マイノリティーの声(VOM)


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ア イ ヌ 民 族
世界の先住民族
先住民族の復権の動き /
1982年コーボ報告書 /
1990年カナダ「スパロウ判決」 / 1992年オーストラリア「マボ判決 」(テラ・ヌリウス)/
1997年カナダ「デルガムーク判決 」/
2008年オーストラリア首相アボリジニに公式謝罪 / 2008年カナダ首相こころからの謝罪 /
2014年カナダ「チルコットイン」判決(先住権原に関する歴史的判決) /
2016年カナダ・クイーンズ大学 各国の先住民族政策の推進度調査報告/
アメリカインディアン運動(AIM)/
日本史で記憶すべき出来事
1910年大韓帝国純宗皇帝の勅諭 / 「太平洋戦争」 / 「ポツダム宣言」 / 「降伏文書」 /

ここからが本題です
    ◆ 野村義一理事長国連演説
    ◆ 阿部ユポ副理事長講演
    ◆ 二風谷ダム訴訟
    ◆ アイヌ民族史年表
       1984年(S59)北海道ウタリ協会、総会で「アイヌ民族に関する法律(案)」を決議

    ◆ 「アイヌ政策の在り方に関する有識者懇談会」の報告書
    ◆ アイヌモシリ回復訴訟の準備訴訟物

1992年12月10日国連総会「世界の先住民の国際年」記念演説
                           北海道ウタリ協会 理事長 野村義一(当時)
                      
各国の政府代表部の皆さん、そして、兄弟姉妹である先住民族の代表の皆さんにアイヌ民族を代表して、 心からご挨拶を申し上げます。また、ここに招待してくださったブトロス=ブトロス=ガリ国連事務総長、 そしてアントワーヌ=ブランカ国連人権担当事務次官に対し心からお礼を述べたいと思います。
本日は国連人権デーですが、1948年に世界人権宣言が採択されて45周年の、人類にとって記念すべき日に当たります。 また、国際先住民年の開幕の日として、私たち先住民族の記憶に深く刻まれる日になることも間違いありません。

これに加えて、本日12月10日が、北海道、千島列島、樺太南部にはるか昔から独自の社会と文化を形成してきた アイヌ民族の歴史にとっては、特に記念 すべき日となる理由がもう一つ存在します。 すなわち、それは、ほんの6年前の1986年まで、日本政府は私たちの存在そのものを否定し、日本は世界に類例を見ない 「単一民族国家」であることを誇示してきましたが、ここ に、こうして国連によって、私たちの存在がはっきりと認知されたということであります。もし、数年前に、この 様な式典が開かれていたとすれば、私は、アイヌ民族の代表としてこの演説をすることはできなかったことでしょ う。私たちアイヌ民族は、日本政府の目には決して存在してはならない民族だったのです。 しかし、ご心配には及びません。私は決して幽霊ではありません。皆さんの前にしっかりと立っております。

19世紀の後半に、「北海道開拓」と呼ばれる大規模開発事業により、アイヌ民族は、一方的に土地を奪われ、強 制的に日本国民とされました。日本政府とロシア政府の国境画定により、私たちの伝統的な領土は分割され、多く の同胞が強制移住を経験しました。

また、日本政府は当初から強力な同化政策を押しつけてきました。こうした同化政策によって、アイヌ民族は、 アイヌ語の使用を禁止され、伝統文化を否定され、経済生活を破壊されて、抑圧と収奪の対象となり、また、深刻 な差別を経験してきました。川で魚を捕れば「密漁」とされ、山で木を切れば「盗伐」とされるなどして、私たちは 先祖伝来の土地で民族として伝統的な生活を続けていくことができなくなったのです。

これは、どこの地でも先住民族が共通に味わわされたことであります。第二次世界大戦が終わると、日本は民主 国家に生まれ変わりましたが、同化主義政策はそのまま継続され、ひどい差別や経済格差は依然として残ってい ます。私たちアイヌ民族は、1988年以来、民族の尊厳と民族の権利を最低限保障する法律の制定を政府に求め ていますが、私たちの権利を先住民族の権利と考えてこなかった日本では、極めて不幸なことに、私たちのこうし た状況についてさえ政府は積極的に検討しようとしないのです。

しかし、私が今日ここに来たのは、過去のことを長々と言い募るためではありません。アイヌ民族は、先住民の 国際年の精神にのっとり、日本政府および加盟各国に対し、先住民族との間に「新しいパートナーシップ」を結ぶ よう求めます。私たちは、現存する不法な状態を、我々先住民族の伝統社会のもっとも大切な価値である、協力と 話し合いによって解決することを求めたいと思います。私たちは、これからの日本における強力なパートナーと して、日本政府を私たちとの話し合いのテーブルにお招きしたいのです。

これは、決して日本国内の問題にだけ向けられたものではありません。海外においても、日本企業の活動や日本 政府の対外援助が各地の先住民族の生活に深刻な影響を及ぼしています。これは、日本国内における先住民族に 対する彼等の無関心と無関係ではありません。 新しいパートナーシップを経験することを通して、日本政府が、 アイヌ民族に対するだけでなくすべての先住民族に対して責任を持たねばならないことを認識されるものと、私 たちは確信を抱いております。

日本のような同化主義の強い産業社会に暮らす先住民族として、アイヌ民族は、さまざまな民族根絶政策(エス ノサイド)に対して、国連が先住民族の権利を保障する国際基準を早急に設定するよう要請いたします。また、先 住民族の権利を考慮する伝統が弱いアジア地域の先住民族として、アイヌ民族は、国連が先住民族の権利状況を 監視する国際機関を一日も早く確立し、その運営のために各国が積極的な財政措置を講じるよう要請いたします。

アイヌ民族は、今日国連で議論されているあらゆる先住民族の権利を、話し合いを通して日本政府に要求するつ もりでおります。これには、「民族自決権」の要求が含まれています。

しかしながら、私たち先住民族が行おうとする「民族自決権」の要求は、国家が懸念する「国民的統一」と「領土の保全」 を脅かすものでは決してありません。 私たちの要求する高度な自治は、私たちの伝統社会が培ってきた「自然との共存および話し合いによる平和」を基 本原則とするものであります。これは、既存の国家と同じものを作ってこれに対決しようとするものではなく、私 たち独自の価値によって、民族の尊厳に満ちた社会を維持・発展させ、諸民族の共存を実現しようとするもので あります。

アイヌ語で大地のことを「ウレシパモシリ」と呼ぶことがあります。これは、「万物が互いに互いを育て あう大地」という意味です。冷戦が終わり、新しい国際秩序が模索されている時代に、先住民族と非先住民族の間 の「新しいパートナーシップ」は、時代の要請に応え、国際社会に大いに貢献することでしょう。この人類の希望 に満ちた未来をより一層豊かにすることこそ私たち先住民族の願いであることを申し上げて、私の演説を終わり たいと思います。
イヤイライケレ。ありがとうございました。
▼野村義一さんのこの国連演説にアイヌ民族の進むべき道がはっきりと指し示されています。「高度な自治と諸民族の共存」。
先に在日コリアンの勉強をしましたが、そこでの最終目標は「エスニシティ(民族性)の複合と重層を許容する」 日本社会でした。アイヌ民族の問題も結局は同じところに行きつくのだな、と感じました。
「海外においても、日本企業の活動や日本 政府の対外援助が各地の先住民族の生活に深刻な影響を及ぼしています。これは、日本国内における先住民族に 対する彼等の無関心と無関係ではありません。」この指摘もこころしなければなりません。
▼今日改めて野村さんの国連演説を読み返しました。この演説の理念、思想で アイヌモシリ回復の裁判を進めていくべきだとおもいました。それと 「1988年以来、民族の尊厳と民族の権利を最低限保障する法律の制定を政府に求め ています」との運動が大事だとおもいます。 (2020.4.2)
▼野村さん(1914年10月20日 - 2008年12月28日)の生きておられる時まで実現したことを出発点に考えたいとおもいます。(2020.6.3)
1997年(H9)
●「二風谷ダム判決」(3月27日)土地強制収容は違法、アイヌ民族を「先住民族」と認定
●「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(5月14日成立、7月1日公布)「北海道旧土人保護法」廃止
この法律に対するユポさんの評価。
*「アイヌ文化の振興、アイヌの伝統等に関する知識の普及」を謳った法律が制定されたのは、日本の歴史上初めて/アイヌ民族が自らの伝統的文化を伝承し、発展させる活動を、誇りを持って積極的に行える状況ができた。
・1984年「アイヌ新法案」骨抜き、6項目の要求のうち、3番目の教育・文化の文化のみの法律/「先住権」なし/アイヌ民族の社会的、経済的施策なし/北海道限定の法律(アイヌ民族政策のローカル化)(46都府県は何もしない.基本方針・基本計画・予算)
2019年(H31)
●「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」 (略称「アイヌ施策推進法」4月18日成立)
この法律に対する私の評価。
基本理念、差別禁止、国及び地方自治体の責務、国民の努力、内閣総理大臣の責任、アイヌ民族の儀式に必要な 林野、内水面の利用、内閣官房長官をトップとした政策推進本部の設置、5年のちの検討、 附帯決議のなかでの「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の趣旨を踏まえること、我が国のアイヌ政策に係る国連 人権条約監視機関による勧告や、諸外国における先住民族政策の状況にも留意し、アイヌの人々に関する 施策の更なる検討に努めることの確認、
といった肯定的な内容も織り込まれています。
これらを活用しながら今後、先住権(土地・資源・自治)を中心1984年の「アイヌ新法案」の内容を実現していくよう アイヌモシリ回復訴訟を含め運動を進めていくことだとおもいます。
この法律に対するユポさんの評価を伺うこと。
アイヌモシリ回復訴訟の内容をまとめること。(2020.6.4)

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アイヌ民族の権利の実現に向けて
                         阿部 ユポ(あべ ゆぽ)北海道アイヌ協会副理事長
明治時代、日本は国策として海外移住を進めたが、移住先での過酷な労働や土地取得の難しさから海外移住をやめ、 今度は北海道に行けと言った。被差別部落の人たちにも北海道に移住しろと言った。これは北海道新聞の「北海道開道100年」に書いてある。

150年前、それまで蝦夷地と呼んでいた私たちの土地を江戸末期に北海道、樺太、千島を探検したことで知られる 松浦武四郎の意見書を参考にして明治政府により北海道と呼びかえられた。

その時まで函館、松前、江差にしか日本人はいなかったが、日本の25%もある広大な土地をアイヌから一方的に取りあげた。そこは、蝦夷地でもなければ、北海道でもない、 アイヌの土地=アイヌモシリだ。人が住む静かな大地という意味である。それをどうして、アイヌ民族に一言の相談もなしに奪い取れるのか。

そしてアイヌ言葉を禁止し、宗教も文化も、何万年も営んできた生業である狩猟、漁労、採集をすべて禁止しただけでなく、 アイヌに和人の姓名を名乗るように強制した。いわゆる「創氏改名」である。 そして、1871(明治4)年から1873(明治6)年にかけて戸籍法を制定して、アイヌ民族を強制的に日本国民にした。

1997年に人種差別撤廃委員会から出された「先住民の権利に関する一般的勧告23」の項目5には 「そこにいた先住民族の同意なしに奪った土地、領土、資源は返しなさい」といった内容が書かれている。
1997年の二風谷ダム裁判でもアイヌ民族を先住民族と認めた。しかし日本政府は判決を20年間も無視している。

自分たちのことは自分たちで決めるという権利を宣言にしたのが、「先住民族の権利に関する国連宣言」(2007年9月)であり、 日本政府も採択に賛成した。

菅官房長官がオリンピックまでにアイヌに関する法律を作る、世界に恥ずかしくない法律をつくると約束した。 もし約束が破られたら抗議しなくてはならない。これからも先住民族の権利を勝ち取るために活動を続ける。

(上記は2017年6月9日反差別国際運動(IMADR)第29回総会・記念講演での安部ユポさんの報告をIMADR事務局にてまとめたものです。)
▼以上の講演内容は阿部ユポさんご本人とIMADR事務局の許可を得て掲載させていただきました。 文中の「創氏改名」は植民地化した朝鮮半島において明治政府が朝鮮人に強要したものと同じです。
阿部ユポさんのお話の内容をきっちり理解するために私にとって確認が必要である次の項目を詳しく調べました。
松浦武四郎について。クリックしてください。松浦武四郎さんの「知床日誌」が読めます。
(1818-1888)江戸後期・幕末期の北方探検家。伊勢の人。 函館奉行所属として1856年以降幕府の蝦夷地支配に従事。1869年(明治2年)開拓判官となり、道名・国名の選定にあたったが、 開拓使を批判して辞任した。(角川書店「日本史辞典」) 
松浦武四郎は江戸時代後期の北海道、樺太を広く探検し、地理、アイヌ語地名、 アイヌ人口に関する貴重な調査記録を残したのみならず、普遍的で客観的な視点を持ち、アイヌの人々からの信頼をも得ていた人物であった。 後に、この松浦武四郎の日誌および地理取調図を中心に近世における沙流川流域アイヌに関する文化人類学的、歴史生態学的分析が行われた。
▼函館、松前、江差の位置の確認
いづれも渡島(おしま)半島の津軽海峡・日本海に面した沿岸。こんな初歩的なことも確認しておきたかった。 (平凡社「日本大地図帳」)
▼日本の25%もある広大な土地
日本全体の面積は37万7千平方キロ。北海道は8万3千平方キロ。従って北海道は日本全体の22%。日本全体は記憶に残っていたが北海道を確認したのははじめて。
▼人種差別撤廃委員会は人種差別撤廃条約 の第9条に規定されている委員会 のことです。
▼「先住民の権利に関する一般的勧告23」の項目 5 については 「先住民の権利に関する一般的勧告23」 を見てください。
▼今日コメントを追加します。「菅官房長官がオリンピックまでにアイヌに関する法律を作る」との約束は2019.4.19成立のアイヌ新法で果たされた、ということでしょう。 (2020.4.2)

                 

▼次に二風谷ダム裁判にいきます。たまたま判決文に出会いました。読むとアイヌ問題の本質が詰まっています。原告は萱野茂 (かやのしげる)さん(アイヌ文化研究者・アイヌ初の日本の国会議員・1994年から1998年まで参議院議員)と貝澤正さん (元北海道ウタリ協会副理事長)です。 
▼1997年の二風谷ダム裁判 とは
▼日本政府も採択に賛成した先住民族権利宣言 の全文 

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二風谷ダム訴訟(概要)
平取(びらとり)町の二風谷ダム建設を巡り、地権者である故萱野茂さんと貝沢耕一さん(父 正さんが亡くなられたあと耕一さんが原告に)が北海道収用委員会に、 土地強制収用の裁決取り消しを求めた行政訴訟。札幌地裁は1997年(平成9年)3月27日の判決で、 アイヌ民族を司法の場で初めて先住民族と認定。ダム建設がアイヌ文化に与える影響について調査を怠り、 アイヌ民族の文化享有権を軽視したと指摘し、国の事業認定と道収用委裁決をいずれも違法とした。 ダム本体が完成していたことを考慮し、請求は棄却した。
▼裁判の場において原告である萱野茂さんと貝沢耕一さんが 「アイヌの声」をどのように届けられたのかを知るのにこれ以上の資料はないとおもいます。 このホームページを読んでくださる方もアイヌの人たちの心情を是非ご自分のものにして 日本社会全体のものにしていただきたいとおもいます。
彫刻家・ 知足院(ともたり)美加子さんのHP を開いてみてください。知足院さんのこころに触れたあと判決文を読んでいってください。
今日、改めて知足院さんのHPを読んでみました。20年前に書かれたものです。 私もほぼ2年、「マイノリティーの声」に没頭しています。お気持ちがよくわかります。(2020.6.17)
二風谷石彫設置プロジェクト
アイヌ民族とニ風谷ダム問題            九州芸術工科大学 知足院(ともたり)美加子(彫刻家)

北海道の二風谷ダムは、古来からアイヌ民族が生活をしてきた大切な土地に建設されました。 アイヌ民族である貝澤氏、萱野氏は、ダム計画に対して「二風谷ダムを盾として、人間としての権利を求め」訴訟を起こし、 「アイヌ民族の先住性」が認められ「ダムは違憲である」との判決を得たにも関わらず(1997年)ダムは施工されてしまいました。
このダムを契機として作られた作品がニ風谷に設置された経緯を、ニ風谷プロジェクトとして報告します。 彫刻台座に碑文をつけました。
「遠い昔から,この豊かな大地で生活してきた先住民族アイヌの人々。 その事実をだれが変えられるだろうか。貝澤耕一氏(父,正氏)と共に,受け継ぐ文化の大切さを訴えた人々にこの像を捧げる」

公共事業の方向性を変えることがこれほど困難なのはなぜなのか、近代の中で構造としての差別が残っていくのはなぜなのか、 また、メディアで流れてくる情報内容と当事者の実感がこれほどかけ離れていくようになったのはなぜなのか、 私たち日本人が「考えること」を後回しにしてきたものの重みを感じ、問い直したいのです。
問いかける力、新たな認識の呼び水になる力が「芸術」に残存していることを期待します。

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二風谷ダム裁判判決文 札幌地方裁判所民事第三部
                 裁判長裁判官 一宮 和夫
                      裁判官 堀内  明
                      裁判官 小原 一人
(三)本件事業計画の実施により失われる利益ないし価値
(1)二風谷地域の住民の民族性
原告らはアイヌ民族であり、アイヌ 民族が「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(以下これ を「B規約」という。)二七条 にいう少数民族であること及び 二風谷地域にアイヌの人々が居住し、独自の文化を有してい ることは争いがないところ、証拠(証人田中、原告貝澤)に よれば、平成五年四月当時、二風谷地域の人口約五〇〇人の 八割に当たる約四〇〇人がアイヌ民族であること、平成七年 一二月一四日当時、同地域の人口は五〇〇人弱であり、そ の七割以上がアイヌ民族であることが認められ、この事実と 弁論の全趣旨によれば、本件事業認定時において、本件収用 対象地を含む二風谷地域の人口の多くを占める住民がアイヌ 民族であり、アイヌ民族が多く居住している北海道内の他の 地域と比較しても、その割合は極めて高いものであることが 認められる。

ところが、証拠(乙ロ一八)によれば、本件事 業計画が実施されることにより、本件収用対象地を含む二風 谷地域が広範にわたりダムにより水没し(水没面積は全体で 約五三〇へクタールであり、その予定範囲は、別紙「二風谷 ダム貯水池平面図」のとおりである。)、また住宅等五〇戸が 支障物件になることが認められ、この事実と弁論の全趣旨を 総合すると、本件事業の実施がこの二風谷地域に暮らすアイ ヌ民族に離散をもたらせたり、そうでなくてもその生活やそ の文化に大きな影響を及ぼすであろうことは容易に推認する ことができる。
▼二風谷ダム 全景 (現地案内板 拡大できます)2018.7.18撮影
530ヘクタールとはどのくらいの広さか?
1,000m×1,000m=100ha 仮に1キロの幅だとするとが5キロの長さで500haになる。5平方qです。 広大さがすこしイメージできます。その後、ダムの全景の案内図をWeb上で見つけました。下がそれです。 今日(2019.11.1)もう一度振り返りました。530ヘクタールを。ヘクタールより平方qの方が考えやすいです。 5.3平方qは 1q×5.3q 0.5q×10.6qが考えられます。 上流まで行っていないので確実なことは言えませんが 現地のイメージからすると0.5q×10.6qでしょうか。 


▼以下は1996年設立日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌 のHPから引用させていただきました。
沙流川(さるがわ)のもとの名前はシ・シリムカ(シ=本当に シリ=辺り ム=詰る カ=させる)だそうです。 そのわけは次の萱野さんの説明で納得です。
(萱野茂「沙流川沿いの地名」より)。


「分かりやすくいうと、大雨が降り水かさが増すと、上流から大量の土砂が流れてきて、 河口が鵡川のほうへ寄ったかと思えば、次の雨では門別の方へ移るという具合であったのです。それで、本当に河口がふさがる川と、 アイヌたちは名付けて暮らしていました。

そこへ、あちこちからのアイヌ語の地名を日本語に付け代えて歩いていた役人が来て(略)、 そうか、河口がふさがるということは上流から土砂が流れて来るのだな、それでは沙の流れる川 沙流川とつけよう、 というわけでシシリムカが沙流川と名前が代えられました。
ちなみに、沙流川の右隣の川の古い名前は、ムカ、これも詰るという意味で、 それが武川になり、左隣がモペッ、これは静かな川というのが門別になったのです」。

▼次の貝澤さんのご体験は深刻だとおもいました。 (「アイヌわが人生」貝澤正 84、104頁)より。
「1882年に明治政府はアイヌを狩猟民族から農耕民族にしようと言うことで、 鍬やタネを与えてアイヌに農業を教えました。

沙流川の川筋は沖積土で土地がよく肥えていたので、 農業を始めた頃は、1反(約10アール)の土地にヒエを蒔いておけば、無肥料で1年間食べられるぐらいの収穫があったそうです。 おかげでその頃の二風谷の生活は裕福で、自給する食糧も豊富になり、大豆もよくできて、 それを馬の背に乗せて門別の浜まで持っていって金に換えて、現金収入も十分あったようです。

しかし、木が切り倒され奥地が乱開発されるようになると水害が起こるようになり、 その度に沙流川の流域は一面にわたって水がたまり海のようになりました。 そのような大きな水害が10年に一度は起こるようになり、二風谷のアイヌは貧乏のどん底になってしまったのです。 1910年、苫小牧に王子製紙工場が出来、沙流川上流の松丸太が乱伐された。」
▼王子製紙は今何を考えているのだろうか? 二風谷から門別まで約20キロ。馬で行くのにちょうどいい距離。

(2) アイヌ民族の文化的特色
証拠(甲二〇、四七、証人大塚、原告ら)によれば、アイ ヌ民族は、主に川筋を生活領域とし、コタンと呼ばれる集落 において地縁集団を形成し、狩猟、採集、漁撈を中心とした生活を営み、アイヌ語と呼ばれる独自の言語を用いるものの、 文字を持たず、その文化を口承伝承し、獣や魚などの自然物との関係を重視し、これら自然の恵みを人間に与える神々と 共生するという自然崇拝の価値観を持っていたこと、アイヌ民族は「イオル」と呼ぶ空間領域をひとつの単位として生活 を営んできたが、そこには、家屋があり、またイオルの人々が共同で用いる生産の場や墓地などが設けられていたこと、 イオルには、それ以外に神話的な伝承を持つ山や川などの特 定の場も存在し、アイヌの人々の生活を体系づけてきたこと、 アイヌの人々にとって、イオルはそこで生まれそこで生涯を閉じるという性格のもので、ここに生きる人々は「出自集団」 として結ばれていたこと、したがって、神話的な伝承を持つ山や川などを含むイオルは、単に歴史的遺産に止まらず、民 族的な文化を現代に持続させるための手段となる極めて重要なものであることが認められる。
▼裁判所によるイオルの解説と定義。アイヌ民族の生活と文化の特質を実に簡潔にまとめられている。川筋でのイオルの復活が回復されるべき姿。(2020.4.3)
 次の貝塚さんのイオルの説明。素人にもよくわかります。
                      2006年 9 月5 日(月)18:00〜19:30 札幌会場
                           講師 貝澤 美和子 アイヌ文化活動アドバイザー
                「イオル(IWOR)とアイヌ語地名」
「イオルというのは、動物を獲ったり山菜を採る場所のことで、いわば、アイヌ民族にとって生活の場のことで す。
かつてアイヌたちがこの北海道を「アコロモシリ」(私たちの大地)といって暮らしていたころは、この北海道中 がアイヌのイオルでした。
狩猟採集で生活のほとんどを支えていたアイヌたちは、仲間とのコミュニケーションのた めに、とても丁寧に地名をつけました。普段、私たちがよくなじんでいる地名も、その意味を知ってみると、つくづ く先人たちの知恵に驚きと尊敬を感じます。そして、このアイヌ語地名こそが、北海道がアイヌのイオルだったこと の証しでもあります。
私たちの沙流川流域も、ほとんどの山や川は、どこそこのコタンのイオルと決められていて、よそのコタンのイオ ルに侵入することはかたく禁じられていました。
図2 は、泉靖一氏が古老に聞いて調査したもので、1952年に発表した 「沙流アイヌの地縁集団におけるIWOR」という論文中にあるものを見やすくしたものです。長い間厳し く守られてきたアイヌ間の決まりごとのおかげで、イオルと同時に北海道の大自然も守られてきました。」
▼「イウオロ」 狩りに行くときの自分の持っている場所。行きつけの山ふところ。 (「萱野茂のアイヌ語辞典」より)
2018年7月18日二風谷に行ってきました。辞典も萱野茂二風谷アイヌ資料館で購入しました。

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(3) 二風谷地域におけるアイヌ文化
証拠一中(三の二、四の一・二、七、九、一一、一四、二〇、 二八、二九、四七、乙一二、証人大塚、原告萱野)及び弁論 の全趣旨を総合すれば、次のアないしエの事実が認められる。

ア  二風谷地域の地域性について
二風谷地域を含む沙流川(さるがわ)の周辺にはサルンクルというア イヌ民族の中での有カなグループが生活していたといわれ、 このサルンクルの伝説等から、二風谷地域を含む沙流川流 域がアイヌ民族の聖地と呼ばれることがある。

萱野茂さん

二風谷地域に住むアイヌの人々にとって、同地域は一つのイオルであ り、自己の民族的アイデンティティを確認できる地域であ る。また本件収用対象地近くの沙流川右岸には、アイヌ語 の地名が二三箇所もつけられており、その理由はアイヌの人々がその一つ一つにカムイ(神)の存在を認め、水を汲 む場所,山菜の採れる場所各々においてカムイと対話して いたからであるといわれている。
鮭は、アイヌの人々が主 食を意味するシエペと呼び、アイヌ民族にとって重要な食 料であって、その採取方法、調理方法、食事の儀式等、 鮭に関する独特の食文化を数多く有している。また、鮭の皮を用いて衣服や靴を作る等、食物以外においても鮭は生活 の重要な素材である、アイヌ文化の象徴ともいえる魚である。
沙流川は、このような鮭や、ウグイ、鱒等の豊富に獲れる川であり、また二風谷地域は、その周辺にアイヌの 人々の食生活を支えたキノコ、シイタケなどの植物が豊かにに生殖し、北海道の中では気候も温暖で雪も少なく、居住 の条件に恵まれていたことなどから、前記のとおり、同地域には多くのアイヌ民族が生活していた。そして、 この二風谷地域は、アイヌ民族の伝統的、精神的、技術的文化を承継する人々を数多く輩出し、豊かな自然とあいまって、 アイヌ民族の伝統文化が保存されてきた地域である。アイヌ民族の長編叙情詩であるユーカラは、二風谷地域を中心 に育まれ、二風谷地域は、ユーカラの優れた伝承者が数多く、言語学者の金田一京助をはじめ国内外から多くの研究 者等がこの地域を訪れるなど、アイヌ文化研究の発祥地ともいわれている。
▼裁判所の事実認定のキーフレーズ
・二風谷地域を含む沙流川(さるがわ)の周辺  ・有カなグループ サルンクル  ・アイヌ民族の聖地
・一つのイオル  ・民族的アイデンティティを確認できる地域  ・沙流川右岸にはアイヌ語の地名が23箇所
・ユーカラは二風谷地域を中心に育まれた  ・多くの研究者等がこの地域を訪れる  ・アイヌ文化研究の発祥地
▼実際二風谷に行ってみて、景色、風土に触れ、実に住みやすい所と感じました。 そのことを資料館の萱野館長の奥様に話したらここは雪も少なくいい所です、とのことです。我が意を得たり。 矢張りこういうところを選んで先人は住むのだな、とおもいました。
サルンクル=沙流川の人。(「萱野茂のアイヌ語辞典」より)
イ  チプサンケについて

写真はチプサンケに使われる舟
チプサンケとは、もともとアイヌ民族に伝わる新造舟の舟おろしの儀式のことで、昭和二三年ころまでは新造舟が できたときに行われてきた。近年毎年八月二〇日ころ、二風谷地域で行われているチプサンケの祭りは、昭和四七年 ころから原告萱野らがアイヌ文化の伝承と振興を意図して始めたものであるが、以前から行われてきたチプサンケの 場所(別紙図面(一)のE付近)より上流側で舟を川に下ろし、 以前からのチプサンケの場所で祈りを行ってきている。 その具体的内容は、アイヌの人々がアイヌ民族伝統の丸木舟に地域の住民らを乗せて沙流川を下ったり、事前にイナウ と呼ばれるヤナギの内皮を削った祭具を作ったり、舟の安全に感謝して川の神、舟の神などに祈りの言葉を捧げたり、 和人と一緒に盆踊りをする等して、アイヌ文化の伝承やア イヌの人々と和人との交流を図り、アイヌの人々の主宰に よる地域に密着した祭りとなっている。
本件事業計画が実施されると、チプサンケは、従来行っ てきた場所で開催できなくなる。
▼チプを実際に資料館で見て余りにも大きいのに驚きました。 20メートルくらいあったように思います。大木を切り倒し、それをくりぬいて舟に仕上げるのは大仕事と実感しました。 だから完成の暁には舟おろしの儀式(チプサンケ)=進水式が行われるのもわかりました。 チプ=舟 サンケ=出す 舟を出すの意味(「萱野茂のアイヌ語辞典」より)
ウ  チャシ等の遺跡について
チャシとは、水(河川や海、湖沼)にのぞむ高所に作ら れ、砦、城、柵、見張所、聖なる地などといわれている遺 跡である。
▼チャシは日本人的感覚では村の鎮守、氏神を祀る神社のような存在か? その後「萱野茂のアイヌ語辞典」を見るとチャシ(casi)は柵、囲い、垣根、城、砦とありました。 するとそれぞれのチャシがどのようななものであったのか具体的に知る必要がありそうです。
沙流川流域には、近世のチヤシ跡が多く、現在 二七箇所が知られている。      「遺跡の写真」(拡大してください)
二風谷地域には、ユオイチャシ跡、ポロモイチャシ跡、ポンカンカンチャシ跡などの遺跡が分布している。
ユオイチヤシ跡及びポロモイチャシ跡は、 沙流川に面した段丘上に位置しており(別紙図面(二))、 空堀による区画と居住跡などによって構成されている。これら のチヤシに付属する遺構からは、 近世アイヌ文化を代表する多数の鉄製品などが発見された。また、ポロモイチャシ 跡からは、柱を立てる穴が多数見つかったことから、規模の大きな建造物があったとも推定され、 アイヌ民族の歴史を知る上で重要な遺跡である。
本件事業計画が実施される ことにより、ユオイチャシ跡及びポロモイチヤシ跡を発掘 調査直後の状態で保存することは不可能となる。特にポロモイチャシ跡の場合は、 本件ダムの建設に伴い完全に消滅する。
▼ユオイチャシ、ポロモイチヤシが湖底に沈んでいるのか?
現地に行ってみてユオイチャシはダムの左岸近くでチャシ公園にされていることがわかりました。 ポロモイチヤシを探したのですが見つかりませんでした。判決をよく読んでみると 「ダムの建設に伴い完全に消滅する」とありました。怒りの混じった喪失感を味わっています。
その後当日撮った「遺跡の写真」を見ると上のような1枚がありました。 ポロモイチヤシ遺跡は右岸上流に沈んだことがわかりました。 ダムの着工前と完成後の写真を掲載しておきました。 この「遺跡の写真」を見ながら想像してください。
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エ  チノミシリについて
チノミシリは、アイヌ語で我々が祭る場所を意味し、これは、神がアイヌの人々に火事、水難、病気の流行等の吉 凶を教える場所であり、またアイヌの人々がそこにいる神に対しお祈りをする場所であって、アイヌ民族にとって、 神聖な地であり、心の拠り所であるとされている。そして、この他は、アイヌ民族以外の人に漏したり、汚したり、傷 つけたり、地形を変えたりすることをしてはならないとさ れている。二風谷地域におけるチノミシリは、別紙図画一 のAのぺウレプウッカのチノミシリ、同図面のBのカンカンレレケへのチノミシリ、同図面のCの三箇所であるとさ れている。
被告らは、これらのチノミシリの位置に関する証拠とし ては、原告菅野自身の著作である「おれの二風谷」(甲一一) の関係記事部分と同原告の供述しかないところ、両者は一致していないことや、地元住民もチノミシリの位置を知ら ないこと、更にはダム建設に当たってこれら住民から特に異議がでなかったことを理由として、右図面の各位置にチ ノミシリがあるとは認められない旨主張する。
なるほど、「おれの二風谷」の関係記事部分には、カンカンレレケへのチノミシリについて、オポウシナイ沢とパラ タイ沢の間にある山であると記されていて、それによれば別紙図面(一)のBの位置ではないことが認められるが、これ は原告萱野自身誤記であると自ら認めているところであっ て、しかも右著書の該当箇所にはカンカンレレケへのチノ ミシリについて「カンカンレレケウン チノミシリ」(かんかんの向い側・我ら拝む所)との記載があり、カンカン 沢の向い側に位置すると明示されていることが認められるから、そこが別紙図面(一)に表示されているオポウシナイ沢 とパラタイ沢の間ではなく、 オポウシナイ沢とタイケシ沢の間にあること、すなわち同図面Bの位置にあることが窺えるのであり、 この点の被告らの主張は理由があるとはいえない。

▼(平取町教育委員会文化財課発行のリーフレット「アイヌの伝統と近代開拓による沙流川流域の文化的景観」の 右の地図(拡大できます)「にぶたに湖」上流の右岸に赤い点を挟んで右がオポウシナイ沢、左がタイケシ沢であることが確認できます。)

またぺウレプウッカのチノミシリの位置について は右著書の記事と原告宣野の供述に相異があると評する 程の違いはないと解されるから、この点の被告らの主張も理由がない。
また、原告萱野の指摘する右三つのチノミシ リの位置について地元の人々が知らなかった点についても(もっとも、甲七にはその後の工事進行の過程でチノミシ リの一ケ所はクレーン設置のために剥土にされてしまって いる、この工事をみた地元の古老たちは、「神聖な場所をい いかげんな扱いで工事したのだから、やがて事故が起きる であろうと予言していた。」とあり、原告萱野らを除く地元 の人々すべてがこの点を知らなかったかどうか疑問があ る。)、前記チノミシリの秘密性に加えて二風谷地域に居住 するアイヌの人々の年齢やアイヌ文化尊重の程度等の事情によりこれを知る人が少ないとみられることが原告宣野の 供述により認められるから、被告らが主張するこれらの事 情をもってしても、右認定を左右するには足りないという べきである。
▼被告・国側の腹立たしいまでの重箱の隅を突っつくような「反論」。常套手段ではあるが、それでも腹が立つ。 裁判長は「認定を左右するには足りないというべきである」といなしている。当然。
▼上記リーフレットの地図を見るとダムの左岸上流にカンカン遺跡の場所が確認できます。
▼チノミシリを「萱野茂のアイヌ語辞典」ではCi=nomi=si r 我ら祭る所、と説明されています。次のような例文もあります。 「私どもの二風谷では熊の姿岩のチノミシリ、カンカン向かいのチノミシリ、オケネウシのチノミシリ、3か所あって、 そこへ神のお告げが聞こえたら村人全部が気をつけるものだ。」まさしく聖なる場所がチノミシリであることがわかります。 nomi は祭る、祈る、の意味のようです。
(四)本件事業により失われる諸価値に対しなされた配慮
(1)埋蔵文化財等
参加人(国のこと)は遅くとも本件事業認定申請時までには、二風谷地 域がアイヌの人々の多数住む地域であることを認識していた が(乙ロ二〇の一ないし一五、証人田中、弁論の全趣旨)、更に、証拠(乙ロ六ないし一二、一四、一五、二三、二四、二 五、証人田中)によれば、次のア、イの事実が認められる。

ア チヤシ等の埋蔵文化財について
北海道開発局内で本件事業を担当する室蘭開発建設部長(以下「室蘭開発部長」という。)は、昭和五一年(1976年)一一月及 び昭和五七年(1982年)二月の二回にわたり、文化財保護法等に基づ き北海道教育委員会(以下「道教委」という。)に対し、埋 蔵文化財包蔵地の確認調査を依頼したところ、道教委から、ユオイ チャシ跡及びポロモイ チヤシ跡の本体部分につい ては事前の調査が必要であり、また両チヤシの周辺部及び両チャシ間についても遺跡の拡がりが予想される旨の回答を 受け、更に、昭和五八年(1983年)七月二七日付けで、ユオイ チャシ跡及びポロモイ チャシ跡の間に二風谷遺跡も存在すること が確認されたので、工事計画の変更が困難な場合はこれらの遺跡の発掘調査が必要である旨の回答を受けた。このた め、室蘭開発部長は、道教委に対し、ユオイ チャシ跡、ポロモイチヤシ跡及び二風谷遺跡の発掘調査を依頼し、道教 委は、これを受けて、財団法人北海道埋蔵文化センターに発掘調査を依頼した。同センターは、右依頼に基づき発掘 調査を実施し、昭和六一年(1986年)三月二六日、「ユオイチャシ跡 ポロモイ チャシ跡 二風谷遺跡」と題する報告書(乙ロ一二) を作成し発行した。
▼ユオイ チャシ跡 ポロモイ チャシ跡 二風谷遺跡が工事の事前に確認されている。 位置は前述「遺跡の写真」参照。
また、室蘭開発部長は、本件事業認定の申請を行うに当たり、道教委に対し土地収用法に基づく意見照会をしたが、 道教委は、昭和六〇年(1985年)七月一一日、「当該起業地内に、周知の埋蔵文化財包蔵地が別表のとおり所在していることが確 認されています。したがって、当該地域にかかる起業については、文化財保護法に留意し取り扱われるよう願います。」 との回答をしている。 平取町長は、室蘭開発部長に対して、昭和五九年(1984年)九月七日付けの要望書(乙ロ一四)を提出し、文化財保存施設の 設置について要望したが、これに対し、室蘭開発部長は、同年九月一二日付けの回答書(乙ロ一五)において、「埋蔵 文化財の保存施設については、地城の特殊性を考慮し実現できるよう努力します。」と回答した。
▼このダムの問題は昭和五一年(1976年)ころから起きている。
道教委は室蘭開発部長に対し、 昭和六〇年(1985年)「文化財保護法に留意し取り扱われるよう願います」と要請している。にもかかわらず工事は強行された。
平取町長は、昭和五九年(1984年)文化財保存施設の 設置について要望し、室蘭開発部長は「実現できるよう努力します」と回答している。それがどうなったか?
▼今回の現地訪問(2018.7.18)で文化財保存施設の設置は「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」がそれにあたるのかな、とおもいました。 大きなところで遺跡を破壊し、小さな要望は受け入れる、これが二風谷ダムの国の基本姿勢だと感じた。
イ  チプサンケについて
平取町長は、前記要望書において、アイヌ文化の継承の ために、チプサンケなどの行事を本件ダム直下の河川敷地 で行うことができるよう同所を公園広場に利用させてほし い旨要望した。
これに対し室蘭開発部長は、前記回答書に おいて、「ダム直下のダム管理区域は、今後、河道整理をし た後の高水敷で公園広場等に利用可能な敷地については、 ダム周辺環境整備として町と協議し実施します。」と回答し た。
▼このチプサンケは現在おこなわれているようだ。たぶんダム直下の沙流川だとおもう。電話で平取町役場に確認できた。
(2) 本件事業認定申請等
証拠(乙ロ二、三、一八)及び弁論の全趣旨によれば、本件工事実施計画、本件基本計画、本件事業認定申請いずれの 中でも、本件事業がアイヌ文化へ及ぼす影響についての言及は全くなされていないこと、本件事業認定は決定書が作成さ れておらず、申請どおり認定がなされたことが認められる。
▼「実施計画、基本計画、認定申請いずれの中でも、本件事業がアイヌ文化へ及ぼす影響についての言及 は全くなされていない」。信じられない対応。申請者(北海道開発庁室蘭開発建設部長)も 認定者(建設大臣)も国の機関の身内で、全くアイヌ文化へ及ぼす影響などは眼中にないということだ。沖縄、辺野古の国の対応も同じ。 身内が身内に申請して許可する構図は全く同じ。
(3) 被告らの主張について

被告らは、アイヌ文化に配慮した周辺環境整備を進めた と主張し、その根拠として、
開発局が昭和五六年(1981年)及び昭和五 七年(1982年)に農学・文化人類学・経済学等の学識経験者や平取 町議会議員等を構成員とした二風谷ダム周辺環境整備構想 調査会を設置し、
本件ダム周辺地域の生活文化、生活基盤 についての総合的な調査、研究をし、
その報告を受け、昭和六〇年(1985年)には、二風谷ダム周辺地域環境整備調査会を設置 し、
歴史的な文化を活かした地域振興を図るための地域整 備基本計画を作成し、
開発局は、このような調査、研究を 踏まえつつ、
地元平取町、平取教育委員会、二風谷自治会、アイヌ文化保存会等とも協議を重ねてダム周辺環境整備事 業等を行ってきたことを掲げる。 なるほど、証拠(乙ロ二三、証人田中)によれば、被告らが指摘する右事実は認められるものの、各調査会の調査、 研究の内容が判然としないのみならず、
その主な目的は、
本件ダム建設を既定の事実として、地域振興を図ることに ねらいがあったことが
右証拠及び弁論の全趣旨により窺え るのであり、
前掲チヤシ等の埋蔵文化財の保護やチブサン ケの代替場所等の配慮以上に、二風各地域におけるアイヌ 文化の十分な研究に基づいて本件ダム建設による古文化の影響に対する対策を講じたことを窺わせる証拠はない。
▼被告の弁明に対し「対策を講じたことを窺わせる証拠はない」と一刀両断でバッサリ。 被告がやったことはチャシの一部とチプサンケの代替場所だけ。

被告らは、アイヌ文化の象徴である鮭の遡上と本件ダム の建設とは関係がなく(もともと鮭は沙流川下流で門別漁 業協同組合が捕獲していたことから、本件ダムの建設予定 地まで遡上していなかった。)、また本件事業認定時におい て、本件ダムにおいては、ダムまで遡上した魚が更にその上流に遡上できるように魚道を設ける計画が立てられ、そ の設置により、鮭を含む魚類の遡上に大きな支障はないと判断されたと主張し、この点もアイヌ文化に対する配慮で ある旨主張する。
▼被告よ、何も知らない裁判所に何でも言えば通る、とでも思っているのか。
証拠(乙ロ一七、二〇の三ないし五・七、二三、証人田中)によれば、 門別漁業協同組合が従前から沙流川下流の地点に鮭を捕獲するウライを設置しており、 本件事業認定 時には、本件収用対象地付近の沙流川までは鮭が遡上して いなかったこと、したがって本件用地交渉等の際、原告ら が本件収用対象地付近の沙流川まで鮭の遡上を可能にして 欲しいと要望したこと、これに対し本件事業者側は漁業権の回復は困難又はほぼ不可能であるとの認識を有していた が、北海道や右漁協、更には平取町に陳情、相談したとこ ろ、北海道条例等に照らして不可能であるとの結論は動か なかったこと、本件事業認定時には主として遡河性の魚であるサクラマスの資源保護のため、本件ダムに魚道が設置 されたが、それは特に鮭を対象としたものではなかったこ と、以上の事実が認められる。
そうすると、起業者たる参加人において、原告らの要望を受けて鮭の遡上について関係機関に陳情したことは明ら かであるが、その程度に止まるものであって、本件事業に よつて侵害されたアイヌ文化について特に配慮して行動し たといえる程の評価ができる事実ではないというべきである。
▼おそらく昔は二風谷まで鮭は遡上していたのだろう。 「用地交渉等の際、原告らが本件収用対象地付近の沙流川まで鮭の遡上を可能にして 欲しいと要望」、それを受けて事業者も「北海道や漁協、平取町に陳情、相談」、しかし漁業権の回復は不可能と判断。
ここから見えてくるものは国のみならず北海道行政も門別の漁業協同組合も二風谷が、アイヌ民族の聖地が、 湖底に沈むことを容認していたということ。
アイヌの人たちの現地での四面楚歌の闘いが想像できる。東京の自分も関心を示していなかった。申し訳ない。 なぜ大きな世論にならなかったのかが問題。
しかし裁判所は、起業者たる参加人(すなわち国)が、アイヌのためにやったと主張することにたいし「アイヌ文化について特に配慮して行動し たといえる程の評価ができる事実ではない」とバッサリ。
ウライとは? 川にのぼってきたサケをつかまえる場所・捕獲場で、川をふさいでサケが通れないようにする「しきり」のこと、ヤナともいう。
実際2018年7月18日、現地に行って改めて考えるに、やはり二風谷まで鮭が遡上できるように対処すべきであった。 門別漁業協同組合の対応もひどい。アイヌ民族の土地に植民して、河口で鮭を先取りして、その結果、鮭は二風谷まで遡上していなかった、 と言っているに等しい。 日本社会の少数者、弱者に対する振る舞いの典型を見るようで恥ずかしい。 今からでも二風谷に鮭が遡上できるように対策を講じるべきである。それが21世紀の日本人の責務である。
▼「アイヌ語辞典」を読んでいた。シペ=サケ。アイヌはサケを主食としていたし、定住の場所はサケの来るところまでと決まっていた、とある。 つまり二風谷までサケは遡上していた、ということ。
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被告らは、チノミシリの存在については一般に知られていなかったのみならず、本件収用裁決に対する審査請求時 にはじめて原告萱野から主張され、本件事業認定時には原告らを含めて誰からも主張されたことはなかったのである から、これを考慮することは不可能であった旨主張する。
なるほど、証拠(甲一一、乙ロ二二、二三、証人森田、 同田中、原告萱野)によれば、チノミシリについては、前 記「おれの二風谷」と題する書物(甲一一)に言及されて いるだけで、一般にその存在が知られていなかったこと及 び本件事業認定時までに原告らを含めて誰からもチノミシ リについては指摘されなかったことが認められる。
しかしながら、アイヌ文化が明治政府の政策等により衰退を余儀なくされてきたことは後記のとおりであり、このような経 緯やチノミシリの性格等もあって、二風谷地域のアイヌ民 族が神聖な場所であるチノミシリを一般にしらしめなかっ たことや参加人に開示しなかったことが容易に推認できるから、このこと自体無理からぬ事情があったといえるうえ、 むしろ後記のように、アイヌ民族の文化享有権の重要性に照らせば、参加人は本件事業認定時までに本件ダム建設の アイヌ文化への影響を十分調査、研究すべきであったので あり、これを行っていれば、チノミシリの存在についても 確認できた可能性は否定できないということができるから、 被告らの主張を被告らに有利に掛酌することはできない。
▼被告・国側の「知らなかったから考慮することは不可能」との主張に、逆に「十分調査すべきであった」とバッサリ。 小気味がいい。
2 比較衡量
(一)比較衡量に当たっての考え方

土地収用法二〇条三号所定の要件は、事業計画の達成によって得られる公共の利益と事業計画により失われる公共ないし私 的利益とを比較衡量し、前者が後者に優越すると認められる場合をいうことは前記のとおりであるところ、この判断をするに 当たっては行政庁に裁量権が認められるが、行政庁が判断をするに当たり、本来最も重視すべき諸要素、諸価値を不当、安易 に軽視し、その結果当然尽くすべき考慮を尽くさず、又は本来考慮に入れ若しくは過大に評価すべきでない事項を過大に評価 し、このため判断が左右されたと認められる場合には、裁量判 断の方法ないし過程に誤りがあるものとして違法になるものと いうべきである。
本件において前者すなわち事業計画の達成によって得られる公共の利益は、洪水調節、流水の正常な機能の維持、各種用水 の供給及び発電等であって、これまでなされてきた多くの同種事業におけるものと変わるところがなく簡明であるのに対し、 後者すなわち事業計画により失われる公共ないし私的利益は、 少数民族であるアイヌ民族の文化であって、これまで論議され たことのないものであり、しかもこの利益については、次のような点が存在するから、慎重な考慮が求められるものである。
▼「事業計画の達成によって得られる公共の利益は、多くの同種 事業におけるものと変わるところがなく」一方 「失われる公共ないし私的利益は、 少数民族であるアイヌ民族の文化であって、慎重な考慮が求められるものである。」 裁判所は極めて公平な観点に立っている。
(二) 少数民族が自己の文化について有する利益の法的性質について被告らは、仮に少数民族の自己の文化を享有する等の権利が 尊重すべきものであるとしても、土地収用法上の要件に該当す るか否かを検討するに当たって、これが他の考慮すべき事情に 比べて優先順位を与えられるものと解する根拠はない旨主張す るので、少数民族が自己の文化について有する利益の法的性質 について検討を加えておきたい。
▼被告(国)は「土地収用法上の要件に該当するか否かを検討するに当たって、これが他の考慮すべき事情に 比べて優先順位を与えられるものと解する根拠はない」と主張。いいかげんにしてくれ。元々だれの土地だった!
国側の主張の、少数民族、先住民族に対するあまりにも無知をさらけ出しているのに怒りすら覚える。この裁判は明治時代の裁判ではないのだよ。
このダムは、成長神話がまだ日本人を捉えていた安定成長期に計画され、バブル崩壊後完成している。1997年の判決時は冷戦も終わり 新しい時代作りに差し掛かっている。そのような空気を裁判所も察知しなければいけない時代だった。
(1)B規約との関係
国際連合総会は、昭和四一年(1966年)に「B規約」を採択し、我が国は 昭和五四年(1979年)に国会の批准を受けて同年条約第七号として公布している。 この規約は、人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等のかつ奪い得ない権利を認めることが世界における自由、 正義及び平和の基礎をなすものであり、またこれらの権利が人間の固有の尊厳に由来することを確認するなどの前文の文 言の下に五三箇条から成り、本件のアイヌ民族の文化享有権と関係する条文は、第二条一項、二六条、ニ七条である。
第 二条一項は、
「この規約の各締約国は、その領域内にあり、か つその管轄の下にあるすべての個人に対し、人種、皮膚の色、 性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位等によるいかなる差別 もなしにこの規約において認められる権利を尊重し及び確保することを約束する。」と、
第二六条は、
「すべての者は、法 律の前に平等であり、いかなる差別もなしに法律による平等の保護を受ける権利を有する。 このため、法律は、あらゆる差別を禁止し及び人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的 意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生 又は他の地位等のいかなる理由による差別に対しても平等の かつ効果的な保護をすべての者に保障する。」と、
第二七条は、
「種族的、宗教的文は言語的少数民族が存在する国において、 当該少数民族に属する者は、その集団の他の構成員とともに 自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自 己の言語を使用する権利を否定されない。」と、
それぞれ規定している。
参加人たる国は、平成三年(1991年)、国際連合人権規約委員会に対し、B規約四〇条に基づく第三回報告を提出し、アイヌ民族 が独自の宗教及び言語を有し、また文化の独自性を保持していること等から、B規約二七条にいう少数民族であるとして 差し支えないとし、本件訴訟においても、アイヌ民族が同条にいう少数民族であることを認めている(以上争いのない事 実又は当裁判所に顕著な事実)。
▼国はアイヌ民族がB規約27条にいう少数民族であることを認めている、このことは重要。
右によれば、B規約は、少数民族に属する者に対しその民 族固有の文化を享有する権利を保障するとともに、締約国に 対し、少数民族の文化等に影響を及ぼすおそれのある国の政 策の決定及び遂行に当たっては、十分な配慮を施す責 務を各締約国に課したものと解するのが相当である。
▼B規約27条の少数民族の文化享有権を国のそれに対する配慮責務にまで広げた裁判所の解釈は正当である。
そして、アイヌ民族は、文化の独自性を保持した少数民族としてその文化を享有する権利をB規約二七条で保障されているのであ って、我が国は憲法九八条二項の規定に照らしてこれを誠実に遵守する義務があるというべきである。
もっとも、B規約二七条に基づく権利といえども、無制限ではなく、憲法一二条、一三条の公共の福祉による制限を受 けることは被告ら主張のとおりであるが、前述したB規約二七条制定の趣旨に照らせば、その制限は必要最小限度に留め られなければならないものである。
▼有斐閣「判例六法」憲法13条の項に二風谷ダム事件のこの札幌地裁が判例として掲載されている。
(2)憲法一三条との関係
憲法一三条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生 命、自由及び幸福追求に村する国民の権利については、公共 の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊 重を必要とする。」と規定する。
この規定は、その文言及び歴 史的由来に照らし、国家と個人との関係において個人に究極 の価値を求め、国家が国政の態度において、構成員としての 国民各個人の人格的価値を承認するという個人主義、民主主 義の原理を表明したものであるが、これは、各個人の置かれ た条件が、性別・能カ・年齢・財産等種々の点においてそれ ぞれ異なることからも明らかなように、多様であり、このよ うな多様性ないし相異を前提として、相異する個人を、形式 的な意味ではなく実質的に尊重し、社会の一場面において弱 い立場のある者に対して、その場面において強い立場にある 者がおごることなく謙虚にその弱者をいたわり、多様な社会 を構成し維持して全体として発展し、幸福等を追求しようと したものにほかならない。
このことを支配的多数民族とこれ に属しない少数民族との関係においてみてみると、えてして 多数民族は、多数であるが故に少数民族の利益を無視ないし 忘れがちであり、殊にこの利益が多数民族の一般的な価値観 から推し量ることが難しい少数民族独自の文化にかかわると きはその傾向はつよくなりがちである。
少数民族にとって民 族固有の文化は、多数民族に同化せず、その民族性を維持す る本質的なものであるから、その民族に属する個人にとって、 民族固有の文化を享有する権利は、自己の人格的生存に必要 な権利ともいい得る重要なものであって、これを保障するこ とは、個人を実質的に尊重することに当たるとともに、多数 者が社会的弱者についてその立場を理解し尊重しようとする 民主主義の理念にかなうものと考えられる。
▼裁判長のすばらしい憲法13条の解釈論。敬意を表します。 特に「少数民族にとって民 族固有の文化は、その民族に属する個人にとって、 自己の人格的生存に必要な権利ともいい得る重要なもの」との理解はすばらしい。
また、このように解することは、前記B規約成立の経緯及 び同規約を受けて更にその後一層少数民族の主体的平等性を 確保し同一国家内における多数民族との共存を可能にしよう として、これを試みる国際連合はじめその他の国際社会の潮 流(甲四一ないし四人、証人相内)に合致するものといえる。
そうとすれば、原告らは、憲法一三条により、その属する 少数民族たるアイヌ民族固有の文化を享有する権利を保障さ れていると解することができる。
もっとも、このような権利といえども公共の福祉による制 限を受けることは憲法一三条自ら定めているところであるが、 その人権の性質に照らして、その制限は必要最小限度に留め られなければならないものである。
▼公共の福祉による制 限。何度も何度も公共の福祉による制限が強調される。どうも気にかかる。
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(三) アイヌ民族の先住性
B規約二七条は「少数民族」とのみ規定しているから、民族 固有の文化を享有する権利の保障を考えるについては、その民 族の先住性は要件ではないが、少数民族が、一地域に多数民族 の支配が及ぶ以前から居住して文化を有し、多数民族の支配が 及んだ後も、民族固有の文化を保持しているとき、(▼先住民族という。国連では特別な権利が認められている。)このような 少数民族の固有の文化については、多数民族の支配する地域に その支配を了承して居住するに至った少数民族の場合以上に配 慮を要することは当然であるといわなければならないし、この ことは国際的に、先住民族に対し、土地、資源及び政治等につ いての自決権であるいわゆる先住権まで認めるか否かはともか く、先住民族の文化、生活様式、伝統的儀式、慣習等を尊重す べきであるとする考え方や動きが強まっていること(甲四五、 四六、証人相内)からも明らかである。
▼この判決の後、2007年国連で 先住民族権利宣言が採択された。
(1) アイヌ民族の先住権について検討することとするが、その前提として先住民族の定義について考えたい。
そもそも「先 住民族」の概念自体統一されたものはなく(証人相内)、これ を定義づけることの相当性について疑問がないわけではない が(一口に先住民族であるとはいっても、その民族が属する国家により、その民族が現在置かれている状況、歴史的経緯 等が異なり、そうである以上共通に理解することができない ことは当然である。)本訴においては、被侵害利益であるア イヌ文化の重要性、その文化を享有する権利の保障の程度等を検討することが必要であり、そのためにはアイヌ民族の先 住性に言及することが不可避であるといわざるを得ないと考えるから、必要な限度で定義づけることとする。 証拠(甲四二、四三の二・三、四四ないし四六、証人相内) 及び弁論の全趣旨を総合して考えるに、
先住民族は、歴史 的に国家の統治が及ぶ前にその統治に取り込まれた地域に、 国家の支持母体である多数民族と異なる文化とアイデンティ テイを持つ少数民族が居住していて、その後右の多数民族の 支配をうけながらも、なお従前と連続性のある独自の文化及 びアイデンティティを喪失していない社会的集団であるとい うことができる。(▼下線は引用者)

(2) 次に、アイヌ民族が右にいう先住民族であるかどうかにつ いて、考察することとするが、アイヌ民族が文字を持たない 民族であることは前述のとおりであり、そのため右のような 先住性を証する上で役立つアイヌ民族の手による歴史文書等 がなく、アイヌ民族がアイヌ民族としての社会集団を構成し て北海道あるいは本州の北部にいつごろから定住し始めたの かは、本件全証拠によっても明らかではない。ここでは主に アイヌ民族以外の日本人(原告らの用法に従って、以下「和 人」という。)の手によって記された中世及び近世のアイヌ民 族に関する文献等を主たる証拠として右の意味での先住性を 判断することとする。
証拠(甲五、一九の一・二・三の一・四ないし六・八・一 二・一三、証人田端)及び弁論の全趣旨を総合すれば、

▼以下中世から近世の日本列島でのアイヌ民族の歴史が概括される。
鎌倉 時代の末期ころ(14世紀半ば)までには、
北海道に居住するアイヌ民族と和 人の交易商人との間で、北海道の特産品である魚類や獣類と 和人の物を物々交換する形で、北海道におけるアイヌ民族と 和人との交易による接触は始まつていたこと、

一五世紀の半ばころは、
私人の中小の豪族が函館等の道南を中心に北海道 に居住するようになっていたが、右豪族間あるいは右豪族と アイヌ民族の間で争い事等が繰り返されていたこと(たとえ ば、康正二年(西暦(以下省略)一四五六年)のコシヤマイ ンの戦い)、

一六世紀の中ころには、
松前藩の前身である蠣崎 家と松前地方のアイヌ民族との間に「夷狄の商船往還の法度」 という交易秩序の維持のための御法度が定められたが、その ころのアイヌ民族と和人との交易形態は、北海道の各地の居 住先からアイヌの人々が松前付近に出て来て、和人の商人が 本州からそこへ集まり物々交換をするというものであったこ と、

慶長九年(一六〇四年)には、
松前藩は、江戸幕府によ る幕藩体制の下に入り、同藩は、その家臣らに対し知行地と して商場(交易をする場所)を与え、アイヌ民族と交易をさ せ、それから生じる利益に関税を掛けることなどにより、藩 の財政基盤を確保していたこと、そのころは和人は北海道内 の自由通行を認められていなかつたが、アイヌ民族には許さ れていたこと、
右下の地図。拡大できます。赤い所の静内川の河口付近にシャクシャイン城跡があります。 二風谷から東南直線距離で約40q
寛文九年(一六六九年)、
和人とアイヌ民族が関係するシャクシャインの戦いが起こったこと(右の地図)、
遅くとも一 八世紀半ばころには、
和人の商人は、松前藩から近い地域に おいて、独占的に漁場を経営したり、対アイヌ交易を行った りする請負場所を設定し、その請負場所において、漁猟生産の労働カとしてアイヌ民族を使い始めたこと、
▼香港、マカオ的植民地政策のようだ。(2020.4.2)

一八世紀の終わりころには
その地域が北海道東部にまで及び、その請負場 所において、和人によるアイヌの人々の酷使が原因となって、 和人とアイヌ民族との争い事が発生していること(寛政元年 一七八九年)のクナシリ・メナシの戦い)、

幕末期には、
沙流川周辺においては山田文右衛門という和人が沙流場所 (現在の苫小牧市から静内町にかけての漁場)を請け負い、右山田はアイヌの人々の主要な働き手を厚岸等の請負場所まで 出稼ぎとして連れて行き、これを酷使していたこと、地域によっては家ぐるみで別の場所に移転させられたこと、

安政五年 (一八五八年)、
北海道(蝦夷地)の調査をしていた松浦武四 郎が二風谷地域を訪れ、同地域に居住するアイヌの人々の人 数、年齢、生活の状況などを記録していること、松前藩は和 人とアイヌの人々を完全に分離し、交易等を通じた接触に止 める政策をとったため、アイヌの人々は民族として和人とは 異なる文化、伝統を維持し得たこと、江戸幕府は、北海道の 地に対するロシア勢力の進出を危倶していたことなどから、

一八世紀後半から一九世紀半ばころまでの間、
アイヌ民族を 和人化させるためにアイヌ民族に日本語を使用させることや 米を食べさせるようにすることなどのいわゆる同化政策を何 度か打ち出したが、アイヌ民族の強い反発などから、結局、 右政策は貫徹されなかったことが認められる。

▼この裁判所の事実認定から言えることは、江戸末期まで北海道は少なくとも松前藩の領地以外はアイヌの大地だった。 今後のアイヌモシリ回復においてこの裁判の意味は大きい。(2020.4.2)
                                                トップへ戻る
右認定事実に弁論の全趣旨を総合すれば、
江戸時代に幕藩 体制下の松前藩による統治が開始される以前に、二風谷地域 をはじめ北海道には、アイヌ民族が先住していた地域が数多 く存在しており、その後も、松前藩による北海道の統治は全 域に及ぶものではなく、アイヌ民族は、幕藩体制の下で大き な政治的、経済的影響を受けつつも独自の社会生活を継続し、 文化の享有を維持しながら北海道の各地に居住していたこと が認められ、
その後、後記(四)認定のとおり、アイヌ民族に対 し採られた諸政策等により、アイヌ民族独自の文化、生活様 式等が相当程度衰退することになつたことが認められる。
しかしながら、証拠(甲四七、証人大塚)、原告らによれ ば、
現在アイヌの人々は、我が国の一般社会の中で言語面で も、文化面でも他の構成員とほとんど変わらない生活を営ん でおり、独自の言語を話せる人も極めて限られているものの、
民族としての帰属意識や民族的な誇りの下に、個々人として、 あるいはアイヌの人々の民族的権利の回復と地位向上を図る ための団体活動を通じて、アイヌ民具の収集、保存、博物館 の開設、アイヌ語の普及、アイヌ語辞典の編さん、アイヌ民 族の昔話の書物化、アイヌ文化に関する講演等を行い、アイ ヌ語や伝統文化の保持、継承に努力し、その努力が実を結ん でいることが認められる。

(3)以上認定した事実を総合すれば、
アイヌの人々は我が国の統治が及ぶ前から主として北海道において居住し、独自の文 化を形成し、またアイデンティテイを有しており、これが我 国の統治に取り込まれた後もその多数構成員の採った政策 等により、経済的、社会的に大きな打撃を受けつつも、なお独自の文化及びアイデンティティを喪失していない社会的な 集団であるということができるから、前記のとおり定義づけ た「先住民族」に該当するというべきである。 (▼下線は引用者)
▼説得力のある事実認定と「先住民族」の定義づけ。すばらしい。
▼「我国の統治に取り込まれた後も」の表現が気に入らない。明治政府によって植民地化された後、と正確に表現すべき。(2020.4.3)

国連は2007年先住民族権利宣言を採択した。
第28条にはつぎのように書かれている。
1.先住民族は、自己が伝統的に所有し、又はその他の方法で占有若しくは使用してきた土地、領域及び資源で、 その自由で事前の及び事情を了知した上での同意なしに、没収され、占拠され、使用され、又は損害を受けたものについて、 原状回復を含む方法により、それが可能でない場合には正当で公平かつ衡平な補償によって、救済を受ける権利を有する。
2.関係する民族が自由に別段の合意をしない限り、補償は、同等の質、規模及び法的地位を有する土地、領域及び資源という形態、 金銭的補償又はその他の適当な救済の形態をとらなければならない。
▼宣言28条を読むと日本政府はアイヌ民族に対して 大きな、大きな仕事をしなければならないことがはっきり見えてくる。

(四)アイヌ民族に対する諸政策
先住民族であるアイヌ民族が我が国の統治に取り込まれた後、 仮に少数であるが故に我が国の多数構成員の支配により、経済 的、社会的に大きな打撃を受け、これがため民族の文化、生活 様式、伝統的儀式等が損なわれるに至るということがあったと すれば、このような歴史的な背景も、本件の比較衡量に当たっ て斟酌されなければならない。

証拠(甲二一の三ないし六・八、証人田端、原告萱野)によ れば、

明治政府は、蝦夷地開拓を国家の興亡にかかわる重要政策と位置付けて、これに取り組み、北海道に開拓使を送ったこ と、
▼蝦夷地開拓を蝦夷地「植民地化」と読み替えること。(2020.4.3)

明治五年九月、
もともとアイヌの人々が木を伐採したり、狩猟、漁業を営んでいた土地を含めて北海道の土地を区画して 所有権が設定され、アイヌの人々にも土地が区画されたが、農 業に慣れていなかったことから、アイヌの人々が農業で自立す ることは困難であったこと、

石狩川(可拡大)
豊平川
発寒川
▼アイヌ民族は狩猟、漁業、林業が生業。農業ではない。(2020.4.3)

明治六年、
木をみだりに切ること や木の皮を剥ぐことが禁止され、また、豊平、発寒、琴似及び 篠路の川の鮭漁に関して、アイヌ民族の伝統的な漁法の一つで あるウライ網の使用(川を杭で仕切って魚が上れないようにし、 その一部分のみを開けておいてそこに網を仕掛けて採魚する漁 法)が禁止されたこと、
豊平のHP
▼豊平のHPを読むと実に無邪気なもので、自分たちがアイヌの大地への植民地主義者・侵略者であった、 との自覚が全く感じられません。(2020.4.3)

アイヌ民族の従来の風習で ある耳輪や入れ墨等が罰則を伴って禁止され、また毒矢を使う アイヌ民族の伝統的な狩猟方法が禁止されたこと、

明治一一年、
札幌郡の川における鮭鱒漁が一切禁止されたこと、
▼鮭鱒漁が一切禁止。これは酷い。なぜここまで追い詰めるのか。(2020.4.3)

明治一三年、

チセ
死者の出た家を焼いて他へ移るというアイヌの人々の風習等が罰則を伴って禁止され、更に、日本語あるいは日本の文字の教 育が施されるようになつたこと、
その後、千歳郡の河川において鮭の密猟が禁止されたり、アイヌ民族の伝統漁法の一つであるテス網による漁が禁止されたりした後、

明治三〇年には、
自家用としても鮭鱒を捕獲することが禁止されたこと、
このように魚類等の捕獲の禁止が強化されていったことや私人がアイヌの人々の開拓した土地を奪うようなことがしばしばあったこと などからアイヌの人々の生活が困窮したため、
▼自家用としても鮭鱒の捕獲禁止。なぜここまで。 明治維新後30年間、アイヌ民族絶滅策が実施されたとしか思えない。明治政府は国外では明治27年に日清戦争を起こしている。 (2020.4.3)

明治三二年
北海道旧土人保護法が制定され、農業の奨励による生活安定のため の土地給付等が図られたが、アイヌの人々に給与される土地は 法律で上限とされた五町歩をはるかに下回り、しかもその中に二割近い開墾不能地があったことなどから、アイヌの人々の生 活水準は極めて低いままであり、生活の安定を図ることはでき なかったこと、

以上の事実が認められる。

右認定事実に弁論の全趣旨を総合すれば、前記のような漁業等の禁止は、主に漁猟によって、生計を営んできたアイヌの人々 の生活を窮乏に陥れ、その生活の安定を図る目的で制定された北海道旧土人保護法も、アイヌ民族の生活自立を促すには程遠 く、また、アイヌ民族の伝統的な習慣の禁上や日本語教育などの政策は、和人と同程度の生活環境を保障しようとする趣旨が あったものの、いわゆる同化政策であり 和人文化に優位をおく一方的な価値観に基づき和人の文化をアイヌ民族に押しつけ たものであって、アイヌ民族独自の食生活、習俗、言語等に対する配慮に欠けるところがあったといわざるを得ない。これに より、 アイヌ民族独自習俗、言語等の文化が相当程度衰退す ることになったものである。
▼すばらしい認定と評価。(2020.4.4)
                                               トップへ戻る
一 争点1 について
(原告らの主張) 本件収用裁決は、憲法二九条三項に違反する。
憲法二九条三項は、私有財産は正当な保障の下にこれを公共の目 的のために用いることができると規定しているが、これは一般原則 を定めたものに止まり、憲法の他の規定は条約更には事柄の性質に 照らして、そもそも収用自体が許されない場合に収用を行うことは 憲法二九条三項に違反するというべきところ、本件収用は次のとお り同条同項に違反する。

すなわち、憲法一三条所定の個人の中には少数先住民族たるアイ ヌ民族に属する原告らが含まれることは明らかであるから、同条は 我が国政府が我が国内に共存するアイヌ民族に対しても民族の尊厳 を最大限尊重し、それを損なったり、その文化そのものやその伝承 にマイナスの影響を与えてはならない義務を負う。
▼弁護団 まず収用は憲法一三条違反と主張。(2020.4.4)

また、我が国は、国連総会が昭和四一年(1966年)に採択した「市民的及び 政治的権利に関する国際規約」(以下これを「B規約」という。)を 昭和五四年(1979年)に批准し公布しており、その二七条は「少数民族の文化 享有等の権利を否定されてはならない」と定めている。それととも に我が国は、条約法条約(いわゆるウィーン条約)を昭和五六年に 批准し、同条約は条約第一六号として公布されており、同条約二六 条には「効力を有するすべての条約は当事国を拘束し、当事国はこ れらの条約を誠実に履行しなければならない」と規定されていて、 締約国の条約遵守義務を定めている。これらの規定と憲法九八条二 項の条約遵守義務の規定とを併せ考慮すれば、我が国政府は、少数 先住民族たるアイヌ民族の権利を侵害してはならないのは勿論として、 その権利行使が不十分でないよう諸々の政策を行うことを義務づけ られているというべきである。

更に少数先住民族であるアイヌ民族は独自の言語と生活様式をも っており、沙流川流域はアイヌ文化を育てた地であり、本件の土地 収用対象地である二風谷地域はその中心地域として、チャシなどの 遺跡が残存し、チプサンケなどの伝統行事が復活し毎年行われ、三 つのチノミシリというアイヌ信仰の聖地が現存している。したがっ て、性質上金銭で補償することが到底できない土地である。

以上によれば、本件収用裁決は、憲法一三条及びB規約二七条等 に違反する違法なものであるから、そもそも収用手続の限界を超え 憲法二九条三項に違反した処分といわざるを得ない。
▼弁護団の説得力ある主張。(2020.4.4)

(原告らの主張)
(二)本件ダムにより失われる利益
アイヌ民族は、歴史的にみて主に本州から北海道に渡ってきた アイヌ民族以外の日本人(原告らの用法に従って、以下「和人」 という。)よりはるか以前に北海道に先住し独自の言語・風俗・風 習を有していた先住民族であることが明らかである。
ところが、明治に入り、明治政府は、そのアイヌの人々の土地、 言葉、宗教、習慣、食物、生活資料の取上げとアイヌ民族消滅政 策ともいうべき民族の同化政策により、アイヌ民族の民族として の存在すら否定しようとしてきたが、アイヌの人々は抑圧され差 別され窮乏化しながらも、アイヌ文化を伝承してきた。
▼「アイヌ民族消滅政策」。私が明治30年の箇所で感じたことを原告の 主張として展開されている。まさに民族抹殺政策だ。(2020.4.4)
▼金達寿著『日本の中の朝鮮文化1』(講談社文庫p34〜p36)を読んでいたら 「大磯の高麗神社は1897年の明治30年に高来神社にされている。…日本の 歴史が一貫して朝鮮というものを消し去ろうとしたことの一つあらわれ」の文章に出会った。 明治帝国主義政府のアイヌ民族、朝鮮民族蔑視の腹の底が見えた気がした。(2020.4.5)

二風谷地 域は、アイヌの人々が最も多く居住しているところであり、アイ ヌの人々の居住人口の割合が高い地域で、民族の伝統的文化がよ く保存されている地域であり、アイヌ文化の心臓部でもある。
元々文化は、目に見える形のあるもののみを指すものではなく 人の生き方人の生き様総体であり誕生から死亡までその 節々において様々な営みを行なう、その総体である。
文化というも のは、各構成要素が点で存在するのではなく、自然環境とリンク して一体となった持続性のあるものである。そして、その中には、 自然と共生するという精神文化も含まれるし、イオルという空間 領域も含まれ、また民族に特有の神話的伝承も含まれる。
▼アイヌ民族の文化を知るのに格好の教材。(2020.4.4)
二風谷地域におけるアイヌ文化の要素等を掲げると、次のとお りである。

(1)沙流川自体「サルンクル」と呼ばれる集団が多数居住してお り、オキクルミのカムイ(神)がシンタと呼ばれた「揺りかご」
に乗って降りてきて、アイヌ文化を作った場所である。

▼サルンクル(sar-un-kur un〜所 kur人)=沙流川の人。門別川の人=モペドンクル(モペツ ウンクル) 鵡川の人=ムカウンクル 静内川の人=シペチャリウンクル 新冠の人=ニカプンクル(ニカプ ウンクル) アイヌが相手を呼ぶ場合たいてい出身地を先に言うものである。サルンクル萱野茂という風に。
オキクルミカムイ=オキクルミの神。アイヌに生活文化を教えた神の名。沙流川に降臨したということでオキクルミの砦伝説などがある。 (「萱野茂のアイヌ語辞典」)
▼二風谷の聖地と言われる由縁がよくわかる。


(2)二風谷地域のアイヌの人々にとって、二風谷地域は「イオル」 空間であり、自己の民族的アイデンティティを確信できる空間 である。「出自集団」として小世界(小宇宙)を作っている。

(3)沙流川に遡上するシェぺ(鮭のこと)は、アイヌ民族の食文 化の中で最も重要なものであり、アイヌ民族は自然との共生を 考えた捕獲方式をとってきた。
▼にもかかわらず明治6年石狩川上流の豊平、発寒、琴似、篠路でのウライ網漁は禁止された。(2020.4.5)

(4)チプサンケという伝統的儀式は、これを通じてアイヌ民族の 若者がイナウ等の祭具の作り方を学び、儀式の意義と方法を学 び、その中で民族の自覚を得る重要な機会である。 なお、アイヌの人々は、チプサンケに限らず、季節や生活、 人生の節目にカイムノミという儀式を行い、この儀式に参加す ることで民族的自覚も芽生える。
(5)二風谷地域にはチノミシリという心の拠り所として、汚したり、 傷めたり、地形を変えたりしてはならない場所が三箇所ある。 アイヌの人々は、日常の中でチノミシリを意識しながら生活し ている。
▼「二風谷では熊の姿岩のチノミシリ、カンカン向かいのチノミシリ、オケネウシのチノミシリ、 3か所あってそこへ神のお告げが聞こえたら村人全員が気をつけるものだ。」(「菅野茂のアイヌ語辞典」)
(6)二風谷地域は、民族に特有の神話であるユ−カラ伝承の地で ある。
(7)アイヌの人々は一つ一つの地形を大事にしている。一つ一つ の地形が小さい川であれ、小さい湧き水であれ、文化伝承の場 所とされている。 本件水没地の沙流川右岸には、アイヌ語の地名が二三箇所も 付けられており、その一つ一つにアイヌの人々はカムイ(神) の存在を認め、水を汲む場所、山菜の採れる場所各々において カムイと対話している。

                                               トップへ戻る
以上述べたいくつかの要素等が総体としてアイヌ文化を形成 しているのである。
このように、二風谷地域は、アイヌ民族の歴史、伝説等に照 らし、高度の文化的価値を有する地域であり、その景観的、風 致的、宗教的、歴史的諸価値は、将来にわたり、長くその維持、 保存が図られるべきものである。

本件ダムが建設されると、ア イヌ民族の尊厳が否定されるばかりでなく、それまでの二風谷 地域の環境が損なわれ、土地の地形は著しく変更され、チャシ の遺跡、神聖なチノミシリは破壊され、チプサンケの場所も水 没させられ、また、上流への鮭の遡上は不可能となる。
参加人(国)は、前述したとおり、明治政府成立以来、先住民族であるアイ ヌ民族の土地、言葉、宗教、習慣、食物、生活資料を取り上げ てきたのであり、更に、本件事業認定において、右のような二 風谷地域におけるアイヌ文化の存在そのものを無視したのであ り、アイヌ民族の尊厳は、本件ダム建設により蹂躙されている のである。

仮に、事業認定の目的に沿うダムを建設する必要性があると したとしても、これをアイヌ文化の心臓部である二風谷地域に 建設しなければならない合理的必要性はない。
▼「アイヌ文化の心臓部である二風谷地域」。この叫びを国はどう受け止めているのか。(2020.4.5)

実際に、参加人は、本件事業計画を立案するに際し、本件二風谷地域にダムを 建設する案の外、その上流あるいは下流に建設する計画案を検 討し、結局、コンクリ−トの体積が最も少なく、経済的である という理由により、中流案である二風谷地域を選択しているので あるが、前述のような文化的価値の保全を重視するなら、いか ほどの費用を要するにせよ、 他の土地を選択するべきであった。 (▼因みにダム工事費をダム管理所に問い合わせたら約520億円ということだった。)

比較衡量の結果 土地収用法二〇条三号所定の「事業計画が土地の適正かつ合理 的な利用に寄与するものであること」という要件は、その土地が その事業の用に供されることによって得られるべき公共の利益と、 その土地がその事業の用に供されることによって失われる利益と を比較衡量した結果、前者が後者に優越すると認められる場合に 存在するものであると解されるところ、本件においては前者の公 共の利益は前述したとおり乏しいといわざるを得ない一方、後者 の利益は、世界の先住民の自主的権利尊重の潮流の下で正当に解 釈されるべき憲法一三条、B規約二七条に基づく少数先住民族た るアイヌ民族の何物にも代え難い民族的価値である自己の文化を 享有する権利に属するものであって、このことは、争点1の原告 ら主張において既に述べたとおりである。
▼そのとおり。(2020.4.5)

そうであるとすれば、本件の認定庁たる建設大臣は、本件事業 計画の策定から、事業認定の申請、そして事業認定に至るまでの 間に、不当に軽視してはならずむしろ本来最も重視されるべきア イヌ民族の尊厳や文化的価値を鋭意調査すべきであったところ、 次に述べるとおり、本件において二風谷地域にダムを建設するこ とが持つアイヌ民族に対する民族的影響や文化的影響が考慮され た事実はないのである(文化財保護法に基づく埋蔵文化財として のチャシの調査を行ったのみであるが、この手続は法律上当然行 うべき手続であり、格別アイヌ文化とは関係がない。)。

以上からすれば、本件事業計画は土地収用法二〇条三号所定の 前記要件を満たすものとは到底いえず、本件事業認定とこれを前 提とした本件収用裁決は違法なものであり、取り消されるべきで ある。

本件事業認定が違法であり、その違法は本件収用裁決に承継されるから、
▼あれあれ、ここからがおかしい!(2020.4.5)

本来であれば本件収用裁決を取り消すことも考えら れるが、既に本件ダム本体が完成し、湛水している現状においては、本 件収用裁決を取り消すことにより公の利益に著しい障害を生じる。
▼これはないでしょう、裁判長!これでは違法をやって 先に事実を作った者が大手振って歩くことになるでしょう。法治国家で許されるのですか。(2020.4.5)

他方、チヤシについて一定限度での保存が図られたり、チプサンケについて代 替場所の検討がなされる等、不十分ながらもアイヌ文化への配慮がなさ れていることなどを考慮すると、本件収用裁決を取り消すことは公共の 福祉に適合しないと認められる。
▼違いますね。(2020.4.5)

よって、本件収用裁決は違法であるが、行政事件訴訟法三一条一項を 適用して、原告らの本訴訟をいずれも棄却するとともに本件収用裁決が 違法であることを宣言することとする。

▼裁判長は法律家として最大限の論理と誠意で原告の主張を吟味して、 国の事業認定を違法、との正しい結論を導きながら、最後の最後で「ダム本体が完成し、湛水している現状」では収用裁決を 取り消すことは「公共の福祉」に適合しないと、とんでもない判断をしてしまっている。
物事の判断というのは、知性よりも、論理よりも、すぐれて人間としての勇気・胆力の問題である。肝心のところで筋を曲げては 人間として尊敬されない。残念である。
この事件の結論はダムを壊し、二風谷に元の景色と生活を回復させることである。 日本人としてアイヌの人たちへの償いと責任である。わたしはそう考える。例えば伊勢神宮がダムで水没してしまう! 多くの日本人はどう思うか。そのような想像をはたらかせてほしい。(2018年7月6日)

▼次の年表を見てほしい。判決が出た1997年はどのような時代であったか。
1989年 H1
スイス・ジュネーブでのILO総会は、過去の同化促進を否定し、先住民族の固有性、社会的、 経済的文化的発展のためILO・107号条約から、ILO・169号条約に改正。
日本政府は、内閣内政審議室を中心に10省庁からなる「アイヌ新法問題検討委員会」を設置
1990年 H2
国連総会は1993年を「世界の先住民のための国際年(略称 国際先住民年 )」とすることを採択。
1991年 H3
国連先住民作業部会エリカ・イレーヌ・ダイス議長一行、アイヌ民族の地位を視察。シンポジウムが東京と札幌で開催された。
1992年 H4
ニューヨーク国連本部総会会議場で行われた国際先住民年(▼コロンブスから500年) の開幕式典に世界の先住民族から18人、2 団体が招待され、 理事長野村義一がアイヌ民族を代表して記念演説
1993年 H5
グァテマラ先住民リゴベルタ・メンチュウ・トゥム(1992年ノーベル平和賞受賞者、国際先住民年国連親善大使) を北海道に招待、アイヌ代表と交流 国際先住民年を記念して様々な催物が日本国中で開催され、アイヌ民族の理解促進が図られる契機となった。
国連は、1994年12月10日から「世界の先住民の国際10年」の開始を決議
1994年 H6
国連は、「国際先住民の10年」の間、毎年8月9日を「国際先住民の日」として祝うことを決議
1995年 H7
連合政権(自由民主党、日本社会党、新党さきがけ)に、アイヌ新法検討プロジェクトチームを設置
「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」(内閣官房長官の私的諮問機関/座長伊藤正巳)設置
1996年 H8
「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」の報告書提出
▼このような動向から見ると「先住民族」を認めた意義はとても大きいが 「公共の福祉」に引きずられた判決と言わざるを得ない。(2018年7月6日)
▼私は今このつづきの裁判を準備しています。(2020.4.5)

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アイヌ民族史年表                                    2018・07・21
                                        北海道アイヌ協会・阿部 ユポ
この「アイヌ民族史年表」は北海道アイヌ協会副理事長の阿部 ユポさんが、北海道の大地の形成から現代まで、 アイヌ民族がどのようにアイヌモシリで生きてきたかを年表の形で纏められたものです。
この年表を2か月間、読んで、勉強して私が強く感じたことは、アイヌ民族の戦いの記録であるということです。 そしてアイヌ民族がこれからどのように生きていくべきかということのユポさんの活動家としての強い思いでもあります。 私は深く共感しながら勉強させていただきました。
この記録は、恥ずかしながら私も含めて普通の日本人にとって常識になっていない歴史でもあります。 多くの分からないところは主にWikipediaのお世話になりました。▼の印の所は私が調べて補足したものです。 ユポさんの意図をできるだけ読み取り、理解するために出典を確認し、出典のないものは調べて入れておきました。

年表のすべてを追っていくことはかなり根気のいる作業ですので、是非とも読んでいただきたい箇所を以下に挙げておきます。 ユポさんの思いが一人でも多くの日本人の常識になることを願っています。(2018年10月4日)
1789年 「クナシリ・メナシの戦い」
1893年(M26)第五回帝国議会「北海道土人保護法」提案  加藤政之助
1923年(T12)知里幸恵「アイヌ神謡集」
1931年(S6)バチラー八重子「若き同族(ウタリ)に」
1946年(S21)「アイヌ民族甦生援護ニ関スル歎願書」
1984年(S59)北海道ウタリ協会、総会で「アイヌ民族に関する法律(案)」を決議
1989年(H元)「ILO169号条約」(Convention concerning Indigenous and Tribal Peoples in Independent Countries独立国における原住民及び種族民に関する条約) 成立。全文本HP「国連基準」の頁に掲載。
1997年(H9)CERD第51会期・「先住民の権利に関する一般的勧告XXV」決議 (全文本HP「国連基準」に掲載)
二風谷ダム判決
2007年(H19)国連総会(第61会期)「先住民族の権利に関する国際連合宣言」採択 (9月13日)。全文本HP「国連基準」に掲載。
2008年(H20)2月13日 豪政府、アボリジニに公式謝罪
6月6日、衆参両議院本会議にて「アイヌ民族を先住民族とすることを求める国会決議」全会一致で採択
7月1日、国会決議を受け、政府・首相官邸内に「アイヌ政策の在り方に関する有識者懇談会」設置、(委員8名中、アイヌ委員1名) 第2回加藤理事長発言要旨
 〃 (H20)「国連「先住民族宣言」とアイヌ民族」と題する 阿部一司(ユポ)さんの講演
2014年(H26)国連総会での世界先住民族会議(9月22日)成果文書採択。 成果文書本HP「国連基準」に掲載。

(2019.1.14ユポさんの確認が得られましたので順次年表を掲載いたします。アイヌ民族の頁、本日2019.1.31一応完成しました。これから細部に手を入れます。)

                                                  トップへ戻る
北海道の誕生(アイヌモシリ・蝦夷地)
 ・銀河系宇宙空間に地球が誕生したのは40数億年前
 ・北海道の生成は、1500万年前(北米プレートとユーラシアプレートの衝突)
 ・さらに北海道の原形は、1000万年前
 ・旧石器時代
 ・3万年前、日本列島は大陸と陸続き、マンモスハンター渡って来る(ウルム氷河期=襟裳岬、夕張、上士幌(かみしほろ)、
  千歳、遺跡)
 ・北海道が島になる
 ・日本列島に土器があらわれる
 ・1万年前、日本列島.縄文文化時代(縄文人)、古代人の往来、交易 (大量の遺物.遺跡=千歳キウス.丸子山.有珠遺
  跡)
 ・北海道に石刃鏃.土器があらわれる
 ・続縄文文化時代(続縄文人=アイヌ)(恵山文化.江別文化.東北地方までの拡がり)
 ・擦文文化時代、(擦文人=アイヌ.オホーツク文化=ギリヤーク.土師器文化.鉄器) 
*「アイヌの文化や社会は、考古学の研究成果を踏まえると、遅くとも日本の古代に相当する時期 ≪旧石器.縄文.擦文≫から周辺の諸民族との接触・交易を媒介にして大きな変容を遂げてきている (北東アジア.東南アジア.サハリン.クリール.カムチャッカ.アリューシャン.日本)」
   「日本人の起源」洋泉社
▼左の時代区分表を見てください。日本本土の縄文時代までは沖縄も北海道も共通です。本土は弥生・古墳・飛鳥・奈良と展開していきますが、 北海道は縄文の次に続縄文擦文時代を経てアイヌ文化期に展開していきます。アイヌ文化期は本土の鎌倉時代に成立しています。

▼続擦文時代にオホーツク文化につづきトビニタイ文化が並行して展開しています。 左の時代区分表はそのことが分かり易く図示されています。作図は篠田謙一さんです。(「日本人の起源」27頁洋泉社 2018.7.5)

▼続縄文文化とは(Wikipediaはwp と略) wp:本州の住民が水稲栽培を取り入れて弥生時代に移行したときに、気候的条件からか水田を作らず、 縄文時代の生活様式を継承した人々が営んだ文化が続縄文文化である。本州が弥生・古墳文化に移行するときまで 本州と北海道の住民は同じ縄文文化を共有していたが、ここで道が分かれることになった。

▼榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館16頁から。
「続縄文文化期の土器文様に、近世アイヌ文化に特有なアイヌ文様に類似した文様形式が認められ、 かつそれにつづく擦文文化は、集落のありかたや出土遺物のありかたなどから、アイヌ社会への連続性が非常に強いものといわれている。」


▼(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館16〜17頁)
擦文文化とは一般的には7・8世紀〜12・13世紀に展開したものとみられている。
主な文化圏は現在の青森県北部から北海道にいたる地域である。
擦文文化の物質的特徴は、土器に付された文様が「縄文」ではなく、幾何学的な「擦痕(さつこん)」の文様を付した「擦文土器」である。
この土器は東北地方の土師器の影響を強く受けて成立したものとされている。
同文化の晩期には金属製品が続縄文文化期よりも遥かに多くなる。 これは日本社会との交易を従来以上に活発に行うようになったことを示している。
▼擦文文化のキーワード: アイヌ社会への連続性・ 文化圏は青森県北部から北海道にいたる地域・ 東北地方の土師器の影響(2020.4.10)
(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館33頁)
オホーツク文化
「アイヌ民族:歴史と現在」7頁
2020.7.11朝日新聞夕刊
北構保男(きたかまえ やすお)さん。海獣の狩猟と漁撈を営むオホーツク人がつくったオホーツク文化の解明者

オホーツク文化とは3、4世紀から12、13世紀にかけてサハリンから北海道のオホーツク海沿岸地域およびクリール諸島(千島列島)の南部地域 (主にクナシリ島とエトロフ島等)にかけて展開した文化で、大陸文化との関係が非常に強い文化とされている。 オホーツク文化は擦文文化とは全く異なる文化なのである。この文化を担った人々は一体いかなる人々だったのだろうか。 筆者はギリヤーク説が妥当だと考えている。
(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館33〜35頁)
トビニタイ文化とは北海道の東部地域を舞台にオホーツク文化と擦文文化が「融合」し、9、10〜12世紀ころ 「トビニタイ文化」という独特の文化が形成された。 その担い手は基本的には擦文文化期のアイヌであったとみることが可能であろう。
この「トビニタイ文化」が非常に興味深いです。アイヌとギリヤークの民族的融合でしょう。 DNAでもそれが篠田謙一さんによって解明されてつつあります。
                                                  トップへ戻る
ユポさんの年表に戻ります。
BC(before christ)
300年・・・・・本州は弥生時代へ(〜AD200)/北海道は続縄文時代へ(続縄文アイヌ) ↓
AD(Anno Domini) ↓
3C後半〜7C末……本州は古墳時代/北海道は続縄文時代(5〜7C東北地方北部も)            
7C末から13C末……本州は奈良・平安・鎌倉時代 *北海道は擦文時代(擦文アイヌ) 交易の時代=サハリン・大陸・クリール・カムチャッカ・日本
▼(榎森進『アイヌ民族の歴史』17頁)
須恵器
「アイヌ民族:歴史と現在」8頁

「擦文文化を担った人々(アイヌ)は、日本社会との交易を従来以上に活発に行うようになったことは須恵器、 能登の珠洲焼、金属製品の使用から窺がえる。」
▼(榎森進『アイヌ民族の歴史』65頁)
「擦文文化期のアイヌは、12世紀以降次第に、「交易の民」へと大きな変容をとげてきていたのである。」
▼大変興味深い文章に出会いました。(榎森進『アイヌ民族の歴史』35〜36頁)
「オホーツク文化と擦文文化の関係のあり方を解釈するうえで注目しておきたい問題は、 アイヌ民族の代表的な口承文芸である「アイヌユーカリ」の内容である。「アイヌユーカリ」は一般に「英雄叙事詩」と称されているが、 注目しておきたいことは、この英雄叙事詩の基本モチーフは、ヤウン・クル(内陸の人)とレプウン・クル(沖の人)の戦いとして描写されていること、 ヤウン・クルはアイヌ、レプウン・クルはオホーツク人つまりギリヤークに比定されるのでヤウン・クルとレプウン・クルの戦いは、 擦文文化期のアイヌとギリヤークとの戦いを謳ったものとみられることである。」
なぜか私は日本の万葉集の歌たちを思い浮かべていました。
▼wp :トビニタイ文化とは、北海道の道東地域およびクナシリ付近に存在した文化様式の名称である。 1960年に東京大学の調査隊が羅臼町飛仁帯(とびにたい)で発見した出土物が名称の由来。
12C〜  本州は鎌倉・室町・安土桃山時代
13C〜  北海道は第1期アイヌ文化形成期に入る アイヌ民族交易の時代、日本・サハリン・大陸・クリール・カムチャッカ
▼この交易の時代が、アイヌ民族が一番輝いていた時代であったようにおもわれます。(2018.10.30メモ)

▼(榎森進『アイヌ民族の歴史』96頁)
「13世紀後半から14世紀を画期に擦文文化が急激な変容をとげ、その結果「アイヌ」文化と「アイヌ民族」が形成されるに至った。 その最も大きな要因は、日本社会との「交易」の急速な発展にあった。」

▼下の年表。アイヌ文化の位置づけが色ではっきり理解できます。和人文化もせいぜい鎌倉時代から 少し入ってきたことが目で確認できます。
年表(6頁)









『アイヌ民族:歴史と現在―未来を共に生きるために―』表紙の地図『北海道国郡図』松浦武四郎(第9版2018.8公益財団法人アイヌ民族文化財団)

13C〜  道南に和人の移住
▼和人が北海道の渡島に移住を始めたのはやっとこの時期。しかも流刑地として。
ここまでは、ユポさんは大きくアイヌの文化を概括され、以後文献に基づきアイヌ関連の記録を追っていかれます。 まず720年に成立した『日本書紀』の、西暦95年の武内宿禰「東方諸国視察」からです。
▼注意:『日本書紀』の性格付けについて『新版日本文化と朝鮮』(李進熙)に次の指摘があります。
「きびしい資料批判なしに『日本書紀』の朝鮮関係記述を使うわけにはいかないが、 八世紀において、できあがったばかりの律令体制を維持・強化するためには、内にあっては 天皇を「神国の聖王」とし、万世一系の「皇統」をつくり出さねばならなかった。いっぽう、 「夷狄」と「藩屏(はんべい)国」を設定 する必要がある。720年に完成した『日本書紀』は、こうした政治的要求を満たす目的で編纂されたのであった。
「小 中華思想」にもとづく政治書であるために、実際とは関係なしに統一新羅を「藩屏国」だとし、 朝鮮三国が古くから「朝貢」をつづけてきたかのように 修飾した。そしてまた、渡来人を「天皇」の徳化に帰附(きふ)したとして、 「帰化人」にしてしまうのであった。」(85頁)

▼ここで指摘されている「小 中華思想」にもとづいて蝦夷が「夷狄」とされます。
▼現在、佐々克明著「天皇家はどこから来たか」二見書房(昭和51年7月15日4版)を読んでいます。「日本書紀」と「古事記」の謎に迫っています。私たち 日本人が朝鮮半島との関係を抜本的に見直しする必要のある問題提起の著書です。(2020.4.19)
95年 (景行天皇25年7月3日条)「武内宿禰を遣わし北陸、東方諸国視察させる」
(景行天皇27年2月12日条)
「東夷(あずまのひな)の中、日高見国(ひたかみのくに)あり、其国人男女並に椎結(かみわけ)身を文(もどろ)げて、 人となり勇悍(いさみたけし)、是を総て蝦夷(えみし)という。土地沃壌(くにこ)えて廣し。撃ちて取りつべし。」 (『日本書紀』上・297頁日本古典文学大系・岩波書店)
▼wp:第12代景行天皇紀25年7月3日条、同27年2月12日条 武内宿禰は北陸及び東方に派遣され、地形と百姓の様子を視察した。 帰国すると、蝦夷を討つよう景行天皇に進言した。
▼次に倭建命、「蝦夷征伐」の記述に入ります。
110年 (景行天皇40年7月条) wpでは景行天皇40年は西暦110年となっている。
▼『日本書紀』上・302頁の注記・補注には
「以下の蝦夷の習俗・性質に関する記載は、漢籍に夷蛮の習俗として 記すものをそのまま採ったもので、実態を示すものとみるのは疑問。ここは蝦夷に関する初めて出るところなので、日本書紀の編者は後の 記事への導入としてとくに入念な紹介を行おうとしたのであろう。」
とあります。編者たちは漢籍に通じていて時の支配者の意向に沿うように「忖度」して筆を進めたのでしょう。 (2020.4.6)


「東夷の中に、『蝦夷』是れ尤(はなは)だ強(こわ)し。
男女交居りて父子別(かぞこ わきだめ)なし。冬は則ち穴に宿(ね)、夏は則ち巣に住む。毛を衣(しき)、 血を飲みて兄弟(このかみ おとと)相疑う。
山に登ること飛禽(とぶとり)の如く、草を行(はし)ること走(にぐる)獣(けもの)の如し。
恩(めぐみ)を承けては則ち忘れ、怨(あだ)を見ては必ず報ゆ。
是を以って、箭(や)を頭髻(たきふさ)に蔵(かく)し、刀(たち)を衣の中に佩(は)けり。
或は党類(ともがら)を聚(あつ)めて辺界(ほとり)を犯し、或は農桑(なりはひのとき)を伺い以って 人民(おおみたから)を略(かす)む。撃てば則ち草に隠れ、追えば則ち山に入る。故(か)れ往古以来 未だ王化(みおもぶけ=教化服従) に染(したが)わず。」

「願わくば深く謀り(良くない事をたくらむ事)遠く慮(はか)りて、姦(かだま)しき(心がねじけている)を探り、 変(そむ)くを伺いて、示すに威(いきおい)を以ってし、壊(なつ)くるに徳(うつくしび)を以ってして、 兵甲(つわもの)を煩さずして自らに臣隷(まうしたが)わしめよ。
即ち言(こと)を巧みて暴神(あらぶるかみ)を調(ととのえ)え、武(たけきこと)を振いて姦しき鬼を攘(はら)え。」 (『日本書紀』上・302頁日本古典文学大系・岩波書店)
▼『日本書紀』は随分勝手な書き方をしています。ヤマトによる征服、侵略。アイヌ民族から見れば抵抗の歴史はこの時代から始まっている? 
367年 *「大和朝廷」成立 
▼367年は『日本書紀』の神功皇后47年に当たります。なお最近読んでいます 『新版日本文化と朝鮮』(李進熙NHKブックス1995.3.24発行)によれば
「私の問題提起をきっかけに好太王碑文を根本史料にして日朝関係史や日本古代史を構築してきたことへの反省が高まり、 古代国家成立の諸条件を検討し直す作業がはじまった。そうして、その成立の時期を6世紀後半にさげるのが今や学会の常識となった。」(50頁)
とあります。『日本書紀』の記述を200年くらいずらす必要があるということ。(2019.2.24)
538年  仏教伝来
607年  憲法17条制定
▼この頃から朝鮮半島の百済・新羅の渡来人による、唐に倣った中央集権律令制の日本の国家作りが始まる。この国の形が1200年以上幕末までつづく。 明治維新によって西欧の先端文化を取り入れ、西欧人の手引で帝国主義国家作りに邁進し、太平洋戦争の敗戦で終結する。 戦後アメリカGHQによる国連平和主義国家の建設に着手するが東西冷戦でアメリカ主導の軌道修正をしながら今日に至る。 こうして日本の国作りを俯瞰してみると、いづれも当時の世界の潮流を受け止めながら渡来人、西欧人、GHQの人たちに頼った 国作りをしてきたといえる。私見ですが。
▼昨日上記私見をメモしておきましたら今朝の朝刊(2019.2.16朝日新聞)で次のような記事に出会いました「政治季評」のコラムです。
「フランスの思想家ルソーによれば、古代ギリシャの諸国には、国の重要な法を外国人が作る習慣が存在したという。国に制度を与える「立法者」は、国内に利害関係をもつべきではない という考えからだ。…ただ、ルソーは「立法者」に高い知性を求める。この観点からすると、日本がGHQの優秀な人材を憲法の起草者に得たことは 、幸運であった。彼らは教養と専門知識を持ち、アメリカ合衆国憲法という世界で最も成功した成文憲法を、これが基づいた古代ギリシャ以来の統治 をめぐる議論とともに継承した人々であった。」(豊永郁子 早稲田大学教授)
630年  遣唐使
645年  大化の改新
646年  「戸籍」・人別台帳の作成、納税台帳としての戸籍
658年  第1次「蝦夷」征討、阿倍比羅夫(斉明天皇4年)『日本書紀』
▼wp:阿倍比羅夫が蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷(おが)を渟代(ぬしろ)・津軽二郡の郡領(こほりのみやつこ)に定め、有馬浜(ありまのはま)で渡島(わたりのしま)の蝦夷を饗応。
▼wp:恩荷(おが/おんが)は、飛鳥時代に秋田地方にいた蝦夷の人物。 現在の秋田市周辺の蝦夷の長であった。斉明天皇4年(658年)に阿倍比羅夫の水軍を齶田(秋田)で迎え、 朝廷への服属を誓い、小乙上の冠位を与えられた。
▼渡島:海を渡ったかなたの辺境という意味。(『日本書紀』下・331頁頭注・日本古典文学大系・岩波書店)
659年  遣唐使、道奥(みちのおく)の「蝦夷」男女2人を連れ、唐の天子に謁する。(斉明天皇5年)『日本書紀』
(天子)「これ等の蝦夷の国は何れの方にあるぞや」
    「『蝦夷』の国は、東北(うしとらのかた)にあり」
(天子)「蝦夷は幾種(いくくさ)ぞや」 
    「類(たぐい)3種(みくさ)あり。遠き者をば都加留(つがる)と名(なづ)け、次の者
     をば麁(あら)『蝦夷』(えみし)と名け、近き者をば熟『蝦夷』(にぎえみし)と名
     く」
(天子)「その国に五穀(いつつのたなつもの)ありや」
    「無し。肉(しし)を食ひて、存活(わたら)ふ」
(天子)「国に屋舎(やかず)ありや」
    「無し。深山(みやま)の中にして、樹(こ)の本(もと)に止住(す)む」
               (『日本書紀』下・339〜340頁日本古典文学大系・岩波書店)
▼「類(たぐい)3種あり」は、のちの「日ノ本・唐子・渡島、此三類」と繋がるようにおもえる。
                                            トップへ戻る
660年  阿倍比羅夫、北征・「沈黙交易」(粛慎・みしはせのくに)
▼wp:沈黙交易についての日本の最古の記録としては、『日本書紀』の斉明天皇6年3月の条における阿倍比羅夫が粛慎と戦う前に行なった行為があげられる。
▼「沈黙交易」にまでユポさんの関心が及んでいることに驚かされます。
712年  『古事記』(現存する日本最古の歴史書、全3巻・712年)
720年  『日本書紀』(?〜697を記す、全30巻、六国史の一)
     「征夷将軍」(日本型華夷思想)「征夷」とは「夷を征討する」の意味
     「東夷(とうい)」「西戎(せいじゅう)」「南蛮(なんばん)」「北狄(ほくてき)」
      中華思想(華夷思想)の「四夷」。 西戎 ― 華 ― 東夷
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』12〜13頁
「古代の中央貴族が都から遠く離れた北越や奥羽地方に住む人を「エミシ」「エビス」と呼び、 「毛人」「夷」「蝦夷」「狄」をあてた。「エミシ」は、「あらぶる者」「まつろわぬ人」敵対者の意味。」
・「安倍氏」(「六箇郡の司」・「東夷の酋長」)六箇郡とは胆沢郡・江刺郡・和賀郡・稗貫郡・斯波郡・岩手郡。
・「清原氏」(「出羽山北(せんぽく)三郡の俘囚(ふしゅう)主」)山北三郡とは雄勝郡・平鹿郡・山本郡。
▼「郡を建てるということは、そこに郡司を置き、律令制国家の内国なみの支配をおよぼすということを意味している。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』25頁)
▼wp:征夷大将軍は、朝廷の令外官(りょうげのかん)の一つ。令外官とは、律令の令制に規定のない新設の官職。現実的な政治課題に対して、 既存の律令制・官制にとらわれず、柔軟かつ即応的な対応を行うために8世紀末の桓武期の改革の際に多くの令外官が置かれた。 
征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つで、太平洋側から進む軍を率いた。これとは別に、日本海側を進む軍を率いる将軍は征狄将軍(鎮狄将軍)、九州へ向かう軍隊を率いる将軍は征西将軍(鎮西将軍)という。これは、「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ中華思想の「四夷」を当て嵌めたためとされている。
724年  陸奥(みちのおく)「蝦夷」、大規模蜂起
▼通常の年表では「蝦夷反乱する」となっている。ユポさんはアイヌ民族の立場から「蜂起」または「戦い」と表現される。大事なこと。
725年  陸奥の俘囚(服属蝦夷)144人を伊予へ配し、578人を筑紫に配す 
▼wp:俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。 日本の領土拡大によって俘囚となったもの、捕虜となって国内に移配されたものの二種の起源がある。
774~811年  陸奥「蝦夷」蜂起、(38年戦争)
                                      青森・秋田・岩手のアイヌ語地名(可拡大)
▼wp:宝亀5年(774年)には按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、 弘仁2年(811年)まで特に三十八年戦争とも呼ばれる蝦夷征討の時代となる。
▼「蝦夷」の抵抗の歴史はこのあと1789年のクナシリ・メナシの戦いまで1000年つづく。 すごい歴史だ。このことをしっかり記憶に留めたい。
▼右の地図にはアイヌ語の地名が残る場所が赤点で示されている。(「アイヌ民族:歴史と現在」9頁) 陸奥「蝦夷」蜂起とはアイヌ民族の抵抗を物語っている。(2020.4.7)







780年(宝亀11年) 陸奥出羽の俘囚・アザマロ蜂起
▼wp:宝亀の乱(ほうきのらん)とは奈良時代の日本の東北地方で起きた反乱。宝亀11年(780年)、 陸奥国の一部地域(のちに陸前国、宮城県などと呼ばれる地域)にて、大和朝廷(ヤマト政権、中央政権)に対し、 俘囚の指導者が軍を率いて起こしたもので、首謀者の名を採って伊治呰麻呂の乱 (これはりの・あざまろのらん、これはるの・あざまろのらん)とも呼ばれる。
789年(延暦8年)「蝦夷」(えみし)の首長、大墓公阿弖流為(たものきみアテルイ)、 胆沢(いざわ)に侵攻した「征夷軍」を破る
▼wp:アテルイについて。陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)へと侵出した 紀古佐美(きのこさみ)率いる朝廷軍を巣伏の戦いで撃退したが、続く大伴弟麻呂率いる朝廷軍、 坂上田村麻呂率いる朝廷軍にたて続けて敗北。のち自ら降伏し、田村麻呂も助命を嘆願するが、京の公卿達の反対により河内国で処刑された。
▼坂上田村麻呂について。大和に住んだ百済系の漢人たちは東漢(やまとのあや)であって、その宗家的地位にあった坂上家は多くの武将を出した。 征夷大将軍の坂上田村麻呂はその子孫。(『新版日本文化と朝鮮』李進熙55頁より)
792年  第2次・「蝦夷」征討
794年「征『夷』大将軍」 @大伴弟麻呂
797年「征『夷』大将軍」 A坂上田村麻呂  『続日本紀』(797年、全40巻・697〜791年を記す、六国史の二) 
801年(延暦20)第3次「蝦夷」征討・坂上田村麻呂・上渡嶋狄(エミシ)
(この後、平氏政権と織豊政権は「征『夷』大将軍」に任じられず)
▼wp:坂上田村麻呂が征夷大将軍として遠征。
802年  アテルイ、モレ(盤具公母礼・いわぐのきみモレ)処刑
▼wp:母礼(母禮) 802年9月17日、河内国で処刑された蝦夷の指導者の一人と見られている人物。
811年(弘仁2)文屋綿麻呂蝦夷征伐終了を奏上。
▼ユポさんの年表にはありませんが38年戦争の一つの区切りとして 挿入しました。
▼wp:閏12月11日、蝦夷を全滅させたことにより、兵士配備の縮小、百姓に対する徴兵の廃止・4年間の課税免除を上奏し、許される。
▼平安時代は貴族社会で軍事力行使のイメージはなかったが、「蝦夷征伐」の歴史を勉強してとんでもない間違いであったことが分かった。
840年  『日本後紀』(全40巻・792〜833年を記す、六国史の三)
▼六国史とは次の一〜六の歴史書のこと。
▼wp:六国史の一 720年『日本書紀』、 六国史のニ 797年『続日本書紀』、  六国史の三 840年『日本後紀』、 六国史の四 869年『続日本後紀』、 六国史の五 879年『日本文徳天皇実録』、 六国史の六 901年『日本三代実録』
869年  『続日本後紀』(全20巻、833〜850年を記す、六国史の四)
878年(元慶2年) 出羽の「蝦夷」蜂起、秋田城を焼く(元慶の乱)・(『日本三代実録』)
▼wp:元慶の乱(がんぎょうのらん)は平安時代に起きた夷俘 (蝦夷)の反乱である。 元慶年間の初頭、干ばつにより全国的に飢饉に襲われ、各地で不動倉が開かれ、賑給※が実施された。

(wp:賑給(しんごう/しんきゅう)とは、賑恤(しんじゅつ)とも呼ばれ、律令制において 高齢者や病人、困窮者、その他鰥寡孤独[1](身寄りのない人々)に対して国家が稲穀や塩などの 食料品や布や綿などの衣料品を支給する福祉制度、あるいは支給する行為そのものを指す。)

直接記録に残ってはいないが、東北地方も例外ではなかったと考えられている。それに秋田城司による年来の苛政が重なり、夷俘の不満は頂点に達した。
元慶2年(878年)3月、夷俘が蜂起して秋田城を急襲、秋田城司介良岑近は防戦しかねて逃亡した。 夷俘は周辺に火を放ち、出羽守藤原興世も逃亡してしまう。津軽・渡嶋の蝦夷も蜂起した蝦夷を支援する。
朝廷は左中弁藤原保則を出羽権守に任じて討伐にあたらせることとした。保則は文室有房、上野国押領使南淵秋郷に命じて 上野国兵600人と俘囚300人をもって夷俘に備えさせた。
これら軍事的措置をすませたうえで、朝廷の不動穀を賑給して懐柔にあたった。この寛大な政策をおこなって苛政によって逃亡した夷俘の還住を促すことこそ上策であると朝廷に意見した。朝廷はこの意見を容れて3月、征夷の軍を解いた。 藤原保則は武力によらず寛政によって反乱の鎮撫に成功した一方、夷俘は降伏したが朝廷による苛政をくつがえし、 力を示したことで一定の成功を収めたと考えられる。
▼811年に38年戦争が終わって60数年後の878年にまた大きな戦いが起きている。

879年  『日本文徳天皇実録』(全10巻、850年〜858年を記す、六国史の五)
901年  『日本三代実録』(全50巻、858年〜887年を記す、六国史の六)
947年   狄(エミシ)坂丸一党、鎮守府使者殺害(『日本紀略』)
▼鎮守府使者殺害。大変なことだっただろう。878年から60数年後。
1062年  前九年合戦、安倍氏滅びる
wp:陸奥国の土着で、有力豪族の安倍氏は、陸奥国の奥六郡 (岩手県北上川流域)に柵(城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していた。 陸奥(むつ)の安倍頼時(頼良)が陸奥(むつ)の奥六郡(おくろくぐん)を領しながら, 賦貢・徭役(ようえき)を納めなかったので、1051年朝廷は源頼義・義家父子を派遣して討伐させた。

wp:この戦争は、源頼義の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までに要した年数から、 元々は「奥州十二年合戦」と呼ばれており、『古事談』『愚管抄』『古今著聞集』などにはその名称で記されている。 ところが、『保元物語』『源平盛衰記』『太平記』などでは「前九年の役」の名称で記されており、それが一般化して現在に至る。

さらに、「役」の表現には「文永の役」「弘安の役」(元寇)同様、華夷思想の影響が多分に見られ、 安倍氏が支配した東北が畿内から異国視され、安倍氏自体も「東夷」として蛮族視されていたことを物語る。 しかし後世に成立した『平家物語』などでは、安倍氏に同情的な記述も見られる。また、 今日では「前九年合戦」という表記がなされることもある。
▼ユポさんは華夷思想を排除されるから前九年合戦と表記されている。(2020.4.7)

wp:源氏の神話化の原点としての前九年の役
「前九年の役」における河内源氏の源頼義・義家の戦勝は、 河内源氏が武門の家の中でも最高の格式を持つ家である根拠として、中世以降、繰り返し参照されるようになった。 実際、頼義・義家の家系からは後に源頼朝が出て鎌倉幕府を開いただけでなく、室町幕府を開いた足利尊氏も河内源氏であった。 彼らが武門の棟梁の象徴として征夷大将軍を名乗った背景には、頼義が蝦夷を征討した形となった戦役がある。

1087年  後三年合戦、清原氏滅びる・奥州平泉藤原氏台頭

後三年合戦「世界の歴史まっぷ」:
永保3年〜寛治元年(1083〜1087)に奥羽で起きた戦い。 前九年の役後、奥羽に力を伸ばした清原氏の内紛に陸奥守(むつのかみ)として赴任した源義家が介入し、 藤原清衡を助けて清原家衡・武衡を滅ぼしたもの。清衡は奥羽の地盤を引き継ぎ、源氏は東国に基盤を築いた。
▼この後100年間、奥州藤原氏の平泉文化
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1189年  源頼朝、奥州平泉の藤原氏を滅ぼす

▼wp:関東の後背に独立政権があることを恐れた源頼朝は1189年7月、義経を長らく匿っていたことを罪として 奥州に出兵。贄柵(にえさく)(秋田県大館市)において家臣の造反により泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅んだ。

▼東北の豪族は、1062年阿部氏、1087年清原氏、1189年藤原氏、130年かけて源氏により次々滅ぼされる。(2020.4.7)
源頼朝と田村麻呂伝説
1189年、「出羽・陸奥は蝦夷の地」と言われていた。源頼朝は、28万4千騎を率い、平泉藤原氏を滅ぼしている。

鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」には、
源頼朝が平泉を攻め、藤原泰衡らを討伐した後、鎌倉への帰路にある達谷窟(たっこくいわや)に目をとめ、 その名を尋ねると、「それは、達谷窟で、田村麻呂、利仁らの将軍が、綸旨(りんじ)(蔵人所が 天皇の意を受けて発給する命令文書)を受け賜って夷を征する時、賊主である悪路王や赤頭らが、 城塞を構えていた岩屋」だと教えたという。

そして源頼朝の平泉征討は、「坂上田村麻呂」になぞらえて書かれている。
つまり平泉政権に対する戦いは、古代以来の「征夷」の延長として中央権力から位置づけられていたのである。


▼「源頼朝は、28万4千騎を率い」を読み、凄さがイメージできました。「征夷」の意味もよく分かりました。田村麻呂の801年から数えて388年。 朝廷の為政者から見れば約400年かけて悲願を達成したということ。それが延暦20年。天台宗が開かれた時期でもある。都の勢いが地方にこのように「征夷」という形で及ぶ。(2020.4.8)

1191年  強盗・海賊の類を「『蝦夷』島」へ流す。『都玉記』(とぎょくき)

▼『吾妻鏡』に1216年、1235年、1251年に夷島流刑の記述。(榎森進『アイヌ民族の歴史』44頁より)。
オーストラリアが英国の、シベリアがロシアの流刑地であったように北海道が鎌倉幕府の流刑地だったようだ。 そして700年後、明治維新の動乱(佐賀の乱、熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱、西南の役など)が全国各地で起き、 多数の国事犯・重罪人が出たため、明治新政府は、「北海道」を流刑地として囚人を送り込んだ。 1881年(M14)「樺戸(かばと)集治監」設置。以後空知、釧路、網走、十勝。
▼wp:『吾妻鏡』または『東鑑』は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から 第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。 成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。

1192年  源頼朝、「征『夷』大将軍」となる(1190年右近衛大将)           
1200年〜 蝦夷地のアイヌ民族、サハリン進出、ギリヤークと抗争
▼アイヌ民族のサハリン進出にともないサハリンの先住民 のギリヤークとの抗争が絶えなかったということ。
ギリヤークは「オホーツク文化」の担い手であり、アイヌの「擦文文化」と融合して「トビニタイ文化」が生まれたことを 下記の著書、論文から勉強しました。
▼この研究は榎森進『アイヌ民族の歴史』「長く続くギリヤークとの抗争」46頁〜50頁に詳しいです。
また『中世後期における東アジアの国際関係』(大隅和雄・村井章介編・山川出版)のなかの 中村和之「十三〜十六世紀の環日本海地域とアイヌ」の論文もあります。
中村さんは「十三〜十五世紀の北海道の社会は、周辺諸地域との活発な交流のなかで、 近世アイヌ文化の形成に向かう活力に満ちたものでありました。」(147頁)と書いておられます。
少なくとも私のこれまでのアイヌ民族へのイメージを一新させられる論文でした。 アイヌ民族にとって誇りと勇気を与えられる論文だと感銘しました。
▼そして最後に右上の棒グラフ(拡大可)と右の円グラフ(拡大可)です。ユポさんから紹介されました篠田謙一さんの「日本人の起源」(洋泉社)の論文です。
まず右上の棒グラフですが本土日本人と比べてアイヌ民族はピンクのYが多いです。
そして右。
オホーツク文化を担った人たち(円グラフの上から2番目)と アイヌ民族(円グラフの上から3番、4番)は共通のピンクのYグループのDNAを持っているという研究です。
これで「ユーカリ」の謎が解けます。
「アイヌユーカリ」のレプウン・クル(沖の人)はオホーツク文化を担った人たちで、その人たちのDNAがアイヌの人たちに入っていた。 ということは民族的にも融合が進んでいたということですね。「ユーカリ」の中に登場するのも当然ですね。
1264年  モンゴルとサハリン・アイヌ民族の戦い(以後1308年まで44年に及ぶ戦い)
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』46頁
「『元史』1264年11月辛巳条に「gu-wei(アイヌ)を征(せいばつ)す。 是より先、jilimi(ギリヤーク)内附(ふくぞく)し言わく。其の国の東にgu-wei、yiliyu両部有り、歳(まいとし) に来りて彊(さかい)を侵すと。故に往きてこれを征す。」
▼この1264年はフビライの時代。
▼以下は榎森進『アイヌ民族の歴史』50頁の要約です。
1284年〜1286年の3年間毎年サハリンの「アイヌ」征討実施。
1296年アイヌ・ギリヤーク共同で反元行動。
1297年アイヌ・ギリヤークが元軍と戦う。
  同年7月の戦闘でアイヌ軍が元軍を破る局面も。
  8月ギリヤークが元軍にアイヌを討つことを要請。
1308年アイヌ降伏。
▼アイヌとギリヤークの関係は同盟と抗争がいりまじっています。1297年の7月から8月の1ヶ月に何があったのか。
1274年  元軍、九州に来襲(文永の役)
1281年  元軍、再度来襲 (弘安の役)
1296年  僧日持、落石(おっちし)に住む    
▼wp:日持(にちじ、建長2年(1250年)- 没年不詳)は、鎌倉時代  中期から後期にかけての日蓮宗の僧。新潟から秋田、青森、函館、松前、江差を経て渡樺し、 本斗郡好仁村(ほんとぐん こうにむら)の白主、1295年(永仁3年)樺太の本斗郡本斗町阿幸に上陸した後、 北樺太の落石(オッチシ)(アレクサンドロフスキ・サハリンスキー)から海外布教を志し満洲に渡ったとも、蝦夷地で没したともいう。
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1308年  サハリン・アイヌ民族、元朝に朝貢を約す
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』50頁(もと資料は『元史』)
「元軍と果敢な戦いを行ったアイヌも遂に元軍の圧力に屈し降伏を乞い、 刀や兜を差し出し以後元朝に毎年獣皮を貢納して朝貢することとなった。」
1323年 「聖徳太子絵伝」に「十歳降伏蝦夷所」の図(581年 蝦夷蜂起)
▼「日本における北方研究の再検討」(煎本孝)論文より
「1323年ころ作成された「聖徳太子絵伝」中「十歳降伏蝦夷所」には、 581年アヤスカをはじめ古代蝦夷の首長たちが大和にある朝廷にやって来て服従の誓言のおり、 当時10歳の聖徳太子が敏達天皇に献言して蝦夷の大将アヤカスらを初瀬川のほとりに召して説服されたという、 伝説の場面が描かれている。
これは今日残る最古のアイヌ風俗画とされるものであるが、 『日本書紀』の記載からこれが北海道のアイヌではなく本州の蝦夷(エミシ)を描こうとしたことは明白である一方、 古代蝦夷は、日本の北部地域である現在の青森県、秋田県、宮城県北部に住み、 多くの日本の専門家たちは彼らが形質的にも言語的にもアイヌの祖先と関係ある人々であったと考えている。」

1356年 『諏訪大明神絵詞』(諏訪大進房小坂円忠・諏訪神社神主) 
「東『夷』蜂(起)シテ奥州騒乱スルコトアリキ、『蝦夷』カ千島ト云エルハ、我国ノ東北ニ当テ大海ノ中央ニアリ、
日ノモト・唐子・渡島、此三類各三百三十三ノ島ニ群居セリト、 
一島ハ渡島ニ混ス、 其内ニ 宇曾利鶴子別(うそりけ しべつ・箱館)ト 前堂宇満伊犬(まとうまいん・松前)ト云小島トモアリ、 此種類ハ多ク奥州津軽外ノ浜ニ往来交易ス、

夷一杷ト云ハ六千人也、相聚(あいあつま)ル時ハ百千杷ニ及ヘリ、

日ノモト・唐子ンノ二類ハ其地外国ニ連テ、形躰夜叉ノ如ク変化無窮(むきゅう)ナリ、
人倫、禽獣・魚肉ヲ食トシテ、五穀ノ農耕ヲ知ス、九訳ヲ重ヌトモ語話ヲ通シ堅シ、

渡島ハ和国ノ人ニ相類セリ、但鬢髪多シテ、遍身(へんしん)ニ毛ヲ生セリ、言語俚野也ト云エトモ大半ハ相通ス、

此中ニ公超霧ヲナス(霧を起こす)術ヲ伝エ、公遠隠形ノ道(身を隠す方法)ヲ得タル類モアリ、

戦場ニ望ム時ハ丈夫ハ甲冑・弓矢ヲ帯シテ前陣ニ進ミ、婦人ハ後塵ニ随ヒテ木ヲ削テ弊幣(へいはく)ノ如クニシテ、 天ニ向テ誦呪ノ躰アリ、

男女共ニ山壑(やまたに)ヲ経過スト云エトモ乗馬ヲ用ス、
其身ノ軽キ事飛鳥・走獣ニ同シ、 彼等カ用ル所ノ箭ハ遺骨ヲ鏃トシテ毒薬ヲヌリ、纔(わずか)ニ皮膚ニ触レハ其人斃(へいせ)スト云事ナシ・・・・」

▼「諏訪大明神絵詞」は、1365年に、長野県にある諏訪神社の円忠という人が書いた本で、安藤氏の内乱について書いたところに、蝦夷についての 記録がある。(「アイヌ民族:歴史と現在」10頁)


**蝦夷地における日本民族の植民活動の始まり**(商業植民地)
北海道植民史と近世植民史の一致は、単にその始期を同うするばかりではなく、その活動が主として戦に馴れ、 また封建制度の下に失墜せる勢力を他に求めんとする武士によって始められたことであった。

▼このユポさんの短いコメントに的確な指摘がなされています。「戦に馴れ」がそれです。 日本人は実に「戦」が好きな民族のようです。古代から現代に至るまでも。

『諏訪大明神絵詞』 左記をクリックしていただくと『諏訪大明神絵詞』を読むことができます。29コマ目が当該ページです。 2行目から「東夷蜂起シテ奥州騒乱」と読んでいけるとおもいます。(所蔵者:愛知県西尾市立図書館(岩瀬文庫)国文学研究資料館の資料です。) この記述は鎌倉末期の「安藤氏の乱」を記述した場面だそうです(榎森進『アイヌ民族の歴史』66頁)。
「日本における北方研究の再検討」(煎本孝)論文 4頁で、
「アイヌ文化の成立は考古学的には12世紀と考えられているが、12世紀末鎌倉幕府の成立から16世紀末室町幕府 の滅亡までの中世において、奥州の安東の乱の鎮圧の資料として1356年に成った『諏訪大明神絵詞』に(上記の内容が)記されている。
金田一京助(1925年)は「日ノモト」とは東国、すなわち東蝦夷、後の千島アイヌなどであり、 「唐子」とは韃靼海峡を経て満州文化の影響を受けたアイヌ、すなわち後の樺太アイヌなどであり、 「渡党」とは奥州より敗走した……アイヌであると比定している。」
と書かれています。
たまたま『アイヌ民族:歴史と現在』(公益財団法人アイヌ民族文化財団10頁)に「日ノモト」「唐子」「渡党」の勢力図を見つけました。 右の北海道の地図です。元資料は『中世の蝦夷地』(海保嶺夫・吉川弘文館)のようで、162頁に中世蝦夷地(想定図)となっています。 想定図は文章で読むより遥かによくわかります。感謝。
1413年  明、永楽帝時、サハリン・アイヌ民族の記述
▼「1413年の『勅修 奴児干永寧寺記』(ヌルカンえいねいじ)には「海西より奴児干に至り、海の外にある苦夷(アイヌ)の諸民に及ぶまで、 衣服・器用をもってし」たという記述があります。」(大隅和雄・村井章介編『中世後期における東アジアの国際関係』 中村和之「十三〜十六世紀の環日本海地域とアイヌ」論文・山川出版) 「新発見の「重建永寧寺碑」拓本をめぐって」中村和之「会報」No.23 2003.7.1 2003年度第1回研究会報告要旨(その1)
▼ユポさんの年表の一行から中村さんの「新発見の「重建永寧寺碑」拓本をめぐって」にたどり着きました。 この出会いは不可思議です。

「新発見の「重建永寧寺碑」拓本をめぐって」より。
「15世紀の初頭、明の永楽帝は女真人の亦失哈(イシハ)を派遣し、 かつて東征元帥府のあったところに奴児干都司(ヌルカンとし)を設置した。
以後、明はアムール川流域・樺太の諸集団に積極的に支配を及ぼしたが、 現地で活躍した官吏のなかには、アムール川流域の住民から登用された者もいた。
明は、貂皮などの朝貢の見返りとして絹織物を下賜したが、 そのなかには竜袍(りゅうほう)・蟒袍(もうほう)などといわれた役人の服が含まれていた。 これが蝦夷錦とよばれるものである。」

▼アイヌの人たちが蝦夷錦をいつ、どのように入手したかに以前から興味があったがやっと疑問が解けた。(2020.4.7)
1443年以降のアイヌ民族の歴史は和人による植民地化の歴史と捉えたほうが事の真相が明確に理解できる。(2020.7.13)

1443年 
津軽十三湊(とさみなと)豪族・安東盛季とその配下、「『蝦
     夷』島」へ逃亡渡島半島南部に「舘」を築く(道南12舘)。
     アイヌ民族の居住権をおびやかし、略奪的交易を強いる
   ▼道南12舘と位置図(「アイヌ民族:歴史と現在」公益財団法人ア
    イヌ民族文化財団14頁より転載  地図の右端から海岸沿いに下記
    の舘が位置しています。)
   志苔館(函館)、箱館(函館)、茂別館(下の国の守護)、中野館、
   脇本館  (知内)、穏内館(福島)、草部館(松前)、大館(松
   前の守護)、禰保田館  (松前)、原口館(松前)、比石館(上
   ノ国)、花沢館(上ノ国の守護)
   ▼これがアイヌ民族の苦難のはじまり。

1456年
  「コシャマインの戦い」(武田信広〔26歳〕蠣崎家の養子に)
      「渡島半島南部に拠った12の舘主は、アイヌ民族との交易権の拡大をめざしたため、アイヌ民族の自由な
       交易活動は次第に制限された。各舘主間の利害は、アイヌ民族および本州地方との交易をめぐって対立
       し、抗争は激化した。その矛盾はアイヌ民族に対する収奪・抑圧に集約され、渡島半島のアイヌ民族の自
       由な生活は急速に破壊された。」(ユポさんのこの文章の出典?)
     ・道南12舘のうち、茂別舘・花沢舘を除く、10舘、陥落
コシャマイン父子を討つ

     
     ▼茂別舘は下の国の守護、花沢舘は上ノ国の守護、守りが堅かったのだろ
      う。

     ・花沢舘の武士・武田信広は敗走した和人勢力を再編し、苦戦の末、謀略
      を以ってコシャマイン父子を討つ
     ・東は鵡川、西は余市に至る和人居住者、松前上ノ国天の川に移住
     アイヌ民族の歴史年表より。
     1457年5月14日 オシャマンベの首長コシャマインを盟主とするアイ
     ヌ同盟軍が蜂起。兵力は9千人(東部アイヌ約四千強、北部アイヌ約二千
     強、西部アイヌ約三千)といわれる。総兵力300人の志海苔館はまもな
     く陥落。

▼12舘のうち10舘が陥落とは! 凄いことだ。
コシャマイン父子を討つ、は函館市中央図書館のデジタルアーカイブ の『新羅之記録』で確認できます。 右の画像が『新羅之記録』です。3行目「胡奢魔犬(コシャマイン)父子二人斬殺(キリコロス)」が読み取れます。
▼コシャマイン蜂起の歴史的背景は榎森進『アイヌ民族の歴史』132〜134頁でも確認できます。
「下国安東氏が夷島のみを唯一の経済的基盤にするにいたったということは、 とりもなおさず夷島におけるアイヌ民族との交易権のより一層の強化や夷島に居住する各館主を初めとする 和人集団に対する支配を強化するにいたったことを意味している。 …コシャマインの戦いの大きな要因の一つにこうした事実があったことは間違いないであろう。」
▼アイヌ民族への圧迫がじわじわ忍び寄って来るのが感じられる。と同時にアイヌ民族はすぐに蜂起で応えている。このあと蜂起がつづく。
  Wikipediaコシャマインの戦い
応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起。
現在の北海道函館市にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、 渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬)を中心とするアイヌが蜂起。
最終的には平定され、松前藩形成の元となった。
▼「和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけ」。 米国の黒人差別を思い浮かべる。日常の差別・蔑視が些細なことで大事件に発展する。 これも似ている。これ以降、より一層和人側はアイヌ民族への支配を強化していく。 事件が起きた志濃里から北100qに位置する長万部(オシャマンベ)の首領コシャマインが蜂起を指導した。 (2020.4.9)
                                        トップへ戻る
1494年の世界分割
マルク・フェロー『植民地化の歴史』p94〜p95 ▼1494年トルデシリャス条約(スペインとポルトガルの世界分割)ブラジルを除く南北アメリカ大陸は スペインの支配下。それ以外はポルトガルの支配下。
世界史のこのような状況下での蝦夷地における和人の植民地的支配拡大とアイヌ民族の蜂起であった。(2020.7.13)
1492年のアメリカ大陸
マルク・フェロー『植民地化の歴史』p68(新評論 片桐祐、佐野栄一訳 20173.31発行) ▼地図で確認すると先住民族の居住地は
南北アメリカ大陸の主に太平洋側。

*「戦乱の一世紀」(約100年)
1469年 アイヌ民族蜂起
1471年 アイヌ民族蜂起
1473年 アイヌ民族蜂起
1512年 東部のアイヌ民族蜂起。宇須岸、志濃里、与倉前の3舘陥落、舘主戦死
1513年 アイヌ民族蜂起、大舘で戦闘、舘主相原氏自害
1515年 ショヤ・コウジ兄弟蜂起、光広饗応し和睦を装い斬殺
1525年 「東西」のアイヌ民族蜂起
1528年 蠣崎義広に対するアイヌ民族蜂起
1529年 タナサカシ(セタナイの首長)、工藤氏を破り、和喜舘に攻め入るも、 義広謀略を持って討つ
1531年 蠣崎義広に対するアイヌ民族蜂起、大舘を攻める
1536年 タナサカシの女婿・タリコナ蜂起。義広和議を申し入れ、謀略を以って斬殺
▼この100年の戦いの記録・記憶は被圧迫先住民族にとって、とても貴重だとおもいます。
非常に特徴的なのが、1515年光広饗応し「和睦を装い」斬殺、1529年義広「謀略」を持って討つ、 1536年義広和議を申し入れ「謀略」を以って斬殺。いずれも「謀略」「謀略」。腹黒い・こ狡い和人  卑怯。 対アイヌ民族に対しては恥ずかしい歴史しか和人は持っていない。(2020.4.8)
▼アイヌ民族の歴史年表http://www10.plala.or.jp/shosuzki/japan/ainu%202.htmには
「1536年6月 タリコナ、義広を狙って勝山館を強襲、兵力に劣る蛎崎氏は再び和睦を乞う。 館内での酒宴の最中にタリコナ夫妻を惨殺。これ以後アイヌの攻勢はなくなった。」とあります。(2020.4.9)
▼次の『夷狄の商舶往還の法度』を読んでみてタリコナの蜂起後14年間で蛎崎氏とアイヌ民族の力関係が大きく変わったことに気づきました。 つまり支配に組み込まれた、との印象です。(2020.4.10)

1550年(1551)「夷狄(いてき)の商舶往還の法度」(蠣崎季広)『新羅之記録』天文19(20)年6月23日(蠣崎氏
       と東西アイヌ民族の通商協定)
召寄勢田内之波志多犬
「勢田内の波志多犬(ハシタイン)を召寄せ上之国天河の郡内に居へ置きて西の伊(イン・長官)と為し 亦志利内の知蒋多伊(チコモタイン)を以って東夷の伊と為し、 『夷狄の商舶往還の法度』を定む。
故に諸国より来れる商賈(しょうこ・商人)をして年棒を出さしめ、 其内を配分して両酋長に賚(たま)ふ。之を夷役と謂ふ。
而る後西より来る『狄』の商舶は必ず天河の沖にて帆を下げ休んで一礼を為して往還し、 東より来る『夷』の商舶は必ず志利内の沖にて帆を下げ休んで一礼を為して往還する事、偏に季広朝臣(あそみ) を慫敬(しょうけい・おそれうやまうこと)せしむる処なり。」
▼右の写真は函館市中央図書館のデジタルアーカイブスからの転載で 『新羅之記録』の原本です。 終わりから5行目以降が「勢田内の波志多犬(ハシタイン)を召寄せ…」の記述になっています。
▼今、『熱源』を読んでいますがその中でアイヌを侮蔑する呼び方として「あ イヌ」と出てきます。最初わからなかったのですが古い書籍に ハシタインは波志多犬と書き、コシャマインは胡奢魔犬と書いています。 これがのちに蔑称になったんだなと思いました。不愉快です。(2020.7.2)
「蠣崎政権にとって、アイヌ民族との緊張関係を少しでもやわらげ、そのことによって権力基盤の安定を 確立するうえで大きな役割を果たしたのが『夷狄の商舶往還の法度』であった。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』146頁)
▼このころのアイヌ民族はまだまだ和人と戦う力を持っていました。しかしご承知のように 「1543年8月ポルトガル人、種子島に来て鉄砲を伝え」(『新版日本史年表』(1984年・岩波書店))、 和人が鉄砲を手に入れた為にアイヌ民族への支配が決定的になったと思います。
1565年 イエズス会宣教師、ルイス・フロイス、「蝦夷」交易を記す
アイヌ民族の歴史年表に下記の記述があります。
1565年 宣教師ルイス・フロイスによりはじめてヨーロッパにアイヌの情報が伝わる、 出羽国の秋田に、アイヌが多数交易にくる様子などを記録
1578年(天正6) 蠣崎正広、安土で織田信長に謁す
▼HP函館市中央図書館のデジタルアーカイブス『新羅之記録』 をクリックしていただくと「天正年…安土ニ於テ信長公ニ謁シ奉ル」と見えます。
1585年 秀吉、関白となる
1586年 秀吉、太政大臣となり、豊臣の姓を賜る
1590年(天正18)蠣崎慶広、上洛し「狄之嶋主」として、聚楽第で豊臣秀吉に拝謁慶広、前田利家、木村秀綱、大谷
     吉忠らと会う      
1592年(文禄元) 慶広、秀吉の朝鮮出兵に応じ、大阪、肥前名護屋に出陣
1593年(文禄2) 豊臣秀吉より、慶広「朱印状」賜る(志摩守に任じる)
「松前に於いて、諸方より来る船頭商人等、『夷人』に対し、地下(じげにん・和人=一般日本人) と同じく非分(ひぶん)の義、申し懸けるべからず。
並びに船役(ふなやく)の事、前々より有り来るが如く之を取るべし。 自然(もしも)此の旨に相背(そむく)族(やから)之在るに於いては、急度言上(きっとごんじょう)すべし、 速(すみ)やかに御誅罰(ごちゅうばつ)を加えらるべきもの也。」
蠣崎志摩守トノへ  文禄2年正月5日 秀吉朱印
・アイヌ民族に対する非法行為の厳禁
・船役(関税)徴収権の公認 
・蠣崎氏、安東氏の支配から自立し、独立の大名となる
・慶広、東西アイヌ民族を集めて秀吉の朱印状を読み聞かせる
▼この秀吉の朱印状は、蠣崎氏を通して中央政権の支配がいよいよ 北海道のアイヌの地に及び始めたということでしょう。(2020.4.11)
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1600年(慶長5) 蠣崎慶広、家康に謁し姓を松前に改める(慶広とその子孫のみの改姓) 『新羅之記録』
1603年 徳川家康、「征夷大将軍」となる
▼家康、夷を征する大将軍か。(2020.4.11)

**前松前藩治時代**
17C~  松前藩(現松前郡松前西舘)の成立、アイヌ民族との交易権の独占
1604年(慶長9) 徳川家康より、「蝦夷交易の制三章」・「黒印状」を下賜される
        ▼下の画像は 徳川家康からの制書で松前町のHPからです。

1 諸国より、松前へ出入りの者共、志摩守に相断らずして、夷仁(いじん)と直に商売仕
 (つかまつり)候儀、曲事(くせごと)たるべき事
2 志摩守に断り無く渡海せしめ、売買仕候はば、急度(きっと)言上致すべき事
  付(つけたり)、夷之儀は何方へ往行し候共夷次第に致すべき事
3 夷仁に対し非分の儀申し懸けるは、堅く停止(ちょうじ)の事
  右条々若し違背の輩に於いては、厳科に処すべきもの也。仍(よっ)て件(くだん)の
  如し。
  慶長9年正月27日  家康黒印  松前志摩守とのへ (「松前家文書」読み下し文)

・松前藩の成立(松前志摩守慶広)
・無高大名(1万石格)・アイヌ民族との交易独占権によって経済を支える(藩主と家臣団の経済のため)
・幕府に対する軍役奉公
・参勤交代(6年に一度)
・蝦夷地沿岸部を藩主直轄と、上級家臣への知行地として区分
(アイヌ民族の居住地に対応する形で商場を設定し、原則として一つの商場に一つの知行権(交易権)が設定された。)
・「城下交易体制」から「商場知行(交易)制」へ
▼国立国会図書館デジタルコレクションのHP 「徳川実録」 コマ番号57を選んでください。慶長9年の頁最後の4行に「蝦夷貿易之制」の見出しで「蝦夷交易の制三章を授らる」との記事が出て来ます。
▼函館市地域史料アーカイブで 「松前氏の成立 安東氏より独立」 の頁が出て来ます。以下です。アーカイブの全文を載せておきます。

「室町時代の末頃(1573年滅亡)、東北地方の豪族である安東氏の代官として、入港の商船から税を徴収することが主な仕事であった蠣崎氏は、 徐々にその実権を強化していき、第五代蠣崎慶広(よしひろ)は、天正十八年(1590)十二月京都に上って豊臣秀吉に謁見し、 従五位下民部大輔に任ぜられ、安東氏の支配から脱し、蝦夷島の支配を認められた。 次いで文禄二年(1593)一月肥前の名護屋において秀吉に謁し、志摩守に任ぜられ「朱印の制書」を賜わったのであるが、 その法令の内容は次のとおりであった。(新北海道史第二巻所載)

於松前、従諸方来船頭商人等、対夷人、同地下人、非分儀不可申懸。
並航役ノ事、自前々、如有来、可取之。
自然此旨於相背族在之者、急度可言上、 速可被加御誅罰者也。
文禄二年正月五日 朱印               蠣崎志摩守とのへ 

これを書き下し文にしてみると、 
松前に於て、諸方より来る船頭商人等、夷人に対し地下人と同じく、非分の儀申懸くべからず。
並びに船役の事、前々より有り来りの如く、これを取るべし。
自然この旨に相背く族(うから)これあるに於ては、急度言上すべく、速かに御誅罰加えられるべきもの也
   文禄二年正月五日 朱印            蠣崎志摩守とのへ 

この法令の示すところは、松前に来る船や商人から、従来どおり税を取り立てる権利を認めるという内容で、 実質的には安東氏の臣下を脱して、一国の領主として認めるというものであった。 その後、慶長三年(1598)八月秀吉が没し、政治の実権を徳川家康が握ると、 慶広は慶長四年(1599)十一月家康に謁し、蝦夷島地図及び家譜を奉り、この時から「蠣崎」の姓を「松前」と改めている。 次いで慶長九年(1604)家康から黒印の制書を受け、徳川氏の家臣として秀吉の時よりも、より広い権限を持つことになった。 家康から受けた黒印の制書を、書き下し文で示すと次のようになる。
▼ユポさんの上記「松前家文書」読み下し文がつづき)
かくして松前氏は、徳川氏の臣下となり交代寄合の資格(大名に準ずる格式)で、一藩を形成するに至った。 このように松前藩は、蝦夷地に支配地を持つようになったのであるが、最初の実支配地は、 普通和人地と呼ばれた西は熊石より東は亀田に至る限られた地域が中心であり、 それ以外の蝦夷地と呼ばれた地域には、あまり松前藩の勢力は及んでいなかった。 」
▼1643年のヘナウケの戦いの地図の赤ポイントがセタナイです。セタナイから南40qに熊石があります。亀田は函館です。(2020.4.15)

▼「秀吉の朱印状と比較すると、家康の黒印状は松前氏に対するアイヌ交易の独占権の公認という性格をより明確に規定している点で、 両者間に質的な相違が見られた。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館162頁より)
▼9年前の秀吉の朱印状とこの家康の黒印状をよく読み比べてみてください。

▼マルク・フェローの『植民地化の歴史』(片桐祐・佐野栄一訳・新評論)という634頁に及ぶ、 世界の700年間の植民地化の歴史を概括している著書があります。2017年4月から3カ月かけて読んだ本です。 マルク・フェローはその緒言で
「日本人はロシア人がサハリンに、フランス人がカナダに到着するまえの時代に、 エゾを征服し植民地化していたのである」(13頁)

と書いています。
そして本文の「16世紀には日本人も植民地化へ」 との見出しで
「日本人による領土拡張と植民地化は、西洋世界の伝統的歴史が一般に伝えるよりも古い。 …日本による植民地化は、16世紀に西洋が極東に地歩を固めようとあれこれ試みたと時期を等しくするのである。」(89頁)

▼私は衝撃をうけました。アイヌ民族の歴史を勉強して十分過ぎるほど納得しました。
                                  トップへ戻る
1618年 イエズス会宣教師ジェロニモ・アンジェリス、松前公広に会う。 公広「松前は日本ではない」と語る。
▼宣教師 ジェロニモ・デ・アンジェリスについてのHPの記事です。
「ジェロニモ・デ・アンジェリスは1568年イタリアのシチリア島に生まれました。 リスボンで司祭となり、カルロ・スピノラと同じ船で日本に向けて出港しましたが、 いろんな事情が生じて、出発から4年後の1602年に到着。伏見や長崎でも働きましたが、 禁教下になってからは主に東北で活動し、北海道にも渡りました。
1621年、江戸に呼び戻されて働いている時に、 密告でシモン遠甫と共に捕縛され、小伝馬町の牢に投獄されました。
1623年12月4日(当時19歳)将軍になったばかりの家光の命により、 芝の札の辻で火刑に処されました。」
キリシタン史 江戸初期の大迫害
元和キリシタン遺跡<芝・札の辻>
1620年 イエズス会宣教師デイオゴ・カリュワーリュ、松前と千軒岳の金山でミサを行う 
▼宣教師 ディオゴ・カルワリオ神父Diogo Carvalho S.J.(1578-1624) についてのHPです。
出典は『北方探検記』H・チースリク編のようです。
1624年 松前藩、蝦夷島を「和人地」「蝦夷地」に区分
・「城下交易体制」(蝦夷地唯一の城下町・松前城下での商人とアイヌの交易)から「商場知行(交易)制」へ(~1644)
・蝦夷地沿岸部を藩主直轄と上級家臣への知行地と区分(アイヌ民族の居住地に対応する形で商場を設定し、原則として一
 つの商場に一つの知行権(交易権)が設定された。)
・特定地域でのアイヌ民族との独占交易権
・鷹場所設定・[知行地・鳥屋(とや)場](鷹待・たかまち)
・鮭漁の開始・漁業権の設定・知行権(大網による鮭の大量捕獲)
・砂金掘り集団
・アイヌ民族の通行圏を蝦夷地に限定、松前地への自由往来禁止
・アイヌ民族の「蝦夷地」封じ込め政策
・不平等交易
・河川の汚染、鮭の大量捕獲でアイヌ民族の生活を脅かす
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館より。
「寛永期(1624〜1643)を画期にして蝦夷地が「和人地」(松前地)と「蝦夷地」 という二つの地域に制度的に区分され、かつそれを前提として「蝦夷地」を対象とした商場知行制が成立すると、 「蝦夷地」のアイヌ民族が交易のために奥羽地方に赴くことはいうまでもなく、松前藩主に対する御目見という 政治的儀礼のために松前に赴くことを除けば、松前藩との交易を主たる目的として城下に行くことは事実上不可能となった。
というのも、商場知行制の成立によってアイヌ民族との主たる交易の場が従来の城下から新たに 「蝦夷地」内に設定された各「商場」へと移行していったからである。

つまり、アイヌ民族は、蝦夷島の制度的分断によって 「蝦夷地」のなかに閉じ込められただけでなく、商場知行制の制度的成立によって、「交易の場」じたいさえもが 「蝦夷地」内の特定の商場のみに限定されてしまったのである。」(175頁)

「「商場」は、まさにアイヌ民族に対する支配と収奪を実現するために、アイヌ社会の内部に上から設定された新たな形の 収奪の場、しかも「蝦夷地」内に網の目のようにはりめぐされた収奪の場であった。」(同179頁)

「「商場」が設置された地域はアイヌ社会の基本的な生産と生活の場である河川流域の漁猟場・漁猟圏で、 交易のあり方は、藩主・上級家臣が各「商場」に毎年交易船を派遣して、「商場」内のアイヌと物々交換をするというものであった。」 (同177頁)

「元和・寛永期(1615〜1643)を画期に盛んになった河川流域での砂金場の開発である。 河川での砂金採取業の発展は、河川への鮭の遡上に障害をもたらしただけでなく、鮭の産卵場を破壊する結果を招いた。」(同179頁)


▼「商場」の成立時期の整理
商場知行制の成立は17世紀初頭
寛永期(1624~1644年)集中的に「蝦夷地」の各海岸部に相次いで商場を設置
貞享期(1684~1688年)松前藩、西蝦夷地ソウヤに藩主の商場設置

▼寛永期(1624〜1643)松前藩がアイヌ社会の生活・生業・交易の場であった漁場を「商場」にすることにより、 植民地的収奪の場に変質させたということ。1623年から1651年まで3代将軍家光の時代。 この時代の実態は私を含めほとんどの日本人に意識されていない。(2018.11.09)

▼今日、改めてユポさんの年表の箇条書を読んだあと、榎森先生の解説を読んでみるとユポさんの意図がよく理解できる。
家光は1623年〜1651年まで28年間将軍の地位に君臨する。和暦は寛永・正保・慶安。おもな出来事を年表(新版日本史年表歴史学研究会編)で拾う。
1623年キリシタン50人を江戸芝で火刑。1637年天草・島原の一揆。1639年鎖国の完成。1643年蝦夷西部のヘナウケ騒動を起こす。1650年猟師のほか関東中 農民の鉄砲所持を禁ずる。(2020.4.18)
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1639年 幕府、キリスト教禁制通達、松前藩、領内キリシタン106人処刑
『海峡の十字架』 松前の百六人殉教    若林 滋 著
豊臣秀吉の天正禁令に始まる日本のキリシタン迫害史は、そのまま殉教史でもあった。 徳川幕府に引き継がれたキリシタン政策は、三代将軍家光の時代に苛烈さを増し、取り締まりと処刑による殉教が本州各地で引き起こされていく。 その弾圧の刃に追われて北へと逃れ、信者たちは津軽海峡を越えて松前へと渡った。 砂金採取に湧き金掘り鉱夫に寛大な松前で、穏やかな信仰生活を得たかにみえた信者たちを待ち受けていたのは、 1639(寛永16)年夏、強まる迫害の中で起きた松前藩による信者106人の斬首だった。

クリスチャンでも研究者でもない筆者がキリシタン殉教に取り組んだのは、二〇一二年秋急逝した友人の勧めによるものでした。 彼が倒れる直前、ぜひ蝦夷キリシタンの殉教を書いて欲しい、と言われたのです。
殉教ゆかりの地を訪ね資料や文献を読み、命を賭した信仰と伝道に深い感銘を受けると同時に、 徳川幕府と諸大名の迫害の非道さ残酷さ、親と共に殉教した幼子たちの斬首の記述に震えました。

「キリスト信者は自分の幸せのために洗礼を受けるのではない。イエス・キリストと共に愛に生きるため、 神の栄光のために受けるものであり、殉教もお恵みであり、神のなさる業なのである」
続橋師は著書の中でこう述べています。
▼「殉教もお恵みであり、神のなさる業なのである」。 この呪縛から信徒が解かれるのは20世紀ローマ法王ヨハネ・パウロ2世によってである。 1981年。広島のカトリック教会の神父深堀升治さんは 「自身の被爆体験を話すことは神の計らいに愚痴ることになる」と考え、 あの日の思いはずっと封印してきたが、 その考えを変えたのは、ヨハネ・パウロ2世の広島訪問時の「戦争は人間の仕業です」のことばだった。(2019.11.17朝日新聞朝刊) (2020.7.2)

1643年 ヘナウケの戦い(西蝦夷地、シマコマキ、セタナイのアイヌ民族)
▼(榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館180〜181頁)
「1643年のヘナウケの戦いは、松前藩成立(1604)後、最初のアイヌ民族の戦いであった。
松前藩は寛永期(1615〜1643)に集中的に「蝦夷地」の各海岸部に相次いで一方的に商場を設置し、 その結果、セタナイは谷梯氏、シマコマキは並川氏の商場となった。
セタナイ
シマコマキはセタナイから約30q北の海岸の村

こうした商場の設置が、それまでのアイヌ社会内部における一大交易地というセタナイの位置に大きな打撃を与えたであろうことは推察に難くない。
1640年6月13日、駒ケ岳の大噴火。津波により昆布採り船100余隻が一瞬にして波に呑まれ、和人・アイヌ、計700余名の死者を見た。
1631年以降、シマコマキでも砂金の採掘が行われるようになった。砂金の採掘は水路を変え、 砂床を掘るのでアイヌ民族の鮭漁に大打撃を与えたことは推測に難くない。
1643年に、セタナイ地域のアイヌ民族がいち早く一斉に反松前藩の行動に立ち上がった背景には こうした事情が事情が潜んでいたものと見られるのである。」
▼wp:
ヘナウケの戦いは、1643年に渡島半島西部で起こったアイヌの首長ヘナウケによる松前藩との戦い。
寛永20年(1643年)、シマコマキ(現島牧郡島牧村)の首長ヘナウケが松前藩に対して蜂起を開始。
この蜂起の背景として、まず金掘り(砂金掘り)の存在があげられる。元和2年(1616年)から蝦夷が島(現北海道)においてゴールドラッシュが発生し、 多数の金掘りが本州から渡って来た。寛永8年(1631年)にはシマコマキでも砂金の採取が始まっている。
また蜂起の3年前にあたる寛永17年6月13日(1640年7月31日)には内浦岳(現駒ヶ岳)が噴火しており、松前では14日から15日にかけて 空が火山灰に覆われ闇夜のような状態になったという。
この噴火によって渡島半島周辺は大きな被害を受け、翌年の夏には亀田の金掘りが津軽に逃亡するという事件も発生している。
この天災が蜂起の一因になったと見られている。
▼二つの見解を読み比べて榎森進氏の分析の深さを実感する。
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1646年『新羅之記録』(松前藩の正史・松前景広編)成る。
越前敦賀、三井寺、新羅大明神、奉納  
1669年 「シャクシャインの戦い」(寛文9年)
「砂金採取や木材伐採で自然を荒らし、暴力的に詐欺 的交易を強行、アイヌ民族の漁業を妨げる大網漁業を 蝦夷地に拡げる和人勢力に対して本格的な民族の戦い を組織した。」
「松前藩は、幕府の支援体制のもとに鉄砲を用意、シャクシャインの軍勢を破り、 最後は偽りの和睦でシャクシャインを謀殺、松前藩とアイヌ民族の力関係は、決定的な、和人優勢の関係となった。 この力関係を背景に18世紀にはいると経済的関係も変わり、特定の商人に蝦夷地各場所の対アイヌ民族交易、 漁業の権益を与え、かわりに運上金を上納させる「場所請負制」が一般化した。」
▼砂金採取に関してピクシブ百科事典 の「寛文蝦夷蜂起」を読んでみて驚いたのは 「当時三万とも五万とも居たといわれる本州からの出稼ぎ者。シブチャリには三つの金山があったらしい」とあります。 この記事の真偽のほどはよくわかりませんが、砂金採取の熱狂を伝えていると思います。
▼ 同HPの シブチャリ周辺に「シブチャリ(渋舎利、染退、シベチャリとも)とは現北海道新ひだか町にある河川名。 メナシクル、ハエクル、金堀の各集団がいる」とあります。メナシクルとはアイヌ語で東の人、という意味ですね。 蜂起が西から東に移ってきた、と感じました。(2020.4.16)
▼wp:北海道アイヌ シャクシャインの戦い前後のアイヌ地域集団
ピンク色のメナシクル地域の首長がシャクシャイン

 **搾取植民地**(搾取植民時代)
・不平等交易、オムシャ交易(商人の進出)、鷹狩り、砂金掘り、イオルの破壊 商場交易=商人の進出=商人への経営(交易)権の委譲=請負 近江(近畿)商人の進出、両浜組=近江商人団、荷所船(にどこふね) 商人による松前藩への融資、交易体制
・石狩アイヌ首長「ハウカセ」
「松前の殿は松前の殿、われわれは石狩の大将に候えば、松前殿に構え申すべきも無之候。又は松前殿も此の方へ構え申義もなるまじく候。 商船此方へ御越しなられまじく候とも、別にかまいござなく候。 総じて昔より蝦夷は米酒下されず候。魚・鹿ばかり下され、鹿の皮を身に着け、たすかり申すものにござ候。 商船御越成られ候義も御無用の由申し、通路の者返し申し候由。其上商船御越しなられ候わば、一人も通し申すまじく候」 「蝦夷風土記」(新山質)
▼北海道大学北方資料データーベースで 「蝦夷風土記」 が読めます。
日高アイヌオムシャの図(市立函館図書館所蔵)『アイヌ民族の歴史』p207

wp:オムシャとは、もともと松前藩とアイヌの間の交易上の交歓の意味の儀礼であったが、 後に交易や漁労の終了時のアイヌに対する慰労行事となり、更にアイヌ統治の手段として転化していくことになる。 儀式の執行者は当初は場所請負制の下で請負を行った商人であったが後には松前藩もしくは江戸幕府の役人が行った。
▼右の図。支配の儀式であることがはっきりしている。(2020.1.30)
▼上記石狩アイヌ首長「ハウカセ」の歌舞伎の「啖呵」のようなセリフの原典と背景。
これは寛文10年6月24日の津軽藩士牧只右衛門・秋元六左衛門の石狩での聞き取り調査の記録です。原典は『津軽一統志』です。
原文は「北方史史料集成【第四巻】210頁 翻刻・解説 海保嶺夫1998年6月20日発行・北海道出版企画センター」 に依ると次のようになっていました。
「松前殿は、松前の殿、我等は石狩の大将に候得は、松前殿に講可V申様も無V之候。
又は、松前殿も此方え構申義も成間敷候。
商船此方え御越可VV成も被V成間敷にも別て構無御座候。
惣て昔より蝦夷は米酒不VV下候。魚鹿計被V下、鹿の皮を身に着、 たすかり申物に御座候。
商船御越被V成候義も御無用の由申、 通路の者返し申候由。其上商船御越被V成候はゝ、一人も通し申間鋪候由と、物語仕候事。」(『津軽一統志』)巻第十之下)
日本差別史関係資料集成第8巻
第8巻 日本差別史関係資料集成 (近世資料篇3: アイヌ研究1) The Collected Historical Materials of Japanese Discriminations in Yedo Era (III): The Study of Ainu Race I 〈2012/平成24年5月刊行〉

本巻においては、中世以降、松前藩と大商人による過酷な労働搾取により受難 の歴史を余儀なくされたアイヌ民族の経済的・政治的な支配の歴史を実証するために編纂された。
アイヌ民族の生活・民俗を詳細にかつ美麗な筆で描いた「蝦夷島奇観(えぞがしまきかん)」及び 「蝦夷國奇観(えぞのくにきかん)」、シャクシャインの蜂起とその政治的・経済的な背景を詳述した「津軽一統史」を、 原文に解読文を加えて掲載した。この巻を所蔵している機関は少なく、編者は、善本と推定される「弘前市立弘前図書館岩見文庫所蔵本」を使用した。

シャクシャインの叛乱
アイヌ民族対大和民族の抗争は、コシャマインの戦い後も一世紀にわたって続き、 最終的には、武田信広を中心にした大和民族が支配権を確立することとなった。しかし、松前藩の成立後も、アイヌ民族の大規模な蜂起は起こっている。
十五世紀頃から始まった交易や幾多の抗争などによって、蝦夷地は文化的・政治的に統合され、十七世紀に至っては、 河川、海浜、山林を中心とした複数の狩猟場、漁労場などの領域を含む、広い地域を政治的に統合する、惣大将と呼ばれる有力首長が現れていた。
シャクシャイン、イシカリの首長ハウカセ、ヨイチの八郎右衛門、シリフカのカンニシコルなどがこれに相当する。シャクシャインはその中でも武勇に優れたアイヌ民族の指導者であった。  
太平の夢を結ぼうとするこの時代に、蝦夷地を支配していた松前藩と江戸幕府にとっては、一六六九(寛文九)年六月のアイヌ民族の叛乱は、 青天の霹靂のごとき、体制を揺るがすような大事件であったに相違ない。
 
この時代の経済情勢を俯瞰してみよう。当時、アイヌ民族は松前城下や津軽や南部方面まで交易舟を出し、 大和民族の生産した鉄製品、漆器、米、木綿などと、彼らの産物である獣皮、鮭、鷹羽、昆布などと交換していた。
しかし、十七世紀以降、幕藩体制が成立すると、幕府によりアイヌに対する交易権は、松前藩が独占して、他の藩には禁じられることになった。
アイヌ民族にとっては、対和人交易の相手が松前藩のみとなったことを意味し、自由な交易が阻害されることとなった。 この事は、松前家の事跡を記した「新羅之記録」により、豊臣秀吉から、蠣崎家に交易の独占を保証する朱印が与えられていることが見て取れる。 江戸時代にあっては、徳川家の歴史を記した「徳川実紀」によれば、徳川家康から黒印状を与えられ、交易の独占権をより強固なものとすることが 可能となった。
年貢としての米を徴収出来ない松前藩にとって、アイヌ民族との一方的な交易は、超過利潤とも言える、莫大な不当利益を得るための、 強権的な搾取システムを形成することになったといっても、過言ではない。五公五民どころではない、 このような搾取のシステムの基本構造となったものが「場所請負制度」と「商場知行制度」である。
幕府権力を背景にした松前藩は、十七世紀後半には、アイヌ人との交易は、松前城下などでの交易から、 「商場知行制度」に基づく交易体制へと移行した。

これは、松前藩が蝦夷地各地に「知行主」(松前藩主、藩主一族、上級藩士など)と彼らの「知行地」である「商場」を設定して、 「知行主」は直接「商場」に出向き、そこに居住するアイヌ民族との交易する権利を与えられた。
その「商場」に居住するアイヌ民族にとっては、和人との交易が特定の「知行主」に限定される不自由な交易体制であった。 この「商場知行制度」により、交易の権利は次第にアイヌ民族に不利なものとなっていった。また、和人からアイヌ民族に交易を一方的に強要する 「押買」の横行や、大名の鷹狩用の鷹を捕獲する鷹侍や砂金掘りの山師が蝦夷地内陸部を勝手に切り開く行為、 松前藩船を用いての大網による鮭の大量捕獲などが、アイヌ民族の生活基盤を脅かし、和人への不満は大きくなっていった。 アイヌ民族が交易に応じない場合、「子供を質に取る」と脅迫していた証言も得られている。

もう一つの搾取の柱が、「場所請負制度」である。徳川幕府からアイヌ民族との交易の独占的権利を一六七二年に保証された松前藩は、 大商人に交易の権利を委託し、彼らから徴収する請負金を藩の収入の源の一つととしていた。その際、アイヌ人との取引は、 法外な利益を大商人にもたらしたのみならず、松前藩にとっても、圧倒的に有利な交易であったと言える。
一例を挙げれば、シャクシャインの戦い前夜の一六六五(寛文五)年には、松前藩は、財政難を理由として、一方的に、 従来の米二斗で干鮭百本の交換比率を、米七升で干鮭百本に改定した。米一斗で乾鮭五本が、十四本に変更され、 約三倍近くも価格が上昇していることになる。まさに、全国的な飢饉が発生している時期にである。 また、蜂起が起こる二年前の一六六七(寛文七)年、松前藩は米三千俵の拝借を幕府に要請していて、困窮ぶりが窺える。
さらに、前述した、鷹狩り、金採掘、千島列島などでの漁業の際の苦役の強制である。また、戦いの後の和睦のための貢ぎ物のアイヌ人からの 強制的な取得など、法外とも言える搾取の構造はさらに強化されていく。

 シャクシャインの戦いは、一六六九(寛文九)年六月に、シブチャリの首長シャクシャインが指導した、 松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起である。「寛文」年間に発生したことから、「寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)」とも呼ばれる。
事件の経過は以下のように記述される。
シブチャリ以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団メナシクルと、シブチャリからシラオイにかけてのアイヌ民族集団であるシュムクルは、 シブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いを続けていた。
両集団の対立は、文献においては多くの死者が出たとされる一六四八(慶安元)年の春の戦いまで遡ることが出来る。 メナシクルの首長であるカモクタインや、シュムクルの首長であり、ハエに拠点を持つオニビシもまた惣大将である。 シャクシャインはメナシクルの副首長であり、カモクタインが一六五三(承応二)年にシュムクルによって殺害されたために首長となった。
惣大将間の抗争を危惧した松前藩が仲裁に乗り出し、一六五五(明暦五)年、両集団は一旦講和に応じた。 この事件が契機となって、シュムクルと松前藩が接近する。
しかし、一六六五(寛文五)年頃から両者の対立が再燃し、一六六八(寛文八)年五月三十一日(寛文九年四月二十一日)、 オニビシはメナシクルによって殺害される。
シャクシャインにオニビシを殺されたハエのアイヌは、松前藩に武器の提供を希望するも拒否されたうえ、 サルの首長ウタフが帰路に疱瘡にかかり死亡してしまった。このウタフ死亡の知らせは、和人への不信感も相まって、 アイヌ民族には「松前藩による毒殺」と誤って伝えられた。この誤報により、アイヌ民族は松前藩ひいては和人に対する敵対感情 を一層強めることになった。

シャクシャインは蝦夷地各地のアイヌ民族に向けて、松前藩への蜂起を呼びかけ、多くのアイヌ民族がそれに呼応した。
こうして事態は惣大将や地域集団同士の争いから、多数のアイヌ民族集団による松前藩に対する蜂起へと移行した。
 一六六九(寛文九)年六月二十一日(寛文九年六月四日)、シャクシャインらの呼びかけにに応じて、 イシカリ(石狩地方)を除く、東は釧路のシラヌカから西は天塩のマシケ周辺において、一斉蜂起が行われた。
鷹待、砂金掘り人、交易商船に乗り組む船員、水主、通詞などを襲撃した。突然の蜂起において、 東蝦夷地では二百十三人、西蝦夷地では百四十三人の和人が殺された。
一斉蜂起の報告を受けた松前藩は、家老の蠣崎広林が部隊を率いて胆振のクンヌイに出陣して、シャクシャイン軍に備えるとともに、 幕府へ蜂起を急報し、援軍や武器及び兵糧の支援を求めた。幕府は松前藩の求めに応じ、津軽藩、盛岡藩、秋田藩に対して、 蝦夷地への出兵準備を命じ、と同時に、松前藩主松前矩広の伯父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣した。 津軽藩兵は杉山吉成を侍大将にして、松前城下での警備にあたった。

シャクシャイン軍は松前をめざして進軍し、同年七月末にはクンヌイに到達して、松前軍と戦闘を展開した。戦闘は八月上旬頃まで続いたが、 シャクシャイン軍の武器が弓矢主体であったのに対し、松前軍は鉄砲を使用していたこと及び内浦湾一帯に居住するアイヌ民族集団と分断され、 協力が得られなかったことなどが原因で、シャクシャイン軍に不利な情勢となった。
このために、シャクシャインは後退し、松前藩との長期抗戦に備えた。同年九月五日(八月十日)には、松前泰広が松前に到着、 同月十六日(八月二十一日)、クンヌイの部隊と合流し、同月二十八日(九月四日)、軍勢を指揮して東蝦夷地へと進撃した。 さらに松前泰広は、幕府権力を背景にした恫喝により、アイヌ民族間の分断とシャクシャインの孤立化を進めた。

シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えを変えなかったために、 戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた松前藩は謀略をめぐらし、 シャクシャインに和睦を申し出た。
シャクシャインはこの和睦に応じ、十一月十六日(十月二十三日)、 ピポクの松前藩陣営に出向き、和睦の酒宴の最中に謀殺された。
この他、アツマやサルに和睦のために訪れた首長なども同様に、謀殺あるいは捕縛された。
翌十七日(二十四日)、シャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落した。
指導者層を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。
翌一六七○(寛文十)年、松前軍はヨイチに出陣してアイヌ民族から賠償品を取得し、 各地のアイヌ民族からも賠償品を受け取り、松前藩への恭順の確認を行った。戦後処理のための出兵は一六七二(寛文十二)年まで続いた。

このシャクシャインの戦い以降、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至った。
その後、松前藩はアイヌ民族に対し七ヵ条の起請文によって服従を誓わせた。 これにより松前藩のアイヌに対する経済的かつ政治的支配は、緩和策をとりながらも、 さらに強化された。
また前掲の「津軽一統志」にみられるように、惣大将というアイヌ有力首長によって統一されていた広大な地域は、 「商場知行制度」や「場所請負制度」が発展及び強化により、場所ごとに分割され、 独自の自立性をもつアイヌ民族の文化や政治的な主権は剥奪され、地域的な政治結合も解体されていった。


▼かなり長い紹介です。しかし、アイヌ民族の内部事情、松前藩・江戸幕府の危機感と対応の狡猾さ、さらに この戦いの後のアイヌ社会の変容も説得力をもって解説されていると思い、長さに対するご批判を覚悟のうえで紹介いたしました。
▼このシャクシャイン以前のアイヌ社会に戻すことが今日的課題。(2020.4.16)

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1670年  松前藩、「アイヌ仕置」西蝦夷地ヨイチ(弘前藩領のアイヌを通辞として同行)
「起請文」
1 殿様にどのように仰せられようとも、孫子一同ウタレ男女に限らずそむきません。(子々孫々に至るまでウタリ男女、松前藩への無条件の服従)
2 仲間で逆心する者あれば充分意見致し聞かなければ早急にお知らせ致します。(謀反人の密告義務)
3 殿様の御用にてシャモが浦々に来た場合には手抜かりなくお世話いたします。シャモが自分の用で来ても充分ごちそう致します。 (蝦夷地におけるシャモ通行の保証。遊びでも・ご馳走)
4 鷹侍や金堀にもじゃませず手抜かりなくお世話いたします。(鷹師・金堀夫への乱暴の禁止)
5 商船にはわがままを申さず、他国よりの物は買わず、私たちの産物は他国に売らず、他国の産物など持参するときは仰せの通り致します。 (交易船への乱暴の禁止と他藩との交易の禁止。余所の国)
6 これからは米一俵に毛皮五枚、干し鮭五束とし、交換物は米に応じて取引します。産物の多いときは米に比べて値を下げても良いです。 (交易の価格の規定。交渉の禁止・向後値上げなし)
7 殿様の御用の状使い、鷹送り、伝馬、宿送りには昼夜を問わず手抜かりなくお世話致します。鷹の餌にする飼い犬は無料で早々に差し上げます。 (状使・鷹送り・伝馬・宿送りの保証)
 右の旨孫子一同男女に限らず叛きません。もしそむくものあらば、神様の罰を受け子孫が絶え果てますまで起請文の通り約束を致します。
▼「この起請文は、松前藩への無条件の全面的な服従を強要したものであった。」 (榎森進『アイヌ民族の歴史』204頁)(『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書』『蝦夷蜂起』)
1671年 「アイヌ仕置」東蝦夷地シラオイ
1672年 「アイヌ仕置」噴火湾沿岸クンヌイ
▼シャクシャインの蜂起後、松前藩はアイヌ民族に対して、「全面服従」を強要(仕置)した。
1685年 「アイヌ御目見」西蝦夷地のアイヌ(~1686)
「西蝦夷地では、シャクシャインの戦いに参加した主要な地域の大部分の首長が藩主に御目見するようになっていることが注目される。 しかも、このアイヌ民族の首長の藩主への儀式は、『福山秘府』にあるように、藩主に 「対面致し候節ハ、鉄砲弐百丁・弓数張・大筒等も仕懸け置き見せ申し候」とあるように、武器をちらつかせながら 藩主への忠誠を誓わせる場となっていたのである。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』206〜207頁)
▼「鉄砲」で威嚇しながらの、なんと趣味の悪い儀式。
1684年  西蝦夷地に商場設置(~1688)
▼この商場の設置は、榎森進『アイヌ民族の歴史』の年表17頁によると「松前藩、西蝦夷地ソウヤに藩主の商場設置」と、 藩主によるソウヤでの設置、となっています。商場設置は、大部分は寛永期(1624~1644年)ですが。
▼なぜソウヤなのか。
「ソウヤ商場はサハリンのアイヌ民族との交易の場として重要な商場であった。 1790(寛政2)年にはサハリン南部に初めて松前藩主の商場を設置した。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』314頁)
「サハリンのアイヌ民族は、清朝に朝貢した際に、清朝から「賞賜」として与えられた朝服、緞袍、青布袍、 長棉襖、袴子をソウヤに設置された松前藩主の「商場」を介して和人との交易に活用していたものと見られる。 アイヌ民族にとって清朝に朝貢することは、経済的に極めて多くの利益をもたらすものであったと見て間違い無いであろう。」(同書325頁)
▼ wp: 江戸時代の宗谷郡域は西蝦夷地に属し、慶長8年(1603)、 松前藩によって宗谷に利尻・礼文・樺太を司さどる役宅が置かれた後、 貞享2年(1684)以降ソウヤ場所が開かれていた。
江戸時代後期になると、南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え 文化4年(1807)宗谷郡域は天領とされた。この時は会津藩が警固をおこなった。文化6年以降、 津軽藩がソウヤに出張陣屋を築き警固に当たった。文政4年(1821)には一旦松前藩領に復したものの、 安政2年(1855)再び天領となり今度は秋田藩が出張陣屋を築き警固をおこなった。
1693年 「知行主」がアイヌ民族を「奴僕」化することを禁止
「風俗は格別賤しく、倫理の道も知らず候故、父子兄弟も相嫁し、五穀なければおのずから鳥獣魚物を食とし、山にかけり、 海に入り、偏に禽獣の類にて御座候」 (松宮観山・『蝦夷談筆記(えぞだんひっき)』)
「蝦夷談筆記」のHPです。 上記記録の頁はいずれ見つけます。それにしても偏見に満ちた文章のように思えます。
▼「風俗は格別賤しく、倫理の道も知らず候故、父子兄弟も相嫁し、………偏に禽獣の類にて御座候」は以前読んだことがあります。 たしか、『日本書紀』だったと思います。見つかりました。年表110年を見てください。 720年に成立した『日本書紀』の記述が1000年後のこの時代も知識人、支配階級で共有されていた、ということですね。(2020.4.17)
▼「奴僕」化の禁止令が藩から出るということは「知行主」(実際は商場の請負商人) による搾取が激しかったということ。
18C~ 「商場知行制」から、漁業経営・「場所請負制度」へ
1711年 ロシア人、千島に来 る(シュムシュ=占守島・パラムシュル=幌筵島)
『アイヌ民族の歴史』p299(草風館2007.3.1)ギルバート『ロシア歴史地図』  斜線部分は1478年以降1710年までのシベリア地方のロシア人移住地  カムチャツカ半島のペトロパウロス建設は1740年 マルク・フェロー『植民地化の歴史』88頁(新評論2017.3.31)
「もともと歴代ツアーリは東方への拡大に懐疑的だったといわれる。 にもかかわらず、川から川へと要塞が築かれ、徐々に版図が拡がっていった。1649年にはついにカムチャツカ半島までいたった。」
▼「日本における北方研究の再検討」(煎本孝)論文「18世紀にはロシアの南下政策に対する幕府の 蝦夷地調査隊の派遣、さらに第1次の蝦夷地の幕府直轄時代が始まる。」
▼18世紀はやはり新しい時代のはじまりのようだ。
1716年 本州の交易商人への請負(場所請負制度の原形) が、はじまる
*封建領主的特権*(~1736)
一定の運上金(貢租)を納付して、各場所の交易を一手に請負う
「17世紀末から18世紀初頭にかけた時期に、 松前藩によるアイヌ民族に対する政治・経済的な支配が急速に強まっていった。 享保・元文期(1716−1740)ころまでには、多くの商場経営が、アイヌ民族との交易を主体にしたものから、 商場内での商人の請負による漁業経営を主体にしたものへと変質 (商場知行制→場所請負制)するに至って、 アイヌ民族は「交易相手」という立場から事実上漁場の下層労務者へと変質させられたのみならず、 共同体そのものが漁場経営のための有力な労働力の供給源として位置づけられた。 そして、各商場内のアイヌ民族が特定の場所請負人の集中的な収奪の対象とされるにつれ、 アイヌ社会の横のつながりは次第に分断され、その結果、本来のアイヌ社会が根底から破壊されるという、 かつて見られなかったような新たな危機に直面していくこととなった。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』209頁〜210頁)
▼榎森進さんのこの分析はすばらしい。アイヌ民族の自由人から半奴隷的境遇への転落。エンゲルスの『イギリスの労働者階級の状態』を思い出す。
▼yahoo知恵袋:松前藩では知行(領地)の代わりにアイヌ民族との交易場であった商場(あきないば)を家臣に与えていました。 これが「商場知行制(あきないばちぎょうせい)」です。その後、潤沢な資金力を有する近江などの大商人が 蝦夷地に進出してくると松前家臣は商場の交易権を商人に譲渡し、代償として毎年一定額の運上金を受け取るようになりました。 これが次の段階の「場所請負制」です。商人たちが商場から一銭でも多く利益を搾り取ろうとした結果、 アイヌ民族に対する搾取は過酷極まりないものとなりました。商場知行制の成立は17世紀初頭、 場所請負制に移行していったのは18世紀初頭と言われています。
▼商場知行制から場所請負制への移行を見ていると社会を動かす経済の力の大きさを改めて感じる。 銭しか目に入らない商人達に委ねられた場所請負がアイヌ民族の悲劇を生む。
▼17世紀末から18世紀初頭に松前藩による場所請負制度の導入によってアイヌ社会の破壊・アイヌモシリの植民地化が 完璧に進行した、とはっきり認識すること。(2020.7.2)
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1720年 新井白石『蝦夷志』(東北諸夷の国)
▼wp: 『蝦夷志』とは新井白石が享保5年(1720年)に松前藩の情報や内外の諸書を参考にして作成した、 体系的な蝦夷地誌(漢文)。現在の北海道、樺太、千島の山川、風俗、産物が記され、 この写本の巻末には十余枚の貴重な彩色アイヌ風俗画が付けられている。 画家は不明であるが、アイヌの衣服など絵画が細密に描かれており、当時のアイヌの風俗を知るうえで重要な文献になっている。 絵師が実際にアイヌ人らの生活を直接観察して描かれ、図版の繊細度、色彩等、現存の写本の中では保存状態がよい。    
▼図4 蝦夷錦 新井白石『蝦夷志』 二十四頁(早稲田大学図書館古典籍データベース) より

1721年 松前藩、「沖の口制度」(一種の税関)の整備を行う
▼ニッポニカ「沖の口制度」とは:松前藩が、旅人、諸物資、船舶の出入を管理し、 徴税を行うために、松前、箱館、江差の3港に設けていた役所。
1723年 秋、西蝦夷地イシカリ(石狩)鮭不漁、冬より翌年7月までに イシカリ・アイヌ200人餓死、東蝦夷地シコツでもアイヌ餓死者
1734年 ロシア人、パラムシル(幌筵)・アイヌ民族にロシア正教を伝える
    (1748年 シュムシュ、パラムシルで信者208人に)(1756年 シュムシュに礼拝堂、教会と学校を兼ねる)
   ▼wpパラムシル:島の名前の由来はアイヌ語の「パラ・モシル(広い・島)」
1738年 ロシア人、千島列島根室の近くまで探検、翌年仙台付近まで行く(~1739)
1750年 ロシア人、北千島(パラムシル島)アイヌに牧畜を伝える
1751年 知行主、知行地での場所の境界争い(~1764)
1754年 松前藩、クナシリ島へ交易船を派遣
▼wpクナシリ:アイヌ語の「クンネ・シリ(黒い・島→黒い島)」
1755年 松前藩財政難、多額の借財の引き当てとして場所を商人に委ねる
1756年 弘前藩(通称津軽藩)、津軽半島のアイヌ民族に同化政策を実施。これを拒んだアイヌは山中に逃亡
1766年 ロシア人、第7島シャシコタン(捨子古丹)ヘ(~1767)
▼wpシャシコタン:アイヌ語の「シャシ・コタン(昆布・村)」
1768年 ロシア人、「ウルップ(得撫)島」、「エトロフ(択捉)島」に来る。アイヌ民族に暴虐、毛皮税徴収
▼wpウルップ:アイヌ語「ウルプ(紅鱒)」、エトロフ:「エトゥ・オロ・プ(岬の・ある・所)」
1770年 ロシア人、ウルップ島でエトロフのアイヌ長老を殺害、
1771年 エトロフ、ラショワ(羅処和)のアイヌ民族、ロシア人に報復、21人を殺害 ロシア人、ウルップ島より退去
▼wpラショワ:「ルシ・オ・ア(毛皮が・そこに・豊富にある)」
▼アイヌ民族、すごい。
1773年 飛騨屋久兵衛、商場経営を請け負う(アッケシ、クナシリほか)
    飛騨屋の請負場所と請負山
飛騨屋久兵衛
根室、厚岸、クナシリ島で、最初に交易を行った商人は、飛騨国増田郡湯之島村 (現:岐阜県下呂市)飛騨屋の武川久兵衛である。 松前藩は、飛騨屋に借金があったため、借金返済の変わりに、クナシリなどとの交易権を飛騨屋に与えた。
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』によると
「「クナシリ」と「キイタップ(霧多布)」の両商場の経営を請け負っていた飛騨屋久兵衛が 「クナシリ」と「キイタップ」商場内の「メナシ」地域で鮭・鱒の〆粕生産を開始して以来、両地域のアイヌの首長達を初め 首長以下の「ウタレ」(部下)から「メノコ」(女性)に至るまで〆粕生産に動員され、しかも彼等は冬に至るまで酷使されただけでなく 生産した「〆粕割合の手当」が無いばかりか「雇い代」も極めて少なかった。
その結果、河川での鮭漁、海での漁業や海獣狩猟、山野での狩猟や 採集等のアイヌ民族本来の生産活動である「自分働(じぶんはたらき)」が出来なくなり、 そのため当該地域のアイヌ民族の生活が困窮し、冬には餓死する者さえ生じるに至っていた。」(254頁)
「「商場」は、まさにアイヌ民族に対する支配と収奪を実現するために、アイヌ社会の内部に上から設定された新たな形の収奪の場、 しかも「蝦夷地」内に網の目のようにはりめぐされた収奪の場であった。」(同179頁)

▼飛騨屋の場所請負は商業資本を通り越して産業資本そのものの行動であるとおもわれます。その請負場所の数は上記地図の多さです。 榎森進『アイヌ民族の歴史』292頁によると1739年頃、蝦夷地の53か所の商場のうち46か所が請負経営、 1786年には、85か所全てが請負経営となっていたようです。

1774年 ツキノエ、飛騨屋の交易船を妨害(以後6年交易船の派遣停止)
1778年 ロシア人、ツキノエの案内で、ノッカマップ(根室半島)で松前藩に通商要求(翌年拒否される)
1779年 ロシア皇帝エカテリーナ2世(女帝)アイヌ民族からの毛皮税徴収を禁止(勅令発布)
エカテリーナ二世
対外政策では、オスマン帝国との露土戦争(1768年-1774年、1787年-1791年)や3回のポーランド分割 などを通じてロシア帝国の領土を大きく拡大した。 まず、オスマン帝国との2度にわたる露土戦争(1768年-1774年、1787年-1791年) に勝利してウクライナの大部分やクリミア・ハン国を併合し(キュチュク・カイナルジ条約)、 バルカン半島進出の基礎(ヤッシーの講和)を築いた(南下政策)。 また、エカチェリーナ2世は第1次、第2次、第3次のポーランド分割を主導し、 ポーランド・リトアニアを地図上から消滅させた。
▼エカテリーナの拡張政策の一環としてのロシア人の千島への出没(2020.4.28)

1780年 『福山秘府』全60巻成る (松前広長)
▼ニッポニカ:松前藩関係史料の大集成。全60巻。 1776年(安永5)松前藩主道広(みちひろ)の命を受けて家老松前広長(ひろなが)が編集に従事し、80年12月に脱稿した。
1783年 『赤蝦夷風説考』(仙台藩江戸詰藩医・工藤平助・ロシアとの交易、蝦夷地防衛を説く)。
・天明大飢饉、宗谷・目梨アイヌ(900人)・樺太アイヌ(180人)餓死
『東遊記』(平秩東作・へつつ とうさく アイヌの文化・人情・風俗を描く)
▼wp:「赤蝦夷」はロシア人を意味する当時の用語。

▼wp天明の大飢饉とは江戸時代中期の1782年(天明 2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。 江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる。

被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、死んだ人間の肉を食い、 人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、 目も当てられない風情にて」と記されている。

1787年(天明7年)5月には、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、江戸では千軒の米屋と八千軒以上の商家が襲われ、 無法状態が3日間続いたという。その後全国各地へ打ちこわしが波及した。これを受け、7月に幕府は寛政の改革を始めた。

▼1789年に「クナシリ・メナシの戦い」が起きるがこの飢饉と無縁とは考えられない。
 
「正保御国絵図」ある意味、興味深いHPです。
「1644年(正保元年)、「正保御国絵図」が作成されたとき松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれ、
1715年(正徳5年)には、松前藩主は幕府に対し「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
1731年(享保16年)には、国後・択捉の首長らが松前藩主を訪ね献上品を贈っている。
1754年(宝暦4年)松前藩家臣の知行地として国後島のほか択捉島や得撫島を含むクナシリ場所が開かれ、 国後島の泊には運上屋が置かれていた。
1773年(安永2年)には商人・飛騨屋がクナシリ場所での交易を請け負うようになり、 1788年(天明8年)には大規模な搾粕製造を開始するとその労働力としてアイヌを雇うようになる。
一方、アイヌの蜂起があった頃すでに北方からロシアが北千島まで南進しており、 江戸幕府はこれに対抗して1784年(天明4年)から蝦夷地の調査を行い、1786年(天明6年)に得撫島までの千島列島を最上徳内に探検させていた。」
(このHPは閉じられていることが分かりました。2020.4.27)
▼平秩東作について以下を見つけました。出典:小学館 日本大百科全書。
東作の自由人的な心境は、「井蛙」の題の一首「身を守る かくれ所はこゝこそと ちゑを古井に蛙(かはづ)なくなり」 からもうかがわれる[浜田義一郎]と、ありました。
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1785年 幕府、蝦夷地調査隊派遣、(樺太、クナシリ島)
1786年「蝦夷地新田開発政策案」を提出
エトロフ島にわたる、ロシア人と会う。次いでウルップ島にわたる。樺太にて「清朝」から姓長(ハラ・イ・ダ) に任命されたアイヌ民族の首長、ヨウチイテ・アイヌ(中国名・楊忠貞)の子ヤエンクル・アイヌに会う。
*調査中止、蝦夷地開発計画頓挫(老中、田沼意次、失脚)
「お試し交易」「秋味漁」実施
▼「1778年松前藩が藩主の商場であるソウヤに家臣工藤清左エ門を派遣した際、サハリン西海岸ナヨロのアイヌの 首長「ヤウチウテイ」が交易のため、同商場に来ていたので、工藤が彼の名を聞いたところ、 楷書で「楊忠貞」と記した唐紙を差し出したという。」(榎森進『アイヌ民族の歴史』325頁) 原資料は最上徳内の『蝦夷草紙』(1790年)のようです。
1789年「クナシリ・メナシの戦い」
▼この戦いの前提に1716年の項の場所請負制の導入がある。
70年間のアイヌ社会破壊の怒りが「クナシリ・メナシの戦い」であった。(2020.7.2)
クナシリは右上の島
メナシは根室・釧路辺り
(『アイヌ民族の歴史』p247)

・エカシ・長老の説得
ノッカマップの処刑(ペウタンケ(危機を知らせる叫び声)・37人処刑、首を塩付けにして松前城下でさらし首、 夷塚、28年でクナシリ・メナシ絶滅)

「クナシリ・メナシ地方のアイヌ民族がこの地で漁場の経営を行っていた。場所請負人らの横暴や、 アイヌ民族への強制的な使役に対して立ち上がり、現地にいた支配人ら71人を殺害した。 場所請負人の飛騨屋は1788年から急に交易中心から、鮭〆粕をつくるためにクナシリやメナシのアイヌ民族を強制的に使役した。」
「1年中毎日働かされて自分たちの冬の食料もとることができない。報酬もまともにもらえない。 番人に棒で打ち殺された女もいた。妻が番人に暴行されたので抗議をしたら逆に償いをとられた。 支配人が女を女房同様にし、子まで産ませた。ほかに多くの女が犯されたので男たちが抗議したが、受け入れられなかった。」

*メナシ領シベツ(士別)では、粕作りが始まってから〆粕割合の手当てというものはまったく無く、 〆粕の雇い代は首長が米一俵にたばこ一把、一般アイヌはたばこ半把にマキリ(小刀)一丁なので、 …自分の荷物も何もなく、土産がもらえるわけでない。去年から〆粕作りが始まっているので冬中食べ物が不足し、 妻子を養うにも難渋している。ことにシトノエというアイヌ女性は、働きが悪いということで薪で強く打たれて病気になり、亡くなった。

*同所(メナシ領シベツのこと)のシリウというアイヌは、妻と妾の二人がともに稼ぎ方の和人たちに密夫(姦淫・凌辱)されたが、 抗議したら逆に道理に合わない文句を言われるので、言えないでいる。

*同所(メナシ領シベツで)働かないと、男女を問わず残らず粕とともに殺すぞ、と稼ぎ方に言われた。

*同所(メナシ領シベツで)稼ぎ方は、当年よりアイヌを残らず殺すといって、犬を縄に縛って川へ沈めて殺した。 シャモ(和人)が多数のアイヌを殺すのだな、とアイヌは推量した。

*メナシ領チュウルイ(阿寒湖には、大島、小島、ヤイタイ島、チュウルイ島の四つの島がある。)では、 稼ぎ方たちが昨夏より大きな釜を三つ用意し、男と女と子供のアイヌに分けて粕とともに煮て殺すと脅し、 実際に子供を背負った女性を釜に入れたが、大勢のアイヌがやってきてこの時はなんとか助かった。

*同所(メナシ領チュウルイでは)ケウトモヒシケは、妻と妾に稼ぎ方が密夫したので、アイヌ式のツグナイを求めたら理不尽にもぶっ叩かれた。

*同所(メナシ領チュウルイの)サンヒルというアイヌが、妻が密夫されたので抗議したら、稼ぎ方は激しく腹を立てて サンヒルの髭をマキリで切ると脅された。

*クナシリのセセキ(セセキ温泉は知床半島の羅臼町にある海中温泉地)という所の支配人左兵衛は、 ウテクンテというアイヌ女性を居所へ引き連れて夫婦同様にして子供を産ませた。その他に密夫している例は多く、 悔しい思いでいるが、抗議すれば逆にツグナイを求められるので黙っている。

*同所(クナシリ)支配人の左兵衛の言うには、当年のお目付け役の勘平は難しい人物で、 アイヌが〆粕作りでしっかり働かないと当島に下さる米、酒、味噌に至るまで毒を入れ、アイヌを残らず殺して、 これまでアイヌが住んでいた所へ町屋をこしらえて江戸より和人を多数取り寄せて商売をすると言ったそうだ。 

南千島アイヌ・北海道アイヌの老人、幼い者も酷使
アイヌ民族への搾取、禁じる者も、監視する者もいない
夷酋列像(1790)
長老による説得(ノッカマップの大虐殺・37人の処刑)
民族共同体の崩壊
飛騨屋の請負、召し上げ
(和人の犯した非道、虐待、クナシリ島の奴隷労働、場所請負人の横暴、暴力、脅迫、餓死者続出、働けぬものは毒殺、女性は姦される)
* 松前藩の失政=財政難・財政破綻・借金=請負商人の横暴を許す
* 「フランス革命」
▼ユポさんの「*メナシ領シベツ(士別)では、…」の記述は『アイヌ民族の歴史』榎森進著・草風館出版2007年3月1日発行251頁以下 「メナシ夷共申口」「クナシリ夷共申口」からの引用のようです。
私も読んでみて、ユポさんが取り上げられているのは、松前藩の鎮圧隊の最高責任者・新井田(にいいだ)孫三郎の 「寛政蝦夷乱取調日記」が元資料で、「クナシリ」アイヌの、和人を殺害した14名と、「メナシ地域」アイヌの和人を殺害した23名から、 事の経緯について「申口(もうしぐち)」つまり調査官の聞き取りに対するアイヌの人たちの証言記録からでした。
ただその前の「クナシリ・メナシ地方の…強制的に使役した。」の文章の出典はよくわかりませんが恐らく榎森進さんだろうとおもいます。
▼「クナシリ・メナシの戦い」とは
wp:1789年(寛政元年)、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、 首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、 和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。
wp:鰊粕の製造には大量の薪を必要とするため、北海道の沿岸部では森林破壊が進んだ。 また、先住民族のアイヌは和人商人のもとで鰊粕製造その他の労働に従事させられ、従来の民族コミュニティの変容や破壊がもたらされた。
▼読むと和人に対する怒りが禁じ得ません。蜂起は当然です。この蜂起者たち37名はノッカマップで処刑されています。 「アイヌ民族への搾取、禁じる者も、監視する者もいない」、ユポさんのこころの叫びです。 私の気持もぐんぐんユポさんに引き付けられて行きました。
▼和人のやりたい放題!この歴史を肝に銘じておくべき。ただ、人道主義者・松浦武四郎さんに和人として救われる。

wp:クナシリ・メナシの戦いを鎮圧した後に討伐隊は藩に協力した43人のアイヌを松前城に同行し、 さらに翌年の1790年にも協力したアイヌに対する二度目の謁見の場が設けられた。 藩主・松前道広の命を受けた蠣崎波響は、アイヌのうちもっとも功労があると認められた12人の肖像画を描いた。 これが「夷酋列像」である。
Wikipediaから
イコトイ(乙箇吐壹)の像
マウタラケ(麻烏太蝋潔) - ウラヤスベツ惣乙名
チョウサマ(超殺麻) - ウラヤスベツ乙名
ツキノエ(貲吉諾謁) - クナシリ惣乙名
ションコ(贖穀) - ノッカマフ乙名
イコトイ(乙箇吐壹) - アッケシ乙名
シモチ(失莫窒) - アッケシ脇乙名
イニンカリ(乙噤葛律) - アッケシバラサン乙名
ノチクサ(訥窒狐殺) - シャモコタン乙名
ポロヤ(卜羅亜鳥) - ベッカイ乙名
イコリカヤニ(乙箇律葛亜泥) - クナシリ脇乙名
ニシコマケ(泥湿穀末決) - アッケシ乙名
チキリアシカイ(窒吉律亜湿葛乙) - ツキノエの妻、イコトイの母
▼私はこの 「夷酋列像」にある種の違和感を抱いています。
1792年 ロシア使節アダム・ラクスマン、根室に8ヶ月滞在。住居建設、幕府許可。
松平定信(日本の地ではないので、根室で待つのだ)  四つの窓口 @長崎=オランダ・中国 A対馬=朝鮮 B薩摩=琉球 C松前=アイヌ民族
1798年 *近藤重蔵、エトロフに「大日本恵登呂府」の標柱
**前幕府直轄時代**
1799年 ロシアの南下政策への対応
幕府直轄による、東蝦夷地仮上知(上地・あげち・幕府による没収)
蝦夷地経営(東蝦夷地では、交易所運上屋を会所と呼ぶ)
・支配人、通辞、帳役、番人を駐在させる 
・アイヌ民族への同化政策(松前藩は禁止してきた日本語・文化)
「三章の法」
1 邪宗門に従う者、外国人に親しむ者、其罪重かるべし
2 人を殺したる者は、皆死罪たるべし
3 人に疵つけ、又は盗する者は、其程に応じ咎めあるべし
*アイヌ民族の風習を全く無視したものであったために、幕府はアイヌ民族の抵抗を恐れて、現実には実施されなかった
* キリスト教を禁止し、クナシリ・エトロフ・ウルップに高札をたて、アイヌ民族に仏教をひろめようとした 「蝦夷三官寺」(仏教・国教の強制・檀家なし、財政・幕府持ち)
1 有珠・善光寺(浄土宗)
2 様似・等ジュ院(天台宗)
3 厚岸・国泰寺(臨済宗)
「日本語使用の強制・風俗改め」(髭剃・月代・髪結・和服着用)
「農耕奨励」(アイヌの農耕禁止解除、穀食は文明、肉食は野蛮)
「創氏改名」(アイヌ名を日本名に・1876年(M9)年アイヌ民族、1939年(S14)年朝鮮にて創氏改名)
「ウイマム・オムシャ」の強制(裃、羽織の着用義務づけ)
「帰俗土人」・「新シャモ」と呼び、褒賞を与え、帰俗を奨励した。 コタンコロクル(村長・むらおさ)を乙名(おとな)に任命、場所ごとに惣乙名、脇乙名、小使(三役・役土人)、土産取を任命した
* ほとんどの者は、自分の名前を知らず、山にかくれる者、先祖から受けた姿を失い、衆人と交わりをできない(最上徳内「蝦夷草子」)
*風俗改め強制、長万部の首長トンクルは、大勢に押さえつけられ髭をそり落とされ、髪を結われ、以後は和人風になし、 徳右衛門と名乗れと言われ、飲食を絶って死を遂げた。(松浦武四郎・「近世蝦夷人物誌」)
▼帰俗とはアイヌの風俗を改め日本風にすることだとユポさんに教わりました。
▼最上徳内「蝦夷草子」のHPです。
▼「従来、幕藩制国家の対外編成上「異域」として位置づけられてきた「蝦夷地」は、「異域」から一挙に「内国」化されるに至ったのである。」 (榎森進『アイヌ民族の歴史』306頁)
「その総てが対ロシア関係を強く意識したうえでの「蝦夷地」の「内国」化を装飾するための政策以外の何ものでもなかった。 アイヌ民族に対する風俗改めや和風化策が和人に近い地域よりも、むしろロシアに接したエトロフ島で最も積極的に行われたという事実は、 そのことを端的に物語っている。」(同書308頁) トップへ戻る
安田雷洲「増訂日本輿地全圖」天保2年(1831) 東北大学デジタルコレクション掲載許可令和2年10月15日東北大学図書館長
蝦夷地が日本與地に含まれていないことに
注意。2020.10.20
1800年 * 富山元十郎、ウルップ島に「天長地久大日本属島」の標柱
1801年 幕府、東蝦夷地を永久上知する、「(蝦夷)箱館奉行」を置く
1804年 蝦夷三官寺建立、善光寺(有珠)・等ジュ院(様似)・国泰寺(厚岸)
1807年 幕府、松前・西蝦夷地を上知(あげち・幕府による没収)
*対ロシアへの防備上、アイヌ民族の同化政策のため(エトロフでもっとも積極的) 松前藩を奥州の梁川(やながわ・福島県)に転封、松前奉行を置く 蝦夷地全域を幕領化
▼この時期の幕府とロシアへの対応(榎森進『アイヌ民族の歴史』342頁〜344頁)
1804年 レザノフ長崎に漂流民を伴い来航
1805年 レザノフに通商要求拒否の「教諭書」を渡す
1806年 ロシアの軍艦のフォヴォストフらサハリン上陸。アイヌの子供を連行、運上屋を襲撃、倉庫を焼く
1806年 フォヴォストフらエトロフ島のシャナを襲撃。リシリ島付近で日本船襲撃
1807年 幕府、東北諸藩にサハリンを含む蝦夷地へ出兵を命ずる
1809年 幕府、ソウヤのアイヌ民族が「サンタン人」に対する「古借」を返済。「カラフト」を「北蝦夷地」に改称
▼後の日露戦争の火種がこの頃に醸成されているようにおもう。
1809年 このころよりアイヌ民族に御目見(ウイマム)強制(松前奉行) 間宮林蔵、「間宮海峡」発見
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』から
「サハリンのアイヌ民族の歴史で特徴的なことは、北海道・クリル諸島や北東北のアイヌ民族に比して、 中国の歴代王朝との関係がきわめて強かったという点にある。」(323頁)

「1809年 松前奉行が西蝦夷地「クドウ」場所から「北蝦夷地」に至る各場所詰めの幕吏に対して、 以後各場所のアイヌの「乙名」達を3年に1回宛松前奉行に御目見させるよう厳達。
1815年 5年に1回宛松前奉行に御目見を命ず。
この命令によって幕府は、東は「エトロフ」から西は「北蝦夷地」に至る「蝦夷地」全域のアイヌ民族の首長層に対する松前奉行への御目見体制 を名実共に整備・完成させたわけで、こうした体制の整備は、「カラフト島」のアイヌ民族を「日本に従属した民」として 位置づけるうえで歴史的に大きな役割を果たした。

換言するならば、ここに至って、サハリンのアイヌ民族を含めた「蝦夷地」全域のアイヌ民族の「日本」への朝貢体制が整備されたのである。 このことは、サハリンのアイヌ民族を清朝の「辺民制度」から脱却させ、日本=幕藩制国家への朝貢体制に再編したことを意味するものであった。」 (347頁)

▼このような江戸時代末期の、幕府のアイヌ民族への植民地的支配の前提で、 明治維新後のアイヌ民族無視の政策が展開されることになったようだ。
▼今日改めてこの箇所を読んでみると、この江戸期のやり方がそっくり 明治期の琉球王国を清朝から引き離す際にも用いられていることに気づきました。 江戸期と明治期は支配者のあいだでは実によくひと続きであることがわかります。 逆にアイヌモシリ回復訴訟では江戸期の責任を問う根拠にもなると思います。(2020.7.2)
1818〜1830年 石狩アイヌは、「自分稼」「自分商売」で和人と交易 
**後松前藩治時代**
1821年 松前藩、復領(幕府直轄1807〜1821の14年・財政負担の増大)
場所請負人に場所内の経営権と行政権をまかせる(支配搾取体制)
1845年 松浦武四郎この年から6回にわたり蝦夷地調査、アイヌ民族の生活を記録する。
(男女とも12〜13歳から、働ける者はすべてコタンから強制的に漁場に連行され、コタンの生活は徹底的に破壊され、 人口は激減し、あわや民族全滅の瀬戸際まで追い詰められたといっても過言ではない。)
▼たまたま「共産党宣言」へのエンゲルスの1890年のドイツ語版序文を読んでいたら次のような一節に出会った。 「1848−1849の革命当時には、ヨーロッパの君主たちだけでなく、ヨーロッパのブルジョアもまた、ロシアの干渉を、ちょうどはじめて目ざめつつあった プロレタリアートからの唯一の救いと考えていた。ツァーリはヨーロッパの反動の首領である、と宣言された。」 このようなロシアが樺太に迫っていた、ということ。(2019.11.28)
▼時の皇帝はニコライ1世(ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ1796年7月6日 - 1855年3月2日)。 ロマノフ朝第11代皇帝(在位:1825年12月1日 - 1855年3月2日)

1853年 幕府、ロシアとの領土交渉(「大日本古文書幕末外国関係文書之三」) 「アイヌは蝦夷人のことにて、蝦夷は日本所属の人民なれば、アイヌ居り候ところは即ち日本領に候」
▼1792年の「日本の地ではないので、根室で待つのだ」との整合性は?
1854年 「日露和親条約」締結
エトロフ(択捉)島とウルップ(得撫)島の間を国境とする、樺太は雑居の地とする。(ロシア、樺太の国境画定をせまる)
・ 箱館が開港
幕府、140人余の大規模調査隊を東西蝦夷地、樺太に派遣、松前藩の防衛能力の貧困さとアイヌ民族酷使の実態が報告される    ▼出典は?
**後幕府直轄時代**
▼「日本における北方研究の再検討」(煎本孝)論文「鎖国から開国へと激動する国内、国際情勢の変化に伴い、 蝦夷地は幕府の第2次直轄時代(1855年〜1867年)を迎える。」
1855年  幕府、松前周辺を残し、木古内(きこない)、乙部(おとべ)村以北の全蝦夷地を再直轄
     東北諸藩に蝦夷地警備を命ずる(対ロシア対策)

2019年松浦武四郎生誕200年記念展静嘉堂文庫美術館

1856年 箱館奉行、アイヌ民族を役土人・平土人とする、日本語の奨励
1857年 アイヌ民族への同化政策再開(蝦夷地の混乱を招く)
1858年 (安政5年) 松浦武四郎「戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌」
アイヌ民族への非道の実態を暴く(支配人、番人のメノコ姦奪) アイヌ民族の人口の激減(他場所との縁組を禁止)、 蝦夷地の荒廃(アイヌ虐待、松前藩・御用商人の非道暴露糾弾) 刺客につけねらわれる
松浦武四郎さんの『知床日誌』につぎの報告があります。
奈良女子大学学術情報センターの「知床日誌」のHPです。 有難い研究です。感謝。

「見る影もなく破れて只肩に懸る斗のアツシを着 如何にも菜色をなしける病人等 杖に助りセカチ男子  カナチ女子等大勢其汐干にあさりけるか 我等を見て皆寄来りし故 其訳を聞に

舎利アハシリ両所にては 女は最早十六七にもなり夫を持へき時に至れは  クナシリ島へ遣られ 諸国より入来る漁者船方の為に身を自由に取扱ハれ
 男子は娶る比に成は遣られて  昼夜の差別なく責遣ハれ 其年盛を百里外の離島にて過す事故 終に生涯無妻にて暮す者多く  男女共に種々の病にて身を生れ附ぬ

病者となりては働稼のなる間は五年十年の間も故郷に帰る事成難く  又夫婦にて彼地へ遣らるゝ時ハ 其夫は遠き漁場へ遣し 妻は会所また番屋等へ置て番人稼人皆和人也の慰ミ者としられ  何時迄も隔置れ

それをいなめは聞し由を委に話しけるに 此一事ハ同人も深く心を用ひ居らゝ由にて  懇にうけかひ呉られけるも嬉し
余も今はかゝる事まても彼等の言の訳る迄に其国言に通せしそ嬉しけれは  取敢す一首の腰折を其壁にしるし置ものなり 日数へし程もしられて 蝦夷人の言も聞わくまてに成けり          知床日誌終」

1859年(安政6年) 幕府、蝦夷地を東北6藩の分領支配とする ロシアと樺太の領土交渉
1862年(文久2年) ロシアと樺太の領土交渉
1865年 英国領事館員、森(もり)村、落部(おとしべ)村のアイヌの墓を盗掘する
▼アイヌ人骨盗掘事件。大問題だった。
▼昨晩すでに布団に入っていた私を家内がわざわざ起こしに来てくれた。ETV特集選「アイヌ民族苦難の歴史いまを生きる若者たち」をやっているからと。 北海道大学のアイヌ人の盗掘した頭蓋骨の返還のシーンがあった。アイヌの川村兼一さんの謝罪要求に対して大学側は押し黙って「謝罪」を拒む。 耐えきれず同席していた大学の若い研究者一人涙ながらに謝罪する。このシーンを見て、私は今朝4時半に目が覚めて眠れなかった。 アイヌ民族の無念さが心に刺さったままだった。やはり自分はやらなければ、との思いを強くした。(2019.10.27)
1866年 英国公使アイヌ民族に謝罪
1867年(慶応3) 第15代将軍徳川慶喜「大政奉還」 (10月14日、江戸幕府から朝廷「王政復古の大号令」(慶応3年12月9日、武家政治廃止・君主制に復する) 「日露間樺太島仮規則」調印
▼交渉の経緯をWikipediaで読むとロシアは樺太全部を領有したい意図が見える。
(2018.11.15 取り敢えずここまで完了しました。)
 *開拓使・三県・道庁時代**(居住植民地)
1868年(M元)
1・3「鳥羽伏見の戦」
2・27清水谷公考(しみずたに きんなる)、高野保建両公卿、「蝦夷地開拓に関する建議書」提出
3・9天皇三職(総裁・議定・参与)を召し蝦夷地開拓の可否を下問
3・10 天皇再度三職を召し蝦夷地鎮撫使差遣遅速に関する建言を促す
3・12 廟議に基づき蝦夷地開拓の大方針樹立
3・19 清水谷公考等蝦夷地問題に関する再申書を提出
3・25 副総裁岩倉具視 三職、徴士に対し蝦夷地開拓の事宜三条を策聞
4・12「箱館奉行」を「函館裁判所」に  
4・15 政府、松前・津軽・秋田・南部・仙台・各藩に箱館警備を命ず 
4・17 政府蝦夷地開拓条項7か条指令
5・24「函館裁判所」を「函館府」と改称  
小樽内騒動(※漁民一揆)(4月、御用所襲撃・御用金強奪)
箱館裁判所を箱館府に清水谷公考を知事に
御一新の布告
箱館ハリストス正教会創立
松浦武四郎「蝦夷山川取調調書等」献上
10・20 榎本武揚.幕府脱走軍.函館府を襲撃、清水谷府知事.津軽へ避難
「戊辰戦争」・「明治維新」改元9月8日
「5カ条の誓文」・東京遷都
「天皇 蝦夷地開拓方針下問」
▼明治天皇1852年生まれ、御年16歳。側近が政治を動かしたということ。
▼wp:三職
慶応3年旧12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が出されると、依然として強力な政治体制を維持していた 江戸幕府に代わる政治体制の確立が急務となった。そこで、幕府・征夷大将軍・摂政・関白に代わるものとして、
総裁(有栖川宮 熾仁親王・ありすがわのみや たるひと しんのう)
議定(皇族2名・公卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)、
参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)
の三職が任命された。
慶応4年2月の主な人事  [総裁] 有栖川宮熾仁親王 [副総裁・議定] 三条実美、岩倉具視
▼wp:有栖川宮熾仁親王 時の皇族の第一人者として明治天皇から絶大な信任を受けた。熾仁親王の葬儀は国葬
▼wp:参与
議定の会議は上議院ないし上の議事所、参与の会議は下議院ないし下の議事所とよばれていた。 なお同じく参与でも、廷臣出身のそれは上の参与、藩士いいかえれば徴士(ちょうし)からなる参与は下の参与とよばれた。 しかし、下の参与は西南雄藩出身の有力藩士たちであったから、維新政府の実質的な指導部はここにあった。
▼(HP「屯田兵と北海道の開拓」から)
明治新政府は、次のような「蝦夷地開拓条項」(7カ条)を清水谷公考に指令した。(上記年表の4・17 「政府蝦夷地開拓条項7か条指令」は下記の内容)
一、総督に開拓の用務を委任する。
一、蝦夷の呼称をやめ、測量の上、南北二道に分けて呼称を定めること。
一、各藩から土地開拓の権威を招き、総督の管轄の下に現地の実用に応じて順序を建てて開拓を進めること。
一、蝦夷地からの税収は開拓費に充て他用しないこと。
一、開拓を希望する諸藩に土地を割渡し(割譲)してもよい。開拓した場合は検査の上、相応の課税をする。
一、北蝦夷地(樺太)が見える宗谷付近に一府を設定すること
一、蝦夷地開拓の目途がつき次第、北蝦夷地開拓の方策を立てること。
▼2月、3月の動きを見ると明治政府の喫緊の課題が対ロシアのための北海道開拓にあったことがよくわかる。 しかし、そもそも誰の土地を開拓しようとしているのか。 アイヌ民族が全く眼中にない。特に問題は「開拓を希望する諸藩に土地を割渡し(割譲)してもよい」との点。
▼wp:ハリストス(ギリシア語: Χρiστοs, 教会スラヴ語・ロシア語: Христос)は、 中世以降のギリシア語の発音(フリストス)を基にした教会スラヴ語・ロシア語での発音に由来する、日本ハリストス正教会において使われる表記。
1869年(M2)
5・18  榎本武揚・脱走軍・降伏、五稜郭・明け渡し
5・21「蝦夷地開拓御下問書」・「蝦夷地開拓の大方針」

「蝦夷地の儀は皇国の北門、山丹・満州に接し、経界祖定といえ共、北部に至りては、 中外雑居致候処、是迄官吏の土人を使役する、甚だ苛酷を極め、外人は頗る愛恤を施し候より、 土人往々我邦人を怨離し、彼を尊信するに至る。
一旦民苦を救うを名とし、土人を煽動する者ある時は、其禍忽ち箱館、松前に延及するは必然にて、 禍を未然に防ぐは、方今の要務に候間、箱館平定の上は、速に開拓教導等之方法を施設し、 人民繁殖の域となさしめらるべき儀に付、利害得失各意見忌憚無き申し出ずべく候事。」
(蝦夷地は日本防衛の北の最重要地であり、国境を粗(あら)く定めたとは言え、 北部(樺太・サハリン)では日本人とロシア人が雑居しており(1855年、日露通交条約で千島の択捉島と得撫島の間に国境を設けたが、 樺太については設けず、1867年の「樺太千島ニ関スル仮規則」で両者の雑居地とみなすと定めた)、日本人は官吏がアイヌを酷使しているのに対して ロシア人は丁重に扱っているので、アイヌは日本人よりもロシア人を信頼している。
もしロシア人がアイヌを煽動したら、その禍は箱館・松前にまで及ぶ。だからそれを未然に防ぐために「箱館平定」 (榎本軍平定)後はすぐに開拓教導し、人民繁殖の域とするべきだ。そのことで十分に意見を出してほしい。)

*天皇から蝦夷地開拓総督中納言議定・鍋島直正への勅宣
「蝦夷地の開拓は皇威隆替の関する處、一日も忽せにすべからず、汝直正深く国家の重きに荷ひ、 身を以て之に任ずるを請ふ、其憂国済民の至情嘉納に堪えず、獨り恐る、汝高年遽かに殊方に赴くを。 然共朕之を汝に委して、始めて北顧の憂なし仍而督務を命ず。他日皇威を北彊に宣る、汝が方寸にあるのみ、汝直正懋せよ」
(いかに蝦夷地の開拓が国際的に重視されたかを知る)
         
6月「版籍奉還」領地領民を天皇に返上、松前兼広、館藩知事に「知藩事」(藩知事)

「開拓使」設置、開拓使時代へ(1869〜1881)

7・8 「開拓使」(明治政府の直轄機関)設置、東京芝増上寺。 長官・佐賀藩主・中納言議定・鍋島直正(8・6退任)
8・15「蝦夷地」を「北海道」と改称、
11か国(渡島・胆振・日高・後志・北見・千島・石狩・天塩・十勝・釧路・根室 )86郡を置く、 千島国はクナシリ、エトロフ、「蝦夷地」の「和人地」化(人口6万人、含むアイヌ)
アイヌ民族にとって「アイヌモシリ」の消滅を意味する事
▼8・15「アイヌモシリ」の消滅。こういう8・15があったことにはじめて気づきました。(2020.7.3)
「蝦夷地」は「和人地」(シャモ地松前地)と区別された「異域」。
蝦夷地は幕藩制国家の支配の及ばない異域、あるいは異民族の地を指し国家外を意味する。
道は、古代国家に淵源をを持つ領域概念

萱野茂
「アイヌはアイヌモシリ、すなわち日本人が勝手に名づけた北海道を日本国へ売った覚えも、貸した覚えもございません。」
「なぜ、アイヌモシリとアイヌ民族は日本に属するのか」津軽藩、南部藩、伊達藩が、青森県、岩手県、宮城県と改称されたのとは質が異なる。
近代天皇制国家によるアイヌ民族への「植民地支配」の開始  
9月 「開拓使」函館出張所、第2代長官・東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)赴任
「場所請負人」(場所請負制度)廃止(松浦武四郎の強い建議)。
翌年「魚場持(ぎょばもち)」と改称(M3年10月)
アイヌ民族を奴隷のように酷使して濡れ手にアワのように大儲けした商人たちは連名で嘆願状を出し 従前どおり搾取を続けた(奸商は開拓使長官と取引、松浦武四郎開拓使判官辞任)
10月 根室・宗谷に出張所設置 
▼3月  天皇、東京に転居
▼17歳の天皇が55歳の病身の鍋島直正への勅宣は直正(2年後に亡くなる)への懇請とも聴こえる。
▼8・15「蝦夷地」を「北海道」と改称したときの「北海道」の人口はアイヌ民族を含んで6万人だったようです。 当時日本全体の人口は3,110万人(壬申戸籍による)です。
▼ wp:「開拓使」という名称は、律令制の下で使用された令外官の職名であり、太政官などとともに明治になって再度使われた。 令外官の多くは、〇〇使という名称が充てられた。
開拓使は、北方開拓のために明治2年(1869年)7月8日から明治15年(1882年)2月8日まで置かれた。 明治政府は中央・地方官制に頼らず、国家権力の独自の政策、つまり、「蝦夷地之儀ハ皇国ノ北門」という認識であり、 ロシアに対する危機感とともに開拓自身が近代国家の任務と考えられ、開拓のための臨時の地方行政機関であった。 省と同格の中央官庁の1つで、北方開拓を重視する政府の姿勢の表れだが、 初めの数年は力不足で、内実が伴いはじめるのは明治4年(1871年)からであった。

▼ wp:「開拓使の2代長官・東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)は、農工民約200人をともない、 イギリスの雇船テールス号で品川を出帆。9月25日に箱館に着任した」とあります。 開拓の、侵略の、意気込みが分かります。
 1870年(M3)
* 黒田清隆、5月開拓使次官に就任(参議〈国務大臣〉・陸軍中将、屯田兵統理を兼務)北海道は黒田王国と呼ばれる
*開拓使の施政方針「開拓見込大略」
1 海漕を利し、以って人民に便し、且諸物品の有無を通すべき事。
2 人民を移し、開拓の基を立べき事。
3 移住人え恒産を制し与え、専ら開墾を勉め、農業を勤むべき事。
4 漁場を増開て、海に遺利無之様致すべき事。
5 地宣(よろしき)を相(み)て、生産を阜(さかん)にすべき事。
6 金銀鉱を開て、貨源を広むべき事。右当務也。
7 内地同様、府県の制を定べき事。
8 海陸軍を置て、防備を厚くすべき事。
9 大小学校を興して、大に皇化布施すべき事。
  右後来見込也。当見込大綱、如此御座候事。
    明治3年5月  開拓使
▼ユポさんは「開拓見込大略」を
アイヌ民族の生存権の無視・否定
アイヌ民族の自決権の無視・否定
「アイヌモシリ」の無視・否定
断じられる。
▼わたしは、少なくとも1870年以前の、場合によってはシャクシャイン以前の アイヌ社会を取り戻すための訴訟を準備しています。(2020.7.3)

対ロシアへの国防・軍事的観点から見る重要な地
明治政府による「北海道開拓」の最大の目的
和人・シャモによる開拓
*「オムシャ」廃止
*「移民規則」制定 12月
・農家伍組の制を立て、村長および惣取締を置き手当てを支給
*夕張アイヌ民族、強制移住
▼明治政府はもっぱら対ロシアへの国防・軍事的観点から蝦夷地開拓を考えている。
現在の沖縄の米軍基地問題と似ている。
明治政府はアイヌ民族を犠牲にして対ロシア軍事政策、アイヌ民族は眼中にない。
現在は沖縄を犠牲にして対中国・ロシア軍事政策、沖縄人は眼中にない。
いずれも東京の「日本」を守るため。

明治3年のこの「蝦夷地開拓の大方針」がアイヌ民族のその後の運命を決定づけた。
▼オムシャとは、資料を読むとアイヌ民族に服従を強いる儀式。
1871年 (M4)
「廃藩置県」、館藩(松前藩)は、「館県」に、箱舘は「箱舘県」に
「開拓使」・「北海道開拓10年計画」樹立、黒田清隆 献言
*「投資植民地」から「居住植民地」へ *  
アイヌ民族を、法律によって、生活、生業の全てを拘束した
4月「戸籍法」公布  アイヌ民族を日本国民に「強制編入」 「帰化土人」「古民」「土人」「旧土人」
10・8(開拓使布達)
*アイヌ民族の風俗習慣の禁止
・@死亡者の居家焼却、転住の禁止
・A女子の入墨の禁止
・B男子の耳輪の禁止
・C日本語の「強制」・アイヌ語の「禁止」
・アイヌ民族の開墾者に日本式家屋、農具を与える
アイヌ民族への新たな支配と差別の始まり
アイヌ民族の日本人化・皇国の臣民化(強制同化政策)
明治の礎「北海道開拓」第ニ章
「黒田清隆が10年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画を建議し、いわゆる「開拓使10年計画」が決定される。」
明治4年の国家予算歳出合計は5,773万円。(池田さなえ「皇室財産の政治史」14頁 人文書院)
統計表一覧:財務省 https://www.mof.go.jp/budget/reference/statistics/data.htm
第6期6,267万円、第7期8,226万円、第8期6,613万円、明治8年度6,920万円、明治9年度5,930万円、明治10年度4,842万円、
▼ wp:明治末以降には、北海道・樺太などの開拓に伴いアイヌ民族を公式に「旧土人」と称した。
1899年(明治32年)(北海道旧土人保護法)新札幌市史によると元々の住民アイヌ民族を旧土人、開拓者を新土人と概念上区分し、 旧土人が官庁用語として残ったとある 。
新札幌市史編集長海保洋子. “近代のアイヌ民族史”. 公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構. 2016年11月15日閲覧。
「「古民」、「土人」は土地の人という意味で、本州で古くから使われているのですが、それを「旧土人」に呼称を統一します。 なぜ「旧土人」かということを申しますと、近世の呼称の「土人」を「旧土人」にしたわけです。では、 「新土人」は誰かといったら、開拓者たちが相当するのですが、もちろん「新土人」という言葉の使われ方はありません。」                                   

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1872年(M5)
3月、「開拓使仮学校」東京芝増上寺に開校。同校と青山開拓使官園にアイヌ子弟35人を「強制連行・強制入学」
5月、日本語教育、和風化教育
* 黒田清隆開拓次官、正院に届書提出〔正院:天皇を補佐して国政を統轄する為に設置された太政官の最高官庁で現在の内閣にあたる〕

「元来、北海土人の儀、容貌言語全く内国人とは異種の体をなし、従て風俗も陋習を免れず、即今開拓盛挙の折柄、従前の風習を脱し、 内地と共に開化の域に進み、彼我の殊別なからしめ度」

アイヌ民族の風俗習慣は陋習(悪い習慣、いやしい習慣)醜風(みにくい、恥ずべき風習) で北海道開拓の邪魔になるから、内地人と同じように開化しなければならない

9月、「開拓使」本府を札幌に置く
「土地の収奪」
*「開拓使以後のアイヌ民族無視の土地政策」 
9.20「北海道土地売貸規則」(全9条)・「地所規則」(全19条)
北海道は「無主の地」としてすべてを国有地に編入
「深山・幽谷・人跡隔絶の地」を除き、全ての土地を私有地として、開拓者に下付するための政策。
「私有地」としての下付対象者は、「永住寄留人」移住した和人。アイヌ民族は対象外。
「山林川沢、従来土人等漁猟伐木仕来し土地と雖、更に区分相立、持主或は村請に改て、是又地券を渡」・・イオルも和人に譲渡。
和人開拓者に、1人10万坪(33ha)、10年(15年)間 除租。
「地租改正条例」で、山林を国有地に、北海道で明治政府は、発展の見込める原野や森林は皇室財産に組み入れ、 残る地質の良い未開地は、公家や貴族たちに払い下げ、天皇の「御料地」「皇室財産」とした。
▼ユポさんの上記記述は「地所規則」の下記条文に依っています。
第七条「山林川沢従来土人等漁猟伐木仕来シ地ト雖モ更ニ区分相立持主或ハ村請ニ改メ亦地券ヲ渡シ…尤深山幽谷人跡隔絶ノ地ハ姑ク此限ニアラサル事」
第八条「原野山林等一切ノ土地官属…都テ売下ケ地券ヲ渡シ永ク私有地ニ申付ル事」
第九条「売下之地一人十万坪ヲ以テ限リトシテ」
「地所規則」はユポさんご指摘のようにアイヌ民族から土地を収奪したもの。これへの補償が150年後の今、問われています。 私は特に第七条の「従来土人等漁猟伐木仕来シ地ト雖モ」という明治政府の姿勢が許せません。
「1872(明治5)年以降1885(明治18)年までに「北海道土地売貸規則」によって和人に売り下げられた土地は、 2万9239町歩、無償貸し付け地は7768町歩の計3万7007町歩にのぼる。これらの事実は、 和人によるアイヌ・モシリの奪取、しかも法による奪取が確実に進行し出したことを示すものであった。」 (下線は引用者)(榎森進『アイヌ民族の歴史』(395〜396頁))
▼ 3万7007町歩=366平方キロメートル 琵琶湖=670平方kmすなわち琵琶湖の54%が和人の手に渡った。
当時アイヌ人口は16,270人だったようです。
「地所規則」がアイヌの人たちにも適用されていたとすれば 16,270×33ha=536,910 ha=5,369平方kmすなわち琵琶湖の8個に当たる広さの土地がアイヌ民族に割り当てられることになります。
1873年(M6)
札幌郡にて、鮭のウライ漁を「禁止」
「徴兵令」(1月)
「福山騒動」(5月)
「江差騒動」(6月)
「地租改正条例」(7月) 「屯田兵設立建白書」(12月25日)
アイヌ人口16.270人(全道111.196人)樺太348戸2.372人
「福山騒動」について
開拓使が漁権税を引き上げたことに抗して福山、江差周辺の漁村民が強訴し騒擾を起こした事件で、 開拓使は第二鎮台から二個小隊(青森)の派遣を受け鎮圧。北海道に軍事面と開拓両面から屯田兵制度の実施が必要であると確信していた 黒田清隆はこの機をとらえて制度実施の建白を行うこととなる。
▼ wp:地租改正は、1873年(明治6年)に明治政府が行った租税制度改革。 この改革により、日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立したことから、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。 上諭(じょうゆ)と地代の3%を地租とする旨を記載した1ヶ条の地租改正法と具体的な規定を定めた 地租改正条例などから成る太政官布告第272号が制定され、明治政府は翌年1874年(明治7年)から地租改正に着手した。
▼ 上諭(じょうゆ)とは、日本国憲法の施行前の日本において、 天皇が法律、勅令または皇室令を裁可し公布する際に、その頭書に天皇の言葉として当該法令を裁可し公布する旨を記した文章のことである
▼ wp:壬申戸籍の項目を見ると、アイヌ人口16.270人(全道111.196人)樺太348戸2.372人がほぼ理解できる。
先の「地所規則」がアイヌの人たちにも適用されていたとすればを訂正します。正しくは樺太348戸2,372人を加えると (16,270+2,372)×33ha=615,186 ha=6,152平方kmすなわち琵琶湖の9個に当たる広さの土地がアイヌ民族に割り当てられることになります。(2020.4.28)
屯田兵設立の経緯
このHPによると明治6年11月18日「屯田兵設立建白書」が開拓使次官 黒田清隆から右大臣 岩倉具視に出され、 太政官は大蔵・陸軍・海軍の関係三省に諮問の結果、いずれの省も屯田兵の設置には基本的に賛成し、12月25日には太政大臣 三条実美から開拓使宛に原則的に黒田の建議を承認する達書を送り、ここに屯田兵制度の設置が決定を見ることになった、となっている。
1874年(M7)
*「屯田兵制度」設ける(6月)(古代大和天皇国家武装植民「柵戸経営」)
▼札幌市のHPより
明治7(1874)年に札幌に初めて屯田兵が、 琴似屯田兵村 に入植しました。
「屯田兵例則」
「台湾出兵」
*鹿の乱獲*
・開拓使「美々鹿肉燻製製造所・脂肪製造所」建設(M17廃止)
(M12・人造硝石床製造所(鹿の臓腑、血液)併設)
・缶詰・鹿皮・角
・10年間に40万頭捕獲、絶滅寸前、アイヌ民族に食糧危機
▼ wp:屯田兵の根拠となる太政官達
開拓次官の黒田清隆が1873年11月に太政官に屯田制を建議した。樺太と北海道の兵備の必要と、そのための費用を憂え、 「今略屯田の制に倣い、民を移して之に充て、且耕し且守るときは、開拓の業封疆の守り両ながら其便を得ん」というものであった。 黒田が考えたのも士族の活用であったが、彼の場合旧松前藩と東北諸藩の貧窮士族を想定していた。 太政官は黒田の提案に賛成し、1874年(明治7年)に屯田兵例則を定めた。 1875年(明治8年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地で、屯田が開始された。
▼ ユポさんの年表になぜ「台湾出兵」なのか不思議でした。榎森進さんの『アイヌ民族史』(379〜381頁)を読んで納得しました。
琉球問題から解き起こされています。
「琉球は、近代初頭に至るまで中国(明朝、清朝)と日本の「両属国家」になっていた。 幕藩制国家が崩壊し、近代天皇制国家の形成を目指す新政府が成立するや、新政府は、琉球を清朝の冊封体制から切り離し、 名実共に日本の支配下に再編しようとする動きをし始めた。
それを実行するうえで恰好の材料となったのが1871(明治4)年11月6日、琉球の宮古島の船員が台湾南部に漂着し、 現地先住民「生蕃(せいばん)」に殺害される事件であった。
まず地ならしとして1872(明治5)年9月14日、一方的に琉球を「琉球藩」、 国王を「藩王」と称するよう勅令を以って示達し、この事件を清国領の領民が日本国民である琉球の人々を殺害した重大な事件である、 との枠組みを用意する。
そして1874(明治7)年5月、台湾蕃地事務都督西郷従道が率いる 3600名の日本兵が台湾南部の先住民の居住地を掃討するにいたった。これが「台湾出兵」である。
その後9月、この問題での清国との交渉過程で琉球人が、清国の冊封体制から離れて「日本国属民」であることを認めさせることに成功する。
明治政府はこれを大きな土台にして1879(明治12)年4月4日、琉球藩を廃止して沖縄県を設置し、 琉球を名実共に日本の一部に編入するに至ったのである。この一連の過程が「琉球処分」と呼ばれるものである。
この台湾出兵問題は、対外関係での「脱亜」にとどまらず近代日本における内なる「脱亜」をも強力に迫ることとなった。
   美々鹿肉燻製製造所跡i
それが「蝦夷地」の内国化とアイヌ民族の日本国民化であった。」
このような背景が「台湾出兵」を「アイヌ民族の歴史」でユポさんが取り上げられる理由であることに合点いきました。 琉球とアイヌはこうして繋がっています。ユポさんの感覚に脱帽です。
美々鹿肉燻製製造所跡
開拓時代の美々(現・新千歳空港周辺)はエゾジカの天国だった。美々には鹿肉罐詰所と脂肪製造所が設けられましたが、当時 千歳一帯は石狩地方に比べて冬場の積雪が少ないので鹿が食を求めて大挙群集していたのだとか。 鹿の乱獲と大雪による食糧難からの餓死、鉄道の開道による開拓などで、鹿の数が激減し、さらには官 営工場だったこともあって経営は振るわず、明治17年に工場は廃止されています。
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1875年(M8)
       2020.2.17朝日新聞朝刊
「「豪州の日」と呼ばれる記念日がある。1788年1月26日に英国の船団が上陸したことを祝う。 しかしそれは先住民からすれば「侵略の日」に他ならない。他者の目で歴史を見る。そのことに私たちは慣れていない。」
私のHPはまさしく「他者の目で歴史を見る」作業です。(2020.5.25)

「樺太・千島交換条約」締結(5月7日)
・ 樺太はロシア領、千島を日本領とする
9月9日〜10月1日 樺太から92戸841名のアイヌ民族を宗谷に「強制移住」
10月7日 石狩原野へ再移住を指示(アイヌ民族、移住反対上申書を開拓使に提出)翌年、 官憲を動員して6月13日から小樽経由で石狩国 対雁(ついしかり)に「強制移住」
樺太アイヌ
「山林荒蕪地払下規則」

▼wp:「樺太・千島交換条約」
樺太での日本の権益を放棄する代わりに、エトロフ島以北の千島18島(第1島シュムシュ島…第18ウルップ島) をロシアが日本に譲渡する。
▼日露の都合で翻弄されるカラフト・アイヌ民族
▼(5月23日)「山林荒蕪地払下規則」全8条
「家禄奉還資本金を受け取った者で家産営業の為北海道で地所払下を願出でた場合は、 「北海道土地売貸規則」により、規則に規定された地価の半額を以て払下げ、 規則の2倍に当る20カ年租税を免除し、代金は公債証書も苦しからず。 …明治維新政府が直面した一番大きな問題の一つは士族にたいする政策であった。」(『北海道農地改革史』上巻41頁)
▼維新当時、士族(含む卒)は42万人、その家族を含めると194万人になる(明治5年の族籍別人口表より)。 今風に言えば、42万人の行政マンとその家族を維新というリストラで路頭に迷わせ、 その対策としての北海道開拓が明治政府の考えであった。アイヌ民族そっちのけで。
1876年(M9)
全てのアイヌ民族に「創氏改名」(明治9年7月19日第48号布達)
「平民」籍に編入(族称・華族・士族・平民)
解放令によって被差別部落の人たちを「賎民」から「新平民」
「穢多・非人」の身分を廃し身分職業とも平民同様とすること
アイヌ民族の「皇国の臣民化」
アイヌ民族の民族性の抹殺・民族の根絶
「本願寺道路」完成(東本願寺)7月、アイヌ民族強制労働
アメリカから西部開拓を学ぶため、米国第2代農務省長官ホーレス・ケプロン開拓顧問団招聘。10年余で78人を招いた。 太政大臣より高い年棒1万ドルの給与。4年の在任中、3回の来道、北海道開拓のマスタープラン作成。
インデイアン政策をアイヌ政策に実施(ドーズ法)。
  「風習の洗除」(開拓使布達・9月30日)
「北海道旧土人従来の風習を洗除し教化を興し、漸次人たるの道に入らしめんが為、 辛未(しんぴ・1871年)10月中告諭(趣旨を告げたもの)趣も之有り、既に誘導を加え候処、 未だ其風習を固守候者之有る哉に相聞、旨趣貫徹致さず不都合の次第候。 元来誘導教化は開明日新の根軸に候処、今に右様陋習之有り候ては、往々知識を開き物理(物事の道理)に 通じ事務を知らしめ均しく開明の民たらしむるの気力を振作するの妨害と相成、忽にす可らざる儀候条、就中(なかんずく) 男子の耳輪を着け出生の女子入墨致等、堅相成らぬ旨、父母たる者は勿論、夫々篤く教諭を尽くし、 自今出生の者は尚更厳密検査を遂げ、此風俗を改候予防方法相立取締致すべし。 而して自今万一違反の者之有り候ば、己(やむ)を得ず厳重の処分及ぶべき筈(はず)に付 時々詳細具状致す可きは勿論、予(かね)て能此(よくこの)懲罰あるを戒置(いましめお)くべし。」
「アイヌ民族の戸籍」完成
萱野茂「アイヌの民具」154頁
・創氏改名(アイヌ人口1万7千人)
・「鹿猟禁止」(和人の猟師による鹿の乱獲)
・「北海道鹿猟規則」
・仕掛け弓・毒矢猟の「禁止」(アイヌの事実上の狩猟禁止)
「札幌農学校創立」 
「日朝修好条規」
* 開拓使、「官営工場」(官営麦酒醸造所の設置、後に大倉喜八郎 (※Wikipedia:大倉は明治元年(1868年)に有栖川宮熾仁親王御用達)に格安で払い下げ。 他数十件の払い下げ、資本投入1000万円以上、払い下げ価格、数十万円。)
▼ ユポさんがなぜ本願寺道路を特に取り上げておられるのか。調べてみました。
▼ wp:「本願寺道路は、明治初年に東本願寺が石狩国の札幌と胆振国の尾去別(おさるべつ)とを山越えで結ぶ街道として建設した道路で、 1871年(明治4年)に開通した。
建設は東本願寺による北海道開拓政策の中心事業の一つとなるもので、「本願寺街道」「有珠街道」ともよばれる。
現在の国道230号の基礎となった。
アイヌ古老は、結局労働の土台となっていたのはアイヌであると指摘している。」

要するにアイヌ人の労働であったことがわかりました。
▼ 東本願寺は現在この事実をどのように捉えているか、大変興味があります。仏教者としてアイヌ民族への「償い」を考えているのか。

▼『北海道農地改革史』上巻第6章第4節「北海道旧土人保護法による土地処分」では、 アイヌ民族に対する所有権の付与の変遷が97頁〜104頁まで詳述されています。
結論としてその過程が「北米合衆国のインディアン保留地の処分に彷彿たるものがあった。」と締めくくられています。 つまり明治9年に発想されたことがその後のアイヌへの土地政策を規定したといえます。
『北海道農地改革史』上巻は昭和29年、編集・発行の北海道の記録史。

▼ドーズ法についてwp より要約:
ドーズ法は、1887(M20)年2月8日に成立。この法案は、 「小土地所有農民としての自立・同化がインディアンにとって最善である」という信念をもった、 「インディアンの白人同化」を前提とした「人道的」な勢力と、インディアンの土地への欲望に駆られた産業界、 移住者との意向が一致して成立したものであったが、当事者であるインディアンは大部分が反対した。

もともとスー族やシャイアン族、コマンチ族といった大平原と以西の狩猟民族たちにとって、 土地は「狩猟の領域」であり、誰のものでもなかったのである。
インディアンはそもそも大地を母と考え、今でもティーピーの柱を建てる際にも大精霊に許しを乞うような民族である。 個人が土地を割り当てられて農場を強制されたからといって、自給自足が成立するなどという考えは、 そもそもが農耕民族である白人たちの机上の空論に過ぎず、ただ社会を堕落させるのみだった。 同様の問題は、豪州のアボリジニなどに見られ、未だにこれは解決されていない。


▼大地に対する考えはインディアンもアイヌ民族も共通。
そもそも土地は「狩猟の領域」であり、誰のものでもなかったのである。
土地の個人所有という観念が馴染まない。

▼「男子の耳輪を着け出生の女子入墨致等、堅相成らぬ」わざわざ念入りに。
▼「アイヌ民族の戸籍」について。
榎森進『アイヌ民族の歴史』では「このアイヌの戸籍への登録、「日本国民」への編入の問題で見落としてならないことは、 それがアイヌ民族の民族文化の否定策や和人への同化策のみならず、新たな身分差別と並行して行われたということである。」(389頁) と指摘されている。
「風習の洗除」「創氏改名」がそれである。

▼明治9年人口17,000人。記憶しておくべき人数。
▼「鹿猟禁止」について。榎森進『アイヌ民族の歴史』(396〜398頁)
「アイヌ民族の生産や生活に大きな打撃を与えたのが、開拓使が鹿猟に関する新たな規則を定めたことであった。
 ●1875(明治8)年9月30日、「胆振・日高両州方面鹿猟仮規則」により、アイヌがアマッポ(仕掛け弓) で鹿猟を行う場合は、それを設置する場所を届け出る必要があった。
 ●11月には夕張・空知・樺戸・雨竜、
 ●翌1月には十勝まで適用。
 ●9月には毒矢の使用を禁止し、
 ●11月には北海道全域を対象とした「北海道鹿猟規則」を定めた。
アイヌ民族の生産・生活で大きな役割を果たしてきたのが、河川での鮭漁を初め海での漁業や海獣狩猟と山野での狩猟、 特に鹿猟で捕獲した鹿は、肉は食料として、皮は自家用及び和人向け商品として大きな役割を果たしてきた。 河川及び海での漁業権が一方的に奪われ、しかも鹿猟も禁止され、こうした明治政府の政策のため餓死するアイヌが続出した。」

▼ wp「日朝修好条規」について より。
修好条規は12款で構成され、条文は漢文と日本語で書かれた。 両国の国名はそれぞれ「大日本国」、「大朝鮮国」と表記することとした。
第一款 朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める。
近代国際法の立場から見て、当時の朝鮮をどのように位置づけるかは種々の意見があったが、日本はこの一文を入れることで、 朝鮮を近代国際法に於ける独立国に措定しようとした。「自主の国」=独立国という解釈であった。
つまりそう措定することで清朝が朝鮮に介入する余地を無くそうとした。
             
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1877年(M10)
「魚場持」制度廃止、河川の生態系の破壊、乱獲、漁撈禁止
9月 箱館を函館に改称
11月「北海道在住令」(全4条)
「移住民」募集開始、北海道に籍が無くても、居留して開拓を志す者、 在住官員で開墾志願の者に土地を割譲する、藩解体の藩主、藩士(3ヵ年食料下付)
12月13日「北海道地券発行条例」(全58条)  アイヌ民族の居住地をすべて官有地第3種に一方的に編入
*「旧土人住居の地所は、其種類を問す当分総て官有地第三種に編入すべし」
(第16条・アイヌが将来農耕するための土地として一時国で保管しておく)アイヌ民族は未開の土人であるから、土地の管理能力が無い、国家が管理する。
*北海道人口191,170人(アイヌ民族17,098人)
▼『北海道農地改革史』上巻(37〜39頁)の「北海道地券発行条例」に依ると
「明治政府は地券発行に際し、…地租を課さない官有地と地券を渡し地租を課する民有地に大別した。
「北海道地券発行条例」でも北海道の土地を官有地と民有地に二大別した。
官に於いて使用管理する土地は勿論、未だ利用の確定しない「山林・川沢・原野等」も悉く官有地とした。
先住民族のアイヌの住居地は、その種類を問わず当分すべて官有地第三種に編入した。(条例16条)」(下線は引用者)

▼榎森進『アイヌ民族の歴史』によると
「新政府は、1869(明治2)年9月、場所請負制を廃止した。
その目的は場所請負人による排他的独占的な漁場及び土地の占有を廃止し、幕末に急成長を遂げてきた直接生産漁民を初め、 新たに北海道に移住する漁民に漁場を与えることにあった。
萱野茂「アイヌの民具」181頁
アイヌ民族には、和人の直接生産漁民に与えられたような漁業の権利は与えられなかった。)
しかし一挙にに廃止することができず、10月には、旧場所請負人を当分「漁場持」とした。
場所請負制が名実共に廃止されたのは、1876(明治9)年に「漁場持」の名称が廃止されてからである。
新たな漁業制度が実施される中で、
鮭の遡上する河川や豊富な海の幸を与えてくれる海での漁業権の多くが 和人の旧場所請負人や新旧の直接生産漁民に与えられた結果、河川や海におけるアイヌ民族の漁場が奪われることとなったのである。」 (393頁)
(下線は引用者)
▼明治政府の10年間はアイヌ民族にとっては生活手段をことごとく奪われ、 文化を破壊され、民族の尊厳は無視され、和人化を強要される10年であった。
土地に対する権利、漁業に対する権利の回復が当然のこととして必要になってくる。
1878年(M11)
アイヌ民族の呼称を「旧土人」とする
▼「旧土人」の呼称については1871年(M4)の補充を見てください。
* 鮭・鱒の川漁「禁止」10月
『アイヌ民族の歴史』p425(草風館)
1879年(M12)
「琉球処分」琉球藩を廃し、沖縄県を設置
▼1874年(M7)「台湾出兵」の補充で「琉球処分」の背景についても触れられています。
1880年(M13)
日高国 佐瑠太学校平取分校開設 有珠村にアイヌ学校開設
1881年(M14)
「官有物払い下げ事件」(国会・北海道議会 開設運動へ)
「樺戸(かばと)集治監」設置(以後空知、釧路、網走、十勝、囚人使役)
▼ wp:開拓使官有物払下げ事件は、北海道開拓使長官の黒田清隆が開拓使官有物を同郷薩摩の政商五代友厚らの 関西貿易商会に安値・無利子で払下げることを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、 払下げ中止となった事件を指す。
▼明治3年から10年余黒田清隆の開拓使時代の終焉。勢いのある政治家の最後はやはり汚れた形で終わる。 今、日産のゴーン前会長の役員報酬が問われている。
▼「樺戸(かばと)集治監」設置について月方町HPより:
明治維新の動乱(佐賀の乱、熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱、西南の役など)が全国各地で起き、 多数の国事犯・重罪人がでたため、明治新政府は、収容する施設を早急に整備する必要に迫られた。
そこで、当時未開の地「北海道」を流刑地として囚人を送り込めば、反政府の危険分子を隔離することが出来き、 また、農耕に使役して食糧を自給自足すれば経費負担も軽減できるとして、明治13年、内務省から北海道に調査団を派遣しました。
朝日夕刊2020.10.17 日本一の一直線
29.2キロメートル

明治14年、東京・宮城に続き全国で3番目、北海道で最初の集治監「樺戸集治監」が、収容者数約1500人規模の「農事監獄」として始まった。
樺戸集治監は後に北海道の大動脈ともいえる上川道路(札幌→旭川)(国道12号)の開削に着手。 囚人の外役作業として過酷な労働を強いることになった。しかし、このことによって、 北方警備と開拓者としての屯田兵や移民が入植できるようになり、開拓の基礎を樺戸集治監の囚人が担った功績はとても大きい。

▼北海道は鎌倉時代から流刑の地、と中央政権から見られていたようだ。
1882年(M15)
開拓使にかわって「函館」「札幌」「根室」の三県・一局を置く(3年間)
1883年(M16)
十勝川の「鮭漁禁止」
・十勝アイヌ民族、飢餓状態となる
「北海道転籍移住者手続」・太政官布達
「旧土人教育基本金」(明治大帝陛下恩賜金・1000円)
*「土人救済方法」
「旧土人教育方法協議会」設立流会

帯広を通って流れる
十勝川
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』
「1883(明治16)年の十勝地方の河川での鮭の禁漁に伴って生じたアイヌの惨事は目を覆うばかりのものとなった。
すなわち、1883(明治16)年5月、札幌県は、十勝管内大津川より中川郡安骨村字チャシコチャまでを除く(河口から15q)他の河川での鮭漁を禁止したが、 これにより翌1884(明治17)年、十勝川上流のアイヌは、食糧不足から飢餓に襲われ
「漸次食絶エ、飢餓旦夕(たんせき)ニ迫リ、只座シテ死ヲ待ツカ如シ」(『晩成社日記』)状態に追いやられたのである。」 (399頁)
(下線は引用者)
▼明治政府よ、ここまでやるのか!この時から135年経っている。どう償うべきか。これも回復訴訟の対象。(2020.7.3)
1884年(M17)
北千島アイヌ民族97人を、色丹島に「強制移住」
6月30日〜7月6日(支度に2日間)
釧路アイヌ民族27戸を阿寒郡セツリに「強制移住」
アイヌ民族に「勧農事業」開始
新冠郡、勇払郡、沙流郡地方のアイヌ民族飢餓状態に陥る。
結核、コレラ、天然痘、免疫のないアイヌ民族に蔓延(コロナの今、よくわかる。2020.7.3)
民族絶滅の危機、エスノサイド(民族絶滅)、ジェノサイド(集団殺戮)
▼三県時代もアイヌ民族にとっては極めて厳しい時代。ユポさんをして 「民族絶滅の危機、エスノサイド(民族絶滅)、ジェノサイド(集団殺戮)」と言わしめる所まで追い詰めた和人の明治政府。 われわれ日本人の責任。
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』(428〜429頁)
1911(明治44)年、日高の荷負(におい) 尋常小学校(現平取町内)に赴任した青年教師教師吉田厳は、この地のアイヌの悲惨な生活を目のあたりにして、 その様子を怒りをこめて次のように記している。
「じめじめした室内、暗室の掘立小屋、煤と塵とで埋まってる窓や器物、 不潔狼藉、日光もなく通風もない。奥まった暗がりにキョトンと二つの光った病人の目には時々涙をかわした。 食物の欠乏か、飲料水の不備か、栄養の不良か、生気なく、なえしなび、よぼよぼ風にたへぬオヤジ、 朦朧として炉辺にうつむいているパッコ(老婆)、生けるミイラかとがっかりする。」
(下線は引用者)
▼これはたぶん病気の児童の家庭訪問の時の光景だと思う。心が痛む。その大きな原因をつくり出しているのがわれわれ 日本人であることを思うと、今生き残っているアイヌの人たちに何とか償いをしなければ、という気持ちになる。
1885年(M18)
「旧土人授産事業」開始(農業指導中心、農具種子、10カ年計画)
「天津条約」
「内閣制度」発足

▼なぜ「天津条約」なのか。Wikipediaより。
◇天津条約(てんしんじょうやく、英語:Convention of Tientsin)は、1884年12月に朝鮮において発生した甲申政変によって 緊張状態にあった日清両国が、事件の事後処理と緊張緩和のために締結した条約。
1 日清両国は朝鮮から即時に撤退を開始し、4箇月以内に撤兵を完了する。
2 日清両国は朝鮮に対し、軍事顧問は派遣しない。朝鮮には日清両国以外の外国から一名または数名の軍人を招致する。
3 将来朝鮮に出兵する場合は相互通知を必要と定める。派兵後は速やかに撤退し、駐留しない。
◇甲申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月4日に朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデタ。 親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。
◇親日派のクーデタが失敗し、多くの独立党の人びとが処刑され、あるいは亡命を余儀なくされたことは、 朝鮮半島における日本の立場を後退させた。親日派の力によって日本の政治的・経済的影響力を強めていこうとする構想はここで頓挫し、 やがて、軍事的に清国を破ることで朝鮮を日本の影響下に置くという構想へと転換していった。
▼明治政府による朝鮮支配と日清戦争を理解するためにユポさんは「天津条約」に注目されたようです。 飽くまでも朝鮮半島を支配したいとの明治政府の意思が鮮明。
1886年(M19)
「北海道土地払下規則」(全13条)〔6月29日〕
開拓者1人につき10万坪(33.3ha、これまで通り)国有未開地処分(アイヌ民族対象外)
*「特許植民会社」
*(大資本)強大な統治権
農業植民地への転換
*「北海道庁」設置(三県廃止)
(初代北海道庁長官岩村通俊(いわむら みちとし)・「貧民を植えずして富民を植えん」)
「住民を奨励保護するの道多しといえども、渡航費を給与して、内地無頼の徒を召募し、 北海道をもって貧民の淵藪(えんそう・よりあつまるところ)となす如きは、策のよろしき者にあらず。(中略)
自今以往は、貧民を植えずして富民を植えん。是を極言すれば、人民の移住を求めずして、資本の移住を是求めんと欲す。 よって之を奨励するために、馬耕、農業保護法を設け、一個人又は一会社にして、満五年以内に20町歩以上の土地を懇成したるものには、 その費用(一町歩金70円を以って算す)に対し、懇成後、10カ年間、利子を下付すべし。
民間資本による北海道開拓へ転換
各地で原野を「植民地」として和人に解放、アイヌ民族には一部を生活維持のために「保留地」として確保した
・対雁(ついしかり)の樺太アイヌ民族、コレラと天然痘で300人死亡
・日高、網走でアイヌ民族の「強制移住」
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▼「北海道土地払下規則」を調べました。
第一条「北海道官有未開ノ土地」ハ本規則ニ依リ北海道庁ニ於イテ之ヲ払下クヘシ 
第ニ条 土地払下ノ面積ハ一人十万坪ヲ限トス但盛大ノ事業ニシ此制限外ノ土地ヲ要シ其目的確実ナリト認ムルモノアルトキ 特ニ其払下ヲ為スコトアルヘシ
第十三条 明治五年北海道土地売貸規則 明治七年開拓使布達明治十一年開拓使布達ヲ廃止ス

▼たまたま「BURAKU」の頁を作っていて743年の墾田永年私財法に出会いました。 Wikipediaで読んで見ると1886年の「北海道土地払下規則」に似ていることに気づきました。明治の官僚貴族は王政復興で奈良時代のこのような制度まで 復興させていたことがわかりました。おどろきです。感覚的にはルネッサンス期のヨーロッパ人がその範をギリシア哲学に求めたのに似ています。 おどろきをご自分で実感してみてください。1100年前の法令と目的をWikipediaから引用しておきます。
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)は、奈良時代中期の聖武天皇の治世に、天平15年5月27日(743年6月23日)に発布された 勅(天皇の名による命令)で、墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永年私財化を認める法令である。 古くは墾田永世私有法と呼称した。荘園発生の基礎となった法令である。

勅。如聞。墾田拠養老七年格、限満之後、依例収授。由是農夫怠倦、開地復荒。 自今以後、任為私財。無論三世一身、悉咸永年莫取。其国司在任之日、墾田一依前格。 但人為開田占地者、先就国申請、然後開之。不得因茲占請百姓有妨之地。若受地之後至于三年、本主不開者、聴他人開墾。   天平十五年五月廿七日 『類聚三代格』より

現代語訳: (聖武天皇が)命令する。これまで墾田の取扱いは三世一身法(養老7年格)に基づき、満期になれば収公し、(国有田として他の耕作者へ)授与していた。しかし、そのために(開墾した)農民は意欲を失って怠け、開墾した土地が再び荒れることとなった。今後は、私財とすることを認め、三世一身に関係なく、全て永年にわたり収公しないこととする。国司の在任中における申請手続きは、三世一身法に準ずるものとする。ただし、耕地を開墾してその土地を占有しようとする者は、まず国に申請すること。その後で開拓せよ。また、公衆に妨げのある土地を占有する申請は認めない。もし許可を受けて3年経っても開墾しない場合は、他の者へ開墾を許可してもよいこととする。   天平15年5月27日

ただし『続日本紀』巻十五の同日条を見ると、同じく天皇による命令形式である詔として出され、その中に次の逸文が入っていたことが分かる。 この部分は、位階に応じて私有面積の上限を定めた規定であるが、この部分が上記の『類聚三代格』では削除されている。

「(悉咸永年莫取。)其親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。 六位已下八位已上五十町。初位已下至于庶人十町。但郡司者、大領少領三十町、主政主帳十町。若有先給地過多茲限、便即還公。 姦作隱欺、科罪如法。((其)国司在任之日。)」

現代語訳: ……(その土地の広さは)
親王の一品と一位には五百町、
二品と二位には四百町、
三品・四品と三位には三百町、
四位には二百町、
五位には百町、
六位以下八位以上には五十町、
初位以下(無位の)庶人に至るまでは十町(とせよ)。
ただし、郡司には、大領・少領には三十町、
主政・主帳には十町とせよ。
もし以前に与えられた土地で、 この限度よりも多いものがあれば、すみやかに公に還せ。不正に土地を所有して隠し欺くものがあれば、 罪を科すことは法の如くにする。……

直木孝次郎ほか訳注 『続日本紀 2』 平凡社〈東洋文庫〉(ISBN 4-582-80489-6)による)
▼位による墾田の広さの違いは明治では資本による違いに置き換えられているだけである。 200万町歩の皇室の御料地の維新政府・貴族官僚の発想も「分かる」気がする。
▼岩村通俊とはwp:北海道開拓の重要性を政府に説き、北海道庁設置を働き掛ける。これが認められ明治19年(1886年) に北海道庁が設置されることとなり通俊が初代長官に任命される。
▼wp:1887年(明治19年)にコレラと天然痘が流行し、移住した樺太アイヌの40パーセントが死亡した。
山辺安之助は「明治十九年の夏から秋まで段々激烈になって冬から春にかけて物が沈んでゆくように 親戚の人や友達が後から後から私を置いて世を去った」
『あいぬ物語』)と語っている。
▼「物が沈んでゆくように」…、つらい。読むだけでもつらいのに、書くことはもっとつらかっただろう。ご冥福を祈ります。 この人たちの無念もふくめて今を生きる和人として償わなければならない。(2019.2.5)
「北海道土地払下規則」によって実際に払い下げられた土地は1896(明治29)年までの11年間に、 42万6,800余町歩。4,221平方q 琵琶湖6個分。(榎森進『アイヌ民族の歴史』423頁を参考にしながら)
▼当時のアイヌ民族の人口は17,098人。開拓者1人につき10万坪(33.3ha)であれば17,062×33.3ha=568,164 ha=5,681平方q 。  琵琶湖=670平方qであるから8.5個分。この規模の土地がアイヌ民族に確保されていてもおかしくない。因みに北海道の広さは 83,450平方q。琵琶湖125個の広さ。125個の広い空間がアイヌモシリだった。そのうちの8.5個分。ささやかな措置。それすら全くなされていない。
1888年(M21)
色丹島の北千島アイヌ民族5年間で97人のうち45人死亡
北海道人口354,812人(アイヌ民族17,062人)
市制、町村制公布
枢密院設置
▼樺太アイヌ、千島アイヌ次ぎ次ぎ死亡。
1889年(M22)
*新十津川村の原野を和人に解放するに当たって、アイヌ民族11戸を、給与予定地を選定し「強制移住」させる
*美幌アイヌ民族を「強制移住」させる
内大臣・首相・三条実美「華族組合雨龍農場」原野49,500町歩(≒5万ha 1億5千万坪)規則上限の1500倍(1町歩は、約1ヘクタール)
「大日本帝国憲法」発布 
▼wp:1889年に起きた奈良県吉野郡十津川村での十津川大水害の被災民がトック原野に入植し新十津川村と称した。 1890 年 600 戸2489 人がトック原野(徳富川流域)に移住。
明治の礎「北海道開拓」。とても参考になるHPです。
明治22年、皇室御料地として全道に200万haを設定、華族組合農場へは未開地5万haが払い下げられます。 公爵三条実美、旧徳島藩主の蜂須賀氏らが設立した華族組合雨竜農場は、このときに払下げを受けて創立されたものです。      
 池田さなえ『皇室財産の政治史』(人文書院2019.3.30)

「本書は、皇室財産のなかでも議会開設直前に設定された膨大な不動産である「御料地」に着目し、その政治史的意義を解明することを通じて 明治立憲制創設後の宮中と府中との実態的関係を考えるものである。およそ君主制をとる国家であるならば、国家を維持するために必要 とされる費用のほかに、大なり小なり君主の「家」を存続させるために特別に設けられた財産を有する」(13頁)
「御料地は明治22年から23年にかけて集中的に編入された。」(21頁)
「北海道御料林は、拓殖の対象地とされていた官有地の中から約200万町歩という広大な面積を編入して誕生したものであった。しかし、明治 27年にその約3分の2というこれまた広大な面積が北海道庁に下付される。」(36〜37頁)
「北海道御料林除去が明治30年3月27日公布の「北海道国有未開地処分法」を準備することとなった」(329頁)
「新冠御料牧場は明治17年から18年にかけて日高国新冠郡所在官有地約20,800町歩を御料牧場として編入したものである。」(332頁)
「三条は関東鎮将府鎮将を務めていた明治元年9月に記した意見書の中で北海道開拓を主張しているように、かなり早い段階から北海道開発に関心 を有していた。…特に三条は、自らも華族、特に旧公卿華族の代表格として…華族の中でも資力のある蜂須賀茂韶(もちあき)らと組んで三条・華族 組合農場を組織し、場所を雨竜に定めた。」(333頁)
「全道の森林地籍を仮に4百万町歩と算し之を折半し一半を御財産に編入する」(334頁)
「「北海道土地払下規則」は19年6月に公布されたもので、それまでの「北海道土地売貸規則」による大土地所有に歯止めをかける目的で 制定されたものであった。しかし、同規則には大土地所有への抜け道もあり、また大土地所有者への便宜を与える条項もあったため、その後 これは乱用され北海道の大土地所有の隆盛につながったとされている。」(341頁)
「殖民ノ気運漸ク熟シ」(これは明治26年4月8日の北垣北海道庁長官の井上内相・後藤農相への内請の一節)(343頁)
榎森進『アイヌ民族の歴史』(429頁)全道人口
明治6年111,196人、明治11年191,172人、
明治16年239,632人、
明治21年354,821人、明治26年559,959人
「北垣道庁長官時代(明治25年19日〜明治29年4月6日)は、それまで理念のレベルや漠然とした構想段階にとどまっていた北海道開拓政策が大きく具体化し、現実的条件が整えられていった とされているが、そのための準備として北垣道政の最初に画策されていたのが御料林の官林編入であった。」(344頁)

明治23年時点の御料地(色塗り全体)200万ha
→ 明治27年の御料地(黒い部分)63万ha

(328頁)
明治29年時点の北海道御料地
(360頁)














▼池田さなえさんの論文で北海道の土地政策のつながりが見えてきました。 これまでは年表で断片的だった知識がつながるようになりました。特に御料地の地図は具体的でよかったです。感謝です。(2020.9.3)

▼200万ha=2万平方q 北海道は8万3,450平方q 。つまり北海道の4分の1、琵琶湖30個分を皇室御料地にする(明治23年時点の御料地)。 「華族組合雨龍農場」50,000ha=500平方q 琵琶湖の75%分。
▼「強制移住」をここでまとめること419頁参照
1875年(M8) 9月9日〜10月1日 樺太から92戸841名のアイヌ民族を宗谷に「強制移住」
10月7日 石狩原野へ再移住を指示(アイヌ民族、移住反対上申書を開拓使に提出) 翌年、官憲を動員して6月13日から小樽経由で石狩国対雁(ついしかり)に「強制移住」
1884年(M17) 北千島アイヌ民族97人を、色丹島に「強制移住」
6月30日〜7月6日(支度に2日間)釧路アイヌ民族27戸を阿寒郡セツリに「強制移住」
1886年(M19) 日高、網走でアイヌ民族の「強制移住」
1889年(M22) 美幌アイヌ民族を「強制移住」
1916年(T5)「新冠御料牧場」・姉去のアイヌ民族80戸、平取村上貫別に「強制移住」
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1890年(M23)
「屯田兵土地給与規則」
*バチェラー、幌別(室蘭の東)にアイヌ児童教育のため愛隣学校開設
ルーシー・ペイン、釧路にアイヌ学校開設
*旭川近文(ちかぶみ)原野の開放に際して、150万坪をアイヌ給与地に予定
* 英国人ネトロシップ、函館にアイヌ学校開設
「府県制、郡制公布」
第1回帝国議会開会(第1回衆議院選挙)
*「御料地」全国の56%が北海道に(北海道の総面積の4分の1)
▼第一条「屯田兵トシテ北海道ニ移住スル者ニハ一戸凡ソ一万五千坪ノ土地ヲ給与ス」
▼1万5000坪=5町歩=5 ha 
1891年(M24)* 旭川郊外の近文原野、150万坪(500ha)「土人給与予定地」決定 
▼150万坪=500ha=5平方q 私の住んで居る東京調布市は21平方q。 国立市は8平方q。東京ディズニーランド51 ha。500haは約10個分。
1893年(M26)
* 第五回帝国議会「北海道土人保護法」提案   加藤政之助

○加藤政之助君(二百二十二番)
 「北海道土人保護法案を提出致しましたる理由を弁明致します、
我日本国は上に叡聖慈仁なる御歴代の皇帝在しまして、下には仁義の数を以て本と致したる所の国民を以て組織して居ります、
夫が故に我日本国人民は此の世界各国に対しても常に義に依り、義に勇み、強を挫き弱を助くることに於ては世界第一と自らも思ひ、 世間でも称して居ります所の国柄でございます、
この如き国柄でございまる故に、若し欧米の人々にして不道理にも此の弱国に強暴な行を以て臨み、 人種が異った者に対して無礼を加へまするやうなことがございますならば、我々日本国民は常に彼等の挙動を憤慨し、 彼等の挙動を非難して止まざる所でございました、
この如き国民でございます以上は、己れ自らは一点の此の落度もないやうに一点の欠目もないやうに、 強を挫き弱を助ける義に依って此の義に勇むと云ふことは努めなければならぬのである、

然るに私自ら北海道の地に臨んで二回程彼処の地を実見致しましたが、其の結果として我日本国民が当に為すべきの義務を怠って居る、 当に保護しなければならぬ所の責務を怠って居ると云ふことを発見致しました、
夫は何であるかと申しますると云ふと、我日本の一隅即ち北海道に住みて居りまする所の彼のアイノ人種である、 之に対する所の我々同胞兄弟の挙動である、
此の挙動に就いては今日我々が自ら顧みて謹まねばならぬ、 否謹むばかりではなく、自ら進んで彼等弱者を保護しなければならぬと云ふ地位にあると云ふことを考へます、
彼の北海道の土人アイノなる者は其の古、歴史に徴して見ますと云ふと、 北海道ではなくして我内地に住居致して居ったものゝ如くに見えて居ります、
併ながら夫等のことは古に属してほとんど漠然と致して居りますから、夫等の議論は暫く措きまして、 少なくとも彼等アイノ人種は近古迄は北海道即ち日本のほとんど四分の一に当る所の面積を彼等自ら占領致して、 此の北海道の大地を以て己れの衣食の料に供して、己れの生活の資に充てゝ居ったものに疑はござりませぬ

然るに我内地の人々が北海道に参りまして彼等と生存競争を致し、此の生存競争の結果彼等古の人種は 次第々々此の内地の人々の生存競争に堪へずして、内地に引退いて仕舞ったと云ふ形跡を為して居った、
否尋常一様の競争ではない、
此の内地の人々が彼等の弱に乗じ、彼等の無智なるに乗じて之を虐待したと云ふ事実は、今日まで歴々現れて居るのでございます、
で其の一例を申せば私共が親しく草鞋を穿いて旅行致しました処の後志の国瀬棚郡と云ふ処に於きましては、 ほとんど今より百年前若くは百五十年前までは三千の土人が居りましたと云ふことである、
然るに昨今此の土人がどれ丈に減じたかと申しますれば、僅に数十戸になりまして今や二百人に充たないと云ふ有様に陥りました

で是が何故であるかと申しますると内地の人々が彼等を虐遇致した故である、彼等に対して不穏の挙動をした故である、
独り此の内地の人々が左様な働きを致したと云ふことばかりでございますならば、まだ恕すべきことも出来ますが、 北海道長官即ち北海に在って北海道の人民を撫育しなければならない所の北海道庁の役人等が、彼等を虐遇した、 彼等の金銭を猥に失はしめたと云ふやうな事実が現れて居ります

夫れは何であるかと申しますると、北海道十勝の国大津川と云ふ川があって、此の川はほとんど鮭や鱒其の他の漁が余程多い所でございます、
夫が故に此の川の沿岸には、古より漁場が沢山ございます場所でございます
夫が維新後北海道庁を置かれて漁場の制度抔も立って、古の請負の制度を解いて、之を相当の権利ある者に貸与へ、
若くは之を下与へると云ふことが起こりました時分に、十勝の国の此の大津川の沿岸の土人等は沿岸の漁場を数箇持って居りましたのでございます、
此の漁場を持って居りましたが故に、漁場を他人に貸与へ、若くは他人に売渡すと云ふ結果より致して、 彼等は明治七年にほとんど三万有余円の金を得たのでございます

此の三万有余円の金を如何にしたかと申しますると云ふと、
之を其の儘置いてはいけないと云ふので、政府に保護を依頼してどうか此の金を保護して利殖して貰ひたいと云ふことを 時の北海道庁に申出した処が、
初め此の金をどうしたかと云ふと郵船会社の株券を買ひ、さうして之をやつたのだそうでございます、
夫が此の次だうなつたかと云ふと、知らず識らずの間に彼の北海道のほとんど衰減に垂んとして居る所の製麻会社、 若くは製糖会社の株に此の三万余円の郵船会社の株が変って仕舞ったと云ふことである――、
今日彼等土人の共有金は如何になったか、
分配も碌々受けることは出来ないと云ふ憫れ敢果ない所の境界になって居る、
実に政府たるものが之を為すべき処分でございませうか、
彼等弱者に向ってこの如き計ひをすると云ふは、実に怪しからぬ、
加之其の辺の町村役場の役人等、若くは北海道庁の役人等は土人等の財産ある者に向っては、 ほとんど脅迫同様なる処置を以て之を借り受け、さうして之を濫費したと云ふ形跡も今日まで往々現れて居るのでございます、
でこの如きことを人民も為し又政府の役人も為すと云ふ結果より致して、彼等はほとんど居住に堪へない、
夫が故に内地の人民が一歩北海道に進めば彼等は一歩内地に退くと云ふ今日の形勢に立至りました、
而して彼等の住って居りまする土地も次第々々に内地人民が相当なる現行法律の手続を経て借受け之を自分の所有と為し、
彼等はどうであるかと申しますると無智無育であるから、今日の現行法律の下に立って相当なる手続を経るならば土地を貸下げることが出来る、 開拓することが出来るけれども、其の手続を履むことを知りませぬ、
故に彼等は自分に住って居る所の土地即ちエジツタまで内地の人々に取られて仕舞って、ほとんど住むべき土地もない、流浪の民となると云ふ 今日の有様に陥って居ります、

夫が故に如何にして生活して居るかと申しますれば、土地を所有して居る者抔は皆無と云って宜しい、
唯山海――山に海に唯猟を求めて、さうして其の獲物で生活するか、若くは他人の下に労役に伏して辛き幽けき生活をして居ると云ふ 今日の境遇であるので北海道の土人が今日どれ丈の数がありますかと申しますれば、
一万七千百四十八人と云ふものが今日の現在である、
其の中男が八千四百五十二人、女が八千六百九十六人と云ふ数でございます、
そこで学齢児童はどれ丈あるかと申しますると云ふと、 三千百六十二人、学齢児童の数がある、
然るに此の中で以て学校に就いて居る者が幾人ある、僅に五百七人即ち全数の六分の一 と云ふものほか学校に就いて居らない、
諸君、内地の此の学齢児童がどれ丈今日就学致して居りまして、どれ丈不就学の者がございませうか、
内地を調べて見ると云ふと、七百二十万程学齢児童がある、而して此の就学して居ります所の数が三百十九万あってほとんど 百分の四十八と云ふものが学に就いて居ります、
然るに北海道では僅かに土人の子弟は六分の一弱ほか就いて居らないと云ふ憫れな今日の有様でございます、
加之彼等は衛生の法を知らずして病に罹りましても医者の治療を受けることを知らない服薬することを知らない、
夫が故に次第々々に身体は不健康になりまして、病に罹ったために人種は今日減ずる有様を為して居る、
で彼等の住家はだうかと云ふに十勝、日高辺りで見ますると云ふと、相当の家屋に住んで居る所の者もあるけれども、 極めて少数であって、多くの土人はほとんど内地の乞食にも劣る処の憫れなる小屋に這入って其の日々々を送って居るのでございます、
若し今日の儘に放任して置きましたならば、私は思ふ彼濠太利亜の土人が全く人種が絶滅致しましたと同様に彼の北海道のアイノ人種は 数十年ならずして人種が減するのであらうとか様に考へるのである、

諸君、彼等は北海道の土地全土を有して彼等の生活の料に供して居った所のものである
然るに此の土地を次第々々に内地の人に奪はれて仕舞って、ほとんど住むべき土地もないと云ふ境遇に陥り、 然も強暴にして内地の人に抵抗する所の悪い人種暴悪なる人種でございますれば兎も角、
彼等は至って従順なる人種、至って温厚なる人種である、
内地の人々に向っては、実に温和なる人種でございます、
かくの如く温良なる、かくの如く従順なる北海道のアイノ人種を彼等の住って居る所の土地まで悉く奪ひ去って、 前途彼等は其の人種すら滅せんとする今日、我々が此の義侠の心に富みたる我々日本人民が、 之を保護せずに済みましたならば、天下に向かって日本人は義侠心ありと称することが申せるでありませうか、

私は此の際に是非とも彼等アイノ人種を保護してやらなければならぬと思ふ、
好し一旦敵となりました所のものでござりましても、一たび降参をすれば之を款待すると云ふは常である、
好し王師に抗したりと云ふ人間であっても一たび帰順致したならば是は同じく日本の臣民である、
彼等アイノ人種は北海道の全道を占領して居たる所の者が、今日の境遇に陥ったと致しましたならば、 我々は彼等に向って今日多少の保護を与えて其の生存発達と云ふものを助けなければならぬと思ふ、

併しながら或論者は此の時に於てか様なことを申します、是は優勝劣敗は世の中の自然の勢である、 彼等アイノ人種は劣等な人種である、我内地人種は優等な人種である、此の優等の人種が劣等なる所の アイノ人種に対するときには、彼等が自然消滅すると云ふことは是は勢の然らしむる所で、如何ともすべからざるものである、
夫が故に到底此の前途に絶滅する人種であるとするならば、是等は保護を加ふる必要はない、 か様なことを申しまする所の人々があるかも知れませぬ、
併しながら是は如何にも残酷な議論であると思ふ、
若し此の論法を以て申したならば、ここに不治の病に罹って居る病人があったときに、 彼は不治の病人である、到底医療を加へて治すべからざるものである、 夫が故に彼は自然に任して顧みぬでも宜いと云って、病人を度外すると一般なる話であります、

我々は好し北海道の「アイノ」人種は劣等な者であるので、前途絶滅する者と致しましても、 日本国民の義侠心より致して彼等を救ひ、彼等を保護すると云ふことは多少為さねばならぬとか様に考へるのでござります、
況や私共の見まする所に依りますれば、彼等も左迄劣等な人種ではない、教ふれば随分教へ得る所の民である、
学校に往きまする生徒の成績抔を見ましても、随分物の数も知り商買の勘定をすることが今日出来るやうになって居る者共が余程ござります、
是等の成績に徴して見ますれば、若し彼等に十分教へたならば相当に此の前途に其の人種を続けて参ると云ふことも出来るだろうと考へます、

夫が故に此の仁愛なる此の義侠心に富んだる所の日本四千万の人民に訴へて、私は聊々ながら此の保護案と云ふものを今日通過致して、 彼等北海道「アイノ」人種を保護したいとか様に考えます。」(下線は引用者)


▼ユポさんの年表のたった一行の背後にこのような事実があります。2018年7月札幌ではじめてお会いしたとき年表を頂き、 その次東京でお会いした時この「第5回帝国議会衆議院議事録」を頂きました。
加藤政之助氏の提案理由は時代の制約はあるものの、実に立派です。大事な事実が多く含まれています。
特に
「アイノ人種は近古迄は北海道即ち日本のほとんど四分の一に当る所の面積を彼等自ら占領致して、 此の北海道の大地を以て己れの衣食の料に供して、己れの生活の資に充てゝ居ったものに疑はござりませぬ」 「彼等は北海道の土地全土を有して彼等の生活の料に供して居った所のものである」
との指摘は今日的意味を持ちます。現在の日本政府も受け継ぐべき性質のものだと思います。

因みにこの加藤氏の提出法案は本会議で否決されています。 そして6年後の1899年(M32)に同趣旨趣旨の法律が成立しています。その時の提案趣旨は読むに耐えません。 読むのも憚られます。読み比べて見てください。 
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1894年(M27)
*旭川 近文原野、「土人給与予定地」150万坪(500ha)のうち45万坪(150ha)のみ、 利権屋の暗躍、北海道庁長官あて請願書
*千歳、十勝、北見などでアイヌ民族が多く住んでいた原野を開放する際、アイヌ一戸当たり五町歩(5ha)以内の「保護地」を設け、 「北海道地券発行条例」の第16条に基づき官有地の第三種の土地とした。
他にも同類の原野がある場合には同様にすべき事を本庁決議で決定した。
「日清戦争」(〜95)
▼「北海道地券発行条例」第16条 旧土人住居ノ地所ハ其種類ヲ問ス当分総テ官有地第三種ニ編入スヘシ但地方ノ情態ニ因リ成規ノ処分ヲ為ス事アルヘシ(下線は引用者)
▼近文(ちかぶみ)原野の「土人給与予定地」45万坪(=150ha 東京ディズニー3個分)、のちに大きな問題になる。
▼これまでの土地処分・給与のまとめ
1872年(明治5年)「地所規則」和人開拓者1人10万坪(33.3ha)
1886年(明治19年)「北海道土地払下規則」開拓者1人10万坪(33.3ha)
1889年(明治22年)皇室御料地200万ha=2万平方q=琵琶湖30個=北海道1/4、
          華族組合農場5万ha=500平方q=琵琶湖75%(根拠法?)
1890年(明治23年)「屯田兵土地給与規則」1戸5ha
1891年(明治24年)アイヌ近文原野「土人給与予定地」45万坪(150ha)つまり屯田兵30戸分ということ(2020.4.29)
1896年 (明29.7)新冠御料牧場沿革誌; 出版者: 新冠御料牧場; 出版年月日: 明29.7;(国立国会図書館デジタルコレクションの 「新冠御料牧場沿革誌」より)
9頁明治26年12月31日現在の牧場の地積と面積が記載されている。 新牧場8,532町歩 旧牧場28,772町歩 ペラリ1,058町歩 牧草地61町歩 耕地32町歩 合計38,455町歩
1897年(M30)
「北海道国有未開地処分法」(3月27日)
*「北海道土地払下規則」廃止(処分法22条)
*「自今以往は、貧民を植えずして富民を植えん。是を換言すれば、人民の移住を求めずして、資本の移住を是れ求めんと欲す」
・「大地主」「大資本家」対象、(アイヌ民族対象外)
・無償貸付、開墾成功後、無償付与(処分法3条)
・富豪、資本家、華族、高級官僚、政商
(4月勅令第98号・北海道国有未開地処分法第3条に依る貸付の面積)
・開墾150万坪(500ha)会社・組合はこの2倍
・牧畜250万坪、      同上
・植樹200万坪、      同上
▼「北海道国有未開地処分法」により1908(明治41)年までの12年間に この法律で処分された土地は183万余町歩。18,098平方q 琵琶湖27個分。全北海道の22%。 (榎森進『アイヌ民族の歴史』423頁を参考にしながら)
1898年(M31)
勅令第37号「北海道植民地」と書かれる
1899年(M32)
旭川に第7師団設置(師団兵舎造営工事請負、大倉土木組) 大倉土木組大倉喜八郎、道庁の官吏と「土人給与地」を詐取図る
*「北海道旧土人保護法」制定
第1条・北海道旧土人にして農業に従事する者、又は従事せんと欲する者には一戸に付土地一萬五千坪以内を限り無償下付することを得 
第2条・相続に因るのほか譲渡することを得ず
(跡継ぎのいない家、子が家出をして連絡が取れない・没収・不在地主。一般小作農民が群がった。)
北海道長官の許可を得るにあらざれば地役権を設定することを得ず。譲渡、売買禁止。
小作権の設定は可(99年・高利前払い)。
第3条(没収規定・15カ年ごとの手続き)
15カ年を経るも開墾せざる部分はこれを没収す。
(読み書きのできない旧土人、法務局の登記簿台帳は没収、役場の納税台帳は旧土人名義のままで納税をさせていた)
第10条 北海道長官は共有者の利益のために共有財産の処分を為し、又必要と認めるときは、その分割を拒むことを得。
(共有財産、共有者、アイヌの主権を認めず北海道長官すなわち国家の名においてどうにでもできるという内容)。

「北海道旧土人保護法」同「施行規則」(1899・4・8、内務省令第5号)
同「施行細則」
第1条・保護法第一条に依り未開地の下付を受けんとする者は第一号書式の願書に図面及家族調を添へ北海道庁長官に差出すべし (1899・6・13、北海道庁令第51号)(北海道庁訓令第37号、)(昭和22年3月21日改定後も・新憲法制定後・差別)

*「国有未開地処分」のあと旧土人に農業の奨励土地の給付(初めてアイヌ民族に土地の下付)給与地・1戸につき1万5千坪=5ha=5町歩 アイヌ語の申請不可
*共有財産管理規定(北海道・樺太・千島)(32年10月3日)
[漁業、放牧経営、就業資金、御下賜金、救恤費の余剰金]
[共有財産処分][北海道庁長官管理] 
勧農、日本語教育、日本人化政策、アイヌ民族絶滅政策
2条の2「質権抵当権地上権又は永小作権を設定することを得ず」(S22年3月21日改正削除)

「北海道旧土人保護法提案理由書」
「北海道旧土人の保護については、だれかれの差別無く平等にこれを愛する天皇のお考えを受けて 明治のはじめから施策を講じてきたが、いまだ充分にその目的を達してはいない。
思うに旧土人が天皇の仁政の感化をうける日が浅く、その知識の啓発が大変低いがために 古くからのその生命を託していた自然の恩恵をだんだん内地からの移民に搾取され、 時が経るにつれ生活基盤を失い、ただ飢えと貧困に困り果てるだけの状態になってしまった観がある。
これは優るものが勝ち劣るものが負ける自然の成り行きでありどうすることもできないのだろうか。 しかしながら旧土人も等しく天皇の臣民であり、いまやこのような悲境に落ちぶれているのを目にしてこれに手だてをしないわけにはいかない。 そこでこの救済の方法を設けて災いを除き、窮状を哀れんで適当な産業によりその生活を保全し、 その家計を成すようにするのは、誠に国家の義務であり、天皇のお考えに添うものであると信じるものである。 これがこの法案を提出する理由である。」
▼和人のやってきたことを棚に上げてよくもこのような提案理由を述べられるのかと、怒りがこみあげてくる。加藤政之助さんの比ではない。
ユポさんのコメントは上記のように明治30年(1897年)の「国有未開地処分の後、旧土人に農業の奨励、土地の給付。 初めてアイヌ民族に土地の下付、しかも未開地」。
北海道の土地問題は明治5年(1872年)からはじまり明治32年(1899年)の「北海道旧土人保護法」で 明治政府としては決着をつけたようだ。
しかし、それから100年後の1997年、国連・人種差別撤廃委員会が採択した 「先住民族に関する一般的勧告」及び2007年、国連総会が採択した 「先住民族の権利に関する国際連合宣言」で先住民族の土地問題が急浮上してくる。

▼「北海道旧土人保護法」の背景を榎森進『アイヌ民族の歴史』(447〜451頁)では次のように指摘されている。
「この法律は1887年米国議会で制定されたインディアンに対する「一般土地割当法」(通称ドーズ法)をモデルとして 立案・制定されたものと解されている。両法は先住民族を農業に従事させる目的で一定面積の土地を私有地として無償で付与していること初め、 先住民族の農民化を促進するために、色々な補助手段を講じている等共通点がある。
しかし大きな違いもある。
「北海道旧土人保護法」では、土地付与の対象が「農業ニ従事スル者又ハ農業ニ従事セント欲スル者」に限定され、 しかも単位面積が「一戸ニ付」5町歩以内と、個人ではなく、家単位に付与されたのに対し、 「ドーズ法」ではインディアン全員、つまり個人が対象であり、その単位面積も世帯主一人当たり160エーカー(65.3町歩)18歳以上の単身者には80エーカー(32.6町歩)18歳未満の単身者及び孤児には40エーカー(16.3町歩)の土地が付与された。
▼「ドーズ法」
世帯主1人65.3町歩=65.3ha
18歳以上の単身者32.6町歩=32.6ha
18歳未満の単身者及び孤児16.3町歩=16.3ha
▼1872年「地所規則」
開拓者1人33.3ha。
アイヌの人たちにも適用を考えた。琵琶湖8個分となった。
「ドーズ法」から見ておかしくなかった。 むしろ「地所規則」は「ドーズ法」を参考に作られた可能性もある、ということか。
「北海道旧土人保護法」は「一戸ニ付」五町歩=5ha。過去の経緯を忘れたか。問題外。(2020.4.29)

ではなぜ時の政府は、「北海道旧土人保護法」を立案・制定するに当たってアメリカの「ドーズ法」を参考にしたのであろうか。 これは、時の政府が大きな課題としていた欧米列強との「条約改正」の問題と密接に関わっていたものと思われる。 外国人が当時のアイヌ民族が置かれていた悲惨な状況を実見し、日本は未だ「非文明」の国との批判を防ぐためににも 先住民族であるアイヌ民族を「保護」するための法的措置を講じることが緊急の課題になったものと推察される。」

▼今後アイヌ民族のアイヌモシリ回復を考えるとき「ドーズ法」が参考になると思っています。 回復されるべき土地の広さ、また農業者だけでなく、家単位でなく、アイヌ人全員が生きていけるモシリの回復が実現されるべきだと私は考えています。 (2018.12.5)
▼旭川に第7師団設置についてwp:第7師団(だいしちしだん)は大日本帝国陸軍の師団の一つ。 北海道に置かれた常備師団として北辺の守りを担う重要師団
1900年(M33)
・道庁、アイヌ給与地を、大倉組に払い下げ決定。アイヌ民族を天塩(てしお)川上流山地に強制移住を命令
・移転反対運動おこる 
・道庁長官、強制移住を撤回、留住を認める。
近文給与地問題 このいきさつを旭川市HPで勉強しました。
1894年 (明治27)
近文アイヌ36戸に、給与予定地150万坪のうち49万坪を割り渡す
1899年(明治32)
「北海道旧土人保護法」制定(1万5,000坪以内の土地を無償付与、教育・共有財産管理などを規定)。
大倉組、鷹栖村字近文で第七師団建設請負工事着工(1902年竣工)
1900年(明治33)
道庁、近文の給与予定地の大倉組への払下げを決定し近文アイヌに天塩への移転を命じる(第1次給与地問題)。
鷹栖村総代人ら、近文アイヌの給与地移転に反対し「旧土人留住請願書」を道庁に提出(2月)。
鷹栖村有志とアイヌ代表上京、政府要人に給与地移転中止を陳情(4月)。
道庁長官、近文アイヌの留住を認める(5月)。
1903年(明治36)
近文アイヌ38人、道庁に移転嘆願書を提出(第2次給与地問題)
1906年(明治39)
道庁、旭川町にアイヌ給与地として46万坪の貸付を許可(旭川町はアイヌに1戸当たり1町歩を貸し付け、残地は和人に有償で貸与
1932年(昭和7)
アイヌ給与地の旭川市への貸付期間満了に伴い第3次給与地問題発生。 旭川市会議員・近文アイヌ代表、給与地付与を求めて上京、各方面に陳情(4月)。近文アイヌの荒井源次郎ら上京、陳情運動を行う(6月、11月)
1934年(昭和9)
「旭川市旧土人保護地処分法」制定(近文アイヌ49戸に、1戸当たり1町歩の土地を付与、残地は共有財産)

▼旭川市のHPでは近文給与地問題は1894年(明治27)からですが、問題の芽はユポさんが取り上げられています 「1890年(M23)旭川郊外近文原野に、150万坪(500ha)「土人給与予定地」予定、1891年(M24)決定」
にあるとおもいます。
その「給与予定地」に第七師団が移転してくることになり、 武器・軍事政商大倉喜八郎(大倉組)が一儲けしようと介入したことが問題を引き起こしたようです。 大倉喜八郎は現在ではホテルオークラの創業者として有名ですが、汚れていますね。
                                                 トップへ戻る
1901年(M34)
「旧土人教育規程」・「旧土人学校」設立(10ヵ年計画・21校)
・平取(びらとり)にまず設置、(1909年21校に) 
・和人児童と区別しアイヌ児童に簡易教育(年限・科目)を施す 
・アイヌ語禁止、日本語による教育
1902年(M35)
弁開凧次郎、八甲田山遭難者捜索のため出動
▼wp:日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦したため、 さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、それに向けて準備をしていた。 日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊の課題であった。
八甲田雪中行軍遭難事件が発生した際、凧次郎は、6人以上のアイヌからなる救出捜索部隊を組織し、 2月9日に八甲田山で遭難者の捜索活動を展開する。
地元民から歩兵第5連隊が遭難した周辺の地名を聞き出し、退避しそうな場所を重点的に探索するという遺体収容手法によって注目される。
同年4月22日に、作業終了する。67日間の捜索活動で遺体11体と多数の遺品を発見した。
▼このことが日本人にどれだけ知られているだろうか。私も初めて。
1903年(M36)
 大阪「内国勧業博覧会」、「人類館」事件発生
▼wp:19世紀半ばから20世紀初頭における博覧会は「帝国主義の巨大なディスプレイ装置」であったといわれる。
博覧会は元々その開催国の国力を誇示するという性格を有していたが、帝国主義列強の植民地支配が拡大すると、 その支配領域の広大さを内外に示すために様々な物品が集められ展示されるようになる。
生きた植民地住民の展示もその延長上にあった。
1903年に大阪・天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、
アイヌ・台湾高砂族(生蕃)・沖縄県(琉球人)・朝鮮(大韓帝国) ・支那(清国)・インド・ジャワ・バルガリー(ベンガル)・トルコ・アフリカなど合計32名の人々が、
民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国が自分たちの展示に抗議し、 問題となった事件である。
▼なんと趣味の悪い博覧会のことよ。
1904年(M37)
米国「セントルイス万国博覧会」、アイヌ民族8人参加
「日露戦争」(〜05)
「第1次日韓協約」
▼「セントルイス万国博覧会」に下記のような背景があったことを知りました。紹介させていただきます。
セントルイス万国博覧会と日本 〜公式ガイドおよび関連文献復刻集成〜 (全4巻+別冊解説)Louisiana Purchase Exposition, St. Louis in 1904:A Collection of Official Guidebooks and Miscellaneous Publications監修・ 解説: 大井浩二(関西学院大学名誉教授)

アメリカによるフランスからのルイジアナ購入の100周年を記念し、セントルイスで1904年に開催された万国博覧会は、 世界44カ国より約2000万人が参加、1900年パリ万博の4倍の土地に1500以上の展示用建設物が作られたそれまでで最大規模の万博となり、 まさに「アメリカの世紀」の始まりを予感させる大イヴェントとなりました。
西洋各国や初めて万博に参加した中国などがそれぞれの文化、芸術に関する華やかな展示を催す一方、 米国は統治を始めたフィリピンより連行した多くの先住民族を「フィリピン村」の中に住まわせ「人種の展示」を行い、 それは同時に帝国主義や人種差別など、負の20世紀史の始まりを象徴する出来事であったともいえます。

日露戦争中であった日本政府も、西洋列強と肩を並べつつある国力を背景に、またそのプロパガンダのために積極的に参加し 、従来万博に出品していた美術工芸品に加えて、教育制度に関する展示や工業製品も数多く出品し、 近代化の進む社会を印象付けようと試みました。
しかし一方では、多くの芸者が参加し日本を売り込み、ジャポニズムのイメージがそれまでの万博のように日本の展示を支配していたようです。
また「フィリピン村」に倣うかのように設置された「アイヌ村」で、日本から連れてこられた7人の成人男女と2人の女児が「陳列」されていたことは、 セントルイス万博の白人至上主義的な性格を裏付けています。
さらに、この万博には、民間人や企業の関心も高く、その中には星一(後に星製薬、星薬科大学を設立)のように 日本展のハンドブックを自費出版し、会場で販売するような起業家もあらわれました。(下線は引用者)


「第1次日韓協約」wpこの協約が締結されたとき、日露戦争はつづいていたが、朝鮮半島での日露の戦闘は終了し、 韓国は事実上日本の占領下に入っていた。
協約の内容は、 大韓帝国政府は日本政府の推薦する日本人1名を財務顧問に、外国人1名を外交顧問として雇い、 その意見にしたがわなければならない、また、外交案件については日本政府と協議のうえ決定・処理しなければならないというものであり、 韓国保護国化の第一歩となるものであった。(下線は引用者)
1905年(M38)「第2次日韓協約」
*日露戦争で南樺太を手に入れる、樺太アイヌ帰国
▼wp:第二次日韓協約は、日露戦争終結後の1905年(明治38年)11月17日に大日本帝国と大韓帝国が締結した協約。 これにより大韓帝国の外交権はほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となった。(下線は引用者)
1906年(M39)9代目北海道庁長官・河島 醇
1907年(M40)「第3次日韓協約」
▼wp:第二次日韓協約によって外交上の日本の保護国となり、 すでに直接の外交権を失っていた大韓帝国(朝鮮王朝)は、この協約により高級官吏の任免権を韓国統監が一部権限を持つこと(第4条)、 韓国政府の一部官吏に日本人を登用できること(第5条)などが定められた。
これによって、朝鮮の内政は日本の強い影響下に入った。また非公開の取り決めで、 韓国軍の解散と司法権・警察権の委任が定められた。
1909年(M42)伊藤博文暗殺
▼朝鮮民族の当然の反発。                                   トップへ戻る
1910年(M43)
*「外国人の土地所有権に関する法律」  北海道は台湾、樺太(サハリン)同様日本の植民地である
近文(ちかぶみ)アイヌ民族居住地に小学校設置
*「北海道開拓15カ年計画」(9代目北海道庁長官・河島 醇)
道内に7千キロの道路開削
9つの港湾整備/ 主要26河川の治水調査
国有未開懇地払い下げ、開発
北海道の人口を153万人から300万人に増加させる
予算総額7千万円
・ 土地不当払い下げ問題にからむ緩んだ規律の粛清
「韓国併合条約」
▼「外国人の土地所有権に関する法律」
明治43年3月1日第26年度回帝国議会衆議院「外国人ノ土地所有権ニ関スル法律案」委員会議録(速記)第2回の外務大臣小村寿太郎発言
「北海道、台湾、樺太の如き、今まだ植民地の位地に居る此の如き未開の地に於きましては、 土地を基礎と致しまする殖民を成るべく多く移住せしむる必要がありますから、斯る土地に於きましては、 外国人に土地の所有を許さぬことになって居ります」(下線は引用者)

▼「北海道開拓15カ年計画」は壮大な計画だと思い政策の背景を知る必要があると考えました。国土交通省の資料を見つけました。 北海道開拓15カ年計画をクリックしてください。計画の全容が一覧表になっています。 この国土交通省の資料を見ると
明治 2〜14 年「開拓使時代」
・士族授産と北辺防備が主な目的
明治 34〜42 年 「北海道 10 年計画時代」
・日清戦争の勝利により日本経済の発展がもたらされた一方、急激な人口増加、資本主義の発達に伴う貧農の発生などの問題が生 じ、その解決を北海道開拓に求める機運
明治 43〜昭和元年「北海道第 1 期拓殖計画時代」
・日露戦争後、我が国の人口が急激に増加する傾向が現れ、北海道は食糧、資源の供給地として、また、新たに領土となった樺太への基地とし ての役割を担うに至る
昭和 2〜21 年「北海道第 2 期拓殖計画時代」
・北海道の拓殖事業は、国内における人口並びに食糧政策の上からも重要
・一方、北海道の開拓が専ら資源の掠取に走り、また、移民の招来に努めたものの、その生産安定のため政策が不十分であるなど、新たな問題
昭和 22〜26 年「戦後緊急開拓時代」
・戦後の我が国経済を復興し、国民生活を安定させるため、国内資源を開発し、食糧難の打開と人口問題の解決を図ることが急務とされ、 広大な開発適地と豊富な資源を包蔵する北海道の開発が重要な国家的課題として大きくクローズ・アップされる
▼北海道は国家戦略上、明治の初めは士族授産と北辺防備の役割を担い、その後、食糧と資源の供給基地の役割を担ってきたことがよくわかります。
▼明治43年度の歳出は5.7憶円、7千万円は12%に当たる。
▼wp:韓国併合(英: Japan's Annexation of Korea)とは、1910年(明治43年)8月29日、 韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記される。 この後、日本による統治は1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が米国に降伏するまで、35年間続いた。
▼wp:韓国併合ニ関スル条約とは「韓国皇帝が大韓帝国(韓国)の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」 ことなどを規定した条約のこと。
条約公布に際し大韓帝国皇帝(純宗)が公布した勅諭
「皇帝、若(ここ)に曰く、
朕否徳にして艱大なる業を承け、臨御以後今日に至るまで、維新政令に関し承図し備試し、 未だ曽て至らずと雖も、由来積弱痼を成し、疲弊極処に至り、時日間に挽回の施措望み無し、
中夜憂慮善後の策茫然たり。
此に任し支離益甚だしければ、終局に収拾し能わざるに底(いた)らん、
寧ろ大任を人に託し完全なる方法と革新なる功効を奏せいむるに如かず。
故に朕是に於いて瞿然として内に省み廊然として、自ら断じ、
茲に韓国の統治権を従前より親信依り仰したる、隣国大日本皇帝陛下に譲与し、
外東洋の平和を強固ならしめ、内八域の民生を保全ならしめんとす。
惟爾大小臣民は、国勢と時宜を深察し、煩擾するなく各其業に安じ、
日本帝国の文明の新政に服従し、幸福を共受せよ。
朕が今日の此の挙は、爾有衆を忘れたるにあらず、専ら爾有衆を救い活かせんとする至意に出づ、
爾臣民は朕の此の意を克く体せよ。
隆煕四年八月二十九日 御璽」
▼この韓国・純宗皇帝の言葉は日本人として胸が痛む。
1876年(M9)の「日朝修好条規」に始まり、
1904年(M37)「第1次日韓協約」、
1905年(M38)「第2次日韓協約」、
1907年(M40)「第3次日韓協約」、
1910年(M43) そしてついに「韓国併合」。
日本人らしく(いやな意味で)じわりじわり植民地化を進め、 最後に純宗にこのようなことまで言わせている。朝鮮民族の尊厳を踏みにじり、そして朝鮮人差別。 日本人としてこれでいいのか。相手の身になって心を寄せるべき。
▼全くの植民地化(colonization)ではないか。併合(annexation)という生易しいものではない。(2020.3.20)
1911年(M44)
*「猟虎膃肭獣保護条約」
・アイヌ民族は土人(aborigens・native)=先住民族として狩猟権を認めた(日・英・米・露の4カ国締結の国際条約)
* 北海道人口170万人
▼「猟虎膃肭獣保護条約」の英語原文は「CONVENTION FOR THE PROTECTION OF FUR SEALS」日本語訳の土人は4条 aborigines、 11条naitivesの2種類が使われている。
1913年(T2)
樺太アイヌ民族山辺安之助口述「あいぬ物語」発刊
▼wp:山辺安之助、アイヌ名「ヤヨマネクフ」(Yayomanekuh)。 樺太アイヌの指導者として、集落の近代化や、子どもたちへの教育に尽力した。
1914年(T3) 
「第1次世界大戦」勃発(セルビア)、日本参戦
中国に21か条の要求
▼日本はなんのために第一次大戦に参戦したのか?濡れ手に泡のような振る舞い。

▼1号から5号の各項目について合計21条にわたって要求。中国にとっては屈辱的。特に第5号。大隈内閣は何を考えていたのか。 日本が中国から攻撃を受けていたわけでもない。以下Wikipediaからの要約。
第1号(4条)山東省について ドイツが山東省に持っていた権 益を日本が継承することなど。

第2号(7条)南満州及び東部内蒙古について 旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長することなど。

第3号(2条)漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について 日中合弁化すること。

第4号(1条)中国の領土保全について 沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと。

第5号(7条)中国政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として有力な日本人を雇用することなど。
▼左の記事から。
「日本は1914年、中国大陸でドイツの拠点だったチンタオを占領。捕虜として 約五千人のドイツ人を日本各地の収容所に連れてきた。ドイツ人捕虜には比較的若い技術者が多かった。狛江市の市民団体「ヘルマン・ウオルシュケさん の足跡をたどる会」のヘルマンは戦後も日本に残り身につけていた食肉加工技術を伝えた。」



▼どうも気になりました。中国に21か条の要求。きっちり全体を読む必要があると考えHPに取り込みました。(2020.7.4)
対華21ヶ条要求
第1号 山東問題の処分に関する条約案
日本国政府及支那国政府は、偏に極東に於ける全局の平和を維持し且両国の間に存する友好善隣の関係を益々鞏固ならしめんことを希望し、 ここに左の条款を締結せり。
1 支那国政府は、独逸国が山東省に関し条約其他に依り支那国に対して有する一切の権利利益譲与等の処分に付、 日本国政府が独逸国政府と協定すべき一切の事項を承認すべきことを約す。
2 支那国政府は、山東省内若くは其沿海一帯の地又は島嶼を、何等の名義を以てするに拘わらず、他国に譲与し又は貸与せざるべきことを約す。 
3 支那国政府は、芝盃又は龍口と膠州湾から済南に至る鉄道とを聯絡すべき鉄道の敷設を日本国に允許す。
4 支那国政府は、成るべく速に外国人の居住及貿易の為自ら進で山東省に於ける主要都市を開くことを約す。其地点は別に協定すべし。

第2号 南満東蒙に於ける日本の地位を明確ならしむる為の条約案
日本国政府及支那国政府は、支那国政府が南満州及東部内蒙古に於ける日本国の優越なる地位を承認するに依り、ここに左の条款を締結せり。
1 両締約国は、旅順大連租借期限並南満州及安奉両鉄道各期限を、何れも更に九九カ年づつ延長すべきことを約す。
2 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て、各種商工業上の建物の建設又は耕作の為必要なる土地の賃借権又は其所有権を取得することを得。
3 日本国臣民は、南満州及東部内蒙古に於て、自由に居住往来し各種の商工業及其他の業務に従事することを得。
4 支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける鉱山の採掘権を日本国臣民に許与す。其採掘すべき鉱山は別に協定すべし。
5 支那国政府は、左の事項に関しては予め日本国政府の同意を経べきことを承諾す。
南満州及東内蒙古に於て他国人に鉄道敷設権を与え、又は鉄道敷設の為に他国人より資金の供給を仰ぐこと
南満州及東部内蒙古に於ける諸税を担保として他国より借款を起こすこと
6 支那国政府は、南満州及東部内蒙古に於ける政治財政軍事に関し顧問教官を要する場合には、必ず先ず日本国に協議すべきことを約す。
7 支那国政府は本条約締結の日より九九カ年間日本国に吉長鉄道の管理経営を委任す。

第3号 漢冶萍公司に関する取極案
日本国政府及支那国政府は、日本国資本家と漢冶萍公司との間に存する密接なる関係に顧み且両国共通の利益を増進せんが為、左の条款を締結せり。
1 両締約国は、将来適当の時機に於て漢冶萍公司を両国の合弁となすこと、 並支那国政府は日本国政府の同意なくして同公司に属する一切の権利財産を自ら処分し又は同公司をして処分せしめざることを約す。
2 支那国政府は、漢冶萍公司に属する諸鉱山付近に於ける鉱山に付ては同公司の承諾なくしては之が採掘を同公司以外のものに許可せざるべきこと、 並其他直接間接同公司に影響を及ぼすべき虞ある措置を執らんとする場合には先ず同公司の同意を経べきことを約す。

第4号 中国の領土保全の為の約定案
日本国政府及支那国政府は、支那国領土保全の目的を確保せんが為、ここに左の条款を締結せり。支那国政府は、 支那国沿岸の港湾及島嶼を他国に譲与し若くは貸与せざるべきことを約す。

第5号 中国政府の顧問として日本人傭聘方勧告、其他の件
1 中央政府に政治財政及軍事顧問として有力なる日本人を傭聘せしむること。
2 支那内地に於ける日本の病院、寺院及学校に対しては、其土地所有権を認むること。
3 従来日支間に警察事故の発生を見ること多く、不快なる論争を醸したることも少からざるに付、 此際必要の地方に於ける警察を日支合同とし、又は此等地方に於ける支那警察官庁に多数の日本人を傭聘せしめ、 以て一面支那警察機関の刷新確立を図るに資すること。
4 日本より一定の数量(例えば支那政府所要兵器の半数)以上の兵器の供給を仰ぎ、 又は支那に日支合弁の兵器廠を設立し日本より技師及材料の供給を仰ぐこと。
5 武昌と九江南昌線とを聯絡する鉄道及南昌杭州間、南昌潮州間鉄道敷設権を日本に許与すること。
6 福建省に於ける鉄道、鉱山、港湾の設備(造船所を含む)に関し外国資本を要する場合には、先ず日本に協議すべきこと。
7 支那における本邦人の布教権を認むること。

▼やはり考えが変わりました。中国を部分的に植民地にするという内容です。よくもここまで中国を見下したものですね。 日本人はこの事実を認識したうえで21世紀の今日の日中関係を考えていく必要があると思います。(2020.7.4)

1916年(T5)
「新冠御料牧場」・姉去のアイヌ民族80戸、平取村上貫別に「強制移住」
▼二風谷ダムのある沙流川に流れ込む貫気別川の上流、緑の矢印のあたり。
「第2次旧土人教育規程」公布
▼以下は様似(さまに)小学校開校110周年記念事業の記念誌 からの抜粋です。
「1916年(大正5年)、庁令86号を以て、アイヌの子弟に対する特別なカリキュラム「旧土人教育規程」が公布されました。
アイヌの人たちの学校の教育内容も、修業年限を4年とし、就学年齢のはじまりを7才(一般は6才)よりとしました。 学校では主に修身、国語(日本語)、算術、体操を教え、実業(農業、裁縫)をも教えることとしました。
一方、家事手伝いを認め、週18時間まで、授業時間を減らすことができるようにしました。
しかし、この簡略を旨とした教育、特に、地理、歴史、理科をのぞいた措置は、アイヌの人たちのみならず教師側からも反対があり、 大正11年より本規程を破棄して、他の子どもたちと同じ一般法によることになりました(『日高教育史』(上巻):P.226)。
就学年限は6カ年とし、就学年齢も7才から6才となり、地理、日本歴史、理科、図工も加わりました。 勿論、アイヌ語などアイヌに関することは学習内容として盛り込まれてはいませんでした。」

1917年(T6)
「ロシア革命」11月(10月革命・ロシア歴・10月)
レーニン=「平和に関する布告」(無併合・無賠償・民族自決権)
     「土地に関する布告」
1918年(T7)
北海道、開道50年記念博覧会開催
武隈徳三郎「アイヌ物語」発刊
「ソビエト社会主義共和連邦」誕生(1918〜1991)
「アメリカ大統領・ウイルソン」・「年頭教書」
*[14ヵ条の平和原則]発表
・公海の自由・秘密外交の禁止・経済障壁を取り払う
・軍縮をする・無併合、無賠償の原則・国際連盟の創立
・民族自決権による植民地問題の解決
「シベリア出兵」
「第1次世界大戦」終結(11月・ドイツ降伏)
▼開道50年記念博覧会wp:1918年(大正7年)8月1日から9月19日まで開かれた地方博覧会。 東京、大阪以外の地方博覧会としては、かつて見られなかった大規模なものといわれるが、 それだけに博覧会景気も空前の好景気となった。観覧者総数は142万3661人。
▼wp:シベリア出兵(英: Siberian Intervention)とは、1918年から1922年までの間に、 連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が 「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。
日本は兵力7万3,000人(総数)を投入。アメリカが7,950人、イギリスが1,500人、カナダが4,192人、イタリアが1,400人の兵力を投入。
▼因みにInterventionとは干渉。英語は明快、ことの本質を曖昧にしない。
1919年(T8)「ヴェルサイユ条約」締結
▼wp: 第一篇(1条から26条)国際連盟規約
第二篇(27条から30条)ドイツの境界 
第三篇(31条から117条)ヨーロッパ各国の政治について 
第四篇(118条から158条)ドイツの国外権益について 
第五篇(159条から213条)ドイツの軍備について
第6篇(214条から226条)捕虜や抑留者の返還 
第7篇(227条から230条)「前」ドイツ皇帝への訴追条項および一般戦争犯罪の裁判について 
第8篇(231条から247条)ドイツが連合国等に支払う賠償
第9篇(248条から263条)占領に伴う経費等の支払い方法 
第10篇(264条から312条)ドイツにおける関税、通信(万国郵便連合・万国電信連合関係)、債務・私有財産等の扱いについて 
第11篇(313条から320条)航空の分野における連合国の権利について 
第12篇(321条から386条)ドイツの港の利用、ドイツ国内河川の交通と鉄道について 
第13篇(387条から427条)国際連盟の姉妹機関とされた国際労働機関の規約 
第14篇(428条から433条)ドイツに対する監視措置 
第15篇(434条から440条)その他の条項
▼実に膨大な440条からなる条約である。
第一篇で国際連盟、第13篇で国際労働機関の設立が規定されている。
第四篇(118条から158条)ドイツの国外権益についてで、膠州湾租借地と、それに関連する特権は日本に譲渡する(山東問題)。 ドイツが放棄した植民地については、国際連盟に指名された国が統治する委任統治に移行。 マリアナ諸島、カロリン諸島、パラオ、マーシャル諸島すなわち 南洋諸島の受任国は日本となっている。

1920年(T9)
道庁、平取村に「沙流病院」開院
「国際連盟」成立(スイス・ジュネーブ)
・(イギリス・イタリア・フランス・日本・理事国) (新渡戸稲造7年間事務局次長)
・国際労働機関(ILO)成立
・常設国際司法裁判所(オランダ・ハーグ)成立
▼wp:1920年1月に発効した国際連盟規約第14条では、 「聯盟理事会ハ、常設国際司法裁判所設置案ヲ作成シ、之ヲ聯盟国ノ採択ニ付スヘシ。」 と規定されていた。
1920年6月、国際連盟が任命した法律家委員会が、常設的な司法裁判所の規程の草案を作成し、 判事任命の具体的指針を示した。このようにして作成された常設国際司法裁判所規程(英語版)は、 1920年12月13日にジュネーヴで採択された。

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1921年(T10)「ILO」・[先住民労働者の権利に関する報告書]
1922年(T11)
「旧土人教育規程」廃止アイヌ子弟教育を一般規定に準拠させる
「全国水平社」結成
「日本農民組合」結成
「日本共産党」結成 
▼世界の空気が変わってきたように思う。
1923年(T12)知里幸恵「アイヌ神謡集」発刊
『アイヌ民族の歴史』p464
                    序
その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。 天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼らは、真に自然の寵児、なんという幸福な人達であったでしょう。
冬の陸には林野をおおう深雪をけって、天地を凍らす寒気をものともせず、山また山をふみ越えて熊を狩り、 夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い?の歌を友に木の葉のような小船を浮かべて、ひねもす魚をとり、 花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久にさえずる小鳥と共に歌い暮らして蕗とり蓬つみ、 紅葉の秋は野分けに穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、 圓かな月に夢を結ぶ。嗚呼何という楽しい生活でしょう。
平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。 僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。
しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、 鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、 なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。
時は絶えず流れる。世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、 いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩を並べる日も、やがては来ましょう。 それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。
けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、 それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。
おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語 の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。
私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。
   大正十一年三月一日
                                     知里幸恵
▼知里幸恵「アイヌ神謡集」序文。余りにも悲しすぎる。和人の責任。 明治に時代が変わってからのアイヌ民族の苦難、屈辱、切なさをこれ以上に伝える文章に出会っていない。 生活はこのように落ちぶれた。その根本に土地問題があった。
*9月1日「関東大震災」
▼朝鮮人虐殺。本HPの「在日コリアン」のページを見てください。 在日の人たちが最も力を込めてこの問題を取り上げ、憤りをもっておられます。 この後、急速に日本の軍国主義化が強まります。
1924年(T13)
・道庁、アイヌ給与地予備調査、8245町歩のうち成墾地5614町歩、うち45%を和人が賃借地としている
*道庁、アイヌ民族の負債整理、賃貸地管理のために「互助組合」の設立を通達

▼上記写真と文章は「全国水平社創立宣言と関係資料のユネスコ記憶遺産登録をめざして」 に推薦文を寄せられた北海道アイヌ協会加藤忠理事長とそのおことばです。
「全国水平社結成の刺激を受けて、その名を模したアイヌ解放組織「解平社」が1926年に旭川市にうまれ、 「圧迫に堪えかねん、アイヌの団結 水平運動起こる」と新聞報道もされました。」
▼アイヌ民族の闘いと解放同盟とのつながりが確認できました。

1925年(T14)
「治安維持法」
「普通選挙法」
1926年(T15)
「ILO」・[先住民労働者の権利に関する専門部会]設置
▼ユポさん「ILO」の動きに注目される。
1927年(S2)
「十勝旭明社」設立(アイヌ民族教化目的)
1930年(S5)
違星北斗「コタン」発刊
*「北海道アイヌ協会」発足、機関紙「蝦夷の光」創刊
▼『ユーカラ邂逅』天草季紅著・2018年7月1日新評論発行208頁に北斗自身の次の文章がありました。

「北斗は号であって、瀧次郎と云ふ。小学校をやっと卒業した。シャモに侮辱されるのが憤慨に堪へなかった。 大和魂を誇る日本人のくせに常にアイヌを侮辱する事の多いことに不満でした。
その後東京付市場協会に雇われて1年と6カ月都の人となりました。 見るもの聴くもの私を育ててくれるものならざるはなく、私は始めて世の中を暖かく送れるように晴ればれとしました。
けれどもそれは私一人の小さな幸福であることを悲しみました。
アイヌの滅亡―それも悲しみます。
私はアイヌの手に依ってアイヌの研究もしたい。アイヌの復興はアイヌでなくてはならない。
強い希望にそゝのかされて嬉しかった。東京をあとにして、コタンの人となったのです。」「淋しい元気」 (「落穂帖その一」増補版『コタン』所収)


▼違星北斗の「私一人の小さな幸福であることを悲しみました」の気持は痛いほどわかります。 私が今こうして日本社会のマイノリティーの声に注ぐ情熱も北斗さんの気持と同じです。
▼wp:1931年(昭和6年)7月には初めての北海道アイヌの統一組織である「北海道アイヌ協会」が設立されるが、 その主要メンバーの中には北斗の影響を受けた者が多く含まれていたことからも、 北斗が生涯を賭けた運動が及ぼした影響は、決して小さなものではなかったといえる。
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1931年(S6)
バチラー八重子「若き同族(ウタリ)に」発刊
北海道札幌でアイヌ人青年大会開催(尭祐寺参加者71人バチラー主催)
白老のアイヌ民族青年貝沢藤蔵(かいざわとうぞう)「アイヌの叫び」を著す
▼天草季紅著『ユーカラ邂逅』(160頁)バチラー八重子「若き同族(ウタリ)に」から。

「父の家 嗣ぎてつたえよ 孫曾孫に 亡びの子では 無いといふこと 
ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名 誰しかこれを 取り返すべき 

寄りつかむ 島はいづこぞ 海原に 漂ふ舟に 似たり我等は 
死人さへ 名は生きて在る ウタリの子に 誰がつけし名ぞ 亡びの子とは 

古のヌプルクイトプ 知らせけり ポイヤウンペの 行くべき道を 
どん底に つき落とされし 人々の 登らむ梯子 ありなばと思ふ 

たつせ無く 悩み悩みて 死する外に われらウタリの 道はなきかや 

過ぐる日は のどけくありし トットモシリ 今は憂いに とざされにけり 
亡びゆき 一人となるも ウタリ子よ こころ落とさで 生きて戦へ」


バチラー八重子さん
「一人となるも ウタリ子よ こころ落とさで 生きて戦へ」
知里幸恵さん
「いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩を並べる日も、やがては来ましょう。 それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います」
違星北斗さん
「アイヌの復興はアイヌでなくてはならない。強い希望にそゝのかされて嬉しかった。 東京をあとにして、コタンの人となったのです」
▼これらの祈り、願いがユポさんの活動に繋がっているように思います。
▼wp:バチラーの主宰による全道アイヌ青年大会は熱気にあふれ、「我々は最早眠っていてはならない、 私等は声を揃えて眠れるウタリたちを呼び起こそう」というアピールを採択。
1932年(S7)
第3次近文(ちかぶみ)アイヌ地問題
「満州国建国宣言」
英国人マンロー、二風谷でアイヌ民族の診療と研究に従事
第3次近文(ちかぶみ)アイヌ地問題にまで至る経緯に関する旭川市のHPです。
「アイヌ給与地の旭川市への貸付期間満了に伴い第3次給与地問題発生。旭川市会議員・近文アイヌ代表、給与地付与を求めて上京、各方面に陳情」
▼wp:ニール・ゴードン・マンロー(Neil Gordon Munro、1863年6月16日 - 1942年4月11日)は、 イギリスの医師、考古学者、人類学者。エジンバラ 大学で医学を学び、インド航路の船医として29歳で 日本にやってきた日本人女性と結婚し、1905年(明治38年)に日本に帰化した。
1932年(昭和7年)北海道沙流郡平取町二風谷に住所を移し、医療活動に従事する傍らアイヌの人類研究、 民族資料収集を行った。アイヌ文化の理解者であり、アイヌ民具などのコレクションの他、 イオマンテ(熊祭り、1931年製作)などの記録映像を残した。

1933年(S8)「国際連盟脱退」
1934年(S9)「旭川市旧土人保護地処分法」公布
近文給与地問題の経緯です。
近文(ちかぶみ)アイヌ49戸に、1戸当たり1町歩の土地を付与、残地は共有財産。
▼1町歩では北海道ではやっていけないでしょう。
1936年(S11) 知里真志保・金田一京助「アイヌ語法概説」発刊
「ILO」・[先住民労働者の募集に関する条約]採択・50号条約日本政府、1938(S18)年批准 (国際機関が作った先住民族の権利に関する初の条約)(全文32 条) 
先住民労働者の募集に関する条約
(第50号)(1938年9月8日批准登録)
国際労働機関ノ総会ハ国際労働事務局ノ理事会ニ依リジユネーヴニ招集セラレ 千九百三十六年六月四日其ノ第二十回会議トシテ会合シ右会議ノ会議事項ノ第一項目タル 特殊ノ労働者募集制度ノ規律ニ関スル提案ノ採択ヲ決議シ且 該提案ハ国際条約ノ形式ニ依ルベキモノナルコトヲ決定シ 千九百三十六年ノ土民労働者募集条約ト称セラルベキ左ノ条約ヲ 千九百三十六年六月二十日採択ス
第一条
本条約ヲ批准スル国際労働機関ノ各締盟国ハ土民労働者ノ募集ガ存在シ又ハ将来存在スルコトアルベキ各地域ニ於テ 左ノ規定ニ従ヒ其ノ募集ヲ規律スルコトヲ約ス
▼第1条から第30条までの条約です。募集に関して「土民労働者」を保護することが目的のようです。
▼土民労働者の英語を知りたい!Indigenous Workersだと思われます。 1939年の雇用契約書条約で土民労働者が英語ではIndigenous Workersとなっています。

1937年(S12)
「北海道旧土人保護法」改正公布(給与地譲渡制限緩和、旧土人学校廃止)
「日中戦争」
wikipedia「国家総動員法」
▼wp:国家総動員法は、1938年(昭和13年)第1次近衛内閣によって第73帝国議会に提出され、制定された法律。 同法によって国家統制の対象とされたものは、以下の6点に大別できる。
1 労働問題一般 - 国民の産業への徴用、総動員業務への服務協力、雇用・解雇・賃金等の労働条件、労働争議の予防あるいは解消
2 物資統制 - 物資の生産、配給、使用、消費、所持、移動
3 金融・資本統制 - 会社の合併・分割、資本政策一般(増減資・配当)、社債募集、企業経理、金融機関の余資運用
4 カルテル - 協定の締結、産業団体・同業組合の結成、組合への強制加入
5 価格一般 - 商品価格、運賃、賃貸料、保険料率
6 言論出版 - 新聞・出版物の掲載制限
国家総動員法は成立後廃止されるまでの間に計3回改正されている。 2回目の1941年の改正は 全50条のうちの25条を改正するという大規模なものだった。 これにより、あらゆるものが統制の対象となった。
wikisource「国家総動員法」
▼wikisourceで条文を実際に読んだ方が実感できます。(2020.7.4)
昭和十三年三月三十一日法律第五十五號(官報 四月一日)
國家總動員法
第一條 本法ニ於テ國家總動員トハ戰時(戰爭ニ準ズベキ事變ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ) ニ際シ國防目的達成ノ爲國ノ全力ヲ最モ有效ニ發揮セシムル樣人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ
第二條 本法ニ於テ總動員物資トハ左ニ掲げる掲グルモノヲ謂フ
兵器、艦艇、彈藥其ノ他ノ軍用物資
二 國家總動員上必要ナル被服、食糧、飮料及料
三 國家總動員上必要ナル醫藥品、醫療機械器具其ノ他ノ衞生用物資及家畜衞生用物資
四 國家總動員上必要ナル船舶、航空機、車輛、馬其ノ他ノ輸送用物資
五 國家總動員上必要ナル通信用物資
六 國家總動員上必要ナル土木建築用物資及照明用物資
七 國家總動員上必要ナル燃料及電力
八 前各號ニ掲グルモノノ生産、修理、配給又ハ保存ニ要スル原料、材料、機械器具、裝置其ノ他ノ物資
九 前各號ニ掲グルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル國家總動員上必要ナル物資
▼第九項があれば勅令で何でも指定できる。(2020.7.4)
第三條 本法ニ於テ總動員業務トハ左ニ掲グルモノヲ謂フ
一 總動員物資ノ生産、修理、配給、輸出、輸入又ハ保管ニ關スル業務
二 國家總動員上必要ナル運輸又ハ通信ニ關スル業務
三 國家總動員上必要ナル金融ニ關スル業務
四 國家總動員上必要ナル衞生、家畜衞生又ハ救護ニ關スル業務
五 國家總動員上必要ナルヘ育訓練ニ關スル業務
六 國家總動員上必要ナル試驗研究ニ關スル業務
七 國家總動員上必要ナル情報又ハ啓發宣傳ニ關スル業務
八 國家總動員上必要ナル警備ニ關スル業務
九 前各號ニ掲グルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル國家總動員上必要ナル業務
▼また勅令。以下すべて勅令。(2020.7.4)
第四條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ 帝國臣民ヲ徴用シテ總動員業務ニ從事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ

第五條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ 帝國臣民及帝國法人其ノ他ノ團體ヲシテ國、地方公共團體又ハ政府ノ指定スル者ノ行フ總動員業務ニ付協力セシムルコトヲ得

第六條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ 從業者ノ使用、雇入若ハ解雇、就職、従業若ハ退職又ハ賃金、給料其ノ他ノ從業條件ニ付必要ナル命令ヲ爲スコトヲ得

第七條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ 勞働爭議ノ豫防若ハ解決ニ關シ必要ナル命令ヲ爲シ又ハ作業所ノ閉鎖、作業若ハ勞務ノ中止 其ノ他ノ勞働爭議ニ關スル行爲ノ制限若ハ禁止ヲ爲スコトヲ得

第八條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ物資 ノ生産、修理、配給、讓渡其ノ他ノ處分、使用、消費、所持及移動ニ關シ必要ナル命令ヲ爲スコトヲ得

第九條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ 輸出若ハ輸入ノ制限若ハ禁止ヲ爲シ、輸出若ハ輸入ヲ命ジ、輸出税若ハ輸入税ヲ課シ又ハ輸出税若ハ輸入税ヲ揄ロ若ハ減免スルコトヲ得

第十條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ總動員物資ヲ  使用若ハ收用シ又ハ總動員業務ヲ行フ者ヲシテ之ヲ使用若ハ收用若ハ收用セシムルコトヲ得

第二十條 政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ新聞紙其ノ他ノ出版物ノ掲載ニ付制限又ハ禁止ヲ爲スコトヲ得 政府ハ前項ノ制限又ハ禁止ニ違反シタル新聞紙其ノ他ノ出版物ニシテ國家總動員上支障 アルモノノ發賣及頒布ヲ禁止シ之ヲ差押フルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ併セテ其ノ原版ヲ差押フルコトヲ得

▼すべて勅令。これは法律ではありません。法律の原文に当ってよかったです。(2020.7.4)

1939年(S14)
「ILO」・[先住民労働者雇用契約条約]採択・64号条約 
「第2次世界大戦」
▼「ILO」のHPよりを見ますと条約の英語名は 「Convention concerning the Regulation of Written Contracts of Employment of Indigenous Workers」であり、日本は未批准ですが、外務省の訳は「土民労働者の文書による雇用契約の規律に関する条約」で Indigenous Workersは土民労働者としています。現在であれば先住民労働者と訳すべきでしょう。 また日本語訳は条約ですが、TreatyではなくConventionを使っています。
知恵袋 treatyは2国間で結ばれた条約を指し、conventionは多国間の条約を指します。(2020.7.4)       
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2019.12.8朝日新聞朝刊 ▼元軍曹永井敬司(98)さんのことば 「若い自衛隊員を戦場に導くような憲法改正には絶対反対。そうしたい政治家は、 戦場に行って撃たれればいい。」

▼ペリリュー島はパラオ諸島の南端の島

1940年(S15)「日独伊三国同盟」成立
1941年(S16)
「日ソ中立条約」
「ハワイ真珠湾攻撃」
2020.2.8朝日新聞朝刊
▼左の記事。
「日本人はどのくらいこの場所のことを知っていますか」
と問いかけられています。

マレーシア北東部コタバル(下の太平洋戦争地図をクリック) は1941年12月、真珠湾攻撃の約1時間前に 日本軍が上陸した場所。
2ヶ月余りで英植民地だったマレーシアとシンガポールを占領したマレーシア作戦はここから始まった。
「二度と戦争をしないためには、学校で『戦争はいけない』と習うだけでは足りません。一人でも多くに事実を伝えたい」 ザフラニさんはふるさとで歴史を 掘り起こす作業を20年以上続ける。

▼恥ずかしながらこの記事で初めて知りました。(2020.2.11)

「太平洋戦争」(〜45)
1942年(S17)「ミッドウエー海戦」 太平洋戦争地図
▼以下の緑字の説明(「サイパン島陥落」「東京大空襲」「米軍沖縄本島占領」)はHP「太平洋戦争地図」より。
1942年6月5日(アメリカ標準時では6月4 日) から7日にかけて行われたミッドウェイ 諸島沖で行われた海戦。アメリカ海軍は航 空母艦1隻に対して、日本海軍は主力航空 母艦4隻とその全艦載機を喪失するという 状況に至った。この結果、日本が優勢であ った空母戦力は均衡し、以後は米側が圧 倒していく事となる。

1943年(S18)
「ガダルカナル撤退」
「学徒出陣」
1944年(S19)
「サイパン島陥落」
多くの民間人が戦いの末期にバンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決した。
「本土爆撃」本格化
1945年(S20)
「東京大空襲」
東京は1944年11月14日以降に106回の空襲を受けたが「東京大空襲」と言った場合、 特に、規模が最も大きい1945年(昭和20年)3月10日に行われた空襲を指すことが多い。太平洋戦争に行われた空襲の中で も、とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲として知られている。
「米軍沖縄本島占領」
1945年(昭和20年)、沖縄に上陸した米軍 と日本軍との間で行われた地上戦。これは 民間人を巻き込んだ日本国内での最大規 模の地上戦であり、また日米最後の組織 的戦闘となった。沖縄戦は1945年3月26日 から始まり、組織的な戦闘は6月23日で終 了した。その特徴の一つには日本側に軍 人をしのぐ多数の住民の被害(住民虐殺、 「集団自決」、壕追い出しなどにやり必死の 状況に追い込んだこと)が出たことがある。 これらの犠牲者の数はいまだ正確な数は 不明であり、数千人とも言われている
「広島・長崎に原子爆弾投下」
2019年12月25日朝日新聞夕刊
▼左の記事。
8月6日 月曜日 晴天 広島大空襲さる 記憶せよ!
爆心地から約1キロ。兵舎の下敷きになり、流血した左足を引きずりながら、北へ逃げる。 自転車の荷台に乗せられて翌7日に自宅へ。同9日、ソ連の参戦を知る。「満州の五郎兄さんは張り切っておられることだろう」と、思いをはせた。
8月23日 五郎兄さんがぞうりばきで帽子もかぶらず、玄関に現れた。 
8月27日 今日はがっこうへ行くのを中止。翌28日直登は死去。18歳だった。
五郎が原爆の残忍さを挿絵で描いた「おこりじぞう」の朗読を木内みどりさんが各地でつづけた。死にゆく少女を前に、穏やかな地蔵の顔が怒りに変わる。 内容に感銘を受けた木内さんは3年前から計12回朗読会を開いた。その木内さんが11月18日69歳で急逝。

「ポツダム宣言」受諾、
▼以下のコメントは「ポツダム宣言」翻訳者のものです。傾聴に値します。 とくに「天皇制存続」という条件をつけた「降伏」であった、の箇所。
「ポツダム宣言受諾」を巡って「最高戦争指導会議」「御前会議」は 堂々巡りの議論を繰り返し、8月6日の広島原爆、 8月9日の長崎原爆を招き寄せてしまうのである。
そしてやっと8月10日になってポツダム宣言を受け入れるのであるが、 それは、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」 (国体護持変更の要求を含んでいない、という“条件”のもとにポツダム宣言を受諾する)とする受諾声明を発出する。
 ポツダム宣言を受け入れることは、一見日本の無条件降伏のように見えるが、このように「天皇制存続」という条件をつけた「降伏」であった。

▼上記「ポツダム宣言」をクリックして是非お読みください。(2020.4.29)

ポツダム宣言条文 全訳 日本降伏のため確定条項宣言 ポツダムにて 1945年7月26日発出

(1) われわれ、米合衆国大統領、中華民国主席及び英国本国政府首相は、 われわれ数億の民を代表して協議し、この戦争終結の機会を日本に与えるものとすることで意見の一致を見た。

(2) 米国、英帝国及び中国の陸海空軍は、西方から陸軍及び航空編隊による数層倍の増強を受けて巨大となっており、 日本に対して最後の一撃を加える体制が整っている。この軍事力は、日本がその抵抗を止めるまで、戦争を完遂しようとする全ての連合国の決意によって 鼓舞されかつ維持されている。

(3) 世界の自由なる人民が立ち上がった力に対するドイツの無益かつ無意味な抵抗の結果は、 日本の人民に対しては、極めて明晰な実例として前もって示されている。現在日本に向かって集中しつつある力は、 ナチスの抵抗に対して用いられた力、すなわち全ドイツ人民の生活、産業、国土を灰燼に帰せしめるに 必要だった力に較べてはかりしれぬほどに大きい。われわれの決意に支えられたわれわれの軍事力を全て用いれば、 不可避的かつ完全に日本の軍事力を壊滅させ、そしてそれは不可避的に日本の国土の徹底的な荒廃を招来することになる。(以下(4)〜(13)略)
▼この宣言は7月26日です。日本政府は8月10日になってポツダム宣言を受け入れを表明。その間に広島、長崎、ソ連参戦。 今回のコロナ対策を見ていても日本政府の対応は後手後手、信頼に値する政府を持ち得ていない。自戒を込めて、 われわれは信頼に値する政府を作り上げていない、と言うべきか。(2020.4.29)

「降伏文書」調印 (「降伏文書」クリックしてください。)
「連合国軍」本土進駐
「五大改革指令」
財閥解体、経済機構の民主化、農地改革指令、憲法の自由主義化、新選挙法(婦人参政権付与)
・秘密警察廃止
労働組合の結成奨励
教育制度の自由主義的改革
「アイヌ民族にとって、周辺批判、自己自立への時代の夜明け」
「国際連合」成立・本部ニューヨーク(日本は、56年加盟)
*総会・安全保障理事会・経済社会理事会・信託統治理事会
*国際司法裁判所・事務局
*国連憲章・1944年8〜10月米・英・ソ・中国によって作られ、45年6月サンフランシスコ会議で採択10月24日発効
1946年(S21)
*「社団法人北海道アイヌ協会」設立
*「アイヌ民族甦生援護ニ関スル歎願書」(2月・静内町全道アイヌ大会)
「新冠御料牧場」4万町歩下付、日高種馬牧場解放、
・給与地を農地法の適用から除外することを、農林省、宮内省、北海道長官に陳情
・静内新冠両町村民大会開催、「御料牧場」の全面開放要求決議
進駐軍スイング司令官に面会、独立の意思を尋ねられる、10万円の寄付を受ける
高橋真「アイヌ新聞」創刊(S47・5第14号最終)
「天皇人間宣言」
「農地改革」(1次・2次)
「日本国憲法」公布
「北海道旧土人保護法」改正(4・5・6条削除)
4条・貧困者に、農具・種子 給与
5条・傷痍、疾病者に、救療・薬価 給与
6条・傷痍、疾病、不具、老衰、幼少により自活不能者、救助、死亡者に埋葬料給与
▼アイヌ民族甦生援護ニ關スル歎願書の全文です。ユポさんから頂きました。
                        社團法人 北海道アイヌ協會
       アイヌ民族甦生援護ニ關スル歎願
北海道ノ先住民族デアリ、十一州ガ未ダ皇化ニ浴セザリシ古昔カラ自力自營デ開拓ノ使徒ニ任ジ 皇國ノ進運ニ寄與セル我等アイヌ民族ノ父祖ガ嘗テ松前封建三百年ノ非同化的藩政ニ禍サレ 祖先以來占有シ續ケテ居ツタ良好ナル農地ヤ漁場ヲ没収セラレ 飽クナキ被厭ヲ蒙リ爲メニ幕末頃マデハ水草ヲ逐フテ原始的生活ニ沈淪スルノ余儀ナキニ至ツタ次第デアリマス
明治初年以降、本土方面ヨリ移住スル和人ガ急激ニ揄チスルニ及ビ 之等ト對等ノ文化ト智育ナキ我等同族ノ父祖ハ常ニ和人ノ搾取奸詐ニ陷リ 遂ニ今日猶悲惨極マル生活状態ニアルモノ其大部分ヲ占メルハ誠ニ悲ムベキ現象デアリマス
斯ル社會ノ缺陷ハ國家ノ御理解アル御同情ニヨリ其對策ヲ仰グト共ニ我々モ又自ラノ進ムベキ道ヲ打開セザルベカラズトシ 全道アイヌ民族ノ総力ヲ結集シ自ラノ向上発展、福利厚生ヲ圖ルベク過般社團法人北海道アイヌ協會ヲ設立スルニ至ツタ次第デアリマス
本協會ノ存立ノ目的ハアイヌ民族ヲシテ農業或ハ漁業等職域的部門ニ於テ其生活水準ガ和人ト併行スルマデ向上セシムルニアリマス
今ヤ國家ハ「ポツダム宣言」ヲ受諾セラレ民主々義國家ヲ確立セラレタノデアリマス、
此ノ秋ニ際シ我等アイヌ民族ヲシテ其生活上眞ニ皇国民タルノ體面ヲ保全シ得ラルヽ樣御廰ノ御理解アル御同情ト御援護ヲ賜リ度ク 左記現況ト沿革ノ一端ヲ具シ此段御願ニ及ビタル次第デアリマス
                記
一、北海道ニ現住スル我々アイヌ民族ハ戸數約三千五百戸、人口約一萬七千デアリマス
此内高等教育ヲ受ケタルモノ僅カ數名、中等教育ヲ受ケタルモノ數十名程度デ其他ハ國民學校修了程度カ若クハ無學文盲ナモノデアリマス
住宅ニ於テハ三千五百戸ノ内、茅葺キ狭隘ナ家屋ニ居住スルモノ二千百六十五戸、其内床ナキモノ單ニ地面ノ上ニ藁類ヲ敷キ ソレニ筵ヲ覆フテ起居シ臥寢シ居ルモノハ五百五十八戸デアリマス
經濟的ニ於テハ數十萬ノ富ヲナスモノ數名、農業或ハ漁業等職域的部門ニ於テ其生活水準ガ和人ト稍々併行スルモノ 約二割程度デ其他ノ大部分ハ至ツテ生活程度ガ低ク殊ニ一般和人ト比較シテハ其水準ニ甚ダシキ經庭アリ、 如何ニ悲惨ナ生活ニ放棄セラレアルカハ前記家屋ノ數字ヨリ見マシテモ實状ハ推知シ得ラルヽノデアリマス

ニ、嘗テ我等ノ父祖ノ多數ハ松前三百年ノ非同化藩政ニ禍サレ文化ノ恩惠ニ浴スルコトナク文化的智育ニ劣ルトハ云ヘ 生活豊ニシテ和人ニ比シ毫モ遜色ナカツタ時代ガアツタノデアリマス、
然ルニ文化的教養ニ惠レテヲル和人ト何等對策ナク同一條件ノ經濟機構ノ下デ統治セラルヽニ及ンデ 我々ノ先祖代々カラ占領シ、開墾シ、耕作シ來ツタ、生活保全ノ爲メ唯一ノ財産デアツタ土地モ文字ヲ解セズ 國法ヲ辨ヘズ所有權擁護ノ法律的ナ手續ヲ知ラザリシ結果奸智ニ長ケタ和人ノ併呑ニ任セ乘ゼラルヽニ至ツタ次第デアリマス

三、尚ホ國家ハ明治十年十二月十三日第十五號達北海道地券發行條例ヲ發布シ我等ノ父祖ガ多年占有シ來ツタ土地一切ヲ官有地第三種ニ編入シ 其既得權ヲ保管スルニ至ツタノデアリマス
元ヨリ此の立法精神ハ我等ノ父祖ガ和人ニ其所有地ヲ掠奪サルヽヲ防止スル親心デアツタト推察サレマス
即チ同條例第十六條ニ「舊蝦夷人居住地所ハ其種類ヲ問ハズ當分總テ官有地ニ編入スベシ、但シ地方ノ景況ト 蝦夷人ノ情態ニ依リ成規ノ處分ヲナスコトアルベシ」トアルヲ見テモ明カデアリマス
然ルニ明治二十二年法律第三號ヲ以ツテ同地券發行條例ハ廢止セラルヽヤ又々和人ノ乘ズルトコロトナリタルハ誠ニ慨恨ニ堪ヘヌ次第デアリマス

四、斯クシテ國家ハ我等アイヌ民族ノ保護政策ノ確立ヲ企圖シ遂ニ明治三十二年法律第二十七號北海道舊土人保護法ヲ制定シタガ 其第一條ニ「舊土人ニシテ農業ニ從事スルモノ又ハ從事セントスルモノニハ一戸ニ付キ土地一萬五千坪(面積五町歩) 以内ニ限リ無償下付スルコトヲ得」トアリマスガ 之ニ關係ノ土地處分法ニハ無償下付スル土地ハ未開発地ニ限ルトノ規定ガアル爲メ 從來永住シ占有中ノ既墾地ハ折角ノ保護法ニヨル恩典ニ浴スル能ハズト云フ矛盾ガ生ジタ次第デアリマス
昭和十年北海道廰調査(其後數字ニ變更ナシ)ニヨルト同族ノ最モ多キ日高支廰管内ニ於テ舊土人保護法ニヨリ下付サレタル 給與地ヲ參考ニ供シマスト總面積一千八百三十八町四反四畝十九歩ニシテ總戸數一千五百十六戸デスカラ一戸當リ平均一町二反一畝強トナツテ居リマス、
此内山岳・丘陵等全々不可耕地ノ給與ヲ受ケ開墾不能ノマヽ放任セザルヲ得ヌ面積百八町五反七畝二十歩トナツテ居リマス
本道ノ農家ハ沃土デアツテモ面積五町歩以下デハ經營經濟ガ成立セヌ實態デアリマス、
従ツテ以上ノ小面積ノ舊土人給與地デハ到底專農ヲ以ツテ生存シ得ラレヌコトハ自ラ明ラカデアリマス、
依ツテ多數ノ同族ハ有力農家ノ日雇カ或ハ漁場デ稼働スルカニヨッテ露命ヲ繋グノ外ナク好ムト好マザルトニ不拘轉々ト居住ヲ移スニ至リ、 隨テ下層ノ生活ニ追ヒ込マルヽ事ニナツタ次第デアリマス
現在同族ノ中ニモ相當面積ヲ有シ專農經營ノ者ハ和人ニ伍シテ其水準以上ノ生活ヲ營ンデ居ル事實ヲ見マシテモ 專農トシテノ必要量ノ土地ヲ與ヘ其指導ヨロシキヲ得ルニ於テハ毫モ和人ニ劣ルコトナク 必然皇國民トシテノ體面ヲ保全シ得ラルヽ民族ナルコトヲ證明出來得ルモノデアリマス

五、次ギニ日高國浦河町ト新冠村ニ居住スル同族ノ亨ケタル土地ノ處置デアリマス
即チ往年農林省ガ浦河町字西舎ニ日高種馬牧場ヲ創設スルヤ同地内ニ居住スル 同族ガ其占有地ニシテ未ダ所有權獲得ノ手續ヲセザリシモノハ 是ヲ無償デ没収セラレタノデアリマス、
又舊土人給與地トシテ既デニ所有權獲得ノ手續ヲ了シタルモノハ舊土人保護法ニヨリ賣買ヲ禁ジラレテアル爲メ替地ト稱シ 農耕全々不可能ナ同町東幌別ノ山岳地ニ移サレルノ止ムナキニ至リ謂バアイヌ同族ノ生存權ヲ奪ツタトモ稱スベキデアリマス
一方新冠村デハ新冠御料牧場ノ創設ニ際シ是レ又アイヌ同族ガ父祖以來占有シ安住シ來ツタ廣大肥沃ナ農耕地及ビ放牧地ヲ 御料地ニ編入シ百數十戸ノアイヌ同族ハ農耕ニヨリ生活不能デアル遠隔ノ地沙流郡上貫氣別ノ深山高岳地帶ニ轉住ヲ強ヒラレタ次第デアリマス
然レ共斯ノ事實ハ皇室ニ關係アルダケニ皇國ノ臣民デアル我々同族ハ先祖代々墳墓ノ地ト定メテ永住シテ來マシタ總テノモノヲ提供シタノデアリマス
道内デモ浦河ト新冠ノ同族ガ有シテ居ツタ土地ハ極メテ肥沃ナ土地デアツタゞケニ之等犠牲ニ供セラレタ同族一同ノ打撃ハ將ニ致命的ナモノデアリ、 今日之等關係ノ同族ガ住ムニ土地ナク漂浪同様ナ生活ヲ續ケテ居ルノハ其結果デアリ、爲メニ子弟ノ教育モ思フニ委セズ 智育ノ進マヌヲ以ツテ心ナキ和人ハ事毎ニ侮蔑シ、劣等視シ、自己ハ大和民族トシテ世界ニ冠タル優秀民族ナルガ如キ誤ツタル 優越感念ニ捉ハレアイヌ民族ニ加ヘタル壓迫暴擧ハ枚擧ニ遑ナイ程デアリ、社會問題トシテ人道問題トシテ由々シキ問題デアリマス

六、現在アイヌ民族中農業經營ノ體験ト勞力トヲ有スルモ土地ト資力ナキタメ各地ニ漂浪的ニ日雇ヲ以ツテ生活シ居ルモノ多數アリ、 又近ク同族專農家ノ子弟デ分家ノ上自力自營ノ必要ニ迫ラレツヽアルモノモ多數アリ、之等合セテ概算二千戸トナリマス
而シテ之等ヲ專農トシテ必要地積一戸ニ付キ五町歩ヲ與ヘルト計畫スルニ於テハ茲ニ 農耕地一萬町歩ヲ必要トシ、 又將來是レニ附隨シ混畜農業ヲ必要ト致シマスノデ一戸當リ十五町歩ノ放牧地ガ必要トスルハ常識ニシテ是レ又三萬町歩ヲ要スル次第デアリマス
即チ我等アイヌ民族ガ農業ノ部門ニ於テ其生活水準ヲ和人ト併行スルマデ向上セシムルニハ先ヅ以ツテ 農耕適地一萬町歩ト放牧地三萬町歩計四萬町歩 ヲ最小必要量トスルモノデアリマス
仄聞スル處、今囘日高種馬牧場並ニ新冠御料牧場ハ廢止セラレ全面的解放サレルヤニ承リマシタ
時恰モ狹隘ナル國土ニヨツテ食糧増産ノ必要ニ迫ラレツヽアル時大局的見地ヨリシテ誠ニ機宜ヲ得タルモノト思考セラレマス、 果シテ事實トセバ先ヅ新設當時犠牲ニ供セラレタルアイヌ民族ノ沿革、現在ノ生活状況等ヲ御考慮相仰ギ是レガ更生ノ對象ニ 全地域ノ内ヨリ農耕適地一萬町歩ト放牧地三萬町歩計四萬町歩ヲ我等アイヌ同族ニ御下付相仰ギ度ク御願ニ及ビタル次第デアリマス
幸ニシテ御聽許ヲ得ルニ於テハ我ガ協會ハ國家ノ施策ニ協力シテ農業經營方針ト其指導ニ萬全ヲ期シ アイヌ民族ヲ以ツテ最モ理想的ナ郷土ヲ作リ食糧生産ヲ以ツテ國家社會ニ貢獻スルト共ニ北海道ノ先住民ニシテ今猶ホ 悲惨ナ生活状況ニアル同族ヲ蔑視差別的冷遇、社會的壓迫等ヨリ起ル幾多悲劇ヨリ救濟シ和人ト併行スルマデ其水準ノ向上發展ニ 全力ヲ注ギ眞ニ皇國民タルノ體面ヲ保全シ得度キ所存デアリマス
斯ル明朗ナル理想郷ノ實現ハ我等一萬七千同族ガ等シク夢ニダニ忘レ得ラレヌ唯一ノ希望デアリマス
以上情状御明察ノ上御聽ノ御理解アル御同情ニヨリ御聽許相仰ギ度此段御願ニ及ビタル次第デアリマス
追伸  本協會ハ別紙添附ノ定款ノ如ク智育程度モ特殊事ニアル同族ヲ特殊教育ニヨル高度化ヲ痛感致シテ居リマス、 又荒廢セル住宅ノ改善、漁業ノ助成、療養施設等其他急ヲ要スル懸案山積事案ニ關シ何レモ遠大ナル計畫立案中ニ付キ 具體的成案ノ上ハ同族向上諸般施策ニ御援助ヲ仰ギ度ク追而請願仕ル所存デアリマス
以   上
     昭和二十一年 月 日
            北 海 道 廰 厚 生 課 内
      社 團 法 人 北 海 道 ア イ ヌ 協 會
     理 事 長   向   井  山   雄
▼抑制がきき、道理を弁えた歎願書で却って日本人として恥ずかしくなります。 アイヌ民族の「夢ニダニ忘レ得ラレヌ唯一ノ希望」の実現に協力するのが我々日本人の責務だと思います。 
▼四萬町歩=4萬ha=400平方q 琵琶湖670平方qの60% ささやかな歎願との印象です。
 
▼上記二つのメモは以前に。緑の部分は全文をお読みいただくのは大変と思い今日作業しました。以下緑の部分をまとめました。

三千五百(3,500)戸、人口約一萬七千(17,000)/ 一戸ニ付キ土地一萬五千坪(15,000坪=面積五町歩) 以内ニ限リ無償下付/ 無償下付スル土地ハ未開発地ニ限ルトノ規定ガアル爲メ 從來永住シ占有中ノ既墾地ハ折角ノ保護法ニヨル恩典ニ浴スル能ハズト

同族ノ最モ多キ日高支廰管内ニ於テ舊土人保護法ニヨリ下付サレタル 給與地ヲ參考ニ供シマスト
總面積一千八百三十八町四反四畝十九歩ニシテ(1838町4419)總戸數一千五百十六(1516)戸デスカラ 一戸當リ平均一町二反一畝(1町21)/ 本道ノ農家ハ沃土デアツテモ面積五町歩(5町歩)以下デハ經營經濟ガ成立セヌ


浦河町字西舎ニ日高種馬牧場ヲ創設/同族ガ其占有地 ニシテ未ダ所有權獲得ノ手續ヲセザリシモノハ是ヲ無償デ没収セラレタ/ 所有權獲得ノ手續ヲ了シタルモノハ 舊土人保護法ニヨリ賣買ヲ禁ジラレテアル爲メ替地ト稱シ農耕全々不可能ナ同町東幌別ノ山岳地ニ移サレル


新冠村デハ新冠御料牧場ノ創設ニ際シ 是レ又アイヌ同族ガ父祖以來占有シ安住シ來ツタ廣大肥沃ナ農耕地及ビ放牧地ヲ 御料地ニ編入シ百數十戸ノアイヌ同族ハ農耕ニヨリ生活不能デアル遠隔ノ地 沙流郡上貫氣別ノ深山高岳地帶ニ轉住ヲ強ヒラレタ

道内デモ浦河ト新冠ノ同族ガ有シテ居ツタ土地ハ極メテ肥沃ナ土地

心ナキ和人ハ事毎ニ侮蔑シ、劣等視シ、自己ハ大和民族トシテ世界ニ冠タル優秀民族ナルガ如キ誤ツタル 優越感念ニ捉ハレアイヌ民族ニ加ヘタル壓迫暴擧ハ枚擧ニ遑ナイ程

二千戸/ 一戸ニ付キ五町歩/ 農耕地一萬町歩 ト 放牧地三萬町歩 計四萬町歩

日高種馬牧場並ニ新冠御料牧場ハ廢止セラレ全面的解放サレルヤニ承リマシタ

それにしても「五、日高國浦河町ト新冠村ニ居住スル同族ノ亨ケタル土地ノ處置」は酷すぎます。 アイヌモシリ回復訴訟はここから入って充分争えると考えます。(2020.4.30)

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1947年(S22)
農林省と北海道長官に「新冠御料牧場」の1万7千町歩解放要求、
解放された「新冠御料牧場」姉去にアイヌ民族22戸入植決定
アイヌ民族の有志、衆議院選、知事選、道議選に出馬
  「北海道旧土人保護法」改正(2条の2削除)2条の2・質権、抵当権、地上権、永小作権
▼なぜ1万7千町歩解放要求なのか。
思うに17,000人のアイヌ一人当たり1町歩という計算か?  1万7千町歩=17,000ha=170平方q
「新冠御料牧場」は全体で38,455haだと思われる(「新冠御料牧場沿革誌」地籍は9頁)。 新冠御料牧場沿革誌; 出版者: 新冠御料牧場; 出版年月日: 明29.7;(国立国会図書館デジタルコレクションの「新冠御料牧場沿革誌」より)
9頁に明治26年12月31日現在の牧場の地積と面積が記載されている。
新牧場8,532町歩 旧牧場28,772町歩 ペラリ1,058町歩 牧草地61町歩 耕地32町歩 合計38,455町歩
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』(514頁)に「嘗て同地から他の地域に強制移住させられたアイヌの内、 平取村7戸、様似村2戸、荻伏村1戸、新冠村11戸、静内村1戸のアイヌに旧新冠御料牧場内の土地が与えられ、 ここに新冠御料牧場の解放運動は大きな成果をあげて解決するに至ったのである(『北の光』創刊号)。」との記述があります。
にわかに信じられないおもいです。歎願書で四萬町歩を要求していたアイヌ協会が どれだけの土地を確保できたか知りたいです。
1948年(S23)
国連総会で「世界人権宣言」採択
北海道アイヌ協会、機関紙「北の光」創刊、
▼以下は  呆け天 2020年05月11日  http://boketen.seesaa.net/archives/202005-4.html
からの転載です。 川嶋康男『ラストアイヌ 反骨のアイヌ歌人森竹竹市の肖像 』より(2020.10.4)


「北海道アイヌ協会」の設立に常任幹事として参与した森竹竹市は協会機関紙『北の光』創刊号に 「あいぬ民族の明確化」と題する一文を寄せた。
「私共アイヌ民族は、自分たちこそは真正日本人である自覚の下にアイヌ民族の誇りをもって平和日本建設の為にスタートを切ろう。
嘗て侮蔑の代名詞として冠せられたアイヌー自分たちもさう呼ばれることに依って限りない侮辱感を抱かせられた此の民族称を、 今こそ誇りを以て堂々と名乗って歩かう。(中略)
時々詠草(じじえいそう)
アイヌてふ名をば誇りに起ち上がり
奴隷の鎖 断てよウタリー等
侵された掠められた土地を還せよと
ウタリーは起てり強く雄々しく 」
ときに森竹竹市44歳、激しい主張であり、叫びです。
「青年弁論大会」開催
登別温泉に療養所「北星寮」設置
1950年(S25)「レッドパージ」
1951年(S26)
「日米安保条約」調印
「ILO」・[先住民労働者の権利に関する専門部会]再開
*先住民族の権利についての研究
1952年(S27)「破防法」成立
1953年(S28)厚生省、「地方改善事業費」計上(環境改善事業共同浴場作業場)
1954年(S29)防衛庁・自衛隊発足
1955年(S30)北海道、「熊祭り禁止」を通達(全道支庁長、市町村長宛)
▼「日本における北方研究の再検討」北海道大学教授 煎本孝(いりもとたかし)
「熊祭りの背景にある世界観は、人間と神との間の互酬性の反復―すなわち狩猟対象動物とは肉と毛皮をかぶった神であり、 これらを土産物として人間に贈り、人間からは拝礼を受け、木幣、酒、黍餅などの土産物を受け取り、 再び人間界を訪問することを招請されながら神の国に帰還する―という論理によって成り立っている。 この世界観は広く北方ユーラシアと北アメリカ諸文化に共通するものである。」
▼このような高い思想を持つ熊祭りを何故禁止するのか。私には理解できない。 (のちに禁止が解除されたようだが)
1956年(S31)「ILO」・[独立国における先住民の生活労働状況に関する報告書]提出
1957年(S32)
「ILO・107号条約」採択
「独立国における種族民又は半種族民で、その社会的及び経済的状態がその国の共同社会の他の部類の者が到達している段階より低い段階にあり、 かつ、その地位が自己の慣習もしくは伝統により又は特別の法令によって全部又は一部規制されているものの構成員」 (第1条(a))を保護しながら、同化させるねらいを持っていた。(アイヌと和人の関係にあてはまる。北海道旧土人保護法と同じ。)
▼「Convention concerning the Protection and Integration of Indigenous and Other Tribal and Semi-Tribal Populations in Independent Countries」( 独立国における土民並びに他の種族民及び半種族民の保護及び同化に関する条約)採択(全文37条)
▼Integration=全体の中に包み込む、つまり同化する。この時点ではILOもまだこういう認識だった。
1960年(S35)北海道アイヌ協会、札幌市において再建大会開催
1961年(S36)
厚生省予算の中に初めて「ウタリ福祉対策費」計上
・「不良環境地区改善施設整備費補助」
「北海道アイヌ協会」、「北海道ウタリ協会」と名称変更
・北海道、初めて北海道ウタリ協会に運営費補助(10万円)
知里真志保(52)、死去
金成マツ(85)、死去
1962年(S37)
「日高地区ウタリ実態調査」7月
(北海道日高支庁・北海道ウタリ協会日高地区各支部)
「うせない荘」建設(翌年竣工・S44売却)
1963年(S38)北海道ウタリ協会機関紙「先駆者の集い」創刊
1964年(S39)
北海道ウタリ協会事務局を北海道庁社会課内に置く(事務局員1名)
北海道ウタリ協会、北海道の委託を受け、授産事業技術指導を行う
野村義一、理事長に就任
1968年(S43)
北海道、開道100年祝典開催
国の行政管理庁より「北海道旧土人保護法」廃止の見解を求められる、北海道民生部、時期尚早と反対
*「北海道旧土人保護法」改正(7条削除)
・「不良住宅改良」援助廃止
1969年(S44)
シャクシャイン死後300年、静内にてシャクシャイン顕彰会設立(以後毎年、シャクシャイン法要祭開催) (1669年「シャクシャインの戦い」
▼300年後シャクシャインが蘇った!戦いの再開。国連・国際世論を後ろ盾にしながら。(2020.7.5)
自民党参議院議員西田信一、国会でアイヌ問題をとりあげる。
・秋田大助自治相、「同和対策特別措置法」附則に「アイヌに準用」と書き込むかを、北海道ウタリ協会に下問(ウタリ協会断る)
1970年(S45)
全道市長会、「北海道旧土人保護法」廃止決議
北海道ウタリ協会、「北海道旧土人保護法」廃止反対決議 
*国連、人権委員会、人権小委員会委員エルナン・サンタ・クルス 「政治的・経済的・社会的及び文化的領域における人種差別の研究」最終報告書提出 
・「先住民族の権利」についての研究
1971年(S46)
「ウタリ福祉基金」の創設計画発表(3億円)
佐藤総理大臣(西田国務大臣同席)、厚生大臣、自民党三役陳情
@子弟の教育 A 住宅 B 生活基盤の安定 C基金の創設
「二風谷アイヌ文化資料館」落成 
*国連、人権委員会、ホセ・マルチネス・コーボ(エクアドルの人権専門家)を特別報告者に任命。 「先住民に対する差別問題の研究」1972年に予備報告書提出
1972年(S47)
「財団法人北海道ウタリ福祉基金」創設(1998年解散)
「北海道ウタリ生活実態調査」実施(北海道民生部)
「旭川アイヌ協議会」発足
*沖縄祖国復帰
*「日中共同声明」
1973年(S48)
「北海道ウタリ対策協議会」第1次「北海道ウタリ福祉対策」決定(8月)
日本社会党「アイヌ民族対策特別委員会」設置(36名)(のちに「アイヌ民族問題特別委員会」) 
自由民主党「北海道代議士会・ウタリ対策推進委員会」設置(15名) 
日本共産党「アイヌ問題対策委員会」設置
1974年(S49)
北海道ウタリ協会事務局を、道民生部から北海道立社会福祉館に置く
第1次「北海道ウタリ福祉対策」実施 
5月「北海道ウタリ対策関係省庁連絡会議」設置(10省庁)
1976年(S51)
財団法人アイヌ無形文化伝承保存会設立
日教組大会において「アイヌ系日本人」を「アイヌ民族」に
1978年(S53)
「北海道旧土人保護法」・「北方領土」特別委員会設置(ウタリ協会)
シャクシャイン記念館落成(日高郡新ひだか町静内真歌(まうた))
北海道ウタリ協会事務局を道立社会福祉総合センター内に置く
1979年(S54)
「北海道ウタリ生活実態調査」実施(第2回・北海道民生部)
北海道ウタリ協会「アイヌ問題解決のための特別委員会」設置 
・日本政府.国連.「国際人権規約」A.B批准 
▼「国際人権規約」A.Bは当HP「国連基準」を参照してください。
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1981年(S56)
「北海道ウタリ対策協議会」
第2次「北海道ウタリ福祉対策」実施(〜1987)
第1回沖縄戦没者キムンウタリの塔慰霊祭実施
コーボ報告書「第1次進捗状況報告書」国連人権委員会
*勧告
・先住民族には、固有の権利があること
・「先住民族の権利宣言」を作ること
・そのワーキング・グループを作ること
・先住民の「国際年」を作ること(1992・コロンブス)
▼wp:沖縄戦で北海道出身の兵士が多数戦死しており、その中にアイヌも数含まれていることから、 北海道ウタリ協会が、南北之塔で1981年にイチャルパ(供養祭)を実施し、 その後、1985年・1990年・1995年・2000年・2005年にも実施されている。 アイヌと沖縄の友好のシンボル。「キムンウタリ(kimun-utari)」とは、「山の同胞」という意味。 北海道弟子屈町出身のアイヌ文化伝承者、弟子豊治(てしとよじ)が所属していた部隊が通称「山部隊」と呼ばれていたことによる。
▼キムン:山へ入る、山行き。キムンというと山へ行くというよりも狩りに行く、 すぐにそう思うのが普通である。(『萱野茂のアイヌ語辞典』209頁)
1982年(S57) 北海道ウタリ協会、総会で北方領土の「先住権」・留保を表明
「北海道旧土人保護法」の廃止と、「新法制定」を総会決議
「北大医学部アイヌ人骨資料」の返還を求める
「高校教科書検定問題」で文部省に抗議書提出
・文部省、社会科教科書執筆者懇話会、教科書出版会社に対し、高校教科書のアイヌ記述改善を申し入れる

*コーボ報告書
「第2次進捗状況報告書」国連人権委員会 

コーボ報告書379  先住のコミュニティー、民族及び国民とは、自己の生活領域において発達した侵略前及び植民地化前の社会と 歴史的連続性を有し自己の領域又はその一部において現在優勢であるところの 社会のなかの他の部分と自己を異なるとみなす者である。 先住住民は、現在、社会の被支配的部分を構成し、並びに民族としての存在が連続していることを基礎として、 その先祖伝来の領域及び民族のアイデンティティーを、自己自身の文化様式、社会制度及び法制度に従って、維持し、 発展させ及び将来の世代に伝えることを決意している。
380 この歴史的連続性とは、次に掲げる要素のうち一以上が、 現在に至るまでの長期にわたる期間において連続していることにより構成することができる。
(A)先祖伝来の土地の占拠又は少なくともその一部の占拠。
(B)(A)に言う土地の始原的な占拠者との祖先の共有。
(C)一般的な意味での又は特殊な表現による文化、(例えば宗教、部族制度の下での生活、 先住民族コミュ ニティの構成員であること、衣服、生活様式など。)
(D)言語(唯一の言語として、母語として、家庭若しくは家族における習慣的なコミュニケーション手段として、 又は重要な、優先的な、習慣性的な言語として使用されているかどうかを問わない)。
(E)国の一定の部分又は世界の一定の地域における居住。
(F)その他の関連ある要素。
381 個人を基準とした場合には、先住民族個人とは、先住民族としてのアイデンティティ ーによって 上記の先住住民に帰属し(集団的自覚)、かつ、その構成員の一人として、 これらの住民により認知され及び受容される(集団による受容)者である。
382 このために、これらのコミュニティーには、外部の干渉なしに、 誰がコミュニティーに帰属するかを決定する至高の権利及び権力が保持される。
*国連.人権委員会.「先住民作業部会=WGIP」設置(冗長で、官僚的であると言われているが・・) による「先住民族の定義」
1「先住民族とは、別の地域から異文化、異なった民族的起源を有する人々がやってきて、 地元住民を支配、定住その他の手段によって圧倒し、彼らの人口を減少させ、 非支配的な立場、もしくは植民地的な状況へ追い込んでしまった時代に、 現在の居住地域かその一部地域に生活していた人々の現存する子孫たちのことである。
先住民族は現在、主として支配的な人々の集団の民族的、社会的、文化的特徴を取り入れた国家構造のもとで、 彼ら自身を取り込んでしまっている国家の諸制度よりはむしろ、彼ら自身の社会的、経済的、文化的習慣や伝統に従って生活していることが多い。」
2「征服されたり、植民地化された苦しみを味わっていなくとも、国内において孤立しているか、 または辺境へ追いやられた集団についても、以下のような理由により先住民族という概念の枠内でとらえられるべきであろう。
(A)彼らは、異文化や異なった民族的起源をもつ他の集団がその地へやってきた時代に、国内に住んでいた集団の子孫である。
(B)国民の他の部分から隔離されていたため、彼らは祖先からの習慣と伝統をほとんど無垢のままに保存してきた。 それらは「先住民族」として特徴づけられるているものに類似している。
(C)彼らは、少なくとも形式上は、自分たちとは無縁の民族的、社会的、文化的特徴を取り込んだ国家構造の下におかれている。」

*「世界銀行」による「先住民族の定義」
1先住民族は、多くの場合、地理的に隔絶した地域にすみ、文明に適しておらず、文字を使用できず、 貨幣経済の浸透もなく、特殊な環境に依存する経済基盤をもっている。
2隔絶の程度や文化の浸透の程度によって先住民族を四つのグループに分けている。
3まだ接触のない部族の生存を確保し、国内における交流をより活発な段階へ押し上げ、部族の開発を促進すること。
*「世界先住民族会議」(World Council of Indigenous People; WCIP)による「先住民族の定義」
「私たち先住民族とは以下のような集団である。私たちの現在住んでいる土地に古い時代より住み続け、 祖先から引き継いだ土地に結びつけられた社会的伝統と表現の手段、 および独自の言語を保持するという特徴をもち、さらに特定の民族への強固な帰属意識を抱かせるような 基本的かつ独自の特徴をもつことを自覚している集団のことである。 そして民族としてのアイデンティティを有し、それゆえに他者から峻別される集団のことである。」

UNHRC(United Nations Human Rights Council)国連人権理事会による「先住民族の定義」
1 征服者によって蹂躙された領土のもともとの住民の子孫である。
2 移動または半移動民。移動耕作者、牧畜民、狩猟民、採集民であったりする。 労働集約的な農業形態をとり、余剰を生むことはほとんどなく、エネルギーの必要度も低い。
3 中央集権的な政治制度を持っておらず、共同体レベルで組織がつくられており、全員の同意をもとに決定がなされる。
4 少数民族の特徴をすべて有している。共通の言語、宗教、文化、識別可能な諸特徴と特定の土地との結びつきなど。 しかし支配的な文化・社会によって圧倒されつつある。
5 土地と天然資源を保護し、物資中心主義的ではない態度からなる世界観をもち、支配社会によって与えられた開発とは異なる開発を追求する。
6 自分たちを先住民族と見なしており、集団にも先住民族として受け入れられている個々人を構成員とする。

「ILO169号条約」による「先住民族の定義」
 1 この条約は、次のものに適用する、
(A)独立国における種族民であって、その社会的、文化的、及び経済的な条件が、 その国民社会の他の部門と異なり、かつその地位が全部又は一部それ自身の慣習もしくは伝統、 又は特別の法律もしくは規則によって規律されている者 
(B)独立国における民族であって、征服もしくは植民地化又は現在の国境が画定されたときに、 その国又は国の属する地域に居住していた住民の子孫であるために先住民族と見なされ、 かつ、法律上の地位のいかんを問わず、自己の社会的、経済的、文化的及び政治的制度の一部又は全部を保持している者
2 先住民族又は種族民としての自己認識が、この条約の規定が適用される集団を決定するための根本的な基準とみなされるべきである。
▼種族民=tribal peoples ▼民族=peoples ▼先住民族=indigenous peoples
▼先住民族又は種族民としての自己認識=Self-identification as indigenous or tribal 
▼コーボ報告書へ至る過程
wp:1971年に国際連合人権委員会の下部組織である少数者の差別防止および保護に関する国連人権小委員会 (現:国際連合人権促進保護小委員会)が先住民族差別に関する調査を勧告し、ホセ・マルチネス・コーボを特別報告者として任命した。
1982年にコーボ特別報告者によって「先住民への差別問題に関する調査報告書」が提出 (1972年に予備報告、1981年に第一次進捗報告、1982年の報告についで、1983年には最終報告)され、 この報告に基づいて国際連合先住民作業部会 (Working Group on Indigenous Populations; WGIP) が設置された。
▼北大大学院小内透教授の論文、見つける。(2020.5.11)
先住民族の復権の動き
 1970年代に入ると、先住民族の運動は次第に国民国家の枠組みをこえ、「第四世界」の運動と 言われるようになった。
1973年には、グリーンランド、北カナダの先住民とサーミによりコペン ハーゲンで北方民族会議(Arctic Peoples Conference)が開催された。
彼らは、その場で先住民族の土地や水に対する権利や生存権を表明し、世界先住民族会議を結成することが決められた(庄 司 1991: 877)。
この北方民族会議は、北方地域における先住民の国際活動の始まりとされ(Jentoft, Minde and Nilsen eds. 2003: 25)、1975年にはグリーンランドおよびカナダのイヌイットと北欧の サーミが世界先住民族評議会(WCIP)を組織するまでになった。
「第四世界」の運動と相前後して、国際的に先住民族の権利を検討する動きも強まった。
1971年には、国際連合人権委員会の下部組織である少数者の差別防止および保護に関する国連人権小委員 会が先住民族差別に関する調査の実施を勧告し、エクアドル出身のホセ・マルチネス・コーボが 特別担当官として任命された。
コーボは1972年から先住民族差別に関する調査を開始し、同年に予備報告、1981年に第一次進捗報告、 続いて1982年に世界の先住民がおかれた状況に関する報告書(『先住民に対する差別問題の研究』)を提出した2)。 同年、これにもとづいて、国連の経済社会理事会(ECOSOC)が国際連合先住民作業部会(WGIP)を立ち上げた。 同作業部会は先住民族の権利に関する議論を開始し、翌1983年にはこの部会に先住民の代表が参加することとなった。
アイヌ民族も1987年から同部会に参加するようになった。同作業部会が発足してから20年以上にわたる議論の末、 「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(2007年)がまとめられた。
 この間、1989年に先住民族の土地と水に関する権利の保障を盛り込んだILO第169号条約(「独 立国における先住民族および種族民に関する条約」)が成立し、1990年6月19日、ノルウェーがこ の条約を最初に批准した。その後、中南米の国を中心に批准国が増加し、2013年1月現在22か国が 批准している3)。

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1983年(S58)
北海道ウタリ協会、定例総会において「北方領土」問題に関する基本方針を確認
  2020.2.16朝日新聞朝刊
駒木さんのこの記事はすばらしい。 「日本政府もまた、北方領土問題で、史実を曲げる主張を重ねてきた。特に問題なのは、51年のサンフランシスコ 講和条約で日本が放棄した「千島列島」に国後、択捉は含まれないという主張を今も続けていることだ。当時、日本政府が両島をあきらめていたことは 史料などで明らかだ。」
しかしよく考えてほしい。元々「千島列島」はアイヌ民族が先住民。このことを無視して日本もロシアも領土問題を議論することがおかしい。国際法上、 ロシアに帰属しているのであればロシアがアイヌ民族を先住民として尊重すべし。(2020.5.24)

「全千島における先住民族であるアイヌ民族の地位を再確認する」
「北海道についても先住者がアイヌであったことを明確にすべきであること」
「アイヌ史編集委員会」設置
「北海道アイヌ古式舞踊連合保存会」設立
「二風谷アイヌ語教室」開設
1984年(S59)
北海道ウタリ協会、総会で「アイヌ民族に関する法律(案)」(略称「アイヌ新法案」)を決議。 先住民族宣言ともいうべき、画期的内容の歴史的文書。アイヌ協会において初めて「先住民族法律」提言。
前文・本法を制定する理由(重要)
1・基本的人権.
2・参政権.
3・教育・文化.
4・農業・漁業・林業・商工業等
5・民族自立化基金.
6・審議機関
北海道知事、北海道議会に陳情、関係機関に協力要請(7・12)
「北海道アイヌ古式舞踊」国の文化財に指定
第1回「北海道大学医学部アイヌ人骨イチャルパ」実施
北海道知事の諮問機関、「ウタリ問題懇話会」第1回開催
*「アイヌ民族に関する法律(案)」の具体的な考え方 ―なぜアイヌ民族に関する法律を求めるのか―社団法人北海道ウタリ協会より提案 
▼「アイヌ民族に関する法律(案)」全文を掲載いたします。
▼昨日、亀戸でユポさんにお会いしました。その際「アイヌ民族に関する法律(案)の具体的な考え方」(40頁)を頂きました。条文理解を助けるものです。 茶色の文字で書き込みます。(2020.11.8)
アイヌ民族に関する法律制定についての陳述書 昭和五十九年七月十二日   
陳述団体 社団法人北海道ウタリ協会 理事長 野村義一

当協会は、アイヌの民族的権利の回復を前提にした人種差別の一掃、民族教育と文化の振興、 経済自立対策など、抜本的かつ総合的な制度を確立する必要があるという基本的な考え方に立脚して、 明治三十二年に制定された北海道旧土人保護法を廃止し、新法を制定すべく検討を重ねて参り、 この程別添のとおり成案を得ましたので実現方について特段のご配慮をいただきたく陳述を申しあげます。
                    記
陳述の要旨
一、明治三十二年制定の北海道旧土人保護法は、アイヌ民族差別であり、廃止すること
ニ、北海道旧土人保護法による多年にわたった民族の損失を回復するために、別添「アイヌ民族に関する法律(案)」を制定すること
三、「アイヌ民族に関する法律(案)」の制定は、北海道旧土人保護法の廃止と同時とすること
理由
別記のとおりである
________________________________________
アイヌ民族に関する法律(案)
昭和五十九年五月二十七日   社団法人北海道ウタリ協会総会において可決
前文
この法律は、日本国に固有の文化を持ったアイヌ民族が存在することを認め、 日本国憲法のもとに民族の誇りが尊重され、民族の権利が保障されることを目的とする。

本法を制定する理由
北海道、樺太、千島列島をアイヌモシリ(アイヌの住む大地)として、固有の言語と文化を持ち、共通の経済生活を営み、 独自の歴史を築いた集団がアイヌ民族であり、徳川幕府や松前藩の非道な侵略や圧迫とたたかいながらも 民族としての自主性を固持してきた。
明治維新によって近代的統一国家への第一歩を踏み出した日本政府は、先住民であるアイヌとの間になんの交渉もなく アイヌモシリ全土を持主なき土地として一方的に領土に組み入れ、 また、帝政ロシアとの間に千島・樺太交換条約を締結して樺太および北千島のアイヌの安住の地を強制的に棄てさせたのである。
土地も森も海もうばわれ、鹿をとれば密猟、鮭をとれば密漁、薪をとれば盗伐とされ、 一方、和人移民が洪水のように流れこみ、すさまじい乱開発が始まり、アイヌ民族はまさに生存そのものを脅かされるにいたった。
アイヌは、給与地にしばられて居住の自由、農業以外の職業を選択する自由をせばめられ、 教育においては民族固有の言語もうばわれ、差別と偏見を基調にした「同化」政策によって民族の尊厳はふみにじられた。
戦後の農地改革はいわゆる旧土人給与地にもおよび、さらに農業近代化政策の波は零細貧農のアイヌを四散させ、 コタンはつぎつぎと崩壊していった。
いま道内に住むアイヌは数万人、道外では数千人といわれる。その多くは、不当な人種的偏見と差別によって 就職の機会均等が保障されず、近代的企業からは締め出されて、潜在失業者群を形成しており、 生活はつねに不安定である。差別は貧困を拡大し、貧困はさらにいっそうの差別を生み、生活環境、 子弟の進学状況などでも格差をひろげているのが現状である。
現在行われているいわゆる北海道ウタリ福祉対策の実態は現行諸制度の寄せ集めにすぎず、 整合性を欠くばかりでなく、何よりもアイヌ民族にたいする国としての責任があいまいにされている。
いま求められているのは、アイヌ民族的権利の回復を前提にした人種差別の一掃、民族教育と文化の振興、 経済自立対策など、抜本的かつ総合的な制度を確立することである。
アイヌ民族問題は、日本の近代国家への成立過程においてひきおこされた恥ずべき歴史的所産であり、 日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる重要な課題をはらんでいる。 このような事態を解決することは政府の責任であり、全国民的な課題であるとの認識から、 ここに屈辱的なアイヌ民族差別法である北海道旧土人保護法を廃止し、新たにアイヌ民族に関する法律を制定するものである。
この法律は国内に存住するすべてのアイヌ民族を対象とする。

第一 基本的人権
アイヌ民族は多年にわたる有形無形の人種的差別によって教育、社会、経済などの諸分野における 基本的人権を著しくそこなわれてきたのである。
このことにかんがみ、アイヌ民族に関する法律はアイヌ民族にたいする差別の絶滅を基本理念とする。

第二 参政権
明治維新以来、アイヌ民族は「土人」あるいは「旧土人」という公式名称のもとに、 一般日本人とは異なる差別的処遇を受けてきたのである。明治以前については改めていうまでもない。
したがってこれまでの屈辱的地位を回復するためには、国会ならびに地方議会にアイヌ民族代表としての議席を確保し、 アイヌ民族の諸要求を正しく国政ならびに地方政治に反映させることが不可欠であり、 政府はそのための具体的な方法をすみやかに措置する。

第三 教育・文化
北海道旧土人保護法のもとにおけるアイヌ民族にたいする国家的差別はアイヌの基本的人権を著しく阻害しているだけでなく、 一般国民のアイヌ差別を助長させ、ひいては、アイヌ民族の教育、文化の面で順当な発展をさまたげ、 これがアイヌ民族をして社会的、経済的にも劣勢ならしめる一要因になっている。
政府は、こうした現状を打破することがアイヌ民族政策の最重要課題の一つであるとの見解に立って、 つぎのような諸施策をおこなうこととする。
1 アイヌ子弟の総合的教育対策を実施する。
2 アイヌ子弟教育にはアイヌ語学習を計画的に導入する。
3 学校教育および社会教育からアイヌ民族にたいする差別を一掃するための対策を実施する。
4 大学教育においてはアイヌ語、アイヌ民族文化、アイヌ史等についての講座を開設する。 さらに、講座担当の教員については既存の諸規定にとらわれることなくそれぞれの分野における アイヌ民族のすぐれた人材を教授、助教授、講師等に登用し、アイヌ子弟の入学および受講についても 特例を設けてそれぞれの分野に専念しうるようにする。
5 アイヌ語、アイヌ文化の研究、維持を主目的とする国立研究施設を設置する。 これには、アイヌ民族が研究者として主体的に参加する。
従来の研究はアイヌ民族の意思が反映されないままに一方的におこなわれ、 アイヌ民族をいわゆる研究対象としているところに基本的過誤があったのであり、 こうした研究のあり方は変革されなければならない。
6 現在おこなわれつつあるアイヌ民族文化の伝承・保存についても、問題点の有無をさらに再検討し、完全を期する。

第四 農業漁業林業商工業等
農業に従事せんとする者に対しては、北海道旧土人保護法によれば、一戸当り15,000坪(約5ヘクタール)以内の交付 が規定されているが、これまでのアイヌ民族による農業経営を困難ならしめている背景にはあきらかに 一般日本人とは異なる差別的規定があることを認めざるをえない。北海道旧土人保護法の廃止とともに、 アイヌ民族の経営する農業については、この時代にふさわしい対策を確立すべきである。
漁業、林業、商工業についても、アイヌの生活実態にたいする理解が欠けていることから 適切な対策がなされないままに放置されているのが現状である。
したがって、アイヌ民族の経済的自立を促進するために、つぎのような必要な諸条件を整備するものとする。
農業
1 適正経営面積の確保
北海道農業は稲作、畑作、酪農、畜産に大別されるが、地域農業形態に即応する適正経営面積を確保する。
2 生産基盤の整備および近代化
アイヌ民族の経営する農業の生産基盤整備事業については、既存の法令にとらわれることなく実施する。
3 その他
「具体的な考え方」農用地面積 一般(9.28ha)アイヌ(3.4ha)
 施策:国及び道有地開放 農地取得資金の特例 負債整理資金の新設

▼国及び道有地開放、ではないでしょう。先住権で当然でしょう。(2020.11.12)
漁業
1 漁業権付与
漁業を営む者またはこれに従事する者については、現在漁業権の有無にかかわらず希望する者にはその権利を付与する。
2 生産基盤の整備および近代化
アイヌ民族の経営する漁業の生産基盤整備事業については、既存の法令にとらわれることなく実施する。
3 その他
「具体的な考え方」専業漁家 全道(32.6%)アイヌ(89%)
 施策:定置漁業権・区画漁業権・共同漁業権の特例付与 入漁権の特例付与 負債整理資金の新設

▼特例付与、ではないでしょう。先住権で当然でしょう。(2020.11.12)
林業
1 林業の振興
林業を営む者または林業に従事する者にたいしては必要な振興措置を講ずる。
商工業
1 商工業の振興
アイヌ民族の営む商工業にはその振興のための必要な施策を講ずる。
労働対策
1 就職機会の拡大化
これまでの歴史的な背景はアイヌ民族の経済的立場を著しくかつ慢性的に低からしめている。 潜在的失業者とみなされる季節労働者がとくに多いのもそのあらわれである。 政府はアイヌ民族にたいしては就職機会の拡大化等の各般の労働対策を積極的に推進する。

第五 民族自立化基金
従来、いわゆる北海道ウタリ福祉対策として年度毎に政府および道による補助金が予算化されているが、 このような保護的政策は廃止され、アイヌ民族の自立化のための基本的政策が確立されなければならない。 参政権の確保、教育・文化の振興、農業漁業など産業の基盤政策もそのひとつである。
これらの諸政策については、国、道および市町村の責任において行うべきものと民族の責任において行うべきものとがあり、 とくに後者のためには民族自立化基金ともいうべきものを創設する。
同基金はアイヌ民族の自主的運営とする。 基金の原資については、政府は責任を負うべきであると考える。 基金は遅くとも現行の第二次七ヵ年計画が完了する昭和六十二年度(1987)に発足させる。
「具体的考え方」22頁〜39頁に詳述。民族自立化基金の原資は政府が用意する。その利息で
1自立更生助成対策 
2就労安定対策
3産業振興対策 
4福祉対策
5住宅対策 
6教育・文化振興対策 
7組織活動推進対策
の事業を民族の責任において自主的に運営する、となっている。
これに要する年間の必要経費は約110憶円。これを基金の利息で捻出するというもの。
▼民族自立化基金の経費の内訳を「具体的考え方」22頁〜39頁を読んでみました。生活の多岐にまでわたり、アイヌの人たちの 日々の生活に直結した政策で、しかも予算も控え目な金額で概ね妥当と思いました。 これは是非実現していくべきものと考えます。(2020.11.9)
「具体的考え方」の試算では昭和62(1987)年時点の1年定期の利率は3.76%なので2,935憶円の 基金の創設となっている。2020年現在は0.25%なので4兆4000億円になる。つまり金利が15分の1なので基金が15倍になってしまう。
「民族自立化基金」の根拠。
@明治以降の日本政府によるアイヌ民族の土地の取り上げ、生活・文化の破壊といったアイヌ民族の犠牲の上で、A明治期の武士階級の大混乱を収拾するために、 B天皇制の財政基盤の確立のために、Cさらに先の大戦後の引揚者の受け入れのために、といった近代日本の歴史の中での北海道の果たした役割を考え、 現在500万人を超える日本人が北海道で生活している現実を踏まえれば、「民族自立化基金」の創設は政府として当然の責任である。(2020.11.10)
▼基金の総額に関して発想の転換。
「具体的考え方」でいくと1987年時点では1年定期預金の金利で110憶円の年間対策費を考えると2,935憶円の基金が必要になる。 それが低金利の2020年では4兆4,000億円となってしまう。しかし発想を変えて1年定期預金の利息ではなく、長期の年金基金の運用のように考えると2%ほどの運用益は可能である。 とすると必要な基金は5,500憶円となる。原資は当然、国が出す。(2020.11.11)
▼アイヌ民族自立化基金給付・貸付の推移(試算)
年間対策費の内訳は給付金37憶円、貸付金73憶円の合計110憶円となっている。基金の運用利回りを2%とすると、当初5,500憶円の基金が必要
27年後に貸付の償還がはじまり貸付は償還金でまかなえるようになる。37憶円の給付のためには1,850憶円の基金で足りる。 つまり5,500憶円の基金を3,650憶円減少させることができる。詳細は右表。27年後の「アイヌ民族自立化基金」には1,850憶円の基金と1,898憶円のアイヌの人たちへの貸付の債権(詳細参照) の合計3,748憶円の資産で当初から予定されていた110憶円の事業が継続されることになる。
基金を減少させないで給付を37憶円から110億円に増額させることも考えられる。(2020.11.13)
▼「民族自立化基金」の創設を裁判でも主張していきたい。謝罪の具体化の一つ。(2020.11.10)
▼「民族自立化基金」を考えるに際しての一つのイメージ。
「民族自立化基金」から予定されている年間の必要経費は110憶円。110憶円は北海道の人口約500万人、道民一人当たりにすると2,200円。 アイヌモシリに住まわせてもらう地代として年間一人当たり2,200円とも考えられる。道民とアイヌ民族との折り合いの一つと考えられないか。 (2020.11.10)
「アイヌ民族に関する法律(案)」を決定した
北海道ウタリ協会総会

(『アイヌ民族の歴史』p563)

第六 審議機関
国政および地方政治にアイヌ民族政策を正当かつ継続的に反映させるために、つぎの審議機関を設置する。
1 首相直属あるいはこれに準ずる中央アイヌ民族対策審議会(仮称)を創設し、 その構成員としては関係大臣のほかアイヌ民族代表、各党を代表する両院議員、学識経験者等をあてる。
2 国段階での審議会と並行して、北海道においては北海道アイヌ民族対策審議会(仮称)を創設する。 構成については中央の審議会に準ずる。

▼アイヌ民族に関する法律(案)は素晴らしい!
▼この案と2019年4月18日に成立した「アイヌ新法」を比較検討すること。(2020.5.1)
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1985年(S60)
北海道ウタリ協会「ウタリ会館(仮称)建設特別委員会」設置
アイヌ肖像権裁判提訴(原告 内藤美恵子)
1986年(S61)
創立40周年記念式典・祝賀会開催
北海道、「北海道ウタリ生活実態調査報告書」発刊
中曽根総理大臣、「単一民族発言」
ILO理事会、107号条約改正問題審議
*コーボ報告書「最終報告書」国連人権委員会「先住民族に対する差別問題の研究」第5巻
“結論、提案及び勧告” “国際的観点からの先住住民の定義のための見解”
1987年(S62)
北海道ウタリ協会、スイス・ジュネーブ「国連人権委員会」第5回「先住民族作業部会」初参加、 以来国連関連会議に継続参加
▼ゴルバチョフ書記長1985年。解放同盟第三期運動・IMADR1988年設立。このような流れが出てきた時期にウタリ協会の 国連活動がはじまった。(2020.7.5)
「ウタリ問題懇話会」今後のウタリ福祉対策について報告
「アイヌ語教室」設置、(平取・旭川) 
*5月、ILO理事会、107号条約改正問題につき各国政府に80項目にわたる質問状送付(9月30日回答締切)
*日本政府、11月4日北海道ウタリ協会に送付、11月16日回答期限
*ウタリ協会、政府に回答送付(11月16日)
*日本政府、ILOに今回は回答しないと連絡(12月)
▼日本政府の不誠実な対応。許しがたい。
1988年(S63)
*「ウタリ問題懇話会」アイヌ民族に関する新法問題について、 新しい法律制定の必要性を提言、知事に報告書提出(3・22)
*{アイヌ民族が求める、2.参政権(特別議席)、3.教育権、4.農林・漁業・林業・商工業等を外す}
*北海道ウタリ協会、総会で再決議
第3次「北海道ウタリ福祉対策」実施(〜1994)
北海道議会、「アイヌ民族に関する新法問題について」採択
北海道知事、北海道議会、北海道ウタリ協会の三者で「アイヌ新法」制定を国に要請(11・14)
*{アイヌ新法制定運動盛り上がる}
「アイヌ肖像権裁判」和解
*6月、北海道ウタリ協会、独自に「ILO」に80項目を回答 
*北海道議会決議・7月28日「アイヌ民族に関する法律制定についての要望意見書」  
▼北海道庁のHP『アイヌ文化振興法制定までの歩み』から
北海道「ウタリ問題懇話会」の知事への報告書の概要
報告では、北海道旧土人保護法及び旭川旧土人保護地処分法の二つの法律を廃止し、 次のような内容を含む「アイヌ新法(仮称)」を制定することを提言しています。

1 アイヌの人たちの権利を尊重するための宣言
日本国憲法のもとでアイヌの人たちの権利が尊重され、社会的・経済的地位が確立されるよう権利宣言を定めること。

2 人権擁護活動の強化
アイヌの人たちに対する差別が存在している現状を改善するために、人権擁護活動の強化を図ること。

3 アイヌ文化の振興
アイヌ語やアイヌ文化の継承・保存並びに普及に関する活動を援助し、 アイヌ民族文化を総合的に研究する国立のアイヌ民族研究施設を設置すること。

4 自立化基金の創設
アイヌの人たちの自立的活動を促進するために、「アイヌ民族自立化基金(仮称)」を設置すること。
なお、基金の運営にはアイヌの人たちの自主性が最大限に確保され、国の適正な監督が及ぼされるものとする。

5 審議機関の新設 アイヌ民族に係る民族政策、経済的自立を図るための産業政策を継続的に審議するため、アイヌ民族の代表を含む審議機関を新設すること。

▼知事の諮問機関の「ウタリ問題懇話会」よ、あなた方はアイヌ問題の核心がどこにあるか少しも分かっていない。 それとも分かりながら意図的に核心を外しているとしか思えない。
1989年(H元)
二風谷ダム建設、行政不服審査法による審査請求・執行停止の申立(申立人、貝沢正、萱野茂)
政府「アイヌ民族に関する新法問題についての検討委員会」設置(北海道ウタリ対策関係省庁連絡会議)
「ILO169号条約」成立
・先住民族の定義(第1条)
・植民地化、国境画定、自己認識、強制同化政策
・土地権(第13条、第14条、第16条)、資源権(第15条)、領土権
* 日本民族学会研究倫理委員会
「『民族』の規定にあたっては、言語、習俗、その他の文化的伝統に加えて、 人々の主体的な帰属意識の存在が重要な条件であり、この意識が人々の間に存在する時、 この人々は独立した民族とみなされる。アイヌの人々の場合も、主体的な帰属意識がある限りにおいて、 独自の民族として認識されなければならない。」
▼「ILO169号条約」の正式名 Convention concerning Indigenous and Tribal Peoples in Independent Countries 独立国における原住民及び種族民に関する条約(全文44条)
1990年(H2)
北海道ウタリ協会、第1回「アイヌ民族文化祭」開催
国連、1993年を「国際先住民族年」とすることを決議
ネイティヴ・アメリカンにとっての「コロンバス・デー」
「アメリカインディアン運動(AIM)」などによって、毎年この日(10月12日)になると全米各地で抗議行進やデモが行われていて、 その際多数のネイティヴ・アメリカンが逮捕されている。 また、この休日の名称そのものの変更を要求するネイティヴ・アメリカン団体「コロンバス・デー変更同盟」 (The Transform Columbus Day Alliance)も運動を強めている。
1990年夏, 全世界から350の先住民の代表者がエクアドルのキートに集い、 コロンバス・デー500周年祝いを阻止するため、第一回アメリカ先住民国際会議を開いた。 翌年の夏、カリフォルニア州デービスに100種族以上のアメリカ先住民が前年度エクアドル会議のファローアップ会議として集合。 彼らは、500周年に当たる1992年10月12日を「国際先住民結束の日」と宣言した。
▼このようなアメリカ先住民の活動を今日はじめて知りました。(2020.7.27)

北海道新聞「銀のしずく−アイヌ民族は、いま」連載開始(1年半)
「北海道立北方民族博物館」(網走市)開館
カナダにて「スパロウ判決」
▼wp:カナダ最高裁判所による重要な判決のひとつであり、先住民であるファーストネイションの人びとの権利を、 1982年憲法法第35項のもとで憲法の理念に基づいて定着させようとするはじめての試みとなった。 最高裁は、漁業権のような先住民権は、1982年以来現存しており、カナダ憲法のもとで保護され、 政府のカナダの先住民への信託の義務をめぐる事由・根拠の正当化なしに侵害されてはならないとの判断を示した。
▼この判決の先住民権の考えはアイヌの人たちのさまざまの先住民権の回復に役立つと思う。 「自治権」、「土地権」、鮭等の捕獲権、熊・鹿等の狩猟権、各種木本・草本の採集・利用権、言いかえれば河川・山の利用権等。 アイヌから奪われた 「先住民の権利」とは何か 杉田聡 帯広畜産大学教授(哲学・思想史より)
▼杉田論文「先住民の権利」とは何かは素晴らしいです。クリックしてみてください。(2020.7.27)

▼金属資源情報 2014年42号 カナダにおける先住権原に関する歴史的判決とその影響 クリックしてみてください。勉強になります。(2020.6.19)
1990年:R. v. Sparrow, 1 S.C.R. 1075
・ 1982年憲法§35が1982年4月17日以前に失効させられていない全ての先住民の権利を合法的に保護し、 これらの権利に関して英国王に信任義務を課すと判じた。同法廷はまた、同憲法§35の下では、同セクションが保護の対象とする権利は、 2つのテストをパスすることによってのみ制限することができる。
1)“説得力のある、または実質的な”目的を実現する法律によらなければならない。
2)英国王に対して課される信任義務の下で、当該法制が侵害される先住民の利益に優先することを説明しなければならない。

         

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1991年(H3)
政府、関係省庁により「アイヌ新法問題検討委員会」を設置
政府、国際人権規約に基づく第3回報告書でアイヌ民族を初めて日本の少数民族と認める(但し先住民族とは認めず)
*国連先住民作業部会エリカ・イレーヌ・ダエス議長一行アイヌ民族の地位視察のため来日。 東京・札幌にてシンポジウム開催。(日本国憲法98条について言及)
▼98条2項 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
1992年(H4)
北海道ウタリ協会野村義一理事長、国連「世界の先住民の国際年」開幕式典で記念演説
(12・10)オーストラリア・キーティング首相、アボリジニーに謝罪
オーストラリアにて「マボ判決」
朝日新聞「コタンに生きる―‘93国際先住民年に向けて」連載開始
*北海道議会決議・10月14日「アイヌ民族に関する法律の早期制定を求める意見書」
▼wp:マボ判決は、移民が移住してきた時のオーストラリアは、「無主地(テラ・ヌリウス)」だったという従来の考え方を否定し、 先住民たちが先住権原もっているとして世界で初めて承任された判決。
テラ・ヌリウスについて調べました。 大阪大学大学院のHPです。
「テラ・ヌリウスterra nulliusラテン語で無主の地、誰のものでもない土地を意味する。
国際法では、一般的に、誰も住んでいない地域、または住民が系統だった政府組織を発展させておらず、 土地を改良し耕作していない地域を指して用いられる。ニューサウスウェールズが白人により発見され植民が行われたとき、イギリス政府はその地域をテラ・ヌリウスであると考えていた。
アボリジナルがヨーロッパ人の感覚での土地の所有を行っていなかったからである。 その土地が(イギリス人の定義による)テラ・ヌリウスであるならば、その土地を発見し所有した最初のヨーロッパ人がその土地の所有権を得ると、 イギリス人は信じていた。
連邦最高裁判所は1992年、コモン・ロウに基づく土地の所有権が先住民にあることを認め、 白人による植民が始まった頃のオーストラリアがテラ・ヌリウスだったという考え方を認めない判決を下したとされる。」 (清水寿夫)

▼1990年代に入って先住民に対する空気が明らかに変わってきた。
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1993年(H5)
国連.「国際先住民族年」
*リゴベルタ・メンチュウ・トゥム(ノーベル平和賞受賞者)北海道招待
▼wp:リゴベルタ・メンチュウ・トゥム(Rigoberta Menchu Tum, 1959年1月9日 )はグアテマラのマヤ系先住民族の1つキチェ族の人権活動家・実業家である。 1991年、メンチュウは先住民族の権利に関する国際連合宣言を協議する作業部会に加わった。 1992年にノーベル平和賞、1998年にアストゥリアス皇太子賞国際協力部門を受賞した。
1994年(H6)
萱野茂、参議院議員に繰り上げ当選
社会・さきがけ・自民、連立内閣発足(村山内閣・五十嵐広三官房長官)
自由民主党「内閣部会・アイヌ問題検討小委員会」設置(8月)
自民・社会・さきがけ連立与党「アイヌ新法検討プロジェクトチーム」発足
「北海道立アイヌ民族文化研究センター」(札幌市)開設
国連.第一次「世界の先住民族の国際10年」開始(1994年12月〜2004年12月)
1995年(H7)
政府、「ウタリ対策の有り方に関する有識者懇談会」設置(当事者のアイヌ民族委員が参加していない委員会)
第4次「北海道ウタリ福祉対策」実施(〜2001)
「人権教育のための国連10年」開始(1995〜2004)
1996年(H8)
「有識者懇談会」官房長官に報告書提出・「北海道旧土人保護法」の廃止と、新たな「立法措置」提言(4月)
「アイヌ関連施策関係省庁連絡会議」設置
政府、新法と関連施策の主管官庁を、文部省、北海道開発庁、総理府と決定(12月)
北海道開発庁の位置づけは?
民主党「人権保障調査会・アイヌ新法対策作業チーム」設置
「二風谷ダム裁判」札幌地裁で相内俊一教授「先住民族の定義」証言(11月7日)
オーストラリアにて「ウイック判決」
*北海道議会決議・12月9日「アイヌの人たちに係る新たな施策の早期確立と立法措置を求める意見書」
▼以下は2009年8月5日のアイヌ文化交流センター(frpac=The Foundation for Research and Promotion of Ainu Cultureアイヌ文化財団)でのー 阿部ユポさんの講演「国連の「先住民族権利宣言」とアイヌ民族」からの引用です。
「和田書記官が、日本政府が批准していないこの条約(ILO169 号条約)のこととコーボ報告書を引き合いに出して、 先住民族の国際定義としてはどうかと発言したことに私(阿部さん)は驚きました。
二風谷ダム裁判に、国連の作業部会に一緒に行って和田書記官の発言を聞いた市民外交センターの相内俊一さんが証人として出廷したのです。
相内さんはジュネ ーブから帰ってきた翌日、1996 年 11 月7日に札幌地方裁判所に出廷したのですが、 そこで「私は、ジュネーブで行われた国連人権委員会の先住民族の権利の宣言草案の作業部会に出席して、 昨日帰ってきました。」と言って、裁判長の前で国連の人権委員会や先住民作業部会の説明をしました。
そして、私が今回出席した作業部会で、日本の政府代表の和田書記官がこのようなことを述べていましたと証言したのです。
それまで政府はアイヌ民族が先住民族であるかどうか分からない、先住民族の定義もないと主張していたのですから、 国連でそんなことを発言しているのかと裁判長も驚いたと思います。
1997 年3月 27 日に札幌地方裁判所で二風谷 ダム裁判の判決が出されました。
北海道はアイヌの土地であった、つまりアイヌ民族は先住民族であると言うべきであるという画期的な判決が出たのです。 その判決が出た時に私は本当に相内さんのお陰だと思い ました。」
▼私は本HPで「二風谷ダム裁判」を既に検討していますのでこのユポさんの講演内容は非常によく理解できました。そして納得しました。
▼ユポさんのことば。「私は 96 年以来、年に2回、 スイスのジュネーブで開かれていた国連の先住民の権利宣言作業部会や先住民作業部会に参加し 「先住民族の権利宣言」の採択に向けての活動をしてきました」。
先住民土地権、先住民土地権原 については大阪大学大学院 文学研究科「オーストラリア辞典」から引用させていただきました。
この辞典は、オーストラリアの歴史的人名、地名、歴史の事項、オーストラリアに特殊な用語、 オーストラリアについて書かれた論文などを、検索エンジンを用いて辞典にしたものだそうです。
以下が先住民土地権、先住民土地権原についての解説です。
「この言葉は、オーストラリアにおいては通常アボリジナルの政治運動と土地所有権について使用される。 先住民の本格的な土地権回復運動は1960年代に始まった。
1992年にオーストラリア最高裁判所が、マボウ判決により先住民の土地権の存在を認め、それが公有地において存続していることを確認すると、 連邦政府もこれへの対応を迫られ、1994年に先住民土地権法Native Title Act(マボウ法)が制定された。
1996年の連邦最高裁判所のウィック判決は、マボウ判決より一歩踏み込んでリース契約が存在する公有地においても 先住民の土地権が存続していることを認めた。」(新林秀亮)

▼アイヌの人たちの土地回復運動の参考になります。2019年から始めましょう。
▼アイヌ文化交流センターでの「オーストラリアにおける先住権」 (2002年【1】 8月7日(火) 14:00~15:30. 【2】 8月8日(水) 14:00~15:30. 講師. 京都精華大学教授. 細川 弘明. ) の講演もアイヌ民族の先住権を考えていくうえでとても参考になります。クリックしてご一読ください。
1997年(H9)
「二風谷ダム判決」(3月27日)
土地強制収容は違法、アイヌ民族を「先住民族」と認定
「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(5月14日成立、7月1日公布)
*「北海道旧土人保護法」廃止
*「アイヌ文化の振興」・「アイヌの伝統等に関する知識の普及」を謳った法律が制定されたのは、日本の歴史上初めて
*アイヌ民族が自らの伝統的文化を伝承し、発展させる活動を、誇りを持って積極的に行える状況ができた。
*付帯決議 5・現在、行われている北海道ウタリ福祉対策に対する支援の充実に、 今後とも一層努めること“34億円が、現在12億円。財団も2億円減額。”“道外居住アイヌ民族対象外”
▼以下はこの法律に対するユポさんの批判
*「アイヌ新法案」骨抜き、6項目の要求のうち、3番目の教育・文化の文化のみの法律
・アイヌ文化振興策のみ
・「先住権」なし
・アイヌ民族の社会的、経済的施策なし
・北海道限定の法律(アイヌ民族政策のローカル化)(46都府県は何もしない.基本方針・基本計画・予算)
▼今日、「アイヌ新法案」を1984年の総会決議以降の経緯を追ってみました。この時点で(1997年)ユポさんが総括しておられるように 「3番目の教育・文化の文化のみ」になっています。昨日、アイヌ民族自立化基金の具体的考え方を勉強して、現在準備中の裁判になんとか 入れられないものかと考えています。(2020.11.9)
*CERD第51会期
・「先住民の権利に関する一般的勧告XXV」決議
(土地の返還.賠償.補償勧告)
*ILO169号条約を指針とせよ
*日本政府、国連規約人権委員会第4回定期報告書提出
「北海道旧土人保護法」の廃止と「アイヌ文化振興法」の制定、「アイヌ文化振興財団」の設立、財源の補助を強調
カナダにて「デルガムーク判決」
▼wp:カナダ先住民であるギッサン・ネイションおよびウェトスウェッテン・ネイションが、 およそ54,000平方キロメートルの土地に対する権原の確認を求めて起こした訴訟。 ブリティッシュ・コロンビア州最高上訴裁判所(最高裁判所)による1997年の判決は、 カナダにおける先住民権の性質をめぐるもっとも決定的な言明として有名。
カナダにおける先住権原に関する歴史的判決とその影響
1997年:Delgamuukw v. British Columbia, 3 S.C.R. 10108
カナダ先住民

・ Calder判決、Guerin判決、Sparrow判決で打ち立てられた原則を統合し、 先住民の先住権原という文脈において適用した判例。 同法廷は英国王と先住民との関係における権利と義務の独特な性質を確認し、 また、先住民の先住権原を独特なものとしている要因が英国の主権宣言に先立つ専有から生じており、 主権宣言以降の無条件財産相続権とは区別されると述べた。そして先住民の先住権原の主張を評価するにあたり、 慣習法と先住民が同等に重視されると述べた。
・ 同判決はまた、先住民の先住権原の内容について正と負の面から要約した。
1)先住民の先住権原は、その態様によらず様々な目的のために排他的に使用・専有する権利を含む。
2)集団としての先住権原であり、将来世代の土地をコントロールし利益を得る権利を奪ってはならない。
・ 同判決はまた、先住民の先住権原に対する制限は、1982年憲法§35の下でSparrow判決に従って正当化されることを確認し、 同正当化行為を“先住民の社会を、それが所属するより広範な政治的コミュニティに和解させる必要な部分”として説明した。
1998年(H10)
日本政府、国連人権委員会でアイヌ民族を先住民族と認めないと発言
「断固拒否」
萱野茂引退表明、次期不出馬宣言(7月満期)
STV「アイヌ語講座」(ラジオ放送)開始
*「アイヌ民族差別図書裁判」提訴 
1999年(H11)
  北海道、「アイヌ文化の振興等を図るための施策に関する基本計画」を政府に提出
*「アイヌ民族共有財産裁判」提訴
▼wp:アイヌ民族共有財産裁判とは、アイヌの資産管理能力の不足などを名目として 北海道旧土人保護法に基づいて従来北海道知事が委託され管理してきたアイヌ民族の共有財産について、 アイヌ文化振興法(H9)に基づいて公告された所有者への返還手続きに対し、現在までの管理・会計状況の不明瞭さ、 金額の算出根拠の不明確さ、対象を申請者のみに限定していること、アイヌ民族の先住権に対する配慮の不備などから、 北海道ウタリ協会札幌支部理事の小川隆吉をはじめとしたアイヌ民族24人がこの返還手続きの無効の確認を求めた裁判。             トップへ戻る
2000年(H12)
  「アイヌ文化振興等施策推進会議」設置、(文部省(文化庁)、北海道開発庁、北海道、北海道ウタリ協会、アイヌ文化振興財団の五者) 
北海道「アイヌ文化振興等施策推進北海道会議」設置
「ウタリ福祉対策検討会議」設置(北海道ウタリ福祉対策)
支庁別アイヌ人口 『アイヌ民族の歴史』
(p603)

日高と胆振で全体の66.7% 15,851人
石狩10.2% 2,424人

2001年(H13) 
1月、中央省庁再編
国土交通省=国土交通省北海道局企画課アイヌ施策室
文部科学省=文化庁
北海道「アイヌの人たちの生活向上に対する推進方策」発表
北海道ウタリ福祉対策に代わる新政策
1生活の安定
2教育の充実
3雇用の安定
4産業の振興
5民間団体の活動促進
*国連・人種差別撤廃委員会(Committee on the Elimination of Racial Discrimination)(CERD)勧告(ILO・国際労働機関)
1.CERD第51会期「先住民の権利に関する一般的勧告XXV」
「土地に係わる権利の認知及び保護ならびに土地の滅失に対する賠償および補償を呼びかけている。 先住民の権利に関する一般的勧告に締約国の注意を喚起する」
2.原住民および種族民に関するILO169号条約を批准すること及びこれを指針として使用することを慫慂する。
*日本政府の姿勢
・先住民族の定義がない(1996年国連WGIP和田一等書記官の先住民族の定義に対する否定的な発言)
・アイヌが先住民族かどうか慎重に判断したい
・ILO169号条約(独立国における原住民及び種族民に関する条約)の批准は問題が多い 
民主党「民主党北海道選出国会議員会・アイヌ民族政策委員会」設置
「FMピパウシ」萱野茂・二風谷地域ラジオ局
▼人種差別撤廃委員会の英語名=Committee on the Elimination of Racial Discrimination)(CERD)
▼WGIP=The Working Group on Indigenous Populations was a subsidiary body within the structure of the United Nations. It was established in 1982,
2002年(H14)
国連、PFII(先住民族問題のための常設フォーラム)設置
(ニューヨーク・国連本部、日本政府、政府委員代表として東大教授・岩沢雄司を推薦)
*「アイヌ民族共有財産裁判」札幌地裁却下判決(3月)
*「アイヌ民族差別図書裁判」札幌地裁却下判決(6月)
二つの裁判いずれも札幌高裁に控訴、2004年却下判決
▼ PFII=The United Nations Permanent Forum on Indigenous Issues
2006年(H18)
国連、第1回「人権理事会」において、我が国も賛成するなか、「先住民族の権利に関する国連宣言」採択(6月29日)
wiki先住民の定義
▼国連人権理事会=United Nations Human Rights Council、UNHRC
2007年(H19)
国連総会(第61会期)
「先住民族の権利に関する国際連合宣言」採択(9月13日)
*日本政府2つの留保付きで賛成
1 国家からの分離独立は含まれない
2 集団的権利は国民の公的権利財産権を侵害しないこと
反対4カ国・米国、カナダ、豪州、NZ
(現在、4カ国とも、先住民族に謝罪し賛成、現在反対0)
*北海道ウタリ協会・加藤忠理事長記者会見
「国連宣言に従って、日本政府はまず、アイヌ民族から土地、言葉、文化などを奪ってきた歴史を謝罪してほしい」とのべた。 今後、宣言に盛り込まれた土地に対する権利をもとに、国有地、国有林の利用権を求めるなど、具体的な行動を起こしていく考えも示した。 施行から十年を経たアイヌ文化振興法について、「自立化基金や審議機関の設置などわれわれの要求からかけ離れた内容であり、 宣言を受けて、当然見直しを迫っていく」と表明した。
*北海道アイヌ協会・加藤忠理事長全役員理事監事・全支部長宛「先住民族の権利に関する国連宣言」採択のお知らせ
―喜びの報告と、当面の協会取り組みについて―“新たな法律制定、北海道知事・北海道議会意見書提出”
前述(1996年の二風谷裁判の箇所)で引用しました 阿部ユポさんの講演「国連の「先住民族権利宣言」とアイヌ民族」の中に 「私は 96 年以来、年に2回、 スイスのジュネーブで開かれていた国連の先住民の権利宣言作業部会や先住民作業部会に参加し 「先住民族の権利宣言」の採択に向けての活動をしてきました」とあります。 ユポさんのこのような活動のお蔭で2007年の国連の「先住民族権利宣言」にたどり着いたとおもいます。
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2008年(H20) 
2月13日 豪政府、アボリジニに公式謝罪
アボリジニに公式謝罪
すばらしいHPを見つけました。松崎さん、ありがとうございます。掲載させていただきます。
「昨年11月に政権に着いたラッド労働党政府は、2月13日、新政府による初の議会の冒頭議事として、 過去のオーストラリア政府が行ってきたアボリジニ(原住民)への差別抑圧政策への公式の謝罪を行いました。 この歴史的議会には、アボリジニの諸代表や過去の歴代首相も列席しましたが、 この謝罪を頑強に拒否してきた前ハワード首相のみ、姿を現しませんでした。以下は、ラッド新首相が行った公式謝罪の全文訳です。
                
「今日、我々は、この国土の原住民とその人類史上最古の現存する文化を誇りとします。
我々は、過去の彼らへの誤ったふるまいを深く考えます。
ことに我々は、「盗まれた世代」――この国の歴史における最大の汚点――である人々への行為を深慮します。
今や、誤った過去を正し、将来へ向って自信をもって進む、オーストラリアの歴史の新しいページを開く時です。
我々は、オーストラリアの同胞に、大きな悲しみ、苦しみ、そして喪失を与えた、歴代の議会や政府の法律や政策を謝罪します。
我々は、特に、アボリジニやトレス海峡諸島の子供たちが、家族や同胞や郷土から連れ去られたことを謝罪します。
そうした盗まれた世代の、その子孫の、そして取り残されたその家族の、痛み、苦しみ、そして傷つきに、我々は、謝ります、と言います。
そうした父、母、兄弟、姉妹に、家族と同胞の絆を断ち切ったことに、我々は、謝ります、と言います。
そして、この誇り高き人々と文化に与えた、尊厳の破壊と退廃に、我々は、謝ります、と言います。
我々オーストラリア議会は、この謝罪が、この国が与える癒しのいくらかにでも貢献したいとする精神として受け入れられるよう、つつしんで求めるものです。
この大陸の偉大な歴史の新たなページが、今、開かれることを採決し、未来のために、我々はそれを暖かく迎えます。
我々は、本日、過去を認め、あらゆるオーストラリア人に与えられる将来への権利を主張することにより、この最初の一歩とします。
今後、こうした過去の不公正が議会で議決されるようなことは、二度と起こってはなりません。
今後、我々は、寿命、教育水準、経済機会における格差を縮める、すべてのオーストラリア人、原住民、非原住民による決定を採用してゆきます。
今後、我々は、過去の試みが失敗した懸案に対する新たな解決策を取り入れて行きます。
今後、相互の尊重、相互の解決、相互の責任を基礎として行きます。
今後、その生まれが何であろうとも、すべてのオーストラリア人は、真に平等なパートナーであり、同等な機会と、 この偉大な国オーストラリアの歴史の次のページを開く上での、同等な利害関係をえます。」
▼以上が謝罪の全文です。以下は松崎さんのコメントです。

この議決は、野党をも含む超党派的合意を目的としたもので、その分、決定内容は精神的な宣言にとどまっています。 今後、この謝罪にもとずく、補償要求が提出されることが確実ですが、必ずしもこの議決がその補償を約束しているものではなく、 ひとつひとつの裁判において、その決定がなされてゆくものと解釈されています。
ともあれ、「謝ります」 (原文では「sorry」) という言葉が三度も繰り返されていることに、 アボリジニ関係者の間でも、それを歓迎して受け入れる見方が多いようです。
アボリジニに公式謝罪
資料: The Weekend Financial Review, 13 February 2008. 翻訳: 松崎(2008.2.14)
▼日本政府もアイヌの人たちに対してこのような謝罪が必要。

3月26日「アイヌ民族の権利確立を考える議員の会」設立
5月14日 国連・「人権理事会」、日本政府に対し、「先住民族の権利に関する国連宣言」を受けて 日本政府は国連宣言の国内適用に向けてアイヌ民族と対話するようにと勧告 
▼国連・「人権理事会」UPR(普遍的定期的レビュー)でのグアテマラからの勧告。
以下はUPRの審査結果文書。
その前にUPRについてOHCHR(Office of the United Nations High Commissioner for Human Rights国連人権高等弁務官事務所) の解説を掲載しておきます。

What is the Universal Periodic Review?
The Universal Periodic Review (UPR) is a unique process which involves a periodic review of the human rights records of all 193 UN Member States.

How was the UPR established?
The UPR was established when the Human Rights Council was created on 15 March 2006 by the UN General Assembly in resolution 60/251.
On 18 June 2007, one year after its first meeting, members of the new Council agreed to its institution-building package (A/HRC/RES/5/1)

作業部会の日本に関する報告書
1.2007年6月18日の人権理事会決議5/1に基づいて設立された普遍的定期的レビュー(UPR)作業部会は、 2008年5月5日から19日の間に第2回会期を開催した。
日本の審査は2008年5月9日の第10回会合において行われた。
日本代表団の団長は秋元義孝外務省国連担当大使であった。
2008年5月14日に開催された第14回会合において、 作業部会は日本に関する本報告書を採択した。
46.【日本C】 政府は、アイヌの人々が日本列島北部周辺、取り分け北海道に先住していた ことは歴史的事実であること、 及びアイヌの人々が市民的及び政治的権利に関 する国際規約第27条にいう少数民族であることを認識している。
60.議論において日本に対して以下の勧告が行われた。((19)アイヌ民族に関する部分)
・特にアイヌの人々の土地及びその他の権利の再検討と、それらの権利と「先住民族の権利に関する国際連合宣言」との調和。(アルジェリア)
・「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を履行するために、先住民族と対話を開始する方法の模索。(グアテマラ)
▼アフリカと中南米の国から上記のような勧告が日本になされました。国際会議での日本の後進性が浮き彫りです。

▼単にアイヌ民族の問題だけでなく諸外国から見た日本の人権状況を自覚するために勧告の全文を掲載します。 人権後進国日本が見えてくると思います。(2020.6.21)
U.結論及び/又は勧告
60.議論において日本に対して以下の勧告が行われた。
(1)
・以下の条約の批准又は批准の検討
@自由権規約第一選択議定書及び第二選択議定書(アルバニア)
A拷問等禁止条約選択議定書(イギリス、アルバニア、メキシコ、ブラジル)
B女子差別撤廃条約選択議定書(ポルトガル、アルバニア、メキシコ、ブラジ ル)
C移住労働者権利条約(ペルー)
D障害者権利条約(メキシコ)
E強制失踪条約(アルバニア)
F国際的な子の奪取の民事面に関する1980年ハーグ条約(カナダ、オラン ダ)
・個人通報を受領し、検討する人種差別撤廃委員会の権限の認識(メキシコ、 ブラジル)
・自由権規約第二選択議定書への署名(ポルトガル)
(2)
・可及的速やかにパリ原則に沿った人権機構を設立するべきとの要請(特に自 由権規約委員会及び児童の権利条約委員会からの要請)の実施。(アルジェリア)。
・パリ原則に沿った国内人権機構を設立するために必要な法律をまとめること。 (カナダ)
・国内人権機構の設立。(メキシコ)
・パリ原則に沿った国内機構を設立するための努力の継続。(カタール)
(3)
・人権侵害の申立てを調査するための独立した機構の設立。(イラン)
(4)
・人権理事会の特別手続に対する恒常的な招待の表明。(カナダ、ブラジル)
(5)
・第二次世界大戦中の慰安婦問題に関する国連メカニズム(女性に対する暴力 特別報告者、人種差別撤廃委員会及び女子差別撤廃委員会)からの勧告に対す る誠実な対応。(韓国)
(6)
・平等と非差別の原則に適応するべく国内法の改正。(スロベニア)
・あらゆる形態の差別を定義し、禁止する法律の制定の検討。(ブラジル)
・刑法に差別の定義を導入することの検討。(グアテマラ)
・人種差別、差別及び外国人嫌悪に対する国内法の早急な導入。(イラン)
(7)
・女性を差別する全ての法律上の規定の廃止。(ポルトガル)
・女性の差別に対する施策の継続、特に女性の婚姻最低年齢を男性と同じ18 歳への引き上げ。(フランス)
(8)
・マイノリティに属する女性が直面している問題への取り組み。(ドイツ)
(9)
・在日韓国・朝鮮人に対するあらゆる形態の差別を撤廃するための措置。(北朝 鮮)
(10)
・日本における歴史の歪曲が継続していることは、過去の侵害行為に取り組む ことへの拒否と再発の危険性を示すものであると懸念を表明し、現代的形態の 人種差別に関する特別報告者も要求しているように、このような状況に取り組 むための措置を直ちに講じること。(北朝鮮)
(11)
・性的指向及び性同一性に基づく差別を撤廃するための措置。(カナダ)
(12)
・死刑執行停止と死刑廃止を目的とした死刑執行の早急な見直し。(イギリス)
・国連総会で採択された決議に従って、死刑廃止を目的として死刑を執行せず、 死刑の執行停止を再度適用すること。(ルクセンブルグ)
・死刑廃止を目的とした死刑執行停止の導入。(ポルトガル)
・死刑執行停止の正式な導入を優先事項として検討。(アルバニア)
・死刑執行停止の導入の再検討。(メキシコ)
・死刑執行停止あるいは死刑を廃止している多くの国々に加わること。(スイス)
・死刑に直面する者の権利の保障に関する国際基準の尊重、死刑執行の漸進的 制限、死刑が課される犯罪数の減少、死刑廃止を目的とした死刑執行停止の導 入。(イタリア)
・凶悪犯罪の刑罰に仮釈放のない終身刑を追加する可能性及び死刑の廃止の検 討。(オランダ)
・日本における死刑廃止に関する他国のこれまでの発言の支持。(トルコ)
(13)
・警察の留置施設にいる被留置者の取調べの組織的な監視・記録、及び刑事訴 訟法の、拷問等禁止条約第15条及び自由権規約第14条3項との適合性の確 保、全ての関連する資料にアクセスできる被告人の権利の保障。(アルジェリア)
・警察と司法機関が被疑者に自白させるために過度の圧力を加えることを避け るために、
@強制された自白の危険性に対する警察の関心をひくように、一層 組織的かつ集中的な取り組み、
A取調べを監視する手続の見直し、
B長期にわ たる「代用監獄」の使用についての再検証、
C拷問等禁止条約第15条に適合 することを確保すべく刑事法の見直し。(ベルギー)
・被拘禁者の拘禁に際して手続保障を強化するメカニズムの構築。(カナダ)
・留置手続が人権法の義務に調和することを確保するため、いわゆる「代用監 獄」制度の再検討、及び留置施設の外部による監視に関する拷問禁止委員会の 勧告の実施。(イギリス)
(14)
・女性及び児童に対する暴力の影響を減らすための施策の継続。特に法執行機 関職員が人権研修を受けることの確保及び暴力被害者が回復・相談するための 施設への資金の供給をすること。(カナダ)
(15)
・特に女性と児童に対する人身取引に対処するための努力の継続。(カナダ)
(16)
・常居所から不正に連れさられたり、又は戻ることを妨げられている子供の早 期帰還を確保するためのメカニズムの構築。(カナダ)
(17)
・あらゆる形態の児童への体罰の明示的な禁止、積極的かつ非暴力な形態のし つけの促進。(イタリア)
(18)
・北朝鮮を含む他国・地域で犯した慰安婦及び過去の暴力にきっぱりと取り組 むための具体的な措置。(北朝鮮)
(19)
・特にアイヌの人々の土地及びその他の権利の再検討と、それらの権利と「先 住民族の権利に関する国際連合宣言」との調和。(アルジェリア)
・「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を履行するために、先住民族と対話 を開始する方法の模索。(グアテマラ)
(20)
・庇護決定を再検討するための手続を拷問等禁止条約及びその他の関連する人 権条約と調和させること、及び必要とする移住者への国による法的援助の提供。 (アルジェリア)
(21)
・入国者収容所を調査する国際的な監視員の受け入れ。(アメリカ)
(22)
・庇護申請を再検討するための独立機関の設立。(スロバキア)
(23)
・不法な状況にあると疑われる移住者を省庁のウェブサイトに匿名で通報する ことを一般市民に求めるために設立された制度の廃止。(グアテマラ)
(24)
・社会的、経済的な発展が必要な国々に対する財政的援助の提供の継続、及び ミレニアム開発目標8に規定されている発展の権利の実現に向けた国際努力に 対する支援の拡大。(バングラデシュ)
(25)
・インターネット上の人権侵害における人権の保護に関する日本の経験の他の 国との共有。(ポーランド)
(26)
・UPRプロセスのフォローアップにおいて、国レベルでの市民社会の十分な 関与。(イギリス)
・審査をフォローアップする過程における、ジェンダーの視点の組織的かつ継 続的な組み入れ。(スロベニア)
61.これらの勧告に対する日本の回答は、第8回人権理事会で採択される結 果文書に含まれる予定である。
62.本報告書に含まれる全ての結論及び/又は勧告は、勧告を行った国及び 被審査国の立場を反映したものである。作業部会全体によって承認されたもの であると解釈されてはならない。
▼以上のような課題が海外から指摘されています。ひとつひとつ取り上げて、解決していかなければなりません。とりわけ パリ原則に沿った人権機構を設立(人権救済のため)、自由権規約第一選択議定書(個人通報制)及び第二選択議定書(死刑廃止)、 拷問等禁止条約選択議定書(冤罪防止のため)が急がれています。(2020.7.5)

6月6日 衆参両議院本会議にて、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める国会決議」を全会一致で採択
「昨年九月、国連において『先住民族の権利に関する国際連合宣言』が、我が国も賛成する中で採択された。 これはアイヌ民族の長年の悲願を映したものであり、同時に、その趣旨を体して具体的な行動をとることが 、国連人権条約監視機関から我が国に求められている。」
「我が国が近代化する過程において、多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも差別され、 貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を、私たちは厳粛に受け止めなければならない。」
「すべての先住民族が、名誉と尊厳を保持し、その文化と誇りを次世代に継承していくことは、国際社会の潮流であり、 また、こうした国際的な価値観を共有することは、我が国が二十一世紀の国際社会をリードしていくためにも不可欠である。」
「特に、本年七月に、環境サミットとも言われるG8サミットが、自然との共生を根幹とするアイヌ民族先住の地、 北海道で開催されることは、誠に意義深い。」
「政府は、これを機に次の施策を早急に講ずるべきである。
1 政府は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を踏まえ、アイヌの人々を日本列島北部周辺、 とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族と認めること。
2 政府は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されたことを機に、同宣言における関連条項を参照しつつ、 高いレベルで有識者の意見を聞きながら、これまでのアイヌ政策を更に推進し、総合的な施策の確立に取り組むこと。」
右決議する。

6月6日 官房長官談話(町村信孝・6月6日)
1 本日国会において『アイヌ民族を先住民族と求める国会決議』が全会一致で決定されました。
2 アイヌの人々に関しては、これまでも平成8年の『ウタリ対策の在り方に関する有識者懇談会』報告書等を踏まえ 文化振興等に施策を振興してきたところですが、本日の国会決議でも述べられているように、 我が国が近代化する過程において、法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたアイヌの人々が多数に上ったという 歴史的事実について、政府として改めて、これを厳粛に受け止めたいと思います。
3 また政府としても、アイヌの人々が日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、 独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族であるとの認識の下に、『先住民族の権利に関する国際連合宣言』 における関連条項を参照しつつ、これまでのアイヌ政策をさらに推進し、総合的な施策の確立に取り組む所存であります。
4 このため、官邸に、有識者の意見を伺う「有識者懇談会」を設置することを検討いたします。 その中で、アイヌの人々のお話を具体的にうかがいつつ、我が国の実情を踏まえながら、検討を進めてまいりたいと思います。
5 アイヌの人々が民族としての名誉と尊厳を保持し、これを次世代へ継承していくことは、 多様な価値観が共生し、活力ある社会を形成する「共生社会」を実現することに資するとの確信のもと、 これからもアイヌ政策の推進に取り組む所存であります。
▼下線を引いた法的には等しく国民でありながらも差別され、 がアイヌモシリ回復訴訟で最低限問いたいところ。(2020.7.5)
カナダ首相による元インディアン寄宿舎学校生徒への謝罪に関する研究:謝罪への過程とその論理
鹿児島純心女子大学学術リポジトリに飛びます。そこで「カナダ首相による元インディアン寄宿舎学校生徒への謝罪に関する研究」 が出ています。HIROSE-KO17をクリックしてください。論文がdownloadsできます。
この論文は これから日本政府が今後歩まなければならない「アイヌ先住民族への謝罪の道」を示してくれているように感じました。
▼カナダのハーパー首相が実際どのような謝罪をしたかを示しておきます。
ハーパー首相のインディアン寄宿舎学校制度へのこころからの謝罪
ハーパー首相のインディアン寄宿舎学校制度へのこころからの謝罪
Prime Minister Harper offers full apology on behalf of Canadians for the Indian Residential Schools system
11 June 2008
Ottawa, Ontario

The treatment of children in Indian Residential Schools is a sad chapter in our history.
インディアン寄宿舎学校における子ども の扱いは、わが国の歴史の悲しい一章であります。
For more than a century, Indian Residential Schools separated over 150,000 Aboriginal children from their families and communities.
一世紀以上もの間、インディアン寄宿舎学校は、15万人以上もの先住民族の子ども達を、その家族やコミュニティから 引き離しました。
In the 1870's, the federal government, partly in order to meet its obligation to educate Aboriginal children, began to play a role in the development and administration of these schools.
1870年代に、連邦政府は、アボリジニの子供たちを教育するというその義務を部分的に果たすために、これらの学校の開発と運営において役割を果たすようになりました。
Two primary objectives of the Residential Schools system were to remove and isolate children from the influence of their homes, families, traditions and cultures, and to assimilate them into the dominant culture.
レジデンシャルスクールシステムの2つの主な目的は、子供たちを彼らの家、家族、伝統、文化の影響から取り除き、彼らを支配的文化に同化させることでした。
These objectives were based on the assumption Aboriginal cultures and spiritual beliefs were inferior and unequal.
これらの目的は、先住民の文化や精神的信念が劣っていて不平等であるという仮定に基づいていました。
Indeed, some sought, as it was infamously said, "to kill the Indian in the child".
その目的は、「インディアンをその子ども時代に殺すこと」だったのであります。
Today, we recognize that this policy of assimilation was wrong, has caused great harm, and has no place in our country.
本日、カナダは、この同化政策が誤ったものであり、大きな傷害の原因となるものであったこと、そしてわが国にはこのような政策が存在する余地がな いこと認めます。
One hundred and thirty-two federally-supported schools were located in every province and territory, except Newfoundland, New Brunswick and Prince Edward Island.
ニューファンドランド、ニューブランズウィック、プリンスエドワードを除く全て の州および準州に、132年もの間カナダ政府が支援する学校がありました。
Most schools were operated as "joint ventures" with Anglican, Catholic, Presbyterian or United Churches.
その殆どは、アングリカン教会、カトリック教会、プレスビテリアン教会、ユナイテッド・チャー チとの合同事業として運営されました。
The Government of Canada built an educational system in which very young children were often forcibly removed from their homes, often taken far from their communities.
カナダ政府は、幼い子どもをしばしば家庭から、しばしば、そのコミュニティから強制的に引き離すという教育制度を設立しまし た。
Many were inadequately fed, clothed and housed.
多くの子ども達に与えられた食事、衣類、住居は不適切なものでありました。
All were deprived of the care and nurturing of their parents, grandparents and communities.
子ども達はみな、親や祖父母の養育を剥ぎ取られました。
First Nations, Inuit and Metis languages and cultural practices were prohibited in these schools.
これらの学校では、ファース トネーションズ、イヌイット、メイティの言葉を話すことや文化的な実践を行うこと が禁じられました。
Tragically, some of these children died while attending residential schools and others never returned home.
悲しいことに、寄宿舎学校滞在中に亡くなり、二度と帰宅できなかった子ども達もいました。
The government now recognizes that the consequences of the Indian Residential Schools policy were profoundly negative and that this policy has had a lasting and damaging impact on Aboriginal culture, heritage and language.
カナダ政府は、インディアン寄宿舎学校のもたらしたものは誤ったものであること、 そして、この制度が今も先住民族の文化、遺産、言語に、引き続き、打撃を与えてい ることを認めます。
While some former students have spoken positively about their experiences at residential schools, these stories are far overshadowed by tragic accounts of the emotional, physical and sexual abuse and neglect of helpless children, and their separation from powerless families and communities.
寄宿舎学校での体験を肯定的に語る元生徒がいる一方で、このよ うな話は、頼る縁のない子どもたちに対する情緒的虐待、体罰、性的虐待、養育放棄、 子ども達を引き離されることを阻む権限をもたない家族やコミュニティからの別離に まつわる悲話に、圧倒的に凌駕されるのであります。
The legacy of Indian Residential Schools has contributed to social problems that continue to exist in many communities today.
インディアン寄宿舎学校の負の遺産は、今日、数多くのコミュニティに存続している社会問題の原因ともなっていま す。
It has taken extraordinary courage for the thousands of survivors that have come forward to speak publicly about the abuse they suffered.
それは彼らが被った虐待について公に話をすることを先にやってきた何千人もの生存者にとって並外れた勇気を要しました。
It is a testament to their resilience as individuals and to the strength of their cultures.
それは個人としての彼らの回復力と彼らの文化の強さに対する証です。
Regrettably, many former students are not with us today and died never having received a full apology from the Government of Canada.
残念なことに、元学生の多くは今日私たちと一緒ではなく、カナダ政府から完全な謝罪を受け取ったことがないために死亡しました。
The government recognizes that the absence of an apology has been an impediment to healing and reconciliation.
政府は謝罪の欠如が癒しと和解の妨げとなってきたことを認識しています。
Therefore, on behalf of the Government of Canada and all Canadians, I stand before you, in this Chamber so central to our life as a country, to apologize to Aboriginal peoples for Canada's role in the Indian Residential Schools system.
したがって、カナダ政府とすべてのカナダ人を代表して、私は国としての私たちの生活の中心であるこの議会で、 インドの寄宿舎学校制度におけるカナダの役割について謝罪するためにみなさんの前に立っています。
To the approximately 80,000 living former students, and all family members and communities, the Government of Canada now recognizes that it was wrong to forcibly remove children from their homes and we apologize for having done this.
およそ8万人の元生徒のみなさん、そのすべてのご家族、地域に対し、カナダ政府 は今、強制的に家庭から子ども達を連れ去ったことが誤りであったと認め、謝罪致し ます。
We now recognize that it was wrong to separate children from rich and vibrant cultures and traditions that it created a void in many lives and communities, and we apologize for having done this.
カナダ政府は今、豊かで生き生きとした文化、伝統から子ども達を引き離した ことは誤りであり、それが多くの方々、地域の生活に喪失感を生み出したことを認め、 謝罪致します。
We now recognize that, in separating children from their families, we undermined the ability of many to adequately parent their own children and sowed the seeds for generations to follow, and we apologize for having done this.
カナダ政府は今、子ども達を家族から引き離したことで、自らの子ど も達を適切に養育し、世代を継承する種を撒く能力を損なわせてしまったことを認め、 謝罪致します。
We now recognize that, far too often, these institutions gave rise to abuse or neglect and were inadequately controlled, and we apologize for failing to protect you.
カナダ政府は今、これら寄宿舎学校が、あまりにもたびたび、児童虐 待あるいは養育放棄を引き起こしたこと、そして不適切な経営がなされたとこを認め、 みなさんの保護に失敗したことに対し謝罪致します。
Not only did you suffer these abuses as children, but as you became parents, you were powerless to protect your own children from suffering the same experience, and for this we are sorry.

このような虐待は、みなさんが子どもの時分に味わったというだけでなく、みなさんが親となった時にも、みなさん が味わったのと同じ経験を子ども達にも味合わせることとなり、無力感を味あわせて しまいました。このことに対し、おわび申し上げます。
The burden of this experience has been on your shoulders for far too long.
この経験の重荷はあなたの肩にずっと長い間ありました。
The burden is properly ours as a Government, and as a country.
その負担は、政府としても、そして国としても、私たちの責任です。
There is no place in Canada for the attitudes that inspired the Indian Residential Schools system to ever prevail again.
カナダには、インディアンの寄宿舎学校制度に再び影響を与えた態度があります。
You have been working on recovering from this experience for a long time and in a very real sense, we are now joining you on this journey.
あなたがたは長い間この経験から回復することに取り組んできました、そして非常に現実的な意味で、我々は今この旅であなたがたに加わっています
The Government of Canada sincerely apologizes and asks the forgiveness of the Aboriginal peoples of this country for failing them so profoundly.
カナダ政府は、この国のアボリジニの人を非常に惨めな境遇に陥れたことにに謝罪と赦しを乞います。

Nous le regrettons
We are sorry
Nimitataynan
Niminchinowesamin
Mamiattugut

In moving towards healing, reconciliation and resolution of the sad legacy of Indian Residential Schools, implementation of the Indian Residential Schools Settlement Agreement began on September 19, 2007.
インディアンの寄宿舎学校の悲しい遺産の癒し、和解、解決を目指して、2007年9月19日にインディアンの寄宿舎学校との和解協定の実施が始まりました。
Years of work by survivors, communities, and Aboriginal organizations culminated in an agreement that gives us a new beginning and an opportunity to move forward together in partnership.
長年にわたる生存者、委員会、アボリジニ組織の活動によって合意に達し、それが 新たな始まりとパートナーシップの元で共に前進する契機となりました。
A cornerstone of the Settlement Agreement is the Indian Residential Schools Truth and Reconciliation Commission.
和解合意の礎は、インディアンの寄宿舎学校の真実和解委員会です。
This Commission presents a unique opportunity to educate all Canadians on the Indian Residential Schools system.
この委員会はすべてのカナダ人をインディアンの寄宿舎学校システムで教育するユニークな機会を提供します。
It will be a positive step in forging a new relationship between Aboriginal peoples and other Canadians, a relationship based on the knowledge of our shared history, a respect for each other and a desire to move forward together with a renewed understanding that strong families, strong communities and vibrant cultures and traditions will contribute to a stronger Canada for all of us.
アボリジニの人々と他のカナダ人との間の新しい関係、私たちの共有する歴史の知識に基づく関係、互いの尊重、 そして強い家族が強いという新たな理解とともに前進するという願いは、前向きなステップとなるでしょう。地域社会、活気に満ちた文化、 伝統は私たち全員にとってより強いカナダに貢献するでしょう。
On behalf of the Government of Canada
The Right Honourable Stephen Harper,
Prime Minister of Canada

※日本語訳は大部分、広瀬健一郎さんの「カナダ首相による元インディアン寄宿舎学校生徒への謝罪に関する研究」 を使わせていただきました。

▼日本政府の安倍晋三首相もカナダ政府のステヴァン・ハーパー首相に倣ってアイヌ民族にこのような 謝罪をしてアイヌモシリの回復をふくめた政策を打ち出すべき。

6月28日 北海道議会決議・「アイヌ民族を先住民族と位置づけるための措置に関する決議」
▼北 海 道 議 会
 平成20年第2回定例会において提出のあった決議案
決議案第1号 アイヌ民族を先住民族と位置づけるための措置に関する決議
    [20.6.27 蝦名 大也議員ほか4人提出/20.6.28原案可決]
さきの国会において、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で可決され、 また政府は、この決議を受けて、アイヌ民族が先住民族であるとの認識を示す内閣官房長官談話を表明した。
国会決議において示された 「我が国が近代化する過程において、多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも差別され、 貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を、私たちは厳粛に受け止めなければならない」という認識を、私たちも共有しなければならない。
私たちは、政府が、国会決議にある「先住民族の権利に関する国際連合宣言における関連条項を参照しつつ、 高いレベルで有識者の意見を聞きながら、これまでのアイヌ政策をさらに推進し、総合的な施策の確立」を速やかに実現することを期待する。
また、総合的な施策については、アイヌ文化の振興や保存・伝承、教育の充実、就業支援などの生活の向上の視点で、 国の責務として拡充を図ることが求められるものであり、道においても、アイヌ施策の推進に主体的に取り組む必要がある。
よって、本議会は、アイヌの人たちの民族としての誇りを尊重し、社会的、経済的地位の向上を図るために、 アイヌの人たちの意見を取り入れ、実効性のある施策が進められるよう、道民と一体となって取り組む決意を表明するものである。
   以上、決議する。
  平成20年6月28日                          北 海 道 議 会
上記決議のHPです。 アイヌ民族を先住民族と位置づけるための措置に関する決議


7月1日 国会決議を受け、政府・首相官邸内に「アイヌ政策の在り方に関する有識者懇談会」設置(委員8名中、アイヌ委員1名)
7月7日〜9日 G8サミット・洞爺湖
9月17日 第2回有識者懇談会 加藤理事長発言要旨 
1 「同化政策」
2 「土地と資源」
3 「法制史」
4 「アイヌ民族の生活実態」
  「政府に対するこれまでの要請」
9月17日第2回 アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会  

       加藤忠理事長発言要旨                 首相官邸 2階小ホール

9月の初めに、残念ながら福田首相が辞意を表明されましたが、 この懇談会の今後につきましては、引き続き所期の目的を果たすべく、 アイヌ民族にとって、また日本政府、国民にとっても意義のある成果が導き出せますことを強く望みます。 

第1回有識者懇談会終了後の福田首相との面談の際、日本はアイヌ民族を含めた「多民族国家」であるとのお話がありました。 その認識については委員の皆さんとも、間違いなく共有せれているものと思います。そして、この懇談会の審議では、 アイヌ民族が「多民族国家」日本における、「先住民族」であることを前提に取り運ばれるものと考えておりますし、 各委員さんからも共感とご支持いただいているものと考えております。
あわせて、このことは取りも直さず、懇談会の開催趣旨や付託されて主な検討事項を話し合うにあたっての、 根幹となる欠くべからざる要件であると思います。

さて、昨年9月の国連総会における「先住民族の権利宣言」採択に際して、 ビクトリア・タウリ・コープス国連先住民族問題常設フォーラム議長が、私やアイヌの多くの仲間の考えと、同じ趣旨の発表をしておりますので、 ご紹介いたします。
「国際連合における宣言起草に多くの時間を費やしたのは、先住民族が固有の民族としての権利を持ち、そしてすべての関係者による 建設的な対話が、多様な世界観と文化に関するより良い理解やお互いの立場の再調整を促すものであるという確信があったからであります。 そして、より公正で持続可能な世界に向けた、国家と先住民族とのパートナーシップの構築が、何よりも大切であるという信念があったからなのです。 この宣言は、先住民族の状況に関する意識を喚起し、その進展をモニターし、さらに先住民族の権利を保護し、尊重し、 達成するための重要な手段であり、道具であります。これら宣言内容が先住民族に適用され、人権に基づく取り組みの具体化とその運用に貢献し、 あわせて国家や国連機関、先住民族と市民社会が、「第2次世界大戦の先住民族の国際10年」のテーマである 「行動と尊厳のためのパートナーシップ」を実現するための主要な枠組みとなることでしょう。」と述べ、結びに 「この宣言を効果的に遂行できるかどうかで、国家そして国際社会全体が先住民族の集団的および個人的人権を保護し、 尊重し、達成するための姿勢が試されます。この歴史的な任務に立ち上がり、人類共通の未来のために、 「先住民族の権利に関する国連宣言」を生きた文書とするよう要請します。」と呼びかけています。

今後、世界の先住民族との相互連帯によるネットワークづくりが進み、国連システムの取り組みとも相まって、 ますます活動が活発になっていくものと思われます。ニューヨークで毎年春開催される国連先住民族問題常設フォーラムは、 多くの先住民族が精力的に学び合いながら、自らの諸問題の解決について国連機関や各国政府との間で、 対話と協調の精神を持って活動を続けております。
日本における「アイヌ民族の位置づけ」について、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を参照しつつ、 どの様に定め、その政策を進めていくべきかを考えるとき、この「権利宣言」や国連人権条約監視機関が日本政府に求めている 勧告や懸念事項に法的拘束力がないとの理由によって、決してこれらを軽視すべきではないとおもいます。
なぜなら、むしろ再三再四「単一民族国家」との発言があった日本において、先住民族に関する国際的な人権基準には、 これから取り組むべき多様な価値観を導入し、物事の本質を捉えた、豊かさと希望への架け橋となる英知が込められていると思うからです。 そこには、多くの先住民族を抱えた国々や関係者、ならびに、先住民族当事者の貴重な経験に基づく、祈りにも似た「願い」が 潜んでいるからであります。
ここで、多くの国の代表と国際機関、先住民族の仲間が出席する昨年5月の国連先住民族問題常設フォーラムにおいて、 私からの「願い」であり、理事長の立場で発言したスピーチの一部をお伝えします。
「ちなみに、第二次大戦前に日本の植民地であった台湾、サハリンでは、現在、自国内の原住・先住民族の存在を認め、 具体的な施策を法的措置や漁業権の確保などにより取り組んでおります。 国家との間で条約も結べなかった弱い立場の先住民族の一つであるアイヌ民族が、 パーマネントフォーラム出席の皆さんにその主張の正当性と国連の定義を持ち出すまでもなく 日本政府がアイヌ民族を先住民族であると認知すべきであることをしっかりと確認していただきたく資料を示して情報提供いたします。
日本ではアイヌ文化振興会が制定されたことによってアイヌ民族に対する法整備が整ったわけではありません。 日本国の現行憲法には民族規定を想定しておらず、先住民族の国連権利宣言の結実や国内での先住民族の認定が無ければ、 アイヌ民族の人権進展が促進されない状況なのです。当協会は、資料1のとおり昨年12月20日に 政府高官に先住民族の認知と国レベルでの審議機関の設置を求め、現在のアイヌ文化振興会の拡充やアイヌ民族の 経済的、社会的、文化的など広範囲にわたる法的措置に基づく施策の確立を求めるなど、 民族間の格差是正のための抜本的な取り組みをするよう要請しております。
過去の日本国のアジア地域の植民地化はアイヌ民族への植民地化から始まりました。
日本国が歴史的事実を直視しアイヌ民族に対する責任遂行としての政策に取り組むことは、資料2にある日本国における植民地主義の 本当の意味の終焉と人権の主流化を実践すると同時に、国際社会での平和構築と社会正義の実現のために必須のことと考えます。 日本国が真の人権国家となっていくことを期待しその実現を信じております。 ご来臨の皆様のご理解と今後のモニタリングを含めたご支援をお願いいたします。」と発表しました。

 国際連合を尊重するという日本政府の一貫した方針及び国際的なルールを尊重するという憲法98条2項の精神などを踏まえ、 先住民族であるアイヌ民族には、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を十分に、そして余すところなく尊重していただき、 これからの日本国内における政策立案を積極的に導き出すことができるよう、心から期待をしているところであります。
一方で、日本における先住民族アイヌは、他国の国情及び先住民族の状況と異なるものがあるのも事実であります。 「人権」や「民族」の概念などに関してかねてから教育の機会での理解の必要性が日本文化人類学会によって指摘せれておりましたが、 この6月の国会決議の前日にも同様な趣旨の見解を配布資料のとおり表明しております。 第二次大戦前の公教育において、小中学生の国定教科書は、おおむね全国一律同じ教科書が用いられておりましたが、 その地理、国語、歴史の教科書には、大和民族と並んで明確に土人としてアイヌ民族のことが記載されておりました。  北海道ウタリ協会では、自らの組織名を、来年から、「ウタリ」から本来の民族呼称である「アイヌ」に変えることにしました。 名称の変更をすればまた弱い子供たちに対する差別が惹起するとか社会のアイヌ民族理解がまだ醸成されていなく時期尚早との意見があり、 不安が無いとは決して言えません。しかし、この機会に勇気をもって日本社会に働きかけをする決意なのです。
戦後日本は、戦前の極端な自民族(大和民族)中心主義の反動からか、「民族の枠組みからの国家論」を排除する方向での 国民国家づくりを進めました。少数のアイヌ民族は排除され、そして同化され消滅してしまったと一方的に決めつけられたのです。 すべて民族呼称や民族存在の有無さえも、その決定の主体は多数者の論理でした。
これまでの「何時の世もすべて少数者の意見は反映されても最後になるのが当然だ」、「民主主義は基本的に多数者の論理が優先するんだ」 という誤った考えが、私たちを置き去りにした大きな原因です。挙句の果てにアイヌ民族の身体的差異をあげつらって 人種差別的発言をされるのでは、何ら立つ瀬がないのではないでしょうか。
例え少数であろうとも、その個人の出自に由来する民族としての背景はすべての「人」が持っており、 その基本的人権が守られるべきなのが前提です。
すべての人間はこの世に生まれるときに産声を発声します。 産声はどの個人もさほど変わりはないのですが、人間は母親、父親から発せられる言語によって、また、その言語を育んできた集団の文化によって、 社会によって育まれ、初めて人間となるのです。 その社会や集団から身につけた言語、知恵や技術などを次の世代へ受け渡すのが文化伝承です。

 アイヌ民族の場合には、大正から昭和初期のころ、アイヌ民族の日本人化を積極的に加速する「旧土人小学校」が全道に25校設置されており、 授業科目も和人の学校より少ない分離差別教育が行われていました。アイヌ語から日本語へとその言語の変換が政策的に推し進められました。 急激な変化にアイヌ文化も打撃をうけ、アイデンティティの揺らぎまでへと進んできたのです。 その頃は、アイヌ語しか理解できないアイヌ人のグループ、アイヌ語と日本語両方が理解できるグループ、 日本語しか理解できないグループが同時に存在していた時代です。
昭和12年、戦時色が色濃くなった頃、北海道旧土人保護法の大きな改正がありました。 アイヌ語しか理解できないアイヌのグループが段々少なくなるにつれ、同時に戦況も厳しくなり、 ついにはアイヌ施策が行われなくなったのです。
北海道は戦前は内務省が管轄しており、北海道旧土人保護法が制定された頃には、北海道議会は存在しておりませんでした。
ちなみに、明治元年には、北海道の人口はアイヌ民族を含め、6万人程、和人のほとんどが道南の渡島半島内に住んでおり、 一方、アイヌ民族の多くは、それ以外の地域に住んでおりました。
アイヌ語を話し、明治20年頃までは自らの生業に関し、一定の自由度を保っていたのです。
明治維新による大きな社会構造変革のひずみを、北海道への殖民政策が一手に引き受けました。
いわゆる元年組と言われるハワイ、グアムへの明治初期の移民が現地で奴隷のように処遇されたことから、 海外移民は明治18年まで禁止となり、専ら北海道への移民のみが奨励されたのです。
「北海道旧土人保護法」制定の前年、明治31年には、全道人口853,239人、内アイヌ総数17,573人、そのわずか20年後、 大正7年には、全道人口2,167,356人、内アイヌ総数17,619人と統計資料に掲載されています。
世界のどこにも類例の無いほど、一定の地域に怒涛のごとく移民が押し寄せたかが分かると思います。
現在、北海道の総人口は560万人となっております。
その様な経緯に加え、戦後は「北海道旧土人保護法」の積極的な保護的支援施策は 進められるどころか「自作農創設特別措置法」改正に伴い、同法によりアイヌに下付された給与地が適用となり没収などの憂き目にあいました。
河川や道路工事に伴う給与地売買の許認可と共有財産の管理のみ北海道知事が行っていました。
アイヌ施策は完全ななおざり状態が16年間続いたのです。
戦後、国家の立て直しの中、新憲法発布と同時にアイヌ民族は、実質、法的に無視されたのです。
 昭和36年にウタリ協会の活動再開に合わせ、ようやく行政が福祉政策として対応することとなりました。
それからも、国は「単一民族国家」の標榜を、平成3年まで続けてきたのが実態です。
このようにアイヌ民族にとって四面楚歌のような社会と認識の土台の上に「先住民族」の概念さらに「先住民族」の権利を主張できる 当事者であることを理解してもらうのには大変な努力が必要です。
それでも何とかこれまでは社会の無理解に抵抗しながら、
<しかし、このことは人によっては国家にあらがう不満分子のように、また、ひどい場合は差別権利を求めるように 誤解される方もおられるようですが>、
北海道に支援も受けながら、組織の活動資金もない中、自らの啓発を進めてきたのです。 いよいよ当協会の活動資金も底をつき、現在、理事会旅費はすべて自費であるばかりか、 この懇談会への対応や、国会や政府への要請活動が資金的にできなくなる寸前の状況であることも現実なのです。
かつて「アイヌ民族に関する法律」制定要望に際し、アイヌの自主性が最大限に確保され、国の適正な監督が及ぼされる性格のものとして、 アイヌの自立的活動を促進するための自立基金の創設を要望しましたが、アイヌ民族自らの活動を支援することについては、 国の支援は必要不可欠です。現在、アイヌ文化振興会の活動についても、多くのボランティアの負担を強いているのが実態です。

 先住民族の主体的なあらゆる活動を活性化することを含め、新しいアイヌ政策の検討に当たっては、まさに国連宣言条項にもある 「国家からおよび国際協力を通じての資金的および技術的な援助を利用する権利」を検討課題として取り上げていただきたいと思います。
「単一民族国家」発言の話題が持ち上がったころには、啓発活動はアイヌの力だけで行っていましたが、 日本文化人類学会は、はっきりと理解と応援をしていただいてきております。
「民族」と「文化」は、まさに関連性が強く、理解されやすい領域です。しかし、歴史学や法制史を含めた法律学、教育学など、 体系的な学問領域からの啓発や理解不足解消への取組みはなかなか進まず、研究体制は十分とは言えません。 これら領域の取組みを進めていただくことはとても重要です。いずれにしましても、日本国内でのアイヌ民族理解が驚くほど乏しいこと、 諸課題の解消を難しくしている大きな要因の一つは、前回、山内委員、佐々木委員から発言がありました、 これまでのアイヌ民族に対する公教育をはじめとした国民の理解や学問的な研究の取組みが、不十分であったという指摘に、 私も全く同感であります。何よりも政府を初めとした国家の責任においてしっかりとした人道主義の柱を打ち立てて、 公的で専門的な啓発、教育をしてもらわなければ立ちゆきません。
 そこでこれは私からの提案ですが、例えば、この審議会の報告書の骨子が固まる頃に、 社会的な影響力が絶大である各委員の先生が主体となって、個人の資格で率先して講演会などを催すなどの機会を検討していただけないでしょうか、 可能であるならば全国エリアのテレビや新聞などで、国民への啓発活動をしてもらうことを内閣官房の事務局へもお願いしたいとおもいます。 その様な切っ掛けを作っていただき、理解促進の気運を高めていただければ、ありがたいと思います。
実現できれば率先の取り組みとなるでしょう。国民の理解には教育や啓発によって目を開いてもらうことが必要です。 この国民の理解促進は、短期、中期、長期の仕分けには馴染まない事柄です。それぞれの場面や状況に応じ、 効果的な手法とその影響を想定して、今後、恒常的な対応をしてもらう事柄と思っております。
 次も同じく、大きな影響力のある文化行政的な側面での提案です。
人間文化研究機構の各研究機関には国立民族学博物館を除き、 アイヌ民族関連も研究スタッフがおらず、取り立てて窓口がありません。
人間文化を取り扱うのであれば、同じ人間のアイヌ民族を仲間はずれにしないで国家プロジェクトの側面として強化していただくことを 検討して欲しいと思います。
 次にその啓発とこれからの政策立案の方策に当たり、特に訴えるべき観点について述べていきたいと思います。
一つ目は、「同化政策」に焦点を当てた観点です。一概に「同化政策」とは言いますが、換言しますと、 「日本国民」に強制的に組み込まされること、「民族的アイデンティティ」、内心への脅迫なのだ、ということを、 先ず始めに想像していただきたいのです。先住民族であるアイヌ民族は、江戸時代の後期からの歴史的過程において、 繰り返し、同化政策を強いられてきました。民族独自の文化や言葉を捨てさせられてきたことです。 アイヌ民族に対する同化政策は、江戸時代の幕府直轄時代にロシアの南下との関係で、 そして明治政府の近代化、植民政策の脈絡のつどに、進められてきました。 江戸時代から中央と地方の関係や流通商業による不平等な交易、労働力の搾取など民間人と統治体制との構造的な枠組みの中に位置づけられ、 国家間の政治的な要因や国際間の法秩序との関連性などにも大きく影響されました。 いずれも「ロシアの動静」及び「国内事情や法制度」と「国際関係」との相互バランスが基底となってきているのですが、 「同化政策」の動機付けは、アイヌ民族にとって全てが外部からの影響、翻弄にすぎなかったのです。 同化政策と同時に、隣国ロシアとの間に結ばれ数度にわたり変更された国境線画定や領土問題に絡む国際条約締結などにおいて、 否応なく、樺太アイヌ、千島アイヌが居住の地から移住させられました。
二つ目の観点は、「土地と資源」です。アイヌ語では概念が異なってきますが「モシリ」、「イオル」、「アエプ」などで対応するものです。 アイヌ民族が古くから居住し、山川海すべての大地や海洋にある動植物との密接な関り合いの中、広義の文化享受と自らの民族の生命を託してきた、 いわゆる「土地と資源」が、自らが他の場所に移動することなく、居ながらにして他者に奪われたことです。 また、あまり知られてはおりませんが、道内市町村史にも記録されているように小樽、旭川、釧路、網走など、 入植者の都合により、北海道内においても居住に適した土地から別の不適な土地へと、多くの強制的な移住がお行われました。 アイヌ民族の生活は、基本的に「土地と資源」から生産される一次的な自然資源の生産物とその交易により成り立っていました。 自らの日々の生活を営むため、子孫を育むため、自然との調和が取れた社会を維持し、発展させるための可能性や自らの世界観、価値観の基盤となる、 様々な「人」と「土地・資源」との繋がり、「神々」との繋がりが分断されました。 そしてそれが継続できなくなってきたという厳然とした事実があるということです。

三つ目の観点は、「法制史」です。「法制史」の変遷過程とそれら時代背景や実効性を検証することがこの懇談会審議に重要であると考えます。 憲法でいう国家の三要素「領土」、「人民」、「主権」との関係もありますし、先刻の国会決議にある「我が国が近代化する過程において、 多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも、差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を厳粛に受け止めなければならない」、 とのくだりは、実質的に、一方的に無主の地として日本領土に組み入れた後、地券発行条例などの4つの土地法などを定め施行してきたという 具体的内容を共通認識としなければなりません。「同化政策」も「土地・資源」の収奪も抑圧される側への法制度などとしての 押しつけがあったからに他ならないからです。その権力側からの多くの与奪に法律や制度が関わってきたからです。 「民族」としての対策の一貫性が保てなかったことと「先住民族」と認めたがらなかったことは、表裏一対で、 もちろんその政策判断や効果の検証なども曖昧なままにされてきたのです。
 「同化政策」、「土地と資源」、「法制史」の三つの観点から、アイヌ民族と日本、日本人との関係性を述べましたが、 基本的な問題は「民族の自決権」、当事者の存在尊重、そのとらえ方とあり方、そのものが重要視されてこなかったことです。 このように述べる一番の理由は、今回の政策を考えるに当たっての根幹の思想を設定するに当たって、 認識の過ちをしないためであります。また、私たちが現在、歴史認識を訴える際に紹介している資料は、 逆照射的ではありますが、和人松浦武四郎の紀行集でもあるのです。その紀行集は、当時、公正で人間的な眼差しをもって記録されており、 少なからずその様な人たちとアイヌ民族との交流があったことも事実であり、その記録は、現在の私たちの主張を下支えしてくれていますし、 時代を超えて人々の胸を打つ、普遍的な価値を持っています。このような歴史のつながりあいを考えると、 差別する側と差別される側だけの構図で物事を強く主張しすぎると、個人レベルの観点の欠落や反発がつきまとうことにもなりますので、 慎重に丁寧に理解促進を図っていかなければなりません。歴史認識や評価、相手のある交渉ごとなどでは、 複眼的にあるいは俯瞰して遠くから引いてみるなどのものの見方や考え方、寛容さなどが必要です。
最も大切なことは、相互にお互いの内心にある良心を感じ合い、立場などを尊重し合い、愛されうる主体になろうと努力することです。 誠意を持って真摯に取り組む態度、姿勢、そのものの貴重さなのではないでしょうか。  これら、るる述べてきたことが私たちの本当に訴えたい対話の姿勢であり、お互いが納得するための知恵なのです。 その様な意識を持ちながら、四つ目の観点であるアイヌ民族の「生活実態」や、政府に対するこれまでの要請の変遷等に触れて参りたいと思います。 平成18年度北海道アイヌ生活実態調査の報告については、高橋委員(知事)の方から詳しく報告がありますので、 説明を省きますが、北海道ウタリ協会は、昭和54年に行われた第2回目の北海道ウタリ生活実態調査の結果と 当時の北海道ウタリ福祉対策の効果について協議し、当時、実効性の無くなっていた「北海道旧土人保護法」の存廃などを検討した結果、 これまでの施策体系の実施ではなく抜本的、新たな総合的な民族対策でなければ、アイヌの社会的地位の向上は図れないとの判断に至りました。 昭和59年北海道ウタリ協会総会において、「アイヌ民族に関する法律(案)」を決議し、 国に対して新しい法律の制定と「北海道旧土人保護法」などの廃止を求めるため、同年7月、 北海道知事及び北海道議会議長に新法実現に向けて協力要請を行いました。その新しい法律の要望骨子は、
第一「基本的人権」
第二「参政権」
第三「教育・文化」
第四「農林漁業、商工業及び労働対策」
第五「民族自立化基金」
第六「審議機関」
の六項目を列挙し、抜本的かつ総合的な制度を法的措置によって国の責任のもと確立することでした。
その後、北海道段階での審議を経て、北海道、北海道議会、ウタリ協会三者が、参政権に関する要望は憲法論議に発展するとのことで削除し、 民族教育を含め教育一般も抜け落ちた形で、国にその制度を要望したのです。
結果的に、前回、平成8年の国の有識者懇談会において、立法措置に基づく新しい施策の概要をアイヌ文化振興を柱とした報告書として提言されました。  しかし、この報告書は、アイヌの先住性、民族性、文化の特色そして我が国の近代化の4点から、アイヌ民族の特質や歴史につて述べていましたが、 アイヌの先住性と民族性については個々の記述に止まり、それらを統合する概念としての先住民族については 時代の制約から明確には言及できませんでした。
また、北海道ウタリ福祉対策(現行、アイヌの人たちの生活向上に関する推進方策「北海道アイヌ生活向上推進方策」)については、 この実施をもってしてはアイヌの生活向上に十分に応えうるものとは必ずしも言えないと評価しています。 現在も依拠する法律がないままその施策が進められ、単年度の事業総額は、年々減少の一途をたどってきています。 アイヌ文化振興法制定当時、衆参両院内閣委員会での附帯決議に「「北海道ウタリ福祉対策」に対する支援の充実に、今後とも一層努める」 とあるにも関わらず、当時の予算総額34億円から16億に、アイヌ文化振興法の総額も2億円減額となっているのです。
さらに、北海道から道外へ転居したアイヌに対しては、必ずしも十分とは言えないとされた、その対策すらも適用されないという施策の限界、 属地主義に阻まれた矛盾もそのままになっております。
 本年3月、福田首相宛で新しくアイヌ民族政策として属人的な立法措置を求めたことは、 この度、国際連合の「先住民族の権利に関する国連宣言」などの国内対応や北海道アイヌ生活向上推進方策の拡充など、 前回有識者懇談会で整理されていた大きな積み残された検討課題であり、今後の取り組みが期待される審議課題とまさしく符合しているものなのです。 立法措置による新しい総合施策がなければ、我々が望む、幼児期からの一貫した手厚く効果的な教育支援制度、 文化に直接携わっていない事業者支援、熟年層への職業訓練などの諸施策、道外アイヌへの施策実施やお年寄りへの あらゆる角度からの生活面へのセーフティネットづくり、無年金者や健康保険未加入者、低賃金所得世帯の支援、 保護世帯からの脱却などの問題解決は図られません。
 前回も申し上げましたが、50歳のアイヌ男女の60%が中学校までしか卒業していなく、 そのすぐ上の世代は、おそらく70%以上が中学校は卒業すれども、ほとんど満足に修学できていないのです。 現在、大学進学率は北海道平均の2分の1です。その原因には、アイヌ語から日本語へと言葉を換えざるを得なかった、 私の祖父母時代の世代、親の世代が受けた人種偏見や民族差別と貧困、社会への不適応なども含めた、複合的な要素が絡んでいると考えています。
此のままの対策の継続では低所得、低学歴の再生産が延々と続きます。
そもそも全国でも最下位ランクの北海道の大学進学率38.5%と比較するのではなく、 全国の大学進学率55.3%とアイヌ民族の進学率17.4%とを比較するべきで、道外のアイヌも支給されるべきではないでしょうか。
いずれにしても、現行施策には現状の進学率をようやく維持してはいるものの、昭和50年代にウタリ協会が想定したとおり根本的、 飛躍的な向上には結びついていないのです。
教育機会の充実と多様化には、幅広い知見を生むことになり、就労や労働、生活意欲などを促していきます。 デジタルディバイトなど、所得格差から生じる教育環境の整備、学力、知力の向上支援を積極的に促進することが必要です。
 あわせて、民族的アイデンティティの涵養などを柱とした、民族教育的側面の教育機会の充実は、 アイヌ青少年の健康な発育に欠かせない要素です。現状の文化対策をも超えたアイヌ自身が自民族の文化教育を可能とし、 民族教育の実践ができる体系的な教育施設整備や人的体制を含めたシステムづくりが必要です。
理解の促進について、公教育へのアイヌ文化、歴史の導入も大変意味をもつものになると思います。 オーストラリアで実施されている遠隔地の青少年への教育、一般と民族双方の教育に対応するインターネットの活用など、 アイヌ民族専用で、さらに広く一般社会にも活用の手立てが工夫されるなどの新しい発想による象的な施設整備や施策の創設を望んでおります。
国立のアイヌ研究センターは残された課題の一つとなっていますが、これまでの文化対策にも増してアイヌ民族自らが文化実践、研究を担う主体となり、 国民理解につながる研究施設、国際的な先住民族理解に結びつく教育やアイヌ語を始めとした総合的なアイヌ民族学院のような 象徴的な施設の設置も切望します。
 現在、アイヌ語の基礎データを始め、文化振興の最も柱となるあらゆるアイヌ民族関連の基礎的情報の収集、集積、社会還元などに関する 取り組みが遅れております。今後、本格的に取り組んでいくためには、アイヌ語、アイヌ文化の専門家養成、 特に、時間が掛かる人的養成、体制を作り上げることが欠かせません。是非、強力に推進していただきたいと思います。
 人類学の分野では、江戸時代後期にイギリスとの外交問題となったアイヌの人骨盗掘事件が起こっています。 また、盗掘の結果、全国の大学に収集されたアイヌ人骨の返還や、人類学研究のあり方とその対応策を進め、 全国的な啓蒙と和解の象徴となるような施設の設置ができればと考えております。
 そもそも文化とは人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果であり、生活の様式と内容を含む広い概念で、 アイヌ文化もこの広義の文化なのです。しかし、アイヌ文化振興法は、このアイヌ文化をごく狭い意味の狭義の文化でとらえ、 「人」を認定しないで進められています。アイヌ文化振興をより理想的な形にするには、本来の文化の実践及び振興の方向に近づける工夫が必要です。 例えば文化振興と付随する文化関連の経済行為とが並行、付随するような工夫があれば、その裾野が広がります。 「土地・資源」を収奪された先住民族の広義の文化実践には、形を変えた特別な公有地、公有林などの利活用・貸与、管理などの方策を 取っていただきたいと思います。文化は、集団的、時間的な要素で成り立っていますが、先住民族文化は、 さらに「土地・資源」の要素に大きく依存して成り立つものなのです。
また、これまでの観光産業に携わるアイヌの仲間の努力が大きな柱となってアイヌ文化伝承を支えてこたことも事実です。 このような集住した観光地での民間努力を後押しする、工芸学院などを設置したり地域やコミュニティを包括し、 大きな網をかぶせたモデル的支援対策をとって、さらに力強い文化振興の核づくりとすることも提案したいとおもいます。
 故萱野茂参議院議員は、アイヌは北海道を売った覚えも、貸した覚えもないと話していましたが、 文化振興に限らずせめて私有地を除いた公有地や公有林の利活用や考えられる雇用創出の便宜供与など、 明治初期、生活のための捕獲を保障されていた共有漁場などを奪われた歴史的経緯などから、漁業権の一般の権利侵害を伴わない範囲での 一部付与などは、必要、不可欠な事柄です。



国民の理解や法律問題など根本的、複雑な課題が横たわっているものとは思いますが、実現の可能性を模索し、 早急な検討課題としていただきたいと思います。また、かつて協会総会で考えられた、 参政権の特別付与は、海外の先行事例に倣い、アイヌ民族の意見が政治、行政に反映される方途として例示したものです。 やはり国内では、政治的なアイヌ民族に対する支援の優先度が低く アイヌ民族の将来に向けてなかなか真剣に取り組んでいただけていない感は否めなかったのです。 従って、参政権の特別な付与については、それに対応するアイヌ民族自らの議会を整備することによって、進めていきたいと考えております。
「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に関連し、このような政治における歴史的、社会的な因果要素を多くはらんだ問題は、 これまでの理解の枠組みや慣習、現状の社会システムとぶつかるなどの障壁が立ちはだかります。
公教育へのアイヌ文化、歴史の導入や公有地の土地資源の利活用、知的財産権の整備、漁業権や雇用機会の開拓など、 さらには土地・資源の賠償補償、参政権などの事柄など、「先住民族」の課題解決のは、この様な検討課題が多岐にわっています。
当事者からの要望を国家の責任において、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に照らして、解決していただきたいと思います。
 アイヌ文化振興法の趣旨を実践し、その取り組みを促進するには、それを中心に支えるアイヌ民族個々人の生活支援から 始めなければなりません。今は、文化活動に携わろうにも一部のものしか参加できなく、当然、経済活動にも結びつかず、 どっちつかずの状況になっているのではないかと感じています。
 オーストラリア、ニュージーランドでは先住民族専門の省、アメリカでは局が設置されておりますが、 日本においてもそのような窓口機関を内閣府に設置して欲しいと思います。
国連事務総長が設置を促すトライパタイトコミッティのような審議機関をその内閣府の窓口機関に据えるなど、 継続的な審議をすることも延長線上で望んでおります。
アイヌ民族の意見を聴取し、機能性も兼ね備えつつ、継続的な支援体制を担保するもの、そして、その成果をモニタリングするためには、 複数のアイヌ代表や学者など、さらに国際機関などを交えた仕組みのものが考えられると思います。 そしてより効果的な施策の検証、確立のためには、専門的な国の実態調査も必要と考えます。
これら施策実施に係る資金については、これまで当協会などが要望していた自立化基金を創設するにも、国費を継続確保するにも、 いずれにしても、国民すなわち国会での理解を得た予算を伴う立法措置が不可欠です。
そして多くの課題を、整理しつつ、取り組み手順を定めていくこと、これには作業の長さ、問題解決のために、時間をかけることが 前提のものなどもあります。合理的で納得のできる結果になればありがたいと考えています。
(トライパタイト(Tripartite) 政府・企業・市民社会という三つの分野が協働する)
「先住民族の権利に関する国連宣言」を忠実に施行していくためには、この懇談会の主な検討事項に上げられていたように、 諸外国における先住民族政策など、反対票を投じた4ヶ国や台湾などの先行事例に学び、現地調査ができれば特に有効と思いますが、 それら施策の考え方を十分に取り入れて、アイヌ民族政策を立案すべきと思います。 
最後に、国会決議の際に述べられた町村内閣官房長官の談話が、最も充実した形で結実されますことを期待しております。
長時間にわたる発表、ご静聴に預かり感謝申し上げます。
▼緑字にしたところは特に重要と考えています。(2020.7.6)

10月5日 北海道議会決議・「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に関する意見書  「国においては、これを機に、この宣言におけるアイヌ民族の位置づけや盛り込まれた権利を審議する機関を設置されるよう要望する。」

10月5日 北海道議会決議「本議会は、アイヌの人たちの民族としての誇りを尊重し、社会的、 経済的地位の向上を図るために、アイヌの人たちの意見を取り入れ、実効性のある施策が進められるよう、 道民と一体となって取り組む決意を表明するものである。」

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2009年(H21)
7月29日「有識者懇」官房長官に「報告書」提出  問題点 
*アイヌ民族の歴史を正確に記していない
*「先住民族の権利に関する国連宣言」の関わりが不充分
*「国連宣言」のアイヌ民族適用という大きな課題があるのにも係らず、意識的に無視した、避けている内容になっている
▼私も「アイヌ政策の在り方に関する有識者懇談会」の報告書 を読んでみました。ユポさんの上記コメントと同じ感想です。文化政策に特化した内容です。懇談会の有識者はちっとも勉強していないのですね。 加藤理事長の重大な、渾身の力を振り絞った発言をただ聞き流しているだけ。全く真剣味が足りない。 このような報告書からまともな政策がでてくることは期待できません。
▼18頁:
平成 18(2006)年度の北海道アイヌ生活実態調査によれば、道内には23,782人のアイヌの人々が居住している。 また、昭和 63(1988)年の東京都調査によれば、都内に約 2,700人のアイヌの人々が居住していると推計されている。
アイヌ民族の人口 23,782人+2,700人=26,482人 
アイヌモシり回復の観点からいうと26,482×33.3ha=8,918平方q 琵琶湖13個分となる。
▼23頁:
国としての政策展開との関係において必要な限りで 定義を試みると、先住民族とは、 一地域に、歴史的に国家の 統治が及ぶ前から、国家を構成する多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ民族として居住し、 その後、その意 に関わらずこの多数民族の支配を受けながらも、なお独自の文化とアイデンティティを喪失することなく 同地域に居住している民族である、ということができよう。アイヌの人々は日本列島北部周辺、 とりわけ北海道の先住民族であると考えることができる。
この先住民族定義、文化に偏りすぎていませんか。

▼阿部ユポさんから今日(2019.8.21)下記論文のコピーをいただきました。これから勉強させていただきます。
アイヌ民族の補償問題 ―民法学からの近時の有識者懇談会報告書の批判的考察 吉 田 邦 彦
▼まだ読んでいませんでした。しかし私がこれから具体的に取り組もうとしているアイヌモシリ回復訴訟の理論的根拠がこの論文の中にありそうです。 今日読んでみます。(2020.5.3)
先住権の内容にもっと立ち入っていただきたい、というのが率直な感想です。時間をおいて読み返します。(2020.5.4)
朝日朝刊2019.9.11
今年は1619年にアフリカから奴隷約20人が米国独立前の英植民地ジェームズタウンに圧上陸して400年。現在はハンプトン。黒人の市長は「アフリカに ルーツを持つ人がいなかったら、米国ははるかに貧しかったでしょう」と記念式典であいさつ。
▼謝罪と補償。必定。世界的流れ。(2020.10.17)
▼吉田邦彦さんの論文読み終えました。網羅的でした。具体的にこの論文から裁判で活用していく論拠、争点を絞ってみたいと思います。 (2020.10.18)
この論文は関西大学法学研究所2011年6月発行「ノモス」第28号に掲載されたもののようです。今日わかりました。(2020.10.29)
「日本における先住民族であるアイヌ民族の歴史を振り返ると、民法 の基本的な制度である所有とか集団的不法行為(その救済方法としての補償)とかの考察を抜き にすることはできず、これを基礎に据えて今後のアイヌ政策を考えていくことが不可欠だという ことである。」(19p)

「(アイヌ問題の核心としての所有権問題)何故アイヌ民族の問題において、民法問題が実は核 心的かということを、再度敷衍しておくならば、アイヌ民族(先住民族)問題の根底には、所有 権侵奪・征服の問題があるからである。従って、その集団的とも言える不法行為の救済問題(補 償問題)に直面することにならざるを得ない(後述のように、わが国のアイヌ政策論議では、不 思議にこの点は明示的になされていないが、その状況は日本特殊であることは諸外国の議論を比 較参照すればすぐわかる。そうした財産収奪、漁場(共有財産)の?奪などの歴史的事実につい ては、まずはそれを克明に伝えることが重要であり、安易な博物館構想(イオル建設〔野外博物 館〕事業)には、眉に唾する必要もある。」(21p)

「 象徴的問題として、「共有財産問題」、「平取ダム問題」8)がある。すなわち、前者(「共有財産問 題」)は、従来からのアイヌ民族の征服の歴史の清算としての ―補償問題にも繋がる ―重要問 題であるのに、これについて、北海道ウタリ協会〔2009年 4 月から、北海道アイヌ協会に名称変 更〕があっさり放棄するのは、理解に苦しむ。また後者(「平取ダム問題」)は、環境の世紀に逆 行する動きであり、国家予算が逼迫するのに、大変な無駄遣いである。画期的だとされた二風谷 ダム判決からのレッスンを何故生かそうとしないのか。ダム建設を前提とした環境アセスメント も、本末転倒で理解できない(故貝沢正エカシが存命だったら、どのように反応されただろうか)。 また、アイヌ民族の伝統的な「入会」的な土地利用形態における環境保護思想から、今こそ学ぶ 時であろう。」(22p)

「(先住民族の権利に関する国連宣言(2007年 9 月))先住民族の権利に関する国連宣言は、2007 年 9 月13日の国連の本会議で採択され、そこには言うまでもなく、関連する重要な条項がある。 例えば、土地・資源への権利(26条)、同意なく没収され、損害を与えられた場合、土地、領土、 資源の返還、賠償を求める権利(28条)がそれである。また、同化・文化破壊されない権利( 8 条)、集団的権利(35条)に関する項目もある。日本政府は、留保〔集団的権利を認めず、国益を 害さないことを条件とする〕を付して、賛成したが、当時日本政府は、アイヌ民族をそこでの先 住民族とも認めていなかった。民族的政治参加(民族議席)を認めないのも政府の立場(憲法学 者でも支持するものが多い〔例えば、常本教授〕)であるが、多文化社会化の今日、いずれも疑問 であり、再考が必要だろう。(この点で例えば、台湾における先住民族に関する民族議席が事実上 認められていたという歴史は興味深い9))」(22p)

アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会報告書(2009年 7 月)
次のような問題があると思われ、その提言の斬新さはあまりないようである。
 第 1 に、やはり、文化復興という文化面への限定がなされているところ(言語、音楽、舞踊、 工芸、土地利用形態等広く捉えるべきだとするが)(24頁、30頁以下)は問題で、土地利用の再検 討として考えられるのは、イオルであり、これは博物館類似の公共工事であり、現実のアイヌの 人々の貧困対策とは無縁であり、眉唾であろう。
 第 2 に、それに関連するが、アイヌ民族の歴史の根幹は 、所有権侵害ないし広義の財産権侵 害 (例えば、旧土人保護法という差別的立法による金融上の損害)であることが看過され それに対する救済法理として、補償問題 (集団的不法行為問題 )が伏在することへの理解が 、欠落し ている (報告書を取りまとめた常本照樹教授によれば、意識的に回避したとのことである)12)。そ の結果として、謝罪がなされていない(この点も、同教授によれば、道義的・倫理的非難につ いては、政府が主体的に判断し、また過去の問題に留意した政策の展開でカバーするという回答 であった。しかし補償問題についての救済は、そういうものではないであろう)。  また、アイヌの福祉政策・生活向上施策の背後には、補償問題があることが閑却されて、そ れゆえに、あまり保護すると逆差別になる等の論理を滑り込ませている(26-27頁では、特別扱い する合理的理由が必要だとする)。(24p)
 第 3 に、アイヌ民族の集団的アイデンティティと言いながら、個人権的保護をベースにして いて(27頁以下)、限界がある。どうして、民族の集団的権利を認めようとしないのかにも、疑問 がある(これは論理必然のものではないだろう。しかし集団的権利を否定するという日本政府の 公式的立場の踏襲とのことである(常本教授))。「入会団体類似」ならば、その名義での土地権、 補償に対する権利はあってよいし、民族的アイデンティティのためには、その集団的・民族的な 政治的権利(例えば、民族議席)なども、あってよいだろう。(25p)

和人とアイヌ民族との抗争、抑圧・征服・同化の歴史は、1000年以上に及ぶ。しかし明治維新 以降に、その侵食の度合いが一層高まり、所有法上悲惨な状況になっているということが、押さ えられなければいけないだろう。(25〜26p)

@(無主物先占(民法239条 2 項)の論理から)
明治維新以降は、明治 5 (1872)年の北海 道地所規則、明治10(1877)年の北海道地券発行条例によって、「旧土人住居ノ地所」は、官有地 とされて、ここには、いわゆる「無主物先占」的発想があり、その反面で、それまでのアイヌ民 族の何千年間の土地利用権は、無視されていることは見逃されるべきではない。  そしてその上で、本州から移動してきた和人に対して、北海道(アイヌ・モシリ)の大量の土 地払い下げ(明治19(1886)年北海道土地払い下げ規則、明治30(1897)年北海道国有未開地処 分法)がなされたわけである。
A(アイヌ民族の生業の締め付け)
他方で、アイヌに対しては、狩猟禁止(明治22(1889)年)、 鮭の禁漁化(明治29(1896)年)の措置がとられた。その関連で、従来、濫獲などによる不漁・ 飢餓問題が強調されていた(故高倉新一郎教授)が、それは、それまでのアイヌ民族の豊かさ、 ないし明治体制によるアイヌの生業奪取、財産搾取を隠蔽する効果を持ったことに注意を要する (井上勝生教授)18)。(26p)

 その上で、明治政府は、アイヌ民族に対して、農耕を強制しようとし、そのための土地として、 「アイヌ民族保護」と称して、概して不毛の未開拓地を賦与するという対策を取るわけである。こ れは、明治16―17(1883―84)年根室県・札幌県管内旧土人救済方法に始まり、明治32(1899)年 法律27号北海道旧土人保護法として結実した(そしてこのような法的スキームは、平成 9 (1997) 年の廃止まで存続した)。(27p)

B(先住民の土地利用との関係)@の措置(本法律によるアイヌ民族に対する 5 町歩( 5 ha)の下付)、 裏面として、それまでのアイヌ民族の土地利用を 無視・黙殺しているということであり、それを前提とした先住民族の土地利用侵害という集団的 不法行為については、補償問題が伏在している。わが国では、未だ近時の有識者懇談会の報告書 でも、これに触れようとしないが、かかる対応は極めて異例であり、アメリカなどでは、アメリ カンインディアンとの関係で、民法(所有法)の問題として、議論が蓄積されていることに注意 を喚起しておきたい。(27p)

C(旭川近文アイヌの特別扱い)旭川の近文アイヌに対しては、近くに第 7 師団という軍事基地 があったこともあり、特別法である昭和 9 (1934)年旭川市旧土人保護地処分法により、不利益 待遇がなされ、下付されたのは、通常の 5 分の 1 の 1 町歩( 1 ha)に止まった( 1 条)。そして残 りの 5 分の 4 は、次述の「共有財産」として処遇され、同庁長官の管理下に置かれたが、その管 理たるや不明朗且杜撰で、20世紀末の返還手続きも諸外国の研究者に話すことも憚られるほど、 いい加減なものであった(算定もいわゆる名目主義であった)(27〜28p)

 (共有財産問題とは別の土地補償問題)以上は、とくに近代土地所有システムの土俵上の財産 (所有権)保障の問題だが、さらに、アイヌ地の土地侵略・征服にかかわる「補償」(reparation) の問題は残る。その具体的対策(貧困対策など)の検討が重要であろう。つまり、福祉対策の背 後には、責任ないし補償の問題があることに、留意される必要があろう。(31p)

 (二風谷・平取ダム問題)既に触れたように、近時は、平取ダム建設の問題が浮上しており、 改めて、二風谷ダム訴訟(札幌地判平成9.3.27判時1598号33頁)は活かされているのかが問われ なければならない。
貝沢耕一氏の土地トラスト(ナショナルトラスト)的な「チコロナイ」による植林 活動27)は、注目に値する。二風谷ダム一帯が、国有地ならば、それを目的指定で、アイヌ民族管 理のトラスト化はできないか(脱ダムの時代に巨額をかけて、環境ないし先住民族文化遺跡破壊 のダム建設の歴史を繰り返すよりも)。そしてこれは、部分的な土地返還の基盤ともなりうるので はないかと思われる。(32p)

 (先住民族による「環境保護的なコモンズ論」の復権・再検討の必要性)
@(アイヌ民族に見て取れる「環境保護的コモンズ論」)考えてみると、北海道の「アイヌ・モシ リ」は、近代的・個人主義的土地所有システム導入により、和人の搾取の対象となり、それが濫 伐など環境破壊の事態も招いた。しかし、 ―紋別アイヌの自然環境保護の主張の仕方にも垣間 見られるように ―アイヌ民族本来の土地利用権は、環境に配慮し、共同所有・共同利用的な土 地利用(いわば「生活空間利用」)であり、
(この点で、チカップ美恵子氏は、アイヌ民族の大地と のハーモニー、共生の思想を、神話・昔ばなしにおける不滅の精神世界に求める〔だから、欧米 式の近代的所有的な「大地(聖地)を切り売りする」などということは考えられないとする〕33)
環境の世紀である21世紀において、本州における「入会」(それによる森林保護)とともに、注目 されてよいであろう。
Aなお、近時の民族学・環境社会学の開発途上国民族の実証研究では、個人主義ではなく、団体 的・共同的な民族(クラン)土地所有・利用で、しかも他者に対して排他的でもなく、「所有」と 「利用」とは重なりあう、重層的コモンズだとされ(ソロモン諸島マライタ島の場合)(宮内教 授)36)、しかも境界ははっきりしない「ルースなコモンズ」だとされて(カリマンタンの場合) (井上教授)37)参考となる。
しかしだからと言って、そのような重層的・共同的な利用形態が、アイ ヌ民族のようにトータルとして無視・閑却される場合に、補償しなくてもよいということにはな らないであろう。  そして、漁撈における伝統的鮭の狩猟の復権論も、コモンズに配慮したもので、今だからこそ 注目に値すると言えるであろう。またこれらは、資源枯渇にならないような草の根のコモンズ管 理組織についての制度論的研究(オストロム研究)38)などとも、通じてくることになるし、生物多 様性条約等の趣旨にも適合的である。(33〜35p)

(差別問題)差別問題については、民族的アイデンティティの高まりによる変化はあると言う ものの、依然根深い問題であることは否定できない。(35p)
 因みに、阿寒コタンのアイヌ民族が同化を免れ、道内でも有数の結束の固い有力なアイヌ民族 集団を形成している48)のは、前田一歩園(とくに故前田光子氏)による ―私的補償的な ―無 償でのコタン土地提供の意義が大きい。それは、知的所有権レベルでの搾取も免れるという効果 ももたらしていることが注目されよう49)。(38p)

(「補償アプローチ」の意義と可能性 ―その否定への疑問)
近時の有識者懇談会報告書でも、 アイヌ民族に対する歴史的不正義に関する補償論は、避けられている50)(ウタリ対策のあり方に 関する有識者懇談会の報告書では、明示的にそうである)が、その理由は、不明である(こうし た言説は、アイヌ民族の若者にも浸透しているようである51))。
しかし、「補償」論は、比較法的 に視野を広げれば、少数民族・先住民族問題にアプローチする際には、王道ないし正論であり、 その回避こそが、特殊日本的状況であることがわかる。
ここでは、もし「補償アプローチ」を採ったならば、どうなるかを試論的に示してみよう。なお、補償については、「対立的モデル」と 「償いモデル」との対比的考察もある(ブルックス教授)52)が、ここでは融合的・包括的に考えて 進めていこう。(38p)
比較法的には、アメリカにおける黒人、先住民族、ハワイ 原住民に対する補償論54)、特に黒人の奴隷制ないし差別・虐待に関する黒人補償(black reparation) に関する議論55)が比較材料として、参考になろう。(39p)

(アイヌ民族への補償の見取り図(その 1 ))
 すなわち第 1 に、過去の不正義に鑑みて、加害者側でその歴史的事実を認め その歴史的責任 を認めつつ、まずは 、謝罪を行う べきである。この点で、報告書には、肝心の謝罪が、欠落しており、欠落に関する理由は、理解に苦しむ。
 第 2 に、所有権返還 に関して、
 @まず、共有財産返還に関しては、再施すべきである。また、 そこには補償的意味合いがあることから、増額評価して行うべきで、名目額で返還するやり方に ついては、配慮に欠けたとして、謝罪しつつ改めるべきである。(39p)
 A土地返還は、一般論として難しいが、国有地の一部を象徴的にアイヌ協会に ―目的・利用 方法等を指定しつつ ―返還するということはあってよい(特に、その要望のある二風谷など。 現にアイヌ民族のイニシアティブのチコロナイによる自然保護の取り組みを見ていても、非現実 的とは言えないだろう)。
環境適合的な持続可能な資源利用としての「アイヌ民族ならではの土地 所有形態」の実験場となるならば、今世紀的取り組みとしても、注目されるであろう。

 もっとも、諸外国においては、所有権返還は、珍しくない。例えば、1999年カナダの先住民族 イヌイットにヌナブット準州が設立された(さらに、14年間にわたる十億米ドルの補償金支払 い)。1978年には、デンマークからグリーンランド先住民族に対して、自治政府も設立された。
他方で、オーストラリアでは、1986年にアボリジニー土地権利法で、先住民族アボリジニ―に対す る土地返還が開始された(なお、1992年マーボ判決では、無主地宣言は、無効とされたし、1993 年の先住権限法で、先住民共同体の慣習による土地利用・管理が認められた)。そしてオーストラ リア全土の16%、北部特別地域(northern territory)の約50%が返還された。
 この点で、阿寒のアイヌコタンに対する前田一歩財団の対応(コタンに対する土地の使用貸借 の提供、入会権の容認)は、一種の私的補償的なものであり(これについては前述)、注目されよ う。(39〜40p)

イオル構想については、榎森進教授も、「現在のアイヌ民族の生活に資する機能を持たせなけ ればならない」「これでは、アイヌ民族の伝統文化を伝承し、『再生』するための単なる『野外博 物館』と言っても過言ではないだろう」「アイヌ民族にとって、どれだけ役に立つものなのか、大 きな疑問を抱かざるを得ない」とし、「この『イオル』の『再生』事業をよりアイヌ民族に有利 で、アイヌ民族の生産・生活基盤を保障する性格を有したものへ変えていく」必要性を説かれて いる56)。(40p)

(有識者懇報告書の問題点)
有識者懇談会の報告書の立場では、先住権の侵略侵奪の問題、従って、 それゆえの補償問題という 先住民族の所有権 ・知的所有権問題の根幹問題を打ち出さず、 アイヌ民族支援の根拠を明らかにせず 、またそれが北海道のローカルな問題に止まらず、日 本の近代化に伴う所有侵略問題ゆえの全国的問題であることを説得的に示し得ておらず、それゆ えに、その成果としての政策的展開にも繋がっておらず、従来路線の域を出ておらず、折角の国 連の先住民族の権利宣言、それを受けた国会の先住民族決議にもかかわらず、今後の方向付けと して、成功していないと言わざるを得ず、遺憾な事態である。(45〜46p)
▼アイヌモシリ回復裁判を念頭において以上のように抜粋しました。(2020.10.29)

2009年(H21)
7月3日 北海道議会決議「アイヌ政策の推進を求める決議」
12月 「アイヌ政策推進会議」設置(座長・内閣官房長官・首相官邸)(構成員14名・うちアイヌ委員5名)
「アイヌ政策推進会議」の下に2つの作業部会設置
・「民族共生の象徴となる空間作業部会」
・「北海道外アイヌ生活実態調査作業部会」
2010年(H22)
*北海道議会決議・10月5日・11月25日「北海道開発の枠組みの堅持と北海道局の存続に関する意見書」
2011年(H23)
両作業部会が、報告書取りまとめ
「アイヌ政策関係省庁連絡会議」開催(関係省庁局長級で構成)
「アイヌ政策推進会議」の下に「政策推進作業部会」設置
*「国連持続可能な開発会議」(リオ+20)・国内準備委員会」参画
2012年(H24)
「アイヌ政策関係省庁連絡会議」が「民族共生の象徴となる空間基本構想」を決定
12月25日「アイヌ政策推進北海道議会 議員連盟」設立・90名
2013年(H25)
「アイヌ政策を推進する議員の会」設立・29名※これは国政レベル?
2014年(H26)
6月26日カナダ 先住権原に関するチルコットイン判決
カナダにおける先住権原に関する歴史的判決とその影響
2014年6月26日、カナダ連邦最高裁判所はカナダの先住民の 一つであるTsilhqot’in Nationが主張する土地所有権を含む先住権原(Aboriginal Title)を認め、 ブリティシュコロンビア州(BC州)が同権利を制限するにあたりTsilhqot’inに対して事前協議を行う義務に違反したとの判決を下した。
国連本部・国連総会・世界先住民族会議(9月22日)
*先住民族世界会議として知られる総会ハイレベル本会議 成果文書採択
ILOのHPより
「1989年のILO総会における先住民・種族民条約(第169号) の採択、 2002年の国連・先住民問題に関する常設フォーラムの開設、 2007年の「先住民族の権利に関する国連宣言」の採択といった、 国際的な先住民族の権利の認識と参加の促進をもたらした
過去30年間における重要な歩みの一つとして、
ニューヨークで開かれている国連総会の枠内で9月22〜23日に各国首脳と先住民族代表が初めて顔を合わせる 先住民族世界会議が開かれます。
会議では世界のリーダーらによる先住民族の権利に対する公約の再確認が行われると共に 先住民族の権利の実現に向けて先住民族と協力して国内で行う具体的な行動に関する誓いが示されることが期待されます。
会議はまた、国連諸機関が各国で展開する先住民族関連活動の強化に向けた歩みを始動させるものと思われます。
(会議を前に作成された9月18日付の論評記事)」
▼世界先住民族会議の成果文書は本HPの「国連基準」をご覧ください。
▼「北海道開発協会」の広報誌に掲載された北海道アイヌ協会主任佐藤幸雄(前常務理事・事務局長)さんの 「アイヌ政策の展開に向けて」(2015.2)は大変貴重な論文です。
「大正 8 (1919)年の第41回帝国議会衆議院において、一度だけアイヌ自治区の設置が論議されたことがありました」との記述があります。 わたしがイメージしています和人としてのアイヌ民族への「償い」の形はまさしくそのようなものでした。 都立中央図書館で臨川書店刊の議事録を読みました。「第41回帝国議会衆議院北海道旧土人保護法中改正法律案委員会義録(速記)第2回」です。 その中での小西和(こにし かなう)議員の発言です。
「土人自身に満足を与え、安心して生活の出来るようにしてやる方が宜しいと思う、 それについて例えば日高の平取沙流川の沿岸の如き一区域を成して居る所に於いて、其の沙流川の流域全体を土人の為に、特別の場所として其の土地を 土人の自由に生活する天地として、それを国有にするなり、或いは土人の集団の共有にするなり何方でも宜しい」
▼ロシア革命のコルホーズ、ソホーズの発想ですね。

▼同じく広報誌(2014.10)に掲載された北海道大学アイヌ・先住民族研究センター長の常本照樹教授の 「海外の先住民族政策」〜日本との比較の視点〜 もアメリカインディアンのケースが取り上げられていて参考になります。
「基本的な法原則は合衆国最高裁判所の判例によって定められてきた。
合衆国とインディアン部族 の関係の基本的枠組を定めたのが、部族を「合衆国内の従属的国家」と位置づけ、両者は国対国の関係にあると したCherokee Nation 対 Georgia判決(1831)、Johnson対 McIntosh判決(1823)、Worcester 対 Georgia判決 (1832)の 3 つの判決であり、これらから導かれた三原則がインディアン法体系の礎石となった。
すなわち、
@インディアン部族は、その先住性に由来する人及び領土に関する主権的権能を有する。
A合衆国はこの主権を制限若しくは剥はく奪だつすることができるが、州にはその権能はない。
B部族の固有の主権が制約されており、したがって合衆国に依存せざるをえないことから合衆国の「信託(後見)責任」が導かれる。
信託責任法理とは、
合衆国とインディアン部族との関係を定める最も基本的な法理であって、後見人たる 合衆国が被後見人たる部族に対して保護責任を負うとするものである。
その法的意義としては、合衆国議会によるインディアン部族に関する立法は、 部族を保護するという責任と合理的な関連性を有しなければならないとされ、かつ、その種の立法は、 インディアンに有利に解釈されなくてはならないとされるのである。
準主権国家としての部族は、三原則が示すように領土たる保留地内の人及び物に対する統治権を有してお り、多くの部族が伝統的な部族法と合衆国法をモデルとした近代法とを融合させた法体系を備え、独自の政 府、議会及び裁判所を有している。
このような領土及び統治権は合衆国が部族と締結した条約等によって具体化されている。
すなわち、部族が、合衆国の独立以前から保有していた土地の一部を合衆国に割譲し、合衆国 は残余部分の土地(保留地)を保障するとともに、そこでの自治を承認するという内容の条約が各部族と個 別に結ばれたのである。」

▼小西和さんの言われる「自由の天地」に、アイヌ民族の準国家が形成されることが日本社会の取るべき道だと考えます。(2019.2.7)
▼アメリカインディアン運動(AIM)をWikipediaで勉強しました。アイヌ民族の今後についても参考になるところが多いです。要旨を掲載します。 (2020.7.14)
Wikipedia: アメリカインディアン運動(AIM)
AIMはアメリカインディアンの権利運動団体。 AIMの旗。黒、黄、白、赤の4色はそれぞれ、四つの方角と、黒人、東洋人、白人、インディアンの連帯を示している。

「AIM」は、1968年にミネソタ州ミネアポリスで結成されて以来、全米に支部を置き、 多数のインディアン権利団体と連携する全米最大のインディアン組織である。
1960年代、全米のインディアン部族は絶滅的危機にあった。100を超えるインディアン部族が連邦条約を打ち切られ、 保留地の保留を打ち切られ、路頭に迷うこととなった。
都市部のスラムに流入したインディアンたちは極貧の生活の中、白人社会の人種差別と暴力にさらされ、 ささいな理由で刑務所に送られた。ミネソタ州の刑務所の囚人の7割は常にインディアンが占めていたのである。
「AIM」は、こうした刑務所暮らしを強いられた若いインディアンたちによって起こされた。
「AIM」の綱領は、1972年に決行した「破られた条約のための行進」の際に、ヴァイン・デロリア・ジュニアによって理論支援され、 ハンク・アダムスによってまとめられたものである。それは以下のようなものである。
@1871年に連邦議会で打ち切られた、インディアン部族との条約締結の復活
1871年 議会は「もはや合衆国はインディアン部族を独立国家と認めない、したがって今後は条約は結ばない」と決議した
Aインディアン部族が新しく条約を締結するための権限の設立
Bインディアンの主導者たちの連邦議会での発言権
Cインディアン条約の責務と違反の再調査
D未批准のインディアン条約を上院に送る
Eすべてのインディアンを条約関係に置くこと
F条約違反下にあるインディアン国家の救済
G条約によるインディアンの権利認識
Hインディアンとの関係の再建に関して連邦とインディアン国家間の共同議会の設立
Iアメリカ合衆国下のインディアン以外も含むすべての先住民国家への、45万km2の土地の返還
J権利を打ち切られたインディアン部族の再建
Kインディアン以外も含む先住民国家の、州による管轄権の撤廃
Lインディアンへの犯罪に対する、連邦政府によるインディアンの保護
M「BIA」(インディアン管理局)の廃止
N連邦政府とインディアン部族との新しい事務所の設立
O新しい事務所による、米国とインディアン以外も含む先住民国家との間の憲法に規定する関係の修復。
P先住民国家を、連邦の商取引、収税、貿易の制限外に置く
Qインディアンの宗教の自由と文化の保護
Rインディアン国家内での議決権の確立、連邦政府の支配からのインディアン国家の脱却
Sすべてのインディアンの人々のための健康、住宅、雇用、経済発展と教育の再構築
1974年、インディアンの権利を国際的に訴えるため、スイス・ジュネーブの国連会議に事務所を置く、 全米のインディアンの代表組織「国際インディアン条約会議」(IITC)を結成。
1975年、「国際インディアン条約会議」(IITC)が国連内で非政府組織として認可される.
1977年、ラッセル・ミーンズらの参加した「IITC」は国際NGO会議に出席し、満場一致で「我々の民族名はアメリカインディアンである」 との宣言を行った。この時期、合衆国政府ではインディアンの保留地の保留を解消し、 自治権を剥奪するための絶滅法案が続々と上下院に提出されていた。まさにアメリカインディアンは、民族存亡の危機にあったのである。
12月、デニス・バンクスはこの民族浄化の動きに対し、「平和的な抗議行動で全米の注目を浴びる以外に方法はない」として、 インディアン・アスリートのジム・ソープを記念し、「破られた条約のための行進」を再現して、 サンフランシスコのアルカトラズ島からワシントンD.C.まで、徒歩で大陸横断する「ロンゲスト・ウォーク」(最長の徒歩) を提案。全会一致で採択された。

「破られた条約のための行進」は、「AIM」がインディアン部族の生存権と条約遵守を訴えるため、 西海岸から合衆国首都ワシントンD.C.まで、 自動車による抗議の行進(1972年10月3日−11月2日)を行ったもの。

1978年2月11日、「ロンゲスト・ウォーク」(最長の徒歩)が実行された。 インディアンだけでなく黒人や白人、東洋人、世界中の民族、平和団体が参加したこの行進は、 聖なるパイプを掲げ太鼓を携えた宗教的行進でもあった。日本からは日本山妙法寺大僧伽も参加したこの行進は5ヶ月に及び、 4000人に参加者を増やした。
また、「ロンゲスト・ウォーク」を援護して、「AIM」 の若いメンバーがミネアポリスからカンザス州ローレンスまで約800kmを駆ける「生き残りのランニング」(Run For Survival)を実行。
7月15日、「ロンゲスト・ウォーク」はワシントンD.C.でゴールを迎え、 インディアンたちはホワイトハウスの門前に和平のティーピーを建てた。 この平和的行進は全米の反響を呼び、多数の上下院議員らの賛同を得て、 「インディアン絶滅法案」を廃絶に追い込んだ[10]。

カナダ・クイーンズ大学各国の先住民族政策の推進度
Indigenous Peoplesをクリックしてください。resultsへ行って下さい。指標のTableが出て来ます。
Table1が要約、Table2が各項目別です。
Table 2: Multiculturalism Policies for Indigenous Peoples Scores for Each Indicator,
1980, 2000, 2010
調査対象国(縦の欄上から):オーストラリア カナダ デンマーク フィンランド 日本 ニュジーランド ノルウエー スウェーデン 米国
調査項目(横の欄左から);1土地権 2自己決定権 3条約締結権 4文化権 5中央政府との協議 6特別な地位 7先住権国際条約批准 8格差是措置 9総合点
▼ 上の指標を見ますとこの30年間、
日本の土地権、自己決定権といった肝心の指標が 0 で先住民政策がいかに遅れているかが一目瞭然です。
総合点でも
1980が0、2000が1、2010が3です。
オーストラリアの総合点は
1980が1、2000が4.5、2010が6で5ポイントも大幅に改善されています。
しかも土地権は0から1になっています。
カナダの総合点はトップでほぼ満点の8.5です。
こうして国際比較のデータを見ますと日本国内ではメディアはほとんど報道しませんが課題が浮き彫りになってきます。
▼アメリカインディアンの勉強していて、インディアンは合衆国と条約を締結している、との事実をしりました。つまりインディアンの領地は準国家的扱いなのです。 上記一覧表の「3 条約締結権」がそれに該当します。カナダ、ニュジーランド、米国が先住民の領地を準国家として認めています。日本では当然アイヌ民族がそのような 立場にあることは言うまでもありません。(2020.7.16)

▼下記のアイヌ新法が2019.4.18国会で成立。
https://blog.goo.ne.jp/ivelove/e/1b39fc41af77f8d7ea38687c5c1323a4
北海道新聞 02/16 15:40
▼下記の「アイヌ新法」(略称「アイヌ施策推進法」)のなかで特に重要とおもわれる条項を緑字にしておきました。(2020.5.1)
「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」(略称「アイヌ施策推進法」)
目次
第一章 総則(第一条―第六条)
第二章 基本方針等(第七条・第八条)
第三章 民族共生象徴空間構成施設の管理に関する措置(第九条)
第四章 アイヌ施策推進地域計画の認定等(第十条―第十四条)
第五章 認定アイヌ施策推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置(第十五条―第十九条)
第六章 指定法人(第二十条―第三十一条)
第七章 アイヌ政策推進本部(第三十二条―第四十一条)
第八章 雑則(第四十二条―第四十五条)
附則
第一章 総則
(目的)
第一条 この法律は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であるアイヌの人々の誇りの源泉である アイヌの伝統及びアイヌ文化(以下「アイヌの伝統等」という。)が置かれている状況並びに近年における
2020.6.6朝日新聞夕刊
アイヌ民族文化財団理事長・元北大総長中村睦男さん(81)

先住民族をめぐる国際情勢に鑑み、アイヌ施策の推進に関し、基本理念、国等の責務、政府による基本方針の策定、 民族共生象徴空間構成施設の管理に関する措置、市町村(特別区を含む。以下同じ。)によるアイヌ施策推進地域計画の 作成及びその内閣総理大臣による認定、当該認定を受けたアイヌ施策推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置、 アイヌ政策推進本部の設置等について定めることにより、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、 及びその誇りが尊重される社会の実現を図り、もって全ての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の 実現に資することを目的とする。
(定義)
第二条 この法律において「アイヌ文化」とは、アイヌ語並びにアイヌにおいて継承されてきた生活様式、 音楽、舞踊、工芸その他の文化的所産及びこれらから発展した文化的所産をいう。 2 この法律において「アイヌ施策」とは、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及 及び啓発(以下「アイヌ文化の振興等」という。)並びにアイヌの人々が民族としての誇りを持って生活 するためのアイヌ文化の振興等に資する環境の整備に関する施策をいう。
2020.6.9朝日新聞夕刊
「民族共生象徴空間」内覧会白老町

3 この法律において「民族共生象徴空間構成施設」とは、 民族共生象徴空間 (アイヌ文化の振興等の拠点として国土交通省令・文部科学省令で定める場所に整備される国有財産法 (昭和二十三年法律第七十三号)第三条第二項に規定する行政財産をいう。)を構成する施設(その敷地を含む。) であって、国土交通省令・文部科学省令で定めるものをいう。
(基本理念)
第三条 アイヌ施策の推進は、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重されるよう、 アイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統等並びに我が国を含む国際社会において重要な課題である 多様な民族の共生及び多様な文化の発展についての国民の理解を深めることを旨として、行われなければならない。
2 アイヌ施策の推進は、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができるよう、 アイヌの人々の自発的意思の尊重に配慮しつつ、行われなければならない。 3 アイヌ施策の推進は、国、地方公共団体その他の関係する者の相互の密接な連携を図りつつ、
2020.7.12朝日新聞朝刊 ウポポイ開業

アイヌの人々が北海道のみならず全国において生活していることを踏まえて全国的な視点に立って行われなければならない。
第四条 何人も、アイヌの人々に対して、アイヌであることを理由として、 差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。 (国及び地方公共団体の責務)
第五条 国及び地方公共団体は、前二条に定める基本理念にのっとり、アイヌ施策を策定し、及び実施する責務を有する。
2 国及び地方公共団体は、アイヌ文化を継承する者の育成について適切な措置を講ずるよう努めなければならない。
  2020.7.19朝日新聞朝刊
「同じクラスの彼女は顔の彫りが深くほんの少し色の濃い肌は「北海道出身だからスキー焼け」と言いました。ずっと 後になってからアイヌ民族であることを打ち明けられました。」
▼差別を受けるマイノリティーの共通した心情。せつない。(2020.7.20)
「カナダなどの先住民族との交流にも参加。独自の文化を奪われた怒りと民族の 尊厳と誇りが伝わってきました。「ウポポイ」いつか訪れたいです。今は亡き彼女の魂がそこにあると思えるのです。」

3 国及び地方公共団体は、教育活動、広報活動その他の活動を通じて、アイヌに関し、国民の理解を深めるよう努めなければならない。
4 国は、アイヌ文化の振興等に資する調査研究を推進するよう努めるとともに、地方公共団体が実施するアイヌ施策を推進するために 必要な助言その他の措置を講ずるよう努めなければならない。
(国民の努力)
第六条 国民は、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される 社会の実現に寄与するよう努めるものとする。
第二章 基本方針等
(基本方針)
第七条 政府は、アイヌ施策の総合的かつ効果的な推進を図るための基本的な方針(以下「基本方針」という。)を定めなければならない。
2 基本方針には、次に掲げる事項を定めるものとする。
 一 アイヌ施策の意義及び目標に関する事項
 二 政府が実施すべきアイヌ施策に関する基本的な方針
 三 民族共生象徴空間構成施設の管理に関する基本的な事項
 四 第十条第一項に規定するアイヌ施策推進地域計画の同条第九項の認定に関する基本的な事項
 五 前各号に掲げるもののほか、アイヌ施策の推進のために必要な事項
3 内閣総理大臣は、アイヌ政策推進本部が作成した基本方針の案について閣議の決定を求めなければならない。
4 内閣総理大臣は、前項の規定による閣議の決定があったときは、遅滞なく、基本方針を公表しなければならない。
5 政府は、情勢の推移により必要が生じたときは、基本方針を変更しなければならない。
6 第三項及び第四項の規定は、基本方針の変更について準用する。
2020.7.8朝日新聞朝刊
国立アイヌ民族博物館初代館長・文化人類学者佐々木史郎さん(62)

(都道府県方針)
第八条 都道府県知事は、基本方針に基づき、当該都道府県の区域内におけるアイヌ施策を推進するための方針 (以下この条及び第十条において「都道府県方針」という。)を定めるよう努めるものとする。
2 都道府県方針には、おおむね次に掲げる事項を定めるものとする。
 一 アイヌ施策の目標に関する事項
 二 当該都道府県が実施すべきアイヌ施策に関する方針
 三 前二号に掲げるもののほか、アイヌ施策の推進のために必要な事項
3 都道府県知事は、都道府県方針に他の地方公共団体と関係がある事項を定めようとするときは、 当該事項について、あらかじめ、当該他の地方公共団体の長の意見を聴かなければならない。
4 都道府県知事は、都道府県方針を定めたときは、遅滞なく、これを公表するよう努めるとともに、関係市町村長に通知しなければならない。
2020.8.27朝日新聞朝刊
赤羽一嘉国土交通省はウポポイを「観光の起爆」と視察中に発言したり、萩生田光一文部科学大臣は記者会見でアイヌ民族を 「原住民」(正しくは「先住民族」)と呼んだうえで、「開拓民との間で様々な価値観の違いがあった」と述べた。
▼中心になって進めてきた両省の大臣がこの程度の認識。先がおもいやられる。裁判できっちりと批判したい。(2020.10.8)

5 前二項の規定は、都道府県方針の変更について準用する。
第三章 民族共生象徴空間構成施設の管理に関する措置
第九条 国土交通大臣及び文部科学大臣は、第二十条第一項の規定による指定をしたときは、 民族共生象徴空間構成施設の管理を当該指定を受けた者(次項において「指定法人」という。)に委託するものとする。
2 前項の規定により管理の委託を受けた指定法人は、当該委託を受けて行う民族共生象徴空間構成施設の管理に要する費用に充てるために、 民族共生象徴空間構成施設につき入場料その他の料金(第二十二条第二項において「入場料等」という。)を徴収することができる。
3 前項に定めるもののほか、第一項の規定による委託について必要な事項は、政令で定める。
第四章 アイヌ施策推進地域計画の認定等
(アイヌ施策推進地域計画の認定)
第十条 市町村は、単独で又は共同して、基本方針に基づき(当該市町村を包括する都道府県の知事が都道府県方針を定めているときは、 基本方針に基づくとともに、当該都道府県方針を勘案して)、内閣府令で定めるところにより、 当該市町村の区域内におけるアイヌ施策を推進するための計画(以下「アイヌ施策推進地域計画」という。) を作成し、内閣総理大臣の認定を申請することができる。
2 アイヌ施策推進地域計画には、次に掲げる事項を記載するものとする。
 一 アイヌ施策推進地域計画の目標
 二 アイヌ施策の推進に必要な次に掲げる事業に関する事項
  イ アイヌ文化の保存又は継承に資する事業
  ロ アイヌの伝統等に関する理解の促進に資する事業
  ハ 観光の振興その他の産業の振興に資する事業
  ニ 地域内若しくは地域間の交流又は国際交流の促進に資する事業
  ホ その他内閣府令で定める事業
 三 計画期間
 四 その他内閣府令で定める事項
3 市町村は、アイヌ施策推進地域計画を作成しようとするときは、これに記載しようとする 前項第二号に規定する事業を実施する者の意見を聴かなければならない。
4 第二項第二号(ニを除く。)に規定する事業に関する事項には、アイヌにおいて継承されてきた儀式の実施 その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物を国有林野(国有林野の管理経営に関する法律(昭和二十六年法律第二百四十六号) 第二条第一項に規定する国有林野をいう。第十六条第一項において同じ。)において採取する事業に関する事項を記載することができる。
5 前項に定めるもののほか、第二項第二号(ニを除く。)に規定する事業に関する事項には、アイヌにおいて継承されてきた 儀式若しくは漁法(以下この項において「儀式等」という。)の保存若しくは継承又は儀式等に関する知識の普及及び啓発に 利用するためのさけを内水面(漁業法(昭和二十四年法律第二百六十七号)第八条第三項に規定する内水面をいう。)において 採捕する事業(以下この条及び第十七条において「内水面さけ採捕事業」という。)に関する事項を記載することができる。 この場合においては、内水面さけ採捕事業ごとに、当該内水面さけ採捕事業を実施する区域を記載するものとする。
6 前二項に定めるもののほか、第二項第二号(ハに係る部分に限る。)に規定する事業に関する事項には、 当該市町村における地域の名称又はその略称を含む商標の使用をし、又は使用をすると見込まれる商品又は役務の需要の開拓を行う事業 (以下この項及び第十八条において「商品等需要開拓事業」という。)に関する事項を記載することができる。 この場合においては、商品等需要開拓事業ごとに、当該商品等需要開拓事業の目標及び実施期間を記載するものとする。
7 第二項第二号イからホまでのいずれかの事業を実施しようとする者は、市町村に対して、 アイヌ施策推進地域計画を作成することを提案することができる。この場合においては、基本方針に即して、 当該提案に係るアイヌ施策推進地域計画の素案を作成して、これを提示しなければならない。
8 前項の規定による提案を受けた市町村は、当該提案に基づきアイヌ施策推進地域計画を作成するか否かについて、 遅滞なく、当該提案をした者に通知しなければならない。この場合において、アイヌ施策推進地域計画を作成しないこととするときは、 その理由を明らかにしなければならない。
9 内閣総理大臣は、第一項の規定による認定の申請があった場合において、 アイヌ施策推進地域計画が次に掲げる基準に適合すると認めるときは、その認定をするものとする。
 一 基本方針に適合するものであること。
 二 当該アイヌ施策推進地域計画の実施が当該地域におけるアイヌ施策の推進に相当程度寄与するものであると認められること。
 三 円滑かつ確実に実施されると見込まれるものであること。
10 内閣総理大臣は、前項の認定を行うに際し必要と認めるときは、アイヌ政策推進本部に対し、意見を求めることができる。
11 内閣総理大臣は、第九項の認定をしようとするときは、その旨を当該認定に係るアイヌ施策推進地域計画を作成した 市町村を包括する都道府県の知事に通知しなければならない。この場合において、 当該都道府県の知事が都道府県方針を定めているときは、同項の認定に関し、内閣総理大臣に対し、意見を述べることができる。
12 内閣総理大臣は、アイヌ施策推進地域計画に特定事業関係事項(第四項から第六項までのいずれかに規定する事項をいう。以下同じ。) が記載されている場合において、第九項の認定をしようとするときは、当該特定事業関係事項について、 当該特定事業関係事項に係る国の関係行政機関の長(以下単に「国の関係行政機関の長」という。)の同意を得なければならない。
13 内閣総理大臣は、アイヌ施策推進地域計画に内水面さけ採捕事業に関する事項が記載されている場合において、 第九項の認定をしようとするときは、当該アイヌ施策推進地域計画を作成した市町村(市町村が共同して作成したときは、 当該内水面さけ採捕事業を実施する区域を含む市町村に限る。)を包括する都道府県の知事の意見を聴かなければならない。
14 内閣総理大臣は、第九項の認定をしたときは、遅滞なく、その旨を公示しなければならない。
(認定を受けたアイヌ施策推進地域計画の変更)
第十一条 市町村は、前条第九項の認定を受けたアイヌ施策推進地域計画の変更(内閣府令で定める軽微な変更を除く。) をしようとするときは、内閣総理大臣の認定を受けなければならない。
2 前条第三項から第十四項までの規定は、同条第九項の認定を受けたアイヌ施策推進地域計画の変更について準用する。
(報告の徴収)
第十二条 内閣総理大臣は、第十条第九項の認定(前条第一項の変更の認定を含む。)を受けた市町村(以下「認定市町村」という。)に対し、 第十条第九項の認定を受けたアイヌ施策推進地域計画(前条第一項の変更の認定があったときは、その変更後のもの。 以下「認定アイヌ施策推進地域計画」という。)の実施の状況について報告を求めることができる。
2 国の関係行政機関の長は、認定アイヌ施策推進地域計画に特定事業関係事項が記載されている場合には、 認定市町村に対し、当該特定事業関係事項の実施の状況について報告を求めることができる。
(措置の要求)
第十三条 内閣総理大臣は、認定アイヌ施策推進地域計画の適正な実施のため必要があると認めるときは、 認定市町村に対し、当該認定アイヌ施策推進地域計画の実施に関し必要な措置を講ずることを求めることができる。
2 国の関係行政機関の長は、認定アイヌ施策推進地域計画に特定事業関係事項が記載されている場合において、 当該特定事業関係事項の適正な実施のため必要があると認めるときは、認定市町村に対し、 当該特定事業関係事項の実施に関し必要な措置を講ずることを求めることができる。
(認定の取消し)
第十四条 内閣総理大臣は、認定アイヌ施策推進地域計画が第十条第九項各号のいずれかに適合しなくなったと認めるときは、 その認定を取り消すことができる。この場合において、当該認定アイヌ施策推進地域計画に特定事業関係事項が記載されているときは、 内閣総理大臣は、あらかじめ、国の関係行政機関の長にその旨を通知しなければならない。
2 前項の規定による通知を受けた国の関係行政機関の長は、同項の規定による認定の取消しに関し、内閣総理大臣に意見を述べることができる。
3 前項に規定する場合のほか、国の関係行政機関の長は、認定アイヌ施策推進地域計画に特定事業関係事項が記載されている場合には、 第一項の規定による認定の取消しに関し、内閣総理大臣に意見を述べることができる。
4 第十条第十四項の規定は、第一項の規定による認定の取消しについて準用する。
第五章 認定アイヌ施策推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置
(交付金の交付等)
第十五条 国は、認定市町村に対し、認定アイヌ施策推進地域計画に基づく事業(第十条第二項第二号に規定するものに限る。) の実施に要する経費に充てるため、内閣府令で定めるところにより、予算の範囲内で、交付金を交付することができる。
2 前項の交付金を充てて行う事業に要する費用については、他の法令の規定に基づく国の負担若しくは補助又は交付金の交付は、 当該規定にかかわらず、行わないものとする。
3 前二項に定めるもののほか、第一項の交付金の交付に関し必要な事項は、内閣府令で定める。
(国有林野における共用林野の設定)
第十六条 農林水産大臣は、国有林野の経営と認定市町村(第十条第四項に規定する事項を記載した 認定アイヌ施策推進地域計画を作成した市町村に限る。以下この項において同じ。)の住民の利用とを調整することが 土地利用の高度化を図るため必要であると認めるときは、契約により、当該認定市町村の住民又は当該認定市町村内の 一定の区域に住所を有する者に対し、これらの者が同条第四項の規定により記載された事項に係る国有林野を アイヌにおいて継承されてきた儀式の実施その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物の採取に共同して使用する権利を 取得させることができる。
2 前項の契約は、国有林野の管理経営に関する法律第十八条第三項に規定する共用林野契約とみなして、 同法第五章(同条第一項及び第二項を除く。)の規定を適用する。この場合において、 同条第三項本文中「第一項」とあるのは 「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(平成三十一年法律第号)第十六条第一項」と、 「市町村」とあるのは「認定市町村(同法第十二条第一項に規定する認定市町村をいう。以下同じ。)」と、 同項ただし書並びに同法第十九条第五号、第二十二条第一項及び第二十四条中「市町村」とあるのは「認定市町村」と、 同法第十八条第四項中「第一項」とあり、及び同法第二十一条の二中「第十八条」とあるのは 「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律第十六条第一項」とする。
(漁業法及び水産資源保護法による許可についての配慮)
第十七条 農林水産大臣又は都道府県知事は、認定アイヌ施策推進地域計画に記載された内水面さけ採捕事業の 実施のため漁業法第六十五条第一項若しくは第二項又は水産資源保護法(昭和二十六年法律第三百十三号) 第四条第一項若しくは第二項の規定に基づく農林水産省令又は都道府県の規則の規定による許可が必要とされる場合において、 当該許可を求められたときは、当該内水面さけ採捕事業が円滑に実施されるよう適切な配慮をするものとする。

(商標法の特例)
第十八条 認定アイヌ施策推進地域計画に記載された商品等需要開拓事業については、 当該商品等需要開拓事業の実施期間(次項及び第三項において単に「実施期間」という。)内に限り、次項から第六項までの規定を適用する。
2 特許庁長官は、認定アイヌ施策推進地域計画に記載された商品等需要開拓事業に係る商品又は役務に係る地域団体商標の商標登録 (商標法(昭和三十四年法律第百二十七号)第七条の二第一項に規定する地域団体商標の商標登録をいう。以下この項及び次項において同じ。) について、同法第四十条第一項若しくは第二項又は第四十一条の二第一項若しくは第七項の登録料を納付すべき者が当該商品又は 役務に係る商品等需要開拓事業の実施主体であるときは、政令で定めるところにより、当該登録料 (実施期間内に地域団体商標の商標登録を受ける場合のもの又は実施期間内に地域団体商標の商標登録に係る 商標権の存続期間の更新登録の申請をする場合のものに限る。)を軽減し、又は免除することができる。 この場合において、同法第十八条第二項並びに第二十三条第一項及び第二項の規定の適用については、 これらの規定中「納付があつたとき」とあるのは、「納付又はその納付の免除があつたとき」とする。
3 特許庁長官は、認定アイヌ施策推進地域計画に記載された商品等需要開拓事業に係る商品又は役務に係る 地域団体商標の商標登録について、当該地域団体商標の商標登録を受けようとする者が当該商品又は役務に係る 商品等需要開拓事業の実施主体であるときは、政令で定めるところにより、商標法第七十六条第二項の規定により 納付すべき商標登録出願の手数料(実施期間内に商標登録出願をする場合のものに限る。)を軽減し、又は免除することができる。
4 商標法第四十条第一項若しくは第二項又は第四十一条の二第一項若しくは第七項の登録料は、商標権が第二項の規定による 登録料の軽減又は免除(以下この項において「減免」という。)を受ける者を含む者の共有に係る場合であって持分の定めがあるときは、 同法第四十条第一項若しくは第二項又は第四十一条の二第一項若しくは第七項の規定にかかわらず、 各共有者ごとにこれらに規定する登録料の金額(減免を受ける者にあっては、その減免後の金額)にその持分の割合を 乗じて得た額を合算して得た額とし、その額を納付しなければならない。
5 商標登録出願により生じた権利が第三項の規定による商標登録出願の手数料の軽減又は免除(以下この項において「減免」という。) を受ける者を含む者の共有に係る場合であって持分の定めがあるときは、これらの者が自己の商標登録出願により生じた権利について 商標法第七十六条第二項の規定により納付すべき商標登録出願の手数料は、同項の規定にかかわらず、各共有者ごとに同項に規定する 商標登録出願の手数料の金額(減免を受ける者にあっては、その減免後の金額)にその持分の割合を乗じて得た額を合算して得た額とし、 その額を納付しなければならない。
6 前二項の規定により算定した登録料又は手数料の金額に十円未満の端数があるときは、その端数は、切り捨てるものとする
(地方債についての配慮)
第十九条 認定市町村が認定アイヌ施策推進地域計画に基づいて行う事業に要する経費に充てるため起こす地方債については、国は、 当該認定市町村の財政状況が許す限り起債ができるよう、及び資金事情が許す限り財政融資資金をもって引き受けるよう特別の 配慮をするものとする。
第六章 指定法人
(指定等)
第二十条 国土交通大臣及び文部科学大臣は、アイヌ文化の振興等を目的とする一般社団法人又は一般財団法人であって、 次条に規定する業務を適正かつ確実に行うことができると認められるものを、その申請により、全国を通じて一に限り、 同条に規定する業務を行う者として指定することができる。
2 国土交通大臣及び文部科学大臣は、前項の申請をした者が次の各号のいずれかに該当するときは、同項の規定による指定をしてはならない。
 一 この法律の規定により罰金の刑に処せられ、その執行を終わり、又は執行を受けることがなくなった日から二年を経過しない者であること。
 二 第三十条第一項の規定により指定を取り消され、その取消しの日から二年を経過しない者であること。
 三 その役員のうちに、次のいずれかに該当する者があること。
  イ 禁錮以上の刑に処せられ、又はこの法律の規定により罰金の刑に処せられ、その執行を終わり、 又はその執行を受けることがなくなった日から二年を経過しない者
  ロ 第二十七条第二項の規定による命令により解任され、その解任の日から二年を経過しない者
3 国土交通大臣及び文部科学大臣は、第一項の規定による指定をしたときは、当該指定を受けた者(以下「指定法人」という。)の 名称、住所及び事務所の所在地を公示しなければならない。
4 指定法人は、その名称、住所又は事務所の所在地を変更しようとするときは、あらかじめ、 その旨を国土交通大臣及び文部科学大臣に届け出なければならない。
5 国土交通大臣及び文部科学大臣は、前項の規定による届出があったときは、当該届出に係る事項を公示しなければならない。
(業務)
第二十一条 指定法人は、次に掲げる業務を行うものとする。
 一 第九条第一項の規定による委託を受けて民族共生象徴空間構成施設の管理を行うこと。
 二 アイヌ文化を継承する者の育成その他のアイヌ文化の振興に関する業務を行うこと。
 三 アイヌの伝統等に関する広報活動その他のアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発を行うこと。
 四 アイヌ文化の振興等に資する調査研究を行うこと。
 五 アイヌ文化の振興、アイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発又はアイヌ文化の振興等に資する調査研究を行う者に対して、 助言、助成その他の援助を行うこと。
 六 前各号に掲げるもののほか、アイヌ文化の振興等を図るために必要な業務を行うこと。
(民族共生象徴空間構成施設管理業務規程)
第二十二条 指定法人は、前条第一号に掲げる業務(以下「民族共生象徴空間構成施設管理業務」という。) に関する規程(以下「民族共生象徴空間構成施設管理業務規程」という。)を定め、国土交通大臣及び文部科学大臣の認可を受けなければならない。 これを変更しようとするときも、同様とする。
2 民族共生象徴空間構成施設管理業務規程には、民族共生象徴空間構成施設管理業務の実施の方法、 民族共生象徴空間構成施設の入場料等その他の国土交通省令・文部科学省令で定める事項を定めておかなければならない。
3 国土交通大臣及び文部科学大臣は、第一項の認可をした民族共生象徴空間構成施設管理業務規程が 民族共生象徴空間構成施設管理業務の適正かつ確実な実施上不適当となったと認めるときは、指定法人に対し、 これを変更すべきことを命ずることができる。
(事業計画等)
第二十三条 指定法人は、毎事業年度、事業計画書及び収支予算書を作成し、当該事業年度の開始前に (第二十条第一項の規定による指定を受けた日の属する事業年度にあっては、その指定を受けた後遅滞なく) 、国土交通大臣及び文部科学大臣の認可を受けなければならない。これを変更しようとするときも、同様とする。
2 指定法人は、毎事業年度、事業報告書及び収支決算書を作成し、当該事業年度の終了後三月以内に 国土交通大臣及び文部科学大臣に提出しなければならない。
(区分経理)
第二十四条 指定法人は、国土交通省令・文部科学省令で定めるところにより、 民族共生象徴空間構成施設管理業務に関する経理と民族共生象徴空間構成施設管理業務以外の業務に関する経理とを区分して整理しなければならない。
(国派遣職員に係る特例)
第二十五条 国家公務員法(昭和二十二年法律第百二十号)第百六条の二第三項に規定する退職手当通算法人には、指定法人を含むものとする。
2 国派遣職員(国家公務員法第二条に規定する一般職に属する職員が、任命権者又はその委任を受けた者の要請に応じ、指定法人の職員 (常時勤務に服することを要しない者を除き、第二十一条に規定する業務に従事する者に限る。以下この項において同じ。)となるため退職し、 引き続いて当該指定法人の職員となり、引き続き当該指定法人の職員として在職している場合における当該指定法人の職員をいう。 次項において同じ。)は、国家公務員退職手当法(昭和二十八年法律第百八十二号)第七条の二及び第二十条第三項の規定の適用については、 同法第七条の二第一項に規定する公庫等職員とみなす。
3 指定法人又は国派遣職員は、国家公務員共済組合法(昭和三十三年法律第百二十八号) 第百二十四条の二の規定の適用については、それぞれ同条第一項に規定する公庫等又は公庫等職員とみなす。
(職員の派遣等についての配慮)
第二十六条 前条に規定するもののほか、国は、指定法人が行う第二十一条に規定する業務の適正かつ確実な遂行を図るため 必要があると認めるときは、職員の派遣その他の適当と認める人的援助について必要な配慮を加えるよう努めるものとする。
(役員の選任及び解任)
第二十七条 指定法人の第二十一条に規定する業務に従事する役員の選任及び解任は、 国土交通大臣及び文部科学大臣の認可を受けなければ、その効力を生じない。
2 国土交通大臣及び文部科学大臣は、指定法人の第二十一条に規定する業務に従事する役員が、 この法律若しくはこの法律に基づく命令若しくはこれらに基づく処分若しくは民族共生象徴空間構成施設管理業務規程に 違反する行為をしたとき、同条に規定する業務に関し著しく不適当な行為をしたとき、 又はその在任により指定法人が第二十条第二項第三号に該当することとなるときは、指定法人に対し、 その役員を解任すべきことを命ずることができる。
(報告の徴収及び立入検査)
第二十八条 国土交通大臣及び文部科学大臣は、この法律の施行に必要な限度において、 指定法人に対し、その業務に関し報告をさせ、又はその職員に、指定法人の事務所に立ち入り、業務の状況若しくは帳簿、 書類その他の物件を検査させ、若しくは関係者に質問させることができる。
2 前項の規定により立入検査をする職員は、その身分を示す証明書を携帯し、関係者の請求があったときは、これを提示しなければならない。
3 第一項の規定による立入検査の権限は、犯罪捜査のために認められたものと解してはならない。(監督命令)
第二十九条 国土交通大臣及び文部科学大臣は、この法律を施行するため必要があると認めるときは、 指定法人に対し、第二十一条に規定する業務に関し監督上必要な命令をすることができる。
(指定の取消し等)
第三十条 国土交通大臣及び文部科学大臣は、指定法人が次の各号のいずれかに該当するときは、 第二十条第一項の規定による指定を取り消すことができる。
 一 この法律又はこの法律に基づく命令に違反したとき。
 二 第二十一条に規定する業務を適正かつ確実に実施することができないおそれがある者となったとき。
 三 第二十二条第一項の規定により認可を受けた民族共生象徴空間構成施設管理業務規程によらないで 民族共生象徴空間構成施設管理業務を行ったとき。
 四 第二十二条第三項、第二十七条第二項又は前条の規定による命令に違反したとき。
 五 不当に民族共生象徴空間構成施設管理業務を実施しなかったとき。
2 国土交通大臣及び文部科学大臣は、前項の規定により第二十条第一項の規定による指定を取り消したときは、その旨を公示しなければならない。
(指定を取り消した場合における経過措置)
第三十一条 前条第一項の規定により第二十条第一項の規定による指定を取り消した場合において、 国土交通大臣及び文部科学大臣がその取消し後に新たに指定法人を指定したときは、 取消しに係る指定法人の民族共生象徴空間構成施設管理業務に係る財産は、新たに指定を受けた指定法人に帰属する。
2 前項に定めるもののほか、前条第一項の規定により第二十条第一項の規定による指定を取り消した場合における 民族共生象徴空間構成施設管理業務に係る財産の管理その他所要の経過措置(罰則に関する経過措置を含む。)は、 合理的に必要と判断される範囲内において、政令で定めることができる。
第七章 アイヌ政策推進本部
(設置)
第三十二条 アイヌ施策を総合的かつ効果的に推進するため、内閣に、アイヌ政策推進本部(以下「本部」という。)を置く。
(所掌事務)
第三十三条 本部は、次に掲げる事務をつかさどる。
 一 基本方針の案の作成に関すること。
 二 基本方針の実施を推進すること。
 三 前二号に掲げるもののほか、アイヌ施策で重要なものの企画及び立案並びに総合調整に関すること。
(組織)
第三十四条 本部は、アイヌ政策推進本部長、アイヌ政策推進副本部長及びアイヌ政策推進本部員をもって組織する。
(アイヌ政策推進本部長)
第三十五条 本部の長は、アイヌ政策推進本部長(以下「本部長」という。)とし、内閣官房長官をもって充てる。
2 本部長は、本部の事務を総括し、所部の職員を指揮監督する。
(アイヌ政策推進副本部長)
第三十六条 本部に、アイヌ政策推進副本部長(次項及び次条第二項において「副本部長」という。)を置き、国務大臣をもって充てる。
2 副本部長は、本部長の職務を助ける。
(アイヌ政策推進本部員)
第三十七条 本部に、アイヌ政策推進本部員(次項において「本部員」という。)を置く。
2 本部員は、次に掲げる者(第一号から第八号までに掲げる者にあっては、副本部長に充てられたものを除く。)をもって充てる。
 一 法務大臣
 二 外務大臣
 三 文部科学大臣
 四 厚生労働大臣
 五 農林水産大臣
 六 経済産業大臣
 七 国土交通大臣
 八 環境大臣
 九 前各号に掲げる者のほか、本部長及び副本部長以外の国務大臣のうちから、 本部の所掌事務を遂行するために特に必要があると認める者として内閣総理大臣が指定する者
(資料の提出その他の協力)
第三十八条 本部は、その所掌事務を遂行するため必要があると認めるときは、関係行政機関、地方公共団体、 独立行政法人(独立行政法人通則法(平成十一年法律第百三号)第二条第一項に規定する独立行政法人をいう。) 及び地方独立行政法人(地方独立行政法人法(平成十五年法律第百十八号)第二条第一項に規定する地方独立行政法人をいう。) の長並びに特殊法人(法律により直接に設立された法人又は特別の法律により特別の設立行為をもって設立された法人であって、 総務省設置法(平成十一年法律第九十一号)第四条第一項第九号の規定の適用を受けるものをいう。)の代表者に対して、 資料の提出、意見の表明、説明その他必要な協力を求めることができる。
2 本部は、その所掌事務を遂行するため特に必要があると認めるときは、前項に規定する者以外の者に対しても、必要な協力を依頼することができる。
(事務)
第三十九条 本部に関する事務は、内閣官房において処理し、命を受けて内閣官房副長官補が掌理する。
内閣官房アイヌ総合政策室を見てください。)
(主任の大臣)
第四十条 本部に係る事項については、内閣法(昭和二十二年法律第五号)にいう主任の大臣は、内閣総理大臣とする。
(政令への委任)
第四十一条 この法律に定めるもののほか、本部に関し必要な事項は、政令で定める。
第八章 雑則
(権限の委任)
第四十二条 この法律に規定する国土交通大臣の権限は、国土交通省令で定めるところにより、その一部を北海道開発局長に委任することができる。
2 第十六条の規定による農林水産大臣の権限は、農林水産省令で定めるところにより、その一部を森林管理局長に委任することができる。
3 前項の規定により森林管理局長に委任された権限は、農林水産省令で定めるところにより、森林管理署長に委任することができる。
(命令への委任)
第四十三条 この法律に定めるもののほか、この法律の実施のため必要な事項は、命令で定める。
(罰則)
第四十四条 第二十八条第一項の規定による報告をせず、若しくは虚偽の報告をし、又は同項の規定による検査を拒み、妨げ、 若しくは忌避し、若しくは同項の規定による質問に対して陳述せず、若しくは虚偽の陳述をした者は、三十万円以下の罰金に処する。
2 法人の代表者又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務に関し、 前項の違反行為をしたときは、行為者を罰するほか、その法人又は人に対して同項の刑を科する。
第四十五条 第二十九条の規定による命令に違反した者は、五十万円以下の過料に処する。
附則
(施行期日)
第一条 この法律は、公布の日から起算して一月を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。 ただし、附則第四条及び第八条の規定は、公布の日から施行する。
(アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律の廃止)
第二条 アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(平成九年法律第五十二号)は、廃止する。
(アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律の廃止に伴う経過措置)
第三条 前条の規定の施行前にした行為に対する罰則の適用については、なお従前の例による。
(準備行為)
第四条 第二十条第一項の規定による指定を受けようとする者は、この法律の施行前においても、その申請を行うことができる。
(漁業法等の一部を改正する等の法律の一部改正)
第五条 漁業法等の一部を改正する等の法律(平成三十年法律第九十五号)の一部を次のように改正する。
附則に次の一条を加える。
(アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律の一部改正)
第八十条 アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(平成三十一年法律第 号)の一部を次のように改正する。
第十条第五項中「第八条第三項」を「第六十条第五項第五号」に改める。
第十七条中「第六十五条第一項」を「第百十九条第一項」に、「第四条第一項若しくは第二項」を「第四条第一項」に改める。
(内閣府設置法の一部改正)
第六条 内閣府設置法(平成十一年法律第八十九号)の一部を次のように改正する。
第四条第三項第五十四号の四の次に次の一号を加える。
五十四の五アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(平成三十一年法律第 号) 第十条第一項に規定するアイヌ施策推進地域計画の認定に関すること及び同法第十五条第一項の交付金に関すること。
(国土交通省設置法の一部改正)
第七条 国土交通省設置法(平成十一年法律第百号)の一部を次のように改正する。
第三十三条第一項第二号中「第三十四号まで」の下に「、第四十二号」を加える。
(政令への委任)
第八条 附則第三条及び第四条に定めるもののほか、この法律の施行に関し必要な経過措置は、政令で定める。
(検討)
第九条 政府は、この法律の施行後五年を経過した場合において、この法律の施行の状況について検討を加え、 必要があると認めるときは、その結果に基づいて所要の措置を講ずるものとする。
理由
 アイヌの伝統及びアイヌ文化が置かれている状況並びに近年における先住民族をめぐる国際情勢に鑑み、 アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するため、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発 並びにこれらに資する環境の整備に関する施策の推進に関し、基本理念、国等の責務、政府による基本方針の策定、 民族共生象徴空間構成施設の管理に関する措置、市町村によるアイヌ施策推進地域計画の作成及びその内閣総理大臣による認定、 当該認定を受けたアイヌ施策推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置、アイヌ政策推進本部の設置等 について定める必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。

第198回国会閣法第24号 附帯決議
アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律案に対する附帯決議
 政府は、本法の施行に当たっては、次の諸点に留意し、その運用について遺漏なきを期すべきである。
一 「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の趣旨を踏まえ、並びに過去の国会決議及び本法に基づき、 アイヌ施策を推進するに当たっては、我が国が近代化する過程において多くのアイヌの人々が苦難を受けたという歴史的事実を厳粛に受け止め、 アイヌの人々の自主性を尊重し、その意向が十分反映されるよう努めること。
二 アイヌ文化の振興等に資する環境の整備に関する施策の推進に当たっては、 アイヌの人々の実態等の把握に努めるとともに、国、地方公共団体等の連携の強化を図ること。
三 アイヌの人々に対する差別を根絶し、アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と共生社会の実現を図るため、 アイヌに関する教育の充実に向けた取組を推進すること。
四 アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と我が国の多様な生活文化の発展を図るため、 アイヌの人々の生活支援及び教育支援に資する事業や、存続の危機にあるアイヌ語の復興に向けた取組、 アイヌ文化の振興等の充実に今後とも一層努めるとともに、アイヌの人々が北海道のみならず全国において生活していることを踏まえて、 北海道外に居住するアイヌの人々を対象とする施策の充実に努めること。

五 本法に基づく措置、とりわけ交付金制度については、本法の目的に沿ってアイヌ施策を適正かつ効率的に推進するため、 制度の適切な運用を図ること。
六 本法において特例措置が設けられる認定アイヌ施策推進地域計画に係る地域団体商標の取得を契機に、 アイヌ文化のブランド化の確立など産業振興を図るために、交付金制度の活用や国等からのノウハウの提供等により、 アイヌの人々の自立を最大限支援すること。
七 内水面におけるさけの採捕や国有林野における林産物の採取といった本法の特例措置に関し、 アイヌにおいて継承されてきた儀式の保存又は継承等を事業の目的とする趣旨に鑑み、 関係機関と緊密な連携の下、アイヌの人々の視点に立ち、制度の円滑な運用に努めること。
八 民族共生象徴空間への来場により国内外におけるアイヌの伝統等に関する理解の促進が一層図られるよう、 広報活動やアクセスの改善等を図ること。また、民族共生象徴空間に関し、適切な運営が図られるよう指定法人に対する指導監督に努めること。

アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律案に対する附 帯決議
平成三十一年四月十八日
参議院国土交通委員会
政府は、本法の施行に当たり、次の諸点について適切な措置を講じ、その運用に万全を期すべきである。

一過去の国会決議や本法等に基づくアイヌ施策を推進するに当たっては、我が国が近代化する過程におい て多くのアイヌの人々が苦難を受けたという歴史的事実を厳粛に受け止め、アイヌの人々の自主性を尊重 し、その意向が十分反映されるよう努めること。
二「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の趣旨を踏まえるとともに、我が国のアイヌ政策に係る国連 人権条約監視機関による勧告や、諸外国における先住民族政策の状況にも留意し、アイヌの人々に関する 施策の更なる検討に努めること。
三アイヌ文化の振興等に資する環境の整備に関する施策の推進に当たっては、アイヌの人々の実態等の把 握に努めるとともに、国、地方公共団体等の連携の強化を図ること。
四アイヌの人々に対する差別を根絶し、アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と共生社会の実現を図る ため、アイヌに関する教育並びにアイヌへの理解を深めるための啓発及び広報活動の充実に向けた取組を 推進すること。あわせて、本法第四条の規定を踏まえ、不当な差別的言動の解消に向けた実効性のある具 体的措置を講ずること。
五アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と我が国の多様な生活文化の発展を図るため、アイヌの人々の 生活支援及び教育支援に資する事業や、存続の危機にあるアイヌ語の復興に向けた取組、アイヌ文化の振 興等の充実に今後とも一層努めるとともに、アイヌの人々が北海道のみならず全国において生活している ことを踏まえて、北海道外に居住するアイヌの人々を対象とする施策の充実に努めること。

六本法に基づく措置、とりわけ交付金制度については、本法の目的に沿ってアイヌ施策を適正かつ効率的 に推進するため、制度の適切な運用を図ること。あわせて、市町村によるアイヌ施策推進地域計画の作成 に当たり、アイヌの人々の要望等が十分に反映されるよう、適切な指導を行うこと。
七本法において特例措置が設けられる認定アイヌ施策推進地域計画に係る地域団体商標の取得を契機に、 アイヌ文化のブランド化の確立や販路拡大などの産業振興を図るため、交付金制度の活用や国等からのノ ウハウの提供等により、アイヌの人々の自立を最大限支援すること。
八内水面におけるさけの採捕や国有林野における林産物の採取といった本法の特例措置に関し、アイヌに おいて継承されてきた儀式の保存又は継承等を事業の目的とする趣旨に鑑み、関係機関との緊密な連携の 下、アイヌの人々の視点に立ち、制度の円滑な運用に努めること。
九国内外においてアイヌの伝統等に関する理解が一層深まるよう、民族共生象徴空間への誘客促進に向け た広報活動やアクセスの改善等を図ること。また、民族共生象徴空間に関し、適切な運営が図られるよ う、指定法人に対する指導監督に努めること。
十本法の施行後、本法の施行状況について適時適切に検討を行い、その結果に基づき得られた課題に関し、 必要な措置を講ずること。なお、その際にはアイヌの人々の意見を十分踏まえること。
右決議する。

▼上記
「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」 に対する私の考えは 2019.5.14朝日新聞朝刊「私の視点」に掲載されたテッサ・モーリス=スズキ豪国立大学名誉教授と基本は同じです。この法律は条文の多さに比べて 中身が、先住民族の先住権が、空っぽです。50年前の1969年に成立した、同じく日本のマイノリティーの被差別部落への同和対策の特別措置法はたった11条でした。 しかしその法律の下で33年間で15兆円もの事業が行われました。今回の「アイヌ施策推進法」は建築でいえば 門構えは立派ですが中身は空疎との印象です。2008年9月17日第2回「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」 でのアイヌ協会加藤理事長発言と比較してみてください。 (2019.5.14)
▼「アイヌ施策推進法」もう一度じっくり読んでみました。評価できる点をピックアップします。(2020.5.5)
(基本理念)
●第三条 アイヌ施策の推進は、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重されるよう、 アイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統等並びに我が国を含む国際社会において重要な課題である 多様な民族の共生及び多様な文化の発展についての国民の理解を深めることを旨として、行われなければならない。
2 アイヌ施策の推進は、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができるよう、 アイヌの人々の自発的意思の尊重に配慮しつつ、行われなければならない。
3 アイヌ施策の推進は、国、地方公共団体その他の関係する者の相互の密接な連携を図りつつ、 アイヌの人々が北海道のみならず全国において生活していることを踏まえて全国的な視点に立って行われなければならない。
●第四条 何人も、アイヌの人々に対して、アイヌであることを理由として、 差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。
(国及び地方公共団体の責務)
●第五条 国及び地方公共団体は、前二条に定める基本理念にのっとり、アイヌ施策を策定し、及び実施する責務を有する。
2 国及び地方公共団体は、アイヌ文化を継承する者の育成について適切な措置を講ずるよう努めなければならない。
3 国及び地方公共団体は、教育活動、広報活動その他の活動を通じて、アイヌに関し、国民の理解を深めるよう努めなければならない。
4 国は、アイヌ文化の振興等に資する調査研究を推進するよう努めるとともに、地方公共団体が実施するアイヌ施策を推進するために 必要な助言その他の措置を講ずるよう努めなければならない。
(国民の努力)
●第六条 国民は、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される 社会の実現に寄与するよう努めるものとする。
●第七条3 内閣総理大臣は、アイヌ政策推進本部が作成した基本方針の案について閣議の決定を求めなければならない。
●第十条4 第二項第二号(ニを除く。)に規定する事業に関する事項には、アイヌにおいて継承されてきた儀式の実施 その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物を国有林野において採取する事業に関する事項を記載することができる。
●第十条5 前項に定めるもののほか、第二項第二号(ニを除く。)に規定する事業に関する事項には、アイヌにおいて継承されてきた 儀式若しくは漁法(以下この項において「儀式等」という。)の保存若しくは継承又は儀式等に関する知識の普及及び啓発に 利用するためのさけを内水面(漁業法(昭和二十四年法律第二百六十七号)第八条第三項に規定する内水面をいう。)において 採捕する事業(以下この条及び第十七条において「内水面さけ採捕事業」という。)に関する事項を記載することができる。 この場合においては、内水面さけ採捕事業ごとに、当該内水面さけ採捕事業を実施する区域を記載するものとする。
●(国有林野における共用林野の設定)
第十六条 農林水産大臣は、国有林野の経営と認定市町村(第十条第四項に規定する事項を記載した 認定アイヌ施策推進地域計画を作成した市町村に限る。以下この項において同じ。)の住民の利用とを調整することが 土地利用の高度化を図るため必要であると認めるときは、契約により、当該認定市町村の住民又は当該認定市町村内の 一定の区域に住所を有する者に対し、これらの者が同条第四項の規定により記載された事項に係る国有林野を アイヌにおいて継承されてきた儀式の実施その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物の採取に共同して使用する権利を 取得させることができる。
2 前項の契約は、国有林野の管理経営に関する法律第十八条第三項に規定する共用林野契約とみなして、 同法第五章(同条第一項及び第二項を除く。)の規定を適用する。この場合において、 同条第三項本文中「第一項」とあるのは 「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(平成三十一年法律第号)第十六条第一項」と、 「市町村」とあるのは「認定市町村(同法第十二条第一項に規定する認定市町村をいう。以下同じ。)」と、 同項ただし書並びに同法第十九条第五号、第二十二条第一項及び第二十四条中「市町村」とあるのは「認定市町村」と、 同法第十八条第四項中「第一項」とあり、及び同法第二十一条の二中「第十八条」とあるのは 「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律第十六条第一項」とする。
(漁業法及び水産資源保護法による許可についての配慮)
●第十七条 農林水産大臣又は都道府県知事は、認定アイヌ施策推進地域計画に記載された内水面さけ採捕事業の 実施のため漁業法第六十五条第一項若しくは第二項又は水産資源保護法(昭和二十六年法律第三百十三号) 第四条第一項若しくは第二項の規定に基づく農林水産省令又は都道府県の規則の規定による許可が必要とされる場合において、 当該許可を求められたときは、当該内水面さけ採捕事業が円滑に実施されるよう適切な配慮をするものとする。
●(アイヌ政策推進本部長)
第三十五条 本部の長は、アイヌ政策推進本部長(以下「本部長」という。)とし、内閣官房長官をもって充てる。
2 本部長は、本部の事務を総括し、所部の職員を指揮監督する。
●(アイヌ政策推進副本部長)
第三十六条 本部に、アイヌ政策推進副本部長(次項及び次条第二項において「副本部長」という。)を置き、国務大臣をもって充てる。
2 副本部長は、本部長の職務を助ける。
●(アイヌ政策推進本部員)
第三十七条 本部に、アイヌ政策推進本部員(次項において「本部員」という。)を置く。
2 本部員は、次に掲げる者(第一号から第八号までに掲げる者にあっては、副本部長に充てられたものを除く。)をもって充てる。
 一 法務大臣
 二 外務大臣
 三 文部科学大臣
 四 厚生労働大臣
 五 農林水産大臣
 六 経済産業大臣
 七 国土交通大臣
 八 環境大臣
 九 前各号に掲げる者のほか、本部長及び副本部長以外の国務大臣のうちから、 本部の所掌事務を遂行するために特に必要があると認める者として内閣総理大臣が指定する者
●付則(検討)
第九条 政府は、この法律の施行後五年を経過した場合において、この法律の施行の状況について検討を加え、 必要があると認めるときは、その結果に基づいて所要の措置を講ずるものとする。
●第198回国会閣法第24号 附帯決議
アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律案に対する附帯決議
 政府は、本法の施行に当たっては、次の諸点に留意し、その運用について遺漏なきを期すべきである。
一 「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の趣旨を踏まえ、並びに過去の国会決議及び本法に基づき、 アイヌ施策を推進するに当たっては、我が国が近代化する過程において多くのアイヌの人々が苦難を受けたという歴史的事実を厳粛に受け止め、 アイヌの人々の自主性を尊重し、その意向が十分反映されるよう努めること。
二 アイヌ文化の振興等に資する環境の整備に関する施策の推進に当たっては、 アイヌの人々の実態等の把握に努めるとともに、国、地方公共団体等の連携の強化を図ること。
三 アイヌの人々に対する差別を根絶し、アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と共生社会の実現を図るため、 アイヌに関する教育の充実に向けた取組を推進すること。
四 アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と我が国の多様な生活文化の発展を図るため、 アイヌの人々の生活支援及び教育支援に資する事業や、存続の危機にあるアイヌ語の復興に向けた取組、 アイヌ文化の振興等の充実に今後とも一層努めるとともに、アイヌの人々が北海道のみならず全国において生活していることを踏まえて、 北海道外に居住するアイヌの人々を対象とする施策の充実に努めること。
七 内水面におけるさけの採捕や国有林野における林産物の採取といった本法の特例措置に関し、 アイヌにおいて継承されてきた儀式の保存又は継承等を事業の目的とする趣旨に鑑み、 関係機関と緊密な連携の下、アイヌの人々の視点に立ち、制度の円滑な運用に努めること。
● アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律案に対する附 帯決議
平成三十一年四月十八日
参議院国土交通委員会
政府は、本法の施行に当たり、次の諸点について適切な措置を講じ、その運用に万全を期すべきである。
一過去の国会決議や本法等に基づくアイヌ施策を推進するに当たっては、我が国が近代化する過程におい て多くのアイヌの人々が苦難を受けたという歴史的事実を厳粛に受け止め、アイヌの人々の自主性を尊重 し、その意向が十分反映されるよう努めること。
二「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の趣旨を踏まえるとともに、我が国のアイヌ政策に係る国連 人権条約監視機関による勧告や、諸外国における先住民族政策の状況にも留意し、アイヌの人々に関する 施策の更なる検討に努めること。
三アイヌ文化の振興等に資する環境の整備に関する施策の推進に当たっては、アイヌの人々の実態等の把 握に努めるとともに、国、地方公共団体等の連携の強化を図ること。
四アイヌの人々に対する差別を根絶し、アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と共生社会の実現を図る ため、アイヌに関する教育並びにアイヌへの理解を深めるための啓発及び広報活動の充実に向けた取組を 推進すること。あわせて、本法第四条の規定を踏まえ、不当な差別的言動の解消に向けた実効性のある具 体的措置を講ずること。
五アイヌの人々の民族としての誇りの尊重と我が国の多様な生活文化の発展を図るため、アイヌの人々の 生活支援及び教育支援に資する事業や、存続の危機にあるアイヌ語の復興に向けた取組、アイヌ文化の振 興等の充実に今後とも一層努めるとともに、アイヌの人々が北海道のみならず全国において生活している ことを踏まえて、北海道外に居住するアイヌの人々を対象とする施策の充実に努めること。

▼上記のようにピックアップしました。
基本理念、差別禁止、国及び地方自治体の責務、国民の努力、内閣総理大臣の責任、アイヌ民族の儀式に必要な 林野、内水面の利用、内閣官房長官をトップとした政策推進本部の設置、5年のちの検討、 附帯決議のなかでの「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の趣旨を踏まえること、我が国のアイヌ政策に係る国連 人権条約監視機関による勧告や、諸外国における先住民族政策の状況にも留意し、アイヌの人々に関する 施策の更なる検討に努めることの確認、
といった肯定的な内容も織り込まれています。
これらを活用しながら今後、先住権(土地・資源・自治)の内容を取り込んでいくように運動を進めていくことだとおもいます。
昨夜解放同盟の大賀さんに1時間半「同対審」答申の評価に関する運動の歴史をうかがいました。それを踏まえての今朝の作業でした。(2020.5.6)

▼今日、2019.6.15明治学院大学で「先住民の声は届いたか」をテーマとするシンポジウムが開かれました。副題が先住権なき「アイヌ新法」と書かれているように 今回の「新法」はアイヌの人たちに厳しい受け止めがなされています。 会場にはテッサ・モーリス=スズキさんの姿もありました。
わたしが特にこころを惹かれたのは 葛野次雄(くずのつぐお)さんの、ご先祖の遺骨返還を求めるアイヌ語の詩です。
イホッパ シンリツ シサム エシカ オルシペ ウタリ アネカンホク クニ
(亡くなったご先祖を和人が盗んだ話 同胞を我々が迎えるために)。
聞き終えると悲しくなりました。 日本語訳を紹介します。

昔から
たくさんの和人たちが
この尊い北海道に
やってきてよくよく生活していた
アイヌたちを消すために
(様々なことを)したせいで
山猟も
漁業も
他、風習も自分らしく生きることも
出来なくなりました。

じいさん方、ばあさん方が、
和人たちをひどく苦しめたことが
何かあったでしょうか?
和人たちも
ヤイサマ 城野口ユリフチが伝承した唄
私のコタン
私のコタン
私のコタン
私のコタン

お母さんのそばへ
お父さんのそばへ
お母さんのそばへ
お父さんのそばへ
お母さんのそばへ

海をこえて
山をこえて
海をこえて
山をこえて
海をこえて

鳥のように羽があったら飛んでいきたい
鳥のように羽があったら飛んでいきたい
鳥のように羽があったら飛んでいきたい
鳥のように羽があったら飛んでいきたい
鳥のように羽があったら飛んでいきたい

カラスよ
鳥の神よ
パスクルカムイよ
パスクルカムイよ
私の言葉をコタンの父母に伝えてください

私の言葉をコタンの父母に伝えてください
私の言葉をコタンの父母に伝えてください
私の言葉をコタンの父母に伝えてください
私の言葉をコタンの父母に伝えてください
私の言葉をコタンの父母に伝えてください


同じようにただ住んでいたのに
アイヌたちだけが
静かに穏やかに
土の中で
休んでいた
亡くなった祖先を
村から他人に掘り起こされて
研究され、そうして
村へ帰ることも出来ません
骨も身体も無いので
蘇ることも出来ません
和人たちは
我々に謝ることも無く、
アイヌたちだけが
我慢しているのが現状だ

お金も謝罪も
無くたって、石の墓標の代わりに
我々はアイヌのやり方で墓標を作って
立てているから
ご先祖たちを
我々の村へ返して
下さい。

▼パネリストの発言でこころに残っていますのは宇梶静江さんの 「首から上だけで考えないでください。足を大地につけてからだ全体で考えてください。」 とのことばです。このことばを何度も何度もおっしゃっていました。
遺骨返還について「魂が成就できません。」と、訴えておられた。今日はさながら掘り返され、持ち去られ、 研究室に眠るアイヌの先祖の人たちの慰霊祭のように感じました。
「新法」に関して新井かおりさんの 「第四条 何人も、アイヌの人々に対して、アイヌであることを理由として、 差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。」 は「ヘイトスピーチ解消法」よりも一歩踏み込んでいる、との指摘はハットしました。(2019.6.15)

2020.5.28朝日新聞朝刊 「大きな動きをつくろう」
私にはこの言葉はアイヌモシリ回復訴訟の提起と聞こえています。(2020.5.30)
2020.8.22朝日朝刊
▼左は詩人・アイヌ文化伝承者宇梶静江さん(87歳)
上京したのは23歳。自分からアイヌであることを明らかにするような発言や態度はとったことはありませんでした。群衆の中に紛れ込んでいられるのであれば 、それに越したことはないという思いがありました。
(民族の団結を呼びかけるメッセージを投稿)私の内なる「アイヌ」が臨界点に達していたのでしょう。周囲の反応は冷たかった。せっかく東京に 来たのだから放っておいてほしいなどと言われた。(サケ捕獲で官庁と対立)サケは「カムイチェプ」と呼ばれる神の魚。捕獲は「先住民族アイヌの 権利」です。先住民族の権利は国際人権規約などで認められていることを、いま一度思い起してほしいと心から願っています。 ▼先住権に基づいた裁判を準備中です。まもなく宇梶さんのお考え通りの裁判になると思います。(2020.10.8)

2019.6.8朝日新聞
▼なぜこの記事が私の注意を惹いたかと申しますと、「現代産婦人科の父」と呼ばれるシムズ像が撤去されたからです。85年前の1934年から ニューヨーク・マンハッタンのセントラルパークにあったようです。
シムズは奴隷貿易の中心地、アラバマ州モンゴメリーで開業し、奴隷の黒人女性の体を治療法の実験(麻酔なしの手術17歳に30回)に使っていたとのことです。 住民からの要望を受けて、ニューヨーク市の委員会はシムズの墓があるブルックリンの墓地に像を移設するよう勧告し、実行された(2018.4.17)、とのことです。 このような歴史の見直しはアイヌ民族の問題でもこれから日本で行われなければならないとおもう。(2019.7.8)

2019.11.25解放新聞

2018.11.26解放新聞
古い切り抜きから見つけました。島田さんの寄稿文はおだやかでほんのりしました。2018年が7回目だそうです。(2020.11.4)
▼右は解放新聞に寄せられた島田あけみさんの投稿記事です。その中からアイヌ語研究者中川裕先生の話を紹介します。
「人間と動物の関係は、人間が動物を殺してその肉を食べるという一方的な関係ではなく 動物の命が人間の命に置き換わる、そういう形で人間も含めて生きものたちが相互に支え合って生きている。」
▼この思想はアイヌの人たちのものでもあります。
チャシ アン カラ(自分たちでつくった砦)の会(代表島田あけみ)は、 東京にアイヌの集いの場をめざしています。
▼応援していきたいです。(2020.1.18)
2020.1.4朝日新聞朝刊

▼左の朝日新聞。オーストラリアの先住民(アボリジナルピープル)の記事です。 「1788年に英国の入植が始まったころ、オーストラリア大陸には推計75万人の先住民が暮らしていた。
1920年代には推計7万人まで減った。先住民は「死に絶える人々」とされ、当局はその生活を居留地に制限して、文化の継承を否定。
同時に白人との同化を進めようと、子どもたちを、親元から引き離して施設に居れたり、白人家庭の養子にしたりした。
2016年の国勢調査で先住民は約65万人で全人口の2.8%。」

▼写真はオペラ歌手のデボラ・チータムさん。2018年合唱歌「平和のための戦争鎮魂歌」を発表。テーマは、19世紀半ば、入植者 との衝突で数千人の先住民が犠牲になった事件。「多様性の力があれば、私たちは価値ある地球市民になれる。私は音楽を通じて、そんな理解を広めて いきたい。音楽は真実を伝え、人々の心を開くから」
▼いまや日本社会も単一民族ではない。チータムさんのことばが力強く響く。(2020.1.20)


▼右は『現代の理論』2018春号の表紙とそこに掲載されたアイヌアートプロジェクトの結城幸司さんがピースボートで「アイヌ民族の歴史と文化を 日本人の常識にしたい」のタイトルで講演された内容です。抜粋します。

「道東出身の私にとって北方諸島の問題は、未だ焦点の合わない近代のアイヌの歴史として 合点いっていないのが正直なところです。」
「北海道の植民地化という歴史が国内であっても一般常識とされていない故に、…国からの正式コメントや謝罪もありません。ましてや 『北方領土は日本の領土です』などと近代の歴史をアイヌ側からはまるで明かさない日本のあり方も違和感だらけであります。」
「クナシリメナシの戦い、この異民族同士の戦いがどの戦争よりも先に明確に歴史に刻まれて然り、そこから北海道が日本に植民地に されていったと歴史を語って欲しいですね。」

「私は釧路出身で、祖母は北方諸島の人、祖父結城庄太郎はメナシウンクル(道東のアイヌ)。1789年にクナシリメナシの戦いがあった。 場所請負制度のもと若いアイヌは和人商人から奴隷のように扱われ、コタンに帰ることも許されず、コタンでは和人によるレイプも頻発した。 やむにやまれず10代の若いアイヌたちが蜂起し172人の和人を殺した。
皆殺しの報復を恐れた若者たちは、エカシたちに何とかしてくれ、と相談する。 このエカシたちは蠣崎波響の絵画「夷酋列像」で知られる。
交易で稼ぐエカシたちは蜂起に賛同せず、38名が松前軍の前に差し出された。命までは奪わない という話のはずが、若者たちは一人一人耳を削がれ、最後には殺されてしまった。このときアイヌは「ペウタンケ」(危急の声)を発し、恐怖した 松前軍は太鼓を鳴らしてその声をかき消したという。松前にある耳塚はこの時のもの。」

「根室半島のノッカマップで、毎年9月に犠牲者を弔うイチャルパ(供養の儀式)が行われる。そこではペウタンケが再現される。 私の父・庄司この儀式をはじめた。沈黙を強いられ苦しみ 涙してきた世代のアイヌに対して、国による謝罪が必要だ。それがないとアイヌ民族の歴史と文化がこの国の常識にならない。」

「先住民族サミットなどで土地権や自治権をアピールしてきたが、政府は聞き入れていない。アイヌ政策推進会議の常本照樹氏(北海道大学教授)は海外で「アイヌは 先住権を欲しがらないユニークな人たちだ」と講演するような状態で問題がある。」
朝日夕刊2020.10.16

▼私が今日までアイヌ民族について勉強してきて自分自身の感情感覚としてきたものと結城さんの感情感覚がぴったり一致していることを 確認できてほっとしています。 私も結城さんと同じ考えで日本社会に対しアイヌ民族の土地権と自治権に関して言挙げの準備をしているところです。(2020.2.2)
▼右の映画「アイヌモシリ」。「国境を超え誰もが共振できる普遍性を持つ」と林瑞絵・映画ジャーナリスト。監督はNYを拠点に活動してきた福永壮志さん。 やはり女性ジャーナリストの視点はいいですね。監督はNYを拠点に活動してき福永さん。さすがです。これからの時代を象徴しています。(2020.10.17)



                  アイヌモシリ回復訴訟の準備

▼いよいよ今日からアイヌモシリ回復訴訟に向けた準備に入ります。これまで勉強してきたことを元に何を、どのように裁判で訴えていくべきか、 私なりに整理しておきたいと思います。(2020.6.4)

目次
T 野村義一理事長の国連演説(1992年)から
U アイヌ民族の一致した綱領「アイヌ民族に関する法律(案)」(1984(S59)年)
V 萱野茂さんのことば
W アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会  加藤理事長発言(2008年(H20)9月17日第2回)
X 国連「先住民族権利宣言」からの抜粋
Y 「二風谷ダム判決」(1997年(H9)3月27日)
Z  第五回帝国議会「北海道土人保護法」提案  加藤政之助(1893年(M26))
[ 土地をめぐる少なからずの法的根拠
\ 明治政府の土地政策(アメリカ・モデル)
] 生業(なりわい)破壊
I@ ほろびゆく民族の悲哀
IA 海外の先住民族政策
IB 裁判で獲得を目指す訴訟物


T 1992年の野村義一理事長の国連演説から。
本日12月10日が、北海道、千島列島、樺太南部にはるか昔から独自の社会と文化を形成してきた アイヌ民族の歴史にとっては、特に記念 すべき日となる理由がもう一つ存在します。 すなわち、それは、ほんの6年前の1986年まで、日本政府は私たちの存在そのものを否定し、日本は世界に類例を見ない 「単一民族国家」であることを誇示してきましたが、ここ に、こうして国連によって、私たちの存在がはっきりと認知されたということであります。

19世紀の後半に、「北海道開拓」と呼ばれる大規模開発事業により、アイヌ民族は、一方的に土地を奪われ、強 制的に日本国民とされました。日本政府とロシア政府の国境画定により、私たちの伝統的な領土は分割され、多く の同胞が強制移住を経験しました。

また、日本政府は当初から強力な同化政策を押しつけてきました。こうした同化政策によって、アイヌ民族は、 アイヌ語の使用を禁止され、伝統文化を否定され、経済生活を破壊されて、抑圧と収奪の対象となり、また、深刻 な差別を経験してきました。川で魚を捕れば「密漁」とされ、山で木を切れば「盗伐」とされるなどして、私たちは 先祖伝来の土地で民族として伝統的な生活を続けていくことができなくなったのです。

私たちアイヌ民族は、1988年以来、民族の尊厳と民族の権利を最低限保障する法律の制定を政府に求め ていますが、私たちの権利を先住民族の権利と考えてこなかった日本では、極めて不幸なことに、私たちのこうし た状況についてさえ政府は積極的に検討しようとしないのです。

アイヌ民族は、今日国連で議論されているあらゆる先住民族の権利を、話し合いを通して日本政府に要求するつ もりでおります。これには、「民族自決権」の要求が含まれています。

しかしながら、私たち先住民族が行おうとする「民族自決権」の要求は、国家が懸念する「国民的統一」と「領土の保全」 を脅かすものでは決してありません。 私たちの要求する高度な自治は、私たちの伝統社会が培ってきた「自然との共存および話し合いによる平和」を基 本原則とするものであります。これは、既存の国家と同じものを作ってこれに対決しようとするものではなく、私 たち独自の価値によって、民族の尊厳に満ちた社会を維持・発展させ、諸民族の共存を実現しようとするもので あります。
▼この国連演説を基本に据えたいとおもいます。

U アイヌ民族の一致した綱領。1984(昭和59)年「アイヌ民族に関する法律(案)」
アイヌ民族に関する法律(案)
昭和五十九年五月二十七日   社団法人北海道ウタリ協会総会において可決
「アイヌ民族に関する法律(案)」 を決定した
北海道ウタリ協会総会

(『アイヌ民族の歴史』p563)

前文
この法律は、日本国に固有の文化を持ったアイヌ民族が存在することを認め、 日本国憲法のもとに民族の誇りが尊重され、民族の権利が保障されることを目的とする。

本法を制定する理由
北海道、樺太、千島列島をアイヌモシリ(アイヌの住む大地)として、固有の言語と文化を持ち、共通の経済生活を営み、 独自の歴史を築いた集団がアイヌ民族であり、徳川幕府や松前藩の非道な侵略や圧迫とたたかいながらも 民族としての自主性を固持してきた。
明治維新によって近代的統一国家への第一歩を踏み出した日本政府は、先住民であるアイヌとの間になんの交渉もなく アイヌモシリ全土を持主なき土地として一方的に領土に組み入れ、 また、帝政ロシアとの間に千島・樺太交換条約を締結して樺太および北千島のアイヌの安住の地を強制的に棄てさせたのである。
土地も森も海もうばわれ、鹿をとれば密猟、鮭をとれば密漁、薪をとれば盗伐とされ、 一方、和人移民が洪水のように流れこみ、すさまじい乱開発が始まり、アイヌ民族はまさに生存そのものを脅かされるにいたった。
アイヌは、給与地にしばられて居住の自由、農業以外の職業を選択する自由をせばめられ、 教育においては民族固有の言語もうばわれ、差別と偏見を基調にした「同化」政策によって民族の尊厳はふみにじられた。
戦後の農地改革はいわゆる旧土人給与地にもおよび、さらに農業近代化政策の波は零細貧農のアイヌを四散させ、 コタンはつぎつぎと崩壊していった。
いま道内に住むアイヌは数万人、道外では数千人といわれる。その多くは、不当な人種的偏見と差別によって 就職の機会均等が保障されず、近代的企業からは締め出されて、潜在失業者群を形成しており、 生活はつねに不安定である。差別は貧困を拡大し、貧困はさらにいっそうの差別を生み、生活環境、 子弟の進学状況などでも格差をひろげているのが現状である。
現在行われているいわゆる北海道ウタリ福祉対策の実態は現行諸制度の寄せ集めにすぎず、 整合性を欠くばかりでなく、何よりもアイヌ民族にたいする国としての責任があいまいにされている。
いま求められているのは、アイヌ民族的権利の回復を前提にした人種差別の一掃、民族教育と文化の振興、 経済自立対策など、抜本的かつ総合的な制度を確立することである。
アイヌ民族問題は、日本の近代国家への成立過程においてひきおこされた恥ずべき歴史的所産であり、 日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる重要な課題をはらんでいる。 このような事態を解決することは政府の責任であり、全国民的な課題であるとの認識から、 ここに屈辱的なアイヌ民族差別法である北海道旧土人保護法を廃止し、新たにアイヌ民族に関する法律を制定するものである。
この法律は国内に存住するすべてのアイヌ民族を対象とする。

第一 基本的人権
アイヌ民族は多年にわたる有形無形の人種的差別によって教育、社会、経済などの諸分野における 基本的人権を著しくそこなわれてきたのである。
このことにかんがみ、アイヌ民族に関する法律はアイヌ民族にたいする差別の絶滅を基本理念とする。

第二 参政権
明治維新以来、アイヌ民族は「土人」あるいは「旧土人」という公式名称のもとに、 一般日本人とは異なる差別的処遇を受けてきたのである。明治以前については改めていうまでもない。
したがってこれまでの屈辱的地位を回復するためには、国会ならびに地方議会にアイヌ民族代表としての議席を確保し、 アイヌ民族の諸要求を正しく国政ならびに地方政治に反映させることが不可欠であり、 政府はそのための具体的な方法をすみやかに措置する。

第三 教育・文化
北海道旧土人保護法のもとにおけるアイヌ民族にたいする国家的差別はアイヌの基本的人権を著しく阻害しているだけでなく、 一般国民のアイヌ差別を助長させ、ひいては、アイヌ民族の教育、文化の面で順当な発展をさまたげ、 これがアイヌ民族をして社会的、経済的にも劣勢ならしめる一要因になっている。
政府は、こうした現状を打破することがアイヌ民族政策の最重要課題の一つであるとの見解に立って、 つぎのような諸施策をおこなうこととする。
1 アイヌ子弟の総合的教育対策を実施する。
2 アイヌ子弟教育にはアイヌ語学習を計画的に導入する。
3 学校教育および社会教育からアイヌ民族にたいする差別を一掃するための対策を実施する。
4 大学教育においてはアイヌ語、アイヌ民族文化、アイヌ史等についての講座を開設する。 さらに、講座担当の教員については既存の諸規定にとらわれることなくそれぞれの分野における アイヌ民族のすぐれた人材を教授、助教授、講師等に登用し、アイヌ子弟の入学および受講についても 特例を設けてそれぞれの分野に専念しうるようにする。
5 アイヌ語、アイヌ文化の研究、維持を主目的とする国立研究施設を設置する。 これには、アイヌ民族が研究者として主体的に参加する。
従来の研究はアイヌ民族の意思が反映されないままに一方的におこなわれ、 アイヌ民族をいわゆる研究対象としているところに基本的過誤があったのであり、 こうした研究のあり方は変革されなければならない。
6 現在おこなわれつつあるアイヌ民族文化の伝承・保存についても、問題点の有無をさらに再検討し、完全を期する。

第四 農業漁業林業商工業等
農業に従事せんとする者に対しては、北海道旧土人保護法によれば、一戸当り15,000坪(約5ヘクタール)以内の交付 が規定されているが、これまでのアイヌ民族による農業経営を困難ならしめている背景にはあきらかに 一般日本人とは異なる差別的規定があることを認めざるをえない。北海道旧土人保護法の廃止とともに、 アイヌ民族の経営する農業については、この時代にふさわしい対策を確立すべきである。
漁業、林業、商工業についても、アイヌの生活実態にたいする理解が欠けていることから 適切な対策がなされないままに放置されているのが現状である。
したがって、アイヌ民族の経済的自立を促進するために、つぎのような必要な諸条件を整備するものとする。
農業
1 適正経営面積の確保
北海道農業は稲作、畑作、酪農、畜産に大別されるが、地域農業形態に即応する適正経営面積を確保する。
2 生産基盤の整備および近代化
アイヌ民族の経営する農業の生産基盤整備事業については、既存の法令にとらわれることなく実施する。
3 その他
漁業
1 漁業権付与
漁業を営む者またはこれに従事する者については、現在漁業権の有無にかかわらず希望する者にはその権利を付与する。
2 生産基盤の整備および近代化
アイヌ民族の経営する漁業の生産基盤整備事業については、既存の法令にとらわれることなく実施する。
3 その他
林業
1 林業の振興
林業を営む者または林業に従事する者にたいしては必要な振興措置を講ずる。
商工業
1 商工業の振興
アイヌ民族の営む商工業にはその振興のための必要な施策を講ずる。
労働対策
1 就職機会の拡大化
これまでの歴史的な背景はアイヌ民族の経済的立場を著しくかつ慢性的に低からしめている。 潜在的失業者とみなされる季節労働者がとくに多いのもそのあらわれである。 政府はアイヌ民族にたいしては就職機会の拡大化等の各般の労働対策を積極的に推進する。

第五 民族自立化基金
従来、いわゆる北海道ウタリ福祉対策として年度毎に政府および道による補助金が予算化されているが、 このような保護的政策は廃止され、アイヌ民族の自立化のための基本的政策が確立されなければならない。 参政権の確保、教育・文化の振興、農業漁業など産業の基盤政策もそのひとつである。
これらの諸政策については、国、道および市町村の責任において行うべきものと民族の責任において行うべきものとがあり、 とくに後者のためには民族自立化基金ともいうべきものを創設する。
同基金はアイヌ民族の自主的運営とする。 基金の原資については、政府は責任を負うべきであると考える。 基金は遅くとも現行の第二次七ヵ年計画が完了する昭和六十二年度に発足させる。
第六 審議機関
国政および地方政治にアイヌ民族政策を正当かつ継続的に反映させるために、つぎの審議機関を設置する。
1 首相直属あるいはこれに準ずる中央アイヌ民族対策審議会(仮称)を創設し、 その構成員としては関係大臣のほかアイヌ民族代表、各党を代表する両院議員、学識経験者等をあてる。
2 国段階での審議会と並行して、北海道においては北海道アイヌ民族対策審議会(仮称)を創設する。 構成については中央の審議会に準ずる。

▼アイヌ民族に関する法律(案)は素晴らしい!

V  萱野さんのことば 「アイヌはアイヌモシリ、すなわち日本人が勝手に名づけた北海道を、日本国へ売った覚えも、貸した覚えもございません。」 がアイヌモシリ回復の原点。「マボ判決」が補強してくれます。(2020.6.5)
▼1992年(H4)オーストラリアにて「マボ判決」
▼wp:マボ判決は、移民が移住してきた時のオーストラリアは、「無主地(テラ・ヌリウス)」だったという従来の 考え方を否定し、 先住民たちが先住権原もっているとして世界で初めて承認された判決。
▼テラ・ヌリウスについて 大阪大学大学院のHPです。
「テラ・ヌリウスterra nulliusラテン語で無主の地、誰のものでもない土地を意味する。 国際法では、一般的に、誰も住んでいない地域、または住民が系統だった政府組織を発展させておらず、 土地を改良し耕作していない地域を指して用いられる。ニューサウスウェールズが白人により発見され植民が行われたとき、 イギリス政府はその地域をテラ・ヌリウスであると考えていた。 アボリジナルがヨーロッパ人の感覚での土地の所有を行っていなかったからである。 その土地が(イギリス人の定義による)テラ・ヌリウスであるならば、その土地を発見し所有した最初のヨーロッパ人がその土地の所有権を得ると、 イギリス人は信じていた。
連邦最高裁判所は1992年、コモン・ロウに基づく土地の所有権が先住民にあることを認め、 白人による植民が始まった頃のオーストラリアがテラ・ヌリウスだったという考え方を認めない判決を下したとされる。」 (清水寿夫)

W 2008年(H20)9月17日第2回 アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会  加藤理事長発言要旨 
これからの政策立案の方策に当たり、特に訴えるべき観点について述べていきたいと思います。

一つ目は、「同化政策」に焦点を当てた観点です。一概に「同化政策」とは言いますが、換言しますと、 「日本国民」に強制的に組み込まされること、「民族的アイデンティティ」、内心への脅迫なのだ、ということを、 先ず始めに想像していただきたいのです。先住民族であるアイヌ民族は、江戸時代の後期からの歴史的過程において、 繰り返し、同化政策を強いられてきました。民族独自の文化や言葉を捨てさせられてきたことです。 アイヌ民族に対する同化政策は、江戸時代の幕府直轄時代にロシアの南下との関係で、 そして明治政府の近代化、植民政策の脈絡のつどに、進められてきました。 江戸時代から中央と地方の関係や流通商業による不平等な交易、労働力の搾取など民間人と統治体制との構造的な枠組みの中に位置づけられ、 国家間の政治的な要因や国際間の法秩序との関連性などにも大きく影響されました。 いずれも「ロシアの動静」及び「国内事情や法制度」と「国際関係」との相互バランスが基底となってきているのですが、 「同化政策」の動機付けは、アイヌ民族にとって全てが外部からの影響、翻弄にすぎなかったのです。 同化政策と同時に、隣国ロシアとの間に結ばれ数度にわたり変更された国境線画定や領土問題に絡む国際条約締結などにおいて、 否応なく、樺太アイヌ、千島アイヌが居住の地から移住させられました。

二つ目の観点は、「土地と資源」です。アイヌ語では概念が異なってきますが「モシリ」、「イオル」、「アエプ」などで対応するものです。 アイヌ民族が古くから居住し、山川海すべての大地や海洋にある動植物との密接な関り合いの中、広義の文化享受と自らの民族の生命を託してきた、 いわゆる「土地と資源」が、自らが他の場所に移動することなく、居ながらにして他者に奪われたことです。 また、あまり知られてはおりませんが、道内市町村史にも記録されているように小樽、旭川、釧路、網走など、 入植者の都合により、北海道内においても居住に適した土地から別の不適な土地へと、多くの強制的な移住がお行われました。 アイヌ民族の生活は、基本的に「土地と資源」から生産される一次的な自然資源の生産物とその交易により成り立っていました。 自らの日々の生活を営むため、子孫を育むため、自然との調和が取れた社会を維持し、発展させるための可能性や自らの世界観、価値観の基盤となる、 様々な「人」と「土地・資源」との繋がり、「神々」との繋がりが分断されました。 そしてそれが継続できなくなってきたという厳然とした事実があるということです。

三つ目の観点は、「法制史」です。「法制史」の変遷過程とそれら時代背景や実効性を検証することがこの懇談会審議に重要であると考えます。 憲法でいう国家の三要素「領土」、「人民」、「主権」との関係もありますし、先刻の国会決議にある「我が国が近代化する過程において、 多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも、差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を厳粛に受け止めなければならない」、 とのくだりは、実質的に、一方的に無主の地として日本領土に組み入れた後、地券発行条例などの4つの土地法などを定め施行してきたという 具体的内容を共通認識としなければなりません。「同化政策」も「土地・資源」の収奪も抑圧される側への法制度などとしての 押しつけがあったからに他ならないからです。その権力側からの多くの与奪に法律や制度が関わってきたからです。 「民族」としての対策の一貫性が保てなかったことと「先住民族」と認めたがらなかったことは、表裏一対で、 もちろんその政策判断や効果の検証なども曖昧なままにされてきたのです。

 そもそも文化とは人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果であり、生活の様式と内容を含む広い概念で、 アイヌ文化もこの広義の文化なのです。しかし、アイヌ文化振興法は、このアイヌ文化をごく狭い意味の狭義の文化でとらえ、 「人」を認定しないで進められています。アイヌ文化振興をより理想的な形にするには、本来の文化の実践及び振興の方向に近づける工夫が必要です。 例えば文化振興と付随する文化関連の経済行為とが並行、付随するような工夫があれば、その裾野が広がります。 「土地・資源」を収奪された先住民族の広義の文化実践には、形を変えた特別な公有地、公有林などの利活用・貸与、管理などの方策を 取っていただきたいと思います。文化は、集団的、時間的な要素で成り立っていますが、先住民族文化は、 さらに「土地・資源」の要素に大きく依存して成り立つものなのです。

 故萱野茂参議院議員は、アイヌは北海道を売った覚えも、貸した覚えもないと話していましたが、 文化振興に限らずせめて私有地を除いた公有地や公有林の利活用や考えられる雇用創出の便宜供与など、 明治初期、生活のための捕獲を保障されていた共有漁場などを奪われた歴史的経緯などから、漁業権の一般の権利侵害を伴わない範囲での 一部付与などは、必要、不可欠な事柄です。
▼非常に抑制のきいた北海道社会にも受け入れられる要求だと思います。(2020.6.12)

国民の理解や法律問題など根本的、複雑な課題が横たわっているものとは思いますが、実現の可能性を模索し、 早急な検討課題としていただきたいと思います。また、かつて協会総会で考えられた、 参政権の特別付与は、海外の先行事例に倣い、アイヌ民族の意見が政治、行政に反映される方途として例示したものです。 やはり国内では、政治的なアイヌ民族に対する支援の優先度が低く アイヌ民族の将来に向けてなかなか真剣に取り組んでいただけていない感は否めなかったのです。 従って、参政権の特別な付与については、それに対応するアイヌ民族自らの議会を整備することによって、進めていきたいと考えております。
「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に関連し、このような政治における歴史的、社会的な因果要素を多くはらんだ問題は、 これまでの理解の枠組みや慣習、現状の社会システムとぶつかるなどの障壁が立ちはだかります。
公教育へのアイヌ文化、歴史の導入や公有地の土地資源の利活用、知的財産権の整備、漁業権や雇用機会の開拓など、 さらには土地・資源の賠償補償、参政権などの事柄など、「先住民族」の課題解決のは、この様な検討課題が多岐にわっています。
当事者からの要望を国家の責任において、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に照らして、解決していただきたいと思います。
▼以上がアイヌモシリ回復訴訟における主張の骨子です。(2020.6.7)

X 国連の動き。先住民族権利宣言からの抜粋。
先住民族が、特に植民地化並びにその土地、領域及び資源のはく奪の結果として歴史的に不正に扱われてきたこと、 それによって特に自己の必要と利益にしたがって発展の権利を行使することを妨げられていることを憂慮し、
先住民族の政治的、経済的及び社会的構造並びにその文化、精神的伝統、歴史及び哲学に由来する先住民族の固有の権利、 特にその土地、領域及び資源に対する権利を尊重し、及び促進することが緊急に必要であることを認識し、
また、条約、協定及びその他の国との建設的な取決めで確認された先住民族の権利を尊重し、及び促進することが緊急に必要であることを認識し、
先住民族が、政治的、経済的、社会的及び文化的向上のため、並びにあらゆる形態の差別及び抑圧が生じたときはどこでもそれを終わらせるため、 団結していることを歓迎し、
先住民族並びにその土地、領域及び資源に影響を及ぼす開発に対する先住民族による管理が、先住民族が、その制度、 文化及び伝統を維持し並びに強化し、並びにその願望及び必要に合致する発展の促進を可能にすることを確信し、
先住民族の知識、文化及び伝統的慣習の尊重が、持続可能で衡平な発展及び環境の適正な管理に寄与することを認識し、
先住民族の土地及び領域の非軍事化が、平和、経済的及び社会的な進歩及び発展並びに世界の諸国及び諸民族の間の理解及び友好関係に 寄与することを強調し、

第28条
1.先住民族は、自己が伝統的に所有し、又はその他の方法で占有若しくは使用してきた土地、領域及び資源で、 その自由で事前の及び事情を了知した上での同意なしに、没収され、占拠され、使用され、又は損害を受けたものについて、 原状回復を含む方法により、それが可能でない場合には正当で公平かつ衡平な補償によって、救済を受ける権利を有する。
2.関係する民族が自由に別段の合意をしない限り、補償は、同等の質、規模及び法的地位を有する土地、領域及び資源という形態、 金銭的補償又はその他の適当な救済の形態をとらなければならない。
▼この条文が特に大事。(2020.5.12)

第32条
1.先住民族は、その土地又は領域及びその他の資源の開発又は使用のための優先順位及び戦略を決定し、及び発展させる権利を有する。
2.国は、特に鉱物、水又はその他の資源の開発、利用又は採掘に関連して、 先住民族の土地又は領域及びその他の資源に影響する計画を承認する前に、先住民族の自由で事情を了知した上での同意を得るため、その代表機関を通じて、当該先住民族と誠実に協議し、及び協力しなければならない。
3.国は、このような活動に対する正当かつ公平な救済のための効果的な仕組みを設けなければならず、また、 環境的、経済的、社会的、文化的又は精神的な悪影響を軽減するため、適当な措置をとらなくてはならない。
▼二風谷判決の見直し。ダム建設の前に「(国は)計画を承認する前に、先住民族の自由で事情を了知した上での同意」は得られていない。(2020.5.12)
第33条
1.先住民族は、その慣習及び伝統に従って、自己のアイデンティティ又は構成員を決定する権利を有する。これは、先住民である個人が、自己が居住する国の市民権を取得する権利を害するものではない。
2.先住民族は、自己の手続に従って、先住民族の機関の構成を決定し、及びその機関の構成員を選ぶ権利を有する。
▼私がイメージしてきた自治州、自治区的発想とつながる条文だとおもいます。(2020.5.12)

第46条
1.この宣言のいかなる記述も、国、民族、集団又は個人が、国際連合憲章に反する活動に従事し、又はそのような行為を行う権利を有することを意味するものと解してはならず、また、主権独立国の領土保全や政治的統合の全部又は一部を分割し、又は害するいかなる行為も是認し、又は奨励するものと解してはならない。
2.この宣言に掲げる権利の行使に際しては、すべての人の人権と基本的自由が尊重されなければならない。 この宣言に掲げる権利の行使は、法によって定められ、かつ、人権に関する国際的な義務にしたがって課される制限にのみ服する。 この制限は差別的であってはならず、他の人の権利及び自由の十分な承認及び尊重を確保する目的並びに民主的な社会の正当で 最も重要な要請にこたえるという目的のためにのみ真に必要なものでなければならない。
▼現在の北海道社会との調整が不可欠。ここはよく考えながらアイヌモシリの具体的回復を考えていかなければならない。 (2020.5.12)

Y 1997年(H9)「二風谷ダム判決」(3月27日)で裁判所によって認定されている事実
(四)アイヌ民族に対する諸政策
先住民族であるアイヌ民族が我が国の統治に取り込まれた後、 仮に少数であるが故に我が国の多数構成員の支配により、 経済 的、社会的に大きな打撃を受け、これがため民族の文化、生活 様式、伝統的儀式等が損なわれるに至るということがあったと すれば、 このような歴史的な背景も、本件の比較衡量に当たっ て斟酌されなければならない。
証拠(甲二一の三ないし六・八、証人田端、原告萱野)によ れば、
明治政府は、蝦夷地開拓を国家の興亡にかかわる重要政策と位置付けて、これに取り組み、北海道に開拓使を送ったこ と、
明治五年九月、
もともとアイヌの人々が木を伐採したり、狩猟、漁業を営んでいた土地を含めて北海道の土地を区画して 所有権が設定され、 アイヌの人々にも土地が区画されたが、農 業に慣れていなかったことから、アイヌの人々が農業で自立す ることは困難であったこと、
明治六年、
木をみだりに切ること や木の皮を剥ぐことが禁止され、また、豊平、発寒、琴似及び 篠路の川の鮭漁に関して、 アイヌ民族の伝統的な漁法の一つで あるウライ網の使用(川を杭で仕切って魚が上れないようにし、 その一部分のみを開けておいてそこに網を仕掛けて採魚する漁 法)が禁止されたこと、) アイヌ民族の従来の風習で ある耳輪や入れ墨等が罰則を伴って禁止され、また毒矢を使う アイヌ民族の伝統的な狩猟方法が禁止されたこと、
明治一一年、
札幌郡の川における鮭鱒漁が一切禁止されたこと、
明治一三年、
死者の出た家を焼いて他へ移るというアイヌの人々の風習等が罰則を伴って禁止され、 更に、日本語あるいは日本の文字の教 育が施されるようになつたこと、
その後、千歳郡の河川において鮭の密猟が禁止されたり、アイヌ民族の伝統漁法の一つであるテス網による漁が禁止されたりした後、
明治三〇年には、
自家用としても鮭鱒を捕獲することが禁止されたこと、
このように魚類等の捕獲の禁止が強化されていったことや私人がアイヌの人々の開拓した土地を奪うようなことがしばしばあったこと などからアイヌの人々の生活が困窮したため、
明治三二年
北海道旧土人保護法が制定され、農業の奨励による生活安定のため の土地給付等が図られたが、 アイヌの人々に給与される土地は 法律で上限とされた五町歩をはるかに下回り、 しかもその中に二割近い開墾不能地があったことなどから、アイヌの人々の生 活水準は極めて低いままであり、 生活の安定を図ることはでき なかったこと、
以上の事実が認められる。

右認定事実に弁論の全趣旨を総合すれば、前記のような漁業等の禁止は、主に漁猟によって、 生計を営んできたアイヌの人々 の生活を窮乏に陥れ、その生活の安定を図る目的で制定された北海道旧土人保護法も、 アイヌ民族の生活自立を促すには程遠 く、また、アイヌ民族の伝統的な習慣の禁上や日本語教育などの政策は、 和人と同程度の生活環境を保障しようとする趣旨が あったものの、いわゆる同化政策であり 和人文化に優位をおく一方的な価値観に基づき和人の文化をアイヌ民族に押しつけ たものであって、 アイヌ民族独自の食生活、習俗、言語等に対する配慮に欠けるところがあったといわざるを得ない。 これに より、 アイヌ民族独自習俗、言語等の文化が相当程度衰退す ることになったものである。
▼この裁判所の認定を援用する。(2020.6.4)

Z 1893年(M26) 第五回帝国議会「北海道土人保護法」提案  加藤政之助
○加藤政之助君(二百二十二番)
 「北海道土人保護法案を提出致しましたる理由を弁明致します、

我日本国は上に叡聖慈仁なる御歴代の皇帝在しまして、下には仁義の数を以て本と致したる所の国民を以て組織して居ります、 夫が故に我日本国人民は此の世界各国に対しても常に義に依り、義に勇み、強を挫き弱を助くることに於ては世界第一と自らも思ひ、 世間でも称して居ります所の国柄でございます、
この如き国柄でございまる故に、若し欧米の人々にして不道理にも此の弱国に強暴な行を以て臨み、 人種が異った者に対して無礼を加へまするやうなことがございますならば、我々日本国民は常に彼等の挙動を憤慨し、 彼等の挙動を非難して止まざる所でございました、
この如き国民でございます以上は、己れ自らは一点の此の落度もないやうに一点の欠目もないやうに、 強を挫き弱を助ける義に依って此の義に勇むと云ふことは努めなければならぬのである、
然るに私自ら北海道の地に臨んで二回程彼処の地を実見致しましたが、其の結果として我日本国民が当に為すべきの義務を怠って居る、 当に保護しなければならぬ所の責務を怠って居ると云ふことを発見致しました、

夫は何であるかと申しますると云ふと、我日本の一隅即ち北海道に住みて居りまする所の彼のアイノ人種である、 之に対する所の我々同胞兄弟の挙動である、 此の挙動に就いては今日我々が自ら顧みて謹まねばならぬ、 否謹むばかりではなく、 自ら進んで彼等弱者を保護しなければならぬと云ふ地位にあると云ふことを考へます、

彼の北海道の土人アイノなる者は其の古、歴史に徴して見ますと云ふと、 北海道ではなくして我内地に住居致して居ったものゝ如くに見えて居ります、 併ながら夫等のことは古に属してほとんど漠然と致して居りますから、夫等の議論は暫く措きまして、
少なくとも彼等アイノ人種は近古迄は北海道即ち日本のほとんど四分の一に当る所の面積を彼等自ら占領致して、 此の北海道の大地を以て己れの衣食の料に供して、己れの生活の資に充てゝ居ったものに疑はござりませぬ
イサベラ・バードの見た明治11年頃の
アイヌの家族
榎森進『アイヌ民族の歴史』401頁

此の内地の人々が彼等の弱に乗じ、彼等の無智なるに乗じて之を虐待したと云ふ事実は、今日まで歴々現れて居るのでございます、

で其の一例を申せば私共が親しく草鞋を穿いて旅行致しました処の後志の国瀬棚郡と云ふ処に於きましては、 ほとんど今より百年前若くは百五十年前までは三千の土人が居りましたと云ふことである、
然るに昨今此の土人がどれ丈に減じたかと申しますれば、僅に数十戸になりまして今や二百人に充たないと云ふ有様に陥りました

で是が何故であるかと申しますると内地の人々が彼等を虐遇致した故である、彼等に対して不穏の挙動をした故である、
独り此の内地の人々が左様な働きを致したと云ふことばかりでございますならば、まだ恕すべきことも出来ますが、 北海道長官即ち北海に在って北海道の人民を撫育しなければならない所の北海道庁の役人等が、彼等を虐遇した、 彼等の金銭を猥に失はしめたと云ふやうな事実が現れて居ります

夫れは何であるかと申しますると、北海道十勝の国大津川と云ふ川があって、此の川はほとんど鮭や鱒其の他の漁が余程多い所でございます、
夫が故に此の川の沿岸には、古より漁場が沢山ございます場所でございます
夫が維新後北海道庁を置かれて漁場の制度抔も立って、古の請負の制度を解いて、之を相当の権利ある者に貸与へ、
若くは之を下与へると云ふことが起こりました時分に、十勝の国の此の大津川の沿岸の土人等は沿岸の漁場を数箇持って居りましたのでございます、
此の漁場を持って居りましたが故に、漁場を他人に貸与へ、若くは他人に売渡すと云ふ結果より致して、 彼等は明治七年にほとんど三万有余円の金を得たのでございます


此の三万有余円の金を如何にしたかと申しますると云ふと、
之を其の儘置いてはいけないと云ふので、政府に保護を依頼してどうか此の金を保護して利殖して貰ひたいと云ふことを 時の北海道庁に申出した処が、
初め此の金をどうしたかと云ふと郵船会社の株券を買ひ、さうして之をやつたのだそうでございます、
夫が此の次だうなつたかと云ふと、知らず識らずの間に彼の北海道のほとんど衰減に垂んとして居る所の製麻会社、 若くは製糖会社の株に此の三万余円の郵船会社の株が変って仕舞ったと云ふことである――、
今日彼等土人の共有金は如何になったか、
分配も碌々受けることは出来ないと云ふ憫れ敢果ない所の境界になって居る、
実に政府たるものが之を為すべき処分でございませうか、
彼等弱者に向ってこの如き計ひをすると云ふは、実に怪しからぬ、
加之其の辺の町村役場の役人等、若くは北海道庁の役人等は土人等の財産ある者に向っては、 ほとんど脅迫同様なる処置を以て之を借り受け、さうして之を濫費したと云ふ形跡も今日まで往々現れて居るのでございます、
でこの如きことを人民も為し又政府の役人も為すと云ふ結果より致して、彼等はほとんど居住に堪へない、
夫が故に内地の人民が一歩北海道に進めば彼等は一歩内地に退くと云ふ今日の形勢に立至りました、
而して彼等の住って居りまする土地も次第々々に内地人民が相当なる現行法律の手続を経て借受け之を自分の所有と為し、
彼等はどうであるかと申しますると無智無育であるから、今日の現行法律の下に立って相当なる手続を経るならば土地を貸下げることが出来る、 開拓することが出来るけれども、其の手続を履むことを知りませぬ、
故に彼等は自分に住って居る所の土地即ちエジツタまで内地の人々に取られて仕舞って、ほとんど住むべき土地もない、流浪の民となると云ふ 今日の有様に陥って居ります、

夫が故に如何にして生活して居るかと申しますれば、土地を所有して居る者抔は皆無と云って宜しい、
唯山海――山に海に唯猟を求めて、さうして其の獲物で生活するか、若くは他人の下に労役に伏して辛き幽けき生活をして居ると云ふ 今日の境遇であるので北海道の土人が今日どれ丈の数がありますかと申しますれば、
一万七千百四十八人と云ふものが今日の現在である、

其の中男が八千四百五十二人、女が八千六百九十六人と云ふ数でございます、
そこで学齢児童はどれ丈あるかと申しますると云ふと、 三千百六十二人、学齢児童の数がある、
然るに此の中で以て学校に就いて居る者が幾人ある、僅に五百七人即ち全数の六分の一 と云ふものほか学校に就いて居らない、
諸君、内地の此の学齢児童がどれ丈今日就学致して居りまして、どれ丈不就学の者がございませうか、
内地を調べて見ると云ふと、七百二十万程学齢児童がある、而して此の就学して居ります所の数が三百十九万あってほとんど 百分の四十八と云ふものが学に就いて居ります、
然るに北海道では僅かに土人の子弟は六分の一弱ほか就いて居らないと云ふ憫れな今日の有様でございます、
加之彼等は衛生の法を知らずして病に罹りましても医者の治療を受けることを知らない服薬することを知らない、
夫が故に次第々々に身体は不健康になりまして、病に罹ったために人種は今日減ずる有様を為して居る、
で彼等の住家はだうかと云ふに十勝、日高辺りで見ますると云ふと、相当の家屋に住んで居る所の者もあるけれども、 極めて少数であって、多くの土人はほとんど内地の乞食にも劣る処の憫れなる小屋に這入って其の日々々を送って居るのでございます、
若し今日の儘に放任して置きましたならば、私は思ふ彼濠太利亜(オーストラリア)の土人が全く人種が絶滅致しましたと 同様に彼の北海道のアイノ人種は 数十年ならずして人種が減するのであらうとか様に考へるのである、

諸君、彼等は北海道の土地全土を有して彼等の生活の料に供して居った所のものである、
然るに此の土地を次第々々に内地の人に奪はれて仕舞って、ほとんど住むべき土地もないと云ふ境遇に陥り


然も強暴にして内地の人に抵抗する所の悪い人種暴悪なる人種でございますれば兎も角、
彼等は至って従順なる人種、至って温厚なる人種である、
内地の人々に向っては、実に温和なる人種でございます、
かくの如く温良なる、かくの如く従順なる北海道のアイノ人種を彼等の住って居る所の土地まで悉く奪ひ去って、 前途彼等は其の人種すら滅せんとする今日、我々が此の義侠の心に富みたる我々日本人民が、 之を保護せずに済みましたならば、天下に向かって日本人は義侠心ありと称することが申せるでありませうか、

私は此の際に是非とも彼等アイノ人種を保護してやらなければならぬと思ふ、
好し一旦敵となりました所のものでござりましても、一たび降参をすれば之を款待すると云ふは常である、
好し王師に抗したりと云ふ人間であっても一たび帰順致したならば是は同じく日本の臣民である、
彼等アイノ人種は北海道の全道を占領して居たる所の者が、今日の境遇に陥ったと致しましたならば、 我々は彼等に向って今日多少の保護を与えて其の生存発達と云ふものを助けなければならぬと思ふ

夫が故に此の仁愛なる此の義侠心に富んだる所の日本四千万の人民に訴へて、私は聊々ながら此の保護案と云ふものを今日通過致して、 彼等北海道「アイノ」人種を保護したいとか様に考えます。」(下線は引用者)

▼上記は1893年(M26) 第五回帝国議会における加藤政之助衆議院議員の「北海道土人保護法」の提案説明です。 正義感と明治人の気概と人間としての矜持にあふれた物言いです。
「北海道即ち日本のほとんど四分の一に当る所の面積を彼等自ら占領致して、 此の北海道の大地を以て己れの衣食の料に供して、己れの生活の資に充てゝ居ったものに疑はござりませぬ」
はとくに重要です。
萱野茂さんだけが「北海道を日本国へ売った覚えも、貸した覚えもございません。」 と言っておられるわけではありません。
アイヌモシリ回復の主張はここが出発点だと思います。(2020.6.5)


[ 土地をめぐる少なからずの法的根拠
1872年(M5)の「土地の収奪」
*「開拓使以後のアイヌ民族無視の土地政策」 
9.20「北海道土地売貸規則」(全9条)・「地所規則」(全19条)
北海道は「無主の地」としてすべてを国有地に編入
「深山・幽谷・人跡隔絶の地」を除き、全ての土地を私有地として、開拓者に下付するための政策。
「私有地」としての下付対象者は、「永住寄留人」移住した和人。アイヌ民族は対象外。
「山林川沢、従来土人等漁猟伐木仕来し土地と雖、更に区分相立、持主或は村請に改て、是又地券を渡」・・イオルも和人に譲渡。
和人開拓者に、1人10万坪(33ha)、10年(15年)間 除租。
「地租改正条例」で、山林を国有地に、北海道で明治政府は、発展の見込める原野や森林は皇室財産に組み入れ、 残る地質の良い未開地は、公家や貴族たちに払い下げ、天皇の「御料地」「皇室財産」とした。


▼ユポさんの上記記述は「地所規則」の下記条文に依っています。
第七条「山林川沢従来土人等漁猟伐木仕来シ地ト雖モ更ニ区分相立持主或ハ村請ニ改メ亦地券ヲ渡シ…尤深山幽谷人跡隔絶ノ地ハ姑ク此限ニアラサル事」
第八条「原野山林等一切ノ土地官属…都テ売下ケ地券ヲ渡シ永ク私有地ニ申付ル事」
第九条「売下之地一人十万坪ヲ以テ限リトシテ」
▼「地所規則」はユポさんご指摘のようにアイヌ民族から土地を収奪したもの。これへの補償が150年後の今、問われています。 私は特に第七条の「従来土人等漁猟伐木仕来シ地ト雖モ」という明治政府の姿勢が許せません。
「1872(明治5)年以降1885(明治18)年までに「北海道土地売貸規則」によって和人に売り下げられた土地は、 2万9239町歩、無償貸し付け地は7768町歩の計3万7007町歩にのぼる。これらの事実は、 和人によるアイヌ・モシリの奪取、しかも法による奪取が確実に進行し出したことを示すものであった。」 (榎森進『アイヌ民族の歴史』(395〜396頁))
▼ 3万7007町歩=366平方キロメートル (琵琶湖=670平方km)すなわち琵琶湖の54%が和人の手に渡った。 当時アイヌ人口は16,270人だったようです。「地所規則」がアイヌの人たちにも適用されていたとすれば 16,270×33ha=536,910 ha=5,369平方kmすなわち琵琶湖の8個に当たる広さの土地がアイヌ民族に割り当てられることになります。
▼上記の計算には樺太が入っていませんでした、樺太348戸2,372人を加えると (16,270+2,372)×33ha=615,186 ha=6,152平方kmすなわち 琵琶湖の9個に当たる広さの土地がアイヌ民族に割り当てられることになります。(2020.4.28)
▼和人開拓者に1人10万坪(33ha)。これをアイヌ人居住者18,642人にも適用する。すると6,152平方km。 琵琶湖9個に当たる広さの土地がアイヌ民族に割り当てられることになる。この考えが最低の出発点。(2020.6.4)
▼因みに北海道の広さは 83,450平方q。琵琶湖125個の広さ。125個の広い空間がアイヌモシリだった。 そのうちの9個分。ささやかな措置。それすら全くなされていない。
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』429頁アイヌ人口の推移。今日再確認しました。(2020.6.9)
1873(M6)年16,272人
1878(M11)年17,098人
1883(M16)年17,232人
1888(M21)年17,062人
1893(M26)年17,280人
▼いまもこの時のおもいは変わっていません。もっと強くなっています。(2020.6.9)

▼「北海道土地払下規則」を調べました。
第一条「北海道官有未開ノ土地」ハ本規則ニ依リ北海道庁ニ於イテ之ヲ払下クヘシ 
第ニ条 土地払下ノ面積ハ一人十万坪ヲ限トス但盛大ノ事業ニシ此制限外ノ土地ヲ要シ其目的確実ナリト認ムルモノアルトキ 特ニ其払下ヲ為スコトアルヘシ
第十三条 明治五年北海道土地売貸規則 明治七年開拓使布達明治十一年開拓使布達ヲ廃止ス

▼たまたま「BURAKU」の頁を作っていて743年の墾田永年私財法に出会いました。 Wikipediaで読んで見ると1886年の「北海道土地払下規則」に似ていることに気づきました。明治の貴族官僚は王政復興で奈良時代のこのような制度まで 復活させていたことがわかりました。おどろきです。感覚的にはルネッサンス期のヨーロッパ人がその範をギリシア哲学に求めたのに似ています。 おどろきをご自分で実感してみてください。1100年前の法令と目的をWikipediaから引用しておきます。

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)は、奈良時代中期の聖武天皇の治世に、天平15年5月27日(743年6月23日)に発布された 勅(天皇の名による命令)で、墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永年私財化を認める法令である。 古くは墾田永世私有法と呼称した。荘園発生の基礎となった法令である。

勅。如聞。墾田拠養老七年格、限満之後、依例収授。由是農夫怠倦、開地復荒。 自今以後、任為私財。無論三世一身、悉咸永年莫取。其国司在任之日、墾田一依前格。 但人為開田占地者、先就国申請、然後開之。不得因茲占請百姓有妨之地。若受地之後至于三年、本主不開者、聴他人開墾。   天平十五年五月廿七日 『類聚三代格』より

現代語訳: (聖武天皇が)命令する。これまで墾田の取扱いは三世一身法(養老7年格)に基づき、満期になれば収公し、(国有田として他の耕作者へ)授与していた。しかし、そのために(開墾した)農民は意欲を失って怠け、開墾した土地が再び荒れることとなった。今後は、私財とすることを認め、三世一身に関係なく、全て永年にわたり収公しないこととする。国司の在任中における申請手続きは、三世一身法に準ずるものとする。ただし、耕地を開墾してその土地を占有しようとする者は、まず国に申請すること。その後で開拓せよ。また、公衆に妨げのある土地を占有する申請は認めない。もし許可を受けて3年経っても開墾しない場合は、他の者へ開墾を許可してもよいこととする。   天平15年5月27日

ただし『続日本紀』巻十五の同日条を見ると、同じく天皇による命令形式である詔として出され、その中に次の逸文が入っていたことが分かる。 この部分は、位階に応じて私有面積の上限を定めた規定であるが、この部分が上記の『類聚三代格』では削除されている。

「(悉咸永年莫取。)其親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。 六位已下八位已上五十町。初位已下至于庶人十町。但郡司者、大領少領三十町、主政主帳十町。若有先給地過多茲限、便即還公。 姦作隱欺、科罪如法。((其)国司在任之日。)」

現代語訳: ……(その土地の広さは)
親王の一品と一位には五百町、
二品と二位には四百町、
三品・四品と三位には三百町、
四位には二百町、
五位には百町、
六位以下八位以上には五十町、
初位以下(無位の)庶人に至るまでは十町(とせよ)。
ただし、郡司には、大領・少領には三十町、
主政・主帳には十町とせよ。
もし以前に与えられた土地で、 この限度よりも多いものがあれば、すみやかに公に還せ。不正に土地を所有して隠し欺くものがあれば、 罪を科すことは法の如くにする。……

直木孝次郎ほか訳注 『続日本紀 2』 平凡社〈東洋文庫〉(ISBN 4-582-80489-6)による) ▼五百町≒500ha=5平方q 羽田飛行場が15平方q。(2020.6.9)

▼位による墾田の広さの違いは明治では資本による違いに置き換えられているだけである。 200万町歩の皇室の御料地の維新政府・貴族官僚の発想も「分かる」気がする。
▼岩村通俊とはwp:北海道開拓の重要性を政府に説き、北海道庁設置を働き掛ける。これが認められ明治19年(1886年) に北海道庁が設置されることとなり通俊が初代長官に任命される。
▼wp:1887年(明治19年)にコレラと天然痘が流行し、移住した樺太アイヌの40パーセントが死亡した。
山辺安之助は「明治十九年の夏から秋まで段々激烈になって冬から春にかけて物が沈んでゆくように 親戚の人や友達が後から後から私を置いて世を去った」 (『あいぬ物語』)と語っている。

▼「物が沈んでゆくように」…、つらい。読むだけでもつらいのに、書くことはもっとつらかっただろう。ご冥福を祈ります。 この人たちの無念もふくめて今を生きる和人として償わなければならない。(2019.2.5)


1889年(M22)
*新十津川村の原野を和人に解放するに当たって、アイヌ民族11戸を、給与予定地を選定し「強制移住」させる
*美幌アイヌ民族を「強制移住」させる
内大臣・首相・三条実美「華族組合雨龍(うりゅう)農場」原野49,500町歩(≒5万ha 1億5千万坪)規則上限の1500倍(1町歩は、約1ヘクタール)
▼wp:1889年に起きた奈良県吉野郡十津川村での十津川大水害の被災民がトック原野に入植し新十津川村と称した。 1890 年 600 戸2489 人がトック原野(徳富川流域)に移住。
明治の礎「北海道開拓」とても参考になるHPです。
明治22年、皇室御料地として全道に200万haを設定、華族組合農場へは未開地5万haが払い下げられます。 公爵三条実美、旧徳島藩主の蜂須賀氏らが設立した華族組合雨竜農場は、このときに払下げを受けて創立されたものです。
▼200万ha=2万平方q 北海道は8万3,450平方q 。つまり北海道の4分の1、琵琶湖30個分を皇室御料地にする計画であった。 「華族組合雨龍農場」50,000ha=500平方q 琵琶湖の75%分。
▼今回のアイヌモシリ回復訴訟では皇室御料地、華族組合雨竜農場も当然取り上げることになります。(2020.6.9)

▼これまでの土地処分・給与のまとめ
1872年(明治5年)「地所規則」和人開拓者1人10万坪(33.3ha)
1886年(明治19年)「北海道土地払下規則」開拓者1人10万坪(33.3ha)
1889年(明治22年)皇室御料地200万ha=2万平方q=琵琶湖30個=北海道1/4、
          華族組合農場5万ha=500平方q=琵琶湖75%(根拠法?)
1890年(明治23年)「屯田兵土地給与規則」1戸5ha
1891年(明治24年)アイヌ近文原野「土人給与予定地」45万坪(150ha)つまり屯田兵30戸分ということ(2020.4.29)
これに次の1897年(M30)「北海道国有未開地処分法」(3月27日)が追加され土地問題は終わるようです。(2020.6.12)

1897年(M30) 「北海道国有未開地処分法」(3月27日)
*「北海道土地払下規則」廃止(処分法22条)
*「自今以往は、貧民を植えずして富民を植えん。是を換言すれば、人民の移住を求めずして、資本の移住を是れ求めんと欲す」
・「大地主」「大資本家」対象、(アイヌ民族対象外)
・無償貸付、開墾成功後、無償付与(処分法3条)
・富豪、資本家、華族、高級官僚、政商
(4月勅令第98号・北海道国有未開地処分法第3条に依る貸付の面積)
・開墾150万坪(500ha)会社・組合はこの2倍
・牧畜250万坪、      同上
・植樹200万坪、      同上
▼「北海道国有未開地処分法」により1908(明治41)年までの12年間に この法律で処分された土地は183万余町歩。 18,098平方q 琵琶湖27個分。全北海道の22%。 (榎森進『アイヌ民族の歴史』423頁を参考にしながら)

▼「強制移住」のまとめ(榎森進『アイヌ民族の歴史』相次いで行われた強制移住(402〜433頁参照))
●1875年(M8) 9月9日〜10月1日 樺太から92戸841名のアイヌ民族を宗谷に「強制移住」  10月7日 石狩原野へ再移住を指示(アイヌ民族、移住反対上申書を開拓使に提出) 翌年、官憲を動員して6月13日から 小樽経由で石狩国対雁(ついしかり)に「強制移住」
●1884年(M17) 北千島アイヌ民族97人を、色丹島に「強制移住」 
          6月30日〜7月6日(支度に2日間)釧路アイヌ民族27戸を阿寒郡セツリに「強制移住」
●1886年(M19) 日高、網走でアイヌ民族の「強制移住」
●1889年(M22) 美幌アイヌ民族を「強制移住」
●1905年(M38)日露戦争で南樺太を手に入れる、樺太アイヌ帰国
●1916年(T5)「新冠御料牧場」・姉去のアイヌ民族80戸、平取村上貫別に「強制移住」
●1947年(S22)「嘗て同地から他の地域に強制移住させられたアイヌの内、 平取村7戸、様似村2戸、荻伏村1戸、新冠村11戸、静内村1戸のアイヌに旧新冠御料牧場内の土地が与えられ、 ここに新冠御料牧場の解放運動は大きな成果をあげて解決するに至ったのである(『北の光』創刊号)。」 との記述が榎森進『アイヌ民族の歴史』(514頁)にあります。
▼これらの「強制移住」に対してどのような補償がなされたのか? このことも今回の裁判で問われなければならない。(2020.6.5)

\ 明治政府の土地政策(アメリカモデル)
1876年(M9)
アメリカから西部開拓を学ぶため、米国第2代農務省長官ホーレス・ケプロン開拓顧問団招聘。 10年余で78人を招いた。 太政大臣より高い年棒1万ドルの給与。4年の在任中、3回の来道、北海道開拓のマスタープラン作成。 インデイアン政策をアイヌ政策に実施(ドーズ法)。

▼明治新政府の準備もたいしたもんだ。(あまりいい意味ではないが)(2020.6.6)

1899年(M32)「北海道旧土人保護法」
▼私は「旧土人法」を明治政府の土地政策の集大成とおもいますが、 その背景を榎森進『アイヌ民族の歴史』(447〜451頁)では次のように指摘されています。
「この法律は1887年米国議会で制定されたインディアンに対する「一般土地割当法」 (通称ドーズ法)をモデルとして 立案・制定されたものと解されている。 両法は先住民族を農業に従事させる目的で一定面積の土地を私有地として無償で付与していること初め、 先住民族の農民化を促進するために、色々な補助手段を講じている等共通点がある。

しかし大きな違いもある。「北海道旧土人保護法」では、土地付与の対象が「農業ニ従事スル者又ハ農業ニ従事セント欲スル者」に限定され、 しかも単位面積が「一戸ニ付」5町歩以内と、個人ではなく、家単位に付与されたのに対し、
「ドーズ法」ではインディアン全員、つまり個人が対象であり、その単位面積も世帯主一人当たり160エーカー(65.3町歩)、 18歳以上の単身者には80エーカー(32.6町歩)18歳未満の単身者及び孤児には40エーカー(16.3町歩)の土地が付与された。」
▼「ドーズ法」 世帯主1人65.3町歩=65.3ha
18歳以上の単身者32.6町歩=32.6ha
18歳未満の単身者及び孤児16.3町歩=16.3ha
▼1872年「地所規則」では開拓者1人33.3ha。
▼もちろん「ドーズ法」の目的には賛成できないが、アイヌモシリの回復訴訟では少なくとも「ドーズ法」的に個人単位で考えるべき。 つまり1人33.3haということ。これが最低限の出発点。(2020.6.8)



近文給与地問題 このいきさつを旭川市HPで勉強しました。
1894年 (明治27)
近文アイヌ36戸に、給与予定地150万坪のうち49万坪を割り渡す
1899年(明治32)
「北海道旧土人保護法」制定(1万5,000坪以内の土地を無償付与、教育・共有財産管理などを規定)。
大倉組、鷹栖村字近文で第七師団建設請負工事着工(1902年竣工)
1900年(明治33)
道庁、近文の給与予定地の大倉組への払下げを決定し近文アイヌに天塩への移転を命じる(第1次給与地問題)。
鷹栖村総代人ら、近文アイヌの給与地移転に反対し「旧土人留住請願書」を道庁に提出(2月)。
鷹栖村有志とアイヌ代表上京、政府要人に給与地移転中止を陳情(4月)。
道庁長官、近文アイヌの留住を認める(5月)。
1903年(明治36)
近文アイヌ38人、道庁に移転嘆願書を提出(第2次給与地問題)
1906年(明治39)
道庁、旭川町にアイヌ給与地として46万坪の貸付を許可(旭川町はアイヌに1戸当たり1町歩を貸し付け、残地は和人に有償で貸与
1932年(昭和7)
アイヌ給与地の旭川市への貸付期間満了に伴い第3次給与地問題発生。 旭川市会議員・近文アイヌ代表、給与地付与を求めて上京、各方面に陳情(4月)。近文アイヌの荒井源次郎ら上京、陳情運動を行う(6月、11月)
1934年(昭和9)
「旭川市旧土人保護地処分法」制定(近文アイヌ49戸に、1戸当たり1町歩の土地を付与、残地は共有財産)

▼旭川市のHPでは近文給与地問題は1894年(明治27)からですが、問題の芽はユポさんが取り上げられています 「1890年(M23)旭川郊外近文原野に、150万坪(500ha)「土人給与予定地」予定、1891年(M24)決定」
にあるとおもいます。
その「給与予定地」に第七師団が移転してくることになり、 武器・軍事政商大倉喜八郎(大倉組)が一儲けしようと介入したことが問題を引き起こしたようです。 大倉喜八郎は現在ではホテルオークラの創業者として有名ですが、汚れていますね。


]  生業(なりわい)破壊
▼榎森進『アイヌ民族の歴史』奪われた生産・生活の場(392〜402頁)
1874年(M7)
・開拓使「美々鹿肉燻製製造所・脂肪製造所」建設(缶詰・鹿皮・角)(M17廃止)
・鹿の乱獲 10年間に40万頭捕獲、絶滅寸前、アイヌ民族に食糧危機
▼開拓使美々鹿肉罐詰製造所跡のHP
開拓時代の美々(現・新千歳空港周辺)はエゾジカの天国だった。美々には鹿肉罐詰所と脂肪製造所が設けられましたが、 当時 千歳一帯は石狩地方に比べて冬場の積雪が少ないので鹿が食を求めて大挙群集していたのだとか。
鹿の乱獲と大雪による食糧難からの餓死、鉄道の開道による開拓などで、鹿の数が激減し、 さらには官 営工場だったこともあって経営は振るわず、明治17年に工場は廃止されています。
▼「鹿猟禁止」について。榎森進『アイヌ民族の歴史』(396〜398頁)
「アイヌ民族の生産や生活に大きな打撃を与えたのが、開拓使が鹿猟に関する新たな規則を定めたことであった。
 ●1875(明治8)年9月30日、「胆振・日高両州方面鹿猟仮規則」により、アイヌがアマッポ(仕掛け弓) で鹿猟を行う場合は、それを設置する場所を届け出る必要があった。
 ●11月には夕張・空知・樺戸・雨竜、
 ●翌1月には十勝まで適用。
 ●9月には毒矢の使用を禁止し、
 ●11月には北海道全域を対象とした「北海道鹿猟規則」を定めた。
アイヌ民族の生産・生活で大きな役割を果たしてきたのが、河川での鮭漁を初め海での漁業や海獣狩猟と山野での狩猟、 特に鹿猟で捕獲した鹿は、肉は食料として、皮は自家用及び和人向け商品として大きな役割を果たしてきた。 河川及び海での漁業権が一方的に奪われ、しかも鹿猟も禁止され、こうした明治政府の政策のため餓死するアイヌが続出した。」
1878年(M11) 鮭・鱒の川漁「禁止」10月
1888年(M21)色丹島の北千島アイヌ民族5年間で97人のうち45人死亡
▼概略でまず全体を仕上げること。細部はあとで充実させる。(2020.6.7)

I@ ほろびゆく民族の悲哀(「知床日誌」「アイヌ神謡集」序)
1858年 (安政5年)
松浦武四郎「戊午 東西蝦夷山川地理取調日誌」

アイヌ民族への非道の実態を暴く(支配人、番人のメノコ姦奪)
アイヌ民族の人口の激減(他場所との縁組を禁止)、
蝦夷地の荒廃(アイヌ虐待、松前藩・御用商人の非道 暴露糾弾)
▼ユポさんのこのコメント。和人に対するアイヌ民族としての怒りと松浦武四郎さんへの尊崇の念が伝わってきます。(2020.6.8)

松浦武四郎さんの『知床日誌』(文久3年(1863))に関する 奈良女子大学学術情報センターの「知床日誌」のHPです。 有難い研究です。感謝。
シャリ場所のアイヌ
松浦武四郎『知床日誌』
『アイヌ民族の歴史』367頁

「見る影もなく破れて只肩に懸る斗(ばかり)のアツシを着 如何にも菜色をなしける病人等 杖に助り、セカチ(男子)  カナチ(女子)等大勢其汐干にあさりけるか 我等を見て皆寄来りし故 其訳を聞に

舎利(シャリ)アハシリ両所にては 女は最早十六七にもなり夫を持へき時に至れは  クナシリ島へ遣られ 諸国より入来る漁者船方の為に身を自由に取扱ハれ
男子は娶る比(ころ)に成は遣られて昼夜の差別なく責遣(せめつか)ハれ 其年盛を百里外の離島にて過す事故 終に生涯無妻にて暮す者多く 男女共に種々の病にて身を生れ附ぬ

病者となりては働稼のなる間は五年十年の間も故郷に帰る事成難く  又夫婦にて彼地へ遣らるゝ時ハ 其夫は遠き漁場へ遣し 妻は会所また番屋等へ置て番人稼人皆和人也の慰ミ者としられ  何時迄も隔置れ それをいなめは辛き目に逢ふか故只泣々日を送る事也

(中略)

聞し由を委に話しけるに 此一事ハ同人も深く心を用ひ居らゝ由にて  懇にうけかひ呉られけるも嬉し

余も今はかゝる事まても彼等の言の訳る迄に其国言に通せしそ嬉しけれは  取敢す一首の腰折を其壁にしるし置ものなり 日数へし程もしられて 蝦夷人の言も聞わくまてに成けり
                                            知床日誌終  」
▼「知床日誌」はこころある和人が客観的に見聞きした幕末のころのアイヌ民族の現実です。(2020.6.9)

知里幸恵(19歳)さん 『アイヌ民族の歴史』464頁
                  序
その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。 天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼らは、真に自然の寵児、なんという幸福な人達であったでしょう。
冬の陸には林野をおおう深雪をけって、天地を凍らす寒気をものともせず、山また山をふみ越えて熊を狩り、 夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い?の歌を友に木の葉のような小船を浮かべて、ひねもす魚をとり、 花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久にさえずる小鳥と共に歌い暮らして蕗とり蓬つみ、 紅葉の秋は野分けに穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、 圓かな月に夢を結ぶ。嗚呼何という楽しい生活でしょう。
平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ。 僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。
しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、 鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、 なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。
時は絶えず流れる。世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、 いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩を並べる日も、やがては来ましょう。 それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。
けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、 それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。
おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語 の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。
私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。
   大正十一年三月一日
                                         知里幸恵

▼こちらは大正十一年(1922)のアイヌの人の当事者のおもいです。私を含め和人はこういう過去を背負っています。 責任を果たさなければなりません。アイヌモシリ回復訴訟はその責任の果たし方のひとつと考えています。 共感していただける和人の方どうぞご協力ください。(2020.6.9)


IA 海外の先住民族政策
 オーストラリア政府、アボリジニに公式謝罪(2008年2月13日)
▼すばらしいHPを見つけました。松崎さん、ありがとうございます。掲載させていただきます。
「昨年11月に政権に着いたラッド労働党政府は、2月13日、新政府による初の議会の冒頭議事として、 過去のオーストラリア政府が行ってきたアボリジニ(原住民)への差別抑圧政策への公式の謝罪を行いました。 この歴史的議会には、アボリジニの諸代表や過去の歴代首相も列席しましたが、 この謝罪を頑強に拒否してきた前ハワード首相のみ、姿を現しませんでした。以下は、ラッド新首相が行った公式謝罪の全文訳です。」

「今日、我々は、この国土の原住民とその人類史上最古の現存する文化を誇りとします。
我々は、過去の彼らへの誤ったふるまいを深く考えます。
ことに我々は、「盗まれた世代」――この国の歴史における最大の汚点――である人々への行為を深慮します。
今や、誤った過去を正し、将来へ向って自信をもって進む、オーストラリアの歴史の新しいページを開く時です。
我々は、オーストラリアの同胞に、大きな悲しみ、苦しみ、そして喪失を与えた、歴代の議会や政府の法律や政策を謝罪します。
我々は、特に、アボリジニやトレス海峡諸島の子供たちが、家族や同胞や郷土から連れ去られたことを謝罪します。
そうした盗まれた世代の、その子孫の、そして取り残されたその家族の、痛み、苦しみ、そして傷つきに、我々は、謝ります、と言います。
そうした父、母、兄弟、姉妹に、家族と同胞の絆を断ち切ったことに、我々は、謝ります、と言います。
そして、この誇り高き人々と文化に与えた、尊厳の破壊と退廃に、我々は、謝ります、と言います。
我々オーストラリア議会は、この謝罪が、この国が与える癒しのいくらかにでも貢献したいとする精神として受け入れられるよう、つつしんで求めるものです。
この大陸の偉大な歴史の新たなページが、今、開かれることを採決し、未来のために、我々はそれを暖かく迎えます。
我々は、本日、過去を認め、あらゆるオーストラリア人に与えられる将来への権利を主張することにより、この最初の一歩とします。
今後、こうした過去の不公正が議会で議決されるようなことは、二度と起こってはなりません。
今後、我々は、寿命、教育水準、経済機会における格差を縮める、すべてのオーストラリア人、原住民、非原住民による決定を採用してゆきます。
今後、我々は、過去の試みが失敗した懸案に対する新たな解決策を取り入れて行きます。
今後、相互の尊重、相互の解決、相互の責任を基礎として行きます。
今後、その生まれが何であろうとも、すべてのオーストラリア人は、真に平等なパートナーであり、同等な機会と、 この偉大な国オーストラリアの歴史の次のページを開く上での、同等な利害関係をえます。」

▼以上が謝罪の全文です。日本政府もアイヌの人たちに対してこのような謝罪が必要。
資料: The Weekend Financial Review, 13 February 2008. 翻訳: 松崎(2008.2.14)

  カナダ・クイーンズ大学各国の先住民族政策の推進度調査
Indigenous Peoplesをクリックしてください。resultsへ行って下さい。指標のTableが出て来ます。
Table1が要約、Table2が各項目別です。
Table 2: Multiculturalism Policies for Indigenous Peoples Scores for Each Indicator,
1980, 2000, 2010

調査対象国(縦の欄上から):オーストラリア カナダ デンマーク フィンランド 日本 ニュジーランド ノルウエー スウェーデン 米国
調査項目(横の欄左から);1土地権 2自己決定権 3条約締結権 4文化権 5中央政府との協議 6特別な地位 7先住権国際条約批准 8格差是措置 9総合点

▼上の指標を見ますとこの30年間(1980年、2000年、2010年)、日本は土地権、自治権の承認といった先住民政策にとって最も肝心の指標が0で、 いかに遅れているかが一目瞭然です。総合点(9点満点)でも1980年が0、2000年が1、2010年が3です。
オーストラリアの総合点は1980年が1、2000年が4.5、2010年が6で大幅に改善されています。しかも土地権は0から1になっています。
カナダは総合点トップでほぼ満点の8.5です。米国は8、ニュジーランド7.5です。
こうして国際比較のデータを見ますと日本のアイヌ先住民族に対する課題が浮き彫りになってきます。 今回のアイヌモシリ回復訴訟は主に土地権、自治権承認の問題です。(2020.6.10)
▼このペーパーを2020年6月14日ユポさんに渡しました。

▼9月12日(土)ユポさんと一緒に東京四谷で弁護士先生にお会いしました。イオルの資料をいただきました。 イオルと先住権の具体的内容を考えはじめました。(2020.9.15):

その資料の中の平成17(2005)年7月のアイヌ文化振興等施策推進会議の「アイヌ伝統的生活空間の再生に関する基本構想」の一節。
イオルの実現のためには、として
・森林については、利用可能な制度等の活用、所有者との契約による栽培など。
・水辺の自然空間における植物 については、河川区域の占用や土地の借用など。
・魚類・動物については、 漁業協同組合との協働や特別許可取得等の活用など。
と書かれています(「基本構想」7頁)。 この基本構想ではアイヌ民族の先住権が全く念頭に置かれていません。話がアベコベなのです。
現在の北海道の制度の中にイオルが入り込むのではなく、 明治維新以前のアイヌモシリ(大地)が先ずあって、そこではイオルが機能している、 そこに後から和人の生活、制度がイオルを邪魔しない程度と範囲で入れさせてもらう、 このように考えるのが筋道。イオルを復活させるのに障害となる現在の和人の制度、法律にはアイヌ民族の先住権が優先する。 そのことの確認と実現を今回の裁判で獲得する。

以下インターネットで資料をさがします。
まず出会ったのが十勝圏誘致促進期成会の平成20年2月「アイヌ文化振興のための十勝圏イオル基本計画」です。

@ 十勝圏イオル基本計画http://www.museum-obihiro.jp/ioru/iwor1.pdf









8 規制緩和の措置とイオル特区
自然素材の確保や育成が、一定のルールの下に自由に行うことができるようにするためには、 森林法や河川法など現行法の可能な範囲において規制緩和の許可措置を講じたり、構造改革特別区域法 に基づくイオル特区を創設していくなど、法的な支援も今後必要になってくると考えます。 国などに対し、事業の円滑な推進のため、規制緩和の措置等を要望します。

▼国などに対し、事業の円滑な推進のため、規制緩和の措置等を要望します、ではなく先住権で解決していくべきもの。
帯広市アイヌ施策推進計画骨子(案) https://www.city.obihiro.hokkaido.jp/publiccomment/241000/191202ainu_plan_result.data/0219ainu_plan.pdf
北海道が平成29年にアイヌの人(※)を対象に実施した「北海道アイヌ生 活実態調査」(以下、H29実態調査という。)によると、十勝管内在住のアイ ヌ民族の人たちは、193世帯、406人となっています。

A 釧路市イオル計画 https://www.city.kushiro.lg.jp/kyouiku/shougaigakushuu/shogai/shogai/page00028.html#container
釧路地域のイオル計画地
 1阿寒湖                   2春採湖

1 かつて、アイヌの人々にとって狩猟・採集の場(イオル)であった阿寒湖温泉地区とその周辺は、 現在も雄大な自然が残されており、アイヌの儀式・儀礼が盛んに行われています。
2 市街地にありながら比較的自然が残されている春採湖周辺地区は、海産物を得やすく、また、 アイヌの人々の生活に必要なオオウバユリ、ガマ、イラクサなどの有用植物が自生し、栽培・育成しやすい環境にあるため、 「自然素材育成の拠点」と位置付け、安定的に有用植物を確保できる環境を作ります。

B 旭川市イオル計画 https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/kurashi/329/348/354/p000147_d/img/015.png
旭川地域のイオル計画地




▼鹿の狩猟の場、サケの捕獲の場が設定されている。やっとイメージしていた構想に出会った。これも現行法の規制緩和、特区ではなく先住権として実現 できるように。(2020.9.16)
旭川地区のイオル https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/kurashi/329/348/354/p000143.html
旭川市の行政体の歴史は、明治23年、上川郡に旭川、永山、神居の3村が設置されてから平成22年までの120年間に過ぎませんが、それ以前には豊かな大自然に育まれたアイヌの人たちの世界と歴史がありました。 神居古潭より上流の石狩川流域に居住していたことから、ペニ ウン クル(川上に・居る・人) と呼ばれていたいわゆる上川アイヌの人たちは、南北30キロ、東西20キロ、面積440平方キロにわたる 北海道最大の上川盆地を中心にした地域を1つのイオル(伝統的な生活の場)としていたといわれております。
▼440平方キロの上川盆地はアイヌの人に返すべき。考え方としてそれが大前提。(2020.9.16)

旭川地域のアイヌ文化 https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/kurashi/329/348/354/p000143.html
慶長9年徳川家康より蝦夷地支配の黒印状を授けられ成立した松前藩は、中世以来の蝦夷島(北海道) における和人の経済活動を継承して、その主要な経済基盤をアイヌ交易に置きました。 そして幕府よりその独占権を付与されたアイヌ交易を展開するための施策として、 松前地を除く蝦夷島全域を蝦夷地と称して2つに区分しました。
1つは亀田村(現函館市亀田地域)から東へ太平洋岸に沿い根室半島を経て知床半島の知床岬に至る地域で、これを東蝦夷地と称し、 もう1つは熊石村(現熊石町)より日本海岸に沿い宗谷岬、さらにオホーツク沿岸から知床岬に至る地域で、 これを西蝦夷地と称しました。上川アイヌはこの西蝦夷地域に属していました。
この東西の区分はアイヌの人々の移住や拡散、混住などを大きく規制し、現在に繋がるアイヌの文化の違いともなっています。
現在、アイヌの人々の集団が多数存在し、文化や言語が比較的残され、 アイヌ文化として一般に知られているのは東蝦夷地のものですが、西蝦夷地は歴史的に和人の圧迫が激しく、 西蝦夷地のアイヌ文化、方言のほとんどは失われてしまい、唯一、 旭川地域において言語をはじめとする西蝦夷地のアイヌ文化が残されているともいえます。
▼西蝦夷地と東蝦夷地のちがいはこれまでうっすら感じていましたがこの説明で明確になりました。感謝。 (2020.9.16)

国有林・私有林の活用 https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/kurashi/329/348/354/p000144.html
アイヌ文化に深く関わりのある神居古潭を含めた神居地区及び江丹別地区の国有林の旭川市地域内の面積は、
約23、750haと広大で、かつ市街地のすぐ側から深い森を形成しています。 この国有林野には、アイヌの人々が伝統的に利用してきた樹木等が豊富で、日常的な生活用品や伝統工芸品、住居等の原材料である自然資源の取得の場として最適であるため、国有林野の活用が必要です。

天然林の豊富な旭川市有林は、国有林と同様に市街地近郊に位置しており、江丹別拓北地区に575ヘクタール、江丹別富原地区に300ヘクタール、神居地区に117ヘクタールの面積を有しています。 国有林と同様にアイヌの人々が利用してきたシナノキやキハダを始めとする樹木、ツルの木、実のなる木、草本類等が豊富に自生しており、自然素材を採取するため市有林の活用を進めます。
▼国有林、私有林とも当然、先住権の対象。(2020.9.16)
イオル再生に伴う規制緩和措置 https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/kurashi/329/348/354/p000146.html
採集、狩猟、漁労の各文化の再現には、国有林野内での樹木類や山菜などの自然素材の利用、 シカやクマなどの捕獲、河川におけるサケの捕獲などをスムーズに進めるための関連法令、 規則等を所管する国及び北海道の理解と協力が不可欠でありますし、関連法令、規則等の規制緩和措置が必要であります。
▼そうではない。イオル再生のためには先住権の確認・承認で済む。むしろ規制緩和、 国及び北海道の理解と協力ではなく、国及び北海道に先住権を認めさせる運動、裁判が必要。 イオル再生は国、北海道その他、和人へのお願い事でなく、アイヌ民族の権利であり、胸を張って、堂々と一千年の償いと 謝罪を求める戦いであり、シャクシャインたち先人の無念を晴らす戦いあると、私は考えています。(2020.9.17)

C 平取町イオル計画 http://www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/pdf/regeneration.pdf
拡大    
平取町アイヌ施策推進地域計画 https://www8.cao.go.jp/ainu/kouhyou/chiiki_keikaku/20190920/kouhyou-biratori.pdf
平取町は、北海道の道央圏南東部に位置する日高地方の西端にあり、日高町、新冠町、むかわ町、 占冠村に隣接している。総面積743.09平方kmで東西52.8km、南北41.1km とやや三角 形に似た形で、日高山脈の最高峰ポロシリ(幌尻岳)の裾野に広がる大地を日本一の清流に何度も 選ばれている沙流川(さるがわ)が太平洋に向かって貫流している。町面積の約85%を森林(631平方q)が占め、 そのうち約56%(353平方q)が国有林野となっている。(「地域計画」10頁)

平取町では、沙流川流域にアイヌ文化が古くから現代まで継承されており、アイヌの人々にとって サケは、カムイチェプ(神の魚)、シペ(本当の食べ物)として、食料のほか履物としても加工さ れ、アイヌの人々の生活にとって欠かすことのできない大切な魚であった。さけが遡上する沙流川 沿いのコタン(集落)では、マレプ(突き鉤)等を使った漁が行われ、秋にはその年の最初に採れ たさけをカムイに捧げる儀式である「アシリチェプノミ(新しいサケを迎える儀式)」が行われてい た。(「地域計画」11頁)
沙流川は、その源を北海道沙流郡日高町日高山脈に発し、千呂露川等を合わせ、日高町市街部に出て更に渓谷を流下して平取 町に入り、額平川等を合わせ、門別町において太平洋に注ぐ、幹川流路延長 104km、流域面積 1,350平方kmの一級河川である。 (国土交通省「沙流川水系河川整備基本方針」1頁 )
「沙流川水系」15頁 https://www.mlit.go.jp/river/basic_info/jigyo_keikaku/gaiyou/seibi/pdf/saru-5.pdf
平取町では、こうしたアイヌによって継承されてきた儀式等を保存または継承し、儀式等に関す る知識の普及啓発を行うため、2004年にアシリチェプノミを復活させ、以降、毎年継続的に実 施している。このアシリチェプノミは毎年9月の中下旬に沙流川支流の沢で行っており、儀式のほ か、マレプ漁を町民や町外からの来訪者にも見学していただき、サケを使ったアイヌ伝統料理の試 食体験を行うなど、町民や来訪者がアイヌの伝統文化に触れる貴重な機会となっており、アイヌ文  化の伝承と理解の増進のため、今後も継続して実施していく方針である。また、今までは捕獲した サケを捕獲用の水場に移し行っていたが、自然俎上するサケについても沙流川での捕獲を検討した い。(「地域計画」11〜12頁)
 二風谷ダム下流域    オサツ川(上流)
      アベツ川(下流) 
     貫気別川合流付近
  ニセウ川 本川との合流付近
▼聖地回復のため二風谷ダムは取り壊しですね。ダムを壊さない理由として裁判で考慮された「公共の福祉」の役割は果たしていませんし、サケも遡上してこれませんから。 (2020.9.18)
(アイヌ施策推進地域計画の認定)
第十条 市町村は、単独で又は共同して、基本方針に基づき(当該市町村を包括する都道府県の知事が都道府県方針を定めているときは、 基本方針に基づくとともに、当該都道府県方針を勘案して)、内閣府令で定めるところにより、 当該市町村の区域内におけるアイヌ施策を推進するための計画(以下「アイヌ施策推進地域計画」という。) を作成し、内閣総理大臣の認定を申請することができる。
2 アイヌ施策推進地域計画には、次に掲げる事項を記載するものとする。
 一 アイヌ施策推進地域計画の目標
 二 アイヌ施策の推進に必要な次に掲げる事業に関する事項
  イ アイヌ文化の保存又は継承に資する事業
  ロ アイヌの伝統等に関する理解の促進に資する事業
  ハ 観光の振興その他の産業の振興に資する事業
  ニ 地域内若しくは地域間の交流又は国際交流の促進に資する事業
  ホ その他内閣府令で定める事業
 三 計画期間
 四 その他内閣府令で定める事項
3 市町村は、アイヌ施策推進地域計画を作成しようとするときは、 これに記載しようとする 前項第二号に規定する事業を実施する者の意見を聴かなければならない。
4 第二項第二号(ニを除く。)に規定する事業に関する事項には、アイヌにおいて継承されてきた儀式の実施 その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物を国有林野 (国有林野の管理経営に関する法律(昭和二十六年法律第二百四十六号) 第二条第一項に規定する国有林野をいう。第十六条第一項において同じ。) において採取する事業に関する事項を記載することができる。
(中略)
9 内閣総理大臣は、第一項の規定による認定の申請があった場合において、 アイヌ施策推進地域計画が次に掲げる基準に適合すると認めるときは、その認定をするものとする。
 一 基本方針に適合するものであること。
 二 当該アイヌ施策推進地域計画の実施が当該地域におけるアイヌ施策の推進に相当程度寄与するものであると認められること。
 三 円滑かつ確実に実施されると見込まれるものであること。
▼事業期間 令和元年度〜令和5年度。事業予算 約27憶円。
アイヌ施策推進法の具体的適用を知ることが出来た。(2020.9.17)

D 札幌市イオル計画 https://www.mlit.go.jp/common/000227151.pdf
札幌。山に近いあたりとおもわれる。
札幌市は、石狩平野の南西部に位置し、東は石狩川から野幌原始林にかけての低 地帯、西は手稲山系、南は支笏洞爺国立公園に連なる一大山地、北は日本海に隣接 する石狩砂丘地に囲まれた全国屈指の広大な面積(1,121平方km 東京都23区 616.69平方km 東京23区の2倍弱)を有した都市である。 森林面積は 71,180ha で森林率は約 63%となっており、そのうち約 79%が国有林 で占められている。
札幌市アイヌ施策推進計画(平成22年9月) http://www.city.sapporo.jp/shimin/ainushisaku/suishin-iinkai/documents/07ainushisakusuishinkeikaku0713.pdf
国の立法等の動向と関連する施策
札幌市アイヌ施策推進計画検討委員会においてアイヌ民族の方々から意見のあっ た、学校におけるアイヌ語等の民族教育、大学への優先入学、アイヌ民族を援助する 大学に対する支援等の教育施策、市職員の特別採用等の雇用施策、市営住宅の優先入 居・ 専用住宅の設置等の住宅施策、特別年金等の施策については、国の立法等の動向 と関連するために、今後の国等のアイヌ政策の動向を見極めながら、札幌市が新たに 設置する協議機関等において検討して行く こととします。
ア イ ヌ 施 策 推 進 地 域 計 画 https://www.city.sapporo.jp/shimin/ainushisaku/documents/200605tiikikeikaku.pdf
アイヌの人たちは、伝統的な儀式に用いるイナウ(木製の祭具)をはじめとする 各種の生活用具を、周辺の森林から採取した樹木の枝・幹等の林産物を材料として 制作してきた。 こうした林産物の採取は、入山や購入に係る手続きの煩雑さから国有林野では行 われておらず、専ら民有林で事前に所有者から了解を得た上で行われているが、採 取する樹木等の減少により、民有林での採取が困難になりつつあり、国有林で採取 できるようにならないかとの要望がアイヌの人々から出されている。 今回の共用林野制度の特例措置により、こうした課題を解決し、アイヌ伝統文化 の保存・継承・振興を図っていく方針である。
▼国有林野での先住権で対応すべきでしょう。(2020.9.18)

E 新ひだか町イオル計画 https://www8.cao.go.jp/ainu/kouhyou/chiiki_keikaku/20190920/kouhyou-shinhidaka.pdf
新ひだか町(旧静内)は、アイヌ民族の中でも主として静内以東などに居住していた「メナシ ウンクル」と、
ピンク色のメナシウンクル地域の首長がシャクシャイン
胆振から日高西部にかけて居住していた「スムンクル」との境界の地であり、 アイヌの歴史の中で特に重要とされる「シャクシャインの戦い」に関わる遺跡など、未解明の部分 の多いアイヌ文化の解明のために必要な歴史に裏付された貴重な調査・研究資料が多く残されて いる。

当町は、北海道日高管内のほぼ中央に位置し、東部は浦河町、西部は新冠町に接し、南一帯は 太平洋に面している。地形は丘陵山岳地帯が多く、日高山脈とその支脈が連なるこれらの河川流 域は、地味肥沢で農用地として利用され、山間部は森林地帯を形成し、針・広葉樹林の森林資源 を有している。
森林面積約96ha(民有林31ha、国有林65ha)森林率約84%であり、 国有林の多くは町の北側に位置し、民有林は一円に点在している。 アイヌの人たちは、伝統の儀式に用いるイナウ(木製の祭具・ヤナギ等の枝で作る)をはじめ とする各種の生活用具を周辺の森林から採集した樹木の枝・幹等の林産物を材料として制作して きた。
こうした林産物の採集は、入林や購入に係る手続きの煩雑さから国有林野では行われておらず、 専ら民有林で事前に所有者の了解を得た上で採取が行われてきた。 しかしながら、高齢化が進展し、住居から離れた民有林までヤナギを採取しにいくことが困難 になりつつある中、近隣の国有林野で採取できるようにならないかとの要望がアイヌの人々から 強く出されていた。 今回の共用林野制度の特例措置により、こうした課題を解決し、アイヌ文化の維持及び次世代 への継承を図る方針である。
▼先住権で解決すべき問題。(2020.9.18)
静内川の河口から4q
三石川の蓬莱橋からシカルベ橋まで
アイヌの人々にとってサケは、カムイチェプ(神の魚)、シペ(本当の食べ物)として、食料としては もちろん衣服や履物にもなり、アイヌの人々の生活に欠かすことのできない大切な魚であった。 さけが遡上するシベチャリ川流域のコタン(集落)では、マレク(突き鉤)等を使った漁が行わ れていた。
シベチャリの橋より上流を望む

新ひだか町では、こうしたアイヌにおいて継承されてきた儀式等を保存又は継承し、儀式等に 関する知識の普及啓発を行うため、平成24年より伝統漁法を再現するとともに、保存食である 「サッチェプ」(干し鮭)を造り、さらには伝統的な鮭の調理法を再現する研修講座等を実施 することにより、町民がアイヌ民族の精神文化に触れる貴重な機会となっているところであり、 今後も引き続き継続して実施していく方針である。

また、平成25年から新ひだかアイヌ協会と高静小学校が連携し、アイヌの伝統的漁法である マレク漁を地域の子供達に体験してもらい、命の大切さを教える学習の機会を設けているところ であり、今後も引き続きアイヌ文化の伝承と理解の増進を図る方針である。
採捕の区域
【新ひだかアイヌ協会】新ひだか町静内川の河口から4qまでの区域(別添位置図参照)
【三石アイヌ協会】新ひだか町三石川の蓬莱橋からシカルベ橋までの区域(別添位置図参照)
▼静内川河口から4キロとか三石川逢菜橋からシカルベ橋までとか、使う道具は何々とか、ここまでいちいち国が立ち入ることではない。 アイヌの人たちに任せればよいこと。民族の自治の侵害。むしろ推進法を変えるべき。(2020.9.18)

F 白老イオル計画 https://www8.cao.go.jp/ainu/kouhyou/chiiki_keikaku/20200323/kouhyou-shiraoi.pdf
白老町においては、町名である「白老(シラウ・オ・イ:虻の多き処)」をは じめ、「社台(シャ・タイ・ペッ:浜側の林の川)」や「ポロト(ポロ・ト:大き い沼)」などアイヌ語由来の地名が多く残されているとともに、安政四(1857)年 時点で、町内白老地区において39戸(209人)、社台地区において7戸(23人)、竹 浦地区において38戸(171人)、虎杖浜地区において3戸(10人)からなるコタンが あったとされ、歴史的にアイヌ文化やアイヌの方々と関わりが深い地域であ る。 本町の歴史における和人とアイヌ民族の共生が育まれてきた史跡白老仙台藩陣屋跡
◆仙台藩白老元陣屋資料館 所在:白老町陣屋町681番地4 現況:昭和59年10月設置。史跡の絵図面や古文書、武具のほか、アイヌ文化 関連の資料・民具などを所蔵し、幕末の白老におけるアイヌ民族と和 人の共生をはじめとした、蝦夷地の歴史を伝える。
事業費約11憶円。
2020.7開業ウポポイ
本町は、北海道の南西部、胆振管内の中央に位置し、東は苫小牧市、西 は登別市、北は伊達市及び千歳市に隣接し、南は太平洋に面しており海岸 線の延長は28km、水量豊かな河川地域の平野部に市街地が形成されてい る。 北西から北東にかけては山岳地帯で、そのほとんどが支笏洞爺国立公園 に属している。 森林面積は33,772haで森林率は79%となっており、そのうち約68%が町 北部から国立公園を含む国有林で占められている。その他の地域に点在す る民有林は9,984haで、約29%に過ぎない。 アイヌの人たちは、伝統儀式に用いるイナウをはじめとする各種の生活 用具を、周辺の森林から採集した樹木の枝や幹等の林産物を原料として制 作してきた。 こうした林産物の採集は、入山や購入に係る手続きの煩雑さから国有林 野では行われておらず、専ら民有林で事前に所有者の了承を得たうえで採 集が行われてきた。
今回の共用林野制度の特例措置により、こうした課題を解決し、アイヌ 文化の維持及び次世代への承継を図る方針である。
A 当該事業により採集する林産物の種類、使用目的及び概ねの数量 ・ヤナギ(枝):イナウの材料、約50本 ・ミズキ(枝):イナウの材料、約50本 ・キハダ(枝):イナウの材料、約50本 ・ハシドイ(枝):イナウの材料、約50本 ・エンジュ(枝):イナウの材料、約50本 ・アオダモ(枝):パスイの材料、約50本 ・イタヤカエデ(枝):パスイの材料、約50本 ・エリマキ(枝):パスイの材料、約50本 ・イチイ(枝):パスイの材料、約50本 ・ニワトコ(枝):パスイの材料、約50本 ・オヒョウ(樹皮):樹皮衣の材料、約50本 ・シナノキ(樹皮):樹皮衣の材料、約50本 ・シラカバ(樹皮):樹皮衣の材料、約50本
B Aの林産物を採集する場所及び管轄する森林管理署の名称 ・場所:白老町内 国有林野 ・管轄:胆振東部森林管理署

ロイター通信 https://jp.reuters.com/article/japan-ainu-idJPKBN1XB378
2019年11月1日2:51 午後1年前更新
(文:Tim Kelly、写真:Kim Kyung-Hoon、翻訳:山口香子、編集:久保信博)
ブログ:「民族共生」施設建設で引き裂かれるアイヌの人々
北海道白老町の緑に囲まれた湖のほとりで、国立のアイヌ文化振興施設の建設が進んでいる。 だが、消えつつある文化を称えるためのこの施設は、 アイヌのコミュニティーを分断する事態も招いている。
2009年に「先住民族の権利に関する国連宣言」に賛同した日本政府は、 アイヌに対する新たな政策の検討を進めてきた。検討の早い段階で、 国立の「象徴的な空間」の整備方針がまとまり、白老町ポロト湖畔で形になりつつある。
アイヌ語で「大勢で歌うこと」を意味する「ウポポイ」という愛称が付けられた同施設には、国立アイヌ民族博物館のほか、 19世紀に日本政府が北海道を植民地化した際、その多くが破壊されたアイヌの村を再現した集落や、 各地の大学で保管されていた数百のアイヌの遺骨を集約した慰霊施設などが整備される。
総事業費約200億円の「民族共生象徴空間」は、来年の東京五輪開幕前の4月24日の開業に向けて順調に工事が進んでいる。 安倍晋三首相によるインバウンド拡大策の一環。

狩りの前に祈りをささげる門別さん(2019年 ロイター/Kim Kyung-Hoon)

アイヌの伝統衣装を着た八谷さん(2019年 ロイター/Kim Kyung-Hoon)
アイヌの代表者は2018年まで内閣官房と協議し、国有地への法的権利や、アイヌ文化や言語を伝承するための予算の拡充、 政府からの公式な謝罪などの要求を取りまとめた。 だが、これらの要求が考慮されることはなかった。
内閣官房アイヌ総合政策室の小山寛参事官は、国民全体の理解を得られていない中では、行政ができることは限られていると説明。 今日の北海道を作って定住した開拓者から反発が起きる可能性があるなどと語った。
アイヌの伝統的な入れ墨の彫り師をしている八谷麻衣さん(36)は、 踊りなどを見ようと観光客が集まるテーマパークになってしまうのではないかと冷ややかだ。
ハンターをなりわいとするアイヌの門別徳司さん(36)は、国立施設の建設を含めた政府の対応は無意味だと話す。 門別さんは、政府には伝統的な儀式を行える場所を用意してほしかった、と話した。
▼このロイターのブログは大事な問題点を簡潔に指摘している。
@19世紀に日本政府が北海道を植民地化した
Aアイヌの遺骨を集約した慰霊施設
B小山寛参事官は、国民全体の理解を得られていない中では、行政ができることは限られている。 今日の北海道を作って定住した開拓者から反発が起きる可能性があると説明

@について  海外から見ると明らかに植民地化なのだ。
Aについて  ウポポイの施設ではアイヌの人たちには「慰霊」にはならない。土にかえすことなのだ。
Bについて  国民の理解を得られる仕事を日本政府がやってこなかった、ということ。筋違いの口実でアイヌの代表に対
       応している。不届き。(2020.9.22)


日経xtech https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00585/071300046/
2020.07.20
「アイヌ文化復興の国立施設「ウポポイ」が北海道・白老町にオープン」
北海道の南西部にある白老町で、日本におけるアイヌ文化復興などに関するナショナルセンター「民族共生象徴空間(愛称はウポポイ)」が2020年7月12日に開業した。 政府が総事業費約200億円を投じたプロジェクトだ。
 ウポポイは、ポロト湖とポロト自然休養林に隣接する約10万平方mの敷地内(中核区域)に位置する。 国立博物館「国立アイヌ民族博物館」と、体験型フィールドミュージアム「国立民族共生公園」、 体験交流ホール、体験学習館などで構成する。
 中核区域から約1.2km離れた、ポロト湖東側の太平洋を望む高台には慰霊施設も設けた。 施設内では公用語としてアイヌ語も使われている。施設の愛称である「ウポポイ」とは、アイヌ語で、 大勢で歌うことを意味する言葉だ。一般投票で決まった。


新冠牧場 http://www.nlbc.go.jp/nikappu/ayumi/ayumi.pdf
▼昭和22年5月大蔵省が所管 51,771,266坪=17,257町歩=17,257ha=172平方q(『天皇家の財産』p176)
『新冠御料牧場沿革誌』9頁に明治26年12月31日現在の牧場の地積と面積が記載されている。
新牧場8,532町歩 旧牧場28,772町歩 ペラリ1,058町歩 牧草地61町歩 耕地32町歩 合計38,455町歩
昭和22年5月の大蔵省への移管時は約半分の17,257町歩であった。残りはどこへいった? 大蔵省への移管前にアイヌの人たちに返還されたのか。 昭和22年時点17,257ha。現在2,000ha。15,000haはどこへいった?(2020.9.19)

明治5年70,000ha→ 明治26年38,455ha→ 昭和22年17,257ha→ 現在2,000ha


新冠牧場は、明治5(1872)年、北海道開拓使長官黒田清隆により創設され、間もなく 140 年を迎える歴史と伝統ある牧場です。創設当時は、馬改良のため、日高地方の新冠 ・静内にまたがる約7万 ha の敷地を有しておりましたが、幾多の変遷を重ね、現在は新 ひだか町静内御園に事務所を置き、総面積約 2,000ha、900 頭のホルスタイン種を飼養し、 我が国乳用牛の育種改良に貢献することを使命に、活動しています。
2006 年9月7日、国際顕微鏡学会議等で来道中の天皇・皇后両陛下が、新冠牧 場 をご視察されました。当場は、旧御料牧場で皇室にゆかりがあり、過去には、伊藤 博 文公爵や皇太子殿下(大正天皇、昭和天皇)など、多くの皇族や賓客を迎えました。
新冠牧場を語るのに忘れてはならないのは二十間道路の桜並木です。二十間(約 36m)の幅で約7km に渡り美しい桜が咲き誇る一本道は、桜の名所として「日本の道百 選」「桜の名所百選」などに選ばれています。皇族の行啓道路として 1916 年(大正 5) 年から 3 年かけて近隣の山々の桜が移植されたもので、毎年 5 月の桜祭りには、全国 から 20 万人を超える花見客が訪れます。

裁判で回復させる先住権
1870年(M3)〜1916年(T5)の46年間の植民地化と強制移住の歴史を解明すること。 先住権の根拠はこの46年間に詰まっている。(2020.9.26)

1870年(M3)*夕張アイヌ民族、強制移住
1871年(M4)アイヌ民族を、法律によって、生活、生業の全てを拘束した
4月「戸籍法」公布  アイヌ民族を日本国民に「強制編入」
10・8(開拓使布達)*アイヌ民族の風俗習慣の禁止
・@死亡者の居家焼却、転住の禁止 ・A女子の入墨の禁止 ・B男子の耳輪の禁止 ・C日本語の「強制」・アイヌ語の「禁止」
▼改めて戸籍への編入、風俗習慣の禁止は問い直しされるべき。まず開拓使布達は撤回すべきもの。 国籍についてはアイヌの人たちは国籍選択の自由がある筈。(2020.9.22)
1872年(M5) 3月、「開拓使仮学校」東京芝増上寺に開校。同校と青山開拓使官園にアイヌ子弟35人を「強制連行・強制入学」 5月、日本語教育、和風化教育
▼アイヌ子弟35人を「強制連行・強制入学」。謝罪すべき行為。(2020.9.22)
9.20「北海道土地売貸規則」(全9条)・「地所規則」(全19条) 北海道は「無主の地」としてすべてを国有地に編入
「深山・幽谷・人跡隔絶の地」を除き、全ての土地を私有地として、開拓者に下付するための政策。 「私有地」としての下付対象者は、「永住寄留人」移住した和人。アイヌ民族は対象外。 「山林川沢、従来土人等漁猟伐木仕来し土地と雖、更に区分相立、持主或は村請に改て、是又地券を渡」・・イオルも和人に譲渡。 和人開拓者に、1人10万坪(33ha)、10年(15年)間 除租。
「地租改正条例」で、山林を国有地に、北海道で明治政府は、発展の見込める原野や森林は皇室財産に組み入れ、 残る地質の良い未開地は、公家や貴族たちに払い下げ、天皇の「御料地」「皇室財産」とした。
▼この明治5年の「北海道土地売貸規則」(全9条)・「地所規則」(全19条)はそもそも無効。 百歩譲って適用するのであれば、明治5年のアイヌ民族への適用を根本から見直すべし。先住権は具体的にここに端を発する。(2020.9.22)
1873年(M6) 札幌郡にて、鮭のウライ漁を「禁止」
▼先住権に基づき当然復活すべきもの。
1874年(M7) *鹿の乱獲*10年間に40万頭捕獲、絶滅寸前、アイヌ民族に食糧危機
▼アイヌモシリでの和人による略奪行為。損害賠償の対象になる。(2020.9.22)
1875年(M8) 「樺太・千島交換条約」締結(5月7日)・ 樺太はロシア領、千島を日本領とする。 9月9日〜10月1日 樺太から92戸841名のアイヌ民族を宗谷に「強制移住」 10月7日 石狩原野へ再移住を指示(アイヌ民族、移住反対上申書を開拓使に提出)翌1876年(M9)、 官憲を動員して6月13日から小樽経由で石狩国 対雁(ついしかり)に「強制移住」
対雁に移住させられた樺太アイヌ https://blog.goo.ne.jp/maruo5278/e/b98477e8654624d5e25d7e3a871675e6
樺太アイヌは、1905年日本が日露戦争に勝利し樺太の南半分が返還されるとほとんどの者が樺太に帰っていったという。 太平洋戦争によって再び樺太がロシア(当時はソ連)領となってしまった。樺太アイヌのほとんどが日本に強制送還されたらしい。 しかし、中には樺太にそのまま居ついたアイヌもいたということだ。
▼樺太アイヌは1875年の「樺太・千島交換条約」によって宗谷→対雁に強制移住させられ、 30年後の日露戦争後の1905年に樺太に帰り、 さらに40年後の太平洋戦争後の1945年にまた日本に強制送還される。
たとえばある樺太アイヌの少年が10歳で樺太から宗谷・対雁に来て、 40歳で樺太に戻り、80歳でまた日本に送還される、こうような人生が想像される。現在も樺太アイヌの末裔がいらっしゃる。日本政府は当然 謝罪を含めたしかるべき対応をすべき。ロシア政府も。(2020.9.22)

1876年(M9) 全てのアイヌ民族に「創氏改名」(明治9年7月19日第48号布達) 「平民」籍に編入(族称・華族・士族・平民)
アイヌ民族の「皇国の臣民化」
アイヌ民族の民族性の抹殺・民族の根絶
▼この明治9年がとくにひどい。
「風習の洗除」(開拓使布達・9月30日)
・創氏改名(アイヌ人口1万7千人)
・「鹿猟禁止」(和人の猟師による鹿の乱獲)
・「北海道鹿猟規則」
・仕掛け弓・毒矢猟の「禁止」(アイヌの事実上の狩猟禁止)
「鹿猟禁止」について。榎森進『アイヌ民族の歴史』(396〜398頁)
「アイヌ民族の生産や生活に大きな打撃を与えたのが、開拓使が鹿猟に関する新たな規則を定めたことであった。
 ●1875(明治8)年9月30日、「胆振・日高両州方面鹿猟仮規則」により、アイヌがアマッポ(仕掛け弓) で鹿猟を行う場合は、それを設置する場所を届け出る必要があった。 (Wikimedia:アマッポは、かつてアイヌが狩猟に用いていた自動発射式の弓矢である。 これを獣道に仕掛け、矢毒を塗った矢を発射させてヒグマやエゾシカを狩った。 )
 ●11月には夕張・空知・樺戸・雨竜、 ●翌明治9年1月には十勝まで適用。 ●9月には毒矢の使用を禁止し、 ●11月には北海道全域を対象とした「北海道鹿猟規則」を定めた。
アイヌ民族の生産・生活で大きな役割を果たしてきたのが、河川での鮭漁を初め海での漁業や海獣狩猟と山野での狩猟、 特に鹿猟で捕獲した鹿は、肉は食料として、皮は自家用及び和人向け商品として大きな役割を果たしてきた。 河川及び海での漁業権が一方的に奪われ、しかも鹿猟も禁止され、こうした明治政府の政策のため餓死するアイヌが続出した。」
▼「北海道鹿猟規則」は今はどうなっているか分からないが廃止すべし。先住権による漁業権、 狩猟権の復活。(2020.9.23)
1877年(M10)
「魚場持」制度廃止、河川の生態系の破壊、乱獲、漁撈禁止
11月「北海道在住令」(全4条)「移住民」募集開始、北海道に籍が無くても、居留して開拓を志す者、 在住官員で開墾志願の者に土地を割譲する、藩解体の藩主、藩士(3ヵ年食料下付)
北海道の人口推移 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/tuk/920hsy/18.htm#jump-3
          人口と世帯数
明治2(1869)年 【58 467】 12 017
明治3(1870)年 【66 618】 13 182
明治4(1871)年 【89 901】 17 623
明治5(1872)年 【111 196】 24 744
明治6(1873)年 【121 310】 30 393
明治7(1874)年 【171 491】 34 072
明治8(1875)年 【179 688】 34 114
明治9(1876)年 【183 630】 35 843
明治10(1877)年 【188 602】 36 734
明治11(1878)年 【191 172】 38 149
明治12(1879)年 【205 643】 38 296
明治13(1880)年 【219 466】 39 480
明治14(1881)年 【223 290】 40 082
明治15(1882)年 【240 391】 43 672
明治16(1883)年 【239 632】 48 716
明治17(1884)年 【246 456】 52 405
明治18(1885)年 【276 414】 57 151
明治19(1886)年 【303 746】 62 745
明治20(1887)年 【321 118】 67 544
明治30(1897)年 【786 211】 164 408
明治34(1901)年 【1 011 892】 189 526
明治40(1907)年 【1 390 079】 259 662
明治42(1909)年 【1 538 738】 291 206
大正06(1917)年 【2 088 455】 378 662
昭和03(1928)年 【2 506 883】 471 163
昭和10(1935)年 【3 068 282】 545 387
昭和21(1946)年 【3 488 013】 651 659
昭和23 (1948) 年 【4 021 050】 747 229
昭和35(1960)年 【5 039 206】 1 194 470
▼人口の推移を見ると明治10年の「北海道在住令」の効果が徐々に出てきている。 明治43(1910)年「北海道開拓15カ年計画」の中で 北海道の人口を153万人から300万人に増加させるという計画が立てられる。1910(明治43)年は朝鮮を植民地にした年。 25年後の昭和10(1935)年北海道の人口は300万人に達する。昭和6(1931)年には満州事変が起き、翌昭和7(1932)年満州国建国となります。 北海道の歩みは日本の植民地主義、帝国主義とその方向と軌を一にしている。 敗戦直後の昭和23年北海道の人口は急増している。引揚者によるものとおもわれます。 こうして明治以降の北海道の人口推移を見ると明治期、敗戦直後と2度にわたって大きな役割を北海道の大地は果たしている。記憶しておくべき事柄。 因みに平成31(2019)年の北海道の人口は5,304,413人。北海道がなければ500万人はどこへ行く。(2020.9.25)

12月13日「北海道地券発行条例」(全58条)  アイヌ民族の居住地をすべて官有地第3種に一方的に編入 *「旧土人住居の地所は、其種類を問す当分総て官有地第三種に編入すべし」
▼「北海道地券発行条例」で官有地第三種に編入された土地はその後どうなったのか?(2020.9.24)
1878年(M11)
* 鮭・鱒の川漁「禁止」10月
▼これも先住権に基づき解禁。(2020.9.24)
1883年(M16)
十勝川の「鮭漁禁止」・十勝アイヌ民族、飢餓状態となる
▼先住権に基づき鮭漁復活。損害賠償の対象にもなる。(2020.9.25)

北海道太平洋側南端=襟裳岬
 西へ新冠 沙流川 勇払平野
  東へ十勝川 釧路川(セツリ)

1884年(M17)
北千島アイヌ民族97人を、色丹島に「強制移住」6月30日〜7月6日(支度に2日間)
釧路アイヌ民族27戸を阿寒郡セツリに「強制移住」
アイヌ民族に「勧農事業」開始 新冠郡、勇払郡、沙流郡地方のアイヌ民族飢餓状態に陥る。 結核、コレラ、天然痘、免疫のないアイヌ民族に蔓延 民族絶滅の危機、エスノサイド(民族絶滅)、ジェノサイド(集団殺戮)
▼「強制移住」。結核、コレラ、天然痘の蔓延。ユポさんは民族絶滅の危機すら感じられた。記憶しておくべし。(2020.9.25)
1886年(M19)
「北海道土地払下規則」(全13条)〔6月29日〕 開拓者1人につき10万坪(33.3ha、これまで通り)国有未開地処分(アイヌ民族対象外) 農業植民地への転換。民間資本による北海道開拓へ転換。各地で原野を「植民地」として和人に解放、 アイヌ民族には一部を生活維持のために「保留地」として確保。
・対雁(ついしかり)の樺太アイヌ民族、コレラと天然痘で300人死亡。・日高、網走でアイヌ民族の「強制移住」
▼「北海道土地払下規則」を民間資本による北海道開拓への転換、農業植民地への転換とのユポさんの指摘は的確。すばらしい。参照:年表1889年欄池田さなえ 論文
▼1875年(M8) 樺太から92戸841名のアイヌ民族を宗谷に「強制移住」 翌1876年(M9)、 対雁(ついしかり)に「強制移住」。この樺太アイヌ841人のうち300人が死亡、92世帯だから1世帯3人が亡くなった、ということ。 (2020.9.25)

1888年(M21)
色丹島の北千島アイヌ民族5年間で97人のうち45人死亡。   北海道人口354,812人(アイヌ民族17,062人)
▼4年前の1884年、色丹島に北千島から強制移住させられたアイヌの人たち。半分が死亡。痛ましい。(2020.9.26)
1889年(M22)
*新十津川村の原野を和人に解放するに当たって、アイヌ民族11戸を、給与予定地を選定し「強制移住」させる
*美幌アイヌ民族を「強制移住」させる
▼明治22年、皇室御料地として全道に200万haを設定、華族組合農場へは未開地5万haが払い下げ。
公爵三条実美、旧徳島藩主の蜂須賀氏らが設立した華族組合雨竜農場は、このときに創立。

▼「強制移住」の記述は榎森進『アイヌ民族の歴史』p417〜p424に詳しい。(2020.9.26)
1894年(M27)
*旭川 近文原野、「土人給与予定地」150万坪(500ha)のうち45万坪(150ha)のみ、 利権屋の暗躍、北海道庁長官あて請願書
*千歳、十勝、北見などでアイヌ民族が多く住んでいた原野を開放する際、アイヌ一戸当たり五町歩(5ha)以内の「保護地」を設け、 「北海道地券発行条例」の第16条に基づき官有地の第三種の土地とした。
1916年(T5)
「新冠御料牧場」・姉去のアイヌ民族80戸、平取村上貫別に「強制移住」
▼二風谷ダムのある沙流川に流れ込む貫気別川の上流、緑の矢印のあたり。

榎森進『アイヌ民族の歴史』(p421) 1873年(明治6)頃の新冠地域のアイヌ民族の居住状況
厚別川東岸
大狩部村1戸・10人、葉朽村5戸・16人、受乞村7戸・39人、元神戸村9戸・45人、比宇村7戸・27人 計29戸・137人
新冠川流域
高江村22戸・96人、姉去村20戸・94人、去童村9戸・47人、万揃村7戸・35人、滑若村15戸・67人、
泊津村15戸・59人 計88戸・398人                     両地域合計 11村・117戸・535人
1872年(明治5)新冠牧場設置。滑若村は牧場の中心部。1872年(明治28)滑若村のアイヌを姉去村と万揃村に強制移住。1916年(大正5) 姉去村のアイヌ(70戸・300人)を沙流郡貫気別村上ヌキベツへの強制移住。実際入植したのは20戸近く。
▼上記の村々は地図で見ますと厚別川と新冠川に挟まれた河口から約20キロ以内の川沿いにあります。 先住権を根拠にして新冠牧場の返還と二つの川での鮭漁の解禁によって姉去村の強制移住を含めた問題の解決が図れると考えます。 (2020.9.26)
IB裁判で獲得を目指す訴訟物
私のイメージの中では今回の裁判は

@二風谷ダムの取り壊しと平取地域でのアイヌ民族のイオルの復活、すなわち先住権に基づく国有林への入山、 沙流川での鮭漁の復活
A新冠牧場から強制移住させられた厚別川と新冠川に挟まれた地域のアイヌの人たちの復帰と二つの川での鮭漁の解禁

この二つが軸になると思います。この二つが獲得できればそのほかのイオルの問題も根は共通ですから前進すると思います。(2020.9.27)
B明治以降の日本政府のアイヌモシリの植民地化とアイヌ民族同化政策の謝罪。(2020.10.5)

むしろB、@、Aの順番で訴状は構成されたほうがよいとおもいます。(2020.10.6)
亀戸で上記方針をユポさんと確認。(2020.10.10)

▼さらに次のように考え直ししました。(訴訟物
@明治以降の日本政府のアイヌモシリの植民地化とアイヌ民族同化政策の謝罪。その償いの一つとして「アイヌ民族自立化基金」の創設。
A二風谷ダムの取り壊しと平取地域でのアイヌ民族のイオルの復活、すなわち先住権に基づく国有林への入山、 沙流川での鮭漁の復活
B新冠牧場から強制移住させられた厚別川と新冠川に挟まれた地域のアイヌの人たちの復帰と二つの川での鮭漁の解禁

A、Bが認められればほかのイオルの問題も根は共通ですから前進すると思います。(2020.11.14)


宇井眞紀子さん http://asacoco.jp/topnews/ainu-photo/

25年間、アイヌの写真を撮り続けている写真家の宇井眞紀子さん(東村山市)が、 新しい写真集『アイヌ、100人のいま』(冬青社=中野区)を出版した。 宇井さんがアイヌの写真を撮るようになったのは25年前。北海道・二風谷(にぶだに)ダム建設により聖地が壊される、 とアイヌ女性が訴える記事を読んだことがきっかけだ。
朝日朝刊2020.8.18

▼はじめての先住権裁判。(2020.10.8)
アイヌ政策検討市民会議 https://ainupolicy.jimdofree.com
2017年3月18日
アイヌ漁業権回復を目指して    宇梶静江
首都圏から参加しました宇梶静江です。
私はアイヌ 漁業権についてお話しさせていただきます。
前回、畠山さんが漁業権について魂を込めて話されまし た。それを聞いて本当に感動しました。そして、私たちの先祖の生業だった漁業、特にサケ漁の権利 回復に向けて、私たちアイヌが動き出さねばならないと思いを新たにしました。
すべて文化というものは日々の暮らしから生まれます。とりわけ、先住民族の文化はそうです。自 然やカムイが身近に感じられる暮らしから切り離されたアイヌの文化には力強さがありません。
私の 父親は山の仕事が終わってお金が入ると、そのお金で魚や酒を買って、近所のアイヌのおじさんやお ばさんたちにふるまっていました。夜を徹して語り、歌い、踊ります。その踊りのダイナミックなこ と、いまのアイヌの踊りとは全然違います。体からほとばしるエネルギーから生まれる踊りです。ま さに生きた踊りです。暮らしのなかにある踊りです。
しかし、アイヌ文化は、暮らしから切り離されて、博物館に飾られるものになってしまいました。 現在、アイヌ政策推進会議が進めているアイヌ政策のかなめが博物館を中心とした「象徴空間」であ ることは、そのことをよく表しています。
アイヌがアイヌとして生きるすべを手に入れたときにはじめて、アイヌ文化が生きたものとなるの です。アイヌ語はすたれてしまいましたが、アイヌの刺繍、木彫り、歌・踊りは私たちの間に受け継 がれてきました。しかし、おおもとのアイヌとしての生活がなければ、アイヌの刺繍、木彫り、歌・ 踊りも細ってしまいます。形をなぞるだけのものになってしまいます。 もし、政府がアイヌの文化を推進したいと思うのなら、その文化を支えるアイヌとしての暮らしも 保証されなければなりません。
北海道が河川一本、二本でもいい、そこで独占的にサケ漁をする権利を取り戻したい。
そうすれば、 アイヌに力が戻ってきます。住宅資金、奨学金も大事です。でも、福祉対策だけでは、アイヌがアイ ヌであることに喜びを感じることはできません。私は、まだ私の生がこの世に残っているあいだに、 同胞がアイヌとして生きる喜びを感じられる日が来て欲しいと切に願っています。
現在、アイヌ政策推進会議がまとめようとしている政策は、先住権にもとづくものではないと聞い ています。「象徴空間」を全面的に否定はしません。でも、私たちは、何十億円もかかる大きな箱もの を、ほかのことに優先して作ってもらいたいと本当に望んでいるのでしょうか。
アメリカでは、アメリカ・インディアン博物館が2004年にオープンしましたが、博物館建設のた めの法律が出来たのは1989年だとのことです。それまでにいろいろな先住民族政策の積み重ねがあ り、そのうえに立って博物館計画が構想されたのだと思います。まず博物館から作ろうという日本と は大違いです。博物館はもつとあとでいいと私は言いたい。
「象徴空間」の建設準備は着々と進んでいます。建設を止めることはもう難しいかもしれません。で も、それ以外にアイヌが望んでいることがあると政府に要求することは可能です。私はアイヌの同胞 に訴えたいんです。アイヌの漁業権を取り戻すために立ち上がろうではありませんか。
漁業権の回復にはさまざま法律問題が横たわっています。それを解決するには、学者の先生や弁護 士の協力が必要です。この市民会議に弁護士の先生が参加しておられるでしょうか。アイヌの先住権 要求は基本的に法律の問題です。ぜひ、弁護士の先生方に加わってもらいたいと思います。
もう一つ重要なことは、権利の受け皿となるアイヌの組織づくりです。アイヌが集団として漁業権 を行使するには∴明確な組織が必要です。北海道には、北海道アイヌ協会と各地のアイヌ協会があり ますが、権利行使の組織として存在しているわけではありません。もし、漁業権回復を政府に要求す るとしたら、漁業権という先住権を行使するためにどんな組織が必要なのか、既存の組織でいいのか、 新しい組織を作らなければいけないのかを話し合って、合意を形成しなければいけません。
アイヌが合意を形成することがいかにむずしいか、私はこれまでの人生でいやというほど経験して きました。それは、アイヌが長い差別と収奪の歴史のなかで分断されてきたからです。しかし、それ を乗り越えないとアイヌには未来がありません。アイヌがアイヌであるためには、和人まかせの運動 ではだめです。アイヌの漁業権回復を目指して、アイヌが主体である運動を立ち上げたい、そのため にこの市民会議のお力を借りたいと思います。
このところ、天国からのお迎えの夢で目が覚めます。私にはもう長い時間は残されていません。体 も弱っています。でも、私たちアイヌが日本の先住民族であるためにまだやることがある。いま、ア イヌ民族の将来が決まる重要な岐路に立っている。そういう思いで必死に生きています。同胞の皆さ んに心からのお願いです。先祖から受け継いだアイヌの魂と豊かなアイヌ文化を子孫に受け渡せるよ うに、アイヌの暮らしを取り戻す、その第一歩としてアイヌの漁業権の回復のために立ち上がろうで はありませんか。
▼昨日ユポさんとお会いしまた。「アイヌ政策検討市民会議」の資料をいただきました。その資料を頼りに市民会議のHPを見つけ、 上記の宇梶さんの講演を見つけました。当事者が何を考えておられるかを知ることができました。 わたしが今準備していることに大変参考になりました。下記の記録もあることを知りました。(2020.1011)
アイヌ政策検討市民会議 設立にあたって
問題意識
現行のアイヌ政策の骨子は「有識者」による密室の会議によってつくられ、当事者のアイヌは蚊帳の外に置かれてきた。 これは国際人権文書で謳われている先住民族の権利FPIC原則【自由意思による、事前の、十分な情報に基づく同意(free, prior and informedconsent)】から逸脱しており、アイヌの人権を著しく損なっている。 現行のアイヌ政策はまた、「先住民族の権利に関する国連宣言」はもとより、法的拘束力のある国際人権規約などの国際人権法も無視して進められている。このことは国際法の誠実な遵守を謳った日本国憲法98条2項にも反する。 現行のアイヌ政策はしたがって、社会政策であって、先住民族政策ではない。それは「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」が日本による北海道の植民地化の歴史を直視せず、その歴史に終止符を打っていないことからも明らかだ。 同有識者懇談会は8名の「有識者」のうち、5名が研究者である。それにもかかわらず、その報告書は上記のように国際人権法、日本国憲法や植民地化の歴史に照らして多くの問題がある以上、学問の在り方も問われなければならない。 現行のアイヌ政策は日本社会の問題を反映していると考えられる。 したがって、アイヌ政策の問題点を市民社会に広く知らしめ、歴史、文化、権利の観点から、 当事者アイヌを中心に据え、ボトムアップで代替案を探る必要がある。
目的
アイヌ政策から直接影響を受けるアイヌはもとより、アイヌ政策に懸念をもつ国内外の研究者、教育者、 ジャーナリスト、芸術家、社会活動家、政治家、学生や市民らが集まり、現状のアイヌ政策について開かれた場で批判的に検討する。 その結果明らかになった問題点を広く市民社会と共有し、国や道主導から当事者アイヌの自決権に基づくものへと転換するための基盤、 すなわち代替策をつくり、日本政府や国連人権監視委員会など国内外の関係諸機関に提示する。
2016年4月9日 (一部訂正 2016年12月23日)
アイヌ政策検討市民会議設立呼びかけ人 丸山博
                     (室蘭工業大学名誉教授、ウプサラ大学名誉博士、客員教授)
▼設立の問題意識と目的を読むと政策検討の市民会議。運動体ではない、 ということのようです。(2020.10.12)
市民会議の記録2016-2017
第1回(2016年4月9日、札幌市・北海道大学)
丸山博氏「アイヌ政策検討市民会議の設立にあたって」 吉田邦彦氏「アイヌ民族の政策諸課題──論点整理の試み」
第2回(2016年8月20日、札幌市・北海道大学)
丸山博氏「第2回市民会議の開催にあたって」 井上勝生氏「アイヌ共有財産裁判からの報告」 清水裕二氏、小川隆吉氏、畠山敏氏「アイヌ人骨返還リレートーク」 吉田邦彦氏「アイヌ人骨返還に関する声明文」
第3回(2016年11月19日、札幌市・北海道大学)
宇梶静江氏「アイヌなるものを探し求めて」 畠山敏氏「アイヌ先住権復興を目指す〜クジラ漁業をめぐって〜」 若月美緒子氏「教科書問題」 若月美緒子氏「落合講演問題」 上村英明氏「森林認証と先住民族」
第4回(2017年3月18日、札幌市・北海道大学)
若月美緒子氏「2.18集会の報告と落合講演問題の今後」 宇梶静江氏「アイヌ漁業権の回復をめざして」 島田あけみ氏「ダコタ・パイプラインをめぐるネイティブアメリカンの闘いへの連帯/政府のアイヌ政策と市民会議に対する私の思い」 吉田邦彦氏「国立アイヌ博物館構想への対案」 貝澤耕一氏「アイヌの土地・森林の管理について」 丸山博氏「生物多様性条約8条j項と先住民族文化」 ウィンチェスター・マーク氏「ヘイトスピーチ解消法とアイヌ」
第5回(2017年6月18日、札幌市・北海道大学)
広瀬健一郎氏「先住民族教育権回復の戦略―カナダからの示唆」 田澤守氏「樺太アイヌからみたアイヌ政策の根本問題」 萱野志朗氏「アイヌ語の復興」 ジェフ・ゲイマン氏「先住民族の教育文化権について」
第6回(2017年10月1日)
田中宏 二風谷訴訟が投ずる問題点・課題 吉田邦彦 アイヌ遺骨は何故アイヌ民族に戻らないか 若月美緒子/平山裕人 落合問題の顛末

▼過去の記録の中から 第5回(2017年6月18日) 樺太アイヌ協会の田澤守さんの
「樺太アイヌからみたアイヌ政策の根本問題」をご紹介させていただきます。

慰霊祭
 昨日、樺太アイヌの慰霊祭がありました。千島・樺太交換条約によって1875年、 841人の樺太アイヌが宗谷に強制移住させられました。その翌年の6月、854人が江別の対雁というところにさらに強制移住されました。 そこでわずか数年の間に三百数十名がコレラとか天然痘によって犠牲になりました。 その慰霊祭を毎年6月の第三土曜日に午後2時から、 今年は39回目、昨日行ないました。私は実行委員長をさせていただいておりまして、 天気は晴れて、幸せな時間を過ごすことができました。

日本民藝館「アイヌの美しき手仕事」チラシより樺太アイヌ刺繍衣装
 ここでみなさんに本当に最初にお礼を申し上げなければならないのは、 私がここで話をさせてもらえること、本当に感謝申し上げます。なぜなら、 アイヌ政策の中で樺太アイヌはほとんど出てきません。エンチウと言ってもほとんどでてこないんです。
自己決定権
私がずっと言い続けているのは自己決定権、自分たちの未来は自分たちで決めることができるんだ、 国連の先住民の権利宣言で認められているにもかかわらず、日本政府はそれを承認した、とかいいながら官房長官談話 で終わって法律にも何もできていない。それが現実です。
法律ではなくて、憲法に「日本に先住民族アイヌがいる」と、なぜ書かないのか。  私は憲法学者、特に北大のアイヌ先住民研究センターの、 落合さんの講演を聞いたとき「国とはなんだ」と言ったら、「人民じゃないんだ、憲法が国だ」と言われた。 「だから憲法が優先されるんだよ」と言われました。 だったらそこにアイヌが入っていないのはおかしいですね。 なぜ日本の先住民族アイヌがそこに入っていないのですか。
樺太アイヌの戸籍
やっぱりアイヌは日本という国の中で存在しないということと同じになっているわけですね。  それは樺太アイヌにとってみれば、はっきりわかる。 私が戸籍を取っても、樺太アイヌ民族だと証明できるものは何も出てきません。 「外務省に問い合わせてください」と言われました。樺太アイヌと証明できるのは、 わずか6人しかいません。北海道アイヌ協会は(会員資格として) 「戸籍をもってアイヌ民族だと証明する」と言い張っています。 そうでない人は、文化を継承している隣近所の人から「あそこはアイヌだよ」という、 そういう証明がなければ行政的には一切アイヌだと証明されません。
 今、アイヌ対策が実施され、多くの子どもたちは、 高校や大学へ行くとき、アイヌの就学資金を借りている。 でも樺太アイヌは正直、借りられません。私は協会を辞めたので、 (自分がアイヌだと)証明することができないんですね。道アイヌ協会に問い合わせてもできません。 北海道庁に言っても、戸籍がなければ樺太アイヌとしては認められません。 ですから「申請は受付られません」と突き放されました。それは今も変わっていません。
樺太アイヌの過去帳
 「自己決定権」ってすごくかっこいいですよね。私は自分で決めている。 みなさんに配布したレジュメ3枚の中で私の思いを書いておきました。  自分たちで自分たちのルーツを調べましょう。私は、調べて、樺太アイヌの過去帳を作っています。 それによって(あなたは)樺太アイヌだよということを──私が樺太アイヌ協会というのを作っているのですが ──樺太アイヌ協会が証明します。聞き取り調査ってすごく大事なんです。まだ志半ばまでいきません。  ここでいろんな問題が起きてきて。自己決定権(と言うけれど)、 樺太アイヌが(主体になって)決めるのがすごく難しい。日本の中でもアイヌの中でも、 樺太アイヌの存在はないに等しいです。無視し続けています。(これまでさまざまな)政策懇話会の中で、 「先住民アイヌだよ」と言いながら、千島(アイヌ)も樺太(アイヌ)もその中には入っていません。 政策に関すること全て、「あなたたちはどうしたいのか?」と聞かれたことはありません。
骨の返還 樺太アイヌは返されても困ります
 骨(の返還)に関すること、市民会議で盛んにやってますけど、私は第1回目(2016年4月会議) に来たときに反対したと思います。「簡単に返しちゃだめだ」と。 国や北大も謝罪もなしに「(訴訟和解で実質的にアイヌ原告が)勝った」と(評価するのは)、これは違います。 私たち樺太アイヌは返されても困ります。どこに持っていきます?  (遺骨発掘地の現在の統治国は)ロシアですから。  オーストラリア、ドイツから今遺骨が返ってきます。道アイヌ協会は喜んで「土に返すために引き取ります」って。 困りますよ、誰が(樺太アイヌではない)北海道の人に頼んだんですか?  自己決定権、どうするかを決めるのは私たちなんです。  樺太アイヌばかりじゃなくて、アイヌがどういうことを望んで、どうしたいかを決めて、 それを政府がバックアップするならわかるんです。今は政府が「アイヌ(政策)はこうだよ」(と決めている)。 アイヌ振興法を作って。
同化政策
 正月、私は夢を見ました。同化政策。旧土人保護法ができたとき、同化政策、アイヌはもう同化して 日本人になりなさいよという政策だったと思います。でも同化されないから百数十年たって今ここにいるんですよね。  でもみなさん、考えてみてください。アイヌ文化振興法ができて20年経つんですね。 日本で見事に同化政策が成立していると思いません? アイヌがアイヌである自尊心が何もなくなっているのが 一番すごいことだと思っているんです。お金をふりまくところにはアイヌは来る。でもこれだと、 お金をもらえないところとか(にはアイヌは集まれない)。
強制移住
 昨日の供養祭も、私は一切、行政とかどっかから補助金をもらっていません。 自前でやっています。対雁の供養祭は。昨日は60〜70人くらい、全国から口コミで「いつあるんだ」と (開催情報が広まって)集まったかと思います。半分くらいしか案内文出せてないんですけれども、 それだけの方が慰霊祭に参加してくれました。私が(実行団体に)入ったころの慰霊祭は、7〜8人で、11月に雪降って寒い中、 凍えながらやってました。(開催時期を)6月にしたのは偶然ですが、宗谷から対雁に強制移住させられたのが6月だったそうです。 それも船によって。陸路じゃありません、船で。  宗谷に移住させられたのも──研究者、日本人の多くは「強制じゃないよ」と言います。 「(自主的な)移住ですよ」と言います。「本人たちの同意を得てそこに行ったんですよ」と言います。 でも日本語も話せない、書けない、そういう人たちが署名捺印して日本語の名前を付けられてわずか 3カ月の間に800人以上が移住してくるって、どういうこと? ありえます? 本当に研究者がそういうことを 言えば言うほどおかしなことになると思うのですが。  それも含めて、樺太アイヌに対しては、3度か4度の強制移住があります。 宗谷、対雁、樺太でも10カ所ほどの居住地に集められます。集められて、自国民でもない「土人」 を強制的に集めて支配します。「旧土人」じゃないんですね、対雁に来たアイヌは旧土人。 でも樺太に残った多くの樺太アイヌは「土人」なんです。日本の管轄外なんですけれども。
「北方領土」
 アイヌにとって、北方領土なんて名前ないですから、千島といったほうがはっきりわかりますよね。 千島とか、あるいはウルップ島とかアイヌ名がついた島々があって、アイヌが先住していた土地であって、 日本人が先住していた土地でもないし、日本人が占領していたことでもないんです。まして北方領土と言わなければならない領土なんです、 あえて言えば。そういうとこで、樺太も含めていっぱいあちこちアイヌを集めてアイヌ連中を日本人扱いして、 だからここは北方領土なんだよ、日本の領土なんだよということをやっていたのが過去の歴史です。 それを何も清算しないままやっているのが現実なのだと思います。
昭和8年から樺太アイヌは「日本人」となります
 昭和8年までは、多くの残留樺太アイヌには、日本名はついてても戸籍はありませんでした。 昭和8年から多くの樺太アイヌに日本の戸籍を付けられて「日本人」となります。そして「樺太アイヌ」はいなくなります。 日本国民ですから日本人です。  でも戦争が1945年に終結して、多くの日本人が(樺太=サハリンから「内地」に)引き揚げてきます。 その中に樺太アイヌも「引き揚げ」……てはきません、「移住」してきます。 皆さんの中でも研究者の中でも「引き揚げ」です。(会場には)教科書問題の若月さんもいますが、あれを見てると、 「樺太アイヌのことはああ、無視なんだな」と思います。樺太アイヌにとっては、教科書の中では、いくら (歴史認識を正して欲しいと)言っても変わらないんだな、ということがわかります。
歴史は180度変えないといけない
私が一番言いたいのは、歴史は180度変えないといけない、ということです。実際に「アイヌの学校」って言われて、喜んでてはいけないんです。 「アイヌの学校」じゃなくて、「アイヌを日本人化する学校」なんです。「アイヌの学校」って当たり前に聞いているけど、 アイヌを日本人化するための学校じゃないですか、アイヌの文化を教える学校ではないですよ。  江別の対雁小学校は、樺太アイヌの縁でできた学校なんですが、そこで「アイヌの学校」ができるんですね。 そこで勉強した山辺安之助さんは(後年)、樺太に行ってアイヌの学校を作るんです。『あいぬ物語』なんて本も出します。 絶賛されてます。しかし樺太アイヌにとっては、日本人化されたアイヌに、さらに日本人化されるシステムを作られてしまうんです。 考えてほしいのはそこなんですよ。
少数者の権利も守れないような多数者ってのはあっちゃいけない
 みなさんは、根本的に権利があるんだよと言っても、誰も主張しないじゃないですか。 権利があるなら義務もあるんだろうって。それだったら常本(照樹・北海道大学アイヌ・先住民センター教授)さんではないけど、 「(先住権は)あっても(アイヌには行使)できないんだよ」って。要は多数者の権利が優先で、 「あなたたち(アイヌ)には、少数者の権利は多数者の理解がなければ(行使)できないんだよ」って。 これっておかしくないですか。少数者の権利も守れないような多数者ってのはあっちゃいけないんじゃないですか。 私はだから歴史を180度変えないと、アイヌ政策検討市民会議の意味はないと思ってます。
国にお願いするんじゃなくて、権利があるんですからこうやってくださいよって
 ここの市民会議が180度変えるような提言を出せるんだったら、私もこれからも一緒にやっていきたいけど、 でもただ「国がやっている政策のここが違うんじゃない?」「あそこが違うんじゃない?」っていうだけだと、 私はだめだと思っています。アイヌが望む、アイヌは本来あるべき姿を提案し実行するのがこの会議の目的だと思っているんですね。 それ以外ありえないと思っているんですね。  だって国がやっているやつ(アイヌ政策)に、棚卸しみたいに降りてくるものに、 「ここをこうしてください」「ああしてください」というのはおかしいじゃないですか。 そういうお願い事なんてしなくていいんです。お願いするんじゃなくて、こういうふうに権利があるんですからこうやってくださいよって。 それを国が、アイヌの権利を応援しますよ、っていうのが国の責任じゃないですか?
北海道も千島・樺太も、全部返してください
 よくある「国有地を返せ」なんて、とんでもないですよ。北海道も千島・樺太も、全部返してくださいよ。 一般市民が所有してるのは、国の責任で解決することなんですよ。国の問題も、一般市民の問題も残さないといけないんです。 区分けしないといけないんです。
アイヌも、アイヌの問題をとっとと解決しないといけない
 アイヌも、アイヌの問題をとっとと解決しないといけないんです。アイヌ自身、今まで何十年かかってもしないからこうなるんです。 自分も含めて言っています。いつまでそれを続けるのか、アイヌ自身もとっとと答えを出さないといけないんです。 歴史を変えるアイヌ政策検討市民会議であってほしいなと、自分がその一人になれたら本当に幸せだなと思っています。  そのためにできることはなんでもするって決めるのが、自己決定権だと思ってます。 ここで発言するのも自己決定権だと思っています。
東京オリンピックまでに象徴空間を作りますよ
「東京オリンピックまでに象徴空間を作りますよ」 「それで貴方たちを満足させますよ」と言ってますが、(日本政府が過去)数百年、アイヌにやってきたことに、 たかだか象徴的空間で観光アイヌを作る目的で、2020年に間に合わす、こんなことに賛同している人がいるとしたら……。 なぜ観光アイヌを作ることに賛同しなければならないのかわからない。なぜ2020年までにそれを作らなければならないのか意味がわからない。
アイヌ同士が自分たちの未来をもう一度リセットし直していかなければ
 一つ一つ問題を解決していくことが、時間がかかっても、十年かかろうが、二十年かかろうが、 アイヌ自身が出した答えを政府が応援するのがあるべき姿だと思います。アイヌが本当に、それこそ何十日、何十年かかってもいいから、 アイヌ同士が自分たちの未来をもう一度リセットし直していかなければアイヌの権利は獲得できないと思う。
 「権利はある」と言われているのに、権利を放棄しているのはアイヌです。間違いなく。 先生方、丸山先生も吉田先生も、「あなたたちも権利があるんだからなんとかしなさいよ」と再三言っているのに、 権利を主張しないのはアイヌなんです。市民会議がその権利を当たり前に主張できる、 この権利を明確に主張できる市民会議であってくれたらなと思います。
少数者の中の少数者を認めることをしないのがアイヌなんです
 私は樺太アイヌ。「北海道アイヌも同じだろ?」と何度も何度も何度も言われました。 「少数者の中の少数者がいるんだよ」と言っても無視され続けました。無視され続けて、ああ、 もう自分たちにはいくら言っても変わらないんだなと思いました。それはアイヌ自身もやってるんですよ。 国民に対して「アイヌを認めてくれよ」「アイヌの主権を認めろよ」と言っているんだけど、 少数者の中の少数者を認めることをしないのがアイヌなんです。だから一緒に、自分たちの問題も、 自分たちでない人の問題も一緒に行動する、そういうことが大事だと思ってるんですね。
明確なビジョンは、アイヌ自身が未来を自己決定するってことだと思います
 昨日感動したのは、アイヌばかりじゃなく、北海道アイヌの人も、樺太アイヌの人も、日本人も、 中国の人も、みんな集って真剣にアイヌの未来を語ってくれました。初めての人も、現状を見て非常に真剣に語ってくれました。 本当にそうあるべきだなと思っています。  明確なビジョンと目的設定って、一般社会でよく言われますが、明確なビジョンは、アイヌ自身 が未来を自己決定するってことだと思います。それをみなさんと一緒にできて、和人の人はサポートしながら、早く、 どういうふうな未来を思い描くのか、アイヌに「決めなさいよ」と、一緒にやってくれたらいいなと思ってます。  それが自分たちの生きる道だと思っています。私がルーツを探して家系図を作ってアイヌを証明する。 1日でも早く作り上げていく。各世界にいっている骨も、早く樺太アイヌ自身の手で受け入れて早く土に返してあげたいなと思っています。 そういう意味でも、今年中に樺太アイヌの遺族会を作ります。そこが窓口になります。それで前に進みます。
南極探検隊
 少し道を逸れるかもしれませんが……。  この写真、何かわかります? 南極探検隊なんです。探検隊の秋田から白瀬矗さんの関係というか、 探検隊の本を出した佐藤忠悦が(昨日の慰霊祭に)来てくれたんですけれど。(当時)犬ゾリ用に成犬30頭を連れて行ったそうです。 (南極に向かう途中)オーストラリアで成犬が亡くなって、新たに30頭を追加して、南極探検隊したんだそうです。 それはすごく賞賛されました。ここに2人、写ってるのは、山辺安之助さんと花守新吉さん。この人は樺太アイヌです。 この二人が犬の訓練係です。二人が着ている毛皮、なんだと思います? 樺太犬の子犬の毛皮です。 裏表あるので、一人20頭分くらいです。かける(隊員の)人数分です。それで、多くの樺太アイヌは飢えと貧困に苦しむんです。 樺太アイヌにとって犬は労働犬でもあり食料でもあるんです。  歴史上なにもでてきません。わかりますか、歴史を変えたいというのはそのためなんです。 綺麗事じゃないんですよ。綺麗事じゃない歴史を、きっと取り戻さないといけないんですよ。
アイヌであることを(知られまいと)避けている仲間もいるんです
 いろんな学者さんが、いろんなことを調べてくれます。「郷土を掘る会」っていう会に呼ばれて行って、 もらった資料の中に、(亡くなったアイヌの名前を記した)過去張が出てきました。私は「すぐ取り下げてください」 と抗議をして、取り下げてもらいました。私たちの手にも入らないものが、民衆史の、いくら研究者といえども、 一般社会にばらまくのは許せないんです。歴史を正しく知ることと、歴史をありのままに伝えることと(同時に)、 嫌がる人がいるということを理解してほしい。過去帳とか、亡くなった樺太アイヌの名前を三百数十名、全部入れてしまったり。  アイヌであることを(知られまいと)避けている仲間もいるんです。それも認めないとならないんです。 だからいろんな仲間と協議しながら、出していいものなのかどうかも含めて、前に進んでいってほしいな。  30分て短いな。終わります。
自己決定権について覚書
 あと、これも言いたかった。自己決定権について覚書を交わしています。 (相手は)サハリン州知事バレンティン。当時計画がありまして、今よりも道アイヌ協会の理事たちは活動していたと思いますが、 聞き取りして、「覚書を交わしていいか」と国際電話で私に電話がきて、「ぜひやってください」と答えて、結ばれたものなんです。 これが自己決定権につながっていくと思います。自分たちの島に帰るのだということで。  終わります。
▼これぞ当事者の声、マイノリティーの声です。このような声を求めていました。田澤守さんの気持ちに応えられるような裁判 にしていきたいと思います。(2020.10.12)

話者の絶えた樺太アイヌ語   https://www.jstage.jst.go.jp/article/jajls/14/2/14_KJ00008208139/_pdf
          ーそ の 終焉 と再 生 の 可能性ー村 崎 恭 子 (元横 浜 国立 大 学教 授)

ア イ ヌ 語 は,現 在 日本 列 島 に しか な い 日本 語以 外 の 土 着言語の 一つ で す .今 か りに大 和 民 族 の こ とば を 日本語 と呼ぶ な ら ば, ア イ ヌ語は , 日本語が こ の 日本列 島で 形成 されて 話 され る よ うに な る以前か ら 列 島北 部 を 中心 に 話 さ れて い た 先 住 民族 の 言語 で , 日本語 の 基 盤 を成 す重要 な 言語だ とい うこ とが で き ます .
ア イ ヌ 語 に は 文字は あ りませ ん .ア イ ヌ 語 は 大 き く北海 道方 言 ,樺太 方 言 ,千 島方 言 の 3 つ の 方 言 に分 け られ ま す. こ の うち こ こで 扱 うの は 樺太 方 言 で す. こ れ を樺 太 ア イ ヌ 語 (KA と略 す ) (エ ン チ ウ 語 )と 呼ぶ こ と に し ま す . 文字 の な い ア イ ヌ 語 の ,過 去 に お け る分布状況 を 確 認 され た ア イ ヌ 語地 名 に よ っ て 示す と (図 1)の よ うに な ります .
つ ま り,北海道 を 中心 に 南は 本州 の 東北地 方, 北 は サ ハ リ ン (旧樺太 )の 南半分 ,束 は 北海道 の 根 室 か らカ ム チ ャ ッ カ 南端 まで の 千 島列 島の 地域 に ア イ ヌ 語が 話 され て い た こ とが わ か りま す. こ れ は 山 田 (1982)に 基 づ い て 筆者 が 描 い た 図です .

樺太 ア イ ヌ語 (エ ン チ ウ語 とい う別 称 が 最近 生 ま れ ま した )とい うの は , か つ て は サ ハ リ ン 島 の 南部, つ ま り日本 の 植民地 で あっ た 南樺太 で 話 され て い た 言語 で ,文字 が な か っ た た め に , また戦 前 か ら戦後 に 及ぶ 日本 語 同化政 策 に よ っ て 話者 が 激減 し, 1994 年 に 最後 の 話 者 が 亡 くな っ て 絶 え て し ま い ま した
樺 太 ア イ ヌ 語 (KA )は , 多 くの 点 で 北海道 ア イ ヌ 語 と異 な っ て お り, 普通 の 話 し言 葉で は 互 い に 通 じ ない ほ ど距離 が あ ります.東京弁 と京都弁 ぐら い で しょ うか .因み に 世界最 古の ア イ ヌ 語音声 資料 とい わ れ る B .ピ ウ ス ツ キ の 蝋管 の KA の 再生 音 声 (こ れ に つ い て は 後 で 詳述 ) を 1980年代 に 道 内の ア イ ヌ 語話者 に 聞 い て も らっ た こ とが あ ります が , そ の とき北海 道方言話 者の 多い 二 風谷 (ニ ブタニ )の 古 老 た ちは , ぜ んぜ ん 分か りませ ん で した .

1990年の 夏, 内 外 の 研 究者 10 人 の 調査 団 を 組織 して 私 は 憧れ の サ ハ リ ン へ 行 き ま し た . ど こ か に ア イ ヌ 語 が で き る 人が い るか もしれ な い とい うひ そ か な期待 を 持 っ て タ ケ さん の 故郷 を 巡 っ て , また あ らゆる 筋 を た どっ て 捜 し求 め ま した が , 駄 目で した. 同 じサ ハ リン の 少数 民族 で あ る ニ ヴ フや ウ ィ ル タの 人 々 は 少数 なが らちゃ ん と言語 を保 っ て い る の に , ア イヌ語 が で き る 人 に は 一人 も出会 うこ とが で きませ んで した .昔 栄 え た ア イ ヌ コ タ ン の あっ た と こ ろ に は ,風 光 明 媚 な海 と川 と湖 の 自然が あ るだ けで した . こ の 旅 は私 に とっ て , ど う して ア イ ヌ語 だ けが こ ん な 風 に根 こ そ ぎ口本語 に 同化 され る運命 に な っ て し ま っ た の か を改 め て 考 え させ られ る ,非常に 重 い 経験 で した .

現代 の 日本社 会に お い て 実際 に は 全 く使わ れ て い ない 「ア イ ヌ語 の 再生 の 可能性 」 を探索 す る 意義, つ ま り, 日本 社会 に お け る 「ア イ ヌ 語再 生」 の 社会 的意 義,必 要 性に つ い て 確 認 して お か な けれ ば な りませ ん .そ れ は ,「ア イ ヌ 語 が 日本 に しか な い , 日本 の 土 着 言語 だ 」 とい う確 認が 大 前提 と な る と思 い ま す. 言い換えれば,ア イ ヌ語 の 故郷 は古代 の 日本 列 島以 外で は あ りえない の で す.
そ の 証拠 に , 日本列 島の 各地 に ア イ ヌ 語地 名が 存 在 して い ます,現在 は ロ シ ア 領 に な っ て い るサ ハ リ ン 南部 や 千島列 島に もア イヌ 語地 名が 色濃 く存在 し ます が ,サ ハ リ ン や千 島の ア イ ヌ 民族 は歴 史的 に 見 て 古 い 時期 に 北海 道か ら移 住 した と思 わ れ るの で , 矛盾 し ませ ん .も う一度 ,ア イ ヌ語地 名 の 範 囲 (図 1)を ご 覧 くだ さ い . こ れ は , 金 田一京 助先生 ,知 里真 志保先生 ,山 田 秀 三 先生 な ど優れ た先 人 た ちに よっ て 検証 され た ア イ ヌ語地 名の 分布 図を基 に , 山 田秀 三 先生 の 手法 に よっ て ,現 地 に地名探 索 を重 ね て ア イ ヌ 語地 名の 可 能性 を調 査 して ,筆 者が 補充 し た 図で す. こ れ に よ っ て ,文 字以 前 の 日本列 島の 言 語 文化 の 姿 を想像 す る こ とが で き ます.ア イ ヌ 語地 名研 究 は ,未 だ 解明 され て い な い 文 字以 前の 古代 日 本語 の 歴史 を解 く鍵 を握 っ て い るか も しれ ませ ん .

最近 とて もうれ しい こ とが あ り ます .そ れ は , 樺 太 ア イ ヌ の 血 を 引 く若い 人 々 が 作 る 「樺太 ア イヌ 協 会 」 の 活動が 活発 に な っ て きた こ とで す. 『樺 太 ア イ ヌ協会』 また の 名前 を 「エ ン チ ウ協会」 と い う こ の 協 会 は,戦 後樺 太 か ら北海 道 の 稚 咲 内 ワ ッ カ サ ク ナ イ , ワ ッ カ サ カ ナ イ (北 海道豊富町 内 の 地 域 名) に 移住 して きた KA の 子孫 の 同 志数 人 が 集 ま っ て ,10 年 前 2001年 に, 自分 た ちの 言語文 化 が 北海道 ア イ ヌ 文化 とは 大 き く違 っ て い る こ と,エ ン チ ウは ウ タ リ (北 海 道 ア イ ヌ ) とは 一緒に して ほ し くな い , とい う思 い か ら,北海道 ウタ リ協会 に は 所 属せ ず に , 独 自の 協会 を設 立 した もの で す. こ れ は 田 澤 守 会長 を 中心 に まだ , ご く少数 の グ ル ープで す が 今 も地道 な活動 を 続 け て い ます.
▼このような素晴らしい研究に出会えたことをうれしく思います。(2020.10.13)
朝日朝刊2020.10.10
北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授 北原モコットゥナシ
石純姫(ソクスニ)『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり』―帝国の先住民・植民地支配の重層性ー。両者がともに植民地主義下で国家への包摂と 異民族としての排除というダブルバインドを経験してきたことがわかる。
土橋芳美『痛みのペンリウク』は、縁者の遺骨が北海道大学にある と知ったときの心境を「自分が裸にされ、十字架に架けられ、札幌の大通街にでもさらされているかのような恥ずかしさ、悔しさに涙した」と記す。
「黒人文化だけでなく黒人も愛してほしい」というBLM運動から発せられた言葉は、アイヌの状況にもそのまま重なっている。
▼北原モコットゥナシさんのような研究者が現れてきていることはよろこばしいです。(2020.11.4)

                            
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