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日本の国の 成り立ち(朝鮮半島と天皇)
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朝鮮侵略
「豊臣秀吉の朝鮮侵略」(李進熙『新版日本文化と朝鮮』)/ 吉田松陰『幽囚録』/ 大韓帝国皇帝純宗/ 柳宗悦/
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「徴用工」/ 「徴用工」問題シン・ヘボン教授/ 「徴用工」問題 韓国の教科書では/
「徴用工の名が刻まれた慰霊碑を撮影する韓国の映像作家」安海龍(アン・ヘリョン)さん
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参政権
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謝罪
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「在日」
「在日コリアンの人権白書」(おわりに)/ 呉徳洙監督/ 柳美里/ 小説家平野啓一郎/ 呉文子さん/ 「ヘイト禁止条例」/ 金時鐘(キム・ シジョン)さん/

▼東京港区南麻布に「在日韓人歴史資料館」があります。地下鉄「麻布十番」から歩いて3分ぐらいのところです。 2005年11月24日に開設されたようです。見学してみると日本に住む「在日」の人たちがどのような苦難の歴史をたどって こられたかがよくわかります。 わたしは2018年4月24日、はじめて訪ねました。 できればみなさんにも資料館を訪ねていただきたいですが、そうもでき ない方もいらっしゃるとおもい、「在日」の人たちの本当の姿を多くの日本人に是非知っていただきたい、とのおもいからこの ページを作成いたします。

わたしの手元には資料館で発行しておられる「写真で見る在日コリアンの100年」(2008年12月25日発行)、 「100年のあかし」(2010年11月24日発行)、 それにことし2月14日民団中央本部から発行されたばかりの「在日コリアンの人権白書」があります。 これらの資料と実際、資料館を訪ねた印象を交えながらご紹介していきます。
まず基本的な歴史を知るために「100年のあかし」26頁〜27頁の「在日100年 年表」(なおこの年表は朴慶植『解放後在日朝鮮人運動史』(三一書房) 姜徹『在日朝鮮韓国人史総合年表』(雄山閣)を参照して作成されています) から、わたしの注意を惹き、 みなさんに知っておいていただきたい項目をピックアップしていきます。 そして年表の短い一行に凝縮されている事実を理解するために必要な情報、更に必要な項目を、色を変えて補充しておきました。 わたしの感想、コメントは▼で印しておきます。引用文の中のゴチはわたしが強調したいところです。 なお資料館ではホームページ http://www.j-koreans.orgも開設しておられますので、そちらも参考になさってください。  このホームページ作成中に6月12日米朝首脳会談がシンガポールで開かれました。 当初、「在日」の人たちがわたしのもっぱらの関心でしたが朝鮮半島の大きな動きも追うようにしました。 基本的な宣言、声明、合意は掲載したつもりです。(2018年7月1日)
▼このHPを作り始めてからほぼ2年です。いま強く感じていることは「在日」の問題、朝鮮半島との関係抜きに日本はあり得ない、語れない、 ということです。日本という国の誕生からはじまり、近世〜現代の日本の本当の姿は朝鮮半島との関係を抜きにすると見えてこないと思っています。 特に年表1946年のところで取り上げました佐々克明『天皇家はどこから来たか』、李進熙『新版日本文化と朝鮮』、 金達寿『日本の中の朝鮮文化』を是非ご一読ください。 どうか皆さん、自虐的ということではなく、自分たちの国の真実を知る、という気持ちでお読みいただきたい、と改めておもいます。(2020.6.2)


「在日100年 年表」より 
年表は1905年、日露戦争終結後から記載されていますがその前に日清戦争があります。
日本は明治初年以来、朝鮮侵略政策をとり、 早くも1875年(明治8年)に江華島事件を起こし、朝鮮に宗主権を主張する清国と対立していました。その結果が日清戦争でした。 1894年10月反侵略の東学農民戦争がおきます。朝鮮近代民衆運動の開幕を告げるものでした。 (東学農民戦争の部分2020.7.21追加) その後ロシアとの間で朝鮮・満州の支配権をめぐって日露戦争が起き1905年9月のポーツマス条約で 韓国への日本の支配権が確立していきます。」
(以上の記述は私の手元の1996年発行角川書店「日本史辞典」からです。)
まず基本となる大きな条約、宣言、声明は下記の文書です。

1951年 サンフランシスコ平和条約
1965年 韓日基本条約
1991年 南北基本合意書
1993年 河野談話
1995年 村山談話
1998年 日韓共同宣言
2000年 南北共同宣言
2002年 日朝平壌宣言
2005年 6者会合共同声明
2007年 南北首脳宣言
2010年 「韓国併合」100年日韓知識人共同声明
2018年 板門店宣言
 
▼年表から入っていきます。
1905年 9月  関釜連絡船(釜山〜下関)就航
▼以下は年表の補足になります。この部分の出典は「100年のあかし」です。
「渡航には釜山水上警察での厳しい検問があり、旅費以外に10円以上を所持し、日本語がわかり就職先の確実な者 のみが渡航を許された。それでも1930年には渡日した朝鮮人は40万人に達した。朝鮮銀行券の紙幣の肖像画 は、朝鮮を古代日本の属国にしたという神功皇后の総参謀長として知られた日本の武神である武内宿禰(たけのうち のすくね)。古来から朝鮮は日本領である、との明治日本の国家意志の表明であり、その侵略性を隠蔽する意味を持 つ。
ちなみに明治日本の最初の紙幣(明治14年)の肖像画は神功皇后であった。お札に表れた日本帝国主義の意図を 忘れてはならない。」(「あかし」1〜2頁)
資料館ホームページhttp://www.j-koreans.org展示品解説・お札に表れた侵略性にアクセスしてください。
▼恥ずかしいことです。朝鮮銀行券の肖像画のことも日本の最初の紙幣の肖像画のことも知りませんでした。
ところで「朝鮮を古代日本の属国にしたという神功皇后」の話は『日本書紀』の神功皇后紀47年条に出て来ますが、 それが作り話であることは李進熙教授の『新版日本文化と朝鮮』(日本放送出版協会 38頁〜50頁) に詳しいです。
実際『日本書紀』の当該部分を読んでみましたが、名文で危うくそのまま信じ込んでしまいそうです。しかし、朝鮮を属国にした、 とういう「作り話」を国の正史に書き込むこと自体が傲慢ですし、それをずっと信 じ込んできた日本人もどうかと思います。そしてこの「作り話」が秀吉の文禄・慶長の侵略を生み、 明治維新後の朝鮮植民地化へとつながって行く。澄んだこころで朝鮮との関係を考える必要があると思います。(2019.2.25)
▼さらにつぎのような文章に出会いました。

「「征韓」は明治新政府の国策だった。」これはもちろん私の常識でしたが、次の一文は驚きました。 「ちなみに、吉田松陰はすでに「朝鮮を責めて質を納れ、貢を奉じ、古の盛事の 如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢いを漸示すべし」(『幽囚録』)と主張しており、その門下生たちが 新政府を動かしていたのである。」(同書243〜244頁)。
不明を恥じました。あの松陰が!(2019.3.1)
▼今日、吉田松陰 『幽囚録』を調べました。 現代語訳で当該部分を見つけました。(2020.5.15)
「日は昇らなければ沈み、月は満ちなければ欠け、国は繁栄しなければ衰廃する。 よって、国をよく保つ者は、有る領土をむなしく失わないだけではなく、ない領土を増やすのである。 今、急いで軍備を整え、海軍の計画を持ち、陸軍の計画も充足すれば、すなわち北海道を開拓して諸侯を封建し、 間に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を理によって説得して国内諸侯のうちとし、威力をもって朝鮮に質を納めさせ、 貢を奉らせていた古代の盛時のようにし、北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、しだい進取の勢いを示すべきだ。 その後、住民を愛撫し、国土を養い、辺境の守りに気を配って、つまり堅固によく国を維持するといえるのだ。 そうでなく諸国民が集まって争っている中で座りこみ、うまく行動することがなければ、国は幾らかのうちに廃れるのだ。」
▼維新政府とその後の帝国主義天皇政府は松陰の青写真通り動きました。
▼私が今日、『幽囚録』の 漢文の原文をながめてさらに驚いたことは、『日本書紀』の記述がそのまま引用されていたことです。720年に成立した 『日本書紀』が千年以上も脈々と日本の知識人、政権に受け継がれてきたということです。「在日」コリアンの問題の根は 『日本書紀』にあるということです。この「作り話」をまず砕くことが「在日」問題の解決に、むしろこの問題の 解決抜きに「在日」の問題の解決はあり得ないと今は考えるようになりました。(2020.5.15)
         
    11月17日 韓日協約(第2次・「乙巳(いつし)条約」)外交権剥奪
▼日露戦争終結後の日本と韓国が締結した協約。 これにより韓国の外交権はほぼ日本に接収されることとなる。朝鮮各地に反日暴動がおこる。
     12月21日 日本、韓国統監府設置 初代統監に伊藤博文
1906年 11月05日 東京朝鮮基督教青年会結成
      ▼青年会館はのちの2.8独立宣言の会場。
1907年 7月24日 韓日協約(第3次)軍隊解散、警察権剥奪
      ▼2年前の第2次韓日協約で外交権を剥奪し、第3次で軍隊を解散させ、警察権も剥奪し実質的支配権が完了
1909年 10月26日 安重根(▼日本語読み: あん じゅうこん、朝鮮語読み: アン・ジュングン)、ハルビン駅で伊藤博文を射殺       (1910年3月25日、旅順監獄にて死刑執行)
1910年 8月22日 「韓国併合条約」締結 朝鮮総督府設置(8月29日) 初代総督に寺内正毅
      ▼1910年、明治43年、朝鮮半島を法律的にも植民地とします。明治の国家目標はこういうことだった。
       アイヌの頁を見てください、「韓国併合条約」時の大韓帝国皇帝純宗のことばは日本人として胸が痛みます。

     9月30日 土地調査事業開始(〜1918年12月) 自小作農の離農現象、渡日はじまる
      ▼これ以降日本への渡航が以後急速に増えます。
      下のグラフはHP「図録・在日韓国人・朝鮮人の長期推移」から転載しました。
▼在日韓国人・朝鮮人の長期推移の グラフは1909年から始まっています。
在日コリアンの数は1924年に10万人を、1928年には20万人 を越えます。
30年代後半から本格化した日本のアジア侵略戦争にともない炭鉱や鉱山、軍需工場や土木工事に強制的に動員される朝鮮人が激増し、 1939年に約100万人になります。
敗戦の1945年はピークで約210万人と推定されています。

つまり太平洋戦争に突入して行った5年間で100万人以上が増加しています。

仮に今の日本で5年間に海外から100万人の外国人が押し寄せたら日本社会がどうなるかを想像してみてださい。
と同時に流出先の地域から100万人が居なくなるということでもあります。
日本国内の混乱と流出元の荒廃です。

ところで土地調査事業とは
従来農民の小作権は奪うことができないものと考えられてきたのが、本土地調査の結果、地主の自由になるものになってしまった。 また、多くの土地が国有地として編入された。代々慣習により耕作してきた多数の農民が証書を持っておらず、 証書による裏付けがないとして国有地に編入された。申告されていない土地も国有地に編入された。 その結果多くの小作農民が農地を失なった。(Wikipedia)
▼これは明治初期の北海道の開拓時、アイヌの人たちの土地が国有地として編入されたやり方に酷似。

1911年 10月27日 東京朝鮮留学生学友会結成(1914年4月『学之光』創刊)
1914年 7月28日 第一次世界大戦(〜1918年) 戦争景気により産業界廉価な労働力として朝鮮人の移入要求高まる
1918年 7月23日 富山県魚津町米騒動のはじまり
1919年 2月8日 2・8独立宣言(在日朝鮮人留学生が東京・神田の青年会館で独立宣言書を発表、宣言文を本国に伝える)
2・8独立宣言は、朝鮮人留学生が展開した民族運動である。民族運動の原点である 3・1独立運動の導火線となっ たのが2・8独立宣言である。日本が韓国の独立を容れざれば「永遠の血戦」を挑むと結んでいる。この宣言に結集 した600名の学生のうち395名が帰国、3・1運動の先頭に立った。(「写真で見る在日コリアンの100年」16頁)

▼この流れの中に朝鮮半島との関係があるということを日本人はよくよくわきまえておかなければいけない。
右は「人権白書」@頁に掲載されています独立宣言の代表者たちの集合写真です。

     3月1日 3・1独立運動(〜1920年)民族あげての独立運動となる
▼李進熙『新版日本文化と朝鮮』251頁〜253頁より
「1919年3月1日、「独立万歳」をさけぶデモがソウルにおこり、またたく間に朝鮮全土にひろがった。 それは二百万にのぼる人びとの、独立を請願するデモであった。総督府は軍隊をもって鎮圧にのり出し、 三万をこえる人びとを殺害し、傷つけた。
2019.12.13朝日新聞夕刊
1919年新婦人協会創設。そういう時代。(2020.5.31)
2019.12.13朝日新聞朝刊
記事の内容。永井愛「青鞜」を舞台化。
1911(明治44)〜16(大正5)年に出版された「青鞜」復刻版を読み 現代に通ずる問題意識にひかれたという。とりわけ、女性の性や身体の自己決定権について、 今につながる議論を堂々と提起している点に注目した、とのこと。(2020.6.1)

柳宗悦は1920年4月の「朝鮮の友に贈る書」で「私は目撃者ではないとはいえ、 さまざまな酷い事が貴方がたの間に行われたのを耳にする時、私の心は痛んでくる。 私は今二つの国にある不自然な関係が正される日の来ることを希って いる。正に日本にとって兄弟である朝鮮は日本の奴隷であってはならぬ。 それは朝鮮の不名誉であるよりも、日本にとって恥辱の恥辱である」と述べている。
このとき柳は31歳であったが、ここまでいいきるのは、当時としてはたいへん勇気のいることであった。ちなみに、 朝鮮の独立運動にたいして肯定的な発言をしたのは吉野作造ぐらいで、他は沈黙をまもりつづけたのである。」
▼さらに李進熙教授は柳宗悦の「朝鮮の友に贈る書」の次の箇所を紹介されている。
「日本はかつて朝鮮の芸術や宗教によって、その最初の文明を生んだのであり、今日この事は感動をもって記憶されねばならない。 …過去の朝鮮を愛して未来を敬わないのは、過去の朝鮮に対する侮辱にすぎない。過去への全き尊敬は未来への信頼に活きねばならない。」 (李進熙『新版日本文化と朝鮮』257頁)
▼複雑な日韓・日朝関係の今日、冷静に歴史を振り返る必要があると思う。(2019.2.25)
▼2019.2.27の朝日新聞朝刊の記事。
「韓国文化体育観光省が26日発表した世論調査(韓国市民約千人を対象に今月上旬実施)によると 「日本に好感がもてるか」の質問に「もてない69.4%」「もてる19.0%」。
「親日残滓の清算」の質問に「清算されていない80.1%」「清算された15.5%」。
「清算されていない」と答えた理由いついては48.3%が「政治家や高級官僚、財閥などに親日派の子孫が多い」と答えた。」
▼しっかりこころに留めておくべき世論だとおもった。
     4月15日 総督府、「朝鮮人ノ旅行取締リニ関スル件」により日本への渡航を制限(1922年廃止)
1920年  朝鮮産米増殖計画開始 水利税、土地の兼併など自小作農の没落、流移民続出
朝鮮産米増殖計画(ちょうせんさんまい ぞうしょくけいかく)は、1920年代に当時日本領であった朝鮮半島で行 われた朝鮮総督府主導の土地・農事改良事業。明治以後、日本は急激な人口増加と生活向上に伴って米の需要が高まったが、 当時の日本国内の生産力はその需要に対応しきれず、20世紀に入った頃には日本は恒常的な米の輸入国になっていった。 (Wikipedia)
1921年 7月28日 警視庁特別高等課に「内鮮高等係」設置(後に全国に設置、在日朝鮮人が治安対象となる)
      ▼日本政府はこれ以来今日に至るも「在日」を治安対象と見ているようだ。
1922年 3月3日 全国水平社創立
     7月15日 日本共産党結成

1923年 5月1日 東京でメーデー、多数の朝鮮人検挙される
戦前の日本の社会運動・労働運動は在日朝鮮人の活動を除いては成立しないといわれている。 差別をなくせ、生活の権利を守れ、といった運動は在日朝鮮人が10万人を超えた1920年代前半から高まりを 見せる。この頃のメーデーの旗手は朝鮮人で、常に日本の運動の前衛として力を発揮していた(「写真で見る在 日コリアンの100年」44頁)
▼その証拠が五月書房『ドキュメント志賀義雄』にあります。よく見ると刑務所での写真は徳田球一・志賀義雄・金 天海はいつも一緒です。右端から金天海、志賀義雄、徳田球一です。
次の文章は1945年10月10日の府中刑務所出獄の場面です。
「同志キン(金天海のこと)が降壇すると、ただちにデモに移った。
出迎者たちの胸にたぎりたつ興奮と感動はそのまま解散することをゆるさなかったのである。 ワッショ ワッショ ワッショ ワッショ  同志トクダ、シガ、キンを中心に赤熱した溶岩の流れのようにぐるぐると 広場をまわるデモはいつとまるともわからなかった。」(松本一三)
▼沖縄のトクダ、朝鮮のキン、そして本土のシガ。マイノリティーの団結を示唆しているように感じられる。 今回「在日」の勉強をしてみて、「在日」はこの頃から、そして現在も、日本社会の抱える問題の最先端に立っている、 との思いを強く持つようになった。
      9月1日 関東大震災 朝鮮人暴動流言、人心を不安にする
      9月2日 朝鮮人暴動を理由に戒厳令公布 軍隊、警察、自警団
         による朝鮮人虐殺はじまる                    
※写真は代々木練兵場に連行された朝鮮人
9月1日は日本の防災の日である。しかし、在日にとってこの日は人災の日である。 在日100年の歴史を考える上で朝鮮人という だけで街頭であの世送りになった震災時の受難は避けて通れない。 東京・横浜などに住んでいた朝鮮人約2万人のうち6000人以 上とされる殺人事件の真相はいまだに闇の彼方である。 日本当局は、「震災の混乱に乗じ朝鮮人が放火し井戸に毒を入れてい る」という奇怪なデマが流れ、 自警団による偶発的事件としている。しかし、組織的にデマを流したのは官憲であり、戒厳令による 出動軍隊の虐殺 行為に民兵化した自警団が同調した国家的民族犯罪であることは河目悌二(推定)の絵であきらかである。問題 は いまだかつて日本当局がこの事件の調査をしたこともないし、謝罪をしたこともないことである。歴史に時効はない。 真相は明ら かにされねばならない。(「写真で見る在日コリアンの100年」20頁)
▼『新版日本文化と朝鮮』を勉強して1923年関東大震災時の朝鮮人虐殺と 4年前の1919年朝鮮半島での3.1独立運動の弾圧が つながっていることに気づきました。(2019.2.27)
東京墨田区の都立横綱町公園(地下鉄都営大江戸線「両国」徒歩4分)には、1973年に民間団体が建立した朝鮮人 犠牲者追悼碑があり、毎年9月1日に営まれる追悼式には歴代の都知事が追悼文を送付していた。ところが2017年、 小池知事は自身も前年には送付していたにもかかわらず、碑文に刻まれた犠牲者数(6千余名)が根拠希薄との都議会議員の指摘を受け、 追悼辞の送付を見送り、多方面からの非難の声があがった。(「在日コリアンの人権白書」115頁)
▼都議会議員よ、ならば犠牲者の数も含め自分で真相を明らかにすべし。小池都知事の歴史見識も疑われる。

都知事として真相 究明に取り組むべきではないのか。5月28日、 私は追悼碑に自分の気持ちを伝えるべく訪ねた。右はその時の写真である。

※昨日(2018年9月1日)はじめて追悼式に出ました。二つの式典が行われていました。 大震災と戦争の犠牲者を慰霊する都慰霊協会主催の大法要と震災時に虐殺された犠牲者を追悼する追悼実行委員会の式典。 二つは雰囲気も、意味も、全く違っていました。小池都知事の、大法要に追悼文を送ったからそれでよし、 とする説明は言い逃れにしか思えませんでした。
▼追悼式典の式次第の資料に追悼碑について建立の経緯、碑文の内容が説明されていました。 ご紹介します。
まず碑文。

 「この歴史 永遠に忘れず 在日朝鮮人と固く 手を握り 日朝親善 アジア平和を
  打ち立てん    藤森成吉」 

追悼碑建立の経緯。
「1923年9月に発生した関東大震災の混乱のなかであやまった策動と流言蜚語のため
6千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。 私たちは、震災50周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。 この事件の真実を知ることは不幸な歴史をくりかえさず民族差別を無くし人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。 思想・信条の相違を越えてこの碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。
1973年9月 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑建立実行委員会 」 

▼左は2019.8.3の朝日新聞朝刊です。金子文子さん(1903ごろ〜26)のこと。記事を要約します。
女給をしていた「岩崎おでんや」で朴烈(パクヨル)に出会い、自分が探していたものがこの人にあると直感しプロポーズし、 対等な関係の同志として共同生活を始める。朴烈は詩人。彼の詩「犬コロ」を読み、なんと力強い詩だろうと、感動する。1923年(大正12)9月1日の関東大震災直後朝鮮人・朴烈と一緒に検束され、10月に起訴、 大逆罪に問われた。26年3月23日死刑判決が出ると「万歳!」と叫んだという。天皇の恩赦によって無期に減刑されるが、 特赦状を破り捨て、同年7月23日獄中で首をくくって自殺。22歳か23歳。
日本では、金子文子の名は、同時代のアナーキスト伊藤野枝などと比べても、知られてこなかった。 ところがここにきて脚光を浴びている。きっかけのひとつは今年2月に日本で公開された韓国映画「金子文子と朴烈」(韓国では2017年)である。 公開後韓国では「金子文子」ブームが起き、関心高まった。
▼私の知る在日の人も詩人、文学者。心に響きます。金子文子さんが朴烈に共感したと似たような感覚が100年後の私にあります。 つまり在日の人たちに大義があると感じています。(2019.11.29)

1923(大正12)年9月1日、関東大震災はよく晴れ渡った日のできごとであった。 池袋の家で腹ばいになって新聞を読んでいたとき、急にゴオと地震がきたが、 これはいつもより少し長いなと思ったとたん、激しくなったので夢中で庭にとびだしたが、これがまさかあれ ほどの大震災になるとは思いもかけなかったし、ましてその後にあれほど ひどく虐殺の嵐があれ狂うものとは、 そのとき夢想さえしなかった。当時共産党のおもだった人びとは市ヶ谷刑務所に投獄されていたので… 五月書房『ドキュメント志賀義雄』「狂瀾怒濤の時代を生きて」より)

地震の日から2日目に雨が降った。それからまもなく、血みどろになった一群の人たちが、いれかわりたちかわり トラックではこばれてきた。それはすべて「暴動の嫌疑」で逮捕された人々で、そのうちには共産主義者、
大杉栄と伊藤野枝
朝鮮の人々、労働組合、農民運動の闘士諸君
無政府主義者(右の写真上)をはじめ、朝鮮の人々や、労働組合、農民運動の闘士諸君など(右の写真下)がいた。 講談社文芸文庫『獄中十八年』徳田球一「市ヶ谷の監獄でむかえた大震災」より)

青木堂で食糧品を求めているとき、店員は青竹の杖がばらばらにさけるほど朝鮮人をなぐった、といって得々と語っていた。 私は平生善良そうなその店員がそんなにも乱暴なことをしたのに驚き、彼にたいして朝鮮人は決して火をつけたり 井戸に毒をなげこむことはしないと説いたが、彼は頑として聞かなかった。
大震災に乗じて虐殺された朝鮮人は三千人におよび、また中国人は三百人にのぼっていた。 こんどの大戦争で朝鮮、中国、南方において日本の軍隊があらゆる残虐行為をしたのも、皇軍なるものの正体 が、 国内においては革命運動、労働者農民運動を、植民地、外国にいてはその人民を、 無類の悪逆さをもって圧迫する帝国主義軍隊であることと相互に結びついているという実像を端的に示したものである。
そして私はこの年すなわち1923年11月3日、虐殺への階級的反撃を組織することを誓って、日本共産党に入党した。 同上『ドキュメント志賀義雄』より)
            
「豊臣秀吉の朝鮮侵略」
▼日本と朝鮮の関係を語るとき避けて通ることのできないのは「豊臣秀吉の朝鮮侵略」です。
日本人として記憶しておくべき事実を李進熙『新版日本文化と朝鮮』から抜粋しておきます。

「韓国を旅行すると「ここを清正が焼きました」とよく言われる」と李進熙教授は172頁で書いておられます。 日本人の忘却癖は国際社会では通用しません。

「秀吉は薩摩の島津を降伏させると(1587年5月…引用者)対馬・宗氏に対し、朝鮮国王の入朝をはかるよう厳命(1587年6月…引用者)。」(144頁)

▼手元の『新版日本史年表』(歴史学研究会編 岩波書店 1984.6.29)を見ると
「1586年3月秀吉、イエズス会士コエリヨと大坂城で会い征明の意図を語る」
「1588年8月秀吉、島津義久に、琉球王の使節派遣を要求させる」
「1591年9月、朝鮮出兵を命ずる」とあります。
秀吉の覇権欲は、野望を通り越して李教授のおっしゃる「妄想」ですね。 この「妄想」を明治維新後、日本政府が再現することになります。
秀吉の朝鮮侵略に戻ります。


「1592年4月12日小西行長の率いる1万8千が釜山沖に現れ、続いて加藤清正、さらに宇喜多秀家、総勢15万8千の大軍、これが文禄の役。」(134頁)
「5月2日小西軍は漢城(ソウル)に突入、釜山に上陸してわずか20日という快進撃だった。」(135頁)
「国王も将軍たちも、そして民衆も逃亡してしまい、都はもぬけの殻となっていたのである。」(147頁)
太線加藤軍つづく小西軍(131頁)
▼右の地図の日本軍の合流点が漢城(ソウル)
「日本軍の北上は破竹の勢いだったが、それを支えたのは鉄砲隊だった。」(136頁)
▼日本の鉄砲技術は世界一だったようです。一週間前、昨日と2回NHKtvで見ました。(2020.7.6)
「文禄・慶長の役を「秀吉の朝鮮征伐」とする表現をいまも平気で使う研究者がいるが、これはまったくの誤りである。 江戸時代の知識人たちが「よしなき戦」ときびしく批判したように、それは大義名分のない無謀な侵略戦争だった。 今日の日韓関係を考える上でも、事実を正しくふまえておくべきだろう。」(142頁)

「小西軍の見た漢城(ソウル)は死の街と化していた。
世界地図帖
国際地学協会1982年

朝鮮半島の西海岸小西軍
 東海岸加藤・鍋島軍

「日本軍は(ソウルから約50q)北上して開城(ケソン)をおとしいれ、ここで二手にわかれた。 加藤・鍋島軍は東海岸に出て(人民共和国東海岸の)咸鏡道(ハムギョンド)へむかう。 小西軍は北上をつづけ6月7日(ケソンから約250qの)大同江(テトンガン)に達した。」(148頁)

「日本軍に占領された地方では新たな事態が急テンポで展開していた。 民衆の抵抗である。まずソンピ(儒生)や下級官吏、農民が立ち上がり、僧侶も武器をとった。 日本軍は7、8月ころから守勢におちいってしまう。」(149頁)

「10月になると釜山と漢城を結ぶ兵站路の確保さえ難しくなる。
前線司令部の前野長康の『武功夜話』には「高麗の兵どもも此の頃は手強く相なり候。 たとえ太閤殿下の御意に相背くとも、寒気到来のために兵の動きも自然に鈍り、兵糧も乏しく相なり喰いつなぐ様申し伝え候。なお渡海半歳寒死の者、 また陣を明け候者も後をたたず、馬を失い馬乗の者どもその数を減じ、鉄砲六千挺あるといえども、寒気のために手足の自由を失い、兵糧の繰入れも 相叶わず、斯くの如き出来に付き、度々御軍議、御評定あるも異見まちまち決し難く候なり」とある。
忘れてならないのは日本軍は夏服で草履ばきだった。」(153〜154頁)

「3月20日、石田三成らが漢城周辺に布陣する日本軍を点検してみると、小西の第一軍団は64.5%を失い、加藤軍は45%を消耗していた。 開戦11カ月で日本軍はすでに戦闘能力を失っていた。」(158頁)
「秀吉からの退去命令が漢城に届くのは4月7日。『武功夜話』は次のように伝えている。「釜山浦に群衆の諸勢上下顔色枯衰、痩骨食を求めて相争い、 山々に薪をさがし求め或いは在家を打ち毀し、思い思い我身大事と心掛け、鉄砲には赤く錆びを生ずると雖も顧みず、忠節の心を失いたるは古今 未聞の題目なり」と。」(159頁)

「和平交渉が破綻すると、(先の撤退から5年後)秀吉は九州、四国の武将らに再侵略の準備を急ぐよう命じ、その時期は1597年2月だと通告する。全軍14万1千人が釜山周辺に集結を完了するのは7月に 入ってからであった。」(159頁)

「日本軍は城にたて籠った者だけでなく城外の民衆も手あたり次第に殺戮したが、戦国時代の日本においては非戦闘員をまきこまないのがルールだった。 武将らの戦意に不信感をいだいた秀吉が、戦功の証として敵兵の鼻を添えるように命じたのが虐殺を招いた原因だが、異民族への侵略戦争だったことも 人間のもつ野獣性に火をつける要因だったといえるだろう。…武将らが切り取った鼻を塩づけにして樽に詰めて軍目付に渡すと、数を確認したうえで「鼻 請取状」を出している。軍目付らは、これをあつめて秀吉のもとに送り、京都まで届いたその数は五万を下らなかったという。
豊国神社前方にある「耳塚」i
京都豊国神社前方にある 「耳塚」がそれであって、いつのころからか誤伝され「耳塚」といわれるようになった。」(165頁)

Wikipedia: 豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区に鎮座する神社。神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。 豊臣家滅亡とともに徳川家の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の勅命により再興された。 1868年(慶応4年閏4月)、明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、 国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛し、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下された。
▼2019.3.1このWikipediaに出会いました。やっぱり明治政府は秀吉の妄想を引き継いでいた。 日本の歴史を見ると「小中華思想」で書かれた日本書紀の藤原不比等、「植民地主義」の文禄・慶長の役の秀吉、「帝国主義」の韓国併合の明治天皇 とそれを引き継いだ昭和天皇、これが日本の対外政策の基調となっている。その思想は支配と差別。
2020.1.29朝日新聞朝刊。
太閤秀吉も宰相も権力者は花見がお好き

▼左の記事の要約。
慶長3年(1598)3月15日、正室北政所、淀姫ら総勢1300人を従えての「醍醐の花見」。
1592年、1597年の2度に渡る大軍を朝鮮に送る文禄・慶長の役の最中だった。
敵味方双方に膨大な死者を出した悪行に天も見放したのか、 花見から5か月後秀吉は亡くなる。人望を失った豊臣政権も滅亡していった。
秀吉をまつった豊国神社のうずたかい丘は「耳塚」という。敵を討ち取った「軍功」の証しとして 首級ではなく、耳や鼻をそぎ取って報告した。それらを埋めた悲しい供養塚だ。

▼編集委員駒野剛さんの風刺の効いた名文。(2020.2.2)
「1597年9月5日、稷山(チクサン)の戦いで黒田軍が敗れ、9月16日鳴梁(ミョンヤン)海戦で大敗したのがきっかけで総崩れとなり、日本軍は ふたたび海岸地帯へ撤退せざるをえなくなる。」(166頁)

「侵略戦争は日本の民衆にもはかり知れない犠牲を強いた。…農村では徴発された農民の年貢まで村全体に責任を負わせ、それを怠ると、「一郷(村) のもの残らずはたもの」にし、逃亡すると、類身・在所、つまり血縁・地縁の者が責任を負わねばならなかった。」(165〜166頁)

「新たに倭城を築くことになり、慶州に通ずる要衝蔚山(ウルサン)では11月10日から工事がはじまった。設計は加藤清正が行い、1万6千による突貫 工事となった。
その工事の光景を同行の僧・慶念は
「とにかく誤りのある者こそ、牢におし入れ、水をのませ、首金にして括り縛り、焼き金をあて候事ハ、此の 浮き世に殊更御座候。あいかまえて油断有るならハ、後の世ハかようの恐ろしき責めに合わんすらん思いとるへき也」 と記している。
つまり、少しでも怠ると牢にぶちこまれ、拷問され、あるいは殺されてさらし首となる。 あまりの非道さに慶念は、君達もあの世にいけば地獄行きだぞと嘆いている。…蔚山城は12月中頃ほぼできあがった。」(167〜168頁)

「堅固な城であり、しかも鉄砲隊をふくむ二万が入っているから備えは十分だと加藤清正は判断したにちがいない。ところが12月22日にはじまる初日 の戦闘で460余名、2日目に660余名の戦死者を出す。そればかりか太和江を封鎖され、水源と食糧補給路まで簡単に遮断されてしまう。…秀吉は蔚山 の惨状について報告をうけたころから急に弱りだし、3月からは伏見城で臥す身となった。5月に入ると、前線の将兵の数ははじめの14万7千から半分 の7万5千余に減り、それに水軍がまたも敗戦を重ね、戦況の挽回は絶望となり、秀吉の死も確実になっていた。 8月18日息をひきとった。」(169〜170頁)
▼やはりこういう死に方をするのだ。『平家物語』の平清盛の死を思い出す。

日本は無謀な侵略戦争で5万の兵を失い、日本国内にも大きな被害をもたらした。人命の犠牲ばかりでなく、 農村の荒廃は目を覆うばかりで 、秀吉と義兄弟にあたる浅野長政は「よしなき戦」だといい、「兵糧の転漕、軍勢の賦役、六十余州が内ことごとくあれ野となる」と嘆くほどだった。 経済の立て直しに百年以上かかったことからみても、傷の深さがうかがえる。」(171頁)
▼「経済の立て直しに百年以上かかった」ということは1598年から数えると元禄期となります。日本列島の疲弊も想像できます。

「侵略をうけた朝鮮側の被害も言語に絶するものだった。柳成龍(当時の総理大臣)は1593年3月、臨津江 (イムジンガン ケソンの近く)北方にいたが、そのころの 民衆の様子について、つぎのように書いている。

賊が都を占領して2年、兵禍をこうむった千里の国土は荒廃し、百姓たちは種を蒔くこともできず大変 多くの者が餓死した。
▼「賊が都を占領して2年」。秀吉、日本の軍隊は朝鮮の人から見れば「賊」ですよ。 日本人はこの感情を察しておくこと。
…ある日、夜に大雨が降った。飢民が私の宿舎の近くに集まって、悲しげな呻き声を上げたので聞くに忍びなかった。朝起きてみたところ、多くの者が あとこちに散乱して死んでいた。…父子、夫婦のものが相食み、野ざらしになった骨が野草のようにうち捨てられていた。(『懲録』)
Wikipedia:『懲録』(ちょうひろく)は、17世紀前後に書かれた李氏朝鮮の史書で、著者は同王朝の宰相柳成龍。 文禄・慶長の役を記録したもので、重要な資料として、韓国の国宝第132号に指定されている。
戦争が終わっても朝鮮では飢餓がつづき、疫病が流行してまたも数多くの民衆の命が奪われることとなった。」(171〜172頁)
▼冒頭に引用しました「当時の傷の深さは今に語り継がれ、韓国を旅行すると「ここを清正が焼きました」とよく言われる」 との李教授のことばになります。
1924年 5月5日 大阪府 内鮮協和会設立 朝鮮人の教化善導をめざす(1925年兵庫県、1926年神奈川県にも設立やがて全国組
        織となる)
協和会とは
日本の朝鮮植民地支配の時期,在日朝鮮人に対する内務省、警察当局を中心とした統制機関。 1920年代はじめ在日朝鮮人の失業、人権侵害などの社会問題への対策として 大阪府、神奈川県などが〈内鮮協会〉〈内鮮協和会〉をつくってその〈補導〉、取締 り、同化につとめた。 36年、大阪府における在日朝鮮人対策の経験を基礎として厚生省 は予算措置を講じ全国的に各府県協和会をつくっていき、39年6月にはその統轄機関としての中央協和会を結成した。 (出典 平凡社/世界大百科事典 第2版)
1925年 2月22日 在日本朝鮮労働総同盟結成 社会労働運動の重要な役割を果す(1929年12月解体)
1919年3月にソウルで起きた三・一独立運動を受け、朝鮮総督府は同年4月より朝鮮人の日本内地への渡航に制限を加えていたが、 1922年にこれが解除されると朝鮮の農村から日本に働きに出る渡航者が急増、1920年に約4万人であった 在日朝鮮人人口は1925年には約20万人に達する勢いであった。(在日朝鮮人・韓国人の長期推移) 折りしも社会主義運動が広がり、1922年11月東京朝鮮労働同盟会、翌12月大阪朝鮮労働同盟会がうまれるなど、 労働運動と労働者の組織化が進んでいった。
こうした中、1925年2月22日、大阪7・東京3・京都1・神戸1の在日朝鮮人労働団体が参加して、東京で創立大会 を開催し在日本朝鮮労働総同盟を結成した。大会は日本労働総同盟(総同盟)の1922年綱領とほぼ同主旨の綱領と、 八時間労働制・最低賃金制など5項目の主張を採択した。委員長は李憲、中心的活動家に共産主義者の金天海や、朴相勗らがいた。 (Wikipediaより)
▼1912年〜1926年は大正デモクラシー・大正ロマンの時代で、ロシア革命、米騒動が起き、全国水平社、日本共産党、 在日本朝鮮労働総同盟が創設され反権力・反差別の社会運動が勃興した時代でもあった。
     4月22日 治安維持法公布 朝鮮では治安維持令
朕帝國議會ノ協贊ヲ經タル治安維持法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
御名御璽
攝政名
大正十四年四月二十一日
内閣總理大臣子爵 加藤  高明
内 務 大 臣     若槻禮次カ
司 法 大 臣     小川  平吉
法律第四十六號
第一條 國体ヲ變革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ 十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス 前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
第二條 前條第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ實行ニ關シ協議ヲ爲シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
第三條 第一條第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ實行ヲ煽動シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
第四條 第一條第一項ノ目的ヲ以テ騒擾、暴行其ノ他生命、身體又ハ財産ニ害ヲ加フヘキ犯罪ヲ煽動シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
第五條 第一條第一項及前三條ノ罪ヲ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財産上ノ利益ヲ供與シ又ハ其ノ申込若ハ約束ヲ爲シタル者ハ 五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス情ヲ知リテ供與ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ヲ爲シタル者亦同シ
第六條 前五條ノ罪ヲ犯シタル者自首シタルトキハ其ノ刑ヲ減輕又ハ免除ス
第七條 本法ハ何人ヲ問ハス本法施行區域外ニ於テ罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ適用ス
附則
大正十二年勅令第四百三號ハ之ヲ廃止ス

▼さらなる弾圧と戦争の歴史へ。治安維持法はその後1928年に改正され、国体の変革が死刑に「格上げ」、未遂罪も導入されます。 1941年の全面改正では予防拘禁制が導入され、刑事手続が特別法として規定されています。最悪の、市民が身動きのできない弾圧法になっています。 熟読され、自分に引き寄せて想像してみてください。わたしも治安維持法は知っていましたが条文をじっくり読んだのははじめてです。 その晩、夢見が悪かったです。(2019.4.8)
1927年 2月18日 朝鮮人団体協議会結成 新幹会 東京(5月)、京都(6月)、大阪(12月)、名古屋(1928年1月)支会が
         結成
1928年 3月15日 日本共産党の全国的大弾圧、検挙1568人、起訴483人(▼徳田球一、志賀義雄 逮捕「獄中十八年」より)
     3月21日 在日本朝鮮青年同盟結成(1929年解体) 機関誌『青年朝鮮』発刊
朕茲ニ緊急ノ必要アリト認メ樞密顧問ノ諮詢ヲ經テ帝國憲法第八條第一項ニ依リ治安維持法中改正ノ件ヲ裁可シ之ヲ公布セシム
御名御璽
昭和三年六月二十九日
内閣總理大臣兼 外務大臣 男爵 田中  義一
鐡道大臣 小川  平吉
海軍大臣 岡田  啓介
陸軍大臣 白川  義則
商工大臣 中橋徳五郎
大藏大臣 三土  忠造
農林大臣 山本悌二郎
内務大臣 望月  圭介
司法大臣 原   嘉道
逓信大臣 久原房之助
文部大臣 勝田  主計
勅令第百二十九號
治安維持法中左ノ通改正ス

第一條 國體ヲ變革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他 指導者タル任務ニ從事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ處シ 情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者、結社ニ加入シタル者 又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
前二項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
第二條中「前條第一項」ヲ「前條第一項又ハ第二項」ニ改ム
第三條及第四條中「第一條第一項」ヲ「第一條第一項又ハ第二項」ニ改ム
第五條中「第一條第一項及」ヲ「第一條第一項又ハ第二項又ハ」ニ改ム
附則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

▼「國體變革」が「死刑又ハ無期」と厳罰化。「未遂罪」も「罰ス」となる。 内閣の中の序列で鉄道大臣の格が上位。海軍大臣と陸軍大臣は別。
1929年 8月3日 警察署による「一時帰鮮証明書」制度実施
2020.4.18朝日新聞朝刊
1929年「戦争放棄ニ関スル条約」憲法9条の原型

▼右の「戰爭抛棄に關する條約」。まさしく第2次大戦に突き進んでいこうとしている局面で、第1条国際紛争解決のため戦争に 訴えない、第2条国家の政策の手段としての戦争を放棄する、という協定。歴史の機微を感じる。(2020.5.25)
戰爭抛棄に關する條約 データベース「世界と日本」(代表:田中明彦) 日本政治・国際関係データベース 政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所

1932年 1月8日 李奉昌、桜田門で天皇に投弾(大逆罪により同年10月10日市ヶ谷刑務所にて死刑執
        行)
     2月5日 関東軍 ハルピン占領    
     2月20日 朴春琴(相愛会会長)、衆議院議員当選
2020.11.10朝日朝刊
▼上記「多事奏論」駒野剛さん、相変わらず冴えていらっしゃる。
新渡戸は講演先の松山市で「近ごろ毎朝起きて新聞を見ると思わず暗い気持ちになる。日本を滅ぼすのは共産党か軍閥だ。いずれかといえば、今となっては 軍閥と答えねばならない」と発言、軍部や関係者を激高させた。その後謝罪させられた。 公正な発言でも、学者、国際人が脅かされる非道な時代になったのだ。
▼この時代に新渡戸さん(当時70歳)のような方がいらっしゃったことを知っておきたい。 そして軍部の横暴も。(2020.11.12)
     3月1日  満州国建国宣言
     4月29日 尹奉吉、上海で日本軍司令官らに投弾(同年12月19日金沢刑務所にて死刑執行)
上海虹口公園で天長節祝賀の集会があった。日本高官の並ぶ壇上に爆弾が投げられた。上海駐留軍白川大将は爆殺され重光公使は片脚を失った。 この一撃は「朝鮮民族いまだ死せず」の声となって、抗日に燃える中国をはじめ世界に衝撃を与えた。 (「写真で見る在日コリアンの100年」83頁)
▼重光公使は敗戦後、日本政府の全権として降伏文書に署名したあの重光外務大臣です。
1934年 10月30日 日本政府、「朝鮮人移住対策ノ件」閣議決定 日本への渡航抑制、日本在留朝鮮人の「同化」など方針策定
1935年 6月15日 大阪で『民衆時報』創刊(1936年11月廃刊)
1936年 2月01日 東京で『朝鮮新聞』(朝鮮語版)創刊(1936年9月廃刊)
     8月9日 第11回ベルリンオリンピック大会 マラソンで孫基禎金メダル、南昇竜銅メダル
▼ 2018年5月4日の朝日新聞朝刊に「五輪に隠される多様な『国民』」の記事が出ました。
「植民地の『臣民』悲しい金メダル」の副題もついています。
植民地下で「日本人」だった孫基禎(ソンキジョン)選手が金メダルを獲得。 当時の朝日新聞の写真と東亜日報の写真が掲載され、東亜日報では孫基禎選手の胸の日の丸が消されています。 その後東亜日報の記者は逮捕され新聞は無期限の発行停止処分となった、とあります。
▼東亜日報の記者の心情、わかります。政府はこのような報道ですら発行停止処分にしています。
▼改めてこの記事を読み返しました。記者木村司さんの感性がすばらしいです。 アスリートとして頂点に立った孫選手は、日本代表として脚光を浴び、日本の独立によって、植民地出身者は日本国籍を喪失。しかし日本は今も 、孫選手の金メダルを、歴代五輪で得た156個の一つと数えている、という。どこまでも日本国は朝鮮人にたいし非道な国なのです。(2019.10.7)

     8月 「皇民化」政策 兵站基地化 「皇国臣民ノ誓詞」つくられる
「皇国臣民ノ誓詞」は児童用の「其ノ一」、大人用の「其ノニ」の2種類がある。(Wikipediaより)
      「其ノ一」
      私共は、大日本帝国の臣民であります。
      私共は、心を合わせて天皇陛下に忠義を尽します。
      私共は、忍苦鍛錬して立派な強い国民となります。
      「其ノニ」
      我等は皇国臣民なり、忠誠以て君国に報ぜん。
      我等皇国臣民は互に信愛協力し、以て団結を固くせん。
      我等皇国臣民は忍苦鍛錬力を養い以て皇道を宣揚せん。

永井荷風「断腸亭日乗」
立春晴れてよき日なり。
薄暮浅草に往きオペラ館踊子等と森永に夕餉を食す。楽屋に至るに朝鮮の踊子一座ありて日本の流行唄をうたふ。
声がらに一種の哀愁あり。朝鮮語にて朝鮮の民謡をうたはせなば嘸(さ)ぞよかるべしと思ひてその由を告げしに。 公開の場所にて朝鮮語を用ひまた民謡を歌ふことは厳禁せられいると答へさして憤慨する様子もなし。
余は言ひがたき悲痛の感に打たれざるを得ざりき。彼国の王は東京に幽閉されて再び其国にかへるの機会なく、 其国民は祖先伝来の言語歌謡を禁止せらるる。悲しむべきの限りにあらずや。(「写真で見る」67頁)

▼昨年(2017年)秋10月、浅草東洋館(荷風のいうオペラ館) で浅草オペラ100年記念の「ああ夢の街 浅草」のロングラン公演を行いました。東洋館の松倉久幸会長から、 戦前ここに荷風が入り浸っていたと伺っていました。昨年のわたしの経験がこんなところで繋がってくるとは不思議です。 それにしても荷風の朝鮮人に寄せる気持ち、全く同感です。 このような日本人が直接踊り子たちに接していたというだけでほっとします。
荷風が書いています彼の国の王が日本の植民地になることを受け入れる声明は 「アイヌ民族の年表」1910年のところで取り上げてあります。 あわせてお読みください。

1937年 7月07日 日中戦争勃発
1938年 4月01日 国家総動員法公布(在日朝鮮人に適用)
朝日朝刊2020.10.3
▼左の記事を要約します。
1938年岩波書店から「岩波新書」が創刊された。 発案は吉野源三郎(1899〜1981)。吉野は31年治安維持法(1925年大正14年成立)で検挙。1年半投獄、 釈放後岩波に。吉野は37年秋、丸善で創刊されたばかりの英国のペリカン・ブックスを見つけた。38年11月、日本で初めての新書、岩波新書が誕生。 創刊では20冊を同時に発売。根底の問いはどう生きるか。日本の中国政策への「無言の抵抗」だったと吉野の回想。吉野は46年、 総合雑誌『世界』を創刊、20年間編集長を務めた。
▼1928年には3・15事件が、1931年には満州事変、ヨーロッパでは1933年にはヒットラー内閣成立。 このような中での「岩波新書」が創刊。こころに留めおくべき。因みに吉野源三郎さんのご子息・源太郎さん には国立のマンション闘争(1999〜2006)でお世話になりました。(2020.10.7)
1939年 6月28日 39府県協和会の中央機関として中央協和会設立  
協和会手帳と外国人登録証(資料館ホームページhttp://www.j-koreans.orgより。)

協和会は朝鮮人に創氏改名、神社参拝、勤労奉仕などを強制する機関だった。
李寛得(金村清吉)氏の協和会手帳(1940年発行)の冒頭には「君が代」と「皇国臣民の誓詞」が摺りこまれ、備考欄には神社参拝、勤労奉仕、国防献金の回数など 国家への「忠誠」の日常が記録されていた。

それから5年が経った1945年8月、李さんは手帳の呪縛から解放された。 しかしその2年後(1947年)のある日突然、外国人登録証の携帯が義務化され、さらにその5年後(1952年)には指紋押捺まで強要された。

李寛得さんのこの二つの証明書(協和会手帳と外国人登録証)の間に何が見られるのか、 国家の都合によって同化強要から排外、監視の対象となる、在日同胞の人権無視の実態が浮かびあがる。

▼日本社会の人権感覚が問われている。
     7月8日 国民徴用令公布
     7月31日 「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル件」通達 「会社募集」による日本への朝鮮人労務動員開始
日中戦争の勃発後、日本は国家総動員法(アイヌ民族の頁1938年参照)、国民徴用令等を公布し総動員体制を確立する。 「内地」の基幹産業を中心に、朝鮮の青壮年男子を多数動員し、過酷な労働を強要した。いわゆる朝鮮人強制連行である。 1939年秋に始まる労働動員は、「会社の個別募集」であったが、太平洋戦争勃発後には「官斡旋」に強化された。 戦争末期になって有無を言わせぬ「徴用」とされたものの、当初から一貫して日本政府が関与していた。 延べ72万人以上が朝鮮から日本国内・南樺太・南洋群島に連行された。 その内ほぼ半数は炭鉱に、残りは鉱山・土木建築・工場・港湾荷役・農場へと送り込まれた。 (「写真で見る在日コリアンの100年」48頁)
     9月3日 ドイツ、ポーランド侵攻(1日) 第二次世界大戦(〜1945年)
1940年 2月11日 「創氏改名」実施
儒教の国・朝鮮では、先祖の祭祀を行う関係上、子孫は先祖姓を引き継ぐものであり、血統が個人の姓を決定した。 先祖の異なる者が婚姻により家族となっても、各個人の姓は同一にならない。朝鮮人の姓は、父を通じ始祖にまで遡る男系血統を表す。 創氏改名における「氏」とは、家族を表す名称である。創氏がおこなわれる以前、朝鮮には家族名という観念は存在しなかった。 創氏と同時に法制化されたものが改名である。実施期間の定めは無く、そのため設定創氏の届出期間経過後も、 朝鮮式の名を比較的簡易な届出で日本名に改名することが可能になった。朝鮮半島南部では1946年10月の朝鮮姓名復旧令 (軍政庁法令122号)により、戸籍に掲載された創氏改名を遡及無効とし、戸籍上の日本名を抹消した。 朝鮮半島北部でも同様の法的措置がとられ、朝鮮人の日本名はわずか5年あまりで戸籍から消滅した。(Wikipediaより)

2019.12.11朝日新聞夕刊  「ウルトラ」シリーズの脚本家・監督
 飯島敏宏さん87歳
「今の日本は当時の空気と似てきています。」
「戦時中の物語は、悲惨さが強調されがちです。でも僕たちは朝から晩まで暗い顔をしていた わけじゃない。特に1940年は紀元二千六百年の奉祝ムードで沸いていました。そんな明るさの中、いつのまにか戦争に巻き込まれていたんです。」
「B29は超低空、ゆっくりと翼が現れると、もう街を覆い尽くすほどの大怪鳥です。」

▼「そんな明るさの中、いつのまにか戦争に巻き込まれていたんです」
当時8歳の飯島さんの実感。B29の時は13歳。 大怪鳥と表現。(緑也さん赤いトカゲ) 今の時代、国民の目の届かぬところで、本当のことを国民に知らせず進行する米軍との緊密化。 その不気味さ。自身の体験から当時の空気と似てきている、と感じておられる。(2020.2.5)

本名消された通信簿(「写真で見る100年」65頁)
東京市立稲田尋常高等小学校「昭和十五年度」、第三学年一組李茂炯の個人成績表で、一見なんの変哲もないただの通信簿である。
しかし「李茂炯」という朝鮮名が2本の線で消され、その右側に「武田茂」とあるのをみると日帝支配下の創氏改名の史資料 となってくる。
昭和十五年度」といえば、皇紀二千六百年の紀元節を期して「大和大愛の発露」という 創氏令の発布された年である。当時の通信簿は3学期にわけていたことから、 1学期(4月〜7月)は李茂炯名で渡され、2学期(9月〜12月)以降武田茂名になったとみられる。 創氏令は2月11日から6ヶ月以内(8月10日)に届出が受理されることになっていた(設定創氏)。 李茂炯名が消されたのは2学期以後のことである。最初は竹田で届出したが、皇族の竹田宮家を僭称するとの理由で不許可、武田になったという。 創氏令にはそのような規定があった。その間に届出のない場合は、家長の姓を氏とした(法定創氏)。 在日同胞の多くが通名を名乗ることになった歴史的背景の一つである。
▼李少年、小学3年生10歳である。こころが傷ついただろう。自分自身を李少年に置き換えるとよくわかる。

1941年 2月12日 朝鮮奨学会設立
▼次の「治安維持法」は深刻な興味深い改正条文です。特に第三章 豫防拘禁。権力の本質を知るのに役に立ちます。長いので大変だったら飛んでいただいて結構です。 飛ぶ。
朕帝國議会ノ協贊ヲ經タル治安維持法改正法律ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
御名御璽
昭和十六年三月八日
内閣總理大臣 公爵 近衛 文麿
内務 大 臣 男爵 平沼騏一郎
拓務 大 臣    秋田  清
陸軍 大 臣    東條 英機
海軍 大 臣    及川古志郎
司法 大 臣    柳川 平助
第一章 罪
第一條
 國體ヲ變革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ從事シタル者ハ 死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ懲役ニ處シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ 三年以上ノ有期懲役ニ處ス
第二條
 前條ノ結社ヲ支援スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ從事シタル者ハ 死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役ニ處シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ 二年以上ノ有期懲役ニ處ス
第三條
 第一條ノ結社ノ組織ヲ準備スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ從事シタル者ハ 死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役ニ處シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ二年以上ノ有期懲役ニ處ス
第四條
 前三條ノ目的ヲ以テ集團ヲ結成シタル者又ハ集團ヲ指導シタル者ハ無期又ハ 三年以上ノ懲役ニ處シ前三條ノ目的ヲ以テ集團ニ参加シタル者又ハ集團ニ関シ前三條ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ 一年以上ノ有期懲役ニ處ス
第五條
 第一條乃至第三條ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ實行ニ関シ協議若ハ煽動ヲ爲シ 又ハ其ノ目的タル事項ヲ宣伝シ其ノ他其ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ一年以上十年以下ノ懲役ニ處ス
第六條
 第一條乃至第三條ノ目的ヲ以テ騒擾、暴行其ノ他生命、身體又ハ財産ニ害ヲ加フベキ犯罪ヲ煽動シタル者ハ二年以上ノ有期懲役ニ處ス
第七條
 國體ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者 又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ從事シタル者ハ無期又ハ四年以上ノ懲役ニ處シ 情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ處ス
第八條
 前條ノ目的ヲ以テ集團ヲ結成シタル者又ハ集團ヲ指導シタル者ハ無期又ハ三年以上ノ懲役ニ處シ 前條ノ目的ヲ以テ集團ニ参加シタル者又ハ集團ニ関シ前三條ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ處ス
第九條
 前八條ノ罪ヲ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財産上ノ利益ヲ供与シ又ハ其ノ申込若ハ約束ヲ爲シタル者ハ 十年以下ノ懲役ニ處ス情ヲ知リテ供与ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ヲ爲シタル者亦同ジ

第十條
 私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者 若ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
第十一條
 前條ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ實行ニ関シ協議ヲ爲シ又ハ其ノ目的タル事項ノ實行ヲ煽動シタル者ハ 七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
第十二條
 第十條ノ目的ヲ以テ騒擾、暴行其ノ他生命、身體又ハ財産ニ害ヲ加フベキ犯罪ヲ煽動シタル者ハ二年以上ノ有期懲役ニ處ス
第十三條
 前三條ノ罪ヲ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財産上ノ利益ヲ供与シ 又ハ其ノ申込若ハ約束ヲ爲シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス 情ヲ知リテ供与ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ヲ爲シタル者亦同ジ
第十四條
 第一條乃至第四條、第七條、第八條及ビ第十條ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
第十五條
 本章ノ罪ヲ犯シタル者自首シタルトキハ其ノ刑ヲ軽減又ハ免除ス
第十六條
 本章ノ規定ハ何人ヲ問ワズ本法施行地外ニ於テ罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ 適用ス

第二章 刑事手続
第十七條
 本章ノ規定ハ第一章ニ掲グル罪ニ関スル事件ニ付之ヲ適用ス
第十八條
 檢事ハ被疑者ヲ召喚シ又ハ其ノ召喚ヲ司法警察官ニ命令スルコトヲ得 檢事ノ命令ニ因リ司法警察官ノ発スル召喚状ニハ命令ヲ爲シタル檢事ノ職、 氏名及其ノ命令ニ因リ之ヲ発スル旨ヲモ記載スベシ 召喚状ノ送達ニ関スル裁判所書記及執達吏ニ属スル職務ハ司法警察官吏コ之ヲ行ナフコトヲ得
第十九條
 被疑者正当ノ事由ナクシテ前條ノ規定ニ依ル召喚ニ應ゼズ又ハ 刑事訴訟法第八十七條第一項各号ニ規定スル事由アルトキハ檢事ハ被疑者ヲ勾引シ又ハ其ノ勾引ヲ他ノ檢事ニ嘱託シ 若ハ司法檢察官ニ命令スルコトヲ得
前條第二項ノ規定ハ檢事ノ命令ニ因リ司法警察官ノ発スル勾引状ニ付之ヲ準用ス
第二十條
 勾引シタル被疑者ハ指定セラレタル場所ニ引致シタル時ヨリ四十八時間内ニ檢事又ハ司法警察官之ヲ訊問スベシ 其ノ時間内ニ勾留状ヲ発セザルトキハ檢事ハ被疑者ヲ釈放シ又ハ司法警察官ヲシテ之ヲ釈放セシムベシ
第二一條
 刑事訴訟法第八十七條第一項各号ニ規定スル事由アルトキハ檢事ハ被疑者ヲ勾留シ又ハ其ノ勾留ヲ司法警察官ニ命令スルコトヲ得
第十八條第二項ノ規定ハ檢事ノ命令ニ因リ司法警察官ノ発スル勾留状ニ付之ヲ準用ス
第二二條
 勾留ニ付テハ警察官署又ハ憲兵隊ノ留置場ヲ以テ監獄ニ代用スルコトヲ得
第二三條
 勾留ノ期間ハ二月トス特ニ継続ノ必要アルトキハ地方裁判所檢事又ハ区裁判所檢事ハ檢事長ノ許可ヲ受ケ 一月毎ニ勾留ノ期間ヲ更新スルコトヲ得但シ通ジテ一年ヲ超ユルコトヲ得ズ
第二四條
 勾留ノ事由消滅シ其ノ他ノ勾留ヲ継続スルノ必要ナシト思料スルトキハ 檢事ハ速ニ被疑者ヲ釈放シ又ハ司法警察官ヲシテ之ヲ釈放セシムベシ
第二五條
 檢事ハ被疑者ノ住所ヲ制限シテ勾留ノ執行ヲ停止スルコトヲ得 刑事訴訟法第百十九條第一項ニ規定スル事由アル場合ニ於テハ檢事ハ勾留ノ執行停止ヲ取消スコトヲ得
第二六條
 檢事ハ被疑者ヲ訊問シ又ハ其ノ訊問ヲ司法警察官ニ命令スルコトヲ得
檢事ハ公訴提起前ニ限リ証人ヲ訊問シ又ハ其ノ訊問ヲ他ノ檢事ニ嘱託シ若ハ司法警察官ニ命令スルコトヲ得
司法警察官檢事ノ命令ニ因リ被疑者又ハ証人ヲ訊問シタルトキハ命令ヲ爲シタル檢事ノ職、氏名及其ノ命令ニ因リ訊問シタル旨ヲ訊問調書ニ記載スベシ
第十八條第二項及第三項ノ規定ハ証人訊問ニ付之ヲ準用ス
第二七條
 檢事ハ控訴提起前ニ限リ押収、捜索若ハ檢証ヲ爲シ又ハ其ノ處分ヲ他ノ檢事ニ嘱託シ若ハ司法警察官ニ命令スルコトヲ得
檢事ハ控訴提起前ニ限リ鑑定、通訳若ハ翻訳ヲ命ジ又ハ其ノ處分ヲ他ノ檢事ニ嘱託シ若ハ司法警察官ニ命令スルコトヲ得
前條第三項ノ規定ハ押収、捜索又ハ檢証ノ調達及鑑定人、通事又ハ翻訳人ノ尋問調書ニ付之ヲ準用ス
第十八條第二項及第三項ノ規定ハ鑑定、通訳及ビ翻訳ニ付之ヲ準用ス
第二八條
 刑事訴訟法中被告人ノ召喚、勾引及ビ勾留、被告人及証人ノ訊問、押収、 捜索、檢証、鑑定、通訳並ニ翻訳ニ関スル規定ハ別段ノ規定アル場合ヲ除クノ外被疑事件ニ付之ヲ準用ス 但シ保釈及責付ニ関スル規定ハ此ノ限ニ在ラズ
第二九條
 弁護人ハ司法大臣ノ豫メ指定シタル弁護士ノ中ヨリ之ヲ選任スベシ 但シ刑事訴訟法第四十條第二項ノ規定ノ適用ヲ妨ゲズ
第三十條
 弁護人ノ数ハ被告人一人ニ付二人ヲ超ユルコトヲ得ズ
弁護人ノ選任ハ最初ニ定メタル公判期日ニ係ル召喚状ノ送達ヲ受ケタル日ヨリ十日ヲ経過シタルトキハ之ヲ爲スコトヲ得ズ 但シ已ムコトヲ得ザル事由アル場合ニ於テ裁判所ノ許可ヲ受ケタルトキハ此ノ限ニアラズ
第三一條
 弁護人ハ訴訟ニ関スル書類ノ謄写ヲ爲サントスルトキハ裁判長又ハ豫審判事ノ許可ヲ受クルコトヲ要ス
弁護人ノ訴訟ニ関スル書類ノ閲覧ハ裁判長又ハ豫審判事ノ指定シタル場所ニ於テ之ヲ爲スベシ
第三二條
 被告事件公判ニ付セラレタル場合ニ於テ檢事必要アリト認ムルトキハ管轄移転ノ請求ヲ爲スコトヲ得 但シ第一回公判期日ノ指定アリタル後ハ此ノ限ニ在ラズ
前項ノ請求ハ事件ノ繋属スル裁判所及移転先裁判所ニ共通スル直近裁判所ニ之ヲ爲スベシ
第一項ノ請求アリタルトキハ決定アル迄訴訟手続ヲ停止スベシ
第三三條
 第一章ニ掲グル罪ヲ犯シタルモノト認メタル第一審ノ判決ニ対シテハ控訴ヲ爲スコトヲ得ズ
前項ニ規定スル第一審ノ判決ニ対シテハ直接上告ヲ爲スコトヲ得
上告ハ刑事訴訟法ニ於テ第二審ノ判決ニ対シ上告ヲ爲スコトヲ得ル理由アル場合ニ於テ之ヲ爲スコトヲ得
上告裁判所ハ第二審ノ判決ニ対スル上告事件ニ関スル手続キニ依リ裁判ヲ爲スベシ
第三四條
 第一章ニ掲グル罪ヲ犯シタルモノト認メタル第一審ノ判決ニ対シ上告アリタル場合ニ於テ 上告裁判所同章ニ掲グル罪ヲ犯シタルモノニ非ザルコトヲ疑フニ足ルベキ顕著ナル事由アルモノト認ムルトキハ 判決ヲ以テ限判決ヲ破毀シ事件ヲ管轄控訴裁判所ニ移送スベシ
第三五條
 上告裁判所ハ公判期日ノ通知ニ付テハ刑事訴訟法第四百二十二條第一項ノ期間ニ依ラザルコトヲ得
第三六條
 刑事手続キニ付テハ別段ノ規定アル場合ヲ除クノ外一般ノ規定ノ適用アルモノトス
第三七條
 本章ノ規定ハ第二十二條、第二十三條、第三十條第一項、第三十二條、第三十三條及第三十四條ノ規定ヲ除クノ外 軍法会議ノ刑事手続ニ付之ヲ準用ス此ノ場合ニ於テ刑事訴訟法第八十七條第一項トアルハ 陸軍軍法会議法第百四十三條又ハ海軍軍法会議法第百四十三條、刑事訴訟法第四百二十二條第一項トアルハ 陸軍軍法会議法第四百四十四條第一項又ハ海軍軍法会議法第四百四十六條第一項トシ 第二十五條第二項中刑事訴訟法第百十九條第一項ニ規定スル事由アル場合ニ於テハトアルハ何時ニテモトス

第三八條
 朝鮮ニアリテハ本章中司法大臣トアルハ朝鮮總督、檢事長トアルハ覆審法院檢事長、地方裁判所檢事又ハ 区裁判所檢事トアルハ地方法院檢事、刑事訴訟法トアルハ朝鮮刑事令ニ於テ依ルコトヲ定メタル刑事訴訟法トス 但シ刑事訴訟法第四百二十二條第一項トアルハ朝鮮刑事令第三一條トス

第三章豫防拘禁 
第三九條
 第一章ニ掲グル罪ヲ犯シ刑ニ處セラレタル者其ノ執行ヲ終ワリ釈放セラルベキ場合ニ於テ 釈放後ニ於テ更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著ナルトキハ裁判所ハ檢事ノ請求ニ因リ本人ヲ 豫防拘禁ニ付スル旨ヲ命ズルコトヲ得
第一章ニ掲グル罪ヲ犯シ刑ニ處セラレ其ノ執行ヲ終リタル者又ハ刑ノ執行猶豫ノ言渡ヲ受ケタル者 思想犯保護観察法ニ依リ保護観察ニ付セラレ居ル場合ニ於テ保護観察ニ依ルモ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ危険ヲ防止スルコト困難ニシテ 更ニ之ヲ犯スノ虞アルコト顕著ナルトキ亦前項ニ同ジ
第四十條
 豫防拘禁ノ請求ハ本人ノ現在地ヲ管轄スル地方裁判所ノ檢事其ノ裁判所ニ之ヲ爲スベシ
前項ノ請求ハ保護観察ニ付セラレ居ル者ニ係ルトキハ其ノ保護観察ヲ爲ス保護観察署ノ所在地ヲ管轄スル地方裁判所ノ檢事 其ノ裁判所ニ之ヲ爲スコトヲ得
豫防拘禁ノ請求ヲ爲スニハ豫メ豫防拘禁委員会ノ意見ヲ求ムルコトヲ要ス
豫防拘禁委員会ニ関スル規程ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
第四一條
 檢事ハ豫防拘禁ノ請求ヲ爲スニ付テハ必要ナル取調ヲ爲シ又ハ公務所ニ照会シテ必要ナル事項ノ報告ヲ求ムルコトヲ得
前項ノ取調ヲ爲スニ付必要アル場合ニ於テハ司法警察官吏ヲシテ本人ヲ同行セシムルコトヲ得
第四二條
 檢事ハ本人定マリタル住居ヲ有セザル場合又ハ逃亡シ若ハ逃亡スル虞アル場合ニ於テ豫防拘禁ノ請求ヲ爲スニ付 必要アルトキハ本人ヲ豫防拘禁所ニ仮ニ収容スルコトヲ得
但シ已ムコトヲ得ザル事由アル場合ニ於テハ監獄ニ仮ニ収容スルコトヲ妨ゲズ
前項ノ仮収容ハ本人ノ陳述ヲ聴キタル後ニ非ザレバ之ヲ爲スコトヲ得ズ
但シ本人陳述ヲ肯ゼズ又ハ逃亡シタル場合ハ此ノ限ニ在ラズ
第四三條
 前條ノ仮収容ノ期間ハ十日トス其ノ期間内ニ豫防拘禁ノ請求ヲ爲サザルトキハ速ニ本人ヲ釈放スベシ
第四四條
 豫防拘禁ノ請求アリタルトキハ裁判所ハ本人ノ陳述ヲ聴キ決定ヲ爲スベシ
此ノ場合ニ於テハ裁判所ハ本人ニ出頭ヲ命ズルコトヲ得
本人陳述ヲ肯ゼズ又ハ逃亡シタルトキハ陳述ヲ聴カズシテ決定ヲ爲スコトヲ得
刑ノ執行終了前豫防拘禁ノ請求アリタルトキハ裁判所ハ刑ノ執行終了後ト雖モ豫防拘禁ニ付スル旨ノ決定ヲ爲スコトヲ得
▼「豫防拘禁」すごい制度だ。

第四五條
 裁判所ハ事實ノ取調ヲ爲スニ付必要アル場合ニ於テハ参考人ニ出頭ヲ命ジ事實ノ陳述又ハ鑑定ヲ爲サシムルコトヲ得 裁判所ハ公務所ニ照会シテ必要ナル事項ノ報告ヲ求ムルコトヲ得
第四六條
 檢事ハ裁判所ガ本人ヲシテ陳述ヲ爲サシメ又ハ参考人ヲシテ事實ノ陳述若ハ鑑定ヲ爲サシムル場合ニ立会ヒ意見ヲ開陳スルコトヲ得
第四七條
 本人ノ属スル家ノ戸主、配偶者又ハ四親等内ノ血族若ハ三親等内ノ姻族ハ裁判所ノ許可ヲ受ケ輔佐人ト爲ルコトヲ得 輔佐人ハ裁判所ガ本人ヲシテ陳述ヲ爲サシメ若ハ参考人ヲシテ事實ノ陳述若ハ鑑定ヲ爲サシムル場合ニ立会ヒ意見ヲ開陳シ 又ハ参考ト爲ルベキ資料ヲ提出スルコトヲ得
第四八條
 左ノ場合ニ於テハ裁判所ハ本人ヲ勾引スルコトヲ得
一 本人定リタル住居ヲ有セザルトキ
二 本人逃亡シタルトキ又ハ逃亡スル虞アルトキ
三 本人正当ノ理由ナクシテ第四十四條第一項ノ出頭命令ニ應ゼザルトキ
第四九條
 前條第一号又ハ第二号ニ規定スル事由アルトキハ裁判所ハ本人ヲ豫防拘禁所ニ仮ニ収容スルコトヲ得
但シ已ムコトヲ得ザル事由アル場合ニ於テハ監獄ニ仮ニ収容スルコトヲ妨ゲズ
本人監獄ニアルトキハ前項ノ事由ナシト雖モ之ヲ仮ニ収容スルコトヲ得
第四十二條第二項ノ規程ハ第一項ノ場合ニ付之ヲ準用ス
第五十條
 別段ノ規程アル場合ヲ除ク外刑事訴訟法中決定ニ関スル規程ハ第四十四條ノ決定ニ、 即時抗告ニ関スル規程ハ前條ノ即時抗告ニ付之ヲ準用ス
第五一條
 豫防拘禁ニ付セザル旨ノ決定ニ対シテハ檢事ハ即時抗告ヲ爲スコトヲ得
豫防拘禁ニ付スル旨ノ決定ニ対シテハ本人及輔佐人ハ即時抗告ヲ爲スコトヲ得
第五二條
 別段ノ規程アル場合ヲ除ク外刑事訴訟法中決定ニ関スル規定ハ第四十四條ノ決定ニ、 即時抗告ニ関スル規定ハ前條ノ即時抗告ニ付之ヲ準用ス
第五三條
 豫防拘禁ニ付セラレタル者ハ豫防拘禁所ニ之ヲ収容シ改悛セシムル爲必要ナル處置ヲ爲スベシ
豫防拘禁所ニ関スル規程ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
▼「改悛セシムル爲必要ナル處置」とは拷問?

第五四條
 豫防拘禁ニ付セラレタル者ハ法令ノ範囲内ニ於テ他人ト接見シ又ハ信書其ノ他ノ物ノ授受ヲ爲スコトヲ得
豫防拘禁ニ付セラレタル者ニ対シテハ信書其ノ他ノ物ノ檢閲、差押若ハ没収ヲ爲シ又ハ保安若ハ懲戒ノ爲必要ナル處置ヲ爲スコトヲ得 仮ニ収容セラレタル者及本章ノ規定ニ依リ拘引状ノ執行ヲ受ケ留置セラレタル者ニ付亦同ジ
第五五條
 豫防拘禁ノ期間ハ二年トス特ニ継続ノ必要アル場合ニ於テハ裁判所ハ決定ヲ以テ之ヲ更新スルコトヲ得
豫防拘禁ノ期間満了前更新ノ請求アリタルトキハ裁判所ハ期間満了後ト雖モ更新ノ決定ヲ爲スコトヲ得
更新ノ決定ハ豫防拘禁ノ期間満了後確定シタルトキト雖モ之ヲ期間満了ノ時確定シタルモノト看做ス
第四十條、第四十一條及第四十四條乃至第五十二條ノ規定ハ更新ノ場合ニ付之ヲ準用ス 此ノ場合ニ於テ第四十九條第二項中監獄トアルハ豫防拘禁所トス
第五六條
 豫防拘禁ノ期間ハ決定確定ノ日ヨリ起算ス
拘禁セラレザル日数又ハ刑ノ執行ノタメ拘禁セラレタル日数ハ決定確定後ト雖モ前項ノ期間ニ算入セズ
第五七條
 決定確定ノ際本人受刑者ナルトキハ豫防拘禁ハ刑ノ執行終了後之ヲ執行ス
監獄ニ在ル本人ニ対シ豫防拘禁ヲ執行セントスル場合ニ於テ移送ノ準備其ノ他ノ事由ノ爲特ニ必要アルトキハ一時拘禁ヲ継続スルコトヲ得
豫防拘禁ノ執行ハ本人ニ対スル犯罪ノ捜査其ノ他ノ事由ノ爲特ニ必要アルトキハ決定ヲ爲シタル裁判所ノ檢事 又ハ本人ノ現在地ヲ管轄スル地方裁判所ノ檢事ノ指揮ニ因リ之ヲ停止スルコトヲ得
刑事訴訟法第五百三十四條乃至第五百三十六條及第五百四十四條乃至第五百五十二條ノ規定ハ豫防拘禁ノ執行ニ付之ヲ準用ス
第五八條
 豫防拘禁ニ付セラレタル者収容後其ノ必要ナキニ至リタルトキハ第五十五條ニ規定スル期間満了前ト雖モ 行政官庁ノ處分ヲ以テ之ヲ退所セシムベシ
第四十條第三項ノ規定ハ前項ノ場合ニ付之ヲ準用ス
第五九條
 豫防拘禁ノ執行ヲ爲サザルコト二年ニ及ビタルトキハ決定ヲ爲シタル裁判所ノ檢事又ハ本人ノ現在地ヲ管轄スル地方裁判所ノ檢事ハ 事情ニ因リ其ノ執行ヲ免除スルコトヲ得
第四十條第三項ノ規定ハ前項ノ場合ニ付之ヲ準用ス
第六十條
 天變事變ニ際シ豫防拘禁所内ニ於テ避難ノ手段ナシト認ムルトキハ収容セラレタル者ヲ他所ニ護送スベシ 若シ護送スルノ暇ナキトキハ一時的ニ之ヲ解放スルコトヲ得
解放セラレタル者ハ解放後二十四時間内ニ豫防拘禁所又ハ警察官署ニ出頭スベシ
第六一條
 本章ノ規定ニ依リ豫防拘禁所若ハ監獄ニ収容セラレタル者又ハ拘引状若ハ逮捕状ヲ執行セラレタル者逃走シタルトキハ 一年以下ノ懲役ニ處ス
前條第一項ノ規定ニ依リ解散セラレタル者同條第二項ノ規定ニ違反シタルトキ亦前項ニ同ジ
第六二條
 収容設備若ハ械具ヲ損壊シ、暴行若ハ脅迫ヲ爲シ又ハ二人以上通謀シテ前條第一項ノ罪ヲ犯シタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ處ス
第六三條
 前二條ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
第六四條
 本法ニ規定スルモノノ外豫防拘禁ニ関シ必要ナル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム
第六五條
 朝鮮ニ在リテハ豫防拘禁ニ関シ地方裁判所ノ爲スベキ決定ハ地方法院ノ合議部ニ於テ之ヲ爲ス
朝鮮ニ在リテハ本章中地方裁判所ノ檢事トアルハ地方法院ノ檢事、思想犯保護観察法トアルハ朝鮮思想犯保護観察令、 刑事訴訟法トアルハ朝鮮刑事令ニ於テ依ルコトヲ定メタル刑事訴訟法トス
附則
本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ定ム
第一章ノ改正規定ハ本法施行前從前ノ規定ニ定メタル罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ適用ス 但シ改正規定ニ定ムル刑ガ從前ノ規定ニ定メタル刑ヨリ重キトキハ、從前ノ規定ニ定メタル刑ニ依リ處断ス
第二章ノ改正規定ハ本法施行前公訴ヲ提起シタル事件ニ付テハ之ヲ適用セズ
第三章ノ改正規定ハ從前ノ規定ニ定メタル罪ニ付本法施行前刑ニ處セラレタル者ニ亦之ヲ適用ス
本法施行前朝鮮刑事令第十二條乃至第十五條ノ規定ニ依リ爲シタル捜査手続ハ本法施行後ト雖モ仍其ノ効力ヲ有ス
前項ノ捜査手続キニシテ本法ニ之ニ相当スル規定アルモノハ之ヲ本法ニヨリ爲シタルモノト看做ス
本法施行前朝鮮思想犯豫防拘禁令ニ依リ爲シタル豫防拘禁ニ関スル手続ハ本法施行後ト雖モ仍其ノ効力ヲ有ス
前項ノ豫防拘禁ニ関スル手続ニシテ本法ニ之ニ相当スル規定アルモノハ之ヲ本法ニ依リ爲シタルモノト看做ス

▼「法治国家」だからここまで微に入り、細に渡り、「拷問」の容認まで規定する?
司法警察官とは? 「弁護士ドットコム」HPより。

警察は,公的機関として国民の安全・利便性の確保などの目的で行政作用を行いますが,特に刑事司法作用にかかわる部門を司法警察と呼びます。 司法警察職員とは司法警察員(階級では巡査部長以上の警察官)と司法巡査を総称したものです(刑訴法39条3項)。

▼file:///C:/Users/osc-hp/Downloads/治安維持法関係資料集を今日見つけました。(2019.4.8)
奥平先生が「新治安維持法」と呼んでおられるようにわたしもそのように思っていました。先生は同じマンションに住んでおられ、何度かお邪魔しました。

VI 新治安維持法一一一第三次治安維持法
一九二五年の治安維持法も、二八年の緊急勅令による治安維持法「改正」も、「国体」変革と「私有財産制度」否認の結 社行為の処罰規定を主に、いずれも七条であったのに対して、この四一年の治安維持法の「改正」が、刑罰規定の厳重化だ けでなく、刑事手続きと「予防拘禁」の規定を持ち、条文数も六五条に及んだことからすると、これは第三次の治安維持法 でありつつ、実質的に「新治安維持法」と呼ぶべきものである(奥平康弘「治安維持法小史』も「新治安維持法」を用いる)。

この新治安維持法の概要は奥平「治安維持法小史』で的確に論じられているので、ここでは略述するに止める。
まず「第一章罪」は、実体的規定の増補強化である。司法省刑事局『改正治安維持法説明書(案)』(一九四一年三月、 m l四11)は「現行法ノ不備ナル点」として、「支援結社ニ関スル処罰規定ヲ欠如セルコト」「準備結社二関スル処罰規定 ヲ欠如セルコト」「結社ニ非ザル集団ニ関スル処罰規定ヲ欠如セルコト」「宣伝其ノ他国体変革ノ目的遂行ニ資スル行為ニ関 スル包括的処罰規定ヲ欠如セルコト」の四点をあげる。新治安維持法では、これらの欠陥を埋める「改正」をおこなう以外 に、「国体」変革処罰に関して現行法の禁鋼を削除するとともに刑を引き上げたこと、そして「不退」な「類似宗教団体」 を「国体」否定の新たな概念で処罰する規定を設けたことが加わる。
「第二章刑事手続」は、刑事訴訟法に対する特別である。その要点は、検事に広範な捜査強制権を付与したこと、控訴審 を省略する二審制を採用したこと、弁護権に各種の制限を設けたこと、裁判管轄の移転を請求し得る場合を拡張したことの 四点である。これらは、刑事手続きの面から審理の促進と簡易化を進めるための特例措置だが、それが容認されるのは、 「国家統治権の作用として、立法、行政と相並んで、司法を認める我法治国家体制は、「まつろはざるもの」をも陸下の赤子 としてまつろはしむべく抱擁せらるる大御心を中心とするところの、我国体に淵源してゐるものと信ずる」(太田「改正治 安維持法を繰る若干の問題」)という独善的信念によっている。したがって、先に四つの「改正」点についての理由づけは、 どれもご都合主義的であったり、論理のすり替えであったりしながらも、当局者には反対に「人権尊重の精神に合致するも のであり、文化国家としての我国の躍進」と自負される。
▼権力という妄想に取りつかれるとこの法律ですら「人権尊重の精神に合致」するものになる。恐ろしい。確かに条文の構成としては 高度の専門的知識を駆使しているが、人間の根本、基本が正常でなく、狂気が支配している。こういう専門家が現代も大手を振っている。 (2019.4.9)
      飛んだ先。
    12月8日 太平洋戦争勃発
1942年 2月13日 「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」閣議決定「官斡旋」による日本への労務動員開始
▼資料館ホームページhttp://www.j-koreans.org 展示品解説・「ブラウン島玉砕者名簿と自由韓人報」のブラウン島玉砕者に関する名簿資料にこんな記述があります。
「マーシャル諸島のブラウン環礁で戦死したとされた労働者290人のうち邦人は55人で、残りの235名のほとんど は朝鮮半島から強制動員された朝鮮人だった。」
▼酷いですね。因みにブラウン環礁は、「戦後、住人は立ち退かされ、1948年4月30日のサンドストーン作戦 (エックスレイ実験)を皮切りに、1952年には最初の水爆実験アイビー作戦が行われ、1962年までアメリカ合衆国の核実験に使われた」 とWikipediaにあります。
自由韓人報とは、「 戦時中、日本軍に土木作業員などとして徴用された後、南方の島々で米軍の捕虜になり、 ハワイの収容所で暮らした朝鮮人が発行した週報」のようです。
▼徴用→グァム島で捕虜→ハワイ収容所。なんという運命。この記述をじーっと見つめていて言葉が出ませんでした。 ヘイトスピーチの人たちよ、この事実を日本人としてどう考えのるか。

▼下の「天声人語」は2020.2.3に見つけ、感想を書きました。今日、尹東柱さんの写真を「写真で見る在日コリアンの100年」 (66頁)で見つけました。『空と風と星と詩ー尹東柱詩集』があるようです。金時鐘さんが訳しておられます。 「死ぬ日まで天を仰ぎ一点の恥じ入ることも ないことを……そして私に与えられた道を歩いていかねば   今夜も星が風にかすれて泣いている(1941年11月20日)」
尹さん23歳の時の詩ですね。自分の23歳を思い出しています。その時決心した道をあゆんでいます。(2020.4.21)
2020.1.26朝日新聞「天声人語」
1942年、立教大学に留学していた詩人尹東柱(ユンドンジュ)は 43年、朝鮮独立運動にかかわったとして治安維持法違反で京都で捕まり、45年2月 16日、27歳の若さで獄死。「窓の外で夜の雨がささやき/六畳の部屋は よその国」
▼私がこの時代に尹さんの境遇に居れば同じ運命を辿ったと思う。尹さんの無念を私はいま生きる。(2020.2.3)
     5月8日 朝鮮人に対する徴兵制導入を閣議決定
1943年 6月25日 学徒兵制実施 朝鮮人学生にも「志願」とい
         う名目で適用
1944年 9月 「徴用」による朝鮮国内、日本、満州などへの労
       務動員開始
    「徴用工」が今問題になっています。次の論文を見て
      ください。 「現代の理論」21号(2019.11.10)

「徴用工」とはどのような人たちか 青山学院大法学部教授 シン ヘボン
あなたが、技術を習得でき技術者として就職できると聞かされて求人に応募し、 訓練工として仕事を始めたところ、実際にさせられた仕事は、技術習得とは関係のない、 しかも危険な重労働だったらどうするか。辞めたいと思っても、職場でも寄宿舎でも 会社の人間が監視しており容易に辞めることもできない。逃げようとしたら捕まり、 殴る蹴るの体罰を受けた。職場や寄宿舎で与えられる食事は乏しく、いつも空腹を抱えながら働かされた。 逃亡して体罰を受けたときは、食事も与えられなかった。賃金はあったとはいえ、 無駄遣いする恐れがあるとして、わずかな小遣い以外は会社の銀行口座に強制的に貯金させられた。 しかも途中からは、会社は自分たち訓練工を自由に使用できるのだと言い始め、賃金も支給されなくなった。 職場には、無理やり動員されてきた訓練工たちも加わった。危険な作業をさせられながらも、 自分は何とか生き延びることができたが、仲間には、作業中に大けがをしたり、 事故で命を落としたりした者もいる。 韓国の裁判所で、日本の企業を相手に損害賠償請求の訴訟を起こした元「徴用工」とは、 このような人たちだ。

朝日夕刊2020.10.5
▼編集委員・豊秀一さんの取材。衝撃的な記事でした。国内に130の捕虜収容所が造られ、3万5千人を超える外国人が過酷な 労働を強いられ約1割が死亡していた、と。まったく知りませんでした。POW研究会のHPが公開されているとの記事でアクセスしました。 (2020.10.7)
POW研究会 http://www.powresearch.jp/jp/index.html
           POW研究会について
第2次大戦中、日本軍はアジア・太平洋地域で約14万人の連合軍将兵 (イギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、インドなど)を捕虜としました。 彼らは各占領地で日本軍が使用する鉄道や道路、飛行場などの過酷な建設作業に従事させられるとともに、 その一部、約3万6千人は日本国内にも連行され、労働力不足を補う要員として、炭鉱や鉱山、造船所、工場などで働かされました。
捕虜たちの生活は悲惨をきわめ、飢えや病や虐待などにより、終戦までに国内外合わせると3万数千人もの人々が亡くなりました。 死亡率は27%に及びます。
生還を果たした人々も心と体に癒しがたい傷を負い、日本に対する強い憎しみを抱きながら戦後の日々を生きてきました。 それは抜きがたい棘となって、戦後60年を経た今もことあるごとに噴き出しています。
一方、戦後の戦犯裁判において多数の捕虜収容所関係者が捕虜虐待などの罪に問われ、日本人の側にも深い傷跡を残しました。
しかし、連合軍捕虜の実態については、これまでほとんど明らかにされてきませんでした。 終戦と同時に捕虜収容所関係の書類が日本軍によって焼却されてしまい、また日本政府がこの歴史事実を記録する努力を怠ってきたからです。
POW(Prisoner of War=戦争捕虜)研究会はこの埋もれた歴史を掘り起こしていこうと2002年3月に発足、 全国約70人の会員が互いに協力しながら、捕虜・民間人抑留者や戦犯裁判の調査、元捕虜や遺族との交流など様々な活動に取り組んでいます。
世界では今も戦争や紛争が絶えず、同じような過ちが再び繰り返されつつあります。 こういう今だからこそ、私たちは過去から学ぶ必要があります。 その第1歩は、まず事実を正しく知り、それを多くの人びと──とりわけ若い世代に伝えていくことです。
また、かつての敵味方の壁を越えて語り合い、互いの理解を深め、あのような惨禍を繰り返さないための道をともに考えていくことです。 私たちはその努力を重ね、その活動の成果を順次このホームページに掲載していきます。
共同代表:内海愛子/笹本妙子
*本会の共同代表の一人福林徹氏は2017年8月31日に逝去しました。そのため2018年より共同代表を上記のように変更しました。 福林氏の多大な功績に感謝するとともに、彼の遺志をひきつぎ今後も会を発展させていきたいと思います。

朝日朝刊2020.9.10
▼敗戦直前のあがき。犠牲を大きくしただけ。こころが痛む(2020.10.21)
朝日朝刊2020.10.17
▼投稿者の畠山さんは現在87歳。国民小学校6年生の時(12)の1945年の記憶。大人になって「大きな穴に遺体が積み重ねられていたと知り、 その残酷さに胸が痛んだ」と書いておられる。花岡鉱山をWikipediaで調べました。
日中戦争の長期化と太平洋戦争の開始にともない、日本国内の労働力不足は深刻化し、 鉱山や土木建設などを中心とした産業界の要請を受け、東条内閣は1942年(昭和17年)11月27日に「国民動員計画」の 「重筋労働部門」の労働力として中国人を内地移入させることを定めた「華人労務者内地移入に関する件」 を閣議決定した[3]。
44年2月の次官会議決定によって、同年8月から翌1945年5月までの間に三次にわたり38,935人の 中国人を日本に強制連行
し、国内の鉱山、ダム建設現場など135の事業場で強制労働させた[4]。
中国人たちは「中山寮」という収容所に入れられ、粗悪で少量の食料と過酷な労働、補導員と呼ばれた 鹿島組職員の虐待の中で次々と殺されていった。労働、生活条件の劣悪さは、986人のうち418人が死亡したという事実に示されており、 彼らの飢えと栄養不足の凄まじさは生存者および現地の住民、医師等といった日本人の証言で明らかにされている[7]。
過酷な労働と生活、非人間的処遇に耐えかねた中国人たちは、45年6月30日夜(7月1日との説もある)、 一斉蜂起し日本人監督4名と日本人と内通していた中国人1名を殺害して中山寮から逃亡した。 しかし直ちに憲兵隊、警察、地元警防団らによって鎮圧され再び捕らえられ、共楽館に集められて凄まじい拷問にさらされ、 蜂起の後の3日間で実に100名を超える人々が虐殺された[8]。
死体は10日間放置された後、 花岡鉱業所の朝鮮人たちの手で3つの大きな穴が掘られ、埋められた。 この後も状況に変化は無く、7月に100人、8月に49人、9月に68人、10月に51人が死亡した[9]。

▼畠山さんのご体験は1945年6月30日〜7月3日の出来事のようです。投稿のお陰でまた一つアジアの人に申し訳ない歴史を知ることができました。(2020.10.18)

1945年 6月23日 国民義勇兵役法公布
2019.12.7朝日新聞夕刊
▼戦況悪化に伴って1945(昭和20)年春、民間有志で組織する「神風特攻後続隊」がつくられ、 一般の青年男女が主で約4万人、うち3分の1が女性だった、という。ここまで民衆を追い詰めた。(2020.6.1)
    2020.4.18朝日新聞朝刊
40歳過ぎの召集兵が制裁を受け死亡した。私の父親のような年の人だ。 下士官たちがハンモックの吊り具に両手を縛って吊るし殴ったそうだ。5発、10発と続けるうちに叩くほうも顔面蒼白、鬼の形相になる。 故郷の妻子にこの死はどう伝えられるのか。 こころの中を得体知れないゲジゲジが這うようだ。(2020.5.25)
▼「戦況は悪化 …」「叩かれ殺された…」敗戦直前庶民ひとり一人の異常が極限に達していた。 コロナ禍 気をつけること。(2020.7.7)
  2020.7.25朝日新聞朝刊


     8月15日 日本敗戦 朝鮮解放
▼1945年8月15日。日本は黒塗り教科書。朝鮮は光を復した。対照的。 (2020.4.21)

1945年8月15日、ポツダム宣言の受諾により日本は降伏し、朝鮮人は祖国の光復・解放をむかえた。解放直後の在日は雪崩をうって帰国した。 息苦しい日本から一刻も早く去りたかったからである。
(「100年のあかし」12頁)
     8月24日 朝鮮人帰国者を乗せた「浮島丸」が舞鶴湾で沈没、朝鮮人549人が死亡(自
     爆、触雷の両論あり)
    10月 東京・新宿区戸塚に「国語講習所」(民族学校の前身)が作られる
2020.10.17朝日朝刊
▼投稿者亀山茂弘さん、95歳。最後の告発、と感じました。当時25歳ですね。(2020.10.31)
国語講習所 (こくご こうしゅうじょ) とは
戦後在日韓国・朝鮮人が自主的に建設した朝鮮語による民族教育を行うための施設である。第二次世界大戦終戦 後、在日韓国・朝鮮人が個人宅・あるいは公私立学校・工場を間借りしたりなどして民族教育を行った。 のちに在日朝鮮人連盟によって地理・歴史・数学・理科なども含めた教育を行う施設へと発展する。現在の朝鮮学校は国語講習所をルーツとしている。 (Wikipedia)
日本に残った朝鮮人の多くは、いずれ祖国に帰るのだという強い意志を持っていた。そのためには日本で生まれ育ち、 皇国臣民化教育を受け、強要された子どもたちにウリマル(母国語)を教え必要があると考えた。 日本全国600ヵ所に民族学校がつくられた。約6万人の子どもたちがそこで学んだ。先生も校舎も教材も足りない中、 「知恵のある者は知恵を、力のある者は力を、金のある者は金を!」の合言葉に機運が高まり、民族の言葉を取り戻す民族教育が始まった。 (「写真で見る在日コリアンの100年」86頁)
      10月10日 『民衆新聞』創刊(『解放新聞』の前身)
      10月15日 在日本朝鮮人連盟(朝連)結成
在日本朝鮮人連盟(Wikipedia)
1945年(昭和20年)10月15日、日比谷公会堂で、在日本朝鮮人連盟が結成された。全国各地の代表4000人が集まった。 結成時の綱領は
「新朝建設に献身的努力を期す」
「世界平和の恒常的維持を期す」
「在日同胞の生活安定を期す」
「帰国同胞の便宜と秩序を期す」
「日本国民との互譲友誼を期す」
「目的達成のために大同団結を期す」
の6項目だった。
▼資料館ホームページhttp://www.j-koreans.org 資料館ガイド・第2展示室・「民族の誇りをもって」にもアクセスしてください。
     11月16日 朝鮮建国促進青年同盟(建青)結成
2020.2.9朝日新聞朝刊
国民をここまで追い込んだ指導者に、何かわからない怒りで一杯になりました。

     12月17日 改正衆議院議員選挙法付則を根拠に在日朝鮮人・台湾人の参政権剥奪
     12月29日 モスクワ三国外相会議(米・英・ソ)で朝鮮の独立を保障する決定(信託統                                          治)
1946年 1月20日 新朝鮮建設同盟(建同)結成
     8月15日 全国各地で解放1周年記念祝賀大会、盛大に開かれる
     10月03日 在日本朝鮮居留民団(民団)結成
▼ 資料館ホームページhttp://www.j-koreans.org展示品解説・「防犯ポスター」 の解説には次のような記述があります。
「ここにみえるのは朝鮮人であるがために犯罪人扱いをしていることである。日本帝国主義はその生成、発展の 全過程で朝鮮を踏み台にしたことで生まれた痼疾(こしつ…持病)の朝鮮観があった。
▼日本人は、よくよく朝鮮人差別のこの痼疾(こしつ…持病)を心に留めておかなければいけない。 今日(2019.4.9)読み返してみて「日本帝国主義はその生成、発展の全過程で朝鮮を踏み台」の「朝鮮を踏み台」をアイヌ民族に置き換えてもそのまま当て嵌まる。
「日本人の享有した民主的権利から在日を排除したこともこうした認識から生まれたのである。60年前の1枚のポスターは我々の 父母や祖父母の体験した「民主」日本社会のあらたな差別排外の実像を伝えているといえよう。」
▼日本の支配層のみならず民衆にまで伝染しているこのような朝鮮観が今日のヘイトスピーチにつながっている。
▼上記感想を書いた約1年後のいま、佐々克明さんの『天皇家はどこから来たか』を読んでいます。日本と朝鮮の関係が根底から覆る、そのような内容です。 720年に『日本書紀』が成立して以来1300年後の今日まで、いかに日本社会にゆがめられた朝鮮人観が蔓延っていたか、 恐ろしいほどです。近いうちに紹介します。(2020.4.21)

    日本の国の成り立ち(朝鮮半島と天皇)
佐々克明『天皇家はどこから来たか』、李進熙『新版日本文化と朝鮮』、金達寿『日本の中の朝鮮文化』を元に 日本と朝鮮のあり方を考えてみたいとおもいます。(2020.5.16)

まず『天皇家はどこから来たか』から:
p147 「統一王朝が完成するには天智、天武、持統の7世紀後半までかかったと、私は確信している。」
2019.11.13朝日新聞朝刊 大嘗祭
「古代日本では、農民が神に作物を捧げる収穫儀礼が行われていました。 それを天武天皇の時代に、国全体の儀式として整えた。」と岡田荘司国学院大学名誉教授は解説されています。(2020.5.27)

p150 「神功紀に新羅征伐の件がくみこまれたのは、8世紀初頭に『日本書紀』を編集したグループが百済系の官吏、学者だったからではないか。 総理大臣は加羅系とみられる藤原不比等である。王朝も内閣も官吏・学者からなる編集チームも、ことごとく反新羅にこり固まっていた。すでに 百済も加羅も亡びてしまっていた。王朝や貴族・官僚の母国である百済や加羅諸国の歴史をできるだけかっこよく「記紀」に繰り入れて つくるのが、編集方針の大きな柱であった。編集者は、神功の項に巧みに、百済・加羅の歴史を挿入した。」
p235 「(古代の)日本と朝鮮とは、ある意味で双方が独立国家という現代的な感覚では理解できない関係にあった、ということ、そしてもし、 あえていうならば、アメリカ合衆国内における倭州であり、百済州であり任那州のようなものだということである。私はしたがって天皇家 が(半島から)渡海し倭国の地に政権を樹立することも、その政権が半島各州の情勢によって交替することも当然ありうると考えるようになった。 そして7世紀〜8世紀にいたってようやく倭国州から日本国が誕生したーー天智時代とはそんな時代であったのだ。」
▼「アメリカ合衆国内における倭州」→「朝鮮半島合衆国における倭州」のほうがわかりやすい。それはともかく 本家を半島に置く倭州、とのイメージは日本人の既成概念を大転換させるのに的確・適切な表現だとおもう。
p202 「私の一貫した古代史像は、日本と朝鮮半島は一衣帯水くらいのへだたりしかないと考えている。しかも、政治・経済・文化は 半島から伝播するという大前提があるからだ。この欽明にいたるまでの¨天皇¨と呼ばれる人たちだ、この朝鮮半島の情勢抜きに、はたして 存立しえたであろうか。まさしく欽明王朝もまた朝鮮半島の情勢の中で生まれたのである。そして私はあえていう―。「欽明天皇は、金官加羅10代 の王・仇衡(クヒョン)であった」
▼最初この一文に出会ったとき信じられない気持ちでした。しかしその後李進熙教授、金達寿さんを読んでいくと、 そうだな、とおもうようになりました。
p262 「古代史開眼ともいうべきご教示をいただいた上田正昭、水野祐、洪思俊、金達寿の諸先生に深くお礼申し上げる次第です。」
▼上記の諸先生は私がこれから取り上げる所論と規を一にした方々です。

つぎに『新版日本文化と朝鮮』から:

p85 「8世紀において、できがったばかりの律令体制を維持・強化するためには、内にあっては天皇を「神国の聖王」とし、万世一系の「皇統」をつくりださねば ならなかった。いっぽう、「夷狄」と「藩屏(はんべい)国」を設定する必要がある。720年に完成した『日本書紀』は、こうした政治的 要求を満たす目的で編纂されたのであった。
「小中華思想」にもとづく政治書であるために、実際とは関係なしに統一新羅を藩屏国 だとし、朝鮮三国が古くから「朝貢」をつづけてきたかのように装飾した。そしてまた、渡来人を「天皇」の徳化に帰附したとして、 「帰化人」にしてしまうのであった。」
p91 「天武・持統・文武の三代約30年間、遣唐使の派遣は中止され、学問僧は専ら新羅に赴いている。なお、「倭国」から「日本」へ変わるのは 7世紀後半で、『三国史記』文武王十年(670)十二月条に「倭国は国名を日本と改めた」とある。」
▼これは大事な記録。『三国史記』文武王とは新羅の王のことです、念のため。
p93 「752年(天平勝宝)4月9日、東大寺盧舎那大仏の開眼会の儀式が2万余人の参列のもとに催され、唐や高麗(高句麗)の楽舞が奏された。 新羅の金泰廉が七百余人を引き連れて来日した。

さいわい人材には恵まれていた。大僧正は民衆に信望のあつい行基であり、彼が世を去ると、 良弁があとをついだ。財政を担当したのは秦朝元で、工事全般には佐伯今毛人(さえきのいまのえみし)があたった。
   2020.7.14朝日新聞夕刊
法隆寺「釈迦三尊像」渡来系技術者。東大寺「盧舎那仏坐像」渡来系技術者。美術史研究誌「國華」編集委員奥健夫さん「鎌倉時代に南都 が復興されることになり、奈良仏師の技術や知識の蓄積が必要とされたことが、慶派が主流に躍り出る一つの契機となった」

大仏鋳造の責任者は国中連公麻呂(くになかのむらじのきみまろ)である。行基や秦朝元などは渡来氏族の出身であるが、良弁もそうであった。

また天智朝の代にやってきた百済官人の後裔がかかわっているのが注目される。公麻呂がそれであって、彼の祖父、国骨富(こくこっぷ)は663年 に渡来した百済官人である。

公麻呂の下には、大鋳師の高市真国(たけいちのまくに)、大工の猪名部百世(いなべのももせ)・益田縄手(ますだのなわて)らがおり、彼らは いずれも古い渡来氏族の出である。大仏に塗る黄金九百両は、百済最後の王・義慈王の四代目にあたる陸奥国司の百済王敬福が献上したもので、 配下に錬金師の戸浄山(こじょうざん)がいた。仏像の鋳造に3年を費やしたが、塗金して完成するまでさらに10年の歳月を要したという。」
▼この法会を見ると、新羅の僧、百済からの今来の公麻呂、古い渡来人の大工・鋳物師・錬金師、同じく渡来人百済王敬福など オール渡来人による大法会である。新羅との関係が修復されている。 『日本書紀』は「小中華思想」にもとづく政治書であったが、開眼法会はそれを超えている。このことにも注目しておいてよいとおもう。 720年から752年のあいだに何か大きな変化があったのか。

▼『新版日本文化と朝鮮』を丁寧に読みました。こんな一文に出会いました。

p96 「東大寺は鎮護国家のイデオロギーの総本山となり、クニごとに国分寺と国分尼寺が建立される。新羅は武力で征服した百済と高句麗の 民衆を華厳宗をもって手なづけた先輩国だったので、聖武天皇はその経験をとりいれ、「天平」の世をつくろうとしたのだった。」
▼『日本書紀』720年成立。その年藤原不比等が63歳で亡くなる。大仏開眼会は752年。 先に「720年に完成した『日本書紀』は統一新羅を藩屏国だとした。」と李進熙教授は書かれた。 しかし30年後、聖武天皇は新羅の華厳宗を日本の国家鎮護の仏教とし、大仏開眼会には700人余の僧が新羅から来ている。 このあたりの柔軟性を現代の日本の政治家は見習うべきではないか。

最後に金達寿『日本の中の朝鮮文化』から(2020.5.17〜5.18):
『続日本紀』宝亀3年条
家系図の最後が坂上田村麻呂その父が苅田麻呂

p121 「私も日本の小学校で、「国史」というものを教えられた。だが、それは歴史といえるものではなかったばかりか、 神功皇后の「三韓征伐」または「新羅征伐」などと、はじめから朝鮮を侮蔑してかかったものだった。」
p123 「これら帰化人は奈良朝末期になっても、高市(たけち)郡の人口の8割ないし9割を占めていた。(『続日本紀』772年宝亀3年条の坂上 刈田麻呂の上表による。)」
p128 「古代にあっての神社は、一つの独立国のようなものであったということである。高柳光寿氏は「中世の神社は独立国であった」といっているそうで あるが、古代はなおいっそうそれであったにちがいない。」
▼金達寿さんは以下7頁にわたって坂口安吾を引用されています。多くの日本人にとって是非知っておいてもらいたい歴史観 だとおもい、ほぼそのまま掲載させていただきます。
p228〜p234 小見出し「坂口安吾のするどい史眼」及び「古代日本の真の姿は?」

まず「坂口安吾のするどい史眼」から。

日本の原住民はアイヌ人だの…いろいろ云われているが…扶余族が北鮮まで南下して以来、つまり1600〜1700年ぐらい前から、朝鮮からの 自発的な、または族長に率いられた家族的な移住者は陸続としてつづき、彼らは貝塚人種と違って相当の文化を持っておったし、数的にも 忽ち先住民を追い越す程度の優位を占めたものと思われる。……
つまり天皇家の祖神の最初の定着地点たるタカマガ原が日本のどこに当るか。それを考える前に、すでにそれ以前に日本の各地に多くの扶余族だの 新羅人だのの移住があったということ、及び当時はまだ日本という国の確立がなかったから彼らは日本人でもなければ扶余人でもなく、恐らく 単に族長に統率された部落民として各地にテンデバラバラに生活しておったことを考えておく必要がある。

つまり今日に於いてもウラジオストックからの漂流機雷が津軽海峡のレンラク船をおびやかす如くに、当時に於いても遠く北鮮からの小舟すらも 少なからぬ高句麗の人々をのせて越(こし)や出羽の北辺にまで彼らを運び随所に安住の部落を営ませていたであろうということを念頭にとどめ おくべきであろう。
むろん馬関海峡から瀬戸内海にはいって、そこここの島々や九州、四国、本州に土着したのも更に多かったであろうし、一部は長崎から鹿児島、 宮崎と九州を一巡して土着の地を探し、また四国を一巡したり、紀伊半島を廻ったり、中部日本へ上陸したり、更に遠く伊豆七島や関東、奥州 の北辺にまで安住の地をもとめた氏族もあったであろう。そして彼らは原住民にない文化を持っていたので、まもなく近隣の支配的地位につく 場合が少なくなかったと思われる。」

ここでちょっと、私の(金達寿さん)の補足をつけ加えておくことにしたい。坂口安吾氏のこれは日本の地に視点をおいてみたものであるが、それを 朝鮮からみたばあいはどうか、ということである。
▼説得力のある展開です。(2020.5.18)
いわば総合的にみるということなのであるが、『魏志倭人伝』これはただしくは『魏志・東夷伝』「倭人」段というべきもので、したがってそれには朝鮮 の「高句麗」段もあれば、また「韓」段もある。これによると「韓は三種」あって、馬韓はおよそ五十余国、辰韓、弁韓は各十二国と、たくさんの小国 にわかれていた。
▼これだけでも74余国になりますね。(2020.5.18)
古代朝鮮では、これらがやがてしだいに高句麗、百済、新羅という三国にまとめられ、さらにのちにはこれも長いあいだにわたる抗争の結果、668年、 新羅一国に統一されるのである。中央政権の確立であるが、その過程をつうじて高句麗、百済、新羅(駕洛・加羅)など朝鮮全体からたくさんの ものが海をわたることになり、この日本へ渡来したのであった。なかには、高松塚壁画古墳のある檜隈を根拠地とした東漢氏族のように、「十七の県」 すなわちその一国をあげて渡来したものもあるというぐあいだ。
▼金達寿さんのシリーズ「日本の中の朝鮮文化」はこのときの先人の残したものを辿る旅、ということですね。 (2020.5.18)
「東漢氏族のように「十七の県」すなわちその一国をあげて渡来した」とのくだりは『日本書紀』応神20年の条にでてきます。(2020.5.19)

京都大学の上田正明氏は、朝鮮からのその渡来の波を、だいたい大きく四つにわけてみることができるのではないかといっている。一つは弥生時代 に農耕文化を持ってやって来たもの、二つは古墳時代に来たもの、三つは奈良時代の前期、四つは奈良時代の後期、というのであるが、この時期は いずれも朝鮮では大きな変動の時期にあたっていた。

つぎに「古代日本の真の姿は?」です。
476年頃の朝鮮半島

「高句麗と百済と新羅の勢力争いは、日本の中央政権の勢力争いにも関係があったろうと思われる。なぜなら、日本諸国の豪族は概ね朝鮮経由の人たち であったと目すべき根拠が多く、日本諸国の古墳の出土品等からそう考えられるのであるが、古墳の分布は全国的であり、 それらに横のツナガリがあったであろう。そしてコマ(高麗)系、クダラ(百済)系、シラギ(新羅)系その他何系というように、日本に於いても 政争があってフシギではない。むしろ、長らくかかる政争があって、やがて次第に統一的な中央政権の確立を見たものと思われる。」

ここでまた私の補足をちょっとつけ加えると、645年のいわゆる大化の改新にしろ、またそれにつづいた663年の百済救援軍の派遣 (白村江の敗退)や、さらに またそれにつづく672年の壬申の乱にしても、日本古代史の大事件であったそれらはみな、坂口安吾氏のこのような視点からでなくしては、結局、 わかりはしないということである。坂口氏は、さらにつづけて書いている。

    2020.7.9朝日新聞朝刊
「自分自身を潔く投げだして、それ自体の中に救いの 路をもとめる以外に正しさはないではないか。」
このことばの中に坂口安吾という人の真実をみました。だからこの人の語る歴史観も真実だと感じました。(2020.7.10)

「時の政府によって特に朝鮮の一国と親しんだものや、朝鮮の戦争に日本から援軍を送った政府もあり、 そこに民族的なツナガリがあったかも知れない。
コマ(高麗)の文物を最も多くとりいれたのは聖徳太子のころであるが、太子はさらに支那の文化を直接とりいれることに志をおいた。日本統一 の気運とは、まさにこれであったと私は思う。
何系何系の国内的の政争が各自の祖族やその文化にたよる限り国内の統一はのぞめない。これを統一する最短距離は、そのいずれの系統の氏族 に対しても文化的に母胎をなす最大強国の大文化にたよるにまさるものはない。太子の系統はコマ(高麗)の滅亡と共にあるいは亡びたかも知れないが 、ともかく日本統一の気運を生みだした日本最初のまた最大の大政治家は聖徳太子であったといえよう。支那の文物を直接とりいれる気運のたかまると 共に日本の中央政府は次第に本格的に確立して、奈良平安朝のころに雑多の系統の民族を日本人として統一するに至った。
▼すばらしい!
こうして民族的な雑多な系統は消滅したが、それは別の形で残ったものもある。それが何々ミコトや何々天皇、何々親王の子孫という系譜である。 源氏や平家の系譜の背景にも相当の古代にさかのぼっての日本史の謎があるように思われる。桓武、清和、宇多というような平安朝の天皇を祖 とすることまではハッキリしているが、その平安朝の天皇に至るまでの大昔が問題であり謎である。
藤原京を経て奈良京に都したとき、日本の中央政府はどうやら確立の礎が定まったと見ることができる。…… そして奈良平安朝で中央政府が確立し、シラギ(新羅)系だのコマ(高麗)系だのというものは、すべて影を没したかに見えた。しかし実は 歴史の裏面へ姿を隠しただけで、いわば地下へもぐった歴史の流れはなお脈々とつづくのだ。
多くのシラギ(新羅)人を関東に移住させた左右大臣多治比島の子孫が武蔵の守となった後に飯能に土着したり、彼の死後3年目に若光がコマ(高麗) 王姓をたまわり、15年後に7か国のコマ(高麗)人1799人が武蔵のコマ(高麗)へ移された(716年…HP作成者)、というようなことは、シラギ(新羅)とコマ(高麗)が 歴史の地下へもぐったうちでも実はさして重要ではない末端のモグラ事件であったかも知れないのだ。
『調布市百年史』(14頁)の記述から。
「古代には朝鮮・中国からの帰化人は総括して「高麗人」とよばれていた。中央政府は 漸次各方面の産業文化を更新させ、発展させるべく東国各地に集団移住させた。多摩川沿岸では狛江を中心とした地域である。狛江古墳群の中でも とくに大きい「亀塚」の発掘調査では、明らかに半島文化の影響を認めることができる。調布の古社としての「虎狛神社」も帰化人である高麗人の居所 と関係があるとされている。いずれにしても南部武蔵野の開拓はこの地域から展開したとみられる。」(2020.8.4)
なぜならこれらのモグラは歴史の表面に現れている。けれどもモグラの大物は決して表面に現れない。むしろ表面に現れている末端のモグラを手がかり にしてもっと大物のモグラ族の地下でのアツレキを感じることができるのである。
すでに三韓系の政争やアツレキは藤原京のころから地下にくぐったことが分かるが、日本地下史のモヤモヤは藤原京から奈良京へ平安京へと移り、 やがて地下から身を起こして再び歴史の表面へ現れたとき、毛虫が蝶になったように、まるで違ったものになっていた。それが源氏であり、平家であり、 奥州の藤原氏であり、ひいては南北両朝の対立にも影響した。そのような地下史を辿りうるように私は思う。彼らが蝶になったとは日本人になったのだ。
しかし、コマ(高麗)村だけはいつまでも蝶にならなかった。すくなくとも頼朝が鎌倉幕府を定めるころまでは、コマ(高麗)家は一族重臣 のみと血族結婚していたのである。」

ここにコマ(高麗)村というのは、いまは日高町となっている埼玉県にあった高麗群高麗村のことであるが、坂口安吾氏の視野は雄大であるばかりか、 人種というものからそれが民族へと発展・変貌するプロセスについても、実にみごとな史眼が働いている。私はこれを読みながら、関東武士を研究 している地方史家の宇佐美稔氏がいつか私に向かって、「日本での百済と新羅の対立は、源平にまで引きつがれていますよ」といったことばを思いだした ものだった。
つまり、坂口安吾氏とおなじ史眼の持ち主はほかにもいたわけである。しかし私はその対立を、源平にいたるまでは考えていなかった。だが、 坂口氏のこれによって、私はあらためてなるほどと思わないではいられない。とすると、そのはるか以前はいうまでもなかったはずで、高松塚壁画古墳 の謎の一つとされている、あの政治的な盗掘ぶりも、このような面から考えることができるのではなかろうか。

▼長文でしたが一応、坂口安吾氏の歴史観のご紹介が終わりました。日本と朝鮮の関係の根っこをこのよう にまず捉えたいと思います。
▼私自身つぎのように考えています。朝鮮半島からの渡来人によって作られた日本。その日本と朝鮮の関係には二つ潮流があるようです。 朝鮮蔑視派と修好派。蔑視派はまず藤原不比等、そして秀吉。くだって幕末の吉田松陰と明治以降の政権と現在の政府。 修好派は聖徳太子、聖武天皇、徳川幕府といったところでしょうか。日本と朝鮮半島の関係で大事なのは聖徳太子が国内の政争を終わらせる手段・方策を中国の大文化に 求めたように、こんにちでは国連の人類的価値、共生共存の思想だとおもいます。そのような視点から「在日」コリアンの問題も 考え、取り組んでいくこと、このように思うようになりました。(2020.5.18)
▼私は深大寺声明の会の世話人をやらせていただいています。2017.5.20の第4回深大寺聲明の会で 深大寺の白鳳仏さんが国宝指定された慶讃法会で白鳳三仏についてお話させていただきました。
白鳳三仏とは @新薬師寺・香薬師さんとその運命。 A法隆寺・大宝蔵院の多くの白鳳時代の観音さんの中で夢違観音だけが国宝。そして B深大寺・白鳳仏さん。白鳳仏さんはなぜ青年のお顔なのか考え、天武天皇の日本の国作りの息吹と結びついているとおもわれると、 自分の考えと気持を話しました。今回勉強してきて壬申の乱の陣痛を経て天武天皇がはじめて日本という国を創った、と確信しました。それが白鳳期。 しかもそれが朝鮮半島の新羅による統一とも軌を一にしている。深大寺白鳳仏はふるさと奈良県桜井市の石位寺の石仏と同じ様式。 その石仏は井上靖さんによると新羅慶州の石窟庵の仏たちとも共通だという。 こうして日本の古代国家誕生は朝鮮半島と密接につながっていた、とわかりました。(2020.5.20)


▼インターネットで見つけました。(2020.5.18)
高麗神社を参拝した天皇陛下と美智子さま
2017.9.29 07:00週刊朝日#皇室 高麗神社を参拝した天皇陛下と美智子さま(c)朝日新聞社

 9月20日から1泊2日。天皇陛下と美智子さまは、埼玉県へ私的な旅行に出かけた。 だが、訪問先のひとつ、朝鮮半島からの渡来人にゆかりのある日高市の高麗神社への参拝を巡り、 ちょっとした騒ぎが起きた。参拝の数日前から、ネット上には両陛下を「反日左翼」などと非難する意見や、 「反ヘイトメッセージでは?」と、その「ご真意」を臆測する書き込みであふれた。

 そもそも高麗神社はどのような場所なのか。「続日本紀」には、東国7カ国に住んだ高麗人が716年に武蔵国に移住し、 高麗郡を建郡したと記される。
 宮司の高麗文康(ふみやす)さん(50)がこう説明する。 「神社にまつられるのは、私の祖先にあたる高麗 王若光(こまの こしきじゃっこう)。初代郡長です。 この一帯は朝鮮半島から渡ってきた高麗(高句麗)人によって栄えた土地。昨年は建郡1300年の祝賀の年でした。 境内に若光の石碑が建立され、除幕式には高円宮家の久子さまも出席されています」

 高麗宮司によれば、両陛下のご訪問が決まったのは3カ月ほど前。両陛下の私的旅行先は、 お二人の思い入れの強い場所であるのが常だ。それだけに高麗神社参拝に意味を見いだそうとする見方が後を絶たないのだ。
翌21日には、朝鮮日報が<高句麗の王子まつる高麗神社に天皇・皇后が初訪問>と高揚した見出しとともに、 <明仁天皇は日ごろから日本の過去について心から申し訳ないと考えて、韓日古代交流史にも関心が高いと言われている> と書き、訪問の意義を熱いトーンで報じた。

 周囲の熱視線とは裏腹に、当事者の反応はいたって穏やかだ。高麗宮司は「反ヘイトメッセージですか。うーん。それはわかりませんが、 高麗ゆかりの地に関心を示してくださっただけで光栄です」と感想を述べ、神社庁周辺も「特別な意図があるような話は出ていませんね」。  陛下は、「高句麗や百済などの国がどうして滅んだのか」などと歴史について熱心に質問された。
そして、美智子さまと神社周辺の山桜やしだれ桜の木をながめ、それは楽しそうに会話をされていたという。
※週刊朝日 2017年10月6日号
▼両陛下の高麗神社訪問、若光石碑建立の高円宮家の除幕式出席、天皇家には 本欄で取り上げた歴史が伝えられているとしか考えられない。


    12月01日 大阪府、府下在住朝鮮人の警察への登録を定めた条例を施行
▼資料館ホームページhttp://www.j-koreans.org展示品解説・ 「大阪府朝鮮人登録証」にアクセスしてください。「写真で見る在日コリアンの100年」99頁に1枚のビラが掲載されています。 読んでこころが震えました。みなさんにも知っていただきたいと思いワープロで打ちます。

               朝鮮人登録証に付き同胞諸君に檄す!!
親愛なる同胞諸君!
我々が解放されて、ここに1年、何十年もの長い間、膏血を吸われ、むち打たれてきた我が同胞は、連合軍の好意に依り、解放された。 然し我々は未だ弱体なのである。我が兄弟の衰弱した体には、軍国の笞の痕がまだ消えず、侵略者の手で、壊されたる我が祖国は、 未だ再建されるに至らない。
然るにどうだらう?我等の前にはまたもや、弾圧の黒い手が巧妙にギソウされて延ばされつゝある。 如何なる巧妙な陰謀でも、弾圧と迫害の中で生れ、弾圧と迫害の中で生延びて来た我等をごまかすことは出来ない。
「ねこ」をかぶった侵略者の残党どもは奸計を以って、連合軍を欺き、朝鮮人弾圧の元帳を作り、ナチス独逸で猶太民族の迫害に使った 呪詛の名札を朝鮮人に押し付け様とするのが此の登録証である。
同胞諸君には戦争中の苦い経験がある筈だ。所謂協和会手帳である。憲兵と警察はかつて保護の美名の下に、 その手帳に依って我等の自由と人格を蹂躙した。解放されて1年。我等が又手かせ、足かせをはめさせられる理由は少しも無い。 我等は自由を欲する。再び昔の奴隷的朝鮮人になることには死を以って反抗する。
侵略者が如何なる奸計で我等の首になわをかけ様としても、我等は一致団結して、此の陰謀を粉砕し、我が民族の名誉にかけても、 此の恥辱的悪制度を撃破せねばならぬ。
▼戦前日本人がやったことは朝鮮人の祖国破壊と朝鮮人の奴隷化だった。日本人として深く記憶しておかなければならない。
     12月15日 日本政府が在日朝鮮人の帰国計画輸送中止を発表
1947年 2月21日 『民団新聞』創刊
     4月12日 GHQ、朝鮮人は日本の法令に服し日本人と同様に就学させる義務がある、 同時に「朝鮮人学校の許可は差し
         支えない」と発言
     5月2日 最後の勅令(明治憲法による最後の勅令=天皇の命令)外国人登録令 公布、即日施行(翌日、日本国憲法施
        行)
1947年5月2日、日本国憲法発布前日、日本政府は当分の間、 朝鮮人を外国人とみなすという外国人登録令を公布した。文句があるなら、出て行ってもらう「外国人」を抽出するのがねらいであった。 (「100年のあかし」16頁)
     ▼この「最後の勅令」で奪われた選挙権で今も在日の人たちは苦悩している。(2020.4.22)
wikipedia 帝国憲法
(帝国憲法では)立法権を有するのは天皇であり、帝国議会は立法機関ではなく立法協賛機関とされた。
立法権を有するのは天皇であるが、法律の制定には、帝国議会の協賛を得たうえで天皇の裁可を要するものとされた。 同時代の君主国憲法の多くが立法権を君主と国会が共有する権能としていたことと比すると特異な立法例であるといえるが、 帝国議会の協賛がなければ法律を制定することができないこと、 帝国議会が可決した法律案を天皇が裁可しなかったことは一度もなかったことから、 事実上、帝国議会が唯一の立法機関であった。
ただし、例外として、天皇には、緊急勅令や独立命令を発する権限など、実質的な立法に関する権限が留保された。
また、憲法改正の発案権は天皇のみにあり、帝国議会にはなかった。 さらに、帝国議会の一院に公選されない貴族院を置き、衆議院とほぼ同等の権限を持たせた。
また、枢密院など内閣を掣肘する議会外機関を置いたこと。
このほか、元老、重臣会議、御前会議など法令に規定されない役職や機関が多数置かれた。
▼この緊急勅令によって朝鮮人の選挙権が奪われた。帝国憲法は貴族院、枢密院、元老、重臣会議、御前会議など議会が関与できない 天皇独裁の憲法ですね。(2020.6.2)

2019.12.15朝日新聞朝刊
▼大野博人さんの「日曜に想う」です。国籍についてです。紹介しておきます。
「国籍」という言葉はフランス革命前には存在しなかった。それを血統主義の視点で確立したのがナポレオン法典。 血統主義はプロイセン経由で日本の国籍法にも影響したという。
仏国立科学研究センター研究主任のパトリック・ヴェイユ氏の話。 「外国人のままだと出身国がその人を保護する権利を持つ。それは住んでいる 国の出来事に介入する口実になります。その人が国民になってしまえばその懸念はない。外国出身者に国籍を与えるのは公的秩序という点でも 理由があるのです。」
▼「在日」の問題を考える場合「国籍」が必ず、ついて回ります。一応上記の考えを前提に地方参政権に限定して考えて いきたいと思います。(2020.5.29)

1948年 1月24日 文部省が各知事宛てに「朝鮮人設立学校の取り扱いについて」を通達 民族教育弾圧開始
     ▼1947年ころからGHQの方針が変わったようだ。1947年3月のトルーマン宣言、1948年1月のロイヤル陸軍長官の
      演説。

     4月3日 済州島4・3事件 島民に対する苛酷な弾圧はじまる
済州島(チェジュド)四・三事件は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起に伴い、 南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。 南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による大粛清をおこない、 島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺され、済州島の村々の70%が焼き尽くされた。(Wikipedia)
▼虐殺の原因が、南北統一された自主独立国家樹立を訴えるデモにあったようだ。こんにち、統一が模索されている。
1948年、済州島では南朝鮮労働党を中心として南北統一された自主独立国家樹立を訴えるデモに警察が発砲し、その後ゲリラ化して対抗。 その鎮圧の過程で政府の方針に反抗した軍部隊の叛乱が発生(麗水・順天事件)。さらに潜伏したゲリラを島民ごと粛清、 虐殺する事件も発生した(済州島四・三事件)。(Wikipedia)
▼なぜ朝鮮人にこれでもか、これでもか、との弾圧、不幸がつづくのか。同情を禁じ得ない。
     4月24日 阪神教育闘争
朝鮮学校閉鎖令(1948年1月)に抗議して神戸では生徒、教師、父母など1万5000名が兵庫県庁の近くの公園に集まり、 うち数百名が県庁に突入し閉鎖命令を撤回させた。あわてたGHQのマッカーサー元帥は第8軍司令官アイケルバーガー中将に指令し、 抗議行動を「暴動」として非常事態宣言を公布し、武力で運動を鎮圧した。結果、1700名あまりが逮捕されそのうち136名が 軍事裁判にかけられた。これが「阪神教育闘争」である。(「100年のあかし」15頁)
▼戦後唯一の非常事態宣言です。非常事態宣言が出されると警察・軍隊など公務員の動員、 公共財の徴発、法律に優位する政令の発布、令状によらない逮捕・家宅捜索などを許すことの他、報道や集会の自由など自由権の制限の措置がとられます。(Wikipedia)
▼自民党改憲案に緊急事態条項があります。98条でどういう場合に緊急事態宣言を出すか、そして宣言が出た場合に何ができるかを 99条で規定しています。緊急事態宣言を出した後は、内閣は法律に代わる緊急政令を出せます。しかも緊急政令は法律と同じ効力を持ちます。 どのように出すかは法律に委任されています。したがって緊急政令によって、9条の2で規定されている 国防軍の組織や出動に関する法律や、国民の権利(人権)を制限する法制等も、変更が可能になります。 つまりこの緊急政令で、それまでの法律制度は容易に無意味化・無力化できるのです。非常事態宣言になりうる、ということです。
以上は宮武嶺氏のブログ2019年4月1日(月)をベースにまとめさせ ていただきました。
▼わき道にそれましたが自民党改憲案には9条だけでなくこのような条文も入れ込まれていることに警戒していただきたいと思います。
▼資料館ホームページhttp://www.j-koreans.org展示品解説・「阪神教育闘争」にもアクセスしてください。

ホームページには兵庫県庁内に座り込む抗議の人たちと、逮捕された先生たちの釈放を求め、マッカーサー元帥や アイケルバーガー中将にあてた兵庫県の生徒たちのハガキの写真が掲載されています。

    8月15日 大韓民国樹立
    9月9日 朝鮮民主主義人民共和国樹立
    10月4日 民団が在日本大韓民国居留民団に改称
朝日朝刊2020.8.11
左の「民主主義」の教科書が(上)が1948年10月30日に、(下)が1949年8月26日に発行されています。(上)が232頁、(下)が233頁〜373頁となっています。 これが教科書として1948年から1953年までの5年間日本の中学、高校の教科書として使われたようです。驚きです。(2020.8.15)
1949年 9月8日  GHQが朝連など4団体に解散命令
    10月19日 民族学校弾圧、第2次閉鎖令公布
1950年 6月25日 朝鮮戦争(6・25動乱)勃発
    朝鮮特需の研究 https://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/158/158-asai.pdf
     6月28日 祖国防衛中央委員会結成
     8月8日 在日韓僑自願軍結成、国連軍に編入され642人が参戦(52名戦死、83名行方不明)
     12月28日 大村収容所(長崎県)開設(1952年12月25日まで15次、計5,625名強制送還)
1951年 1月9日 在日朝鮮統一民主戦線(民線)結成
     4月24日 関東信用組合の設立認可申請、同和信用組合を設立
     9月8日 サンフランシスコ講和会議 対日平和条約調印
データベース「世界と日本」(代表:田中明彦) 日本政治・国際関係データベース政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所[文書名]サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約) [場所] サンフランシスコ 1951年9月8日 [出典] 日本外交主要文書・年表(1), 419‐440頁.主要条約集,5‐32頁(▼条文のうち朝鮮に関係するものを掲載しました)

                 サンフランシスコ平和条約
連合国及び日本国は、両者の関係が、今後、共通の福祉を増進し且つ国際の平和及び安全を維持するために 主権を有する対等のものとして友好的な連携の下に協力する国家の間の関係でなければならないことを決意し、 よつて、両者の間の戦争状態の存在の結果として今なお未決である問題を解決する平和条約を締結することを希望するので、
日本国としては、国際連合への加盟を申請し且つあらゆる場合に国際連合憲章の原則を遵守し、世界人権宣言の目的を実現するために努力し、 国際連合憲章第五十五条及び第五十六条に定められ且つ既に降伏後の日本国の法制によつて作られはじめた安定及び福祉の条件を日本国内に創造するために努力し、 並びに公私の貿易及び通商において国際的に承認された公正な慣行に従う意思を宣言するので、
連合国は、前項に掲げた日本国の意思を歓迎するので、
よつて、連合国及び日本国は、この平和条約を締結することに決定し、これに応じて下名の全権委員を任命した。これらの全権委員は、 その全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次の規定を協定した。
      第一章 平和
 第一条  
(a) 日本国と各連合国との間の 戦争状態 は、第二十三条の定めるところ (▼あとで見ます)によりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に 終了 する。
(b) 連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な 主権 を承認する。
      第二章 領域
 第二条
(a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島(チェジュド)、巨文島(コムンド)及び欝陵島(ウルルンド)を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(d) 日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、 且つ、以前に日本国の委任統治の下にあつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。
(e) 日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する 権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。
(f) 日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
 第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩(そうふがん)の南の南方諸島 (小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下 におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、 合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
 第四条
(a) この条の(b)の規定を留保して、日本国及びその国民の財産で第二条に掲げる地域にあるもの並びに 日本国及びその国民の請求権(債権を含む。)で現にこれらの地域の施政を行つている当局及びそこの住民(法人を含む。) に対するものの処理並びに日本国におけるこれらの当局及び住民の財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び 住民の請求権(債権を含む。)の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする。第二条に掲げる地域 にある連合国又はその国民の財産は、まだ返還されていない限り、施政を行つている当局が現状で返還しなければならない。 (国民という語は、この条約で用いるときはいつでも、法人を含む。)
 第二十一条
この条約の第二十五条の規定(▼次に二十五条を見ます)にかかわらず、中国は、 第十条及び第十四条(a)2の利益を受ける権利を有し、朝鮮は、この条約の第二条、第四条、第九条及び第十二条の利益 ▼二十五条、二十三条の次に見ます)を受ける権利を有する。
 第二十五条
この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二十三条に列記する国 (▼次に二十三条を見ます)の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つ これを批准したことを条件とする。
第二十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、 権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、 この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、 又は害されるものとみなしてはならない。
 第二十三条
(a) この条約は、日本国を含めて、これに署名する国によつて批准されなければならない。この条約は、批准書が日本国により、 且つ、主たる占領国としてのアメリカ合衆国を含めて、次の諸国、すなわちオーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、 インドネシア、オランダ、ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国 及びアメリカ合衆国の過半数により寄託された時に、その時に批准しているすべての国に関して効力を生ずる。 この条約は、その後これを批准する各国に関しては、その批准書の寄託の日に効力を生ずる。
          第四章 政治及び経済条項
 第九条
日本国は、公海における漁猟の規制又は制限並びに漁業の保存及び発展を規定する二国間及び多数国間の協定を締結するために、 希望する連合国とすみやかに交渉を開始するものとする。
 第十二条
(a) 日本国は、各連合国と、貿易、海運その他の通商の関係を安定した且つ友交的な基礎の上におくために、条約又は協定を 締結するための交渉をすみやかに開始する用意があることを宣言する。
▼朝鮮半島では1948年に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が樹立された。1949年には 中華人民共和国も成立している。日本との講和会議に、最も被害の大きかったこれらの国々が参加していないことはわたしの 感覚では不自然で異常である。調べてみると講和会議の概略は以下の通りであった。
サンフランシスコ講和会議
朝鮮戦争の最中の1951年9月4日からアメリカのサンフランシスコ市内オペラハウスで開催された、第二次世界大戦の連合国の 対日講和会議。日本以外に連合国51ヵ国が参加、日本代表は吉田茂首相。
まずトルーマン大統領が演説し、「和解」とともにアメリカ国民はパール・ハーバーを記憶していると述べ、両国 の友好には努力が必要と強調した。
ソ連代表のグロムイコは中国(北京)代表の参加問題を取り上げ、ポーランドとチェコスロヴァキアが同調したが、 議長(アメリカの国務長官アチソン)は議題と関係がないと却下した。
グロムイコはさらに満州・中国全土・台湾に北京政府の主権、樺太・千島に対するソ連の主権をそれぞれ認めること、 小笠原・琉球は日本の主権が及ぶべき範囲であること、日本にはいかなる国の軍事基地も置かないこと、 そのかわり日本に自衛に必要な軍備として地上軍15万、海軍2.5万程度の軍隊を提案した。
▼「日本にはいかなる国の軍事基地も置かないこと」、とのグロムイコ提案は重要だと思われる。 今日の沖縄米軍基地の問題がここに始まっている。
この提案は受け入れられず、ソ連、ポーランド、チェコスロヴァキアの三国は会議の結論としての日本との講和条約であるサンフランシスコ平和条約に 署名しなかった。
会議は8日に終わり、ただちにサンフランシスコ平和条約に各国が署名したが、ソ連・チェコスロヴァキア・ポーランド三国は署名しなかった。
また当時、中国には大陸の中華人民共和国と台湾の中華民国が並立していたが、アメリカは後者、イギリスとソ連は前者を承認しており、 代表権で紛争の原因となるのを恐れたアメリカが双方を招聘しなかったので平和条約に加わっていない。 インド・ビルマは中国代表権問題などに対する不満から会議に参加しなかったので日本との講和は遅れた。
▼こうして辿ってみると、そもそもサンフランシスコ講和会議そのものがかなり不正常な形で、朝鮮戦争の最中に開かれている。 問題を残すのは当然。)

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    10月4日 出入国管理令(入管令)及び入国管理庁設置令を制定公布
    10月15日 西光万吉「不戦日本の自衛について」
1952年 4月28日 サンフランシスコ講和条約発効 在日韓国・朝鮮人の日本国籍剥奪 「外国人登録法」公布
                                       (指紋押捺条項追加)
1947年5月2日の外国人登録令がサンフランシスコ条約発効後には外国人登録法となり指紋押捺制度 (14歳以上、1982年16歳以上に変更)が導入され、3年に1回、両手の10指すべての指紋を採取された。1980年9月、東京に住 む韓宗碩(ハン・ジョンソク)さんは指紋押捺を「屈辱の烙印」だと拒否した。
それは当初「たった一人の反乱」と呼ばれた。その後、若い世代を中心に共鳴の輪が広がり、日本人をも巻き込ん だ80年代の一大市民運動に発展した。日本政府は黒インクを水溶液にし、押捺を生涯1回限りにするなど、小手先 の「改正」で矛先をかわそうとした。2000年4月、ついに外国人登録法の指紋押捺は全面撤廃された。 しかし登録証の常時携帯義務及び罰則は現在も続いてる。(「写真で見る在日コリアンの100年」124頁)
朝日朝刊2020.2.29
現在87歳の画家中村宏が23歳のとき描いた
「砂川五番」
     5月1日 第23回メーデー(血のメーデー) 朝鮮人の逮捕者140名
1953年 7月27日 板門店で休戦協定正式調印
1954年 3月17日 日本政府通産政務次官通達で在日の鉱業権、船舶権を剥奪
1955年 4月28日 外国人登録法に基づく指紋押捺制度開始(10指採取)
     5月25日 在日本朝鮮人総聯合会(総連)結成
1956年 7月23日 朝鮮奨学会、民団3名、総連3名、日本3名の理事会制となる
1957年 4月1日 韓国・朝鮮人BC級戦犯、全員釈放
▼資料館ホームページhttp://www.j-koreans.org 展示品解説「戦犯刑務所で使われたタオル」にアクセスしてください。解説には次のように書かれています。
「このタオルはジャワの俘虜監視所に配置され、1946年の英国による戦犯裁判で懲役10年の有期刑判決を受けた 金完根(1922年〜2012年)さんのものである。金さんはシンガポールのチャンギー刑務所にはじまり、 同じくシンガポールのオートラム刑務所を経て、スガモプリズンを1952年に仮釈放された。 「L508」はオートラムでの囚人番号で、獄中でこのタオルを使用していた。」
▼資料館ホームページhttp://www.j-koreans.org展示品解説・ 「傷痍軍人」にアクセスしてください。
「日本政府は、旧軍人・軍属及びその遺族に対する補償等の諸措置を成立・実行させていったが、1952年のサンフランシスコ 講和条約による日本国籍喪失を理由に、韓国・朝鮮人「戦犯」らを同措置から除外し、釈放後はまさに 身一つで異国に放り出した。援護・補償からは一切排除され、また、祖国から、そして在日同胞からも「対日協力者」 「親日派」の汚名のもとに切り棄てられた元「戦犯」たちの、戦後60年もの苦悩はどれほど深いものであったろうか。」
▼つらいです、日本人として。みなさんよく読んでください。「在日」コリアンについて静かに考えてください。
こころで読んでください。なんという運命を日本は金さんに強いたことか。一人の日本人として謝りたい。 謝罪と補償を政府に一緒に要求していきたい。

1958年 1月27日 樺太(サハリン)抑留同胞一部帰還(1957年8月1日から4次にかけて1,083人)
     8月17日 小松川女子高生殺害事件 李珍宇(イ チヌ)逮捕される
男子学生は1940年2月生まれで犯行時18歳であったが、殺人と強姦致死に問われ、1959年2月27日に東京地裁で死刑が宣告された。 二審もこれを支持、最高裁も1961年8月17日(被害者の命日)に上告を棄却し、戦後20人目の少年死刑囚に確定した。
事件の背景には貧困や朝鮮人差別の問題があったとされ、大岡昇平ら文化人や朝鮮人による助命請願運動が高まった。 犯人とされた男は自供したが物証はなく、一部では冤罪説も喧伝された。
翌1962年8月には東京拘置所から宮城刑務所に移送(当時東京拘置所には処刑設備がなかった)され、11月26日に刑が執行された。22歳没 (HP:小松川事件【李珍宇】まとめより掲載)
大岡昇平、木下順二、旗田巍、吉川英治、渡辺一夫らは「李少年を助けるためのお願い」 (1960年9月)という声明文を出し、
「私ども日本人としては、過去における日本と朝鮮との不幸な歴史に目をおおうことはできません。 李少年の事件は、この不幸な歴史と深いつながりのある問題であります。 この事件を通して、私たちは、日本人と朝鮮人とのあいだの傷の深さを知り、日本人としての責任を考えたいと思います。 したがって、この事件の審理については、とくに慎重な扱いを望みたいのであります」
と訴えた。 (出典小松川事件 - Wikipedia)
▼こんな痛ましい、悲しい事件が起きています。大岡昇平氏らの請願を裁判所は受け止めるべきだったと思います。 李珍宇さんの霊にせめて花を手向けます。
▼下の2020.4.1朝日新聞の切り抜きを切っ掛けに大島渚をたどりました。以下のことがわかりました。日本の当時の知識人の 良心をあらためて感じました。ヘイトスピーチの唾棄すべき悲しい日本社会の中にもこのようにこころある 日本人の水脈が生き続けていることに安堵しました。これを受け継ぎたいです。(2020.5.22〜5.23)
『絞死刑』 は大島渚が監督した1968年公開の日本映画作品である。(Wikipedia)
 2020.4.1朝日新聞朝刊
第1回大島渚賞に選ばれた映画監督小田 香(かおり)さん。 李珍宇さんの生まれ変わりのように感じました。(2020.5.22)
主人公の在日朝鮮人死刑囚"R"は強姦致死等の罪で絞首刑に処せられた。 しかし信じられないことに絞縄にぶら下がったRの脈はいつまで経っても停止せず、処刑は失敗する。 縄を解かれたRは刑務官たちの努力の末に漸く意識を取り戻すが、処刑の衝撃で記憶を失い心神喪失となっていた。 刑事訴訟法により、刑の言い渡しを受けた者が心神喪失状態にあるときには執行を停止しなければならない。 刑務官たちは再執行のために彼に記憶と罪の意識を取り戻させようと躍起になるが、 Rの無垢な問いかけは彼らの矛盾を鋭く抉ってゆく。 忠実に再現したという死刑場を舞台に蜿蜒と続くやりとりは、 死刑制度の原理的な問題から在日朝鮮人差別の問題、さらには貧困を背景とした犯罪心理にも及ぶ。 Rは1958年の小松川事件の犯人、金子鎮宇(かねこしずお)こと李珍宇(イ チヌ)をモデルにしている。
事件を基にした創作[編集]
木下順二『口笛が、冬の空に……』未来社、1962年。 三好徹『海の沈黙』三一書房、1962年。 大江健三郎『叫び声』講談社、1963年。 大岡昇平『無罪』新潮社、1978年。『事件』新潮社、1977年。 金石範『祭祀なき祭り』集英社、1981年。 深沢七郎「絢爛の椅子」(『深沢七郎集 第2巻』筑摩書房、1997年) 大島渚(監督)『絞死刑(映画)』1968年。
     11月17日 在日朝鮮人帰国協力会結成
1959年 8月13日 在日朝鮮人帰国のための朝・日赤十字協定調印
     12月14日 第1次帰国船、238世帯975人を乗せ、清津に向け新潟を出発
     (187次にわたり93,300名が帰国)
1960年 4月19日 4・19学生革命 李承晩政権打倒される
1961年 5月16日 朴正熙、軍事クーデター 軍事政権成立
1963年 5月6日 東京朝鮮高校生に対する集団暴行事件起こる 以後、毎年のように各地で続発 社会問題化
1965年 6月22日 韓日基本条約調印 在日韓国人法的地位決まる
韓日基本条約 1965年6月22日に日本と大韓民国(韓国)との間で署名された両国の関係正常化に関する条約。
      日本側の正式名称は 「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」
      基本条約の骨子は
     (1) 日韓の外交および領事関係の開設
     (2) 1910年8月22日以前に二国間で締結された条約や協定の無効化(→日韓併合条約)
     (3) 1948年の国連総会決議第195号(III)に基づき、韓国政府を朝鮮唯一の合法的政府とする
       ことの確認
     (4) 相互関係における国連憲章の原則の尊重
     (5) 両国間の貿易,海運,通商などに関する協定の締結
     (6) 両国間の航空協定の締結  
       などである。 

               
前文 
日本国及び大韓民国は、 
両国民間の関係の歴史的背景と、善隣関係及び主権の相互尊重の原則に基づく両国間の関係の正常化に対する相互の希望とを考慮し、 
両国の相互の福祉及び共通の利益の増進のため並びに国際の平和及び安全の維持のために、両国が国際連合憲章の原則に適合して緊密に協力することが重要であることを認め、 
千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約の関係規定及び千九百四十八年十二月十二日に国際連合総会で 採択された決議第百九十五号(III)を想起し、 
この基本関係に関する条約を締結することに決定し、よつて、その全権委員として次のとおり任命した。 

日本国 
日本国外務大臣椎名悦三郎 
高杉 晋一 

大韓民国 
大韓民国外務部長官李 東 元 
大韓民国特命全権大使金 東 祚 

これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次の諸条を協定した。 

第一条 
両締約国間に外交及び領事関係が開設される。両締約国は、大使の資格を有する外交使節を遅滞なく交換するものとする。 また、両締約国は、両国政府により合意される場所に領事館を設置する。 
第二条 
千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。 
第三条 
大韓民国政府は、国際連合総会決議第百九十五号(III)に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。 
第四条 
(a) 両締約国は、相互の関係において、国際連合憲章の原則を指針とするものとする。 
(b) 両締約国は、その相互の福祉及び共通の利益を増進するに当たつて、国際連合憲章の原則に適合して協力するものとする。 
第五条 
両締約国は、その貿易、海運その他の通商の関係を安定した、かつ、友好的な基礎の上に置くために、 条約又は協定を締結するための交渉を実行可能な限りすみやかに開始するものとする。 
第六条 
両締約国は、民間航空運送に関する協定を締結するための交渉を実行可能な限りすみやかに開始するものとする。 
第七条 
この条約は、批准されなければならない。批准書は、できる限りすみやかにソウルで交換されるものとする。この条件は、批准書の交換の日に効力を生ずる。 
末文 
以上の証拠として、それぞれの全権委員は、この条約に署名調印した。 
千九百六十五年六月二十二日に東京で、ひとしく正文である日本語、韓国語及び英語により本書二通を作成した。解釈に相違がある場合には、英語の本文による。  日本国のために
   椎名悦三郎
   高杉 晋一
 大韓民国のために
   李 東 元
   金 東 祚
国連総会決議第195号(V)
187回全体会議 1948年12月12日
2. 全朝鮮における大多数の朝鮮人が居住し、臨時委員会が観察および協議することができた朝鮮のあの地域に対して、 事実上の統制力と法的決定力を持つ、合法的政府(大韓民国政府)が成立した;臨時委員会が観察するこの政府は、 朝鮮における有権者のいわゆる自由に発現せる意思の高まりに基づいている;この政府は朝鮮における唯一政府であること;を宣言する
▼米国主導の国連自体が問題の種を蒔いている。
▼右上の記事は2019.10.5の朝日新聞朝刊です。ポーランドでドイツの戦争責任に対して「100兆円の賠償請求」が検討されている、との内容です。 日韓問題について政府は日韓請求権協定で補償問題は解決済みとの立場ですがそうはいきません。現在最悪の日韓関係の根本に65年のいい加減な「解決」 があることは自明です。いずれポーランドのような問題に発展していくでしょう。(2019.10.7)

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1966年 1月17日 在日韓国人の協定永住申請、受付開始
永住権(えいじゅうけん)とは外国人が、在留期間を制限されることなく滞在国に永住できる権利のこと
(Wikipedia)▼韓日協定によって認められたので協定永住権と呼ばれている。
     4月1日 協定永住権取得者に国民健康保険法適用
1968年 2月20日 金嬉老事件(寸又峡にてライフルを持ち警官と対峙)在日差別の社会問題化
    4月17日 東京都知事(美濃部亮吉)、朝鮮大学校を各種学校として認可
1970年 12月8日 朴鐘碩(パクチョンソク)、日立製作所を相手に就職差別訴訟を起こす(1974年6月19日勝訴)
【判例】日立訴訟−在日朝鮮人への就職差別
【概要】1970年愛知県の高校を卒業した朴鐘碩さんは、横浜市にある日立製作所ソフトウエア工場を受験、9月に採用通知を受けた。 しかし「在日朝鮮人なので戸籍謄本は提出できない」と話したところ、会社側は 「応募書類に日本名(新井鐘司)を用い本籍も偽って記入するなどウソつきで性格上信頼できない」として採用を取り消した。 そこで朴さんは「採用取り消しは在日朝鮮人であることを理由とした「民族差別」として提訴した。
【裁判の経過】横浜地裁(1974.6.19):労働基準法第3条(均等待遇)、民法第90条(公序良俗)に反し、採用取り消しは無効。 会社側は控訴断念。
日立闘争後から原発メーカー訴訟までの軌跡  朴鐘碩2016年8月10日 (抗路舎『抗路』12月号掲載)
▼判決をよく読むことと、宿題としていた判決文を今日(2019.4.14)読みました。立派な判決でした。 石藤太郎裁判長に敬意を表します。判決のうち「5 民族差別による不当な就労拒否」が特に感動的でした。
5 民族差別による不当な就労拒否
 被告は、原告が履歴書、身上書および身上調書に虚偽の氏名、本籍等を記載した として採用内定を取消した旨主張し、原告の就労を拒否しているが、後記のとおり 被告のいう採用内定の取消は解雇にほかならないところ、右解雇は次のとおり、原 告が朝鮮人であることを唯一決定的な理由とする不当な民族差別である。
 すなわち、被告の原告に対する不当な解雇処分の背景には、在日朝鮮人に対する 民族差別の歴史と現実がある。この差別の実体を究明して行かない限り、本件の問 題性を正しくとらえることは不可能である。以下在日朝鮮人に対して加えられてい る差別の実体を要約すると、

(一) 在日朝鮮人の形成
 六〇万人を越える在日朝鮮人形成の要因は、一言にして言えば近代日本の朝鮮に 対する植民地支配の結果である。
 一九一〇年八月 日韓併合を成し遂げた日本は、土地調査事業を通じて朝鮮農民の 土地を奪い、彼らが日本に渡航せざるを得ない立場に陥れ、朝鮮を日本に対する食 糧供給基地とすべく一九一八年から実施された産米増殖計画は、朝鮮農村の社会 的、経済的崩壊と農民層の没落に拍車をかけ、渡日者数を激増せしめる結果となつ た。
 しかしながら、日本経済が恐慌状態に陥り、日本国内に大量の失業者が発生す るようになると日本への渡航が制限され、日本経済が好況期を迎え低賃金労働力を 要求するようになると日本への渡航が緩和されるというように、日本の国内事情に よつて渡航の制限と緩和が反覆され、朝鮮人には一貫して渡航の自由すらほとんど ない状態であつた。
▼帝国主義国家・日本によるあまりにも身勝手な植民地政策。(2019.10.3)
 その後日本が本格的な戦時体制に入るに従つて労働力の不足を来し、朝鮮人労働 者を積極的に導入するようになり、さらに強制徴用にまで政策の変化をもたらすよ うになつた。
 すなわち、日本政府は一九三九年「国民総動員計画」を樹立し、その 一翼として、日本の重要産業部門に朝鮮人労働者を動員、移入することを決定し、 まさに「野犬狩り」に等しい方法で朝鮮人の日本への強制連行がなされたのであ る。
 このようにして渡航した在日朝鮮人に与えられた労働の場は低賃金、長時間重労 働の最下層労働部門のみであつたことから、在日朝鮮人が人間として最低限の物 的、精神的生活を営むことさえ不可能にし、このような状況の中で日本民衆の朝鮮 人に対する偏見、差別意識が芽ばえ、広く深く浸透していつた。
  そして一方では「内鮮一体」等のスローガンの下に朝鮮人からその名前を、言語を、文化を、民族 性をも奪い、戦争期に行なわれた「皇民化政策」は、朝鮮人に対して、差別を前提 にして日本国家の中で自己の位置づけを精神的にまで強要した。
 このような事態は戦後においても異ならない。日本国家は、在日朝鮮人に対し て、国籍選択の自由さえ奪い、一般外国人並みの処遇すら与えず、無国籍者に等し い状態に放置し、義務のみあつて権利を享受できないようにしてその生活を圧迫 し、さまざまな差別と抑圧を加え続けてきている。日本国家は朝鮮人の民族教育を 弾圧し同化教育を推し進め、そして一たび社会に出るや朝鮮人を就職差別等によつ て日本社会から排除しているのである。
▼いま改めて判決を読み返していますがグサッと心臓にきます。 裁判長、よくここまで書いてくださいました。敬意と感謝。(2019.10.3)
▼日本国家と日本社会、共犯関係にある。国家の思想に社会が汚染されている。まず社会の回復から市民として着手する。(2019.10.4)

(二) 在日朝鮮人にとっての氏名
 在日朝鮮人と「氏名」との関係をみる場合、「本名」か「偽名」かという単なる 二者択一の形式論理に解消することはできない。
 在日朝鮮人が自己の氏名の他に「日本名」を持たされている事実は、現実に生きている一人ひとりの在日朝鮮人 が、人間としての存在を真二つに分断させられていることに他ならないからであ る。そうした事柄の端的な表現として「二つの氏名」がある限り、「二つの氏名」 を生み出し強要し続けてきた歴史過程や、現在この「二つの氏名」が負わされてい る社会的な役割、そして何よりも、この役割が在日朝鮮人の人格形成に与える致命 的な傷、さらにこのような傷を与えながらも全く痛みを覚えない日本人そのものの 問題を明らかにしない限り、在日朝鮮人にとつての「氏名」が持つ意味は理解でき ない。
▼このような裁判官に日本人として救われます。誇りすら感じます。(2019.10.3)
 日韓併合後、朝鮮が日本の大陸兵站基地の様相を呈し、朝鮮人を「皇国臣民」と して動員することが目論まれ始めると、朝鮮人を法的義務においてのみ日本政府の 統治下におく「内地融和」政策が開始された。これは国籍を一方的に日本籍にする のみならず、その姓名をも日本式に改めることを強要し(「創氏改名政策」)、さ らにはその精神をも「皇国臣民」化しようとするものであつた。
 ここにおいて、朝鮮人は朝鮮人たる人格の一切を剥奪されることになり、その大きな武器とされたの が、「内地」渡航不許可というような罰則をもつてなされた「創氏改名政策」であ り、在日朝鮮人の二つの「氏名」もここに端を発する。そして戦前、戦中を通じて 日本社会のあらゆる領域で拡大再生産された「日本名」の強要は、戦後も依然とし て温存され続け、現在では非常に陰湿な形をとつて、差別のための一つの武器にま でなつている。
▼ここで明らかなように支配者は差別政策を罰則をもって進める。だから反差別政策も差別をすれば罰せられると 罰則をもって進める必要がある。(2019.10.4)
 すなわち、「日本名」を使わず「日本人らしく」振舞わない朝鮮人 を日本社会は一切拒絶し、受け入れた者についても、主要生産部門からは排除し、 スクラツプ業や単純肉体労働者としてしか認めないというように、「日本名」の使 用を差別のための踏絵として在日朝鮮人に強要している。このような現実の中で、 ほとんどの在日朝鮮人の親は、自らの子供の生活を思えばその子供に「日本名」を つけざるを得ないという苦境に直面している。
  2018.5.22朝日新聞朝刊 ▼「酒を飲んでも酔えない」。ずっしりきました。2年前の切り抜きですが取ってありました。(2020.7.17)

 右のとおり、在日朝鮮人における「日本名」は、自ら意図して積極的に選びとつ たものではなく、日本社会が一方的に強制したものに他ならない。「日本名」を用 いなければその存在を認めないという日本社会の論理は、裏返せば「日本名」こそ その存在の証しということになり、「日本名」は単なる通称というような域を逸脱 して、在日朝鮮人の存在をさし示す呼称としての役割を日本社会自らによつて負わ されているのである。

(三) 在日朝鮮人における本籍
 在日朝鮮人は外国人であるから、日本国に本籍地がないのは当然である。「本 籍」とは日本国戸籍法における法概念であり、その言葉が意味をもつのは、日本に 本籍地を有する日本国民についてのみである。在日朝鮮人にとつて、外国人登録原 票の記載事項が日本国の戸籍に相当するようにも見做されるが、外国人登録原票の 記載事項はその内容からも明らかなとおり元来短期の旅行者用のものであつて、長 期滞留者なかんずく在日朝鮮人のような人々にとつて必要な事項は網羅されていな い。しかも外国人登録原票には、「国籍」「出生地」欄はあつても、「本籍」欄は 存在していない。  ともかく日常的な有形無形の在日朝鮮人に対する差別は、氏名とともにその国 籍、戸籍が判明した時に最も露骨にあらわれる。日本社会の朝鮮人に対する差別が 厳存する現実にあつて、就職の際要求される「戸籍謄本」は、在日朝鮮人に対する 差別の武器として使われているのである。

(四) 在日朝鮮人にとっての教育
 日本社会は、一方で朝鮮人を朝鮮人たらしめる民族教育を弾圧すると同時に、 「同化」という徹底した「日本人化」を教育のなかで行なつている。  戦前の「皇民化」教育の歴史の中で、朝鮮人は日韓併合以来「同化」教育によつ て「日本帝国臣民」として生きるべく強要され続け、太平洋戦争の拡大とともに 「日本帝国臣民」として直接戦争に組み込まれていつた。
 それでは「内鮮一体」のスローガンの下で朝鮮人は日本人と平等であつたかといえばそうではなく、就職を はじめ賃金その他ありとあらゆる点で徹底した差別が行なわれていたのである。戦 後における「同化」教育もこの延長線上にある。
 一面には、戦後続出した民族学校に対し一九四九年の団体等規正令とともに閉鎖の命令を下し、日韓条約以後も朝鮮 人の日本人学校入学は認めるが、朝鮮人を朝鮮人たらしめる民族学校は各種学校と しても認めないという民族教育に対する弾圧があり、他面には、日本人学校にいる 一〇万人の朝鮮人子弟を日本人子弟と同じに取り扱うという新たな「同化」教育が ある。
 在日朝鮮人は、学校教育において「日本人化」され、社会では朝鮮人であるとい うことで差別される。前者は民族性の剥奪により朝鮮人の人間性を蝕むものであ り、後者は生活のうえでの人間としての基本的な権利を剥奪するものであり、両者 は深く結びついているのである。
▼ここの裁判長の指摘は深く、鋭い。(2019.10.4)

(五) 在日朝鮮人にとっての就職
 日本社会は在日朝鮮人を拒み、さまざまな差別を加えている。なかんずく就職差 別の問題は、生活手段を剥奪するという点で、在日朝鮮人が日本社会で生活してい くうえで、致命的な困難をもたらしている。また、この就職における差別が戦前か ら続く在日朝鮮人の経済的貧困を生み出し、この経済的貧困が多くの日本人の朝鮮 人に対する蔑視感覚、差別意識を生み出す挺子になつているのである。
 前記(一)において述べたとおり、戦前の在日朝鮮人の職業は最下層労働として の産業労働か、産業労働予備軍としての失業的労働であつた。ところが敗戦にとも ない麻痺状態の産業界と未曾有の日本人失業者の前に、純粋な筋肉労働のみの未熟 練労働力である朝鮮人労働者は、どんな下層労働にも割込む余地はなかつた。そし て死活の道として生まれたのが、小売商や闇であつた。日本の一切の職場から追い 出された在日朝鮮人は、小生産か、小売商か、闇をやるか、その種の同胞経営に雇 われるか途がなかつた。その後日本経済の立ち直りとともに闇のような浮草的職業 は駆逐されていつたが、敗戦時の在日朝鮮人の生活を支えた、零細企業の経営か又 はその種の同胞のもとへの就職という形は、現在に至るまで一つの具体的性格とし て残されている。
 在日朝鮮人にとっては、日本の企業に就職差別が存在することは常識である。日 本の企業に朝鮮人として就職しようとした在日朝鮮人は、そのほとんどが就職差別 の経験を持つているからである。朝鮮人であることを明らかにして日本の企業に入 社している朝鮮人も、会社や仕事においては、そのほとんどが「日本名」を使わざ るを得ない状況にある。このように在日朝鮮人に対し、日本社会は、戦前、戦中、 戦後を通じ、彼らが朝鮮人として生きることのできないような生活を強い続けてき ているのである。
▼日本国家と日本社会に対する厳しい批判。私が下線を引いた所だけでも読んでください。 このような判決を書ける裁判官がいらっしゃるということを知っただけでも日本人としてほっとします。(2019.4.14)
▼今回改めてこの判決文を読み返しました。「在日」の問題を考える原点だとおもいました。 機会があるたびに読み返してみたいと思います。(2019.10.5)

1972年 1月 李恢成『砧をうつ女』で芥川賞を受賞(以後、李良枝,柳美理,玄月が受賞)
     7月4日 統一に関する南北共同声明発表

          南北共同声明全文 (1972年7月4日 ソウルおよび平壌において)

最近平壌とソウルで南北関係を改善し,分断された祖国を統一する諸問題を協議するための会談が開かれた。 ソウルの李厚洛中央情報部長が1972年5月2日から5日まで,平壌を訪問して,平壌の金英柱組織指導部長と会談し,金英柱部長の代理として朴成哲第二副首相が72年5月29日から6月1日の間ソウルを訪問して李厚洛部長と会談した これらの会談で,双方は祖国の平和的統一を一日も早くもたらさねばならないという共通の念願をいだいて虚心たん懐に意見を交換し,双方の理解を増進させるうえで多大な成果を収めた。 この過程において,双方は互いに長らく会えなかつつために生じた南北間の誤解,不信を解き,緊張を緩和させ, ひいては祖国統一を促進するため,次の問題に関して完全な意見の一致に到達した。
1. 双方は次のような祖国統一に関する原則で合意した。
(あ)統一は外国勢力に依存するかまたは干渉を受けることなく自主的に解決すべきである,
(い)統一はお互に武力行使によらず,平和的方法で実現すべきである,
(う)思想と理念,制度の差違を超越してまず単一民族としての民族的大団結をはかるべきである。
1. 双方は南北間の緊張状態を緩和し信頼の雰囲気を醸成するためにお互に相手を中傷,ひぼうせず, 大小を問わず武装挑発をせず,不意の軍事的衝突事件を防止するために積極的な措置をとることに合意した。
1. 双方は断たれた民族的連係を回復し,互いの理解を増進させ,自主的平和統一を促進させるために 南北間の多方面的な諸交渉を実施することに合意した。
1. 双方は現在,民族の至大な期待のうちに進行されている南北赤十字会談が一日も早く成功するよう積極的に協調することに合意した。
1. 双方は突発的軍事事故を防止し,南北間で提起される諸問題を直接・敏速・正確に処理するために ソウルと平壌間にホットライン(常設直通電話)を設けることに合意した。
1. 双方は以上の合意事項を推進するとともに南北間の諸問題を改善・解決することで合意した。 双方はまた祖国統一原則に基づいて統一問題を解決する目的で李厚洛部長と金英柱部長を共同委員長とする 南北調節委員会を構成運営することに合意した。
1. 双方は以上の合意事項は祖国統一を渇望する民族全体の念願に符合すると確信し, この合意事項を誠実に履行することを民族の前に厳粛に約束する。
互いに上司の意を体して
           ソウルの李 厚 洛   平壌の金 英 柱          1972年7月4日
▼すでにこの時、基本ができている!
1973年 8月8日 KCIA(韓国中央情報部)による金大中拉致事件発生
1975年 10月3日 崔昌華(チォエ・チャンホア)牧師、韓国姓の日本語読みを人権侵害としてNHKを提訴(1円裁判)
在日韓国人名・テレビ訴訟 https://blog.goo.ne.jp/neko-coneco/e/45d0d94cb88b3737fe6d3c34e88ce7ad
1988年2月16日最高裁第三小法廷(長島敦裁判長)は 「氏名は個人の人格の象徴で、人格権の一内容」と氏名権を認める初判断を示した。そのうえで、本件について、 「日本語読みで呼ぶことは、わが国の当時の社会一般の認識として認められ、違法性はない」と述べ、 請求を退けた一、二審判決を支持、崔さんの上告を棄却する判決を言い渡した。
在日韓国・朝鮮人の人権問題を氏名呼称の観点から、日本人に問いかけた初の裁判は提訴から十三年を経て、 原告の敗訴に終わったが、これを契機に韓国・朝鮮人の氏名の日本語読みを見直す傾向が強まり、すでにNHKが原音 読みを原則とするなど今回の訴訟はマスコミ界にも一石を投じた。

最高裁判決 http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/177/052177_hanrei.pdf
事件番号 昭和58(オ)1311 事件名 謝罪広告等請求事件 裁判年月日 昭和63年02月16日
法廷名 最高裁判所第三小法廷 裁判種別 判決 結果 棄却
判例集等巻・号・頁  民集 第42巻2号27頁
原審裁判所名 福岡高等裁判所 原審事件番号 昭和52(ネ)513 原審裁判年月日 昭和58年07月21日
判示事項
一 氏名を正確に呼称される利益
二 テレビ放送のニュース番組において在日韓国人の氏名を日本語読みによつて呼称した行為が違法ではないとされた事例
▼この裁判は結果よりも上告棄却の理由の中で「氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、 同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であつて、人格権の一内容を構成するものというべきであるから、 人は、他人からその氏名を正確に呼称されることについて、不法行為法上の保護を受けうる人格的な利益を有するものというべきである」との判断を最高裁 をしてなさしめたことが非常に重要。崔さんが福岡地裁に提訴されたのは1975年(昭和50年)。最高裁判決が1988年(昭和63年)。時間がかかったが日本社会の民主化の 大きな一歩。感謝。(2019.4.11)
1977年 3月22日 最高裁、司法試験に合格した金敬得を韓国籍のまま司法修習生としての採用を認める
1976年に司法試験最終合格。しかし日本国籍を取得しなければ司法研修所に入れないことを知らされ、国籍条項を撤廃させるべく運動。 6回に亙って最高裁判所任用課に意見書を提出した結果、1977年3月に要求が認められ、外国人として初の司法修習生となる。(Wikipedia)
金敬得「自己奪還」の決意。心が打たれます。すばらしい決意です。ご一読ください。
1980年 9月10日 韓宗碩、外国人登録法の指紋押捺を拒否(東京都新宿区役所) (2012年外国人登録法廃止)
1982年 1月1日 日本政府批准(1979年6月21日)の難民条約発効 特例永住制度実施、 国民年金法の国籍条項撤廃
      (但し、35才以上は切り捨て)
1985年 1月1日 日本改正国籍法施行 父系血統主義から父母両系血統主義に変更
1986年 4月1日 国民健康保険法の国籍条項撤廃
▼資料館ホームページhttp://www.j-koreans.org 展示品解説・「金文善氏の血書」にもアクセスしてください。
次のような説明があります。
「血書は1986年10月に韓国の全斗煥大統領に宛てたものである。解放後、在日同胞に課せられた「犬の鑑札」にも等しい 「外国人登録証」に義務付けられた指紋押捺の不当性を告発し、大統領にこの人権侵害を直訴し、この制度に対する在日の鬱積した怒りを金さんが代弁している」
▼在日の人たちのこころに思いを致すと日本人の一人として胸が締め付けられる。

1988年 9月17日 ソウルオリンピック開幕 159カ国、8,465人の選手が参加
           (韓国 金12個、銀10個、銅11個のメダルを獲得)
梓澤和幸 崔善愛(チェソンエ)さんのこと

崔さんは1986年、アメリカインディアナ大学にピアノの勉強のため留学。 外国人は出国の際に再入国申請をし、法務大臣から許可を得るのだが、 指紋押捺拒否をした崔さんには制裁として再入国不許可という過剰な制裁が加えられた。 さらに崔さんの特別永住の在留資格まで奪われた。
再入国もだめ、在留資格も奪われたということになると、 崔さんはふるさと日本に帰国できるかどうかさえおぼつかない。 法務大臣のこの不当な処分に、崔さんは抵抗した。
裁判にして争い、 最高裁(再入国不許可処分取消等 裁判年月日 平成10年(1998)4月10日)まで闘った。 しかし、覆せなかった。
▼「在日」の人たちの苦難の告発によって日本社会が1ミリずつ変化していることを感じますが、 右に見るように外国籍の人に対し入管行政は相変わらず時代遅れの差別的な対応しかしていません。。(2020.7.9)
1991年 9月18日 大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国、国連に同時加盟
    11月1日 協定永住、特例永住を一本化した特別永住制度開始
12月13日南北基本合意書(Wikipedia)
韓国と北朝鮮との対話は1972年の南北共同声明以降、板門店でのポプラ事件やラングーン事件、 更には大韓航空機爆破事件などの影響で中断を余儀なくされながらも続けられていた。
1988年に韓国大統領に就任した盧泰愚は北朝鮮との関係改善に積極姿勢を見せ、 1988年7月7日に「民族自尊と繁栄のための大統領特別宣言」(7・7宣言)を発表し、 北朝鮮に対して敵対関係の清算を呼びかけた。
▼89年に日本側から天皇訪韓を切り出した、とのこと。 平成天皇の強い意思を感じる(2020.5.22)
に、 韓国とのゆかりを感じています」と発言」 との平成天皇のことばが紹介されています。これは重大な発言です。
2020.4.1朝日新聞朝刊
記事の中では「01年の誕生日会見では 「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されている こと

   ■平成天皇と韓国
1989年4.1宇野外相天皇訪韓言及。
1990年5.24〜26盧泰愚大統領訪日。「痛惜の念」とおわびの気持ちを伝える。
1998年金大中大統領訪日。天皇が過去の 歴史に「深い悲しみ」
2001年12月誕生日会見で「韓国とのゆかりを感じています」
2019年4月30日退位。(2020.4.1朝日新聞朝刊より)

1989年に発生した東欧革命、冷戦の終結と言った時代の流れは、盧泰愚大統領の対北朝鮮関係改善政策の後押しをした。 そのような中、1990年9月にはソウルで南北の首相が会談を行う南北首相会談が実現した。
南北首相会談はその後も1990年10月は平壌、そして12月には再びソウルで行われ、続く1991年10月には平壌で実施された。
このような南北対話の積み重ねの中で、1991年12月にソウルで行われた第5回南北首相会談で南北基本合意書が締結されることとなった。
南北基本合意書では、1972年の南北共同声明にある自主、平和、民族大団結の祖国平和統一3大原則を再確認するとともに、 南北の和解、南北不可侵、南北交流・協力について全25条の合意がなされた。

 南北間の和解と不可侵および交流・協力に関する合意書(全文)
  第1章 南北和解
第1条 南と北は互いに相手方の体制を認定し尊重する。
第2条 南と北は相手方の内部問題に干渉しない。
第3条 南と北は相手方に対する誹謗中傷をしない。
第4条 南と北は相手方を破壊・転覆する行動をいっさい行なわない。
第5条 南と北は現在の停戦状態を南北間の鞏固な平和状態に転換させるために共同で努力し,このような平和状態が達成される時まで現在の停戦協定を遵守する。
第6条 南と北は国際舞台での対決と競争を中止し,互いに協力して民族の尊厳と利益のために共同で努力する。
第7条 南と北は互いの緊密な連絡と協議のために,この合意書発効後3カ月以内に板門店に南北連絡事務所を設置・運営する。
第8条 南と北はこの合意書発効後1カ月以内に本会談の枠内で南北政治分科委員会を構成して,南北和解に関する合意の履行と遵守のための具体的対策を協議する。
  第2章 南北不可侵
第9条 南と北は相手方に対し武力を使用せず,相手方を武力で侵略しない。
第10条 南と北は,意見対立,紛争問題を対話と協商を通じて平和的に解決する。
第11条 南と北の不可侵境界線と区域は,1953年7月27日付けの軍事停戦に関する協定に規定された軍事境界線とこれまで双方が管轄してきた地域とする。
第12条 南と北は不可侵の履行と保障のために,この合意書発効後3カ月以内に南北軍事共同委員会を構成・運営する。 南北軍事共同委員会では大規模部隊移動と軍事演習の通報および統制問題,非武装地帯の平和的利用問題, 軍の人事交流および情報交換問題,大量殺戮兵器と攻撃能力の除去をはじめとした段階的軍縮の実現問題, 検証問題など,軍事的信頼醸成と軍縮を実現するための問題を協議・推進する。
第13条 南と北は偶発的な武力衝突とその拡大を防止するため,双方の軍事当局者の間に直通電話を設置・運営する。
第14条 南と北はこの合意書発効後1カ月以内に本会談の枠内で南北軍事分科委員会を構成し,不可侵に関する合意の履行と 遵守および軍事的対決状態を解消するための具体的対策を協議する。
  第3章 交流・協力
第15条 南と北は民族経済の統一的で均衡的な発展と民族全体の福利向上を図るため,資源の共同開発, 民族内部の交流としての物資交流や合作投資など,経済交流と協力を実施する。
第16条 南と北は科学,技術,教育,文化・芸術,保健,体育,環境,新聞・ラジオ・テレビジョンおよび 出版物をはじめとする出版・報道など,様々な分野で交流と協力を実施する。
第17条 南と北は民族構成員の自由な往来と接触を実現する。
第18条 南と北は離ればなれになっている家族・親戚の自由な書簡の交換,往来,訪問を実施して自由意志による 再結合を実現し,その他人道的に解決すべき問題に対する対策を講ずる。
第19条 南と北は途切れた鉄道と道路を連結し,航路・航空路を開設する。
第20条 南と北は郵便と電気通信交流に必要な施設を設置・連結し,郵便・電気通信交流の秘密を保障する。
第21条 南と北は国際舞台で経済や文化など様々な分野で互いに協力し,共同で対外進出する。
第22条 南と北は経済や文化など各分野の交流と協力を実現するための合意の履行のため, この合意書発効後3カ月以内に南北経済交流・協力共同委員会をはじめとする部門別共同委員会を構成・運営する。
第23条 南と北はこの合意書発効後1カ月以内に本会談の枠内で南北交流・協力分科委員会を構成し,南北交流・ 協力に関する合意の履行と遵守のため具体的対策を協議する。
  第4章 修正および発効
第24条 この合意書は双方の合意によって修正・補充することができる。
第25条 この合意書は南と北がそれぞれ発効に必要な手続きを経てその文書を互いに交換した日から効力をもつ。

1991年12月13日
       南北高位級会談               北南高位級会談
       南側代表団首席代表             北側代表団団長
       大韓民国国務総理 鄭元植          朝鮮民主主義人民共和国政務院総理 延亨黙

               
1993年 1月8日 改正外国人登録法施行特別永住者の指紋押捺制度廃止
1993年(平成5年)8月4日 河野談話の全文 (慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話)
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。 慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、 旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。
慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、 本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。 また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、 当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、 この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、 心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。
また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、 今後とも真剣に検討すべきものと考える。
われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。
われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという 固い決意を改めて表明する。
なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、 今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。
(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより)
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1994年 4月20日 民団が在日本大韓民国民団に改称
1995年 1月17日 阪神・淡路大震災 131人の同胞が犠牲
    2月28日 最高裁、「永住者等の地方参政権付与は憲法上禁止されていない」との判断示す

1995年(平成7年)8月15日 (いわゆる 村山談話
          村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」

先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、 あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。 このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。
ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。
また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。 私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。
とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、 なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。
政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、 各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。
また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、 私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、 人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、 多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。
私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、 ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。

また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、 責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。
同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、 核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、 犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」(よるは しんに しくは なし)と申します。この記念すべき時に当たり、 信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。(外務省ウェブサイトより)
▼下線は私が引きましたが具体的に日本政府は何をしたのか。

▼今日2019.10.13の朝日新聞朝刊「日曜に想う」は大野博人編集委員「フランスの沈黙 破った大統領」です。
1995年7月のシラク大統領の演説の紹介です。19号台風一過の今朝、爽やかでした。
「私たちはユダヤの人たちに対して絶対に取り消すことのできない負債(占領者ナチス・ドイツの犯罪的な狂気を補佐し、 8万人近くのユダヤ人を強制収容所に送り込んだのはフランス人でありフランス国家だった、という事実ー引用者)を抱えています。
何度も何度も証言すること、過去の過ち、国家の過ちを認め、歴史の暗部を決して隠さないこと、それは人間とその自由と尊厳 という理念を守ることにほかなりません。それがつねにうごめく闇の力と闘うということです。」
▼日韓関係について日本の政治家はシラク大統領のようにあるべき。「うごめく闇の力」になってはいけない。
1996年 5月13日 川崎市が都道府県・政令指定都市で初めて職員採用試験の国籍条項撤廃
1998年 10月8日 日韓共同宣言
         日韓共同宣言-21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ

 1.金大中大韓民国大統領夫妻は、日本国国賓として1998年10月7日から10日まで 日本を公式訪問した。 金大中大統領は、滞在中、小渕恵三日本国内閣総理大臣との間で会談を行った。両首脳は、過去の両国の関係を総括し、 現在の友好協力関係を再確認するとともに、未来のあるべき両国関係について意見を交換した。この会談の結果、両首脳は、 1965年の国交正常化以来築かれてきた両国間の緊密な友好協力関係をより高い次元に発展させ、21世紀に 向けた新たな日韓パートナーシップを構築するとの共通の決意を宣言した。

2.両首脳は、日韓両国が21世紀の確固たる善隣友好協力関係を構築していくためには、両国が過去を直視し相互 理解と信頼に基づいた関係を発展させていくことが重要であることにつき意見の一致をみた。  小渕総理大臣は、 今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与え たという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。   金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、 これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた 未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請 である旨表明した。  また、両首脳は、両国国民、特に若い世代が歴史への認識を深めることが重要であることに ついて見解を共有し、そのために多くの関心と努力が払われる必要がある旨強調した。

3.両首脳は、過去の長い歴史を通じて交流と協力を維持してきた日韓両国が、1965年の国交正常化以来、各分野 で緊密な友好協力関係を発展させてきており、このような協力関係が相互の発展に寄与したことにつき認識を共に した。小渕総理大臣は、韓国がその国民のたゆまざる努力により、飛躍的な発展と民主化を達成し、繁栄し成熟し た民主主義国家に成長したことに敬意を表した。金大中大統領は、戦後の日本の平和憲法の下での専守防衛及び非 核三原則を始めとする安全保障政策並びに世界経済及び開発途上国に対する経済支援等、国際社会の平和と繁栄に 対し日本が果たしてきた役割を高く評価した。両首脳は、日韓両国が、自由・民主主義、市場経済という普遍的理 念に立脚した協力関係を、両国国民間の広範な交流と相互理解に基づいて今後更に発展させていくとの決意を表明した。

4.両首脳は、両国間の関係を、政治、安全保障、経済及び人的・文化交流の幅広い分野において均衡のとれたより 高次元の協力関係に発展させていく必要があることにつき意見の一致をみた。また、両首脳は、両国のパートナー シップを、単に二国間の次元にとどまらず、アジア太平洋地域更には国際社会全体の平和と繁栄のために、また、 個人の人権が尊重される豊かな生活と住み良い地球環境を目指す様々な試みにおいて、前進させていくことが極め て重要であることにつき意見の一致をみた。   このため、両首脳は、20世紀の日韓関係を締めくくり、真の相互理解と協力に基づく21世紀に向けた新たな 日韓パートナーシップを共通の目標として構築し、発展させていくことに つき、以下のとおり意見の一致をみるとともに、このようなパートナーシップを具体的に実施していくためにこの 共同宣言に附属する行動計画を作成した。   両首脳は、両国政府が、今後、両国の外務大臣を総覧者として、定期的に、 この日韓パートナーシップに基づく協力の進捗状況を確認し、必要に応じこれを更に強化していくこととした。

5.両首脳は、現在の日韓関係をより高い次元に発展させていくために、両国間の協議と対話をより一層促進してい くことにつき意見の一致をみた。  両首脳は、かかる観点から、首脳間のこれまでの緊密な相互訪問・協議を維持・強化し、 定期化していくとともに、外務大臣を始めとする各分野の閣僚級協議を更に強化していくこととした。
また、両首脳は、両国の閣僚による懇談会をできる限り早期に開催し、政策実施の責任を持つ関係閣僚による自由 な意見交換の場を設けることとした。更に、両首脳は、これまでの日韓双方の議員間の交流実績を評価し、日韓・ 韓日議連における今後の活動拡充の方針を歓迎するとともに、21世紀を担う次世代の若手議員間の交流を慫慂していくこととした。

6.両首脳は、冷戦後の世界において、より平和で安全な国際社会秩序を構築するための国際的努力に対し、日韓両 国が互いに協力しつつ積極的に参画していくことの重要性につき意見の一致をみた。両首脳は、21世紀の挑戦と課 題により効果的に対処していくためには、国連の役割が強化されるべきであり、これは、安保理の機能強化、国連 の事務局組織の効率化、安定的な財政基盤の確保、国連平和維持活動の強化、途上国の経済・社会開発への協力等 を通じて実現できることにつき意見を共にした。
かかる点を念頭に置いて、金大中大統領は、国連を始め国際社会における日本の貢献と役割を評価し、今後、日本 のこのような貢献と役割が増大されていくことに対する期待を表明した。また、両首脳は、軍縮及び不拡散の重要 性、とりわけ、いかなる種類の大量破壊兵器であれ、その拡散が国際社会の平和と安全に対する脅威であることを 強調するとともに、この分野における両国間の協力を一層強化することとした。両首脳は、両国間の安保対話及び 種々のレベルにおける防衛交流を歓迎し、これを一層強化していくこととした。また、両首脳は、両国それぞれが 米国との安全保障体制を堅持するとともに、アジア太平洋地域の平和と安定のための多国間の対話努力を一層強化 していくことの重要性につき意見の一致をみた。

7.両首脳は、朝鮮半島の平和と安定のためには、北朝鮮が改革と開放を指向するとともに、対話を通じたより建設 的な姿勢をとることが極めて重要であるとの認識を共有した。小渕総理大臣は、確固とした安保体制を敷きつつ和解・ 協力を積極的に進めるとの金大中大統領の対北朝鮮政策に対し支持を表明した。これに関連し、両首脳は、1992年2月に発効した 南北間の和解と不可侵及び交流・協力に関する合意書の履行及び四者会合の順調な進展が望ましいことにつき意見の一致をみた。 また、両首脳は、1994年10月に米国と北朝鮮との間で署名された「合意された枠組み」及び朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を、 北朝鮮の核計画の推進を阻むための最も現実的かつ効果的なメカニズムとして維持していくことの重要性を確認した。 この関連で、両首脳は、北朝鮮による先般のミサイル発射に対して、国連安全保障理事会議長が安保理を代表して 表明した懸念及び遺憾の意を共有するとともに、北朝鮮のミサイル開発が放置されれば、日本、韓国及び北東アジア地域全体の 平和と安全に悪影響を及ぼすことにつき意見の一致をみた。両首脳は、両国が北朝鮮に関する政策を進めていく上で 相互に緊密に連携していくことの重要性を再確認し、種々のレベルにおける政策協議を強化することで意見の一致をみた。

8.両首脳は、自由で開かれた国際経済体制を維持・発展させ、また構造問題に直面するアジア経済の再生を実現していく上で、 日韓両国が、各々抱える経済上の課題を克服しながら、経済分野における均衡のとれた相互協力関係をより一層強化していくことの 重要性につき合意した。このため、両首脳は、二国間での経済政策協議をより強化するととともに、WTO、OECD、APEC等多国間の場での 両国の政策協調を一層進めていくことにつき意見の一致をみた。
金大中大統領は、日本によるこれまでの金融、投資、技術移転等の多岐にわたる対韓国経済支援を評価するとともに、 韓国の抱える経済的諸問題の解決に向けた努力を説明した。小渕総理大臣は、日本経済再生のための諸施策及 びアジア経済の困難の克服のために日本が行っている経済支援につき説明を行うとともに、韓国による経済困難の 克服に向けた努力を引き続き支持するとの意向を表明した。両首脳は、財政投融資を適切に活用した韓国に対する 日本輸出入銀行による融資について基本的合意に達したことを歓迎した。   両首脳は、両国間の大きな懸案であった日韓漁業協定交渉が基本合意に達したことを心から歓迎するとともに、 国連海洋法条約を基礎とした新たな漁業秩序の下で、漁業分野における両国の関係が円滑に進展することへの期待を表明した。   また、両首脳は、今般、新たな日韓租税条約が署名の運びとなったことを歓迎した。更に、両首脳は、貿易・投資、産業技術、科学技術、 情報通信、政労使交流等の各分野での協力・交流を更に発展させていくことで意見の一致をみるとともに、日韓社会保障協定を視野に入れて、 将来の適当な時期に、相互の社会保障制度についての情報・意見交換を行うこととした。

9.両首脳は、国際社会の安全と福祉に対する新たな脅威となりつつある国境を越える地球的規模の諸問題の解決に向けて、 両国政府が緊密に協力していくことにつき意見の一致をみた。両首脳は、地球環境問題に関し、とりわけ温室効果ガス排出抑制、 酸性雨対策を始めとする諸問題への対応における協力を強化するために、日韓環境政策対話を進めることとした。 また、開発途上国への支援を強化するため、援助分野における両国間の協調を更に発展させていくことにつき意見の一致をみた。 また、両首脳は、日韓逃亡犯罪人引渡条約の締結のための話し合いを開始するとともに、 麻薬・覚せい剤対策を始めとする国際組織犯罪対策の分野での協力を一層強化することにつき意見の一致をみた。

10.両首脳は、以上の諸分野における両国間の協力を効果的に進めていく上での基礎は、政府間交流にとどまらな い両国国民の深い相互理解と多様な交流にあるとの認識の下で、両国間の文化・人的交流を拡充していくことにつき意見の一致をみた。  両首脳は、2002年サッカー・ワールドカップの成功に向けた両国国民の協力を支援し、 2002年サッカー・ワールドカップの開催を契機として、 文化及びスポーツ交流を一層活発に進めていくこととした。  両首脳は、研究者、教員、ジャーナリスト、 市民サークル等の多様な国民各層間及び地域間の交流の進展を促進することとした。   両首脳は、こうした交流・相互理解促進の土台を形作る措置として、従来より進めてきた査証制度の簡素化を引き続き進めることとした。   また、両首脳は、日韓間の交流の拡大と相互理解の増進に資するために、 中高生の交流事業の新設を始め政府間の留学生や青少年の交流プログラムの充実を図るとともに、両国の青少年を対象として ワーキング・ホリデー制度を1999年4月から導入することにつき合意した。また、両首脳は、在日韓国人が、 日韓両国国民の相互交流・相互理解のための架け橋としての役割を担い得るとの認識に立ち、 その地位の向上のため、引き続き両国間の協議を継続していくことで意見の一致をみた。   両首脳は、日韓フォーラムや歴史共同研究の促進に関する日韓共同委員会等、関係者による日韓間の知的交流の意義を高く評価 するとともに、こうした努力を引き続き支持していくことにつき意見の一致をみた。   金大中大統領は、韓国において日本文化を開放していくとの方針を伝達し、小渕総理大臣より、 かかる方針を日韓両国の真の相互理解につながるものとして歓迎した。

11.小渕総理大臣と金大中大統領は、21世紀に向けた新たな日韓パートナーシ ップは、両国国民の幅広い参加と 不断の努力により、更に高次元のものに発展させることができるとの共通の信念を表明するとともに、両国国民に 対し、この共同宣言の精神を分かち合い、新たな日韓パートナーシップの構築・発展に向けた共同の作業に参加するよう呼びかけた。
        日本国内閣総理大臣 小渕恵三            大韓民国大統領 金大中
                    1998年10月8日 東京
▼20年前のこの日韓共同宣言がその後の日韓関係の深化の契機となっているようだ。
2019.12.3朝日新聞朝刊

▼左の記事は元外務次官藪中三十二さんへのインタビューです。
「日韓関係が非常に健全な状態だったのは1998年 です。小淵恵三首相と金大中大統領による『日韓共同宣言』が結ばれました。小淵首相は日本の植民地支配に対して心からおわびし、 金大統領は日本の戦後の歩みを評価しました。そして21世紀のパートナーとしてやっていこう、と。」
▼ここまで私には知る由もなかったですが2年前、日韓共同宣を読みそのようなことを感じてたのが上記メモです。 (2020.1.22)
▼やはり人ですね。小渕さんだからできたのですね。安倍晋三ではね。(2020.5.21)
2000年 6月15日 南北共同宣言発表

 
                   南北共同宣言

祖国の平和統一を念願する全同胞の崇高な意思により、大韓民国の金大中大統領と朝鮮民主主義人民共和国の金正 日国防委員長は、2000年6月13日から15日までピョンヤンで歴史的に対面し、首脳会談を行なった。南北首脳は分 断の歴史上初めて開かれた今回の対面と会談が、互いの理解を増進させて南北関係を発展させて、平和統一を実現 するのに重大な意思を持つと評価し、次のように宣言する。

1.南と北は国の統一問題を、その主人である我が民族同士で互いに力を合わせ、自主的に解決していくことにした。
2.南と北は国の統一のため、南の連合制案と北側のゆるやかな段階での連邦制案が、 互いに共通性があると認め、今後、この方向で統一を志向していくことにした。
3.南と北は今年の8・15に際して、離散家族、親戚の訪問団を交換し、非転向長期囚問題を解決するなど、人道的 問題を早急に解決していくことにした。
4.南と北は経済協力を通じて、民族経済を均衡的に発展させ、社会、文化、体育、保険、環境など諸般の分野での 協力と交流を活性化させ、互いの信頼を高めていくことにした。
5.南と北は、以上のような合意事項を早急に実践に移すため、早い時期に当局間の対話を開始することにした。

金大中大統領は金正日国防委員長がソウルを早急に訪問するよう丁重に招請し、金正日国防委員長は今後、適切な時期にソウルを訪問することにした。
 2000年6月15日
     大韓民国大統領 金大中        朝鮮民主主義人民共和国国防委員長 金正日    

▼いい合意。世紀が変わり新しい風が朝鮮半島にも吹き始めた気がします。
2002年 9月17日 小泉首相訪朝 朝日平壌宣言採択 日本人拉致を認める
(日本の外務省の発表している日朝平壌宣言を掲載します)
                日朝平壌宣言                 平成14年9月17日

小泉純一郎日本国総理大臣と金正日朝鮮民主主義人民共和国国防委員長は、2002年9月17日、平壌で出会い会談を 行った。両首脳は、日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、実りある政治、経済、文化的関係を樹立す ることが、双方の基本利益に合致するとともに、地域の平和と安定に大きく寄与するものとなるとの共通の認識を確認した。

1.双方は、この宣言に示された精神及び基本原則に従い、国交正常化を早期に実現させるため、あらゆる努力を傾 注することとし、そのために2002年10月中に日朝国交正常化交渉を再開することとした。
双方は、相互の信頼関係に基づき、国交正常化の実現に至る過程においても、日朝間に存在する諸問題に誠意をも って取り組む強い決意を表明した。

2.日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け 止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した。
双方は、日本側が朝鮮民主主義人民共和国側に対して、国交正常化の後、双方が適切と考える期間にわたり、無償 資金協力、低金利の長期借款供与及び国際機関を通じた人道主義的支援等の経済協力を実施し、また、民間経済活 動を支援する見地から国際協力銀行等による融資、信用供与等が実施されることが、この宣言の精神に合致すると の基本認識の下、国交正常化交渉において、経済協力の具体的な規模と内容を誠実に協議することとした。
双方は、国交正常化を実現するにあたっては、1945年8月15日以前に生じた事由に基づく両国及びその国民のすべ ての財産及び請求権を相互に放棄するとの基本原則に従い、国交正常化交渉においてこれを具体的に協議することとした。
双方は、在日朝鮮人の地位に関する問題及び文化財の問題については、国交正常化交渉において誠実に協議することとした。

3.双方は、国際法を遵守し、互いの安全を脅かす行動をとらないことを確認した。また、日本国民の生命と安全に かかわる懸案問題については、朝鮮民主主義人民共和国側は、日朝が不正常な関係にある中で生じたこのような遺 憾な問題が今後再び生じることがないよう適切な措置をとることを確認した。

4.双方は、北東アジア地域の平和と安定を維持、強化するため、互いに協力していくことを確認した。
双方は、この地域の関係各国の間に、相互の信頼に基づく協力関係が構築されることの重要性を確認するととも に、この地域の関係国間の関係が正常化されるにつれ、地域の信頼醸成を図るための枠組みを整備していくことが 重要であるとの認識を一にした。
双方は、朝鮮半島の核問題の包括的な解決のため、関連するすべての国際的合意を遵守することを確認した。
また、双方は、核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の諸問題に関し、関係諸国間の対話を促進し、問題解決 を図ることの必要性を確認した。
朝鮮民主主義人民共和国側は、この宣言の精神に従い、ミサイル発射のモラトリアムを2003年以降も更に延長していく意向を表明した。
双方は、安全保障にかかわる問題について協議を行っていくこととした。

 日本国総理大臣 小泉 純一郎         朝鮮民主主義人民共和国 国防委員会 委員長 金 正日

   2002年9月17日  平壌   

2005年 9月19日 第 4 回 六者会合に関する共同声明
                第 4 回 六者会合に関する共同声明

第4回六者会合は、北京において、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、日本国、大韓民国、 ロシア連邦及びアメリカ合衆国の間で、2005年7月26日から8月7日まで及び9月13日から19日まで開催された。
武大偉中華人民共和国外交部副部長、
金桂冠朝鮮民主主義人民共和国外務副相、
佐々江賢一郎日本国外務省アジア大洋州局長、
宋旻淳大韓民国外交通商部次官補、
アレクサンドル・アレクセーエフ・ロシア連邦外務次官及び
クリストファー・ヒル・アメリカ合衆国東アジア太平洋問題担当国務次官補が、
それぞれの代表団の団長として会合に参加した。
武大偉外交部副部長が会合の議長を務めた。
朝鮮半島及び北東アジア地域全体の平和と安定のため、六者は、相互尊重及び平等の精神の下、 過去三回の会合における共通の理解に基づいて、朝鮮半島の非核化に関する真剣かつ実務的な協議を行い、 この文脈において、以下のとおり意見の一致をみた。

1. 六者は、六者会合の目標は、平和的な方法による、朝鮮半島の検証可能な非核化であることを一致して再確認した。
朝鮮民主主義人民共和国は、すべての核兵器及び既存の核計画を放棄すること、並びに、 核兵器不拡散条約及びIAEA保障措置に早期に復帰することを約束した。
アメリカ合衆国は、朝鮮半島において核兵器を有しないこと、及び、 朝鮮民主主義人民共和国に対して核兵器又は通常兵器による攻撃又は侵略を行う意図を有しないことを確認した。

大韓民国は、その領域内において核兵器が存在しないことを確認するとともに、 1992年の朝鮮半島の非核化に関する共同宣言に従って核兵器を受領せず、かつ、配備しないとの約束を再確認した。
1992年の朝鮮半島の非核化に関する共同宣言は、遵守され、かつ、実施されるべきである。
朝鮮民主主義人民共和国は、原子力の平和的利用の権利を有する旨発言した。他の参加者は、 この発言を尊重する旨述べるとともに、適当な時期に、朝鮮民主主義人民共和国への軽水炉提供問題について議論を行うことに合意した。

2. 六者は、その関係において、国連憲章の目的及び原則並びに国際関係について認められた規範を遵守することを約束した。
朝鮮民主主義人民共和国及びアメリカ合衆国は、相互の主権を尊重すること、 平和的に共存すること、及び二国間関係に関するそれぞれの政策に従って国交を正常化するための措置をとることを約束した。
朝鮮民主主義人民共和国及び日本国は、平壌宣言に従って、不幸な過去を清算し懸案事項を解決することを基礎として、 国交を正常化するための措置をとることを約束した。

3. 六者は、エネルギー、貿易及び投資の分野における経済面の協力を、二国間又は多数国間で推進することを約束した。
中華人民共和国、日本国、大韓民国、ロシア連邦及びアメリカ合衆国は、朝鮮民主主義人民共和国に対するエネルギー支援の意向につき述べた。
大韓民国は、朝鮮民主主義人民共和国に対する200万キロワットの電力供給に関する2005年7月12日の提案を再確認した。

4. 六者は、北東アジア地域の永続的な平和と安定のための共同の努力を約束した。
直接の当事者は、適当な話合いの場で、朝鮮半島における恒久的な平和体制について協議する。
六者は、北東アジア地域における安全保障面の協力を促進するための方策について探求していくことに合意した。

5. 六者は、「約束対約束、行動対行動」の原則に従い、前記の意見が一致した事項についてこれらを段階的に実施していくために、 調整された措置をとることに合意した。

6. 六者は、第五回六者会合を、北京において、2005年11月初旬の今後の協議を通じて決定される日に開催することに合意した。

▼私が下線を引いた部分が特に重要。とりわけ「約束対約束、行動対行動」の原則が米朝の交渉で重要。
2005年 11月24日 在日韓人歴史資料館開設
2007年 10月4日 南北首脳宣言
        南北関係の発展と平和繁栄のための宣言 (全文) [いわゆる10・4南北首脳宣言]

大韓民国の盧武鉉大統領と朝鮮民主主義人民共和国の金正日国防委員長間の合意に従い、盧武鉉大統領が2007 年10月2日から4日まで平壌を訪問した。訪問期間中、歴史的な出会いと会談があった。 出会いと会談では、 6・15共同宣言(2000年)の精神を再確認し、南北関係の発展と韓半島の平和、民族共同の繁栄と統一を実現す るための諸般の問題を虚心坦懐に協議した。
双方は、わが民族同士、意思と力をあわせれば、民族繁栄の時代、自主統一の新時代を開いていくことができると いう確信を表明し、6・15共同宣言に基づいて南北関係を拡大、発展させていくために次のように宣言する。

1、南北は、6・15共同宣言を固守し、積極的に実現していく。
南北は、わが民族同士の精神に従って統一問題を自主的に解決しながら、民族の尊厳と利益を中心として、すべて のことを、これに向かわせていくことにした。
南北は、6・15共同宣言を引き続き履行していこうとする意思を反映して、6月15日を記念する方案を講究していくことにした。

2、南北は、思想と制度の差を超越して、南北関係を相互尊重と信頼の関係に確実に転換させていくことにした。
南北は、内部問題に干渉せず、南北関係の問題を和解と協力、統一に合致するように解決していくことにした。
南北は、南北関係を統一指向的に発展させていくため、それぞれ法律的、制度的な装置を整備していくことにした。
南北は、南北関係の拡大と発展のための諸問題を、民族の念願に合致するように解決するため、双方の議会など、 各分野の対話と接触を積極的に推進していくことにした。

3、南北は、軍事的な敵対関係を終結させ、韓半島における緊張緩和と平和を保障するために緊密に協力していくことにした。
南北は、互いに敵対視せず、軍事的な緊張を緩和し、紛争問題を対話と交渉を通して解決していくことにした。
南北は、韓半島において如何なる戦争にも反対し、不可侵の義務を確固として遵守することにした。
南北は、西海での偶発的な衝突防止のため、共同漁業水域を指定し、この水域を平和水域とするための方案と、各 種の協力事業に対する軍事的な保障措置問題など、軍事的な信頼構築措置を協議するため、南側の国防相と北側の 人民武力相の間の会談を今年11月中に平壌で開催することにした。

4、南北は、現休戦体制を終結させ、恒久的な平和体制を構築していかなければならないということで認識を同じ くし、直接関連する3カ国または、4カ国の首脳が、韓半島地域で会談し、終戦を宣言する問題を推進していくた めに協力していくことにした。
南北は、韓半島の核問題を解決するために、6カ国協議の「9・19共同声明」(2005年)と「2・13合意」が 順調に履行されるよう、共同で努力することにした。

5、南北は、民族経済の均衡的な発展と共同の繁栄のために、経済協力事業を共利共栄と有無相通の原則で、積極 的に活性化し、持続的に拡大発展させていくことにした。
南北は、経済協力のための投資を奨励し、基盤施設の拡充と資源開発を積極推進し、民族内部協力事業の特殊性に 合わせて各種の優遇条件と特恵を優先的に付与することにした。
南北は、海州地域と周辺海域を包括する「西海平和協力特別地帯」を設置し、共同漁業区域と平和水域の設定、経 済特別区建設と海州港の活用、民間船舶の海州直航路通過、漢江河口の共同利用などを積極的に推進していくことにした。
南北は、開城工業地区の1段階建設を早い時期に完工して2段階開発に着手し、ぶん山―鳳東間の鉄道貨物輸送を はじめ、通行、通信、通関問題をはじめとする諸般の制度的な保証措置を早急に完備していくことにした。
南北は、開城―新義州鉄道と開城ー平壌高速道路を共同で利用するため、改補修問題を協議・推進していくことにした。
南北は、安辺と南浦に造船協力団地を建設し、農業、保健医療、環境保護など、さまざまな分野での協力事業を進めていくことにした。
南北は、南北経済協力事業の円滑な推進のため、現在の「南北経済協力推進委員会」を副首相レベルの「南北経済 協力共同委員会」に格上げすることにした。

6、南北は、民族の悠久な歴史と優秀な文化を輝かせるため、歴史、言語、教育、科学技術、文化芸術、体育な ど、社会文化分野の交流と協力を発展させていくことにした。南北は、白頭山観光を実施し、このため白頭山―ソウル 直航路を開設することにした。
南北は、2008年北京オリンピック大会に南北応援団が京義線列車を初めて利用して参加するようにした。

7、南北は、人道主義協力事業を積極推進していくことにした。
南北は、離散家族・親族の再会を拡大し、ビデオ手紙の交換事業を推進していくことにした。 このため、金剛山面 会所が完工するに従って、双方の代表を常駐させ、離散家族・親族の再会を常時進めていくことにした。
南北は、自然災害をはじめとして災難が発生する場合、同胞愛と人道主義、相互扶助の原則に従って積極的に協力していくことにした。

8、南北は、国際舞台において、民族の利益と海外同胞の権利と利益のための協力を強化していくことにした。
南北は、この宣言の履行のため、南北首相会談を開催することとし、第一回会議を今年11月中にソウルで行うことにした。
南北は、南北関係の発展のため、首脳が随時会談して懸案問題を協議していくことにした。
      2007年10月4日  ピョンヤン
      大韓民国大統領 盧武鉉       朝鮮民主主義人民共和国国防委員長 金正日


          
2010年 5月10日 韓日知識人214名がソウルと東京で「韓国併合」100年韓日知識人共同声明を発表
▼日韓の著名な知識人214名によってまとめられ、合意されたこの共同声明が日本社会で普通の認識になることを 願ます。私のホームページの目的、意図、希望もこの共同声明と同じです。どれだけの方がこの共同声明に賛同さ れているか、お名前と肩書もすべて掲載いたします。

         「韓国併合」100年日韓知識人共同声明  2010年5月10日 東京・ソウル
1910年8月29日、日本帝国は大韓帝国をこの地上から抹殺し、朝鮮半島をみずからの領土に併合することを 宣言した。そのときからちょうど100年となる2010年を迎え、私たちは、韓国併合の過程がいかなるもので あったか、「韓国併合条約」をどのように考えるべきかについて、日韓両国の政府と国民が共同の認識を確認する ことが重要であると考える。この問題こそが両民族の間の歴史問題の核心であり、われわれの和解と協力のための基本である。

今日まで両国の歴史家は、日本による韓国併合が長期にわたる日本の侵略、数次にわたる日本軍の占領、王后の殺 害と国王・政府要人への脅迫、そして朝鮮の人々の抵抗の圧殺の結果実現されたものであることを明らかにしている。

近代日本国家は1875年江華島に軍艦を送り込み、砲台を攻撃、占領するなどの軍事作戦を行った。翌年、日本 側は、特使を派遣し、不平等条約をおしつけ、開国させた。1894年朝鮮に大規模な農民の蜂起がおこり、清国 軍が出兵すると、日本は大軍を派遣して、ソウルを制圧した。そして王宮を占領して、国王王后をとりことしたあ とで、清国軍を攻撃し、日清戦争を開始した。他方で朝鮮の農民軍を武力で鎮圧した。日清戦争の勝利で、日本は 清国の勢力を朝鮮から一掃することに成功したが、三国干渉をうけ、獲得した遼東半島を還付させられるにいたっ た。この結果、獲得した朝鮮での地位も失うと心配した日本は王后閔氏の殺害を実行し、国王に恐怖を与えんとし た。国王高宗がロシア公使館に保護をもとめるにいたり、日本はロシアとの協定によって、態勢を挽回することをよぎなくされた。

しかし、義和団事件とロシアの満州占領ののち、1903年には日本は韓国全土を自らの保護国とすることを認め るようにロシアに求めるにいたった。ロシアがこれを峻拒すると、日本は戦争を決意し、1904年戦時中立宣言 をした大韓帝国に大軍を侵入させ、ソウルを占領した。その占領軍の圧力のもと、2月23日韓国保護国化の第一 歩となる日韓議定書の調印を強制した。はじまった日露戦争は日本の優勢勝ちにおわり、日本はポーツマス講和に おいて、ロシアに朝鮮での自らの支配を認めさせた。
伊藤博文はただちにソウルに乗り込み、日本軍の力を背景に、威嚇と懐柔をおりまぜながら、1905年11月18日、 外交権を剥奪する第二次日韓協約を結ばせた。

義兵運動が各地におこる中、皇帝高宗はこの協約が無効であるとの訴えを列国に送った。1907年ハーグ平和会 議に密使を送ったことで、伊藤統監は高宗の責任を問い、ついに軍隊解散、高宗退位を実現させた。7月24日第 三次日韓協約により日本は韓国内政の監督権をも掌握した。このような日本の支配の強化に対して、義兵運動が高 まったが、日本は軍隊、憲兵、警察の力で弾圧し、1910年の韓国併合に進んだのである。

以上のとおり、韓国併合は、この国の皇帝から民衆までの激しい抗議を軍隊の力で押しつぶして、実現された、文 字通りの帝国主義の行為であり、不義不正の行為である。

日本国家の韓国併合の宣言は1910年8月22日の併合条約に基づいていると説明されている。
この条約の前文には、日本と韓国の皇帝が日本と韓国の親密な関係を願い、相互の幸福と東洋の平和の永久確保の ために、「韓国ヲ日本帝国ニ併合スルニ如カザル」、併合するのが最善だと確信して、本条約を結ぶにいたったと述べられている。
そして第一条に、「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且ツ永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス」と 記され、第二条に「日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ゲタル譲与ヲ受諾シ、且全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス」と記されている。

ここにおいて、力によって民族の意志を踏みにじった併合の歴史的真実は、平等な両者の自発的な合意によって、 韓国皇帝が日本に国権の譲与を申し出て、日本の天皇がそれをうけとって、韓国併合に同意したという神話によっ て覆い隠されている。前文も偽りであり、条約本文も偽りである。条約締結の手続き、形式にも重大な欠点と欠陥 が見いだされる。かくして韓国併合にいたる過程が不義不当であると同様に、韓国併合条約も不義不当である。

日本帝国がその侵略戦争のはてに敗北した1945年、朝鮮は植民地支配から解放された。解放された朝鮮半島の 南側に生まれた大韓民国と日本は、1965年に国交を樹立した。そのさい結ばれた日韓基本条約の第二条におい て、1910年8月22日及びそれ以前に締結されたすべての条約および協定はalready null and voidであると宣言された。 しかし、この条項の解釈が日韓両政府間で分かれた。
日本政府は、併合条約等は「対等の立場で、また自由意思で結ばれた」ものであり、締結時より効力を発生し、有効であったが、 1948年の大韓民国成立時に無効になったと解釈した。これに対し、韓国政府は、「過去日本の侵略主義の所産」の 不義不当な条約は当初より不法無効であると解釈したのである。
併合の歴史について今日明らかにされた 事実と歪みなき認識に立って振り返れば、もはや日本側の解釈を維持することはできない。 併合条約は元来不義不当なものであったという意味において、当初よりnull and voidであるとする韓国側の解釈が 共通に受け入れられるべきである。

現在にいたるまで、日本でも緩慢ながら、植民地支配に関する認識は前進してきた。新しい認識は、1990年代 に入って、河野官房長官談話(1993年)、村山総理談話(1995年)、日韓共同宣言(1998年)、日朝平壌宣言 (2002年)などにあらわれている。とくに1995年8月15日村山総理談話において、日本政府は「植民地支 配」がもたらした「多大の損害と苦痛」に対して、「痛切な反省の意」、「心からのおわびの気持ち」を表明した。

なお、村山首相は1995年10月13日衆議院予算委員会で「韓国併合条約」について「双方の立場が平等であ ったというふうには考えておりません」と答弁し、野坂官房長官も同日の記者会見で「日韓併合条約は…極めて強 制的なものだった」と認めている。
村山首相は11月14日、金泳三大統領への親書で、併合条約とこれに先立つ日韓協約について、「民族の自決と 尊厳を認めない帝国主義時代の条約であることは疑いをいれない」と強調した。

そこでつくられた基礎が、その後のさまざまな試練と検証をへて、今日日本政府が公式的に、併合と併合条約につ いて判断を示し、日韓基本条約第二条の解釈を修正することを可能にしている。米国議会も、ハワイ併合の前提を なしたハワイ王国転覆の行為を100年目にあたる1993年に「不法な illegal 行為」であったと認め、謝罪する 決議を採択した。近年「人道に反する罪」や「植民地犯罪」に関する国際法学界でのさまざまな努力も進められて いる。いまや、日本でも新しい正義感の風を受けて、侵略と併合、植民地支配の歴史を根本的に反省する時がきているのである。
▼明治政府によるアイヌ民族への植民地的土地収奪、1872年〜1879年の「琉球処分」も)

韓国併合100年にあたり、われわれはこのような共通の歴史認識を有する。この共通の歴史認識に立って、日本 と韓国のあいだにある、歴史に由来する多くの問題を問い直し、共同の努力によって解決していくことができるだ ろう。和解のためのプロセスが一層自覚的に進められなければならない。
共通の歴史認識をさらに強固なものにするために、過去100年以上にわたる日本と朝鮮半島との歴史的関係に関 わる資料は、隠すことなく公開されねばならない。とりわけ、植民地支配の時期に記録文書の作成を独占していた 日本政府当局は、歴史資料を積極的に収集し公開する義務を負っている。

罪の許しは乞わねばならず、許しはあたえられねばならない。苦痛は癒され、損害は償われなければならない。関東大震災 のさいになされた朝鮮人住民の大量殺害をはじめとするすべての理不尽なる行為は振り返られなければならない。 日本軍「慰安婦」問題はいまだ解決されたとはいえない状態にある。韓国政府が取り組みを開始した強制 動員労働者・軍人軍属に対する慰労と医療支援の措置に、日本政府と企業、国民は積極的な努力で応えることが望 まれる。
▼政府、企業だけでなく国民一人ひとりの責任でもある。私もこのホームページを開設することで少しでも 自分の責任を果たしたいと考えている。
対立する問題は、過去を省察し、未来を見据えることで、先のばしすることなく解決をはからねばならない。朝鮮 半島の北側にあるもうひとつの国、朝鮮民主主義人民共和国と日本との国交正常化も、この併合100年という年 に進められなければならない。 このようにすることによって、韓国と日本の間に、真の和解と友好に基づいた新し い100年を切り開くことができる。私たちは、この趣意を韓日両国の政府と国民に広く知らせ、これを厳粛に受け止めることを訴える。
▼日本側105人 韓国側109人 の知識人の良心と叡智の訴えである。私は、 真実のすべてがここに凝縮されているとおもう。
    日本側署名者  ※印は発起人
荒井献 東京大学名誉教授・聖書学   ※荒井信一 茨城大学名誉教授・日本の戦争責任資料センター共同代表
※井口和起 京都府立大学名誉教授・日本史   ※石坂浩一 立教大学准教授・韓国社会論   
石田雄 東京大学名誉教授・政治学   石山久男 歴史教育者協議会会員   
李順愛 早稲田大学講師・女性学   出水薫 九州大学教授・韓国政治   
※李成市 早稲田大学教授・朝鮮史   ※李鍾元 立教大学教授・国際政治   
板垣雄三 東京大学名誉教授・イスラム学   井筒和幸 映画監督   
井出孫六 作家   伊藤成彦 中央大学名誉教授・社会思想   
※井上勝生 北海道大学名誉教授・日本史   今津弘 元朝日新聞論説副主幹   
上杉聡 大阪市立大学教授   上田正昭 京都大学名誉教授・日本史   
内田雅敏 弁護士   ※内海愛子 早稲田大学大学院客員教授・日本―アジア関係史  
大江健三郎 作家   ※太田修 同志社大学教授・朝鮮史   
※岡本厚 雑誌『世界』編集長   沖浦和光 桃山学院大学名誉教授   
※小田川興 元朝日新聞編集委員   ※糟谷憲一 一橋大学教授・朝鮮史   
※鹿野政直 早稲田大学名誉教授・日本史   加納実紀代 敬和学園大学教授・女性史   
川村湊 文芸評論家・法政大学教授   姜尚中 東京大学教授・政治学   
姜徳相 滋賀県立大学名誉教授・朝鮮史   木田献一 山梨英和学院大学院長・キリスト教学   
木畑洋一 成城大学教授・国際関係史   君島和彦 ソウル大学教授・日本史   
金石範 作家   金文子 歴史家   
小谷汪之 首都大学・東京教授・インド史   小林知子 福岡教育大学准教授・在日朝鮮人史   
※小森陽一 東京大学教授・日本文学   ※坂本義和 東京大学名誉教授・国際政治   
笹川紀勝 明治大学教授・国際法   佐高信 雑誌『週刊金曜日』発行人   
沢地久枝 ノンフィクション作家   重藤都 東京日朝女性の集い世話人   
清水澄子 日朝国交正常化連絡会代表委員・元参議院議員   ※東海林勤 日本キリスト教団牧師   
進藤栄一 筑波大学名誉教授・東アジア共同体学会会長   末本雛子 日朝友好促進京都婦人会議代表   
鈴木道彦 独協大学名誉教授・フランス文学   鈴木伶子 平和を実現するキリスト者ネット代表   
関田寛雄 青山学院大学名誉教授・日本キリスト教団牧師   徐京植 作家・東京経済大学教授   
高木健一 弁護士   ※高崎宗司 津田塾大学教授・日本史   
高橋哲哉 東京大学教授・哲学   田中宏 一橋大学名誉教授・戦後補償問題   
俵義文 子どもと教科書全国ネット21事務局長   ※趙景達 千葉大学教授・朝鮮史   
鶴見俊輔 哲学者   外村大 東京大学准教授・朝鮮史   
仲尾宏 京都造形芸術大学客員教授   ※中塚明 奈良女子大名誉教授・日朝関係史   
中野聡 一橋大学教授・歴史学研究会事務局長   ※中村政則 一橋大学名誉教授・日本史   
中山弘正 明治学院大学名誉教授・経済学   永久睦子 I女性会議・大阪会員   
成田龍一 日本女子大学教授・日本史   朴一 大阪市立大学教授・経済学   
林雄介 明星大学教授・朝鮮史   原寿雄 ジャーナリスト   
針生一郎 美術評論家   樋口雄一 高麗博物館館長   
飛田雄一 神戸学生青年センター館長   平川均 名古屋大学教授・経済学   
深水正勝 カトリック司祭   藤沢房俊 東京経済大学教授・イタリア近代史   
藤永壮 大阪産業大学教授・朝鮮史   福山真劫 フォーラム平和・人権・環境代表   
古田武 高麗野遊会実行委員会代表   布袋敏博 早稲田大学教授・朝鮮文学   
前田憲二 映画監督・NPO法人ハヌルハウス代表理事   ※松尾尊~ 京都大学名誉教授・日本史   
※水野直樹 京都大学人文科学研究所教授・朝鮮史   三谷太一郎 政治学者   
南塚信吾 法政大学教授・世界史研究所所長   宮崎勇 経済学者・元経済企画庁長官   
※宮嶋博史 成均館大学教授・朝鮮史   宮田毬栄 文筆家   
宮地正人 東京大学名誉教授・日本史   ※宮田節子 歴史学者・元朝鮮史研究会会長   
文京洙 立命館大学教授・政治学   百瀬宏 津田塾大学名誉教授・国際関係学   
山口啓二 歴史研究者・元日朝協会会長   山崎朋子 女性史研究家   
※山田昭次 立教大学名誉教授・日本史   ※山室英男 元NHK解説委員長   
梁石日 作家   油井大三郎 東京女子大学教授・アメリカ史   
吉岡達也 ピースボート共同代表   吉沢文寿 新潟国際情報大学准教授・朝鮮史   
吉野誠 東海大学教授・朝鮮史   吉松繁 王子北教会牧師   
吉見義明 中央大学教授・日本史   李進煕 和光大学名誉教授・朝鮮史   
※和田春樹 東京大学名誉教授                          105人

   韓国側署名者  ※印は発起人
※姜萬吉 高麗大名誉教授,元尚志大総長・韓国史   ※姜天錫 朝鮮日報主筆
※高光憲 ハンギョレ新聞社長   ※高銀 詩人
權泰檍 ソウル大教授・韓国史   具正謨 江原大教授・経済学,東北亞大学教授協議会会長
※金京熙 知識産業社社長   金基ソク ソウル大教授・教育学
金度亨 延世大教授・韓国史   金炳翼 文学&知性社常任顧問
金成国 釜山大教授・社会学   金彦鎬 圖書出版ハンギル社代表
金永一 光復会会長   ※金泳鎬 柳韓大総長
金容九 翰林大翰林科学院教授   ※金容徳 ソウル大名誉教授・光州科学技術院碩座教授・東洋史
金容燮 延世大名誉教授・韓国史   金潤煥 高麗大名誉教授・経済学,韓国経済学会名誉会長
金鍾圭 韓国博物館協会会長,韓国文化財トラスト協会会長   ※金芝河 詩人
※金鎭R 元韓国経済新聞会長,元ソウル市立大総長   ※金昌祿 慶北大教授・国際法
金泰永 慶熙大名誉教授・韓国史   金平祐 大韓弁護士協会会長
金R ソウル弁護士協会会長   金皓起 延世大教授・社会学
金和經 嶺南大教授・韓国文学   金 小説家
金喜坤 安東大教授・韓国史   羅鍾一 友石大総長,元駐日大使
※南時旭 世宗大碩座教授,元文化日報社長   盧明鎬 ソウル大教授・韓国史
盧泰敦 ソウル大教授・韓国史   都珍淳 昌原大教授・韓国史
朴孟浩 民音社会長   朴明圭 ソウル大教授・社会学
朴秉濠 大韓民国学術院会員・法制史   ※朴元淳 希望制作所常任理事
朴在勝 元大韓弁護士協会会長   朴維徹 安重根義士百周年記念館建立委員会委員長
※「仁俊 東亞日報主筆   ※白楽晴 ソウル大名誉教授・英文学
白承憲 民主社会のための弁護士会会長   白永瑞 延世大教授・東洋史
朴宇熙 世宗大総長,韓国経済学会名誉会長   朴仁奎 プレシァン社長
徐仲錫 成均館大教授・韓国史   成大慶 成均館大名誉教授・韓国史
宋永丞 京ク新聞社長   宋虎根 ソウル大教授・社会学
申庚林 詩人   申榮福 聖公会大碩座教授・経済学
※愼纛 梨花女子大碩座教授・韓国史   安秉祐 韓信大教授・韓国史
安秉旭 カトリック大教授・韓国史   安哲秀 KAIST(韓国科学技術院)席座教授
梁民滸 東北亞平和センター運営委員長   嚴昌玉 慶北大教授・経済学,国債報償記念事業会常任理事
廉武雄 嶺南大名誉教授・文学評論   呉世榮 ソウル大名誉教授,韓国詩人協会会長
呉連鎬 Oh My News 社長   劉在天 尚志大総長
尹炳ソク 仁荷大名誉教授・韓国史   尹炯斗 汎友社社長,韓国出版学会会長
李根ェ ソウル大教授・国際法   李基相 外国語大教授・韓国史
李gソク ソウル大名誉教授・地理学   李起雄 ス話堂社長,出版都市文化財団理事長
※李萬烈 淑明女子大名誉教授・韓国史   李文烈 小説家
李相燦 ソウル大教授・韓国史   李成茂 韓国学中央研究院名誉教授,元国史編纂委員会委員長
李時載 カトリック大教授・社会学,環境運動聯合代表   李御寧 梨花女子大碩座教授,元文化部長官
李元コ 国民大教授・国際政治学   ※李長熙 外国語大教授・国制法,国際常設仲裁裁判所(PCA) 裁判官
※李泰鎭 ソウル大名誉教授・韓国史   李效再 梨花女子大名誉教授・社会学
李学永 韓国YMCA全国聯盟事務総長   林玉相 画家
林賑澤 韓国民族芸術人総聯合副会長   任撫~ 韓国日報主筆
林ヒョン澤 成均館大教授・韓国文学   任軒永 民族問題研究所所長
林玄鎭 ソウル大教授・社会学   張萬基 韓国人間開発研究院会長
張寅成 ソウル大教授・外交学   張忠植 檀国大名誉総長
鄭聖憲 DMZ生命平和東山理事長   鄭在貞 ソウル市立大教授・韓国史,東北亞歴史財團理事長
※鄭昌烈 漢陽大名誉教授・韓国史   鄭泰寅 高麗大教授・韓国史
趙光 高麗大教授・韓国史   趙東杰 国民大名誉教授・韓国史
趙東成 ソウル大教授・経営学   趙東一 ソウル大名誉教授・韓国文学
゙ヒヨン 聖公会大教授・社会学   朱宗桓 東国大名誉教授・経済学,市民社会新聞論説顧問
車河淳 西江大名誉教授・西洋史,大韓民国学術院会員   蔡雄錫 カトリック大教授・韓国史
※崔元植 仁荷大教授・韓国文学   崔章集 高麗大教授・政治学
韓敬九 ソウル大教授・人類学   韓相震 ソウル大名誉教授,中国C華大教授・社会学
韓水山 小説家   韓勝憲 弁護士,元監査院長
許南振 中央日報論説主幹   許粹烈 忠南大教授・農業経済学
黄ル暎 小説家                               109人 


フランスの謝罪
2019.10.13朝日新聞朝刊
大野博人さんの日曜に想う。
「1995年5月に大統領に当選したばかりのジャック・シラクは7月16日、ベロドローム・ディベール事件53周年に当たり ユダヤ人一斉逮捕の犠牲者を悼む式典で演説した。」
まず事件の概要と経緯はこうです。
「第2次大戦中の1942年7月16日明け方、ナチス・ドイツの占領下にあったフランスのビシー政権はパリ地域のユダヤ人約1万人一斉 逮捕した。この作戦を含めナチスの強制収容所に送り込まれたのは8万人近くになる。ミッテラン大統領までレジスタンスの歴史だけを語っていれば 、自分たちの暗いもう一つの歴史について沈黙を守ることができた。その沈黙をシラクは破った。」
「私たちの歴史を永遠に汚し、過去と伝統への侮辱となる出来事を語るのはむずかしい。」 「占領者の犯罪的な狂気を補佐したのは、フランス人でありフランス国家だったのです。」「53年前、フランスの警官と憲兵が上司の指令の下で、ナチス の要請に応じました。」「私たちはユダヤの人たちに対して絶対に取り消すことのできない負債を抱えています。」「何度も何度も証言すること、過去の 過ち、国家の過ちを認め、歴史の暗部を決して隠さないこと、それは人間とその自由と尊厳という理念を守ることにはかなりません。それが、つねに うごめく闇の力と闘うということです。」
97年には仏カトリック教会が大統領に続いた。戦時中、聖職者たちが「沈黙によって、死の歯車を回転するがままにさせていた」ことをユダヤ人に謝罪した。

▼この事件をテーマにした映画『サラの鍵』の監督はジル・パケ=ブランネール。 祖父も強制収容所に送られた人。
▼負の遺産をこころに留めることは市民の責務であり教養である。 ドイツの謝罪しかり。また先住民に対するオーストラリア、ニュージーランド、カナダの首相の謝罪。 政治指導者の謝罪から共存のプロセスがはじまる。(2020.10.5)

ドイツの謝罪
2020.1.25朝日新聞朝刊

▼左の記事。ドイツのシュタインマイヤー大統領の演説。
「加害者はドイツ人だった。ユダヤ人600万人の産業的大量殺人という、人間の歴史で最悪の犯罪は我が国の人々によって行われた。 私は歴史的な罪の重荷を背負ってここに立っている。」
▼このような演説で日本の首相も南北朝鮮、中国、フィリピン等アジアの国々に具体的に謝罪すべきである。 (2020.2.11)






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2018年 4月27日 板門店宣言
               2018年5月9日「民団新聞」板門店宣言全文

▼左の写真と以下の文書は「民団新聞」からです。
大韓民国の文在寅大統領と朝鮮民主主義人民共和国の金正恩国務委員長は平和と繁栄、統一を念願する全民族一致した思 いを込め、韓半島で歴史的な転換が起こっている意義深い時期に、2018年4月27日、板門店平和の家で南北首脳会談を行った。
両首脳は、韓半島にこれ以上戦争はなく、新しい平和の時代が開かれたことを8000万のわが民族と全世界に厳粛に宣明した。
両首脳は冷戦の産物である長い間の分断と対決を一日も早く終息させ、民族の和解と平和繁栄の新たな時代を果敢に開いていき、 南北関係をより積極的に改善し発展させていかなければならないという確固たる意志を込め、歴史の地、板門店で次のように宣言した。

1南北は、南北関係の全面的、画期的な改善と発展を成し遂げることにより、断たれた民族の血脈をつなぎ、 共同繁栄と自主統一の未来を引き寄せていく。
南北関係を改善し発展させることは、全民族の一致した望みであり、これ以上先送りできない時代の切迫した要求だ。
 (1)南北は、わが民族の運命はわれわれ自ら決定するという民族自主の原則を確認し、既に採択された南北宣言 とあらゆる合意を徹底して履行することにより、関係改善と発展の転換的局面を切り開いていくことにした。
 (2)南北は、高官級会談をはじめとした各分野の対話と交渉を近く開催し、首脳会談で合意された問題を実践す るための積極的な対策を立てていくことにした。
 (3)南北は、当局間協議を緊密に行い、民間交流と協力を円満に保障するため、双方の当局者が常駐する南北共 同連絡事務所を開城地域に設置することにした。
 (4)南北は、民族の和解と団結の雰囲気を高めていくため、各界各層の多方面の協力と交流、往来と接触を活性 化させることにした。
  今後は(2000年の南北共同宣言が発表された)6月15日をはじめ、南北ともに意義がある日を契機にして、 当局と国会、政党、地方自治体、民間団体など、各界各層が参加する民族共同行事を積極的に推進し、 和解と協力の雰囲気を高め、外では18年アジア大会をはじめとした国際競技に共同で出場し、民族の技術と才能、 団結した姿を全世界に誇示することにした。(▼世界卓球準決勝での南北合同チームでさっそく示された
 (5)南北は、民族分断により発生した人道問題を至急解決するために努力し、南北赤十字会談を開催し、離散家 族・親戚再会をはじめとしたさまざまな問題を協議、解決していくことにした。
 当面、来る8月15日を契機に離散家族・親戚再会の事業を行うことにした。
 (6)南北は、民族経済の均衡の取れた発展と共同繁栄を成し遂げるため、10・4宣言(07年の南北平和宣言) で合意された事業を積極的に推進していき、一次的に東海線ならびに京義線の鉄道と道路を連結し現代化して活 用するための実践的な対策を取っていくことにした。

2 南北は、韓半島で先鋭化した軍事的緊張状態を緩和し、戦争の危険を実質的に解消するため、共同で努力していく。
 (1)南北は、陸上と海上、空中をはじめとしたあらゆる空間で軍事的緊張と衝突の根源となる相手に対する 一切の敵対行為を全面的に中止することにした。
 当面、5月1日から軍事境界線一帯で拡声器放送とビラ散布をはじめとしたあらゆる敵対行為を中止し、その 手段を撤廃し、今後非武装地帯を実質的な平和地帯にしていくことにした。
 (2)南北は、黄海の北方限界線(NLL)一帯を平和水域にし、偶発的な軍事的衝突を防止し安全な漁業活動を 保障するための実質的な対策を立てていくことにした。
 (3)南北は、相互協力と交流、往来と接触が活性化されるのに伴うさまざまな軍事的保障対策を取ることにした。
 南北は、双方の間に提起される軍事的問題を遅滞なく協議、解決するために、国防相会談をはじめとした 軍事当局者会談を頻繁に開催し、5月中にまず将官級軍事会談を開くことにした。

3 南北は、韓半島の恒久的で強固な平和体制構築のために、積極的に協力していく。韓半島で不正常な現在の休戦状態を終息させ、 確固たる平和体制を樹立することは、これ以上先送りできない歴史的課題だ。
 (1)南北は、いかなる形態の武力も互いに使用しないことについての不可侵合意を再確認し、厳格に順守していくことにした。
 (2)南北は、軍事的緊張が解消され、互いの軍事的信頼が実質的に構築されるのに伴い、段階的に軍縮を実現していくことにした。
 (3)南北は、休戦協定締結65年となる今年中に終戦を宣言し、休戦協定を平和協定に転換し、恒久的で強固な平 和体制構築のための、南北米3者、または南北米中4者の会談開催を積極的に推進していくことにした。
 (4)南北は、完全な非核化を通じて核のない韓半島を実現するという共通の目標を確認した。
 南北は、北側が取っている主動的な措置が韓半島非核化のため非常に意義があり重大な措置であるということ で認識を共にし、今後、それぞれが自らの責任と役割を果たすことにした。
 南北は、韓半島非核化に向けた国際社会の支持と協力(獲得)のため、積極的に努力することにした。

両首脳は、定期的な会談と直通電話を通じて民族の重大事を随時、真摯に議論し、信頼を固め、南北関係の持 続的な発展と韓半島の平和と繁栄、統一に向けた良い流れをさらに拡大させていくために、共に努力することにした。
当面、文在寅大統領は今秋平壌を訪問することにした。

 2018年4月27日 板門店
    大韓民国大統領 文在寅        朝鮮民主主義人民共和国国務委員長 金正恩    



                 
▼このページの最後に「在日コリアンの人権白書」から 在日コリアンの人たちが未だに抱えている課題を紹介します。

1、公立学校の教員採用問題
2、元BC級戦犯の戦後補償問題
3、地方参政権問題
4、従軍「慰安婦」問題
5、サハリン問題
6、在韓被爆者問題
7、歴史教科書問題
8、ヘイトスピーチ、ヘイトクライム
9、国籍問題
と9項目あります。

1、公立学校の教員採用問題とは。
「広義の参政権とも言われる公務員の任用問題」で、 「在日コリアンは公立小中高校の常勤講師にはなれても教諭にはなれない」のです。(93頁〜94頁)

2、元BC級戦犯の戦後補償問題とは。
まず元BC級戦犯は「日本の戦争犯罪を裁く連合国による軍事裁判のなかで、通例の戦争犯罪などで
   2020.6.29朝日新聞朝刊
元BC級戦犯95歳の李鶴来(イハンネ)さん 「日本は、都合のよいときだけ私たちを日本人として扱い、酷使した。戦争に負ければ、日本国籍がないと知らん顔。あまりにも無責任だ」(2020.7.10)

有罪となった人たちのことです。」「韓半島出身者では148名の軍人・軍属が死刑を含む有罪判決を受けたのです。」元を質せば日本の責任です。サンフランシスコ平和条約後、 「韓半島出身者は日本国籍を剥奪され、日本では旧軍人軍属としての補償を得られず、韓国では日本軍に協力した民族の裏切り者との烙印を押され」苦難の戦後を過ごしてこられました。 2006年になって韓国では「朝鮮人戦犯をふくめ捕虜監視員軍属も強制動員被害者であることを認定し韓国での名誉回復が実現しました。」しかし、 在日の元BC級戦犯者への戦後補償の問題はいまだ解決されていません。(97頁〜100頁)

3、地方参政権問題とは。
「1995年の最高裁判決は、永住者等の外国人に地方公共団体の選挙権を付与することは 憲法上禁止されているものでない」と判示しています。この「地方参政権の獲得運動によって、在日コリアンがそのエスニシティ(民族性)を維持しながら、 日本社会の市民として政治参加を求めていくことの必要性と可能性が見いだされた」(101頁〜102頁)との見解が示されています。
▼今回、在日コリアンの勉強をしてきて、この人たちの納得できる将来の方向が奈辺にあるのか見えなかっただけに、 この見解に出会ったとき、正直ほっとしました。 もちろん時間はかかると思いますが方向が見えただけでも一筋の光が見えたように思いました。逆にわれわれ日本社会の在り方に問題が返されてきました。 しっかりと受け止めたいと思います。

4、従軍「慰安婦」問題
    2020.1.6解放新聞
「咲ききれなかった花」は、17歳で日本軍「慰安婦」 とされ、犠牲を強いられ続けた故・金順徳(キムスンドク)さんの作品。金さんは1921年生まれ。2004年6月30日死去。 日本軍「慰安婦」の実態を訴え続けた。

改めて、従軍「慰安婦」の定義から。「従軍「慰安婦」とは、1932年から (第一次上海事変)から1945年の日本の敗戦までの間に、日本、朝鮮、台湾など日本の植民地、中国やフィリピン、インドネシアなど 日本の占領地から集められ、日本軍が設置・管理・運営していた施設である「慰安所」で日本軍の軍人の性行為の相手を強制された 女性たちのことです。そこには未成年者もいました。」(103頁)
▼未成年者にショックを受けました。
「慰安婦とされた女性たちには、日本人、朝鮮人、台湾人、中国人、フィリピン人、インドネシア人、オランダ人、 ベトナム人、マレー人、タイ人、ビルマ人など多くの国の女性がいました。」(103頁)
▼衝撃が走りました。単に韓国だけで取り上げられている問題ではないことを知りました。
▼右解放新聞。金順徳(キムスンドク)さん、このような絵を残さざるを得なかった83年間の人生を想うとこころが痛みます。(2020.7.7)
▼下の切り抜き日本軍慰安所マップを 是非、クリックしてご覧になってください。本当に衝撃が走ります。私は既に2018.6.9に「在日コリアン人権白書」を読んでいます。
その後、関連記事をこうして追加しています。右の解放新聞もそうです。(2020.1.21)

2019.12.25朝日新聞朝刊
慰安所の所在地

「日本政府は1993年、日本軍の関与と強制性を認める「河野談話」を発表しました。」 (105頁)
河野談話の全文を年表の1993年の箇所に掲載してあります。
「2015年12月に韓日外相による「韓日慰安婦合意」が発表されましたが、2017年5月出帆した文在寅(ムンジェイン)政権は「公式な合意だったことは否定できない」としたものの、改めて日本の謝罪を促し行先きが不透明になっています。」(106頁)
▼これが韓国側の当事者の深く傷ついた人たちの心情だと思います。 日本政府はこの人道問題にきっちり向き合うべきです。
▼従軍慰安婦の問題を、「日韓の対立を超えた「女性の人権問題」という普遍的視座で議論することが必要である」との意見に出会って目が覚めました。 まことにそうですね。(月刊むすぶロシナンテ社。20.5号)(2020.8.5)
     2020.1.24朝日新聞朝刊 朝鮮半島で生まれて旧日本軍の慰安婦にされ、戦後日本で暮らした故・宋神道 さんの足跡を紹介する写真展。宗さんは2017年に95歳で亡くな
った。


5、サハリン問題。 
▼たぶん大多数の日本人にとって何だろう、というのが初印象でしょう。私も含めて。 問題が複雑なので未解決の問題として残っている、と認識しておきたい。

6、在韓被爆者問題。
「被爆後韓国に帰国した在韓被爆者は被爆者援護法の援護を受けることができませんでした。 裁判闘争を経て2003年、在韓被爆者は韓国でも治療を受けることができるようになりました。 在韓被爆者の子供ら二世に対する医療費助成の問題など未解決の問題が残されています。」(109頁〜112頁)

7、歴史教科書問題。
▼112頁〜116頁にこの問題の経緯と何が問題なのかが次のように要約されています。

「検定を通過した1982年高校の日本史教科書が日本と韓国、中国の間で外交問題となりました。」
「アジア諸国に対する日本の侵略と加害行為を省略したり、書いても「侵略」を「進出」と書き換えたりしたことが非難されたのでした。」
「日本政府は「近隣諸国条項」を教科書検定の中に追加することを約束して、対日批判の鎮静化を図りました。」
2020.3.29朝日新聞朝刊 我々はこういう問題も積み残しているのです。紹介します。
戦後の混乱で無国籍状態となっていたフィリピン残留2世の日本国籍取得を広島高裁が認めた話。 「残留2世は、戦前フィリピンに渡った日本人男性と現地女性の間に生まれた人たち。敗戦後に現地に残され、父と死別・離婚するなどして日本 国籍が得られないまま生きてきた。今も千人ほどが無国籍のままで、日本国籍を求めている。」(2020.5.22)

「近隣諸国条項」とは、「我が国(日本)の行為が韓国、中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、 このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意」を表明した上で、 教科書検定においては「アジア諸国との間の近現代史の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮をする、としたいわば「公約」でした。」

▼年表を見ると教科書問題が起きた1982年は日本の一つの転換期になっています。 この問題と同時に防衛費のGNP比1%以内の政府方針が崩れます。 また第一次中曽根内閣の成立し、国鉄の分割民営化を進めていくことになります。その後日本の労働運動は急速に力をなくしました。

「1996年に新しい歴史教科書をつくる会発足。「近隣諸国条項」を自虐的だと非難し、2001年、扶桑社から『新しい歴史教科書』出版。 採択率0.0039%(521冊)その後扶桑社撤退。 その流れをくむ育鵬社版は2017年現在6.3%(約7万3000冊)。この中には、横浜市の全公立中学校146校、 大阪市の全公立中学校130校を始めとした公立中学校約550校が含まれています。 「近隣諸国条項」と村山談話(1995年)は、日本とアジア諸国との歴史認識を語る上で重要なキーワードです。 日本の近現代史と在日コリアンの歴史を正しく語り継ぐためにも、望ましい歴史教科書の発刊と採択が望まれているのです。」

▼真摯な反省が自虐的?上記の「近隣諸国条項」のどこが自虐的というのか。日本の近現代史は、どれだけ正しく在日コリアンの歴史を認識するかにかかっているといっても 過言ではないと、在日コリアンの歴史を勉強してみて感じています。

8、ヘイトスピーチ、ヘイトクライム。
「2016年6月3日「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」が成立しました。
この法律にはヘイトスピーチの禁止条項の不在、対象者が本邦外出身者に限定されているなど、不十分さもありますが、 ヘイトスピーチ根絶への貴重な一歩ととらえ、最終的には罰則規定を持つ基本法としての「包括的人種差別撤廃法」 (仮称)の成立を目指してゆくべきです。」(124頁〜125頁)
▼私の疑問もなぜ本邦外出身者と限定されているのかです。
ヘイトスピーチ禁止の対象は本邦外出身者というだけでなく、現に日本社会で差別の対象となっている人種、 皮膚の色、世系もしくは社会的身分、民族的、種族的出身も対象としなければならないのではないかと思います。


▼下の切り抜きは2018年5月9日の「民団新聞」です。注目すべき記事です。 この記事を要約します。
京都地検は在日特権を許さない市民の会(在特会)の元京都支部長・西村斉(49)を在宅起訴していたことが分かった。 西村は昨年(2017年)4月23日、元京都朝鮮第一初級学校跡近くの公園で 「日本人を拉致するような学校はたたき出さなければなりません」などと繰り返し、その様子を動画投稿サイトなどで流した。 学校法人京都朝鮮学園が昨年6月に告訴し、府警が名誉棄損の疑いで書類送検した。
西村被告らは2009年12月にも同学園前で「朝鮮学校を日本からたたき出せ」などと拡声器で叫び、 授業を妨害したとして威力業務妨害などで起訴され、2011年4月に京都地裁で執行猶予つきの有罪判決を受けた。 同事件をめぐる民事訴訟では2014年12月、在特会側に1200万円の賠償と街頭活動の差し止めを命じる判決が確定した。
▼ここまでは記者の解説。
この問題に対し師岡康子弁護士は次のように投稿されている。

「2016年6月3日にヘイトスピーチ解消法が施行され、同日警察庁が都道府県警察の長に対し、ヘイトスピーチについて 「違法行為を認知した際には厳正に対処するなどにより、 不当な差別的言動の解消に向けた取組に寄与されたい」との通達が出されたことも後押ししたと思われる。 侮辱罪ではなく名誉棄損罪として検察が起訴したことの意義は大きい(名誉棄損罪は「3年以下の懲役若しくは禁固叉は50万円以下の罰金」、 侮辱罪は「勾留(30日未満の拘置)又は科料(1万円未満)」)。 今回の事件においては、裁判所が人種差別撤廃条約及びヘイトスピーチ解消法を踏まえ、 ヘイトスピーチであることを量刑事情として勘案し、重く罰するかどうかが注目される。」
▼ヘイトスピーチ解消法が施行されて、約1年後の事件である。告訴は事件直後になされている。 その告訴から1年後に今回の名誉棄損罪での起訴が明らかになった。この間、検察も世論の動向を見極めていたことが推察される。 京都地裁がどう受けて立つか、期待大。
この結果は2019.12.13朝日新聞社説へ飛んでください。


9、国籍問題。
▼正直、私の問題意識にはありませんんでした。在日外国人が日本の国籍法でどういう悩みを抱え込むのか、 問題を共有したいと思います。
国籍法には二つの考えがあるようです。一つは「血統主義」、赤ちゃんの父母の国籍を重視します。 もう一つは「生地主義」、自国で生まれた赤ちゃんには父母の国籍に関係なく自国の国籍を認めます。
▼日本、韓国とも従来の父系血統主義から父母両系血統主義に日本は1985年から、韓国は1998年から変わったようです。 知りませんでした。
「人権白書」132頁〜133頁に国籍法による在日の苦悩が解説されています。

「1985年以降も父(在日)母(日本人)により生まれる子は、 一般的に母の姓を名乗り、母の戸籍に入る日本人です。日本はだいたい家族同性です。在日の父は、国籍を変え(帰化)、性も新たに選び、 民族のイニシエーション(ある集団や社会で、正式な成員として承認されること)は棄て日本人の家族を選びます。若い適齢期の在日が、その結婚の喜びから、苦悩を強いられることは続いています。 1985年以降次の世代が生まれていますが、いわゆる在日は激減しています。」 「「帰化」する際に民族名を捨てることを日本政府は戦後長く求めていました。韓国・朝鮮人の方でも、 「帰化」をした同胞を裏切り者のようにみるところがありました。日本政府・日本人の側でも、韓国・朝鮮人の側でも、日本国籍を「日本民族の象徴」のように捉えてきたのです。 日本国籍者の中にはたとえば宗教的に、性的(志向)に多様な人がいるように、人種的、民族的に多様な人がいるのだ、 ということがもっと世の中に共有されていく必要があると思います。」
▼この最後を読み、無意識のうちに私も国籍=民族、の呪縛にかかっていたように思いました。国籍と民族を分離し、 国籍を機能的に考える必要と同時に、市民社会の成熟度の足りなさを感じます。

 おわりに。
「在日コリアンの人権白書」のおわりに、 は深く考え抜かれた文章であり、見解でした。 日本人として是非ともこころして受け止めるべき内容だと思います。そのまま引用いたします。

「日本人も韓国に住む韓国人も、在日コリアンを見ると、アイデンティティ・クライシスを抱くという論があります。それはいずれの要素をも 幾分かずつ併有する在日コリアンを見ることで、確固たるものであるはずの、 疑いを入れないはずの民族という観念の自存性が揺らぐからでしょう。
それは逆に、在日コリアンが、日本人にとっても韓国の韓国人にとっても、自らが他者に媒介されて在る、可変的な存在であることを気づかせる可能性 をもっているからだといえます。
隣人である他者なくして自存しているかのような双方の錯覚が解かれ、国籍や文化、エスニシティ(民族性)の複合と重層を許容する、そうした変化の価値を 知らせる存在へと在日コリアンもまた変化していくこと、その変化を通じて在日コリアンは、双方の民族とともに、消え去らずに生きうる展望を持つ のではないかと考えます。」(138頁)

▼ 素晴らしいです。在日コリアンの存在が宝石のように見えてきました。
在日の人々にとっては民族の誇りが、日本人にとっては、在日の人たちとの共同の生活と文化を 作り上げることによって、とりもなおさず日本人が 「エスニシティの複合と重層を許容する」 ことによって、 日本社会が多彩で多様な生活様式と文化をもつ社会に発展していけるのだ、と李宇海(イウヘ)さんの文章を読んで気づき、感動しました。
これは苦悩の末に李宇海さんがたどり着かれた結論だとおもいます。 作家の柳美里(ユウミリ)さんの表現を借りますと「絶望をすり抜ける小道」だとおもいました。 この一か月余り在日コリアンの勉強をしてきましたが、最後にここまでたどり着けて大変うれしくおもい、感謝しています。(2018年6月9日)


▼2019.8.11朝日新聞朝刊「折々のことば」で柳美里さんの次のことばに出会いました。
「わたしは、排除する側でなく、排除される側で良かったと心底 思います。」

私が今取り上げているマイノリティーの人たちの共通の心情だろうと思います。 胸を張って誇りをもって次の時代を切り開いて行っていただきたいと心底思います。(2019.8.24)

▼2019.10.11朝日新聞朝刊「隣人」小説家平野啓一郎さん(44)インタビュー記事。この人のような感覚が大事だとおもう。引用します。
「韓国の問題になると、メディアは無責任に反感をあおり、嫌悪感や敵意を垂れ流しにしています。元徴用工問題の韓国大法院判決文も読まないような 出演者にコメントさせてはいけない。みんなまず、あの判決文 http://justice.skr.jp/koreajudgements/12-5.pdfを読むべきですよ。日本語訳で四十数ページ。」
「いきなり国家利益の代弁者になって考えるのではなく、まず一人の人間として彼らの境遇を思うことが大切です。」「属性によって人を判断するのではなく、一人の人間を見るべきです。 そして、一人の人間の中にも、複数の属性が複雑に共存している。ノーベル経済学賞を受けたアマルティア・センが『アイデンティティと暴力』で、 個人のアイデンティテーを一つに特定することが一番悪いといっています。複雑さを認め合い、どこかの接点から関係を築いていくことが重要です。 カテゴリーぬきに相手の人生を見れば、共感できるところはいくつもあるはずです。」

▼おわりに、で辿り着いた思考を平野さんが実践されていることを知ってうれしくおもいました。 このような感性の日本人が増えていくことを切に願っています。
▼アマルティア・センさんの指摘はまさしく差別の思想の核心を突いています。差別は黒人、ユダヤ、朝鮮、部落等々と一つの 属性でしか人を見られないところから生まれます。これは被差別者の実感だとおもいます。 (2019.10.13)

▼先日7時間かけて上記映画を見ました。勉強になりました。金聖雄監督の作品は以前「SAYAMA」を見 ていましたのでその雰囲気で 「花はんめ」も撮っておられて落ち着きますね。変に肩に力が入らなくて。 「在日」歴史篇、人物篇。呉徳洙監督すごい作品を残されたのだな、と敬服しました。在日コリアンの勉強をしている者には必見ですね。 キム・フィルムさん、こんなすごい映画会をよく企画してくださって感謝しています。会場で販売されていた映画「戦後在日五〇年史」 製作委員会発行の冊子「過去と 未来をつなぐ在日の思い」もすばらしいです。
呉監督インタビューから少しご紹介させていただきます。

「日帝36年を含めると、在日朝鮮人の歴史は百年近くにもなるし、生活実態としてはもうほとんど『日本人』なんだね。稚内から西表島まで、日本国中 の市町村に在日がいない地域はほとんどゼロだと思う。日本全国に在日がいろいろな思いを持ちながら脈々と生きているわけで、そういう人たちの 声を少しでもくみとれないか、在日が日本各地で生きている姿、実態を映画に入れていきたかったんだが、こころざし半ばというところかな。」
▼私のこのHPの作成目的がマイノリティーの当事者の声を日本社会に届けることにありますので、 呉監督の意図ともピッタリでした。
「戦前から現在まで日本に住み続けている人たちは、非常に雑駁にいえば、日本に行けば仕事があるといって渡航してきた、 いわゆる「出稼ぎ組」で、38度線以南を故郷に持つ人たちなんだ。38度線以北の人たちは中国に行ったんだね、地理的な条件で。戦後日本に 残った在日の多くは大正から昭和初期に渡航し、苦労しながらも、戦争が終わった時には日本に生活の根っこができてしまっていた人たちなんだ。 そういう事実や歴史を、在日ですら教育の場できっちり知らされていないんだから、ましてや日本の子供たちが知らされるわけがないよね。」
▼在日の多くが38度線以南を故郷に持つ人たちと初めてはっきり知りました。

「日本が朝鮮と台湾を植民地支配していた当時、帝国大学は東京、京都をはじめ台北と京城など全部で九つの帝大があって、 戦前は甲子園野球に京城中学 や平壌中学も代表を出してきていた。だから本当に深い関係にあった。」
▼恥ずかしながらここまでは知りませんでした。

「在日のこの50年は、日本という国と社会、日本人、韓国と共和国との政治的なやり取り、それらの狭間で、 良かれ悪しかれ翻弄されてきた50年だったと思う。」 「1948年4月24日に「阪神教育闘争」があったが、それをGHQはなぜ弾圧したのか。45年の敗戦から52年の日本の独立までの7年間で、戒厳令が 発令されたのはその時一度きり。47年の「2.1ゼネスト」ですら、GHQは非常事態宣言を出していない。だってマッカーサーのひと言で ゼネストを中止するんだもの、出す必要がない。ところが朝鮮人はそうはいかない。GHQは完全に「小さな革命」をおそれたわけ。 だから第八軍司令官のアイケルバーガー中将を、直接神戸に乗り込ませた。そして伝家の宝刀を抜いて非常事態宣言を発令した。すごいことだ。 朝連時代には、それほど朝鮮人にはエネルギーがあったわけだな。
それと、これにはもう一つ背景があって、この「阪神教育闘争」の20日前に済州島で「4.3蜂起」があった。李承晩(イスンマン)の単独選挙案 に反対して蜂起した民衆を、米軍・李承晩軍が徹底的に叩きつぶしたんだ。そして1948年5月10日、つまり「阪神教育闘争」から20日後、南だけの 単独選挙が行われる。要するに米国は、朝鮮における情勢と日本における情勢を俯瞰図で見ているわけ。そういう全体的なとらえ方をしないで、 「民族教育弾圧は許せない」の一点だけでは、戦後史の本質が見えなくなってしまうと思う。」
▼卓見!以前「阪神教育闘争」を勉強したとき、激しい戦いだったんだな、 としか考えが及びませんでした。呉監督のこの見解に触れて腑に落ちました。(2019.4.20)

「朝連は翌1949年、団体等規制令で解散させられ、その後民戦という形で復活するが、この48年から52年の動きは非常に興味深いものがある。 1952年4月28日に外国人登録法が施行去れ指紋制度が導入される。つまり日本国が独立することによって、一方的に外国人にさせられた。サンフランシスコ 講和条約で日本が独立することによって、それまで帰属する国が日本だった在日朝鮮人は、4月18日はじめて法的に日本から離脱するわけだ。 そして2日後の4月30日、36万人の軍人・軍属が外国籍になったため、援護法の対象外になってしまう。これが今の戦後補償問題にもつながっている。
さらに3日後の5月1日、「第23回メーデー(血のメーデー)」朝鮮人の参加者は5千人とも1万人ともいわれているが、「朝鮮人が暴動を起こした」とデマ が、日本国中に流布されたよね。ではなぜ朝鮮人がメーデーに参加したのか。まさに日本の民主化、反米、反吉田、反再軍備が闘争テーマだった。
その後に、一連の朝鮮戦争反対闘争である「吹田事件」「新宿事件」「大須事件」と続き、7月に破壊活動防止法が成立する。全部在日朝鮮人が からんでいる。当時の日本共産党と民戦との共同闘争に対する弾圧のためにできた破壊活動防止法を、50年後の今はオウムにあてはめようとしている。 お笑いだね。」
▼またしても暴動のデマ。関東大震災のデマを日本人は学んでいないのだ。2度あることは3度あるという。 権力の危機の時の拠りどころとなるデマに気を付けること。

「70年代、当時在日のなかから「政治犯」と呼ばれる人たちがバンバン捕まった。統一することによって在日のありようが解決するんだ、 というふうに燃えられた70年代だったと思う。ただ、「祖国」を思い、統一を願う当時の純真な青年たちの背中を必要以上に押した在日の 作家や日本のいわゆる進歩的文化人(?)たちは大いに問題があったとおもうけどね。」
▼このことは後に出て来ます呉文子さんも経験しておられます。

「僕たちはよく在日の問題というけれど、実は日本の国内問題なんだよ。80年代は指紋に始まり指紋に終わったが、90年代に入ると 国籍条項撤廃や地方参政権など政治参加、権利獲得の問題がボンボン出てくる。この地で生まれ落ちて、成人になっても選挙権がない。 これだけ多くの人々が法的にアウトローの状態で放置されたままというのは、在日の問題じゃなくて、日本社会の問題だと思うんだよ。」
▼全く同感です。日本人として在日の人たちの地方参政権の問題の取り組みを呉文子さんと 始めているところです。(2019.4.21)

「日本は単一民族でもないのに、単一民族志向をやっている。日本の価値観のなかで鋳型にはめて、受け入れるか受け入れないか。福は内、鬼は外だね。 また「葦簾(よしず)文化」といって、外からは見えにくいんだけど、内からはよく見えるわけよ。そういう文化でずっとやってきたのが日本の根本的な 体質なんだ。
日本人と在日、お互い許容しあえばいいわけ。ところが朝鮮人はとてもプライドが高い。絶対服さない。日本人よりも我々が上、だという意識がある。 一方、日本人には排外と差別意識がある。その相克のなかで、在日が生きている。」
▼日本人の特質、それに朝鮮民族の気概、在日の人たちの苦悩を的確に教えていただいた気がします。 感謝。

「僕は今、在日の問題、在日の問題っていっているけれど、「在日の問題」って一体どういうことなのか。今回は在日を登場させて描いているけど、 究極の問題はそんなところにあるわけじゃない。話は観念的・抽象的になるけど、人間の一生、どういう生き方がいいのか、そんなところが大事 なんじゃないかなって気がする。
▼この境地に達しないとこの映画は作れなかったと思います。映画「在日」の助監督であった金聖雄さんがその後 撮られた「花はんめ」「SAYAMA」は人間の一生が淡々と描かれているように感じています。無理のない感動を見る人に呼びおこします。

「映画づくりに取り組んできたこの2年間を振り返ってみて思うんだが、僕なりに中間総括として、「在日はこうなんじゃないか」ということを暗示 できるような、そういう作品になり得れば、それで十分だと思っている。」 ▼在日の古典だと思いました。金聖雄さんにしっかりと引き継がれていると思いました。(2019.4.22)

[マッカーサー草案(GHQ草案)] 第十三条 一切ノ自然人ハ法律上平等ナリ政治的、経済的又ハ社会的関係ニ於テ人種、信条、性別、 社会的身分、階級又ハ国籍起源ノ如何ニ依リ如何ナル差別的待遇モ許容又ハ黙認セラルルコト無カルヘシ
          
▼昨年(2018年)の秋、呉文子(オ ムンジャ)さんに出会いました。年が明けて3月9日、調布市文化会館たづくりで 「ムルレの会」主催の公開講座があると聞いて 出掛けました。そのとき呉さんの講演内容です。因みに呉さんは在日2世です。
       私の歩みを通して―地域住民として生きる意味             呉文子
昨年の11月だったと思うのですが、ムルレの会のメンバーに呼び出され、後数回の公開講座をもって会を閉じるということを聞きました。 最初は驚きましたが、40年間よくぞ会を引っ張ってこられ、会の使命は充分に果たしてこられたのではないかとむしろねぎらう気持ちに代わりました。

発足当時は、まだ在日社会が二分化されていて、民族差別問題よりも祖国の統一を大優先にしていたころで北系だ南系だとイデオロギー論争華やかなりし頃でした。 まだ国際結婚や帰化者にたいしては差別があり、村八分にしていた頃でした。あの頃からすると在日を取り巻く社会状況もずいぶん変わってまいりました。国際結婚が当たり前、1年に1万人が帰化しているのが現状ですから。 ムルレの会発足(1979年9月)には、当時神奈川大学の梶村秀樹先生の呼び掛けで、 作家の金達寿先生・歴史家の朴慶植先生(朝鮮人強制連行の記録)と共に古代史の李進煕(夫)もかかわってまいりました。 最初の公開講座はたしか「朝鮮通信使」の映画と「朝鮮文化と日本」という演題で夫が話したと思います。 発足当時から熱心に活動された坂内さんや、倉橋さん、 後に参加された大久保さんたちも若く使命感に燃えて活動されていた頃が今も懐かしく思い出されます。

本日のテーマが、「私の歩みを通して、地域住民として生きることの意味」となっています。 私がこの調布に越してまいりましたのはムルレが発足する3年前の1976年ですので今年の4月で、43年になります。 私の記憶が間違っていなければ、共生をキーワードに「地域住民として生きる」というテーマで 公開講座がひらかれたことはかつてなかったのではないかと思います。それも私のような一主婦をスピーカーとして招いてです。 そういう意味でも時代の移り変わりを感じてなりません。

本題に入る前にこの街に越してくる前はどうだったのかについて簡単に話したいと思います。 越してくるまで私は、社会主義の勝利は歴史発展の法則と信じていた在日のコミュニティの中でのみ生きていました。 結婚した翌年に帰国第一船が新潟から北に向かって出航するのですが、帰国事業が進む中で、 いろいろと北の社会主義制度、その社会の現実に矛盾を感ずるようになり拠って生きていたそこと訣別してこの街に越してきました。

少し詳しく話しますと、帰国第一船が出た翌年の1960年に、父が朝鮮解放15周年祝賀使節団として北に招かれます。参議院議員の安部君子団長や、『38度線の北』を書かれベストセラーとなった寺尾五郎氏たちと約1か月北の施政を視察したのです。寺尾さんの書かれた『38度線の北』は当時北に帰った青年たちの大多数がこの本を読んで幻想を抱いて帰国しました。 当時父は総連中央や岡山県本部商工会の理事長などの要職についていましたので、岡山県から帰国した友人達が祖国 の温かい懐に抱かれ幸せな生活をしているだろうと思っていました。
しかし岡山から帰国した友人たちに面会も許されないばかりか、ホテルの近くの大同江の散歩も自由に許されない閉鎖社会だったそうです。 ある日の清津(チョンジン)に向かう列車の中で寺尾五郎氏が若い帰国青年たちに囲まれ、 「あなたの本を読んで帰国したのにあなたの書いていることと全く逆ではないか! 一生を棒に振った僕たちをどうしてくれる」 と詰め寄られる場面を目撃します。

そんなことなどから、日本に戻って「もしこの事実に目を覆い従来通りの北朝鮮礼賛、帰国促進を続けていけば、 恐るべき人道上の誤りを冒す恐れがある」と父は訴え続けました。
2019.12.14朝日新聞朝刊 「北朝鮮に残る帰還者やその家族は、いまだに日本との往来の自由がない。」
▼政治に翻弄された人生気の毒に思う。(2020.5.31)

しかし熱病に罹ったように北へ北へと帰っていた頃ですから、 父の提言は帰国事業に水を差すことになりとり上げられないばかりか、父を反動呼ばわりしてしまい孤立させてしまうのです。 しかもマスコミは当時、「朝日」から「産経」に至るまで、北を讃えていたころでしたから。
ついに父は1962年『楽園の夢破れて/北朝鮮の真相』と、1963年に『真っ二つの祖国/続・楽園の夢破れて』を出版することになり 真相を告発していくことになります。その後河出書房新書から、一冊の本にまとめて書名が『1960年』として復刻本が出ます。
その後私たちと父は敵対関係になり、10年間という長い間断絶を余儀なくさせられました。
▼そのいきさつは下記の朝日新聞の記事が詳しいです。
   2019.12.21朝日新聞朝刊
「お前が朝鮮に行くというなら私は今ここで割腹自殺すると、父は受話器の向こうで絶叫しました」 在日朝鮮人やその日本人家族らの帰国事業が本格化して60年。11月13日、都内で開かれたシンポジウムで、 エッセイストの呉文子(オムンジャ)さん(82)が、父親の故関貴星(呉貴星〈オグィソン〉)さんとのやり取りを明かした。
私は夫と父の狭間で苦しい10年間を送ったのです。
ついに夫も目が覚めたというか、71年に自分の生き方に照らして北朝鮮の政治体制のあり方に追随できなくなって、そこと訣別します。
ですから私が地域住民として生きたのは、その後この街に越してきてからの43年ということになります。調布での43年間の歩みということになります。 皆さんは在日という存在、もしくはその言葉について考えたことがございますか ? 私は漠然と日本に在住する在日韓国・朝鮮人の総称として「在日」という風に考えていました。しかし昨年のことですが『在日二世の記憶』 (集英社新書) という本に出合いました。
※『在日二世の記憶』は、アイデンティティをめぐる困難な問いに翻弄されながらも逞しく生き抜いてきた 50人のライフヒストリーとなっています(各分野のパイオニアとして)。
その中で、在日の存在についての新たな定義として次のように書かれています。
在日という存在を築いたのは二世であり、その歴史は日本社会の鏡であり、もう一つの日本史です。 一世は朝鮮人であって在日ではない。根っ子は故郷としての母国、彼らは帰ることができないまま結果として 日本に残ることになっただけ。一世は朝鮮人が日本に来たルーツの原点です。 そもそも在日という言葉が定着するようになったのは70代以降のこと、そういう意味においては二世という存在そのものが在日の原点であり、 歴史なのではないかということを考えるようになりました(高秀美)」(p722)「一世は植民地時代を何らかの形で引きずっているが、 二世はそれを継ぎつつ、新たな分野を開拓したパイオニアだ」と。
この定義を踏まえると、私は日本の岡山で生を享けて高校卒業まで岡山で過ごし、その後東京で教育を受け音大卒業と同時に結婚して 今日にいたっていますので、いわゆる在日の原点である「在日」二世です。在日の原点である私の歩みを振り返りながら、 いまに至るわたしの地域住民としての歩みを通して、私の立ち位置というか、在日する私の視座を述べてみたいと思います。

いま朝鮮半島が大きく変わろうとしています。死語となって久しい統一という言葉が夢ではなくわずかに現実味を帯びてきました。しかし、母国がどのように変わろうとも「在日」は、日本に生きざるを得ない日本の地域住民であります。母国の平和的な統一を念願しつつも、母国の事情によって「在日」が生きづらい社会になることだけは絶対に望みません。これは在日コリアンの多くの人たちの考えだと私は思っています。 私が地域に根差して生きることの意味を考えるようになったのは、私がそれまで拠って生きてきた組織と離れてこの街に越してきて、 今までの友人知人と距離を置き、孤独な毎日を過ごしていました。

そんなある日、市報に出会います。 調布の市報を頼りにいろんなサークルに係るようになっていきます。コーラス、お花、などCIRCLE荒らしをして、ついに女性課主催の調布の地域女性史を学ぶ中(当時折井美那子先生指導)で、聞き取り調査に参加したことが契機となり、地域の女性たちとネットワークができ、多くの学びがありました。そしてやはり女性課主催の文章教室講座が3日連続して開かれました。ライフの編集長・副編集長に文章のABCについて学びました。コラム・エッセイ・書評などなどについて。最後に投稿しなさいと言われたので、投稿したら掲載されました。うれしかったです。文章を書く楽しみを覚えました。その後自主講座を立ち上げました。 講師に中島力先生をお招きして文章の何たるかを学びました。奥様は女優の白石奈緒美さんです。 卒業作品は「悠─人間のいる風景」というタイトルで一冊にまとめました。読売新聞にも載り話題になりました。

丁度その頃朴鐘碩(パクチョンソク)青年の「日立就職差別事件」を知ることになになります。1970年、朴が日立に就職試験に応募の際、履歴書の氏名欄には本名ではなく常々名乗っていた日本名を記載し、本籍欄については、在日韓国人には日本に本籍がないので、父母の住所を記し提出して採用試験に合格しました。後に韓国人だと知り朴青年の採用内定取り消しをめぐる事件です。内定が取り消された朴青年は日立を相手に日本社会の民族差別の現実を厳しく問い闘ったのです。この運動は、既存の民族組織とは関係なく、同じ境遇の「在日」と、加害者として問題提起を受けとめようとする日本人が支援の輪を広げ、市民運動として社会に大きな波紋を呼び起こしました。時を同じくしてべ平連やウーマンリブといった新しいタイプの社会運動の流れの中で、この4年におよぶ裁判闘争は勝利したのです。 横浜地裁は「内鮮一体」等のスローガンの下に朝鮮人からその名前を、言語を、文化を、民族性をも奪(った。) このような事態は戦後においても異ならない。日本国家は、在日朝鮮人に対して、国籍選択の自由さえ奪い、一般外国人並みの処遇すら与えず、 無国籍者に等しい状態に放置し、義務のみあって権利を享受できないようにしてその生活を圧迫し、さまざまな差別と抑圧を加え続けてきている。」
朴の本籍に関しては、「在日朝鮮人は外国人であるから、日本国に本籍地がないのは当然である。(……)ともかく 日常的な有形無形の在日朝鮮人に対する差別は、氏名とともにその国籍、戸籍が判明した時に最も露骨にあらわれる。 日本社会の朝鮮人に対する差別が厳存する現実にあって、就職の際要求される「戸籍謄本」は、在日朝鮮人に対する差別の 武器として使われているのである。」として、朴の本籍の偽装を正当なものと判示されたのです。

この運動は「在日」の社会運動の転換期を迎える契機となり、市民・地域住民という言葉が在日の新しい主体性を表す言葉として登場した。 やがて「在日を生きる」というフレーズを目にすることが多くなり、在日が地域住民として街づくりに関わっていくことになります。
1970年以降、二世世代が在日社会の70%を超え、戦後世代が、就職、結婚、子育てと、生活者として地域社会の現実に向かい合わざるを得ないのです。 それまでは日本は仮寓の地、統一すれば帰国するのだというスタンスでしたから、民族差別について真剣に闘うということよりも、 イデオロギー論争に力がそそがれていたのです。

1980年代後半以降の日本への外国人労働者等の大量流入や韓国人ニューカマーの増加により、 在日社会および日本人の意識に大きな変化をもたらしてくるのですが。
その頃私も調布市女性課発行の広報紙『あたらしい風』の編集委員に推薦され、コラム「隣の国の女たち」を連載することになりました。私が「新しい風」に関わったのは、6号から14号までの9年間で、その間「隣の国の女たち」というコラム欄に、韓国の女性たちが置かれている差別状況などについて紹介しました。 特に6号は印象深く、いまも懐かしさをともなって思い起こされる。見開き2ページにわたり、 夫の故郷での祭祀(チェサ)を例に挙げながら、韓国の風俗や文化、慣習においても、 儒教的な男尊女卑思想が根強く残っていることなど写真を挿入して書いたのです。
あれから20年近く、韓国では民法が改正され、戸主制も廃止され、国籍法の改正により父母両系主義へと、 女性問題は大きく変貌を遂げた。それは、長い歴史的脈略のなかで憤懣や疑問を自己の生き方を問い直すバネにして、 古いものを追いやり、新しいものを呼び起こす女たちの粘り強い運動があったからです。
しかし、長い間に変貌を遂げた面と、百年一日の如く変らない面が共存しているのは、韓国も日本も同じなのかもしれません。 少子化やDV、ジェンダーフリーの問題など解決しなければならない問題が、未だ国境を越えて山積しているのですから。
あの当時「あたらしい風」では、在日コリアン女性については、いろいろと精神的な呪縛というか、 制約があり自由に言及できなかった。在日社会の分断と儒教的な価値観が根強い家庭風土のもとで、 女性問題と民族的課題を切り離すことができないというジレンマもあってのことですがが、大きな落し物をしたようでいまも悔いが残っています。
ともあれ、在日コリアンの私が、地域住民としての仲間意識が強くなったのは「あたらしい風に」に関わってからのこと。そこで私に課せられた命題が何であるかも発見でき、大きなターニングポイントになったのはたしかだろう。私にも、あたらしい風をもたらしてくれたのです。 こうしたことが契機となり,13期と14期の調布市町づくり市民会議諮問委員を務めることとなりました。  一方で、在日の若い女性たちが開いていた『韓国女性史』(梨花女子大学発行)の読書会にも参加した。 読書会はナイロビ世界女性会議の開催(1985年)を記念して通信を発行した。この巻頭言を飾ったのは山下英愛さんです。 私はこの会で若い女性たちと共に母国の女性史を学びながら、厳しい儒教の教えのなかで生きなければならなかった 先達たちの桎梏の歴史を初めて知りました。


『鳳仙花』の創刊から『地に舟をこげ』へ
学習会や読書会を経験して、私は在日女性自身の生活記録というか日々の暮らしの中で感じる喜びや悲しみなどを語り合う場が必要だと思い、 1991年に同人誌『鳳仙花』を創刊した。ベルリンの壁が崩れ、翌年ドイツが統一を果たしてベートーベンの第九の「歓喜の歌」を聴き、 胸の高鳴りを抑えることができなかったことを今も思い出す。

在日女性たちの戦後の歩みを振り返るとき、在日社会の分断と儒教的な価値観が根強い家庭風土のもとで、 必死に生活苦と闘いながら生きるのが精いっぱいだった。
最初のうちは誌面を通して,女性の人権やジェンダーの視点がどうのと語る余裕などなかったが、号を重ねるうちに、家父長制やイデオロギーに翻弄された過去の過ちを教訓とするためにも、まず在日女性の過去の営みを照射し、その記憶を掘り起こし、記録すべきだという『鳳仙花』の使命について改めて認識するようになったのです。 そして女性たちの結束やネットワークづくりにも目を向けるようにもなった。この間、『鳳仙花』への投稿をきっかけに文学賞を受賞して 文壇にデビューした人も数人いる。
しかし何よりもうれしいことは在日女性の生活史を27冊の記録集として残せたことです。

また2006年のことだが、高英梨さんの多額の基金と熱意により「在日女性文芸協会」が設立され、文芸誌『地に舟をこげ』を創刊。 私は創刊から7号の終刊まで編集委員として携わってきた。在日女性の力による初めての文芸誌が書店に並んだあの時のことは 今も鮮明に憶えています。

調布市民として生きる
介護保険制度がスタートした2000年、母が第一腰椎破裂骨折という大変な骨折でして入院しました。 韓国ドラマ『冬のソナタ』(韓国KBSで2002年)が放送され、日本ではNHKが2003年、BSで放送して大反響を呼び、 翌年には総合テレビでも放送されました。これをきっかけに日本での韓流ブームに火がつき、それ以来、韓国の食文化が紹介され、 今では学校給食にビビンバやキムチチャーハンが出されるようになっていますが、当時は、韓国の文化や生活習慣などよく知られて いなかったころなので、
スプーンでスープもご飯も食べるのが韓国のマナーであるにもかかわらず、 マナーを知らない無教養な者と映り、 蔑視の空気が漂っていました。その上、在日一世の母は文字を読むことができないことから薬を飲む時間を間違えたりした。 母の経験を朝日新聞の論壇に「配慮ある福祉を在日高齢者に」というタイトルで投稿しました。

この投稿がきっかけとなり、在日コリアンについてもっと知ってもらいたいと思い、「異文化を愉しむ会」を立ち上げました。 民族が違えば生活習慣も違って当たり前。文化や習慣の違いを蔑視するのでなく、異なる文化を愉快で楽しいことだと伝えたかったのです。 異いが差別というマイナスイメージでなく、プラスのカルチャーとして日本社会に順応できればとの思いからです。 多様な人や文化と共に生きる社会。異が存在するからこそ思考が育ち、豊かさにつながるのだと思います。 日常的なFACE TO FACEの 交流を通して在日コリアンの実情を理解し、認め合い、愉しむことのできる会へと成長していったのです。
例をあげると、講師を招いて韓国の民族舞踊や民族音楽の紹介、韓国から演出家を招いてシャーマン劇「クッノリ」の上演。 ヴァイオリンと朗読による「言の葉コンサート」では、くすのきホールが満席になるほどの盛況で、読売新聞などで大きく報道されました。 また料理講習を通して日本と異なる生活習慣、食文化の違いやマナーの違いなど紹介。また文化開放政策により、 韓国の絵本が日本語で翻訳出版されたのを機に、韓国・日本の両方で翻訳された絵本の読み比べなどを通して言葉のもつ 響きやハングル文化にについて話し合ったりしています。地域での仲間づくりの楽しさを満喫しながら普段着で等身大の交流を続けています。

私は、在日コリアンであることにも調布市民であることにも誇りを持っていまのす。 調布をよりよい町にするという目標に向かって、在日コリアンも日本人と歩調を合わせて共に歩んでいくことが、 結果として誰にとっても暮らしやすい町づくりに繋がるのではないかと思います。

国籍や民族にまつわる画一的な見方や観念では、もはや捉えきれないような「在日」社会。 日本に定住という現実にしっかり向き合って、在日の多様な営みや考え方を認め、日本の市民と連帯していくことが重要な課題だと思う。
振り返れば、日本や世界で国民国家の枠組みを超えてマイノリティー議論が盛んになっていくのは1990年ごろからであり、 ジェンダーという視点が強調され始めたのも同じ頃だと記憶している(ドイツ分断のベルリンの壁が壊された頃)。
在日朝鮮人の就職の門戸が開かれていったのも、在日女性が社会に進出始めたのも1990年ごろからです。同人誌『鳳仙花』の創刊も1991年でした。 いま私たち在日に課せられているのは本国政府に従属するのではなく、自立した在日民族として日本社会に参加し、 地域住民として共生・共存していくことではないだろうか。

母国が統一しても、私が母国に永住することはないだろう。この日本に生を享け日本の風土の中で育った私たちは、母国に帰っても異邦人でしかないのだから。 子や孫たちに受け渡すべき在日の遺産づくりのために、地域の人々と手を携えながら、この地にしっかりと根を張って生きていきたいと思います。 調布は私にとって心の故郷になりつつある……。

▼昨年(2018年)の6月9日李宇海(イウヘ)さんの文章を読んで、日本人が 「エスニシティの複合と重層を許容する」 ことによって、 日本社会が多彩で多様な生活様式と文化をもつ社会に発展していけるのだ、と気づき、感動したことを、すでに 呉文子さんは実践してこられた。
10月15日、知人をとおして韓国伝統芸能「国楽ー風が吹く」にご招待いただき、年が明けて 3月9日この講演を聞きました。講演のあとの質疑で地方参政権の熱い思いを 語られました。そのとき、これが日本人として私のやるべき仕事だと決意しました。その後、呉さんとお会いし、呉さんの地方参政権へのお気持ち を書かれた切り抜き(2010.4.9週刊金曜日)をいただきました。「「ふるさと調布」住む外国籍住民の一人として、自分のルーツとアイデンティティを 大切にしながら、この地域での義務と責任を果たし、地域社会の発展に貢献したい。」と書いておられます。(2019.4.18)

                                                 
▼ 2019.6.11地方参政権の勉強会が調布「たづくり」で開かれました。講師は民団ソ・ウォン・チョル事務総長。進行は呉さん。
ソ・ウォン・チョル事務総長が用意されたレジメは46頁に及びました。1時半から4時半まで3時間、途中休憩もなく話はつづきました。 最後の20分ぐらいが質疑でした。
レジメの構成と見出しは下記です。


タイトル:「永住外国人住民の地方参政権獲得運動再構築と実現に向けて」
T.はじめに
U.在日朝鮮人(韓国人)の参政権の歴史
V.在日韓国人(朝鮮人)の法的地位
W.この間の運動の経過報告
 1.地方参政権獲得運動へ至る経緯
 2.運動を進めるに際しての私たちの基本的な考え方
 3.この間の本団の主な運動の概要
 4.日本最高裁判所判決(1995年2月28日)
 5.全国自治体の付与賛同意見書採択運動
 6.各政党への立法化運動と国会の法案審議
 7.韓日間の主な動向
 8.住民投票権の獲得
 9.反対勢力の動向
 10.世論の動向
 11.国際社会の動向
X.中間総括 
 中間総括1.これまでの運動をどう評価するか。
 中間総括2.この間運動してきて、どうして実現できなかったのか。
 中間総括3.地方自治体議会の賛同意見採択運動はどうであったのか。
 中間総括4.政党・国会・議員要望活動はどうであったのか。
 中間総括5.大衆運動としての盛り上がりに欠けたのではないか。
 中間総括6.世論・マスコミ対策はどうであったのか。
 中間総括7.反対勢力への対策はどうであったのか。
 中間総括8.韓国政府・政党への働きかけと支援はどうであったのか。
 中間総括9.国際社会への働きかけはどうであったのか。
Y.課題
 1.再確認・再検討事項
 2.課題
 第1の課題「運動方法について」
 第2の課題「大衆・市民運動について」
 第3の課題「運動体制について」
 第4の課題「各政党・議員対策について」
 第5の課題「地方自治体・議会対策について」
 第6の課題「世論・マスコミ対策について」
 第7の課題「反対勢力対策について」
 第8の課題「国際社会・国際世論対策について」
Z.運動の再構築と実現に向けて
 1.内外情勢
 2.実現の可能性
 3.今後の運動
 4.日本が取るべき4つのステップ(解決策)
▼当日伺った話を念頭に入れながら46頁のレジメを読み返してみました。地方参政権獲得運動の経緯、課題が余すことなく 記述されています。 現在の民団事務総長の苦悩を日本人として、日本社会としてどう応えていくかを考え込んでしまいました。
事務総長の苦悩の深さは取りも直さず日本社会の抱えている問題の深さでもあります。 私が取り組んでいる日本のマイノリティーが共通に抱える問題でもあります。 地方参政権獲得運動の突破口をどこに見出すかを思案しています。(2019.6.13)
特別永住者(Wikipedia)
日本国籍を喪失した旧植民地人は、参政権をはじめ国民年金や国民健康保険などの日本で生活する社会的権利が与えられなかった。 彼らにとって、日本国民として日本人とほぼ同等であった戦前とは逆に、戦後は他の外国人と同様の扱いとなった。 その後、徐々に旧植民地出身の外国人には特例がなされるようになった。 1960年代の後半から国民健康保険制度が、1980年代には国民年金制度が適用されるようになった。 1991年(平成3年)に、出入国管理及び難民認定法(入管法)の特例として施行された法律(入管特例法)で、 戦前から定住する旧植民地人(いわゆる平和条約国籍離脱者)とその子孫は特別永住者となった。 これらの人々には、日本国民と同等の社会的権利の多くが認められるようになったが、 参政権については国政選挙、地方選挙に関わらず認められていない。
▼戦前から定住する在日の人たちとその子孫(特別永住者)の参政権については特別の配慮が絶対必要。この活動をする。(2019.6.14)
▼ソ・ウォン・チョル事務総長から2つの論文を頂きました。
@2016年12月の在日コリアン・マイノリティー人権研究センター発行の雑誌『Sai』76号に寄稿 された「在日コリアンの戦後史」
▼今日(2019.6.24)読み終えました。この論文の最後にこんな文章がでてきます。
「在日の意味の現代的見直しが必要になってくる。たとえば、現象としての在日日本人。安保法採決における与野党の攻防における野党の「在日的」立場。 沖縄の米軍基地問題における沖縄の人々の在日的立場。福島の原発事故被災者の避難生活における在日的立場。」「日本人でありながら「疎外」されている日本人 の在日化ということが現実にある。社会保障から漏れた人々、格差、非正規、下流老人、反アベ的日本人の「在日化」が広がっている。」
▼はじめ、講演のとき在日日本人と聞いてキョトンとしていました。この論文を読んで事務総長の意味しておられるところがよく理解できました。 私がHPで取り上げているマイノリティーの人たちがまさしく事務総長のおっしゃる在日日本人です。深いつながりを感じました。
A2016年11月、12月インテリジェンス・レポートに特別寄稿された「永住外国籍住民の地方自治体選挙権問題について」
▼次に地方参政権の問題。
「1998年10月6日「 永住外国人に対する地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権等の付与に関する法律案」 (http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g14305012.htm) が初めて国会に提出。この法案は冬柴哲三元公明党幹事長がまとめたものであり、「冬柴法案」と呼ばれている。」
第一四三回衆第一二号
永住外国人に対する地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権等の付与に関する法律案
目次
 第一章 総則(第一条・第二条)
 第二章 普通地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権に
 関する地方自治法及び公職選挙法の特例(第三条)
 第三章 永住外国人選挙人名簿並びに普通地方公共団体の
 議会の議員及び長の選挙の投票等に関する公職選挙法の特
 例
  第一節 永住外国人選挙人名簿(第四条―第二十二条)
  第二節 普通地方公共団体の議会の議員及び長の選挙の
  投票等(第二十三条・第二十四条)
  第三節 罰則(第二十五条―第二十七条)
 第四章 直接請求等に関する地方自治法等の特例(第二十
 八条―第三十二条)
 第五章 雑則(第三十三条―第三十六条)
 附則
   第一章 総則
 (目的) 第一条
 この法律は、永住外国人に地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権等を付与するため、地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)及び公職選挙法(昭和二十五年法律第百号)の特例を定めることを目的とする。
 (永住外国人の定義) 第二条 
この法律において「永住外国人」とは、次のいずれかに該当する者をいう。
 一 出入国管理及び難民認定法 (昭和二十六年政令第三百十九号) 別表第二の上欄の永住者の在留資格をもって在留する者
 二 日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法  (平成三年法律第七十一号) に定める特別永住者

「冬柴法案」は1999年10月4日には自民・公明・自由党の与党3党が政権合意書で「成立させる」ことで合意し、全政党が付与に賛同したことになったが、 その後(2001年6月)自民党の慎重意見により採決延期となった。

2009年8月30日の衆議院総選挙で民主党が大勝し政権交代すると、政府及び民主党は、2010年1月11日、政府案で法案提出することで合意したが、 連立与党内の不協和音、保守政党・団体の反対で法案提出に至らなかった。

▼地方参政権は1999年と2010年の2回成立の直前まで行っている。この法案をまず勉強してそこから再出発しよう。
▼「冬柴法案」を衆議院議会事務局に聞いて見つけました。右の緑の枠内です。法案の構成は地方自治法と 公職選挙法に特例を設ける形になっています。
対象者は二条の一号の永住在留者と二号の特別永住者です。条文の理解は難しいです。「戦前から継続して住んでいる者およびその子孫」 (「在日コリアンの戦後史」)ということのようです。 (2019.6.26)

外國人登録令
朕は、昭和二十年勅令第五百四十二号ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く 外國人登録令を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
御名御璽
昭和二十二年五月二日
内閣総理大臣  吉田   茂
内 務 大 臣  植原ス二カ
勅令第二百七号
外國人登録令
第二條 この勅令において外國人とは、日本の國籍を有しない者のうち、左の各号の一に該当する者以外の者をいう。
一  連合國軍の將兵及び連合國軍に附属し又は随伴する者並びにこれらの者の家族
二  連合國最高司令官の任命又は承認した使節團の構成員及び使用人並びにこれらの者の家族
三  外國政府の公務を帶びて日本に駐在する者及びこれに随從する者並びにこれらの者の家族
第十一條 台湾人のうち内務大臣の定めるもの及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外國人とみなす。

▼外國人登録令でわざわざ台湾人、朝鮮人を外国人とみなす、と書かざるを得なかったのは当時は「日本国籍を有する者」であったということ。


     戦前から在住する「在日」コリアンとその子孫の地方参政権を認める法的措置を求める陳情
                       趣旨
 日本は戦前、1910年朝鮮を植民地としました。それ以来朝鮮人は日本国の臣民として納税、兵役等の義務を果たしてきました。 しかし1945年の敗戦で日本の内地に居た朝鮮人は一方的に外国人とされ、その状態が今日まで続いています。 歴史の経緯から見てこの人たちに国籍選択の権利を認め、外国国籍を選択した場合でも日本に居住する限り日本社会 の住民として地方参政権は認めるべきだと考えます。

 歴史を振り返ってみますと、戦前の朝鮮に対する横暴は日本人として恥ずかしい限りです。 なぜ武力で併合しなければならなかったのか。朝鮮が日本を侵略しようとでもしたのか。 わたしの知るところ日本は朝鮮からさまざまな文化や技術の恩恵をこそ受けていても朝鮮から侮辱されたり、被害を蒙った事実は知りません。

 植民地時代の創氏改名は朝鮮人には屈辱以外の何物でもなかったのではないか。 強制連行は奴隷貿易を連想させる仕業ではなかったのか。慰安婦問題は若い朝鮮人女性の人間の尊厳を身ぐるみ剥ぎ取る所業ではなかったのか。 また朝鮮半島の日本の食料基地化は朝鮮経済の破壊ではなかったのか。もし自分が朝鮮人であったら日本をどう思うか、想像してみてください。 憎しみ以外の何物でもないでしょう。

 そのような戦前の所業に日本はお詫びをしたのか。一人ひとりの日本人として償いをしているのか。 現在の「在日」コリアンの人たちはせめて日本社会の住民として地方議会の議員、首長の選挙権を切望されている。 どうしてこのような最低限の要望に日本社会は応えられないのか。恥ずかしい限りである。わたしには理解できない。

 そもそもこの調布の地は古代から朝鮮半島の渡来者が多い土地であった。 狛江・金子という地名。高麗神社。深代寺の縁起。そのつながりは長く深い。 現代に共生の伝統を調布に復活させたくおもう。調布市議会の皆さん、このような私の気持に賛同して日本政府、 衆参両院に戦前から在住する「在日」コリアンとその子孫の人たちの 地方議会の議員、首長の選挙権が付与される立法措置をとることを求める意見書を出してくださることを陳情いたします。

令和元年8月15日
調布市議会議長 渡辺進二郎様
                                     陳情者 大西 信也
▼ 韓国・朝鮮の人にとっては記念すべき8月15日に上記陳情を議会事務局に提出しました。
そして今日9月9日議会総務委員会で趣旨の説明をしました。(2019.9.9)
▼右のコピーは2019.9.24付けで議会事務局から届いた審議結果です。(不採択)でした。 詳しくは11月下旬の市議会HPで会議録が公開されるようです。それを読んで次の方策を考えていきます。
▲上記11月5日付け「調布市議会だより」が届きました。
私の提出した陳情に対し不採択は自民党7人、チャレンジ(民主党系)6人、維新他2人、計15人。 賛成は公明党5人、共産党4人、社民・生活者外3人、計12人。チャレンジ(民主党系)6人の反対は意外でした。対策を考えます。(2019.11.12)

▲再度昨日(2020.2.25)陳情を出しました。

   戦前から在住する「在日」コリアンとその子孫に地方参政権を付与する法的措置を再度求める陳情
                       趣旨
  日本による1910年の韓国併合後、朝鮮人は日本国の臣民として納税、兵役等の義務を果たしてきました。 しかし1945年の敗戦で日本の内地に居た朝鮮人の多くが意に反するかたちで外国人とされ、 その状態が今日まで続いています。歴史の経緯から見て、これらの人々の国籍選択において不利益を生じさせないよう、 外国国籍を選択した場合でも日本に居住する限り日本社会の住民として地方参政権を認めるべきだと考えます。

古来より日本は、朝鮮半島からさまざまな文化や技術の恩恵を受けてきました。両国の関係は、困難な時期を経験しつつも、 隣国として文化的、経済的、政治的に極めて密接な結びつきを保ってきました。 そうした歴史に鑑み、我々は現代に生きる日本人としての責任を果たすべきであると強く思います。

朝鮮の人々は、両国間の歴史に翻弄され、法的地位もその時々の情勢に左右されてきました。 その最たる例が、現在日本に居住する「在日」コリアンとその子孫であります。日本人一人ひとりが、 両国間の歴史に謙虚に向き合うなかで、「在日」コリアンとその子孫の思いに耳を傾けるべきではないでしょうか。 その際、日本統治化では、朝鮮人に対しても選挙権のみならず被選挙権も付与され、実際に多くの朝鮮人が立候補し、 当選を果たしていたという事実にも目を向けるべきです。

そうしたなか、「在日」コリアンは同じ日本社会に生きる一員として、 自らの居住する地域の地方選挙への参政権を切望しています。このことは決して特権的な地位を求めるものではなく、 長く地域社会に共生し、日本の社会経済へ貢献してきた「在日」コリアンに当然に認められるべき権利であると考えます。 実際、地方参政権を在留外国人に付与している国は世界にも一定数あり、とりわけ日本と朝鮮の歴史を考慮すれば、 在留外国人全般ではなく「在日」コリアンに限定した参政権を認めることは日本社会として十分許容できるものではないでしょうか。

本陳情を調布市議会が採択いただくことで、現代に共生の伝統を調布に復活させたいと思います。 調布市議会の皆さん、本陳情にご賛同いただき日本政府、衆参両院に戦前から在住する 「在日」コリアンの人々とその子孫に対して地方議会の議員、首長の選挙権が付与される立法措置をとることを 求める意見書を出してくださることを陳情いたします。

令和2年2月25日
調布市議会議長 渡辺進二郎様
                           陳情者
                           調布市国領町4−35−2−711
                                    大西 信也



▲3月10日、上記陳情の説明に、調布市議会総務委員会に出席しました。なぜ再度陳情をするのか、前回との違いを説明しました。 2人の委員から質問をされました。(2020.3.10)
▲結果は前回と同じでした。
▲今日、布田の事務所でやっと山花郁夫議員との面会が叶いました。地方参政権を立憲民主党がなぜ賛成していないか理由を尋ねました。 その結果、今後朝鮮総連の方とこの問題で意見交換する必要があるとの結論に私のなかでなりました。(2020.7.24)
▲山花議員との面談の結果をソさんに説明しました。新しい展開になりそうです。(2020.8.3)
朝日朝刊2020.10.30
▼左は朝日新聞の社説です。私は「在日」コリアンの問題を勉強してきて、償いの気持ちも込めて、せめて戦前から 日本に在住されているコリアンの方々には地方参政権は付与すべきだと考えて2回調布市議会に陳情を出しました。
しかし自民は言うに及ばず 民主党系の賛成を得られず採択されませんでした。立憲民主の山花郁夫国会議員に会い、その理由を尋ねたら意外にも南北朝鮮の分断を固定させることにつながるので 賛成できない、とのことでした。不思議な理由を持ち出されるのだなと思って民団の事務総長に事情を説明しました。呆れておられました。 その後、打開の道を思案していましたら朝日新聞の社説がでました。私も方針を変えます。在日の人だけでなく、定住外国人全般に地方参政権を、とこれから 考えていきたいと思います。社説に感謝します。(2020.11.1)

永住外国人に地方参政権 を付与する法的措置を求める陳情
趣 旨
世界の現状がどうなっているか。主なOECD加盟とロシアの地方選挙権の現状(国会図書館調べ)
ベルギー○    アイルランド○ オーストラリア△  イタリア△
デンマーク○  ルクセンブルク○  オーストリア△ ポルトガル△
フィンランド○    オランダ○     カナダ△  スペイン△
ハンガリー○ ニュージーランド○     チェコ△  イギリス△
アイスランド○    ノルウェー○    フランス△   スイス▲
 韓国○    スロバキア○     ドイツ△  アメリカ▲
スウェーデン○      ロシア○    ギリシャ△    日本×
〇居住または永住権取得が条件 △居住または永住権取得以外が条件 ▲一部地域で ×付与せず
(出典http://www2.interbroad.or.jp/shimada/sanseiken_folder/votefor.html)
永住外国人に地方選挙権が全く認められていないのは日本だけである。

調布市自由民主党創政会は、永住外国人の地方参政権については、憲法上、選挙権は日本国民にのみ認められると解釈されていることから、外国人に対する地方参政権の付与は認められておらず、…… 外国人への地方参政権の付与は我が国の民主主義の根幹に関わる問題で、慎重な検討が必要であり、我が党はこれまでの国政選挙においても、参政権の導入については受け入れるべきではないとの立場を取っています。 (令和2年3月18日総務委員会議事録より)
上記発言は、3点誤解があります。
@ 憲法上の解釈。1995年の最高裁判決は、永住者等の外国人に地方公共団体の選挙権を付与することは 憲法上禁止されているものでないと判示しています。
A 民主主義の根幹。まさしく民主主義の根幹にかかわるから外国の多くの国は地方参政権を認めているのです。
B 国政選挙においても。私が陳情しているのは国政選挙ではなく地方選挙です。
自由民主党創政会の考えは国際的に見て、日本は特異な国と映る事態を招く結果を作り出しています。そろそろ改める時期に来ているのではないでしょうか。 永住外国人に地方参政権付与の法的措置を求める陳情をいたします。
令和2年11月25日
調布市議会議長 渡辺 進二郎 様
陳情者
調布市国領町4−35−2−711
大西 信也

▼この陳情を11月25日に提出する準備をしています。定住外国人ではなく、 永住外国人とのアドバイスを民団事務総長からいただきました。(2020.11.20)
▼令和2年11月1日現在の調布市(市民課電話照会)の日本人人口233,125人、外国人4,515人、 日本人成人175,480人、外国人4,123人うち永住者1,382人(入管管理局電話照会)
永住者1,382人は市議会議員1人を出せる数。(2020.11.20)

▲「現代の理論」21号に掲載された「徴用工」問題に関する青山学院大学法学部教授 シン へボンさんの論文 人権侵害の「救済」とは はすごいです。年表1944年のところでも取り上げましたが クリックして読んでください。一部下記に引用しておきます。(2020.2.26)

「人権侵害の「救済」とは―事実を認め人間の尊厳を回復し、教育に活かし繰り返さないこと」

「徴用工」とはどのような人たちか
日韓請求権協定は何を取り決めたのか
人権侵害に対して救済を受ける権利
重大な人権侵害に対する救済とは何か
徴用工から、技能実習生へ

「徴用工の人々が受けた人権侵害に対して、日本はどのような取組みをしているだろうか。
日本はとりわけ、「満足(サティスファクション)」にあたる取組みにおいてほぼ零(0)点というのが私の評価だ。 歴代の政権は確かに、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。 私は...この歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、 心からのお詫びの気持ちを表明いたします」(1995年8月15日村山談話)、
「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。 こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、 先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します」(2005年8月15日小泉談話)など、
植民地支配についても反省とお詫びの念を表明してきてはいる。 しかし、その姿勢は決して一貫したものではなく、特に現政権の立場は際立って後退している。 また、そもそも日本は、徴用工の人権侵害について、自ら調査して事実を明らかにし、 公的に認めるような取組みなど、一度も行ったことがないのだ。」

徴用工問題 2018.10.30新日鉄住金事件大法院判決(結論部分)
2020.11.6朝日朝刊
「日本政府の韓半島に対する不法な植民支配と侵略戦争の遂行と直結した 日本企業の反人道的な不法行為により動員され、人間としての尊厳と価値を尊重さ れないままあらゆる労働を強要された被害者である原告らは、精神的損害賠償 を受けられずに依然として苦痛を受けている。大韓民国政府と日本政府が強制 動員被害者らの精神的苦痛を過度に軽視し、その実状を調査・確認しようとす る努力すらしないまま請求権協定を締結した可能性もある。請求権協定で強制 動員慰謝料請求権について明確に定めていない責任は協定を締結した当事者ら が負担すべきであり、これを被害者らに転嫁してはならない。」
▼右の教科書。鈴木拓也記者の記事:ミレエン社の高校歴史教科書は、軍事クーデターで実権を握った当時の朴正熙政権が、 「軍事政権の正当性」を確保するためには経済発展が必要で、その資金を得るために「日本との国交正常化を急いだ」と解説。 日本からは「植民地支配に対する謝罪や賠償を受ける ことができなかった」と断じる。
▼鈴木拓也さん、教科書がどう書いてあるかだけ伝えればよい。「断じる」は余計。(2020.11.7)

2019.12.7の朝日新聞朝刊 2020.4.5朝日新聞朝刊
▼左の記事は「徴用工の名が刻まれた慰霊碑を撮影する韓国の映像作家」安海龍(アンヘリョン)さんの紹介記事です。 慰霊碑は全国に約160ヵ所あるという。近年徴用工の動員の強制性を巡り、碑文などを削減・変更する例が相次いだ。「どう解釈するかは日本人の 問題。私は記録を残した人に感謝し、労働者の足跡を追いたい」(安海龍さん)とこのを取材された阿久沢悦子さんは書いておられる。(2020.1.16)
▼その下2020.4.5の朝日新聞朝刊。つづきのような記事です。「石碑の崔氏が語るもの」 紹介します。
「朝鮮人は明治期から安価な労働力として過酷な現場に移入され、日本の近代化を支えたこと。 太平洋戦争中の動員 に至る犠牲者を悼む碑の多くは同胞らの手で戦後建てられ、酷使した事業者の建立は少なく、 名を刻んだ碑もまれなことだ。戦時中は各地で大勢の 中国人も犠牲になった。命を落とす外国出身の労働者は技能実習生など今も続く
異国での無念の死を悼み、犠牲をくりかえさぬための記憶と継承に務めた企業はどれだけあるだろうか。
「鉄道工事殉難病没者追悼記念碑」付近の工区を請け負った建設会社「間組」が1908年建立した。碑に刻まれた犠牲者14人の中にひとりの朝鮮人がいた。 「崔吉南 33歳」
熊本と鹿児島を結ぶ鉄路は日露戦争を挟む1900年代に建設された。難工事が労働者の命を奪った。日本の植民地支配期の 労務動員を研究する韓国の研究グループがこの碑を訪れた。一行を案内したのは安海龍(アンヘリョン)さん。

▼「命を落とす外国出身の労働者は技能実習生など今も続く」にこころが止まった。ここまで私のなかではつながっていなかった。 技能実習生は技能実習生だった。反省。(2020.5.21)


2019.12.7朝日新聞朝刊
▼右下の静岡県立大学准教授奥園秀樹さんの
「互いの主張知る姿勢 欠かせない」は傾聴に値します。 徴用工問題・過去の日本の主張に関して

「日本政府は、1965年の日韓請求権協定によっても『個人請求権は消滅していない』と説明してきました。シベリア抑留者や 被爆者ら日本人の戦争被害者が求めた補償に政府としては応じず、『被害者にはソ連や米国に直接請求する権利が残っている』と主張したのです。 裏を返せば、韓国人元徴用工にも、日本に請求する権利があることになります」。
如何でしょうか。私は深くうなずきました。(2020.1.19)
2020.7.9朝日新聞朝刊

▼都内に開館した「産業遺産情報センター」の展示に関する、徴用工の説明での日韓の摩擦。 「軍艦島と呼ばれる長崎県・端島にあった炭鉱の元住民らが、朝鮮半島出身者への差別などなかった、と語るインタビューが 流されている」「明暗を問わず史実に謙虚に向き合い、未来を考える責任があるのは、日本も韓国も同じだろう。」
▼日本側のやり方は客観的事実でもないし不誠実。相手が不信感を募らせるだけ。(2020.7.16)
2019.12.19朝日新聞

左の記事。「隣の国のことを知らない私たち」作家・高橋源一郎さんの韓国訪問記。

小さい左上の写真は 「済州島南部にある聖フランシスコ平和センターの敷地内に置かれたベトナム人の母子像」 その下は「ソウルの日本大使館近くの歩道に設置された平和の少女像」
平和の少女像は日本では「慰安婦像」として知られています。この像は「慰安婦たちの『奪われた少女時代』 を象徴しているという。
ベトナム人の母子像(「ベトナムのピエタ」像)は、ベトナム戦争での韓国軍の 民間人虐殺を記憶し犠牲者を鎮魂するために作られた。ふたつの像は、同じ作者(たち)の手で作られた。」
一方大きな横長の写真は「済州島に残る旧日本軍の掩体壕(えんたいごう)跡の一つ。ゼロ戦を模したアート作品が 置かれ、作品には無数の短冊が結びつけられていた」
この3枚の写真で考えさせられました。日本の植民地支配がいまなお忘れられない日常。加害者となってベトナム人を虐殺した自責。現代の作家によって 作られている作品。単なる先人の作品ではないのです。
「韓国には、自国の軍隊や政府と戦いながら、歴史を作ってきた彼らは、作品に強い政治的 メッセージを載せることを拒まない。その感覚は、わたしたちにはないのである。」
と高橋さんは思索される。(2020.1.20)

2019.12.24朝日新聞

▼左の記事の見出しは「不自由展への介入 公的な催しゆえに 憲法上許されぬ」。
インタビューの紹介は「展示中止を迫る勢力に日本国憲法を掲げて正面から反論。 保守を自認している政治家愛知県知事・大村秀章さんの目に、日本はどう映っているのか」 とあります。
「日本だけでなく世界各地で、分断をあおる政治が 台頭しています。こうした分断社会は日本が目指すべき社会ではありません。分断ではなく社会の『統合』に役立つ政治を育てていく必要が あります。異なる立場の人々が互いを否定せず共存できる、懐の深い市民社会を目指すべきです。そういう社会をもう一度作りたいと願う有権者 は少なくないはずです。」
▼私も「懐の深い市民社会」を目指す一人です。私が大村知事のインタビューを読んで一番感銘を受けたのは、 こういう保守政治家が育ったのは 戦後民主主義のお蔭だと感じたからです。戦後民主主義のお蔭を蒙った私たち世代のいまの仕事はこの戦後民主主義を発展させることだと 強く感じています。「2歳のころ犬にかまれて顔じゅう縫い目だらけで『縫い目』『フランケン』 と呼ばれていじめられた。」このような体験も人の心のわかる政治家になられた大きな要因だと思います。(2020.1.18)

                                                  
▼2019.6.16の朝日朝刊。朝日歌壇「国籍はどうでもいいと嘯けば老いたるアボジ、オモニが黙る」(康 哲虎)在日の人たちの心情が察しられる。
▼右の記事「ヘイト禁止条例」は2019.6.25朝日朝刊です。差別に対し刑事罰を盛り込んだ条例は画期的です。 どのように実現するか注視していきたいです。
「(仮称)川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例」(素案)の抜粋
4 本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進
(1)この章の趣旨
市は、ヘイトスピーチ解消法第 4 条第 2 項の規定に基づき、市の実情に応じた施策を講ずることによ り、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」の解消を図る。
(2)本邦外出身者に対する不当な差別的言動の禁止
何人も、市の区域内の道路、公園、広場、駅その他の公共の場所において、次に該当する「本邦外出 身者に対する不当な差別的言動」を行い、又は行わせてはならない。
≪類型≫
◎ 特定の国若しくは地域の出身である者又はその子孫(以下「特定国出身者等」という。)を、本 邦の域外へ退去させることをあおり、又は告知するもの
◎ 特定国出身者等の生命、身体、自由、名誉又は財産に危害を加えることをあおり、又は告知する もの
◎ 特定国出身者等を著しく侮蔑するもの
≪手段≫
◎ 拡声機を使用する。
◎ 看板、プラカード等を掲示する。
◎ ビラ、パンフレット等を配布する。
◎ 多数の者が一斉に大声で連呼する。
(3)勧告・命令・公表
前記(2)に違反 (1回目)
市長は、勧告の前に、1回目の違反があったことについて、「差別防止対策等審査会」の意見を聴く。
⇒勧 告  市長は、1回目と同様の違反行為を行ってはならない旨を勧告することができる。

違反行為(2回目)
市長は、命令の前に、勧告に従わなかったことについて、「差別防止対策等審査会」の意見を聴く。
⇒命 令  市長は、前2回と同様の違反行為を行ってはならない旨を命ずることができる。

違反行為(3回目)
市長は、公表の前に、公表される者にその理由を通知し、その者が意見を述べ、証拠を提示する機会を与える。
⇒公 表・罰 則 市長は、命令に従わなかったときは、氏名又は団体の名称、住所、団体の代表者 等の氏名のほか、命令の内容その他規則で定める事項を公表する。 *罰則については、「5 その他」で記載

5 その他(雑則、罰則、施行期日等)
(3)罰則 前記4(3)の命令に違反した者は、500,000円以下
(4)施行期日
ア 公布の日 次のイとウ以外のもの
イ 令和2年4月1日 「人権尊重のまちづくり推進協議会」、インターネット表現に係る拡散防止措置 及び公表並びに「差別防止対策等審査会」に関するもの
ウ 令和2年7月1日 「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」の解消に向けた取組に関するものの うち、禁止、勧告、命令、公表、報告及び質問並びに罰則
▼川崎市の「人権尊重のまちづくり条例」はよく考え抜かれた素案だとおもいます。来年の7月から実施されることを願っています。 すべての差別に対してこの条例のように丁寧な手続きと刑事罰が盛り込まれる必要があるとおもいます。(2019.7.10)

▼右上の記事「街宣禁止の仮処分」は2019.7.6朝日夕刊です。この仮処分を詳しく勉強する必要があるとおもいます。(2019.7.6) 李春熙弁護士に連絡を取りました。(2019.7.9)
2019.12.13朝日新聞朝刊
▼左は朝日新聞の社説
差別や排除をあおるヘイトスピーチに刑事罰を科する全国初の条例が、 川崎市議会で全会一致で可決・成立した。「ヘイト対策は必要だが、ゆき過ぎれば表現の自由を侵す。……内容、手続きとも均衡のとれたものになったと、まずは評価できる。」 上から目線で見ている感じ。不愉快。(2020.5.29)
「ヘイトに対する制裁として最近注目されたものに、先月の京都地裁判決がある。 朝鮮学校への差別的言動は刑法の名誉棄損罪にあたるとして、男に 罰金50万円を言い渡した。懲役刑もあり得る罪が適用されたことは、社会に一定の抑止効果をもたらすだろう。
▼この判決のゆくえを注目していた。この結果をうれしく思う。 以前本HPで取り上げた(2018年5月9日の「民団新聞」)。(2020.5.30)
厳格な規制措置を講じている国もあるが、 日本国内では議論が十分熟しているとは言い難い。大阪市や東京都は、ヘイト行為をした者の氏名を公表できる条例を制定した。ネット上の言動は川崎の 条例では刑事罰の対象から外された。

▼この社説の担当者、あまりにも自分位置からこの問題に距離を置きすぎていないか。(2020.5.29)
2019.12.13朝日新聞朝刊

▼左のヘイト刑事罰条例、正式には「差別のない人権尊重のまちづくり条例」
川崎市では在日コリアンを標的にしたヘイトスピーチが繰り返され、 2016年に国の対策法ができるきっかけになった。だが法律は罰則を設けなかった。法施行後もヘイト行為が横行する状況 に対し、川崎市は抑止力のある条例を整備しようと取り組んできた。
▼ところで国の対策法とは?その内容は? ヘイトスピーチ解消法
前文  我が国においては、近年、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、 適法に居住するその出身者又はその子孫を、我が国の地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動が行われ、 その出身者又はその子孫が多大な苦痛を強いられるとともに、当該地域社会に深刻な亀裂を生じさせている。 もとより、このような不当な差別的言動はあってはならず、こうした事態をこのまま看過することは、 国際社会において我が国の占める地位に照らしても、ふさわしいものではない。 ここに、このような不当な差別的言動は許されないことを宣言するとともに、更なる人権教育と,人権啓発などを通じて、 国民に周知を図り、その理解と協力を得つつ、不当な差別的言動の解消に向けた取組を推進すべく、この法律を制定する。
2020.2.8朝日新聞朝刊

▼福田紀彦(のりひこ)川崎市長の言葉。
2020.6.13朝日新聞朝刊 元市職員が「在日韓国朝鮮人をこの世から抹殺しよう」とのハガキを「川崎市ふれあい館」に送った。 「他の男性職員とトラブルがあり、陥れるために」。ひどい行為だ。(2020.7.10)
「市は人口153万人、うち外国人が3%近い「多文化共生」の街。2017年の市長選で、あらゆる差別の根絶を目指す条例の制定を公約の一つに掲げ、 再選しました。 ヘイトスピーチが生まれるのは思想の問題でなく、社会に対する不安や不満が根っこにあるからでないでしょうか。」
▼全く同感。(2020.2.9)右の記事はまさしくそれ。(2020.7.10)

▼下の記事。
2020.2.8朝日新聞朝刊

「ヘイトスピーチを法律で規制しようとすると、日本ではいつも「表現の自由を侵害する」という反対論が出ます。 しかし、憲法には法の下の平等や男女平等、個人の尊重や幸福追求の権利を保障する規定もあります。平等や個人の尊厳を否定するヘイトスピーチは、相手の 言論を封じる目的で行われる以上、保護に値する言論と言えず、その規制は必ずしも憲法違反にはあたりません。
国連人種差別撤廃委員会は再三、日本政府にヘイトスピーチの法規制を求めていますが、政府は「表現の自由」の観点から留保しています。
ヘイトスピーチをする側とマイノリティーの被害者との間には、圧倒的な力の差があります。 こうした力の不均衡を理解するには、歴史を知らなければなりません。日本と朝鮮半島の関係や在日コリアンをめぐる差別の歴史を学ばずして、 ヘイトスピーチ問題は理解できません。公人の差別的な発言は政治、社会、道徳的に許されないのです。」
▼秋葉丈志早稲田大学准教授はきっちりと、ヘイトスピーチが許されないこと、法規制は憲法違反でないこと、国連機関も法規制を求めていることを 語ってくださっている。有難いことだ。(2020.2.9)
2020.5.29朝日新聞夕刊

相模原市では、ヘイトスピーチを禁止する罰則付き条例の制定を求め、市民団体「反差別相模原市民ネットワーク」が活動している。 市の審議会が条例の方向性や内容を検討している。木村賢太郎市長は「個人的にはヘイト禁止は罰則が必要だと思っている」と取材に話した。 (東京社会部 赤田康和)▼希望が広がりました。(2020.5.31)
相模原市長のページ
「年齢や性別、国籍、障がいの有無等で、決して差別されることがないよう、 津久井やまゆり園事件を風化させず、福祉、人権等の諸施策を推進し、一人ひとりが人格や個性を尊重し合う、 偏見や差別のない共生社会を築けるよう取り組んでまいります。」
▼49歳の働き盛りの市長、期待しています。(2020.5.31)
朝日朝刊2020.10.10

▼記事を見て一歩前進とよろこんだが、詳細を読むと、被害者が市に申し点てたのが5月から6月にかけて、情報提供は300件以上。 師岡康子弁護士は時間がかかりすぎると批判。審査会長は「表現の自由の問題もあるから慎重に進めた」と。このように進んでいくしかない。(2020.11.7)

▼左の朝日新聞の金時鐘(キム シジョン)さんの連載、すばらしいです。ご紹介していきます。
●2019.8.8連載14「見すごされる人を思うのが詩人」
金さんは語っておられます。
「私が詩の題材にしてきたものは、すぐれて私的な情感の表出に重きをおく日本の詩壇からはかけ離れた、圏外の詩でした。」「詩を書くことは、 他人の存在をどれだけ考えられるかということでもあります。見すごされ、打ちすごされていることに思いがはたらく人が詩人なのです。」
●2019.7.19連載3「「非国民」の父 「皇国少年」の私」
「我が身を顧みて、教育とは本当に恐ろしいものだと思います。」

●2019.7.17連載1「日本語、とたんに「闇のことば」に」
「皇国少年になりきっていた私は、45年8月15日の日本の敗戦で地の底にめりこんでいくような墜落感を味わいました。」
●2019.7.18連載2「朝鮮半島分断 離散した家族」
「父は旧制中学で学んでいた時、抗日独立を訴えた「3.1運動」(19年)のデモに加わって退学させられたそうです。 ロシア革命に共鳴し、満州(中国東北部)を放浪した末、「知的労働で植民地支配に与することはしない」 と築港工事の人夫頭として働いていました。」
▼金さん、やはりこのような家庭でお育ちになられたのだ。納得。(2019.11.24)

●2019.7.24連載5「凝固し止まる 死者たちの時間」
1945年4月3日、南朝鮮だけの単独選挙に反対する武装勢力が済州島で蜂起。軍や警察の鎮圧で数万人の島民が虐殺された。
「事件から70周年の昨春、追悼の思いをこめて「死者には時はない」という詩を作りました。
〈強いられた死の死者に時間はない。その日その時のままに凝固し止まっている。 記憶が褪せない限り 私たちが怠らないかぎり4・3の死者は私たちのかたわらで生きている。〉

「私たちが怠らないかぎり死者は私たちのかたわらで生きている」、この言葉に惹かれました。私の今やっている作業はまさしくこれです。歴史を振り返る といことは、「死者が私たちのかたわらで生きている」ようにする作業だと思っています。怠らないかぎりです。 (2019.11.26)
●2019.8.6連載12「光州の惨劇 故郷の記憶重なる」 87年、韓国は民主化しましたが、それまで日本は独裁政権を援助し続けました。いま、戦争中の日本軍慰安婦や徴 用工の問題で外交がしこっていますが、民衆の口を封じた政権を支えた、日本の政治も忘れてはなりません。
▼1965年の日韓協定は独裁政権下での出来事。当然戦前の問題は再燃する。(2019.11.27)


●2019.8.9連載15「それなりにいとおしい過去も」
南北を同じ視野におさめる在日は、本国の同胞が知らないことを先に知りもします。日本との関係で新たな視点を広めることも できます。日本人のみなさんにも、かかわることなく変わってしまう日本にならぬようにと、心から願うばかりです。
▼在日の立場を冷静に見ておられる。そして「かかわることなく変わってしまう日本にならぬようにと」。 90歳の老在日・詩人からの日本人への静かな忠告と期待、心して受けとめます。(2019.11.27)





▼下の連載は「東学農民戦争をたどって」と題するスタディツアーの4回シリーズ。
私にとってはじめて目にする記事なのでまず手元の歴史研究会編『新版日本史年表』
(19846.19発行岩波書店)で概略をみてみました。

1894年
4/26東学教徒・農民四大綱領を発表、農民戦争に発展
6/16日本、清国に東学反乱の共同討伐・朝鮮内政の共同改革提案
6/22清国拒否
7/23日本軍、朝鮮王宮占領
8/1清国に宣戦布告
▼これを前提に朝日新聞の記事を読んでいきます。

日清戦争のさなかの1894(明治27)年秋、日本軍の朝鮮侵入に抗して、朝鮮の自主独立を説く民間宗教「東学」に共鳴する農民たちが蜂起した。
ツアーのリーダー、近代日朝関係史を専門とする歴史家中塚明さん(89)が慰霊塔の入口であいさつ。
「東学農民戦争は私の祖父の世代に起きました。 3万人ともいわれる朝鮮農民が虐殺されました。日本人の一人として心よりおわび申し上げます」
地元の東学研究家張守徳(チャンストク)さん。
「みなさんは直接の加害者ではないし、私たちも直接の被害者ではありません。同じ歴史を学ぶ者として、ナショナリズムを超えて、ヒューマニズムの立場から 共に前に進んでいきたいと思います」
▼このような交流が日韓関係の、日本国内での「在日」の人たちとの関係の基盤になっていくことを願います。 ヒューマニズムの立場しかありえません。(2020.7.19)
韓国東学研究の第一人者朴孟洙(パク メンス)教授の説明:
「平和的に社会変革をしようとした(1894年の)東学の精神 は、1919年の三・一独立運動から、独裁的な李承晩(イ スンマン)政権を学生、市民のデモが打倒した60年の4・19革命、80年の光州民主化闘争、そして 朴槿恵(パク クネ)政権を退陣に追い込んだ2016年のろうそくデモへと引き継がれてきました」
▼朝鮮民主化の歴史は120年以上も綿々とつづいている。20年〜30年ごとに大きな民主化の運動が起きている。日本とは違う。 目を開かせていただきました。詳しく追っていきます。(2020.7.19)
2019.1.15朝日夕刊
2019.1.16朝日夕刊
2019.1.17朝日夕刊
2019.1.18朝日夕刊


「東学農民軍は、できるだけ敵を殺さない不殺生の精神で日本軍と渡り合いました」
農民軍の指導者チョン ボンジュンが示した行動規範「刃を血で 塗らさないで敵に勝つことを最上とする。やむなく戦うにせよ、なるべく人命を損なわないことを貴ばねばならない」
では日本軍はどう行動したのか。
「東学党討滅大隊」の派遣にあたって陸軍参謀次長川上操六は「東学党に対する処置は厳烈なるを要す、向後悉く殺戮すべし」と命じていた。
火縄銃や竹ヤリで戦う農民軍の戦死者は3万から5万人と推定されている。 「光州の戒厳軍はデモ隊に向けて容赦なく発砲、市民150人以上が死亡し、多数の負傷者を出した。」 「新聞各紙は、日清戦争が「善戦」(道義的に正しい戦争)であることを強調した。日本にとって東学農民軍は、「善戦」の邪魔をする「暴民」 であり「賊徒」だった。」
▼今日読み返してみて、日本の不正義が際立つ。これが日韓近代史のはじまり。(2020.11.6)

2020.1.27解放新聞
「明玉(ペ・ミョンオク)さん。「高校無償化からの朝鮮学校排除をめぐる課題」

「朝鮮学校を「民族教育をおこなう北朝鮮の学校」とおもう人が多いが(私もその一人)親の一方 が朝鮮民族の子孫なら国籍や思想信条を問わず入れる。差別にぶち当たったとき、自分の出自ではなく差別する人が恥ずかしいと思える感性が育まれた。」 (すばらしい !)
「高校無償化制度、民主党の目玉政策の一つ。韓国学校が竹島を、中華学校が 尖閣諸島を、アメリカンスクールが原爆投下をどう教えているかは不問。しかし拉致問題担当大臣の反対で、朝鮮学校は対象外とされる。国連から 人種差別と指摘され、教育内容を問わない「高校相当」の客観的な審査基準をさだめ、審査すれば対象になるのは確実だったのに、2010年、 延坪島砲撃事件を理由に停止。その後自民党政権が成立。根拠省令を削除、朝鮮学校は制度から完全に除外された。 差別を容認することは差別される苦しみを容認すること。公開授業など通じて 朝鮮学校を知ってほしい。子どもたちを大事にしていける社会に向かってともに歩んでいきたい。」
▼米国では国家による黒人差別、日本では国家による朝鮮人差別。「明玉さんの「差別を容認することは 差別される苦しみを容認すること」とのことばが重くからだとこころを圧迫する。(2020.7.18)
朝日朝刊2020.10.15

▼キョファン君のおもいを直接全部読んで欲しいと思い大きく掲載しました。 在日社会、日本社会を担ってくれる青年になってくれますね。期待しているよ!(2020.10.17)


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