の視線
朝日朝刊2020.12.8(拡大可)
1941年の朝の国民学校の様子がリアルに描かれています。当時は小学校4年生10歳の女の子。(2020.12.9)

「日本国民自身が開戦に加担していた。 新聞以上に、国民の戦意発揚を刺激したメディアがある。25年にスタートしたラジオ放送だ。戦争にしても、政治の混乱にしても、“主犯“ は軍人や政治家かも知れない。だが、忘れてはいけないのは、彼らが「好き勝手な行動」を出来たのは熱狂的に支持した世論の存在があってこそだ。」
▼その痛切な反省の上に朝日新聞があると私は考えています。(2020.12.9)
2019.12.8朝日新聞朝刊
▼元軍曹永井敬司(98)さんの
ことば
「若い自衛隊員を戦場に導くような憲法改正には絶対反対。そうしたい政治家は、 戦場に行って撃たれればいい。」
(拡大可)

▼ペリリュー島はパラオ諸島の南端の島

1940年(S15)「日独伊三国同盟」成立
1941年(S16)
「日ソ中立条約」
「ハワイ真珠湾攻撃」
「太平洋戦争」(〜45)
2020.2.8朝日新聞朝刊
▼左の記事。
「日本人はどのくらいこの場所のことを知っていますか」
と問いかけられています。
マレーシア北東部コタバル( 太平洋戦争地図をクリック) は1941年12月、真珠湾攻撃の約1時間前に 日本軍が上陸した場所。
2ヶ月余りで英植民地だったマレーシアとシンガポールを占領したマレーシア作戦はここから始まった。
「二度と戦争をしないためには、学校で『戦争はいけない』と習うだけでは足りません。一人でも多くに事実を伝えたい」 ザフラニさんはふるさとで歴史を 掘り起こす作業を20年以上続ける。

▼恥ずかしながらこの記事で初めて知りました。(2020.2.11)

1942年(S17)「ミッドウエー海戦」 太平洋戦争地図
▼以下の緑字の説明(「サイパン島陥落」「東京大空襲」「米軍沖縄本島占領」)はHP「太平洋戦争地図」より。
1942年6月5日(アメリカ標準時では6月4 日) から7日にかけて行われたミッドウェイ 諸島沖で行われた海戦。アメリカ海軍は航 空母艦1隻に対して、日本海軍は主力航空 母艦4隻とその全艦載機を喪失するという 状況に至った。この結果、日本が優勢であ った空母戦力は均衡し、以後は米側が圧 倒していく事となる。

ウィキペディア(Wikipedia)
ドイツ軍はソビエト連邦第2の大都市レニングラード (現・サンクトペテルブルク)を900日近くにわたって包囲したが、 レニングラードは包囲に耐え抜き、後にスターリンによって英雄都市の称号が与えられた。 ソ連政府の発表では市民の死者は約63万人だが実数は100万人を超えるとも言われる。 また死因の97%は餓死と言われている[2][3][4]。 (拡大)
▲ロシアは1812年のフランス・ナポレオンの侵略、1942年のドイツ ・ナチスの侵略にも耐え抜いた。今回はウクライナを使ってのアメリカの侵略を未然に防ぐ、 これがプーチンの対応の本質。(2022.3.11)
1943年(S18)
「ガダルカナル撤退」
「学徒出陣」
1944年(S19)
「サイパン島陥落」
多くの民間人が戦いの末期にバンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決した。
「本土爆撃」本格化
1945年(S20)
「東京大空襲」(クリックして「沖縄の頁」に飛んでください。)
東京は1944年11月14日以降に106回の空襲を受けたが「東京大空襲」と言った場合、 特に、規模が最も大きい1945年(昭和20年)3月10日に行われた空襲を指すことが多い。太平洋戦争に行われた空襲の中で も、とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲として知られている。
「米軍沖縄本島占領」
1945年(昭和20年)、沖縄に上陸した米軍 と日本軍との間で行われた地上戦。これは 民間人を巻き込んだ日本国内での最大規 模の地上戦であり、また日米最後の組織 的戦闘となった。沖縄戦は1945年3月26日 から始まり、組織的な戦闘は6月23日で終 了した。その特徴の一つには日本側に軍 人をしのぐ多数の住民の被害(住民虐殺、 「集団自決」、壕追い出しなどにやり必死の 状況に追い込んだこと)が出たことがある。 これらの犠牲者の数はいまだ正確な数は 不明であり、数千人とも言われている
「広島・長崎に原子爆弾投下」
2019年12月25日朝日新聞夕刊
▼左の記事。
8月6日 月曜日 晴天 広島大空襲さる 記憶せよ!
爆心地から約1キロ。兵舎の下敷きになり、流血した左足を引きずりながら、北へ逃げる。 自転車の荷台に乗せられて翌7日に自宅へ。同9日、ソ連の参戦を知る。「満州の五郎兄さんは張り切っておられることだろう」と、思いをはせた。
8月23日 五郎兄さんがぞうりばきで帽子もかぶらず、玄関に現れた。 
8月27日 今日はがっこうへ行くのを中止。翌28日直登は死去。18歳だった。
五郎が原爆の残忍さを挿絵で描いた「おこりじぞう」の朗読を木内みどりさんが各地でつづけた。死にゆく少女を前に、穏やかな地蔵の顔が怒りに変わる。 内容に感銘を受けた木内さんは3年前から計12回朗読会を開いた。その木内さんが11月18日69歳で急逝。

「ポツダム宣言」受諾、
▼以下のコメントは「ポツダム宣言」翻訳者のものです。傾聴に値します。 とくに「天皇制存続」という条件をつけた「降伏」であった、の箇所。
「ポツダム宣言受諾」を巡って「最高戦争指導会議」「御前会議」は 堂々巡りの議論を繰り返し、8月6日の広島原爆、 8月9日の長崎原爆を招き寄せてしまうのである。
そしてやっと8月10日になってポツダム宣言を受け入れるのであるが、 それは、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」 (国体護持変更の要求を含んでいない、という“条件”のもとにポツダム宣言を受諾する)とする受諾声明を発出する。
 ポツダム宣言を受け入れることは、一見日本の無条件降伏のように見えるが、このように「天皇制存続」という条件をつけた「降伏」であった。

▼上記「ポツダム宣言」をクリックして是非お読みください。(2020.4.29)

ポツダム宣言条文 全訳 日本降伏のため確定条項宣言 ポツダムにて 1945年7月26日発出

(1) われわれ、米合衆国大統領、中華民国主席及び英国本国政府首相は、 われわれ数億の民を代表して協議し、この戦争終結の機会を日本に与えるものとすることで意見の一致を見た。

(2) 米国、英帝国及び中国の陸海空軍は、西方から陸軍及び航空編隊による数層倍の増強を受けて巨大となっており、 日本に対して最後の一撃を加える体制が整っている。この軍事力は、日本がその抵抗を止めるまで、戦争を完遂しようとする全ての連合国の決意によって 鼓舞されかつ維持されている。

(3) 世界の自由なる人民が立ち上がった力に対するドイツの無益かつ無意味な抵抗の結果は、 日本の人民に対しては、極めて明晰な実例として前もって示されている。現在日本に向かって集中しつつある力は、 ナチスの抵抗に対して用いられた力、すなわち全ドイツ人民の生活、産業、国土を灰燼に帰せしめるに 必要だった力に較べてはかりしれぬほどに大きい。われわれの決意に支えられたわれわれの軍事力を全て用いれば、 不可避的かつ完全に日本の軍事力を壊滅させ、そしてそれは不可避的に日本の国土の徹底的な荒廃を招来することになる。(以下(4)〜(13)略)
▼この宣言は7月26日です。日本政府は8月10日になってポツダム宣言を受け入れを表明。その間に広島、長崎、ソ連参戦。 今回のコロナ対策を見ていても日本政府の対応は後手後手、信頼に値する政府を持ち得ていない。自戒を込めて、 われわれは信頼に値する政府を作り上げていない、と言うべきか。(2020.4.29)

「降伏文書」調印 (「降伏文書」クリックしてください。)
「連合国軍」本土進駐
「五大改革指令」
財閥解体、経済機構の民主化、農地改革指令、憲法の自由主義化、新選挙法(婦人参政権付与)
・秘密警察廃止
労働組合の結成奨励
教育制度の自由主義的改革
「アイヌ民族にとって、周辺批判、自己自立への時代の夜明け」
「国際連合」成立・本部ニューヨーク(日本は、56年加盟)
*総会・安全保障理事会・経済社会理事会・信託統治理事会
*国際司法裁判所・事務局
*国連憲章・1944年8〜10月米・英・ソ・中国によって作られ、45年6月サンフランシスコ会議で採択10月24日発効
1946年(S21)
*「社団法人北海道アイヌ協会」設立
*「アイヌ民族甦生援護ニ関スル歎願書」(2月・静内町全道アイヌ大会)
「新冠御料牧場」4万町歩下付、日高種馬牧場解放、
・給与地を農地法の適用から除外することを、農林省、宮内省、北海道長官に陳情
・静内新冠両町村民大会開催、「御料牧場」の全面開放要求決議
進駐軍スイング司令官に面会、独立の意思を尋ねられる、10万円の寄付を受ける
「アイヌ新聞創刊号」
我等ウタリーの求むるものは、生活の安定と向上。この為に働かせろ、食ハせろ、家を与へろ、 アイヌの土地を返せという事以外にはない。『近代の記録』235p
簡潔に表現。今も変わらない。(2022.2.23)

高橋真「アイヌ新聞」創刊(S47・5第14号最終)
「天皇人間宣言」
「農地改革」(1次・2次)
「日本国憲法」公布
「北海道旧土人保護法」改正(4・5・6条削除)
4条・貧困者に、農具・種子 給与
5条・傷痍、疾病者に、救療・薬価 給与
6条・傷痍、疾病、不具、老衰、幼少により自活不能者、救助、死亡者に埋葬料給与
▼アイヌ民族甦生援護ニ關スル歎願書の全文です。ユポさんから頂きました。
北海道アイヌ協会創立当時の請願書等について国立アイヌ民族博物館研究紀要第1号(2022) 田村将人(TAMURA Masato) 国立アイヌ民族博物館 資料情報室長(Manager of Collection Management Division, National Ainu Museum)
▲上記紀要、今日みつけました。(2022.12.9)
▲田村さんに2023.2.24ユポさんのご案内で会いました。
▲「歎願」の言葉に引っかかりました。「歎願」ではなく真の地主として自力で道を切り開いていく、 これがMIP回復運動「アイヌモシリの会」の精神。(2023.11.1)
                        社團法人 北海道アイヌ協會
           アイヌ民族甦生援護ニ關スル歎願
北海道ノ先住民族デアリ、十一州ガ未ダ皇化ニ浴セザリシ古昔カラ自力自營デ開拓ノ使徒ニ任ジ 皇國ノ進運ニ寄與セル我等アイヌ民族ノ父祖ガ嘗テ松前封建三百年ノ非同化的藩政ニ禍サレ 祖先以來占有シ續ケテ居ツタ良好ナル農地ヤ漁場ヲ没収セラレ 飽クナキ被厭ヲ蒙リ爲メニ幕末頃マデハ水草ヲ逐フテ原始的生活ニ沈淪スルノ余儀ナキニ至ツタ次第デアリマス
明治初年以降、本土方面ヨリ移住スル和人ガ急激ニ揄チスルニ及ビ 之等ト對等ノ文化ト智育ナキ我等同族ノ父祖ハ常ニ和人ノ搾取奸詐ニ陷リ 遂ニ今日猶悲惨極マル生活状態ニアルモノ其大部分ヲ占メルハ誠ニ悲ムベキ現象デアリマス
斯ル社會ノ缺陷ハ國家ノ御理解アル御同情ニヨリ其對策ヲ仰グト共ニ我々モ又自ラノ進ムベキ道ヲ打開セザルベカラズトシ 全道アイヌ民族ノ総力ヲ結集シ自ラノ向上発展、福利厚生ヲ圖ルベク過般社團法人北海道アイヌ協會ヲ設立スルニ至ツタ次第デアリマス
本協會ノ存立ノ目的ハアイヌ民族ヲシテ農業或ハ漁業等職域的部門ニ於テ其生活水準ガ和人ト併行スルマデ向上セシムルニアリマス
今ヤ國家ハ「ポツダム宣言」ヲ受諾セラレ民主々義國家ヲ確立セラレタノデアリマス、
此ノ秋ニ際シ我等アイヌ民族ヲシテ其生活上眞ニ皇国民タルノ體面ヲ保全シ得ラルヽ樣御廰ノ御理解アル御同情ト御援護ヲ賜リ度ク 左記現況ト沿革ノ一端ヲ具シ此段御願ニ及ビタル次第デアリマス
                記
一、北海道ニ現住スル我々アイヌ民族ハ戸數約三千五百戸、人口約一萬七千デアリマス
此内高等教育ヲ受ケタルモノ僅カ數名、中等教育ヲ受ケタルモノ數十名程度デ其他ハ國民學校修了程度カ若クハ無學文盲ナモノデアリマス
住宅ニ於テハ三千五百戸ノ内、茅葺キ狭隘ナ家屋ニ居住スルモノ二千百六十五戸、其内床ナキモノ單ニ地面ノ上ニ藁類ヲ敷キ ソレニ筵ヲ覆フテ起居シ臥寢シ居ルモノハ五百五十八戸デアリマス
經濟的ニ於テハ數十萬ノ富ヲナスモノ數名、農業或ハ漁業等職域的部門ニ於テ其生活水準ガ和人ト稍々併行スルモノ 約二割程度デ其他ノ大部分ハ至ツテ生活程度ガ低ク殊ニ一般和人ト比較シテハ其水準ニ甚ダシキ經庭アリ、 如何ニ悲惨ナ生活ニ放棄セラレアルカハ前記家屋ノ數字ヨリ見マシテモ實状ハ推知シ得ラルヽノデアリマス

ニ、嘗テ我等ノ父祖ノ多數ハ松前三百年ノ非同化藩政ニ禍サレ文化ノ恩惠ニ浴スルコトナク文化的智育ニ劣ルトハ云ヘ 生活豊ニシテ和人ニ比シ毫モ遜色ナカツタ時代ガアツタノデアリマス、
然ルニ文化的教養ニ惠レテヲル和人ト何等對策ナク同一條件ノ經濟機構ノ下デ統治セラルヽニ及ンデ 我々ノ先祖代々カラ占領シ、開墾シ、耕作シ來ツタ、生活保全ノ爲メ唯一ノ財産デアツタ土地モ文字ヲ解セズ 國法ヲ辨ヘズ所有權擁護ノ法律的ナ手續ヲ知ラザリシ結果奸智ニ長ケタ和人ノ併呑ニ任セ乘ゼラルヽニ至ツタ次第デアリマス

〈原文から削除された部分〉  国立アイヌ民族博物館研究紀要公開日:2022年10月11日 田村将人
斯クシテ我等ノ父祖ガ成墾シ占有シ来ッタ広大ナル耕 地、牧場及ビ漁場ハ始ンド全部ガ和人ノ所有ニ帰シ、 或ヒハ占有スセラレルルニ至ッタコトハ是等ノ事実ヲ 雄弁ニ証明シテ余リアルモノト云フベキデアリマス。

▲この極めて大事な歴史的事実が削除されている。裁判で使う。(2022.12.13)

三、尚ホ國家ハ明治十年十二月十三日第十五號達北海道地券發行條例ヲ發布シ我等ノ父祖ガ多年占有シ來ツタ土地一切ヲ官有地第三種ニ編入シ 其既得權ヲ保管スルニ至ツタノデアリマス
元ヨリ此の立法精神ハ我等ノ父祖ガ和人ニ其所有地ヲ掠奪サルヽヲ防止スル親心デアツタト推察サレマス
即チ同條例第十六條ニ「舊蝦夷人居住地所ハ其種類ヲ問ハズ當分總テ官有地ニ編入スベシ、但シ地方ノ景況ト 蝦夷人ノ情態ニ依リ成規ノ處分ヲナスコトアルベシ」トアルヲ見テモ明カデアリマス
然ルニ明治二十二年法律第三號ヲ以ツテ同地券發行條例ハ廢止セラルヽヤ又々和人ノ 乘ズルトコロトナリタルハ誠ニ慨恨ニ堪ヘヌ次第デアリマス

〈原文から削除された部分〉
(然ルニ、超テ明治二十二年法律第三号ヲ以ッテ同地券 発行条例ハ廃止セラルヽヤ、)当局ハ曩(さ)キノ立法精神ヲ 無視シ之ガ処分ニ関シ、我等生活上ノ脅威ヲ毫モ考慮 セズニ又々和人ノ乗ズルニ任セ、利権争奪ノ資ニ供シ トコロトナリタルハ誠ニ慨恨ニ堪ヘヌ次第デアリマス。

▲当局批判の箇所がバッサリ削除されている。原文作成者は田村氏によると当時の北海道アイヌ協会 常務理事の小川佐助さん(41歳)。(2022.12.13)

wikipedia小川佐助さん
1905年、北海道浦河郡西舎村(後の浦河町)に生まれる[1]。一帯はアイヌ語でホロペツコタンという百数十戸のアイヌの根拠地があったが、
日高種畜牧場跡 幌別川両岸の開けた土地にかつてホロペツコタンがあったのだろう。(2022.12.17)(拡大)
小川の出生時には官営の日高種畜場が建設されており、数多くの人々が牧場内で働いていた[2]。
▲ホロペツコタンは幌別川の上流にあったとおもう。(2022.12.17)
▲「アイヌハは二ヶ所二部落ヲナス」36戸136人。「浦河町史」174p、920p(2023.1.7)
▲日高種馬牧場、明治40年(1907年)6月19日設置。日露戦争によって馬の資質の劣等を知らされた。 宮内省主馬頭藤波言忠(天皇の1歳とし下の学友として7,8歳のころより宮中に出仕した。)、明治39年 自ら現地調査。「浦河町史」176p西周の強制移住は日高種馬牧場の設置が理由。(2023.1.7)
21歳の頃から馬の売買で成功を収めた。小川は弁舌が立ったことから阪神競馬場の青池良佐の勧めで競馬会の役員も務めた[6]。 1986年2月28日をもって調教師を引退[9]。通算成績は日本中央競馬会が発足した1954年以降で6039戦610勝[9]。 翌1987年10月30日、病気のため82歳で死去した[9]。

小川は社団法人化当初の北海道アイヌ協会で常務理事を務めるなど、その活動に主導的な役割を果たした。 1946年には宮内省新冠御料牧場を小作農家へ解放するよう働きかけ、その実現後は最も肥沃な姉去 の土地へのアイヌ小作人の優先的移入を、アイヌ協会の代表者として主張した。
▲小川さん、多才な人。(2022.12.17)

四、斯クシテ國家ハ我等アイヌ民族ノ保護政策ノ確立ヲ企圖シ遂ニ明治三十二年法律第二十七號北海道舊土人保護法ヲ制定シタガ 其第一條ニ「舊土人ニシテ農業ニ從事スルモノ又ハ從事セントスルモノニハ一戸ニ付キ土地一萬五千坪
〈原文から削除された部分〉
四、斯クシテ次デ国家ハ屡(る)次ニ亘ル我等アイヌ民族ノ保護政策ノ失敗ヲ考慮シノ確立ヲ企図シ遂ニ◎〔追記 ノ記号〕、明治三十二年法律第二十七号北海道旧土人保護法ヲ制定シタガ、其第一条ニ『旧土人ニシテ農業ニ従事
▲二つの文章を比較すると「失敗ヲ考慮シ」の当局批判の箇所が削除されている。(2022.12.13)

(面積五町歩)以内ニ限リ無償下付スルコトヲ得」トアリマスガ 之ニ關係ノ土地處分法ニハ無償下付スル土地ハ未開発地ニ限ルトノ規定ガアル爲メ 從來永住シ占有中ノ既墾地ハ折角ノ保護法ニヨル恩典ニ浴スル能ハズト云フ矛盾ガ生ジタ次第デアリマス
昭和十年北海道廰調査(其後數字ニ變更ナシ)ニヨルト同族ノ最モ多キ日高支廰管内ニ於テ舊土人保護法ニヨリ下付サレタル 給與地ヲ參考ニ供シマスト總面積一千八百三十八町四反四畝十九歩ニシテ總戸數一千五百十六戸デスカラ一戸當リ平均一町二反一畝
強トナツテ居リマス、
此内山岳・丘陵等全々不可耕地ノ給與ヲ受ケ開墾不能ノマヽ放任セザルヲ得ヌ面積百八町五反七畝二十歩トナツテ居リマス
〈無償下附の原文〉
無償下附スル土地ハ未開地ニ限ルト規定ガアル為メ、 従来永住シ占有中ノ既墾地ハ折角ノ保護法ニヨル恩典 ニ浴スル能ハズト云フ矛盾ガ生ジタノデアリマス。
而シテ実際ニ下附サレタ土地ハ山岳、丘陵ナドノ劣 悪地ガ多ク、面積モ形式的ナモノニ過ギズ即チ昭和 十年北海道庁調査(其後数字ニ変更ナシ)ニヨルト、 同族ノ最モ多キ日高支庁管内ニ於テ、同保護法ニヨ リ、給与サレタ土地ヲ参考ニ供シマスト、戸数三千壱 千五百十六戸ニ対シ、総面積壱千八百三十八町四反四 畝十九歩ニシテ、一戸当リ平均一町二反一畝弱トナッ テ居リマスカラ、少イモノハ一戸当リ三反歩カ五反歩 ヨリ給与ヲ受ケテ居ラヌ者ガ沢山アル訳デス。此内山 岳、丘陵等全々〔ママ〕不可耕地ノ給与ヲ受ケ開墾不 能ノママニアル面積百〇八町五反七畝二十歩トナッテ 居リマス。

▲原文のほうがはるかに論理的。説得力がある。「而シテ実際ニ下附サレタ土地ハ山岳、丘陵ナドノ劣 悪地ガ多ク、」(このくだりが本文では省かれている。)それ故「此内山岳、丘陵等全々〔ママ〕不可耕地ノ給与ヲ受ケ開墾不能ノママニアル面積 百〇八町五反七畝二十歩トナッテ居リマス」とすんなり通る筋が、本文ではあたかもアイヌの怠慢のような印象になる。 それは本文では敢えて「放任」の文言をご丁寧にも入れて、下附の土地をアイヌ民族が「放任」したかのような表現に変えている。 本文修正者による悪意すら感じる。(2022.12.13)

本道ノ農家ハ沃土デアツテモ面積五町歩以下デハ經營經濟ガ成立セヌ實態デアリマス、
従ツテ以上ノ小面積ノ舊土人給與地デハ到底專農ヲ以ツテ生存シ得ラレヌコトハ自ラ明ラカデアリマス、
依ツテ多數ノ同族ハ有力農家ノ日雇カ或ハ漁場デ稼働スルカニヨッテ露命ヲ繋グノ外ナク好ムト好マザルトニ不拘轉々ト居住ヲ移スニ至リ、 隨テ下層ノ生活ニ追ヒ込マルヽ事ニナツタ次第デアリマス
現在同族ノ中ニモ相當面積ヲ有シ專農經營ノ者ハ和人ニ伍シテ其水準以上ノ生活ヲ營ンデ居ル事實ヲ見マシテモ 專農トシテノ必要量ノ土地ヲ與ヘ其指導ヨロシキヲ得ルニ於テハ毫モ和人ニ劣ルコトナク 必然皇國民トシテノ體面ヲ保全シ得ラルヽ民族ナルコトヲ證明出來得ルモノデアリマス
〈原文から削除された部分〉
即チ法ノ直接運営ニ当ル当時ノ官吏ガ、アイヌ民族ニ 対シ真ノ指導精神モニ欠ケ理解アル同情モヲ有シナ カッタ証左ガ今日、斯ル社会ノ欠陥トシテ残留スルコ トヲ篤ト実状御明察ヲ願上ゲマス。

▲官吏批判。差し障りがあると考えたのだろう。(2022.12.13)

五、次ギニ日高國浦河町ト新冠村ニ居住スル同族ノ亨ケタル土地ノ處置デアリマス
東幌別(拡大) 幌別川左岸の山岳地
西舎にしちゃ(拡大) 幌別川右岸の開けた土地
(拡大) 中央を流れる日高幌別川
即チ往年農林省ガ浦河町字西舎(にしちゃ)ニ日高種馬牧場ヲ創設 スルヤ同地内ニ居住スル 同族ガ其占有地ニシテ未ダ所有權獲得ノ手續ヲセザリシモノハ 是ヲ無償デ没収セラレタノデアリマス、

〈原文から削除された部分〉
未ダ所有権獲得ノ手続キヲセザリシモノハ、是レ ヲ高圧的命令デ、無償没収シ。

▲「高圧的命令デ」が削除されている。(2022.12.13)
▲「西舎(にしちゃ)ニ日高種馬牧場ヲ創設」は明治40年(1907年)のこと。 (日高種馬牧場年表より)新川さん提供資料。2022.12末。(2023.1.6)

又舊土人給與地トシテ既デニ所有權獲得ノ手續ヲ了シタルモノハ舊土人保護法ニヨリ賣買ヲ禁ジラレテアル爲メ 替地ト稱シ農耕全々不可能ナ同町東幌別ノ山岳地ニ移サレル(距離は?) ノ止ムナキニ至リ謂バアイヌ同族ノ生存權ヲ奪ツタトモ稱スベキデアリマス
〈原文から削除された部分〉
(又旧土人給与地トシテ既デニ所有権獲得ノ手 続キヲ了シタルモノハ、旧土人保護法ニヨリ売買ヲ禁 ジラレテアル為メ、)如何ニ農林省トハ云ヘ是ヲ強制的ニ買上サゲル道ナク、 併呑ノ手段トシテハ替地ト称シヲ与ヘラレタルモ、農 耕全々〔ママ〕不可能ナル同町東幌別ノ山岳地ニ移サ レルノ止ムナキニ至リ、斯クシテシ云ハバアイヌ同族 ノ生存権ヲ奪ッタモノデアリマストモ称スベキデアリ マス。

▲「如何ニ農林省トハ云ヘ是ヲ強制的ニ買上ゲル道ナク」「替地ト称シ」「農耕全々不可能ナル山岳地ニ移サ レル」。血も涙もない日本政府。小川佐助さん、無念と怒りで原文を書き上げられたことだろう。 その無念と怒りの部分が削除されている。(2022.12.13)
▲明治40年(1907年)の出来事なので旧土人保護法が明治32年(1899年)に公布されているから 明治政府の苦肉の策となったのであろう。つぎの姉去は大正5年(1916年)、それより9年前の出来事。(2023.1.6)

一方新冠村デハ新冠御料牧場ノ創設ニ際シ是レ又アイヌ同族ガ父祖以來占有シ安住シ來ツタ廣大肥沃ナ農耕地及ビ放牧地ヲ 御料地ニ編入シ百數十戸ノアイヌ同族ハ農耕ニヨリ生活不能デアル遠隔ノ地沙流郡上貫氣別ノ深山高岳地帶ニ轉住ヲ強ヒラレタ 次第デアリマス
▲西周の強制移住は種馬牧場の設置、姉去は牧馬の飼料供給のため。「浦河町史」924p(2023.1.7)

〈原文から削除・改変された部分〉
広大肥沃ナ農耕地ハ勿論、放牧地モ如何ナル理由モ嘆願ヲモ取上ゲズ、一方的強権ヲ以ッテ御料地ニ編入シ

▲この嘆願書は私には小川佐助さんの血の叫びのように響く。ひとことひとこと大事にすべき文章。削除は言うまでもなく、 改変部分も小川さんの叫びが伝わらない表現になっている。(2022.12.14)

然レ共斯ノ事實ハ皇室ニ關係アルダケニ皇國ノ臣民デアル我々同族ハ先祖代々墳墓ノ地ト定メテ永住シテ來マシタ 總テノモノヲ提供シタノデアリマス
▲歴代天皇はこの事実を認識しているか。すくなくとも昭和、平成、令和の天皇からアイヌ民族民族への謝罪のことばを聞いたことがない。 (2022.12.14)

道内デモ浦河ト新冠ノ同族ガ有シテ居ツタ土地ハ極メテ肥沃ナ土地 デアツタゞケニ之等犠牲ニ供セラレタ同族一同ノ打撃ハ將ニ致命的ナモノデアリ、 今日之等關係ノ同族ガ住ムニ土地ナク漂浪同様ナ生活ヲ續ケテ居ルノハ其結果デアリ、爲メニ子弟ノ教育モ思フニ委セズ 智育ノ進マヌヲ以ツテ心ナキ和人ハ事毎ニ侮蔑シ、劣等視シ、自己ハ大和民族トシテ世界ニ冠タル優秀民族ナルガ如キ誤ツタル 優越感念ニ捉ハレアイヌ民族ニ加ヘタル壓迫暴擧ハ枚擧ニ遑ナイ程デアリ、 社會問題トシテ人道問題トシテ由々シキ問題デアリマス
▲浦河町字西舎と東幌別の位置を新川さんに尋ねること。(2022.12.10)
▲新川さんから資料が届きました。その結果、位置の確認のみならず強制移住の顛末もきっちり理解できました。 改めて明治政府への怒りが湧いてきました。(2023.1.6)
「今日之等關係ノ同族ガ住ムニ土地ナク漂浪同様ナ生活ヲ續ケテ居ルノハ其結果デアリ、 爲メニ子弟ノ教育モ思フニ委セズ」。 アイヌ民族のこの現状は新冠、浦河のコタンだけでなくアイヌ民族すべてといっていい現実である。だからアイヌモシリの回復であり、「地代」の徴収であり、 大学の創設であり、生活援助資金の交付である。これがアイヌMIP回復運動の目指すところである。(2022.12.14)

六、現在アイヌ民族中農業經營ノ體験ト勞力トヲ有スルモ土地ト資力ナキタメ各地ニ漂浪的ニ日雇ヲ以ツテ生活シ居ルモノ多數アリ、 又近ク同族專農家ノ子弟デ分家ノ上自力自營ノ必要ニ迫ラレツヽアルモノモ多數アリ、之等合セテ概算二千戸トナリマス
而シテ之等ヲ專農トシテ必要地積一戸ニ付キ五町歩ヲ與ヘルト計畫スルニ於テハ茲ニ 農耕地一萬町歩ヲ必要トシ、 又將來是レニ附隨シ混畜農業ヲ必要ト致シマスノデ一戸當リ十五町歩ノ放牧地ガ必要トスルハ常識ニシテ是レ又三萬町歩ヲ要スル次第デアリマス
即チ我等アイヌ民族ガ農業ノ部門ニ於テ其生活水準ヲ和人ト併行スルマデ向上セシムルニハ先ヅ以ツテ 農耕適地一萬町歩ト放牧地三萬町歩計四萬町歩 ヲ最小必要量トスルモノデアリマス
▲4万町歩=4万ha。この算出は今も参考になる。(2023.11.1)

仄聞スル處、今囘日高種馬牧場並ニ新冠御料牧場ハ廢止セラレ全面的解放サレルヤニ承リマシタ>、
時恰モ狹隘ナル國土ニヨツテ食糧増産ノ必要ニ迫ラレツヽアル時大局的見地ヨリシテ誠ニ機宜ヲ得タルモノト思考セラレマス、 果シテ事實トセバ先ヅ新設當時犠牲ニ供セラレタルアイヌ民族ノ沿革、現在ノ生活状況等ヲ御考慮相仰ギ是レガ更生ノ對象ニ 全地域ノ内ヨリ農耕適地一萬町歩ト放牧地三萬町歩計四萬町歩ヲ我等アイヌ同族ニ御下付相仰ギ度ク御願ニ及ビタル次第デアリマス
〈原文から削除・改変された部分〉
我ガ等社団法人北海道アイヌ協会ヘ同族ニ御 下附相仰ギ度ク出御願ニ及ビタル次第デアリマス。幸 ニシテ御聴許ヲ得ルニ於テハ、我ガ協会ハ其配分ヲ適 正ニシ、

▲「社団法人北海道アイヌ協会ヘ」「協会ハ其配分ヲ適正ニシ」。権利の主体は「社団法人北海道アイヌ協会」ここが大事。 今後の運動も権利の主体は「アイヌモシリの会」。(2022.12.14)

幸ニシテ御聽許ヲ得ルニ於テハ我ガ協會ハ國家ノ施策ニ協力シテ農業經營方針ト其指導ニ萬全ヲ期シ アイヌ民族ヲ以ツテ最モ理想的ナ郷土ヲ作リ食糧生産ヲ以ツテ國家社會ニ貢獻スルト共ニ北海道ノ先住民ニシテ今猶ホ 悲惨ナ生活状況ニアル同族ヲ蔑視差別的冷遇、社會的壓迫等ヨリ起ル幾多悲劇ヨリ救濟シ和人ト併行スルマデ其水準ノ向上發展ニ 全力ヲ注ギ眞ニ皇國民タルノ體面ヲ保全シ得度キ所存デアリマス
〈原文から削除された部分〉
其水準、和人ト併行スルニ於テハ、蔑視モ、差別 的冷遇モ、社会的圧迫モ、自ラ解消スルコトハ、自 明ノ理ニシテ

▲なぜこの箇所が削除されたのか理解に苦しむ。つぎの「斯ル明朗ナル理想郷ノ實現」と続けるために必要だったとおもう。 (2022.12.14)
▲小川佐助さんの「北海道ノ先住民ニシテ」「自ラ解消スルコトハ、自明ノ理ニシテ」は先住民族として貧困を自力解消していく基本的考えは MIP回復運動と同じ。違うのは政府に歎願するのではなく、自力で、「地代」の自己資金で解決していくこと。(2023.11.1)

斯ル明朗ナル理想郷ノ實現ハ我等一萬七千同族ガ等シク夢ニダニ忘レ得ラレヌ唯一ノ希望デアリマス
▲佐助さん、MIP回復運動でやります。(2023.11.1)

以上情状御明察ノ上御聽ノ御理解アル御同情ニヨリ御聽許相仰ギ度此段御願ニ及ビタル次第デアリマス
追伸  本協會ハ別紙添附ノ定款ノ如ク智育程度モ特殊事ニアル同族ヲ特殊教育ニヨル高度化ヲ痛感致シテ居リマス、 又荒廢セル住宅ノ改善、漁業ノ助成、療養施設等其他急ヲ要スル懸案山積事案ニ關シ何レモ遠大ナル計畫立案中ニ付キ 具體的成案ノ上ハ同族向上諸般施策ニ御援助ヲ仰ギ度ク追而請願仕ル所存デアリマス

▲そして、38年後の昭和59年、1984年「アイヌ新法案」となる。この空白はどうしてだろう。 (2022.12.14)
▲1946年(昭和21年)後を追ってみました。
1948年(S23)北海道アイヌ協会、機関紙「北の光」創刊
1960年(S35)北海道アイヌ協会、札幌市において再建大会開催。野村義一、常務理事・書記長に就任する。
1961年(S36)「北海道アイヌ協会」、「北海道ウタリ協会」と名称変更
1964年(S39)野村義一、北海道ウタリ協会理事長に就任。1996年まで、32年間理事長を勤める。
1984年(S59)北海道ウタリ協会、総会で「アイヌ民族に関する法律(案)」(略称「アイヌ新法案」)を決議。
▲空白は1950年代の10年間とわかりました。 反動と生活再建の10年間でした。60年安保で日本社会は息を吹き返しました。北海道アイヌ協会も。(2022.12.15)
wikipediaレッドパージ
第二次世界大戦終結後、日本の占領政策を担ったGHQは民政局(GS)を中心に、 治安維持法などの廃止、特別高等警察の廃止、内務省と司法省の解体・廃止などの、日本の民主化を推進し、 主要幹部が刑務所から釈放された日本共産党も、初めて合法的に活動を始めた。 中国大陸では国共内戦で毛沢東率いる中国共産党が優勢になると、 アジア・太平洋地域の共産化を恐れるジャパン・ロビーの動きが活発化し、 日本では、GHQの主導権がGSから参謀第2部(G2)に移り、共産主義勢力を弾圧する方針に転じた。
wikipedia国鉄三大ミステリー事件
国鉄三大ミステリー事件とは、連合国軍占領下の日本において1949年(昭和24年)の夏に相次いで発生した、 日本国有鉄道にまつわる真相に謎が残る三つの事件の通称[1]。
1949年1月の第24回衆議院議員総選挙では日本共産党が35議席を獲得した。そうしたなかで、1949年(昭和24年)の 下山事件、三鷹事件、松川事件といういわゆる国鉄三大ミステリー事件が、 日本共産党と国鉄労働組合が仕組んだという情報が流れたため、日本共産党・共産主義者排斥を容認する風潮が作られた。
wikipediaレッドパージのつづき
1950年5月3日、マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において 日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)、6月6日にマッカーサー書簡を受けた 吉田内閣は閣議で日本共産党中央委員24人[注 1][6]、及び機関紙「アカハタ」幹部17人の公職追放を決定し、 アカハタを停刊処分にした[7]。これにより、20日後の6月26日から徳田球一、野坂参三、志賀義雄、伊藤憲一、 春日正一、神山茂夫の6人は国会議員として失職することになり、高倉輝は第2回参院選で当選したものの直後に 公職追放となり当選無効と扱われた[8] 。

以   上
     昭和二十一年 月 日
            北 海 道 廰 厚 生 課 内
      社 團 法 人 北 海 道 ア イ ヌ 協 會
     理 事 長   向   井  山   雄
▼抑制がきき、道理を弁えた歎願書で却って日本人として恥ずかしくなります。 アイヌ民族の「夢ニダニ忘レ得ラレヌ唯一ノ希望」の実現に協力するのが我々日本人の責務だと思います。 
▼四萬町歩=4萬ha=400平方q 琵琶湖670平方qの60% ささやかな歎願との印象です。 
▼上記二つのメモは以前に。全文をお読みいただくのは大変と思い今日(2020.4.30)作業しました。 以下 ポイントの要約です。

●三千五百(3,500)戸、人口約一萬七千(17,000)/ 一戸ニ付キ土地一萬五千坪(15,000坪=面積五町歩) 以内ニ限リ無償下付/ 無償下付スル土地ハ未開発地ニ限ルトノ規定ガアル爲メ 從來永住シ占有中ノ既墾地ハ折角ノ保護法ニヨル恩典ニ浴スル能ハズト

●同族ノ最モ多キ日高支廰管内ニ於テ舊土人保護法ニヨリ下付サレタル 給與地ヲ參考ニ供シマスト
總面積一千八百三十八町四反四畝十九歩ニシテ(1838町4419)總戸數一千五百十六(1516)戸デスカラ 一戸當リ平均一町二反一畝(1町21)/ 本道ノ農家ハ沃土デアツテモ面積五町歩(5町歩)以下デハ經營經濟ガ成立セヌ

●浦河町字西舎ニ日高種馬牧場ヲ創設/同族ガ其占有地 ニシテ未ダ所有權獲得ノ手續ヲセザリシモノハ是ヲ無償デ没収セラレタ/ 所有權獲得ノ手續ヲ了シタルモノハ 舊土人保護法ニヨリ賣買ヲ禁ジラレテアル爲メ替地ト稱シ農耕全々不可能ナ同町東幌別ノ山岳地ニ移サレル

●新冠村デハ新冠御料牧場ノ創設ニ際シ 是レ又アイヌ同族ガ父祖以來占有シ安住シ來ツタ廣大肥沃ナ農耕地及ビ放牧地ヲ 御料地ニ編入シ百數十戸ノアイヌ同族ハ農耕ニヨリ生活不能デアル遠隔ノ地 沙流郡上貫氣別ノ深山高岳地帶ニ轉住ヲ強ヒラレタ

●道内デモ浦河ト新冠ノ同族ガ有シテ居ツタ土地ハ極メテ肥沃ナ土地
●心ナキ和人ハ事毎ニ侮蔑シ、劣等視シ、自己ハ大和民族トシテ世界ニ冠タル優秀民族ナルガ如キ誤ツタル 優越感念ニ捉ハレアイヌ民族ニ加ヘタル壓迫暴擧ハ枚擧ニ遑ナイ程
●二千戸/ 一戸ニ付キ五町歩/ 農耕地一萬町歩 ト 放牧地三萬町歩 計四萬町歩
●日高種馬牧場並ニ新冠御料牧場ハ廢止セラレ全面的解放サレルヤニ承リマシタ

それにしても「五、日高國浦河町ト新冠村ニ居住スル同族ノ亨ケタル土地ノ處置」は酷すぎます。 アイヌモシリ回復訴訟はここから入って充分争えると考えます。(2020.4.30)

▲山川力『政治とアイヌ民族』135p 「アイヌ民族の現在を、そして明日を考えるばあいには、みおとしてはならない文字のひつつひとつであろう。」
(拡大)
▲同感。山川さん、熱い。(2022.12.9)

「民族の集団的権利」その4
山川力『政治とアイヌ民族』137p〜138p 「アイヌ民族がこうむった、そしてこうむりつつある 不平等、差別が、あたらしく憲法をつくる作業のなかにもちこまれ、検討されたことが、 なにがしかでもあるのであろうか。」
この指摘は大変重要。これからでも遅くはない。(2022.12.10)



新札幌市史:民族としての復権をめざして
733 〜 735 / 1021ページ
 敗戦まもない昭和二十一年二月二十四日、日本の民主化を背景に、アイヌ民族有志の自主的な呼びかけにより、 静内町で社団法人北海道アイヌ協会の創立総会が開かれ、道内各地の代表をはじめとする約七〇〇人のアイヌ民族のほか、 北海道庁や北海道大学などから多数の来賓の参加があった。
三月十三日、正式に社団法人北海道アイヌ協会(以下アイヌ協会と略)として認可された(北海道ウタリ協会 50年のあゆみ 平8)。
 ところで、アイヌ協会の定款(昭21・3・26登記)によれば、総則で「本会ハ社団法人北海道アイヌ協会ト称ス。 本会ハアイヌ民族ノ向上発展、福利厚生ヲ図ルヲ以テ其ノ目的トス。本会ハ事務所ヲ札幌市ニ置キ各所ニ支部ヲ置ク」と、目的を明確にしていた。
札幌市にアイヌ協会活動の拠点を置いた理由は、全道会員への伝達を図るのに機能的役割をもっていたからである。
目的を達成するための事業として「教育ノ高度化」「福利厚生施設ノ協同化」「共有財産ノ醸成及其ノ効果的運用」「農事ノ改良」 「漁業ノ開発」「其ノ他右ニ関連スル一切ノ事業」の六項目を掲げていた。
これらのなかで、「教育ノ高度化」を一番目に掲げているのは、アイヌ協会の『昭和二十二年度事業計画書並に昭和二十二年度収支予算書』のなかで、 「ウタリが文化民族として世界水準に達するためには子弟の教育」が重要であり、将来は学界・実業界・政界・その他各分野にアイヌ民族が 輩出することへの願いが込められていたことが知られる。
なお、アイヌ協会の機関誌として『北の光』創刊号が、二十三年十二月十日刊行され、 奥付の住所には「札幌市北二条西五丁目六番地」となっていた。 『北の光』の発刊目的は、札幌市の本部から各市町村の支部への「指導連絡」手段であったと思われる。
 アイヌ協会は、二十一年設立以来二十三年にかけて精力的に、国や北海道庁に対して「北海道旧土人保護法」 (以下「保護法」と略 明32・3制定)の改正やアイヌ民族の給与地に関しては、農地改革法の適用外農地への請願・陳情を繰り返し行った。 特に、二十二年十二月付の「北海道アイヌ民族所有農地ニ関スル嘆願」では、「請願ノ要旨」として 「北海道アイヌ民族ノ所有ニシテ其面積五町歩以内ノ農地ニ対シテハ、自作農創設特別措置法、並ニ、農地調整法ヲ適用セヌ様、 立法措置ヲ講ゼラレタキコト」との文言があり、適用した場合にはアイヌ民族が犠牲となってますます貧困生活から脱却出来ないこと、 この現象は社会問題であり、人道上の問題であって「保護法」の精神に反すること等を強く訴え、 適用外の措置を請願した (社団法人北海道アイヌ協会代表=向井山雄よりダグラス・マッカサー元帥宛文書 北海道ウタリ協会 アイヌ史 資料編3所収)。 このため、二十三年までアイヌ協会の幹部は陸続と上京し、請願運動を行った。しかし、アイヌ民族の期待に反して結局のところ、 一旦は保留していた買収計画は、北海道庁農地部から「旧土人の給与地と雖も一般同様取り扱え」といった、市町村農地委員会宛通牒により、 一気に買収が断行され、同年六月現在、全道の給与地総面積五八四二町歩余のうち農地改革法による買収地の給与地は総面積に対し 二三・八パーセントを占め、これに回収見込み不能貸付地は同総面積に対し一七パーセントの割合を占めたことから、 両地合わせて四〇・八パーセントを喪失する結果となった(北の光 創刊号)。
▲歎願、請願では日本政府は動かない。アイヌ民族は骨身にしみてるはず。MIP回復運動は自力で裁判と世論で現状を変える。 (2023.11.2)
二十三年のアイヌ協会総会以後、記録に残るような活動はほとんど見られないまま、三十五年(1960)四月、札幌市内水産会館における 「再建総会」に至る。翌三十六年度の総会では、「協会名称の『アイヌ』は民族の差別意識を深める憾(うら)みがある」 (昭和三十六年度北海道アイヌ協会総会記録 同前 北海道アイヌ協会・北海道ウタリ協会活動史編)といった理由から 「北海道ウタリ協会」に名称変更した。やがて、三十八年(1963)には、機関誌として『先駆者の集い』創刊号が刊行されるに至る。 これについては、北海道ウタリ協会『アイヌ史 北海道アイヌ協会・北海道ウタリ協会活動史編』に詳しいので参照されたい。 『先駆者の集い』創刊号を刊行した三十八年には、会員数は四二〇人に過ぎなかったが、第2号刊行の四十六年(1971)十月には、 会員数一万一一七人に増加し、三四支部・七支庁四市へと広がった(社団法人北海道ウタリ協会『50年のあゆみ』(平8)によれば、 平成八(1996)年一月一日現在、会員数四一四二世帯、一万五八八二人(一世帯4人弱)、五七支部をもつ、アイヌ民族最大組織である)。
▲15,882人はアイヌ民族のほぼ全員。北海道アイヌ協会は現在会員数は約2000世帯と聞いているので8000人ぐらいの組織だろうか。 アイヌ民族の1/2を結集していることになる。「アイヌモシリの会」の目標も見えてきた。(2023.11.2)

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1947年(S22)
農林省と北海道長官に「新冠御料牧場」の1万7千町歩解放要求、
解放された「新冠御料牧場」姉去にアイヌ民族22戸入植決定
アイヌ民族の有志、衆議院選、知事選、道議選に出馬
  「北海道旧土人保護法」改正(2条の2削除)2条の2・質権、抵当権、地上権、永小作権
▼なぜ1万7千町歩解放要求なのか。
思うに17,000人のアイヌ一人当たり1町歩という計算か?  1万7千町歩=17,000ha=170平方q
「新冠御料牧場」は全体で38,455haだと思われる(「新冠御料牧場沿革誌」地籍は9頁)。 新冠御料牧場沿革誌; 出版者: 新冠御料牧場; 出版年月日: 明29.7;(国立国会図書館デジタルコレクションの「新冠御料牧場沿革誌」より)
9頁に明治26年12月31日現在の牧場の地積と面積が記載されている。
新牧場8,532町歩 旧牧場28,772町歩 ペラリ1,058町歩 牧草地61町歩 耕地32町歩 合計38,455町歩
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』(514頁)に「嘗て同地から他の地域に強制移住させられたアイヌの内、 平取村7戸、様似村2戸、荻伏村1戸、新冠村11戸、静内村1戸のアイヌに旧新冠御料牧場内の土地が与えられ、 ここに新冠御料牧場の解放運動は大きな成果をあげて解決するに至ったのである(『北の光』創刊号)。」との記述があります。
にわかに信じられないおもいです。歎願書で四萬町歩を要求していたアイヌ協会が どれだけの土地を確保できたか知りたいです。
1948年(S23)
国連総会で「世界人権宣言」採択
北海道アイヌ協会、機関紙「北の光」創刊、
▼以下は  呆け天 2020年05月11日  http://boketen.seesaa.net/archives/202005-4.html
からの転載です。 川嶋康男『ラストアイヌ 反骨のアイヌ歌人森竹竹市の肖像 』より(2020.10.4)


「北海道アイヌ協会」の設立に常任幹事として参与した森竹竹市は協会機関紙『北の光』創刊号に 「あいぬ民族の明確化」と題する一文を寄せた。
「私共アイヌ民族は、自分たちこそは真正日本人である自覚の下にアイヌ民族の誇りをもって平和日本建設の為にスタートを切ろう。
嘗て侮蔑の代名詞として冠せられたアイヌー自分たちもさう呼ばれることに依って限りない侮辱感を抱かせられた此の民族称を、 今こそ誇りを以て堂々と名乗って歩かう。(中略)
時々詠草(じじえいそう)
アイヌてふ名をば誇りに起ち上がり
奴隷の鎖 断てよウタリー等
侵された掠められた土地を還せよ
ウタリーは起てり強く雄々しく 」
ときに森竹竹市44歳、激しい主張であり、叫びです。
▲このとき既に森竹竹市さんは土地の返還を主張しておられる。(2022.12.15)
「青年弁論大会」開催
登別温泉に療養所「北星寮」設置
1950年(S25)「レッドパージ」
1951年(S26)
「日米安保条約」調印
「ILO」・[先住民労働者の権利に関する専門部会]再開
*先住民族の権利についての研究
1952年(S27)「破防法」成立
1953年(S28)厚生省、「地方改善事業費」計上(環境改善事業共同浴場作業場)
1954年(S29)防衛庁・自衛隊発足
1955年(S30)北海道、「熊祭り禁止」を通達(全道支庁長、市町村長宛)
イオマンテとは何か?(拡大) 『北方文化論』河野広道著作集T 233頁
▼「日本における北方研究の再検討」北海道大学教授 煎本孝(いりもとたかし)
「熊祭りの背景にある世界観は、人間と神との間の互酬性の反復―すなわち狩猟対象動物とは肉と毛皮をかぶった神であり、 これらを土産物として人間に贈り、人間からは拝礼を受け、木幣、酒、黍餅などの土産物を受け取り、 再び人間界を訪問することを招請されながら神の国に帰還する―という論理によって成り立っている。 この世界観は広く北方ユーラシアと北アメリカ諸文化に共通するものである。」
▼このような高い思想を持つ熊祭りを何故禁止するのか。私には理解できない。 (のちに禁止が解除されたようだが)
▲右『北方文化論』河野広道著作集T 233頁より。「イは物、オマンテは送る。イオマンテは「物送り」の義。「熊祭」と訳するのは誤り。」(2021.9.24)
1956年(S31)「ILO」・[独立国における先住民の生活労働状況に関する報告書]提出
1957年(S32)
「ILO・107号条約」採択
「独立国における種族民又は半種族民で、その社会的及び経済的状態がその国の共同社会の他の部類の者が到達している段階より低い段階にあり、 かつ、その地位が自己の慣習もしくは伝統により又は特別の法令によって全部又は一部規制されているものの構成員」 (第1条(a))を保護しながら、同化させるねらいを持っていた。(アイヌと和人の関係にあてはまる。北海道旧土人保護法と同じ。)
▼「Convention concerning the Protection and Integration of Indigenous and Other Tribal and Semi-Tribal Populations in Independent Countries」( 独立国における土民並びに他の種族民及び半種族民の保護及び同化に関する条約)採択(全文37条)
▼Integration=全体の中に包み込む、つまり同化する。この時点ではILOもまだこういう認識だった。
2021.1.27朝日夕刊(拡大) 北海道179の市町村 アイヌ語由来
 約8割
小泉信一さんの記事
今につながる運動の開始
1960年(S35)北海道アイヌ協会、札幌市において再建大会開催
野村義一、協会常務理事・書記長に就任する。
▲新しい動き。(2022.9.12)
▲1950年代の10年間反動の嵐だったようだ。(2022.12.15)
1961年(S36)
金成(かんなり)マツ (拡大)
知里真志保
厚生省予算の中に初めて「ウタリ福祉対策費」計上
・「不良環境地区改善施設整備費補助」
新札幌市史第5巻通史5(上)494ページ民族としての復権をめざして
「北海道アイヌ協会」、「北海道ウタリ協会」と名称変更
▲新しい動き。(2022.9.12)
▲アイヌを嫌いウタリに。この頃の空気の反映。1964年に野村義一さん、理事長に。変わっていく。(2023.10.30)
・北海道、初めて北海道ウタリ協会に運営費補助(10万円)
▲小バカにした金額。(2022.9.12)
金成マツ(85)、死去     知里幸恵へ
知里真志保(52)、死去
1962年(S37)
「日高地区ウタリ実態調査」7月
(北海道日高支庁・北海道ウタリ協会日高地区各支部)
「うせない荘」建設(翌年竣工・S44売却)
1963年(S38)北海道ウタリ協会機関紙「先駆者の集い」創刊
1964年(S39)
北海道ウタリ協会事務局を北海道庁社会課内に置く(事務局員1名)
▲組織が自立出来ない。(2022.9.12)
北海道ウタリ協会、北海道の委託を受け、授産事業技術指導を行う
1968年ころの
アイヌの若者の意識


「消えていくのがアイヌの幸福」(拡大)
▲悲しい。知里幸恵さんから46年の現実。(2022.11.9)
野村義一、北海道ウタリ協会理事長に就任する[1]。1996年まで、32年間理事長を勤める
1968年(S43)
▲右の資料は1968年出版『現代のアイヌ』著者 元朝日新聞記者 菅原幸助さん。(2022.11.9)
飯島秀明ー『現代のアイヌ』を読む
「私の部落にも純粋のアイヌはいなくなりました。和人との混血がふえ、 和人との結婚をくりかえしているうち、アイヌは消えてゆくというのがアイヌの幸福をつくるあり方だと思います。」
▲1968年出版。この現実。愕然とする。ユポさんも40歳から活動と聞く。50年前はこれがアイヌ社会の空気。 (2023.10.30)
新札幌市史
北海道、開道100年祝典開催
国の行政管理庁より「北海道旧土人保護法」廃止の見解を求められる、北海道民生部、時期尚早と反対
*「北海道旧土人保護法」改正(7条削除)
・「不良住宅改良」援助廃止
1969年(S44)
シャクシャイン死後300年、静内にてシャクシャイン顕彰会設立(以後毎年、シャクシャイン法要祭開催)
北川大さん (拡大)
1669年「シャクシャインの戦い」
▼300年後シャクシャインが蘇った!戦いの再開。国連・国際世論を後ろ盾にしながら。 (2020.7.5)
▲『アイヌが生きる河』218p
「戦後のアイヌをめぐる状況を調べていくと、60年代後半まで、 まるで星一つない漆黒の闇夜のような時代であったかのようだ。」北川大さん、感性すばらしい。
『同書』230p〜232p
「シャクシャイン供養祭はアイヌ復権運動の揺り篭となった。」
(2022.8.21)

▲今考えている「アイヌモシリの会」はシャクシャインの魂の継承。(2022.9.6)
自民党参議院議員西田信一、国会でアイヌ問題をとりあげる。
・秋田大助自治相、「同和対策特別措置法」附則に「アイヌに準用」と書き込むかを、北海道ウタリ協会に下問(ウタリ協会断る)
1970年(S45)
全道市長会、「北海道旧土人保護法」廃止決議
北海道ウタリ協会、「北海道旧土人保護法」廃止反対決議 
*国連、人権委員会、人権小委員会委員エルナン・サンタクルス 「政治的・経済的・社会的及び文化的領域における人種差別の研究」最終報告書提出 
・「先住民族の権利」についての研究
エルナン・サンタクルス
世界人権宣言の歴史 ― 2018年は採択70周年
起草小委員会のメンバーを務めていたエルナン・サンタクルス(チリ)は、次のように記しています。
「私には、人間の至上の価値に関するコンセンサスが生まれた、まさに歴史上の一大事に参加しているというはっきりとした認識がありました。
その価値は、世俗的な権力者の決定ではなく、人間の存在という事実それ自体に由来するものであり、 これによって、欠乏や抑圧のない状態で暮らし、それぞれの個性を十分に育むという不可侵の権利が生まれたのです。
大会議場では…全世界から集まった男女の間に真の連帯感と友愛の雰囲気が漂っていました。 それはいかなる国際舞台でも、私が二度と目にすることのなかった光景でした」
1971年(S46)
「ウタリ福祉基金」の創設計画発表(3億円)
佐藤総理大臣(西田国務大臣同席)、厚生大臣、自民党三役陳情
@子弟の教育 A 住宅 B 生活基盤の安定 C基金の創設
「二風谷アイヌ文化資料館」落成 
札幌支部結成
 札幌市に道内各地から仕事を求めてウタリ(同胞)が集まるようになったのは、昭和三十年代後半からである。 四十六年(一九七一)十二月十二日、呼びかけ人小川隆吉の「ウタリ協会石狩支部結成会へのおさそい」に応えて札幌市民会館で最初の会合があり、 同月二十二日有志二二人によって石狩支部が結成された。
「結成会へのおさそい」文で、「いまなおつづく大小の差別と偏見、生活の苦しみをなくするため、 わたくしたちが味わった苦い経験を二度と、弟や妹、子供たちにはさせない、そして平和で豊かな生活を平等な権利をえるために、 おたがい語りあい、はげましあいたい一心からこうしてよびかけております」と、熱い思いを伝え、 千歳・石狩・恵庭・札幌在住のウタリが中心だったので石狩(のち札幌)支部とし、 会則も次の四カ条を掲げた(祝賀会 支部結成10周年記念 昭57)。
 @生活上の悩みを出しあい助けあっていく。
 A健康で文化的な生活をするため制度の活用を。
 B仕事上のことで困っている事等を相談し助け合っていく。
 Cアイヌ文化を守り発展させる。
*国連、人権委員会、ホセ・マルチネス・コーボ(エクアドルの人権専門家)を特別報告者に任命。 「先住民に対する差別問題の研究」1972年に予備報告書提出
1972年(S47)
宇梶静江さん
72年(38歳ー引用者)2月8日、朝日新聞の家庭欄には、こんなタイトルの投稿
〈ウタリたちよ、手をつなごう〉
「生きるか死ぬかという思い、それぐらいつらい公表だった」
73年には「東京ウタリ会」を設立し、アイヌの権利獲得のための活動を始めた。連日、都議会に出向くなどした結果、 75年、東京都で初のアイヌ実態調査が行われた。さらに都に掛け合い、職業安定所にアイヌのための職業相談員を置くことを認めてもらった。 自らが相談員になって、あちこちの会社に求人の有無を聞いて歩いた。 新聞へ投稿した38歳から還暦を過ぎるまでのおよそ四半世紀。
▲たぶん北海道での動きと自身の内面の鬱積が呼応する形での爆発であったように感じる。(2023.10.31)
1972年 開拓史観への抗議事件

平山『地図でみる』185p
▲個々の抗議の仕方に問題があるかも知れないが 歴史的現象としては当然の流れ。(2022.9.12)(拡大)
「財団法人北海道ウタリ福祉基金」創設(1998年解散)
「北海道ウタリ生活実態調査」実施(北海道民生部)
「旭川アイヌ協議会」発足
*沖縄祖国復帰
*「日中共同声明」
1973年(S48)
「北海道ウタリ対策協議会」第1次「北海道ウタリ福祉対策」決定(8月)
日本社会党「アイヌ民族対策特別委員会」設置(36名)(のちに「アイヌ民族問題特別委員会」) 
自由民主党「北海道代議士会・ウタリ対策推進委員会」設置(15名) 
日本共産党「アイヌ問題対策委員会」設置
1974年(S49)
北海道ウタリ協会事務局を、道民生部から北海道立社会福祉館に置く
第1次「北海道ウタリ福祉対策」実施 
5月「北海道ウタリ対策関係省庁連絡会議」設置(10省庁)
根室市・イチャルパ
ノッカマップイチャルバ
1974年から毎年9月末に、根室半島のノッカマップというところで「イチ ャルパ」 (アイヌ語で供養祭という意味)という催しが行われています。 寛政元 (1789年)のクナシリ・メナシの戦いの犠牲者(アイヌ37人、和人71人 )の供養のために、 アイヌの人たちが中心になって祭事が催されています。

1789年はフランス革命が起こった年でもありました。蝦夷地でこのような戦いが起こったことも偶然ではなく、世界史の流れの中でとらえようとする考え方もあります。 この戦いは、決して楽しい歴史ではありませんが、北海道にとっても日本にとっても、そしてアイヌ民族の歴史にとっても、大変重要な出来事でした。そして根室市にとっても忘れてはならない歴史ですので、ここに掲載いたしました。 更新日:2018年03月01日
▲根室市のHP。比較的良心的に記述されている。 根室市のアイヌ政策はどのようになっているか興味ある。(2022.12.28)
1976年(S51)
財団法人アイヌ無形文化伝承保存会設立
日教組大会において「アイヌ系日本人」を「アイヌ民族」に
1978年(S53)
「北海道旧土人保護法」・「北方領土」特別委員会設置(ウタリ協会)
シャクシャイン記念館落成(日高郡新ひだか町静内真歌(まうた))
北海道ウタリ協会事務局を道立社会福祉総合センター内に置く
1979年(S54)
「北海道ウタリ生活実態調査」実施(第2回・北海道民生部)
北海道ウタリ協会「アイヌ問題解決のための特別委員会」設置 
・日本政府.国連.「国際人権規約」A.B批准 
▼「国際人権規約」A.Bは当HP「国連基準」を参照してください。
                           トップへ戻る  
1981年(S56)
「北海道ウタリ対策協議会」
第2次「北海道ウタリ福祉対策」実施(〜1987)
第1回沖縄戦没者キムンウタリの塔慰霊祭実施
コーボ報告書「第1次進捗状況報告書」国連人権委員会
*勧告
・先住民族には、固有の権利があること
・「先住民族の権利宣言」を作ること
・そのワーキング・グループを作ること
・先住民の「国際年」を作ること(1992・コロンブス)
▼wp:沖縄戦で北海道出身の兵士が多数戦死しており、その中にアイヌも数含まれていることから、 北海道ウタリ協会が、南北之塔で1981年にイチャルパ(供養祭)を実施し、 その後、1985年・1990年・1995年・2000年・2005年にも実施されている。 アイヌと沖縄の友好のシンボル。「キムンウタリ(kimun-utari)」とは、「山の同胞」という意味。 北海道弟子屈町出身のアイヌ文化伝承者、弟子豊治(てしとよじ)が所属していた部隊が通称「山部隊」と呼ばれていたことによる。
▼キムン:山へ入る、山行き。キムンというと山へ行くというよりも狩りに行く、 すぐにそう思うのが普通である。(『萱野茂のアイヌ語辞典』209頁)
1982年(S57) 北海道ウタリ協会、総会で北方領土の「先住権」・留保を表明
「北海道旧土人保護法」の廃止と、「新法制定」を総会決議
1982年に始まった「アイヌ新法」制定運動は、主体性の点でアイヌ民族史の視点からも画期的であった。 起草作業を副理事長であった貝澤正を座長に開始した。(上村論文210p)
▲基本の一致。こころ強い。(2023.1.26)
「北大医学部アイヌ人骨資料」の返還を求める
「高校教科書検定問題」で文部省に抗議書提出
・文部省、社会科教科書執筆者懇話会、教科書出版会社に対し、高校教科書のアイヌ記述改善を申し入れる

国連として先住民族問題を討議する初めての機関である「先住民族作業部会」が設置 (2006年11月、「先住民族作業部会」での起草開始から20年以上を経て、「宣言」案はようやく国連総会に提出された。藤岡 美恵子 (ふじおか みえこ) )

*un.orgコーボ報告書
「第2次進捗状況報告書」国連人権委員会 
コーボ報告書1 (拡大)
報告書2 (拡大) 報告書3 (拡大)
wikipedia:コーボ報告書
379 先住のコミュニティー、民族及び国民とは、自己の生活領域において発達した、侵略前及び植民地化前の社会と 歴史的連続性を有し自己の領域又はその一部において現在優勢であるところの 社会のなかの他の部分と自己を異なるとみなす者である。
先住住民は、現在、社会の被支配的部分を構成し、並びに民族としての存在が連続していることを基礎として、 その先祖伝来の領域及び民族のアイデンティティーを、自己自身の文化様式、社会制度及び法制度に従って、維持し、 発展させ及び将来の世代に伝えることを決意している。

380 この歴史的連続性とは、次に掲げる要素のうち一以上が、 現在に至るまでの長期にわたる期間において連続していることにより構成することができる。
(A)先祖伝来の土地の占拠又は少なくともその一部の占拠。
(B)(A)に言う土地の始原的な占拠者との祖先の共有。
(C)一般的な意味での又は特殊な表現による文化、(例えば宗教、部族制度の下での生活、 先住民族コミュ ニティの構成員であること、衣服、生活様式など。)
(D)言語(唯一の言語として、母語として、家庭若しくは家族における習慣的なコミュニケーション手段として、 又は重要な、優先的な、習慣性的な言語として使用されているかどうかを問わない)。
(E)国の一定の部分又は世界の一定の地域における居住。
(F)その他の関連ある要素。
381 個人を基準とした場合には、先住民族個人とは、先住民族としてのアイデンティティ ーによって 上記の先住住民に帰属し(集団的自覚)、かつ、その構成員の一人として、 これらの住民により認知され及び受容される(集団による受容)者である。
382 このために、これらのコミュニティーには、外部の干渉なしに、 誰がコミュニティーに帰属するかを決定する至高の権利及び権力が保持される。

wikipedia:先住民族の定義
*国連・人権委員会「先住民作業部会=WGIP」による「先住民族の定義」
1「先住民族とは、別の地域から異文化、異なった民族的起源を有する人々がやってきて、 地元住民を支配、定住その他の手段によって圧倒し、彼らの人口を減少させ、 非支配的な立場、もしくは植民地的な状況へ追い込んでしまった時代に、 現在の居住地域かその一部地域に生活していた人々の現存する子孫たちのことである。
先住民族は現在、主として支配的な人々の集団の民族的、社会的、文化的特徴を取り入れた国家構造のもとで、 彼ら自身を取り込んでしまっている国家の諸制度よりはむしろ、彼ら自身の社会的、経済的、文化的習慣や伝統に従って生活していることが多い。」
2「征服されたり、植民地化された苦しみを味わっていなくとも、国内において孤立しているか、 または辺境へ追いやられた集団についても、以下のような理由により先住民族という概念の枠内でとらえられるべきであろう。
(A)彼らは、異文化や異なった民族的起源をもつ他の集団がその地へやってきた時代に、国内に住んでいた集団の子孫である。
(B)国民の他の部分から隔離されていたため、彼らは祖先からの習慣と伝統をほとんど無垢のままに保存してきた。 それらは「先住民族」として特徴づけられるているものに類似している。
(C)彼らは、少なくとも形式上は、自分たちとは無縁の民族的、社会的、文化的特徴を取り込んだ国家構造の下におかれている。」

*「世界銀行」(4.20, 1991)による「先住民族の定義」
1先住民族は、多くの場合、地理的に隔絶した地域にすみ、文明に適しておらず、文字を使用できず、 貨幣経済の浸透もなく、特殊な環境に依存する経済基盤をもっている。
2隔絶の程度や文化の浸透の程度によって先住民族を四つのグループに分けている。
3まだ接触のない部族の生存を確保し、国内における交流をより活発な段階へ押し上げ、部族の開発を促進すること。

*「世界先住民族会議」(World Council of Indigenous People; WCIP)による「先住民族の定義」
「私たち先住民族とは以下のような集団である。
私たちの現在住んでいる土地に古い時代より住み続け、 祖先から引き継いだ土地に結びつけられた社会的伝統と表現の手段、 および独自の言語を保持するという特徴をもち、さらに特定の民族への強固な帰属意識を抱かせるような 基本的かつ独自の特徴をもつことを自覚している集団のことである。 そして民族としてのアイデンティティを有し、それゆえに他者から峻別される集団のことである。」

*UNHRC(United Nations Human Rights Council)国連人権理事会による「先住民族の定義」
1 征服者によって蹂躙された領土のもともとの住民の子孫である。
2 移動または半移動民。
移動耕作者、牧畜民、狩猟民、採集民であったりする。
労働集約的な農業形態をとり、余剰を生むことはほとんどなく、エネルギーの必要度も低い。
3 中央集権的な政治制度を持っておらず、共同体レベルで組織がつくられており、全員の同意をもとに決定がなされる。
4 少数民族の特徴をすべて有している。
共通の言語、宗教、文化、識別可能な諸特徴と特定の土地との結びつきなど。 しかし支配的な文化・社会によって圧倒されつつある。
5 土地と天然資源を保護し、物資中心主義的ではない態度からなる世界観をもち、支配社会によって与えられた開発とは異なる開発を追求する。
6 自分たちを先住民族と見なしており、集団にも先住民族として受け入れられている個々人を構成員とする。

*「ILO169号条約」(1989年)による「先住民族の定義」
 1 この条約は、次のものに適用する、
(A)独立国における種族民であって、その社会的、文化的、及び経済的な条件が、 その国民社会の他の部門と異なり、かつその地位が全部又は一部それ自身の慣習もしくは伝統、 又は特別の法律もしくは規則によって規律されている者 
(B)独立国における民族であって、征服もしくは植民地化又は現在の国境が画定されたときに、 その国又は国の属する地域に居住していた住民の子孫であるために先住民族と見なされ、 かつ、法律上の地位のいかんを問わず、自己の社会的、経済的、文化的及び政治的制度の一部又は全部を保持している者
2 先住民族又は種族民としての自己認識が、この条約の規定が適用される集団を決定するための根本的な基準とみなされるべきである。
▼種族民=tribal peoples ▼民族=peoples ▼先住民族=indigenous peoples
▼先住民族又は種族民としての自己認識=Self-identification as indigenous or tribal 
▼コーボ報告書へ至る過程
wp:1971年に国際連合人権委員会の下部組織である少数者の差別防止および保護に関する国連人権小委員会 (現:国際連合人権促進保護小委員会)が先住民族差別に関する調査を勧告し、ホセ・マルチネス・コーボを特別報告者として任命した。
1982年にコーボ特別報告者によって「先住民への差別問題に関する調査報告書」が提出 (1972年に予備報告、1981年に第一次進捗報告、1982年の報告についで、1983年には最終報告)され、 この報告に基づいて国際連合先住民作業部会 (Working Group on Indigenous Populations; WGIP) が設置された。


▼北大大学院小内(おない)透教授の論文、見つける。(2020.5.11)
先住民族の復権の動き
1970年代に入ると、先住民族の運動は次第に国民国家の枠組みをこえ、「第四世界」の運動と 言われるようになった。

1973年には、グリーンランド、北カナダの先住民とサーミによりコペンハーゲンで北方民族会議(Arctic Peoples Conference)が開催された。
彼らは、その場で先住民族の土地や水に対する権利や生存権を表明し、世界先住民族会議を結成することが決められた(庄 司 1991: 877)。
この北方民族会議は、北方地域における先住民の国際活動の始まりとされ(Jentoft, Minde and Nilsen eds. 2003: 25)、

1975年にはグリーンランドおよびカナダのイヌイットと北欧の サーミが世界先住民族評議会(WCIP)を組織するまでになった。

「第四世界」の運動と相前後して、国際的に先住民族の権利を検討する動きも強まった。

1971年には、国際連合人権委員会の下部組織である「少数者の差別防止および 保護に関する国連人権小委員会」が先住民族差別に関する調査の実施を勧告し、エクアドル出身のホセ・マルチネス・コーボが 特別担当官として任命された。
コーボは1972年から先住民族差別に関する調査を開始し、同年に予備報告、1981年に第一次進捗報告、 続いて1982年に世界の先住民がおかれた状況に関する報告書(『先住民に対する差別問題の研究』)を提出した2)。 同年、これにもとづいて、国連の経済社会理事会(ECOSOC)が国際連合先住民作業部会(WGIP)を立ち上げた。 同作業部会は先住民族の権利に関する議論を開始し、翌1983年にはこの部会に先住民の代表が参加することとなった。

アイヌ民族も1987年から同部会に参加するようになった。同作業部会が発足してから20年以上にわたる議論の末、 「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(2007年)がまとめられた。
 この間、1989年に先住民族の土地と水に関する権利の保障を盛り込んだILO第169号条約(「独 立国における先住民族および種族民に関する条約」)が成立し、1990年6月19日、ノルウェーがこ の条約を最初に批准した。その後、中南米の国を中心に批准国が増加し、2013年1月現在22か国が 批准している3)。

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2020.2.16朝日新聞朝刊
▲駒木さんの記事はすばらしい。
「日本政府もまた、北方領土問題で、史実を曲げる主張を重ねてきた。特に問題なのは、51年のサンフランシスコ 講和条約で日本が放棄した「千島列島」に国後、択捉は含まれないという主張を今も続けていることだ。当時、日本政府が両島をあきらめていたことは 史料などで明らかだ。」
▲しかしよく考えてほしい。元々「千島列島」はアイヌ民族が先住民。
このことを無視して日本もロシアも領土問題を議論することがおかしい。
国際法上、ロシアに帰属しているのであればロシアがアイヌ民族を先住民として尊重すべし。(2020.5.24)
▲この時の思いが「179市町村議会で……」の陳情につながっている。(2023.3.6)
駒木明義論説委員
ウクライナ問題では疑問
2022.7.4朝日朝刊
(拡大)

山川力「樺太、千島をめぐる先住アイヌ民族の復権要求に日ロのだれが耳を傾けたか。」30p
▲まさに今、田澤さんと得平さんでこの問題に取り組む準備をしているところ。(2023.3.4)

千島列島のアイヌ民族先住に関する資料
(拡大)1983年5月北海道ウタリ協会

1984年を記念して
1983年(S58)
北海道ウタリ協会、定例総会において「北方領土」問題に関する基本方針を確認 「全千島における先住民族であるアイヌ民族の地位を再確認する」
「北海道についても先住者がアイヌであったことを明確にすべきであること」
「アイヌ史編集委員会」設置
「北海道アイヌ古式舞踊連合保存会」設立
「二風谷アイヌ語教室」開設
1984年(S59)
北海道ウタリ協会、総会で「アイヌ民族に関する法律(案)」(略称「アイヌ新法案」)を決議。 先住民族宣言ともいうべき、画期的内容の歴史的文書。アイヌ協会において初めて「先住民族法律」提言。
前文・本法を制定する理由(重要)
1・基本的人権.
2・参政権.
3・教育・文化.
4・農業・漁業・林業・商工業等
5・民族自立化基金.
6・審議機関
北海道知事、北海道議会に陳情、関係機関に協力要請(7・12)
「北海道アイヌ古式舞踊」国の文化財に指定
第1回「北海道大学医学部アイヌ人骨イチャルパ」実施
北海道知事の諮問機関、「ウタリ問題懇話会」第1回開催
*「アイヌ民族に関する法律(案)」の具体的な考え方 ―なぜアイヌ民族に関する法律を求めるのか―社団法人北海道ウタリ協会より提案 
▼「アイヌ民族に関する法律(案)」全文を掲載いたします。
▼昨日、亀戸でユポさんにお会いしました。その際「アイヌ民族に関する法律(案)の具体的な考え方」(40頁)を頂きました。条文理解を助けるものです。 茶色の文字で書き込みます。(2020.11.8)
成田得平さん

▲「アイヌ新法案」の起草者の一人、1943年生まれ(当時41歳)。(2023.2.25撮影)
野村義一理事長1914年生まれ(70歳)。
貝澤正副理事長1912年生まれ(72歳)

(拡大)
▲「アイヌ新法案」の起草は貝澤正さん、成田得平さん、もう一人は?『アイヌが生きる河』241p(2022.8.21)

アイヌ民族に関する法律制定についての陳述書 昭和五十九年七月十二日   
陳述団体 社団法人北海道ウタリ協会 理事長 野村義一

当協会は、アイヌの民族的権利の回復を前提にした人種差別の一掃、民族教育と文化の振興、 経済自立対策など、抜本的かつ総合的な制度を確立する必要があるという基本的な考え方に立脚して、 明治三十二年に制定された北海道旧土人保護法を廃止し、新法を制定すべく検討を重ねて参り、 この程別添のとおり成案を得ましたので実現方について特段のご配慮をいただきたく陳述を申しあげます。
                    記
陳述の要旨
一、明治三十二年制定の北海道旧土人保護法は、アイヌ民族差別であり、廃止すること
ニ、北海道旧土人保護法による多年にわたった民族の損失を回復するために、別添「アイヌ民族に関する法律(案)」を制定すること
三、「アイヌ民族に関する法律(案)」の制定は、北海道旧土人保護法の廃止と同時とすること
理由
別記のとおりである
________________________________________
アイヌ民族に関する法律(案)
昭和五十九年五月二十七日   社団法人北海道ウタリ協会総会において可決
前文
この法律は、日本国に固有の文化を持ったアイヌ民族が存在することを認め、 日本国憲法のもとに民族の誇りが尊重され、民族の権利が保障されることを目的とする。

本法を制定する理由
先住民族 山川力「いまアイヌ新法を考える」91p新撰北海道史(拡大)
北海道、樺太、千島列島をアイヌモシリ(アイヌの住む大地)として、固有の言語と文化を持ち、共通の経済生活を営み、 独自の歴史を築いた集団がアイヌ民族であり、徳川幕府や松前藩の非道な侵略や圧迫とたたかいながらも 民族としての自主性を固持してきた。
明治維新によって近代的統一国家への第一歩を踏み出した日本政府は、先住民であるアイヌとの間になんの交渉もなく アイヌモシリ全土を持主なき土地として一方的に領土に組み入れ、 また、帝政ロシアとの間に千島・樺太交換条約を締結して樺太および北千島のアイヌの安住の地を強制的に棄てさせたのである。
土地も森も海もうばわれ、鹿をとれば密猟、鮭をとれば密漁、薪をとれば盗伐とされ、 一方、和人移民が洪水のように流れこみ、すさまじい乱開発が始まり、アイヌ民族はまさに生存そのものを脅かされるにいたった。
アイヌは、給与地にしばられて居住の自由、農業以外の職業を選択する自由をせばめられ、 教育においては民族固有の言語もうばわれ、差別と偏見を基調にした「同化」政策によって民族の尊厳はふみにじられた。
戦後の農地改革はいわゆる旧土人給与地にもおよび、さらに農業近代化政策の波は零細貧農のアイヌを四散させ、 コタンはつぎつぎと崩壊していった。
いま道内に住むアイヌは数万人、道外では数千人といわれる。その多くは、不当な人種的偏見と差別によって 就職の機会均等が保障されず、近代的企業からは締め出されて、潜在失業者群を形成しており、 生活はつねに不安定である。差別は貧困を拡大し、貧困はさらにいっそうの差別を生み、生活環境、 子弟の進学状況などでも格差をひろげているのが現状である。
現在行われているいわゆる北海道ウタリ福祉対策の実態は現行諸制度の寄せ集めにすぎず、 整合性を欠くばかりでなく、何よりもアイヌ民族にたいする国としての責任があいまいにされている。
いま求められているのは、アイヌ民族的権利の回復を前提にした人種差別の一掃、民族教育と文化の振興、 経済自立対策など、抜本的かつ総合的な制度を確立することである。
2021.1.15朝日朝刊 半藤一利さん(拡大)
「半藤さんは、近代日本が犯した多くの誤りを書き残していかなきゃいけないと遺言のように言っていた。いろいろな国に迷惑をかけたことの 歴史的総括をやっておかないと日本信用されない、と。」(保阪正康さん)
▲その一つがアイヌ民族問題(2021.8.3)

2021.1.14朝日朝刊 半藤一利さん(拡大)
民主主義のすぐ隣にファシズムはある
▲至言(2021.8.8)

日本社会に向けられた課題 山川力「いま、アイヌ新法を考える」(拡大)
アイヌ民族問題は、日本の近代国家への成立過程においてひきおこされた恥ずべき歴史的所産であり、 日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる重要な課題をはらんでいる。 このような事態を解決することは政府の責任であり、全国民的な課題であるとの認識から、 ここに屈辱的なアイヌ民族差別法である北海道旧土人保護法を廃止し、新たにアイヌ民族に関する法律を制定するものである。
この法律は国内に存住するすべてのアイヌ民族を対象とする。
▲「政府の責任であり、全国民的な課題である」、和人の課題と明言されている。 同和対策審議会答申「早急な解決こそ国の責務であり,同時に国民的課題である」(昭和40年8月11日 1965年)と似た発想。(2023.3.4)

第一 基本的人権
アイヌ民族は多年にわたる有形無形の人種的差別によって教育、社会、経済などの諸分野における 基本的人権を著しくそこなわれてきたのである。
このことにかんがみ、アイヌ民族に関する法律はアイヌ民族にたいする差別の絶滅を基本理念とする。

第二 参政権
  特別議席の提案
山川力「いまアイヌ新法」を考える106p
▲得平さん「当然のことを書いたまで」 2023.3.5本人に確認(拡大)
  憲法学の課題
山川力「いまアイヌ新法」を考える108p
▲ともかく実質を獲得したい。時間がない。議論は学者に任せたい。江橋崇教授(1942年生まれ)の見識は立派。(2023.3.5)
市民立憲フォーラムでの江橋発言
(拡大)
明治維新以来、アイヌ民族は「土人」あるいは「旧土人」という公式名称のもとに、 一般日本人とは異なる差別的処遇を受けてきたのである。明治以前については改めていうまでもない。
したがってこれまでの屈辱的地位を回復するためには、国会ならびに地方議会にアイヌ民族代表としての議席を確保し、 アイヌ民族の諸要求を正しく国政ならびに地方政治に反映させることが不可欠であり、 政府はそのための具体的な方法をすみやかに措置する。

第三 教育・文化
北海道旧土人保護法のもとにおけるアイヌ民族にたいする国家的差別はアイヌの基本的人権を著しく阻害しているだけでなく、 一般国民のアイヌ差別を助長させ、ひいては、アイヌ民族の教育、文化の面で順当な発展をさまたげ、 これがアイヌ民族をして社会的、経済的にも劣勢ならしめる一要因になっている。
政府は、こうした現状を打破することがアイヌ民族政策の最重要課題の一つであるとの見解に立って、 つぎのような諸施策をおこなうこととする。
1 アイヌ子弟の総合的教育対策を実施する。
2 アイヌ子弟教育にはアイヌ語学習を計画的に導入する。
3 学校教育および社会教育からアイヌ民族にたいする差別を一掃するための対策を実施する。
4 大学教育においてはアイヌ語、アイヌ民族文化、アイヌ史等についての講座を開設する。 さらに、講座担当の教員については既存の諸規定にとらわれることなくそれぞれの分野における アイヌ民族のすぐれた人材を教授、助教授、講師等に登用し、アイヌ子弟の入学および受講についても 特例を設けてそれぞれの分野に専念しうるようにする。
5 アイヌ語、アイヌ文化の研究、維持を主目的とする国立研究施設を設置する。 これには、アイヌ民族が研究者として主体的に参加する。
従来の研究はアイヌ民族の意思が反映されないままに一方的におこなわれ、 アイヌ民族をいわゆる研究対象としているところに基本的過誤があったのであり、 こうした研究のあり方は変革されなければならない。
6 現在おこなわれつつあるアイヌ民族文化の伝承・保存についても、問題点の有無をさらに再検討し、完全を期する。

第四 農業漁業林業商工業等
農業に従事せんとする者に対しては、北海道旧土人保護法によれば、一戸当り15,000坪(約5ヘクタール)以内の交付 が規定されているが、これまでのアイヌ民族による農業経営を困難ならしめている背景にはあきらかに 一般日本人とは異なる差別的規定があることを認めざるをえない。北海道旧土人保護法の廃止とともに、 アイヌ民族の経営する農業については、この時代にふさわしい対策を確立すべきである。
漁業、林業、商工業についても、アイヌの生活実態にたいする理解が欠けていることから 適切な対策がなされないままに放置されているのが現状である。
したがって、アイヌ民族の経済的自立を促進するために、つぎのような必要な諸条件を整備するものとする。
農業
1 適正経営面積の確保
北海道農業は稲作、畑作、酪農、畜産に大別されるが、地域農業形態に即応する適正経営面積を確保する。
2 生産基盤の整備および近代化
アイヌ民族の経営する農業の生産基盤整備事業については、既存の法令にとらわれることなく実施する。
3 その他
「具体的な考え方」農用地面積 一般(9.28ha)アイヌ(3.4ha)
 施策:国及び道有地開放 農地取得資金の特例 負債整理資金の新設

▼国及び道有地開放、ではないでしょう。先住権で当然でしょう。(2020.11.12)
漁業
1 漁業権付与
漁業を営む者またはこれに従事する者については、現在漁業権の有無にかかわらず希望する者にはその権利を付与する。
2 生産基盤の整備および近代化
アイヌ民族の経営する漁業の生産基盤整備事業については、既存の法令にとらわれることなく実施する。
3 その他
「具体的な考え方」専業漁家 全道(32.6%)アイヌ(89%)
 施策:定置漁業権・区画漁業権・共同漁業権の特例付与 入漁権の特例付与 負債整理資金の新設

▼特例付与、ではないでしょう。先住権で当然でしょう。(2020.11.12)
林業
1 林業の振興
林業を営む者または林業に従事する者にたいしては必要な振興措置を講ずる。
商工業
1 商工業の振興
アイヌ民族の営む商工業にはその振興のための必要な施策を講ずる。
労働対策
1 就職機会の拡大化
これまでの歴史的な背景はアイヌ民族の経済的立場を著しくかつ慢性的に低からしめている。 潜在的失業者とみなされる季節労働者がとくに多いのもそのあらわれである。 政府はアイヌ民族にたいしては就職機会の拡大化等の各般の労働対策を積極的に推進する。

第五 民族自立化基金
従来、いわゆる北海道ウタリ福祉対策として年度毎に政府および道による補助金が予算化されているが、 このような保護的政策は廃止され、アイヌ民族の自立化のための基本的政策が確立されなければならない。 参政権の確保、教育・文化の振興、農業漁業など産業の基盤政策もそのひとつである。
これらの諸政策については、国、道および市町村の責任において行うべきものと民族の責任において行うべきものとがあり、 とくに後者のためには民族自立化基金ともいうべきものを創設する。
同基金はアイヌ民族の自主的運営とする。 基金の原資については、政府は責任を負うべきであると考える。 基金は遅くとも現行の第二次七ヵ年計画が完了する昭和六十二年度(1987)に発足させる。
「具体的考え方」22頁〜39頁に詳述。民族自立化基金の原資は政府が用意する。その利息で
1自立更生助成対策 
2就労安定対策
3産業振興対策 
4福祉対策
5住宅対策 
6教育・文化振興対策 
7組織活動推進対策
の事業を民族の責任において自主的に運営する、となっている。
これに要する年間の必要経費は約110憶円。これを基金の利息で捻出するというもの。
▼民族自立化基金の経費の内訳を「具体的考え方」22頁〜39頁を読んでみました。生活の多岐にまでわたり、アイヌの人たちの 日々の生活に直結した政策で、しかも予算も控え目な金額で概ね妥当と思いました。 これは是非実現していくべきものと考えます。(2020.11.9)
「具体的考え方」の試算では昭和62(1987)年時点の1年定期の利率は3.76%なので2,935憶円の 基金の創設となっている。2020年現在は0.25%なので4兆4000億円になる。つまり金利が15分の1なので基金が15倍になってしまう。
「民族自立化基金」の根拠。
@明治以降の日本政府によるアイヌ民族の土地の取り上げ、生活・文化の破壊といったアイヌ民族の犠牲の上で、
A明治期の武士階級の大混乱を収拾するために、
B天皇制の財政基盤の確立のために、
Cさらに先の大戦後の引揚者の受け入れのために、
といった近代日本の歴史の中での北海道の果たした役割を考え、 現在500万人を超える日本人が北海道で生活している現実を踏まえれば、「民族自立化基金」の創設は政府として当然の責任である。(2020.11.10)
▼基金の総額に関して発想の転換。
「具体的考え方」でいくと1987年時点では1年定期預金の金利で110憶円の年間対策費を考えると2,935憶円の基金が必要になる。 それが低金利の2020年では4兆4,000億円となってしまう。しかし発想を変えて1年定期預金の利息ではなく、長期の年金基金の運用のように考えると2%ほどの運用益は可能である。 とすると必要な基金は5,500憶円となる。原資は当然、国が出す。(2020.11.11)
(拡大可)
▼アイヌ民族自立化基金給付・貸付の推移(試算)
年間対策費の内訳は給付金37憶円、貸付金73憶円の合計110憶円となっている。基金の運用利回りを2%とすると、当初5,500憶円の基金が必要
27年後に貸付の償還がはじまり貸付は償還金でまかなえるようになる。37憶円の給付のためには1,850憶円の基金で足りる。 つまり5,500憶円の基金を3,650憶円減少させることができる。詳細は右表。27年後の「アイヌ民族自立化基金」には1,850憶円の基金と1,898憶円のアイヌの人たちへの貸付の債権(詳細参照) の合計3,748憶円の資産で当初から予定されていた110憶円の事業が継続されることになる。
基金を減少させないで給付を37憶円から110億円に増額させることも考えられる。(2020.11.13)
▼「民族自立化基金」の創設を裁判でも主張していきたい。謝罪の具体化の一つ。(2020.11.10)

▼「民族自立化基金」を考えるに際しての一つのイメージ。
「民族自立化基金」から予定されている年間の必要経費は110憶円。110憶円は北海道の人口約530万人、道民一人当たりにすると2,100円。 アイヌモシリに住まわせてもらう地代として年間一人当たり2,100円とも考えられる。 (2020.11.10)
ウィキペディア県民経済計算 奴隷補償
北海道のGDPは2017年度は19兆4,301億円。自立化基金の毎年の必要経費110億円は北海道のGDP比で1万分の5.7。 つまり1万円稼げば「年貢」として5.7円納めるということ。(2021.4.29)


 
「アイヌ民族に関する法律(案)」を決定した
北海道ウタリ協会総会

(『アイヌ民族の歴史』p563)

第六 審議機関
国政および地方政治にアイヌ民族政策を正当かつ継続的に反映させるために、つぎの審議機関を設置する。
1 首相直属あるいはこれに準ずる中央アイヌ民族対策審議会(仮称)を創設し、 その構成員としては関係大臣のほかアイヌ民族代表、各党を代表する両院議員、学識経験者等をあてる。
2 国段階での審議会と並行して、北海道においては北海道アイヌ民族対策審議会(仮称)を創設する。 構成については中央の審議会に準ずる。


▼アイヌ民族に関する法律(案)は素晴らしい!
▼この案と2019年4月18日に成立した「アイヌ新法」を比較検討すること。(2020.5.1)

▲山川力『政治とアイヌ民族』224p「アイヌ民族はこのあたらしい法律の制定を民族の統一目標としてしんぼうづよく じりじりと前進しつつある。」(1989.9.8)
民族の統一目標ではあるが、今では実現を放棄してしまったのが北海道アイヌ協会。だからもう一度これを掲げる、 つまり先住民の権利として。MIP回復運動として。(2022.12.9)

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1985年(S60)
(拡大)
UNDRIP獲得への長い道のり 上村英明

UNDRIPまでの道のり

1987年 野村義一理事長、国連先住民作業部会(UNWGIP)に参加。中曽根発言に抗議、 アイヌ新法制定運動を国際社会に報告。これ以降アイヌ民族は毎年代表団をジュネーブに送る。

1991年 UNWGIPのエリカ・イレーヌ・ダイス議長の日本視察

1992年 「国際先住民年」野村義一理事長の記念講演

1993年 リゴベルタ・メンチュウ・トゥム「国際先住民年親善大使」の来日

1994年 萱野茂、国会議員に。

1995年 日本政府「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」設置

1996年 ウタリ懇の報告書。アイヌ文化の振興、伝統的生活空間の再生。

1997年 3月、二風谷ダム判決。7月「文化振興法」。アイヌ民族の文化活動がしやすくなったことを否定しないが、 「アイヌ新法案」のうち実現したものは6項目のうち0.5項目の「文化」にすぎなかった。「先住権」は認められていない。

2007年 国連先住民族権利宣言(UNDRIP)

2008年 洞爺湖サミット。衆参両院で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」採択。 「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」設置。

2009年 「有識者懇談会」報告書提出。「アイヌ政策推進会議」設置

2019年 4月「アイヌ施策推進法」制定。 (上村論文211p〜212p)
▲簡潔によくまとめられている。1991年〜1997年の動きが力強い。
2007年のUNDRIPを生かせていない。
我々がやる。(2023.1.27)

北海道ウタリ協会「ウタリ会館(仮称)建設特別委員会」設置
アイヌ肖像権裁判提訴(原告 内藤美恵子)
1986年(S61)
創立40周年記念式典・祝賀会開催
北海道、「北海道ウタリ生活実態調査報告書」発刊
中曽根総理大臣、「単一民族発言」
ILO理事会、107号条約改正問題審議
*コーボ報告書「最終報告書」国連人権委員会「先住民族に対する差別問題の研究」第5巻
“結論、提案及び勧告” “国際的観点からの先住住民の定義のための見解”
1987年(S62)
北海道ウタリ協会、スイス・ジュネーブ「国連人権委員会」第5回「先住民族作業部会」初参加、 以来国連関連会議に継続参加
▼ゴルバチョフ書記長1985年。解放同盟第三期運動・IMADR1988年設立。このような流れが出てきた時期にウタリ協会の 国連活動がはじまった。(2020.7.5)
「ウタリ問題懇話会」今後のウタリ福祉対策について報告
「アイヌ語教室」設置、(平取・旭川) 
*5月、ILO理事会、107号条約改正問題につき各国政府に80項目にわたる質問状送付(9月30日回答締切)
*日本政府、11月4日北海道ウタリ協会に送付、11月16日回答期限
*ウタリ協会、政府に回答送付(11月16日)
*日本政府、ILOに今回は回答しないと連絡(12月)
▼日本政府の不誠実な対応。許しがたい。
1988年(S63)
*「ウタリ問題懇話会」アイヌ民族に関する新法問題について、 新しい法律制定の必要性を提言、知事に報告書提出(3・22)
*{アイヌ民族が求める、2.参政権(特別議席)、3.教育権、4.農林・漁業・林業・商工業等を外す}
▼懇話会の答申の本文、「アイヌ語が国会に響く」248頁で読む。先住権を根拠にした、と常本教授は解説するが内容は生活権に密着していない。 (2021.1.29)
*北海道ウタリ協会、総会で再決議
第3次「北海道ウタリ福祉対策」実施(〜1994)
北海道議会、「アイヌ民族に関する新法問題について」採択
北海道知事、北海道議会、北海道ウタリ協会の三者で「アイヌ新法」制定を国に要請(11・14)
*{アイヌ新法制定運動盛り上がる}
「アイヌ肖像権裁判」和解
*6月、北海道ウタリ協会、独自に「ILO」に80項目を回答 
*北海道議会決議・7月28日「アイヌ民族に関する法律制定についての要望意見書」  
1989年(H元)
二風谷ダム建設、行政不服審査法による審査請求・執行停止の申立(申立人、貝沢正、萱野茂)
政府「アイヌ民族に関する新法問題についての検討委員会」設置(北海道ウタリ対策関係省庁連絡会議)
「ILO169号条約」成立
・先住民族の定義(第1条)
・植民地化、国境画定、自己認識、強制同化政策
・土地権(第13条、第14条、第16条)、資源権(第15条)、領土権
* 日本民族学会研究倫理委員会
「『民族』の規定にあたっては、言語、習俗、その他の文化的伝統に加えて、 人々の主体的な帰属意識の存在が重要な条件であり、この意識が人々の間に存在する時、 この人々は独立した民族とみなされる。アイヌの人々の場合も、主体的な帰属意識がある限りにおいて、 独自の民族として認識されなければならない。」
▼「ILO169号条約」の正式名 Convention concerning Indigenous and Tribal Peoples in Independent Countries 独立国における原住民及び種族民に関する条約(全文44条)
▼北海道庁のHP『アイヌ文化振興法制定までの歩み』から
北海道「ウタリ問題懇話会」の知事への報告書の概要
報告では、北海道旧土人保護法及び旭川旧土人保護地処分法の二つの法律を廃止し、 次のような内容を含む「アイヌ新法(仮称)」を制定することを提言しています。

1 アイヌの人たちの権利を尊重するための宣言
日本国憲法のもとでアイヌの人たちの権利が尊重され、社会的・経済的地位が確立されるよう権利宣言を定めること。

2 人権擁護活動の強化
アイヌの人たちに対する差別が存在している現状を改善するために、人権擁護活動の強化を図ること。

3 アイヌ文化の振興
アイヌ語やアイヌ文化の継承・保存並びに普及に関する活動を援助し、 アイヌ民族文化を総合的に研究する国立のアイヌ民族研究施設を設置すること。

4 自立化基金の創設
アイヌの人たちの自立的活動を促進するために、「アイヌ民族自立化基金(仮称)」を設置すること。
なお、基金の運営にはアイヌの人たちの自主性が最大限に確保され、国の適正な監督が及ぼされるものとする。

5 審議機関の新設 アイヌ民族に係る民族政策、経済的自立を図るための産業政策を継続的に審議するため、アイヌ民族の代表を含む審議機関を新設すること。

▼知事の諮問機関の「ウタリ問題懇話会」よ、あなた方はアイヌ問題の核心がどこにあるか少しも分かっていない。 それとも分かりながら意図的に核心を外しているとしか思えない。
1990年(H2)
北海道ウタリ協会、第1回「アイヌ民族文化祭」開催
国連、1993年を「国際先住民族年」とすることを決議
ネイティヴ・アメリカンにとっての「コロンバス・デー」
「アメリカインディアン運動(AIM)」などによって、毎年この日(10月12日)になると全米各地で抗議行進やデモが行われていて、 その際多数のネイティヴ・アメリカンが逮捕されている。 また、この休日の名称そのものの変更を要求するネイティヴ・アメリカン団体「コロンバス・デー変更同盟」 (The Transform Columbus Day Alliance)も運動を強めている。
1990年夏, 全世界から350の先住民の代表者がエクアドルのキートに集い、 コロンバス・デー500周年祝いを阻止するため、第一回アメリカ先住民国際会議を開いた。 翌年の夏、カリフォルニア州デービスに100種族以上のアメリカ先住民が前年度エクアドル会議のファローアップ会議として集合。 彼らは、500周年に当たる1992年10月12日を「国際先住民結束の日」と宣言した。
▼このようなアメリカ先住民の活動を今日はじめて知りました。(2020.7.27)

北海道新聞「銀のしずく−アイヌ民族は、いま」連載開始(1年半)
「北海道立北方民族博物館」(網走市)開館
カナダにて「スパロウ判決」
▼wp:カナダ最高裁判所による重要な判決のひとつであり、先住民であるファーストネイションの人びとの権利を、 1982年憲法法第35項のもとで憲法の理念に基づいて定着させようとするはじめての試みとなった。 最高裁は、漁業権のような先住民権は、1982年以来現存しており、カナダ憲法のもとで保護され、 政府のカナダの先住民への信託の義務をめぐる事由・根拠の正当化なしに侵害されてはならないとの判断を示した。
▼この判決の先住民権の考えはアイヌの人たちのさまざまの先住民権の回復に役立つと思う。
「自治権」、「土地権」、鮭等の捕獲権、熊・鹿等の狩猟権、各種木本・草本の採集・利用権、言いかえれば河川・山の利用権等。 アイヌから奪われた 「先住民の権利」とは何か 杉田聡 帯広畜産大学教授(哲学・思想史より)
▼杉田論文「先住民の権利」とは何かは素晴らしいです。クリックしてみてください。(2020.7.27)
▼金属資源情報 2014年42号 カナダにおける先住権原に関する歴史的判決とその影響 クリックしてみてください。勉強になります。(2020.6.19)
1990年:R. v. Sparrow, 1 S.C.R. 1075
・ 1982年憲法§35が1982年4月17日以前に失効させられていない全ての先住民の権利を合法的に保護し、 これらの権利に関して英国王に信任義務を課すと判じた。同法廷はまた、同憲法§35の下では、同セクションが保護の対象とする権利は、 2つのテストをパスすることによってのみ制限することができる。
1)“説得力のある、または実質的な”目的を実現する法律によらなければならない。
2)英国王に対して課される信任義務の下で、当該法制が侵害される先住民の利益に優先することを説明しなければならない。

         

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1991年(H3)
政府、関係省庁により「アイヌ新法問題検討委員会」を設置
政府、国際人権規約に基づく第3回報告書でアイヌ民族を初めて日本の少数民族と認める(但し先住民族とは認めず)
*国連先住民作業部会エリカ・イレーヌ・ダエス議長一行アイヌ民族の地位視察のため来日。 東京・札幌にてシンポジウム開催。(日本国憲法98条について言及)
▼98条2項 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
1992年(H4)
北海道ウタリ協会野村義一理事長、国連「世界の先住民の国際年」開幕式典で記念演説
(12・10)オーストラリア・キーティング首相、アボリジニーに謝罪
オーストラリアにて「マボ判決」
朝日新聞「コタンに生きる―‘93国際先住民年に向けて」連載開始
*北海道議会決議・10月14日「アイヌ民族に関する法律の早期制定を求める意見書」
「無主の地」テラ・ヌリウス 年表参照 明治5年
▼wp:マボ判決は、移民が移住してきた時のオーストラリアは、「無主地(テラ・ヌリウス)」だったという従来の考え方を否定し、 先住民たちが先住権原をもっているとして世界で初めて承任された判決。
テラ・ヌリウスについて調べました。 大阪大学大学院のHPです。
「テラ・ヌリウスterra nulliusラテン語で無主の地、誰のものでもない土地を意味する。
国際法では、一般的に、誰も住んでいない地域、または住民が系統だった政府組織を発展させておらず、 土地を改良し耕作していない地域を指して用いられる。ニューサウスウェールズが白人により発見され植民が行われたとき、イギリス政府はその地域をテラ・ヌリウスであると考えていた。
アボリジナルがヨーロッパ人の感覚での土地の所有を行っていなかったからである。 その土地が(イギリス人の定義による)テラ・ヌリウスであるならば、その土地を発見し所有した最初のヨーロッパ人がその土地の所有権を得ると、 イギリス人は信じていた。
連邦最高裁判所は1992年、コモン・ロウに基づく土地の所有権が先住民にあることを認め、 白人による植民が始まった頃のオーストラリアがテラ・ヌリウスだったという考え方を認めない判決を下したとされる。」 (清水寿夫)

▼1990年代に入って先住民に対する空気が明らかに変わってきた。
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1993年(H5)
国連.「国際先住民族年」
*リゴベルタ・メンチュウ・トゥム(ノーベル平和賞受賞者)北海道招待
▼wp:リゴベルタ・メンチュウ・トゥム(Rigoberta Menchu Tum, 1959年1月9日 )はグアテマラのマヤ系先住民族の1つキチェ族の人権活動家・実業家である。 1991年、メンチュウは先住民族の権利に関する国際連合宣言を協議する作業部会に加わった。 1992年にノーベル平和賞、1998年にアストゥリアス皇太子賞国際協力部門を受賞した。
1994年(H6)

▼ここに収められている講演記録は主に1995年5.15〜1996年6.15のアイヌ文化講座での問題提起 とシンポジウムの発言ですです。極めて貴重な記録です。今回の訴訟に大変役に立つと思います。 (2021.1.30)(拡大)
萱野茂質問1 216p 1994.11.24
参議院内閣委員会(拡大)
萱野茂質問2 219p
アイヌと協議をしたのか(拡大)
萱野茂質問3 220p 政府説明員まともに答えていない。(拡大)
萱野茂質問4 223p 政府はアイヌを先住民族と認めない。(拡大)
萱野茂質問5 224p 先住権が怖いのだ。
(拡大)
















萱野茂、参議院議員に繰り上げ当選
社会・さきがけ・自民、連立内閣発足(村山内閣・五十嵐広三官房長官)
自由民主党「内閣部会・アイヌ問題検討小委員会」設置(8月)
自民・社会・さきがけ連立与党「アイヌ新法検討プロジェクトチーム」発足
「北海道立アイヌ民族文化研究センター」(札幌市)開設
国連.第一次「世界の先住民族の国際10年」開始(1994年12月〜2004年12月)
1995年(H7)
政府、「ウタリ対策の有り方に関する有識者懇談会」設置(当事者のアイヌ民族委員が参加していない委員会)
第4次「北海道ウタリ福祉対策」実施(〜2001)
「人権教育のための国連10年」開始(1995〜2004)
1996年(H8)
「有識者懇談会」官房長官に報告書提出・「北海道旧土人保護法」の廃止と、新たな「立法措置」提言(4月)
「アイヌ関連施策関係省庁連絡会議」設置
政府、新法と関連施策の主管官庁を、文部省、北海道開発庁、総理府と決定(12月)
北海道開発庁の位置づけは?
民主党「人権保障調査会・アイヌ新法対策作業チーム」設置
「二風谷ダム裁判」札幌地裁で相内俊一教授「先住民族の定義」証言(11月7日)
オーストラリアにて「ウイック判決」
*北海道議会決議・12月9日「アイヌの人たちに係る新たな施策の早期確立と立法措置を求める意見書」
▲12月19日萱野茂さん二風谷ダム裁判で陳述。その内容。(2023.3.8追加)
▼以下は2009年8月5日のアイヌ文化交流センター(frpac=The Foundation for Research and Promotion of Ainu Cultureアイヌ文化財団)でのー 阿部ユポさんの講演「国連の「先住民族権利宣言」とアイヌ民族」からの引用です。
「和田書記官が、日本政府が批准していないこの条約(ILO169 号条約)のこととコーボ報告書を引き合いに出して、 先住民族の国際定義としてはどうかと発言したことに私(阿部さん)は驚きました。
二風谷ダム裁判に、国連の作業部会に一緒に行って和田書記官の発言を聞いた市民外交センターの相内俊一さんが証人として出廷したのです。
相内さんはジュネ ーブから帰ってきた翌日、1996 年 11 月7日に札幌地方裁判所に出廷したのですが、 そこで「私は、ジュネーブで行われた国連人権委員会の先住民族の権利の宣言草案の作業部会に出席して、 昨日帰ってきました。」と言って、裁判長の前で国連の人権委員会や先住民作業部会の説明をしました。
そして、私が今回出席した作業部会で、日本の政府代表の和田書記官がこのようなことを述べていましたと証言したのです。
それまで政府はアイヌ民族が先住民族であるかどうか分からない、先住民族の定義もないと主張していたのですから、 国連でそんなことを発言しているのかと裁判長も驚いたと思います。
1997 年3月 27 日に札幌地方裁判所で二風谷 ダム裁判の判決が出されました。
北海道はアイヌの土地であった、つまりアイヌ民族は先住民族であると言うべきであるという画期的な判決が出たのです。 その判決が出た時に私は本当に相内さんのお陰だと思い ました。」
▼私は本HPで「二風谷ダム裁判」を既に検討していますのでこのユポさんの講演内容は非常によく理解できました。そして納得しました。
▼ユポさんのことば。「私は 96 年以来、年に2回、 スイスのジュネーブで開かれていた国連の先住民の権利宣言作業部会や先住民作業部会に参加し 「先住民族の権利宣言」の採択に向けての活動をしてきました」。
先住民土地権、先住民土地権原 については大阪大学大学院 文学研究科「オーストラリア辞典」から引用させていただきました。
この辞典は、オーストラリアの歴史的人名、地名、歴史の事項、オーストラリアに特殊な用語、 オーストラリアについて書かれた論文などを、検索エンジンを用いて辞典にしたものだそうです。
以下が先住民土地権、先住民土地権原についての解説です。
「この言葉は、オーストラリアにおいては通常アボリジナルの政治運動と土地所有権について使用される。 先住民の本格的な土地権回復運動は1960年代に始まった。
1992年にオーストラリア最高裁判所が、マボウ判決により先住民の土地権の存在を認め、それが公有地において存続していることを確認すると、 連邦政府もこれへの対応を迫られ、1994年に先住民土地権法Native Title Act(マボウ法)が制定された。
1996年の連邦最高裁判所のウィック判決は、マボウ判決より一歩踏み込んでリース契約が存在する公有地においても 先住民の土地権が存続していることを認めた。」(新林秀亮)

▼アイヌの人たちの土地回復運動の参考になります。2019年から始めましょう。
▼アイヌ文化交流センターでの「オーストラリアにおける先住権」 (2002年【1】 8月7日(火) 14:00~15:30. 【2】 8月8日(水) 14:00~15:30. 講師. 京都精華大学教授. 細川 弘明. ) の講演もアイヌ民族の先住権を考えていくうえでとても参考になります。クリックしてご一読ください。
1997年(H9)
「二風谷ダム判決」(3月27日)
土地強制収容は違法、アイヌ民族を「先住民族」と認定
「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(5月14日成立、7月1日公布)
*「北海道旧土人保護法」廃止
*「アイヌ文化の振興」・「アイヌの伝統等に関する知識の普及」を謳った法律が制定されたのは、日本の歴史上初めて
*アイヌ民族が自らの伝統的文化を伝承し、発展させる活動を、誇りを持って積極的に行える状況ができた。
*付帯決議 5・現在、行われている北海道ウタリ福祉対策に対する支援の充実に、 今後とも一層努めること“34億円が、現在12億円。財団も2億円減額。”“道外居住アイヌ民族対象外”
▼以下はこの法律に対するユポさんの批判
復権の道ユポさんメモ
(拡大)

このメモはユポさんからいただきました。(2021.7.22)
2007.5.14北海道新聞
(拡大)
1997年、アイヌ文化振興法が制定されますが、10年後の2007年でも課題山積、という村山健記者の記事です。(2021.7.22)
*「アイヌ新法案」骨抜き、6項目の要求のうち、3番目の教育・文化の文化のみの法律
・アイヌ文化振興策のみ
・「先住権」なし
・アイヌ民族の社会的、経済的施策なし
・北海道限定の法律(アイヌ民族政策のローカル化)(46都府県は何もしない.基本方針・基本計画・予算)
▼今日、「アイヌ新法案」を1984年の総会決議以降の経緯を追ってみました。この時点で(1997年)ユポさんが総括しておられるように 「3番目の教育・文化の文化のみ」になっています。昨日、アイヌ民族自立化基金の具体的考え方を勉強して、現在準備中の裁判になんとか 入れられないものかと考えています。(2020.11.9)
*CERD第51会期
・「先住民の権利に関する一般的勧告XXV」決議
(土地の返還.賠償.補償勧告)
*ILO169号条約を指針とせよ
*日本政府、国連規約人権委員会第4回定期報告書提出
「北海道旧土人保護法」の廃止と「アイヌ文化振興法」の制定、「アイヌ文化振興財団」の設立、財源の補助を強調
カナダにて「デルガムーク判決」
▼wp:カナダ先住民であるギッサン・ネイションおよびウェトスウェッテン・ネイションが、 およそ54,000平方キロメートルの土地に対する権原の確認を求めて起こした訴訟。 ブリティッシュ・コロンビア州最高上訴裁判所(最高裁判所)による1997年の判決は、 カナダにおける先住民権の性質をめぐるもっとも決定的な言明として有名。
カナダにおける先住権原に関する歴史的判決とその影響
1997年:Delgamuukw v. British Columbia, 3 S.C.R. 10108
カナダ先住民

・ Calder判決、Guerin判決、Sparrow判決で打ち立てられた原則を統合し、 先住民の先住権原という文脈において適用した判例。 同法廷は英国王と先住民との関係における権利と義務の独特な性質を確認し、 また、先住民の先住権原を独特なものとしている要因が英国の主権宣言に先立つ専有から生じており、 主権宣言以降の無条件財産相続権とは区別されると述べた。そして先住民の先住権原の主張を評価するにあたり、 慣習法と先住民が同等に重視されると述べた。
・ 同判決はまた、先住民の先住権原の内容について正と負の面から要約した。
1)先住民の先住権原は、その態様によらず様々な目的のために排他的に使用・専有する権利を含む。
2)集団としての先住権原であり、将来世代の土地をコントロールし利益を得る権利を奪ってはならない。
・ 同判決はまた、先住民の先住権原に対する制限は、1982年憲法§35の下でSparrow判決に従って正当化されることを確認し、 同正当化行為を“先住民の社会を、それが所属するより広範な政治的コミュニティに和解させる必要な部分”として説明した。
1998年(H10)
日本政府、国連人権委員会でアイヌ民族を先住民族と認めないと発言
「断固拒否」
萱野茂引退表明、次期不出馬宣言(7月満期)
STV「アイヌ語講座」(ラジオ放送)開始
*「アイヌ民族差別図書裁判」提訴 
1999年(H11)
  北海道、「アイヌ文化の振興等を図るための施策に関する基本計画」を政府に提出
*「アイヌ民族共有財産裁判」提訴
▼wp:アイヌ民族共有財産裁判とは、アイヌの資産管理能力の不足などを名目として 北海道旧土人保護法に基づいて従来北海道知事が委託され管理してきたアイヌ民族の共有財産について、 アイヌ文化振興法(H9)に基づいて公告された所有者への返還手続きに対し、現在までの管理・会計状況の不明瞭さ、 金額の算出根拠の不明確さ、対象を申請者のみに限定していること、アイヌ民族の先住権に対する配慮の不備などから、 北海道ウタリ協会札幌支部理事の小川隆吉をはじめとしたアイヌ民族24人がこの返還手続きの無効の確認を求めた裁判。             トップへ戻る
2000年(H12)
  「アイヌ文化振興等施策推進会議」設置、(文部省(文化庁)、北海道開発庁、北海道、北海道ウタリ協会、アイヌ文化振興財団の五者) 
北海道「アイヌ文化振興等施策推進北海道会議」設置
「ウタリ福祉対策検討会議」設置(北海道ウタリ福祉対策)
支庁別アイヌ人口
『アイヌ民族の歴史』拡大可(p603)
日高と胆振で全体の66.7% 15,851人
石狩10.2% 2,424人

2001年(H13) 
1月、中央省庁再編
国土交通省=国土交通省北海道局企画課アイヌ施策室
文部科学省=文化庁
北海道「アイヌの人たちの生活向上に対する推進方策」発表
北海道ウタリ福祉対策に代わる新政策
1生活の安定
2教育の充実
3雇用の安定
4産業の振興
5民間団体の活動促進
*国連・人種差別撤廃委員会(Committee on the Elimination of Racial Discrimination)(CERD)勧告(ILO・国際労働機関)
1.CERD第51会期「先住民の権利に関する一般的勧告XXV」
「土地に係わる権利の認知及び保護ならびに土地の滅失に対する賠償および補償を呼びかけている。 先住民の権利に関する一般的勧告に締約国の注意を喚起する」
2.原住民および種族民に関するILO169号条約を批准すること及びこれを指針として使用することを慫慂する。
*日本政府の姿勢
・先住民族の定義がない(1996年国連WGIP和田一等書記官の先住民族の定義に対する否定的な発言)
・アイヌが先住民族かどうか慎重に判断したい
・ILO169号条約(独立国における原住民及び種族民に関する条約)の批准は問題が多い 
民主党「民主党北海道選出国会議員会・アイヌ民族政策委員会」設置
「FMピパウシ」萱野茂・二風谷地域ラジオ局
▼人種差別撤廃委員会の英語名=Committee on the Elimination of Racial Discrimination)(CERD)
▼WGIP=The Working Group on Indigenous Populations was a subsidiary body within the structure of the United Nations. It was established in 1982,
2002年(H14)
国連、PFII(先住民族問題のための常設フォーラム)設置
(ニューヨーク・国連本部、日本政府、政府委員代表として東大教授・岩沢雄司を推薦)
▼ PFII=The United Nations Permanent Forum on Indigenous Issues
*「アイヌ民族共有財産裁判」札幌地裁却下判決(3月)
*「アイヌ民族差別図書裁判」札幌地裁却下判決(6月)
二つの裁判いずれも札幌高裁に控訴、2004年却下判決


イオル計画(7347)を跨ぎ2006年(8297)に飛ぶ
▼9月12日(土)ユポさんと一緒に東京四谷で弁護士先生にお会いしました。イオルの資料をいただきました。 イオルと先住権の具体的内容を考えはじめました。(2020.9.15)
▼北海道研修旅行を控え、イオル計画を見直しています。先住権を前提としない計画としては精一杯関係者が取り組んでおられる、 との印象をもちました。対象地区7箇所もアイヌの人たちが居住されている地区(根室・オホーツク地区以外の) であることが「北海道アイヌ生活実態調査」確認できました。 逆に根室・オホーツク地区がイオルの対象になっていないのは理由があるかもしれないとおもいました。(2021.3.21)



7箇所(@帯広市、A釧路市、B旭川市、C平取町、D札幌市、E新ひだか町、F白老)のイオル計画
その資料の中の平成17(2005)年7月のアイヌ文化振興等施策推進会議の 「アイヌ伝統的生活空間の再生に関する基本構想」の一節。基本構想 https://www.mlit.go.jp/common/000015024.pdf
イオルの実現のためには、として
・森林については、利用可能な制度等の活用、所有者との契約による栽培など。
・水辺の自然空間における植物 については、河川区域の占用や土地の借用など。
・魚類・動物については、 漁業協同組合との協働や特別許可取得等の活用など。
と書かれています(「基本構想」7頁)。 この基本構想ではアイヌ民族の先住権が全く念頭に置かれていません。話がアベコベなのです。
現在の北海道の制度の中にイオルが入り込むのではなく、 明治維新以前のアイヌモシリ(大地)が先ずあって、そこではイオルが機能している、 そこに後から和人の生活、制度がイオルを邪魔しない程度と範囲で入れさせてもらう、 このように考えるのが筋道。イオルを復活させるのに障害となる現在の和人の制度、法律にはアイヌ民族の先住権が優先する。 そのことの確認と実現を今回の裁判で獲得する。
▲改めてイオル計画を考えていますが、北海道はアイヌモシリ、まずそれを確認すること、つまり国有地の返還、その後の貸与、 その際先住権は当然貸与の対象から除かれる、このような法律構成にするべき。(2022.3.5)

以下インターネットで資料をさがします。
まず出会ったのが十勝圏誘致促進期成会の平成20年(2008)2月「アイヌ文化振興のための十勝圏イオル基本計画」です。

@ 十勝圏イオル基本計画http://www.museum-obihiro.jp/ioru/iwor1.pdf
(拡大可) ▼白老は平成18年度(2006)から実施中。平取は平成20年度(2008)から実施予定となっています。 その他のイオル計画も見ていきます。(2021.3.14)
平成20年2月25日帯広市教育委員会生涯学習部文化課内「伝統的生活空間の再生」 十勝圏誘致促進期成会
取り組みの経緯(拡大可)










1 伝統的生活空間の再生に向けた取り組みの経緯
平成8年(1996)国のウタリ対策あり方に関する有識者懇談会報告書で「伝統的生活空間の再生」提言。
平成9年(1997)「アイヌ文化振興法」制定。
平成11年(1999)北海道、「伝統的生活空間の再生」に関する基本構想策定。
幕別から上士幌へ (拡大可)
平成12年(2000)十勝圏誘致促進期成会発足。
平成14年(2002)北海道、中核イオルを白老、地域イオルを釧路、十勝、旭川、札幌、静内、平取に決定。
平成16年(2004)国、「アイヌ文化伝承方策検討委員会」設置。
平成17年7月(2005)国、「基本構想」策定。促進期成会の構想(幕別町相川・千住地区ー十勝川沿い)の大幅な変更を求められるもの。
平成18年(2006)白老スタート。 平成20年(2008)平取、実施予定。十勝圏は上士幌町上音更地区(かなり山奥)に意見集約。
▼帯広にも近い十勝川沿いの幕別町相川・千住地区構想から約40q北の山奥の上士幌町上音更地区への変更は 無念で、その決断はアイヌの人たちにとっては厳しかったと推察されます。(2021.3.20)
8 規制緩和の措置とイオル特区
自然素材の確保や育成が、一定のルールの下に自由に行うことができるようにするためには、 森林法や河川法など現行法の可能な範囲において規制緩和の許可措置を講じたり、構造改革特別区域法 に基づくイオル特区を創設していくなど、法的な支援も今後必要になってくると考えます。 国などに対し、事業の円滑な推進のため、規制緩和の措置等を要望します。

▼国などに対し、事業の円滑な推進のため、規制緩和の措置等を要望します、ではなく先住権で解決していくべきもの。 イオル計画そのものが国の政策の枠内のもの。いじけている。(2021.3.17)
帯広市アイヌ施策推進計画骨子(案) https://www.city.obihiro.hokkaido.jp/publiccomment/241000/191202ainu_plan_result.data/0219ainu_plan.pdf
北海道が平成29年(2017)にアイヌの人(※)を対象に実施した「北海道アイヌ生 活実態調査」(以下、H29実態調査という。)によると、十勝管内在住のアイ ヌ民族の人たちは、193世帯、406人となっています。
北海道アイヌ生活実態調査 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/ass/H29_ainu_living_conditions_survey_.pdf
▼「生活実態調査」はアイヌの人たちの現状を知るのに貴重な資料です。じっくり勉強します。(2021.3.14)
▼15p「地区調査」に上述の十勝地区 193世帯 406人が出ています。

●3p 世帯数及び人数を(総合)振興局別(管内の市を含む。)でみると、表2(4p)のとおり、
胆振総合振興局  1,970世帯、4,864人(人数構成比37.1%)
(拡大可)

日高振興局    1,762世帯、3,679人(人数構成比 28.0%)
釧路総合振興局  767世帯、 1,566人(人数構成比12.0%)
根室振興局    278世帯、  807人(人数構成比6.2%)
上位4振興局で人数の83.3%(前回調査85.4%)を占めている。

▼右の地図でこの4振興局を見ると太平洋に面している。つまりアイヌ民族は漁労の民ということ。 コタンもこの地域に多く存在した、ということだと思う。(2021.3.15)
●5p 「生活保護の状況」昭和47年調査以降、アイヌ居住市町村保護率との差は連続して減少しているが、依然として差はある。 市町村との差。
昭和47(1972)年6.6倍  昭和54(1979)年3.5倍  昭和61(1986)年2.8倍  平成5(1993)年2.4倍
平成11(1999)年2.0倍  平成18(2006)年1.6倍  平成25(2013)年1.4倍  平成29(2017)年1.1倍

●7p「大学への進学率」については着実に向上してきているが、アイヌ居住市町村の大学進学率とは、いまだ に12.5ポイントの差(前回調査17.2ポイント)がある。
昭和54(1979)年31.1対8.8    昭和61(1986)年27.4対8.1  平成5(1993)年27.5対11.8 
平成11(1999)年34.5対16.1   平成18(2006)年38.5対17.4  平成25(2013)年43.0対25.8 
平成29(2017)年45.8対33.3
▼「生活保護の状況」「大学への進学率」を見ると和人との格差は否めない。政策課題がはっきり見えてくる。 国・道が実行していないだけ。裁判でどのように問題提起するか。糸口をつかみたい。(2021.3.14)
●8p「産業別就業者」
漁業の市町村の構成比が1.0%に対しアイヌは27.8%で圧倒的に漁業への従事者が高い。

▼つまりアイヌ民族は漁労の民である。 にもかかわらず明治政府はアイヌ民族を奥地に追いやり、農耕に従事させ、海、川での漁業を出来なくした。 貧困の原因になっていると思われる。(2021.3.14)
●10p「1戸当たり農用地面積」
アイヌ3.50haに対し全道は23.81ha。

▼アイヌの3.50haを全道のレベルに引き上げるには7倍の面積が必要ということ。 そういう施策が国・道によって採られる必要があることをこの調査は物語っている。(2021.3.15)
●52p「アイヌ語について」
話すことはできないが、少しは知っている + 話すことも聞くこともできない、合わせて92.7%。 

▼これこそ「同化政策」によって奪われた母語の被害が現在もつづいている実態だと思う。(2021.3.14)
▼「生活実態調査」は全部で62頁です。今の国・道庁の政策の枠内の調査です。われわれが問題にしている「アイヌモシリ」の そもそもの返還、回復などの設問はありません。やはり訴訟をやる必要があります。(2021.3.16)

A 釧路市イオル計画 https://www.city.kushiro.lg.jp/kyouiku/shougaigakushuu/shogai/shogai/page00028.html#container
釧路市教育委員会では、2018(平成30)年度から「釧路地域のアイヌの伝統的生活空間(イオル)再生事業」を開始し、令和2年度からアイヌ政策推進交付金事業に移行し、 「伝統的なアイヌ文化・生活の場の再生支援事業」として実施しています。
釧路地域のイオル計画地
釧路地域では、阿寒湖温泉地区と春採湖周辺地区の2地域を中心に、 その特性を生かした事業を展開していきます。

〜イオルとは〜
イオルの概念図

大西秀之論文(拡大)
 かつて、アイヌの人々は、食料や飲み水が得やすく、災害に遭いにくい川沿いや海沿いの場所を選んでチセ(家)を建て、 数軒から十数軒のチセが集まるコタン(村)を形成しながら、その周りに広がる大自然で狩猟や植物採集を行い、生活していました。  アイヌ語でイオルとは、狩猟・採集をする「狩場」という意味で、 そうした衣食住、儀式等、生活に必要なものの多くをまかなう自然の領域、生活圏のことです。
▲知里真志保「地名アイヌ語小辞典」iwor 狩りや漁の場。あるいは生活資料採取場としての山奥または沖合。私には漁、沖合の意味も含まれることが新しい。 (2022.3.4)

阿寒湖
前田一歩園
1906年(明治 39)
土地約 3,200ha 貸付を受け阿寒湖畔に事務所設立
1910年(明治 43)
土地約 3,800ha、無償貸与、売り払いで取得
1 阿寒湖温泉地区
かつて、アイヌの人々にとって狩猟・採集の場(イオル)であった阿寒湖温泉地区とその周辺は、 現在も雄大な自然が残されており、アイヌの儀式・儀礼が盛んに行われています。
ニタイトーの森 https://www.city.kushiro.lg.jp/common/000166555.pdf
▲ニタイトーnitayto 知里真志保「地名アイヌ語小辞典」(ニ=木 タイ=集合 ニタイ=森 ト=湖)(2022.3.5)
▼令和元年度イオル実績報告書 2頁の 「阿寒湖温泉地区ニタイトーの森・環境省所管地園路整備」との記述に出会いました。ここは環境省の所管地なのだ。 当然アイヌの人たちに返還すべき場所。 少なくとも7箇所のイオル計画地はアイヌの人たちに返還すべき。 先住権の内容が一つ具体的になりました。(2021.3.21)                     
春採湖


2 春採湖周辺地区
 市街地にありながら比較的自然が残されている春採湖周辺地区は、海産物を得やすく、また、 アイヌの人々の生活に必要なオオウバユリ、ガマ、イラクサなどの有用植物が自生し、栽培・育成しやすい環境にあるため、 「自然素材育成の拠点」と位置付け、安定的に有用植物を確保できる環境を作ります。
▼釧路市のイオル計画は2018年から着実に実施されている、との印象をもちました。敬意を表します。 この地域の課題を具体的に知りたいとおもいました。「生活実態調査」によると 釧路総合振興局は767世帯、1,566人で、 アイヌ民族が居住する大きな地域です。 (2021.3.18)

B 旭川市イオル計画(2008年以降)
旭川地域のイオル計画地
川は画面右から左の方向へ流れています(拡大可) 旭川地域イオル計画の位置図
(拡大可)
▼鹿の狩猟の場、サケの捕獲の場が設定されている。やっとイメージしていた構想に出会った。これも現行法の規制緩和、特区ではなく先住権として実現 できるように。(2020.9.16)
吉田初三郎旭川鳥観図
2023.6.10見つける(拡大)


旭川地域のアイヌの人々の生活空間とアイヌ文化
▼旭川市のHPはよく歴史を踏まえて書かれています。現在の私の知識でもすんなり受け入れられました。 (2021.3.18)
旭川地形図 「新旭川市史」第1巻
旭川市地形図(拡大)
旭川市の行政体の歴史は、明治23年、上川郡に旭川、永山、神居の3村が設置されてから平成22年までの120年間に過ぎませんが、それ以前には豊かな大自然に育まれたアイヌの人たちの世界と歴史がありました。 神居古潭より上流の石狩川流域に居住していたことから、ペニ ウン クル(川上に・居る・人) と呼ばれていたいわゆる上川アイヌの人たちは、南北30キロ、東西20キロ、面積440平方キロにわたる 北海道最大の上川盆地を中心にした地域を1つのイオル(伝統的な生活の場)としていたといわれております。
▼440平方キロの上川盆地はアイヌの人に返すべき。考え方としてそれが大前提。(2020.9.16)

旭川地域のアイヌ文化
慶長9年徳川家康より蝦夷地支配の黒印状を授けられ成立した松前藩は、中世以来の蝦夷島(北海道) における和人の経済活動を継承して、その主要な経済基盤をアイヌ交易に置きました。 そして幕府よりその独占権を付与されたアイヌ交易を展開するための施策として、 松前地を除く蝦夷島全域を蝦夷地と称して2つに区分しました。

(拡大可) 西蝦夷地と東蝦夷地
1つは亀田村(現函館市亀田地域)から東へ太平洋岸に沿い根室半島を経て知床半島の知床岬に至る地域で、これを東蝦夷地と称し、
もう1つは熊石村(現熊石町)より日本海岸に沿い宗谷岬、さらにオホーツク沿岸から知床岬に至る地域で、 これを西蝦夷地と称しました。

上川アイヌはこの西蝦夷地域に属していました。

この東西の区分はアイヌの人々の移住や拡散、混住などを大きく規制し、現在に繋がるアイヌの文化の違いともなっています。
現在、アイヌの人々の集団が多数存在し、文化や言語が比較的残され、 アイヌ文化として一般に知られているのは東蝦夷地のものですが、西蝦夷地は歴史的に和人の圧迫が激しく、 西蝦夷地のアイヌ文化、方言のほとんどは失われてしまい、唯一、 旭川地域において言語をはじめとする西蝦夷地のアイヌ文化が残されているともいえます。
▼西蝦夷地と東蝦夷地のちがいはこれまでうっすら感じていましたがこの説明で明確になりました。感謝。 (2020.9.16)

オサラッペ川
聖地としての嵐山(都市公園 嵐山公園)
嵐山は上川盆地の西方に位置しています。 嵐山の名称は、山の形と石狩川の流れが京都の嵐山と桂川によく似ているということで付けられたもので、 1965年(昭和40年)に都市公園として設置され計画的に整備が進められております。
嵐山公園の位置(拡大)
公園面積は142.2ヘクタールで、東はオサラッペ川、南は石狩川、西は江丹別川に囲まれた標高100mから275mの丘陵山地には、北海道北部に自生する多くの植物とエゾリス、キタキツネなどの小動物が生息し多くの自然生態系が保たれています。 石狩川に流入するオサラッペ川口の右岸から嵐山公園を含め、それに続く近文山の台地が石狩川に落ちる所までの一帯は、 上川アイヌの人たちが古くからチ ノミ シリ(我ら・祀る・山)と呼び、「聖地」として崇拝してきた地域です。
▼チ ノミ シリはいい場所。こういう場所にアイヌの人たちは住んでいた。(2021.3.18)

国有林・私有林・河川の活用
アイヌ文化に深く関わりのある神居古潭を含めた神居地区 及び江丹別地区の国有林の旭川市地域内の面積は、
約23、750haと広大で、かつ市街地のすぐ側から深い森を形成しています。

3 国有林及び市有林の活用
この国有林野には、アイヌの人々が伝統的に利用してきた樹木等が豊富で、日常的な生活用品や伝統工芸品、住居等の原材料である自然資源の取得の場として最適であるため、国有林野の活用が必要です。

天然林の豊富な旭川市有林は、国有林と同様に市街地近郊に位置しており、江丹別拓北地区に575ヘクタール、江丹別富原地区に300ヘクタール、神居地区に117ヘクタールの面積を有しています。 国有林と同様にアイヌの人々が利用してきたシナノキやキハダを始めとする樹木、ツルの木、実のなる木、 草本類等が豊富に自生しており、自然素材を採取するため市有林の活用を進めます。

4 河川資源の活用
本市には、石狩川、忠別川、美瑛川、牛朱別川を始め大小すべてを含めると162の多くの河川があります。生息する魚類はフナ、コイ、アメマス、オショロコマなど20種類が確認されています。 かつて主要な食料であったサケは、石狩川の堰堤によってほとんど遡上出来ない状況にありましたが、魚道が設置され、サケが除々に遡上するようになりました。しかし、まだ極めて数が少なく捕獲には難しい状況であるため、アイヌの漁労に関する文化の再現のためにも、今後、サケの遡上が増加するような環境の整備が必要です。 現状では石狩川での捕獲は不可能です。そこで当面は、かつて交流していた天塩川流域におけるサケやサクラマスの捕獲も視野に入れた河川の活用が必要です。
▼参照:上述の「旭川地域イオル計画の位置図」。
国有林、市有林とも当然、先住権の対象。(2020.9.16) 河川は今日気づきました。当然先住権の対象。(2021.3.21)


旭川地域のアイヌの伝統的生活空間の再生に関する基本構想 4旭川地域イオルの展開
▲旭川市のイオル計画はよく出来ています。これをそのまま「アイヌモシリの会」として活用できます。 (2023.6.11)

イオル再生に伴う規制緩和措置
採集、狩猟、漁労の各文化の再現には、国有林野内での樹木類や山菜などの自然素材の利用、 シカやクマなどの捕獲、河川におけるサケの捕獲などをスムーズに進めるための関連法令、 規則等を所管する国及び北海道の理解と協力が不可欠でありますし、関連法令、規則等の規制緩和措置が必要であります。
▼そうではない。イオル再生のためには先住権の確認・承認で済む。むしろ規制緩和、 国及び北海道の理解と協力ではなく、国及び北海道に先住権を認めさせる運動、裁判が必要。 イオル再生は国、北海道その他、和人へのお願い事でなく、アイヌ民族の権利であり、胸を張って、堂々と一千年の償いと 謝罪を求める戦いであり、シャクシャインたち先人の無念を晴らす戦いであると、私は考えています。(2020.9.17)
▼今日、イオル計画を読んでみて、この人たちの考え・思いも包摂して先住権を主張していったほうがいいとおもいました。(2021.3.21)
▲改めて読んでみて1年前と同じ思いです。(2022.3.11)
▲皆さんと相談してアイヌモシリの会として採用したいと思います。(2023.6.11)

強制移住の近文へ飛ぶ

平取町
C 平取町イオル計画 http://www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/pdf/regeneration.pdf
「平取町においてはアイヌ民族文化を継承するとともに、いっそう の振興を図るため、この地域の文化と関わりが深い沙流川の流域全体を対象とし、自然との 共生、そして多文化共生を基調とした「伝統的生活空間(イオル)整備構想」を計画してい る。これは、かつてアイヌの人たちが、個人や集落としての領有意識を一定程度有しながら 狩猟や採集などに利用した土地・空間を「イオル」と位置づけていたという歴史性をふまえ た提案である。また、実現に向けた事業化が進展すれば、部分的にではあれ、流域の原風景 の再生・保全につながるという点で、文化的景観の保存と志向性を共通にするところのある 構想だと言える。」(調査報告書165p第2次選定申出)
▲主たる目的は「文化の継承」。ここに根本的な限界がある。本来のイオルの再生ではない。(2022.10.18)