▼『冬枯れの光景』(下)の「戸籍の歴史と家制度の仕組みに関する考察」は286p〜303pの論文です。戸籍と家制度が入れ替わり立ち代わり出て来ます。
私自身混乱してしまいました。そこで戸籍は戸籍、家制度は家制度として分けて整理しました。たぶん読者にとって理解がし易いのではとおもいます。
谷元さん、御免なさい。まず戸籍から。(2020.2.21)
T 戸籍制度とは何か(286頁)
現行の戸籍法第6条は、「戸籍は、市町村の区域内に本籍を定める一の夫婦及びこれと氏を同じくする子ごとに、これを編成する」としている。
すなわち、「本籍」と「氏」を同じくする「家族」を単位として同一の戸籍に入ることとされ、これが戸籍を貫く「一家一籍」の原則だとされている。
この戸籍制度について、その歴史と現状を丁寧に分析した上で、遠藤正敬(えんどうまさたか)さんは著書(『戸籍と国籍の近現代史』/明石書店/2013年)で
次のように断定する。
「戸籍における『一家一籍』という原則は、国家権力による効率的な国民の管理と監視という目的を第一義とするものであり、
現実に生活する国民の利便や要求に配慮することを念頭に置いたものではない。」
以下に、戸籍制度の歴史をなぞりながら、「差別」との関連においてその仕組みと問題点をみておきたい。
《差別身元調査に悪用されつづける「戸籍」》
(287頁)
戸籍等個人情報大量不正取得事件などにみられるように、部落差別身元調査事件の根底には、常に「戸籍」の問題が存在している。
1970年前後から、就職や結婚のときに戸籍閲覧によるに差別身元調査が常態化していた事態を改善するために、
戸籍閲覧制度や戸籍法が改正されてきたが、そのたびにイタチごっこのように「部落地名総鑑」差別事件をはじめとして差別身元調査事件が、
手を変え品を変えて繰り返されてきている。そのつど、戸籍のあり方が問題にされてきた。
そもそも世界に例を見ない個人の認証制度として、日本人が当たり前のように受け入れている「戸籍」あるいは「戸籍制度」とは何であろうか。
近現代の日本において、一貫して個人の認証制度として存在しつづけてきた戸籍制度の端緒は、
1871(明治4)年の戸籍法である。これにもとづいて壬申(じんしん)戸籍が編成された。
物事の本質はその原初形態にあるとよくいわれるが、その戸籍法の前文に書かれている法制定の趣旨からみていくことにする。
そこには、次のように記されている。
人民ノ各安康ヲ得テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ政府保護ノ庇蔭ニヨラサルハナシ 去レハ其籍ヲ逃レ其数ニ漏ルルモノハ其保護ヲ受ケサル理ニテ自ラ国民ノ外タルニ近シ
此レ人民戸籍ヲ納メサルヲ得サルノ儀ナリ
|
一読してわかるとおり、この戸籍法制定の趣旨は、
第1に、「人民」の安心・安全は国家の保護による以外はないこと(国家主権)、
第2に、国の戸籍に登録されてはじめて「人民」が「国民」になり保護されること(国民国家)、
第3に、戸籍に登録されない者は国民ではないこと(戸籍=国籍)を明記している。
《壬申戸籍は身分差別戸籍》
(291頁)
このような思想のもとに壬申戸籍は作成された。そのような戸籍であるがゆえに、
壬申戸籍には前近代の旧身分にもとづく華族、武士などの族称が記載され、被差別部落の人たちに対しては
「旧穢多」とか「新平民」などの記載がなされたのである。
しかも、戸籍は原則公開であったので、戸籍を調べれば旧身分をだれでも知ることができ、
これが、差別身元調査に悪用されつづけてきたという歴史的事実がある。
この壬申戸籍は、部落解放運動などの抗議によって、1969年に法務省が「閲覧禁止・厳重保管」の措置をとるまで100年間、
自由閲覧に供されてきた。当然、長い期間の間に、興信所・探偵所などの差別身元調査を行おうとする者たちによって、
被差別部落の所在地にかかわる情報は原簿化され、秘匿化されていることは容易に推察できる。その一端が、
「部落地名総鑑」差別事件や戸籍等個人情報大量不正取得事件として表面化しているのである。
《戸籍制度の抜本的改革は民主化への焦眉の課題》
(294頁〜296頁)
戸籍のあり方とその取り扱い方に水平社時代から何度も抗議行動を行っていたが、本格的な闘いは1968年の段階で、
「明治100年の差別性を問う」というかたちで、戸籍が差別身元調査に悪用されている事実を政府・地方自治体に突きつけ、糾弾闘争を展開した。
この闘いによって、1968年に壬申戸籍は「閲覧禁止・厳重保管」の処置がとられ、地方自治体でも戸籍の閲覧制限が行われるようになってきた。
戸籍の原則公開制が制限公開になるのは、1976年の戸籍法改正によってである。
また、1973年3月には労働省から「新規高等学校卒業者採用・選考のための応募書類について」という達知が各都道府県知事に出され、
「求人者が…統一応募書類のほかに、戸籍謄(抄)本等の他の書類の提出を求めることは認めないものとし、
これを強力に指導すること」が周知された。
さらに、文部省からも同様の通知が出され、「戸籍謄本(抄本)の提出を求めることは本人の家族状況・環境など
実質的な身元調査につながり本人の能力・適正・意欲以外の条件にふれることになるので求めないこと」が周知された。
しかし、これらの制度改革をあざ笑い、かいくぐるように、差別身元調査がいまなお後を絶たないのは、
第一部の「部落差別実態論」で詳細を既述したとおりである。
前出の遠藤正敬(えんどうまさたか)さんは、
戸籍制度が婚外子差別、民族差別、性差別、部落差別などを生み出す根源であることを明らかにしながら、
「戸籍の問題性は、現在の身分関係を登録するという
民事的な身分証明の手段にとどまることなく、権力による政治的統合の手段となり、
えてして民主主義と対峙してきた点にある」とし、「その意味で、
『国籍』『血統』『民族』『家』といった政治権力の操作する
符号を絡み合わせながら、『日本人』を選別し、序列化し、分断してきた戸籍制度を抜本的に変革し、家族生活に対する規制と干渉を
撤廃していくことは不可避の課題である」(前掲書『戸籍と国籍の近現代史』/明石書店)と提起している。
(下線は引用者)
戸籍が持っている機能とは何か
(296頁〜297頁)
日本人が普通に違和感なく受け入れているようにみえる戸籍とはいったい何であったのだろうか。
今日では一般的に、戸籍は4つの基本機能を有し、それを細分化すると10機能になると説明されている。
基本機能の
第1は、「証明機能」といわれるもので、その中身は「個人の識別・特定」「身分関係の公証」「国籍の登録・
証明」という機能である。
第2は、「追跡機能」で、「住所の生涯追跡」「身分関係の生涯追跡」「血縁関係の無限検索」の機能である。
第3は、「組織機能」で、「身分秩序の維持」「親族共同体の組織」「国家組織の維持」をその機能としてい
る。
第4は、「統計機能」であり、具体的には「センサスの基礎資料」の機能である。
《戸籍の本質は一元的国民管理》
(297頁)
「戸籍」がもっているといわれるこれらの機能にかかわる最大の問題点は、国家(政府)
が国民の家族関係・居住関係に関するすべての情報を一元的に把握し、国民を管理することができるシステムであり、
血統と本貫(本籍)で人びとを分類し、差別・支配する仕組みであるということである。
同時に、結婚・離婚・出生・養子・相続・死亡などの人間が生きていくうえでの重要場面で戸籍が登場し、
「家」を意識させる仕組みになっているということである。
戸籍の本質に関する歴史的経緯からの考察
《大化の改新(645年)以降に初の全国的戸籍を作成》
(297頁〜298頁)
日本における戸籍の成立過程について、増本敏子・久武綾子・井戸田博史共著の『氏と家族―氏〔姓〕とは何か』
(大蔵省印刷局/1999年)で詳述されている。
「欽明30年(570年)に、男を対象とする「丁籍(よぼろの ふみた)」の作成が、わが国における初の本格的な戸籍の作成であった」
とされている。
▼「日本書紀」欽明30年の条にこの記述が見える。(2020.4.27)
その目的は、「吉備の五郡に白猪屯倉(しらいの みやけ)を設置し、ミヤケを耕す丁(よぼろ)(農夫)を差し出す田部(農家)
の村が指定されていた(欽明16年ごろ)。そこで耕作に従事する田部の『丁籍』を作成させた」とのことである。
これが現認できる最古の戸籍のはじまりといわれている。
大化の改新(645年)以降、中国の律令制を模倣した古代律令制が全国的に整備されていくことになり、
「改新の詔(みことのり)によって六年一籍制度が690年より始まり、人民を男女・貴賤の別なく一人ひとり
戸籍に掌握して徴税の対象とする支配体制が成立し、律令国家の経済的基盤が確立した。
この記念すべき年の干支を冠して原簿を庚寅年籍(こういんのねんじやく)と命名した」。
すなわち、徴税を目的にして六年ごとに戸籍をつくっていく戸籍制度により全国的な支配体制が成立したのである。
この戸籍によって良民・賤民も選別されていくことになる。
▼籍の意味:『字通』ふみ かきつけ しるす。
《律令制度の崩壊により戸籍制度は消滅》
(298頁〜299頁)
しかし、
「奈良末期から平安初期にかけて、律令制の崩壊によって班田収受の不規則化、農民の逃亡、
籍帳の虚偽が盛んに行われたことは周知の歴史上の事実である」(同書)
といわれるように、古代律令制とそれを支えた班田制・戸籍制度は100年余で実質的には崩壊し、9世紀末までには有名無実となり、
中世には班田制に代わって荘園制が発達し、戸籍は存在しなくなった。
「中世に戸籍がつくられなかったのは、荘園制が発達して、土地人民が私有所有の対象となったこと、
古代の戸籍に代わって、土地と人との統一体としての“名(みよう)"が、年貢や課役の徴収単位としての機能を
果たしたことなどにもとづくであろう」(同書)。
なお、「名」とは、墾田を自由に私財とさせる
「墾田永年私財法」(743年)が定められて以降、
墾田主がその土地が自分の私有であることを強調するために冠したものであり、平安初期ごろから風習になったとされる。
名田(みようでん)や名主(みようしゆ)、名字(みようじ)などの起源である。
▼このくだりを読んでいて明治政府が明治5年(1872年)の北海道土地売貸規則、明治8年
(1875年)の山林荒蕪地払下規則で開拓者に無償または極めて有利な条件で(アイヌ民族の大地を)払い下げた
政策を思い出した。1千年以上たっても人間のやることはあまり変わらない。
「律令国家が崩壊するころ、在地の領主や中央から下ってきた官人による所領の開発が盛んに行われ、
彼らは旧来の氏を用いながら他方では自らの本拠地の名を一族の名称として名乗るようになり、
名を字名(あざな別名)としたことから、これを“名字”という。これが公的な家の名として認められていった」(同書)。
▼本拠地の名=家の名
さらに重要な指摘は、
「
中世家族は、その
前期には武士の惣領制(そうりよう)をはじめとする
族的結合が一般に強かったが、
中世
後期になると、惣領制が衰退して
『家』意識が成立する。
(下線は引用者)実際には女性の地位が低下して親子・夫婦のあいだの上下関係が深まり、
それが近世にもちこまれるのである」ということである。
《戦国時代から近世において再び「戸籍」制度が登場》
(299頁〜300頁)
「鎌倉、室町時代は、戸籍簿がない時代であったが、戦国時代になると大名たちは、自領内の統一把握を早く達成するため、
分国(ふんぐに)法の制定、検地および領内人民の戸口調べを実施」するようになるが、これを全国的に完備したかたちで実施しようと
企図したのが豊臣秀吉の「太閤検地」であり、江戸幕藩体制に引き継がれていく。
▼分国法の実際を見てみました。室町幕府の守護大名から戦国大名として一国を支配していく過程で
制定されたようです。(2020.2.23)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
越前国守護 朝倉孝景の分国法
朝倉孝景条々は室町時代中期の武将、越前国守護の朝倉孝景が制定したとされる分国法。
朝倉敏景十七箇条、英林壁書ともいう。家訓をもって国を治める基本とした。
1479年(文明11年)ら1481年(文明13年)までの間に制定されたとみられている。
江戸幕藩体制のもとでは、宗門改(しゆうもんあらため)制度のもとで作成される「宗門人別帳」が戸籍制度の機能を果たすことになる。
江戸時代の
元禄期(1688〜1704年)以降が、墓標、位牌、法名などの記載から百姓・町民の「家」の成立期であったとされる。
同時にそれは、被差別民に対する「差別戒名」「差別法名」が現れてくる時期でもある。「家」の成立が、
「差別」意識を強化している側面をみておく必要がある。
(下線は引用者)
《明治政府による最初の戸籍が『壬申戸籍』》
(300頁)
幕藩封建体制を打倒した近代国民国家としての明治政府は、徴税、徴兵を主目的にして、人民掌握と管理のためにただちに「戸籍」編成をはじめる。
1871(明治4)年に戸籍法を制定し、翌年に戸籍を編成する。
この戸籍が編成年の干支(壬申)を冠して「壬申戸籍」と呼ばれている。
この戸籍は、江戸時代の「宗門人別帳」を基礎にしたものであり、
前近代の身分も記帳した差別戸籍である。
その後も戸籍は改編成されていくが、
明治以降の政治的・社会的統治論理の骨格である「家」思想の法制度的担保として戸籍制度は存在しつづけ、
家制度が解体された戦後においても維持され、今日にいたっている。
(下線は引用者)
▼谷元さんの説明をたどるとつぎのように要約できます。
中世後期―「家」意識の成立。
元禄期―百姓・町民の「家」の成立期=「宗門人別帳」。
明治政府―「壬申戸籍」(宗門人別帳)。
戦後―憲法で家制度解体・法律で戸籍制度の存続。
すなわち「家」についていえば中世後期を引きずっているということになります。
翻って考えますに、わたしは奈良桜井の生まれですが、
中世のなごりが色濃く残る土地です。能・狂言がこの地で生まれています。狂言のことばは中世のはなしことばですが、
わたしの記憶にも残っているふる里の言葉の数々(今は使いませんが、)を昭和50年の春から半年ほど読んでいた大野晋先生の『古語辞典』
で「発見」したことを思い出します。
けなるい―うらやましい。
ごふにん―極悪人・人をののしる時にもいう。私の記憶ではののしるときの母親の
言葉だったです。
せせる―つつき散らしてあさる。食事の時魚を箸でつついて身を取って食べるときにせせる、と言っていました。
《歴史的経過からみる戸籍の本質》
(301頁)
戸籍の歴史的経緯を概観してきたが、そこからみえてくる戸籍の本質と特徴は、次のような点にある。
第1に、戸籍は、支配者の徴税・賦役・徴兵のための人民管理台帳であったということである。
第2に、戸籍は、「家」制度を現実化し、個人の家への帰属を強制し、前近代的家族観である家意識を支える役
割を果たしていることである。
第3に、戸籍は、氏(血統)と本籍(土地)に人々を縛り付け、「家の論理」によって支配を確実にするシステ
ムであるといえる。
そのような本質を戸籍が有しているのもかかわらず、今日においても多くの人が戸籍を受け入れているのは、戸籍が「個人の認証」機能を有しており、「住民の利便性」とか「行政の合理化」に資しているという建前に翻弄されているからであろう。
《戸籍の改廃は喫緊の課題》
(301頁〜302頁)
立命館大学の二宮周平(にのみやしゆうへい)・法科大学院教授は、『新版 戸籍と人権』(解放出版社/2006年)において、次のように提起している。
「制度が人びとの意識を規定することを思うとき、制度をつくり直すときには、便利性ではなく、原理原則の問題を重視しなければならないことがわかります。」
「私見では、現行戸籍は『家』の克服という使命を果たしたとはいえないように思います。性別役割分業意識や慣行が根強い背景には、
日本的な家意識が残っているからであり、戸籍にはこれを温存する作用があったと考えるからです。」
「身分登録制度を私たち自身の利益を守るものにするために何が必要か、効率性や経済性と、個人の情報=人格の尊重と、
どちらを優先的に考えるのか、これからの日本社会のあり方自体が問われているように思います」
として、現行戸籍制度に代わる具体的な個人登録制度のあり方を提示している。きわめわかりやすい例示を図表化しており、一読に値する。
池田論文2021.6/4 最新訴状構想(アイヌモシリ回復訴訟の構想の中の一部)
但し、日本法は、欧米列強からも近代国家、文明国家の扱いをされ、彼らの仲間(文明社会の一員)と認めてもらいたがったために、
当時最新輸入品だった「近代法」に基づいて国家を編成し直したが、それにもかかわらず、
国家構成員(といっても[近代]天皇制を国制の柱にする必要からも「臣民」=天皇の家来でしかないですが、
幸い欧州列強にも英国・プロシャ国をはじめ王制諸国がまだ有力なそれとして存在していたので、
大威張りで王制国家の形をとり、しかも、旧時代には基本的に特定の身分階層内の特定編成の血縁姻族集団に過ぎなかった「家」を
全臣民間に広げ、その際イデオロギー的に「万世一系」天皇の家族構成を臣民にも敷衍して、
家長(戸籍法上の名称は「戸主」)は小天皇として、日本国家の大宇宙に対し、それを構成する基礎単位たる小宇宙として「家」を構想し、
それぞれにつき各自の「祖先教」をもってイデオロギー的に武装したものを想定した。
▲「家」構想には中世鎌倉時代以降の武士社会の支配・被支配の関係と古代天武天皇以来の
天皇制が巧みに組み合わされているように思う。(2022.4.17)
こうして多くは既存のものの換骨奪胎した寄せ集めの拵え物ではあるが、新時代に国家社会の新体制を復古的な装いを以て
臣民一般を統御する制度装置、それが 「家」制度であり、
他方実体的な社会統合のイデオロギー装置であり統合の仕方、
スタイルでもありました(日本社会の「家族的構成」)、その組織装置が 戸籍であり、
こちらは鳥瞰的把握にも個人単位の詳細把握にも有効なうえに人民掌握の組織的手段であり装置であり、
民事の他、租税、軍役、その他あらゆる司法・行政の基礎資料を得る上で便利かつ枢要な手段となった。
▲木村さん、ユポさんの古い戸籍を勉強していると戸籍の基礎資料としての有効性がよくわかる。
(2022.4.17)
各「家」(=「戸」)を単位に「戸籍」を編製させて、《日本国→戸籍→恒常的住民》
(当初、戸籍は一種の住民台帳としての意味をも持たせられた。)
もっとも、施行を始めて十年も経れば、全国に本格展開をし終えない内から、住民の間の実住所と戸籍地との乖離が
広がって処理の限度を超えたので、別途独立の制度として住民台帳・住民票の制度を設けるに至った。
つまり、上記の共和制国家で「身分証書」制度において純粋化し貫徹する人類・人権普遍的な近代国家の構成の下で、
同制度一本で捉えられるのに対して、「天皇」その他の皇室典範を適用される人々
(「皇族」)以外は、「身分証書」制に代わって、「臣民」という国家の正規構成員なのか事実上存在する
付属物なのか不明で曖昧な 半身分
(この場合の「身分」は近代に消失したはずの階級身分です) 的存在をどう
位置付けるかは哲学的に難しい問題がある。
この国では、その存在証明が戸籍制と住民票制度との複合形態をとることになり、
しかも血縁・姻族制原則に根差す戸籍制度こそがその基本であった。この構造は、戦後改革においても近代国家の論理の貫徹は結局見送られ、
戸籍からの大家族の排除(三世代同籍の禁止)=核家族を社会学的モデルとする一世代単婚(+未婚子)を単位とする
戸籍への化粧直し程度でお茶を濁したために、日本国家の編成は、今も依然として
血縁を根本とする非近代国家的なものに留まっている。
戦後改革の民主化措置によって、戦前の「臣民」から間違いなく昇格した国民は、日本国憲法では前文等で明確に
主権者として遇されることが宣言されているが、さて、誰がその「国民」なのかはいま一つ明確ではない。
ナポレオン法典
▲ナポレオン法典第34条。近代の身分証明書。
『1804年ナポレオン民法典』中 村 義 孝(なかむら・よしたか 立命館大学名誉教授)(訳)
序
自由主義経済秩序のもとを定めたのが1804年の民法典である。1804年の民法典は,その後多くの改正を経て条文数もずいぶん
増えているが,フランスでは現行法である。 フランス革命は基本的にブルジョワ革命(Revolution bourgeoise)である。ブル
ジョワ(bourgeois)は,フランスの封建時代末期にブール(bourg,市が立つ町)
に住んでいて商取引を行っていた人々のことである。言い換えれば「商人」,「有産
者」である。フランス革命は「商人革命」,「有産者革命」である。
フランス革命は,ブルジョワが誰とでも自由な経済活動を行うことができるよう
に封建的な束縛を打ち破るために引き起こした運動である。その運動によって,よ
くいわれているようにすべての人々の自由と平等が確立された,訳ではない。ブル
ジョワが,封建制度を打ち倒して,それまでの封建的特権身分の者と自分たちが肩
を並べ,財産をもたない労働者や農民の上に立つ社会を作ったにすぎない。 そのこ
とは,当時制定された憲法の規定をみれば明らかである。フランス革命で目指され
たのは,財産を持っている人々の平等と自由にすぎなかった。1804年のフランス人の民法典は,ブルジョワが推進したフランス革命の初期に制
定されたものであり,ブルジョワの自由な経済活動の基礎を構築しようとした法典,自由主義経済社会の基本を最初に定めた法典である。ブルジョワが有産階級の
利益のために作成したものである。
ブルジョワが自由な経済活動を行い得るためには私的所有権の絶対(フランス人
の民法典第554条),契約の自由(第1134条),過失責任(第1382条)という原則が
必要である。こういった基本的な原則を確立したのが1804年の民法典であった。
▲この序文は凄い。明快。(2022.12.25)
目次
1.フランス人の民法典という表題のもとに36の民事単行法を一つにまとめる法律
2.1804年民法典目次
3.フランス人の民法典
第34条「身分証明書は,証明書が受け取られた年月日時,証明書に掲げられるべき
すべての者の姓名,年齢,職業および住所を表示すべきものとする。」
▲日本の戸籍とは大いに違う。(2022.12.24)
|
これは、法制度だけでなく、実生活においても個人のアイデンティティ上の問題を生じさせ、例えば
パスポート記載
氏名、国籍、本籍、生年月日、性別、
|
《国民籍→パスポート》というごく自然な国籍アイデンティティのあり方を不可能とし、
《血縁・姻籍表示たる戸籍→住民票→運転免許証・パスポート等々の「公的」証明→日本人たることの証明》
といった逆説的な存在証明の順序となって21世紀の今なお留まっている
▲「21世紀の今なお留まっている」の文書は 。が無い。この文書の最後の文は(他方、……分かりにくい。)
まで( )内の文章がつづく。そして( )で閉じられ、。となる。何とも長い( )の補足である。池田文章の特徴である。
この文体を読み解かないと池田文章の肝心の深い思索の内容を正確に理解できない。(2022.4.17)
(他方、国家構成上、上記の臣民と対置された少数の人々の地位が戦後は曖昧になった。憲法が特設した「象徴」位である天皇は、氏
(そもそも氏はない。その先祖が王(→貴族=「氏」族・「氏」門が単位であった。)を統合するその上位の大王となったという古事からである)
・素性・門地等及び基本的には性別による生来的基準を排除した、万民に公平な一定の要件のもとで被選挙権を有する
「国民」が公平に志願できる公選制、又は、同じく生来的基準を排除した公平かつ平等の条件の下での試験による能力判定
による選抜によって選定される他の全ての常勤公務員とは全く対照的な仕方で、同職が空位になった場合に、
極めて限定された血縁関係にある者のうちから、したがって生まれながら保有する血統を唯一の基準として、
憲法が指名する皇室典範なるという特別法に定められた順位にしたがってその最先順位者が就任するように定められており、
「国民統合の象徴」位という国政上、組織形式上の要となる要職を担う国家公務員に当然に任じられるのであるから、
その担い手は論理上、国家構成員=国民の一部と考えられていると推論され得るが、憲法にはこの公職の位置づけと
リクルートの規定はあるものの、担い手の国家的属性を直接示す記述はない。
▲このそもそも論をもっと意識しなければいけない。男性天皇制、女性天皇制の前に。
(2022.4.17)
他の皇族については、同じく皇室典範によって規定されることが予定される以外はその国家構成員としての位置は必ずしも明瞭ではない。
戦後は、新憲法の下、戦前天皇が占めていた主権者の地位を占めるようになった旧「臣民」とは対照的に、
その国制上の地位は曖昧になり、この点で逆転現象が生じており、区分け上対蹠的である点だけは続いている。
もっとも、実務においては、婚姻その他で皇族籍を離れる者は一般国民、つまり主権者になるので、
これは成り上がりか成り下がりか不明であるが、旧憲法下と同様に、ともかく国家組成の前提として
国家身分上明確に区分されている二つの国家身分の仕切りを移動することが明示されており、
日本国の構成主体として明確な存在には成れるという実務慣行が確立されているものの、哲学的には曖昧模糊としており、
分かりにくい。)。 ▲出発点の「今なお留まっている」の文章は句読点の 。が無い。それは「……分かりにくい。)」
のその後 。が「今なお留まっている」の 。である。こうしてこの難解なやっと文章が解読できた。(2022.4.17)
残念ながら、この根本問題を正面切ってわかりやすく示す日本の家族法教科書を見たことがない。
因みに、婚姻成立について、日本の「届出」婚制を、欧米の世俗婚=「認証」婚制と一緒くたにして、
教会(宗教)婚などと対比させている家族法教科書が多い(これもそうでない書き方を今まで見たことがない。)
笑える/笑えない現実も、曖昧模糊たる憲法体制が齎しているこのあたりの制度的食い違いが社会意識・法学者の
法意識の混濁の根本原因であるように思われる。
mariage civilは、「民事婚」というのが定訳になっているが、
その本来の意味から言っても、近代の婚姻の生成史から見ても、あるいは制度の実態や法制度的諸関連から見ても、
「国家婚」の方が適訳であるように思われる。(因みにfruit civilのcivilは同じcivilという形容詞で意義的に同根であるが、
そこでの修飾対象たるfruitの人間社会での役割位置から自ずと違った結果を引き出し、「法定果実」と訳す。
これは定訳通りでよい。概念上はcivil(e) ⇔ naturel(e)である。)
▲ここまでは アイヌモシリ回復訴訟ではなく、部落問題にとって大変重要な家制度、戸籍の問題ですので、
むしろ私のHP「BURAKU」で使わせていただけないでしょうか。 2022.4.16転載する。
|
U 明治以降の日本における家制度の本質
明治民法の各条文を確認できます。
https://law-platform.jp/table/129089d/5
明治民法の「家」
《統治論理としての家思想の基盤を支える戸籍制度》
(288頁〜289頁)
問題は、国民である一人ひとりの個人が個人登録ではなく、家単位の戸籍で登録されていることである。
ここに、明治国家の家思想に基づく統治の論理が存在している。
すなわち、前近代の武士階級や一部の富農・富商層に存在していた
男性上位の血統主義的序列観にもとづく主従関係である家父長的家制度を近代国家の統治の論理の骨格に据えて、
「家」の論理を法制化し、「戸籍」というシステムとして具体化したのである。
「家」の概念は、明治民法の起草過程にあった「人事編大体論議事筆記」には、次のように規定されている。
家トハ一ノ氏ヲ以テ独立シテ人別ノ戸籍ヲ設ケタル者ノ系統ヲ云フ |
いわば、前近代の家思想を単なるイデオロギーではなしに現実的な組織に置き換え、国家の統治・管理システムとしてつくりだされたのが「戸籍」制度である。
まさに、「国は家なり」の用語に象徴されるように、近代の明治「国家」は、家の論理で構築されたといえる。
▼明治民法で条文化。明治民法の親族編は条文で239条、相続編で183条、全条文で422条。
(現行民法は親族編157条、相続編163条、全条文で320条)江戸時代の家的秩序を親族編と相続編で法制化しているとのこと。
『宗教法と民事法の交錯』光洋書房2008年3月30日発行収録 池田恒男論文(153頁〜274頁)の156頁。
祖先祭祀は明治民法によって確立された明治国家の国家統合への最重要のイデオロギー装置であった。
明治民法制定作業の中心中の中心たる「起草委員の 穂積(陳重)が明治民法に規定した祭祀条項は、
国家=皇室の祭祀の基礎としての『家』の祖先祭祀を規定したものであり、
たんに私法上の『家』の祖先祭祀を規定したものではないということであ」り、たとえ「家」の
血統的純粋性を担保する「異姓不養」(家の継承者を確保するための
養子は戸主の血縁者である同じ姓の者以外の者を養子にしてはならないという原則)を敢えて切り捨ててでも
「家」の連綿たる連続性を追求したのも、 明治民法の創出する「家」制度が、その前提とする日本皇国論=家族国家観を補強し、
日本が「皇室を総本家とする一大家族であるとする統治イデオロギーの不可欠の道具であったからである〔森謙二2000:220-21、222-25〕。
▲上記下線は掲載者が引きました。 国家=皇室の祭祀の基礎としての
『家』の祖先祭祀を規定したもの、との指摘は衝撃的でした。
家制度の根深さは天皇と結びついているとは意識にありませんでした。(2021.8.29)
▲さらに読み進めます。(2021.9.1)
196頁「「祖先教」をもって人為的に構成された血縁集団の核とする旧「家」制度の論理」
▲旧民法の天皇制国家の家制度のこと。
210頁「葬送儀礼全体が死者を旧「家」の祖先崇拝の論理で「祀る」ものではなく、その死を悲しみ、死者を悼み弔い、想うという極めて具体的な人間的
感情の表現過程となりつつある現れである。」
▲新民法下における判例の変遷に対する池田先生の評価
216頁「遺体・遺骨が所有の対象に馴染まないとするこれら批判説も、それでは所有権とは何かを突き詰め、その近代法における本義に立ち帰って、
論理的には「財産権」たる性格を獲得する以前に人格権そのもの(propoerty)であったことを顧慮した形跡はなく、
訳語の感覚での常識論に留まっていた。」
▲「財産権」=人格権(propoerty:ウエブスタ英英辞書ではone’s own)。この関係は以前先生から教わった。
240頁「家督相続は「家督」すなわち戸主(権)という身分(権)の相続であって、その禁止は、
「家族国家」イデオロギー上国家の支柱をなす「家」の支柱
を欠くという事態を最大限阻止する一般的必要から編み出された法政策である。」
▲旧民法で家督の放棄が禁止された訳の解説。
▲今朝、旧民法をいくら調べても「家督放棄禁止」の条文が見あたらない。ここの箇所を注意深く
読み返してみると次のように池田先生は書かれている。
「祭祀継承には承継の承認や放棄の制度がないから、権利承継を放棄したり、辞退したりすることはできない」と解するのが
判例・通説であり、と判例・通説に疑問を呈されながら、その依って来る所として「編み出された法政策である」との
梅謙次郎1900年『民法要義巻之五』を紹介されている。
私の関心はもっぱら梅教授の解説にあって、明治政府とそれを支える学者の意図を知ることでした。(2021.9.2)
248頁「「先祖代々墓」という墳墓形態それ自体が大正期以降急速に普及した、明治民法という強力な法制に帰せられる形態に過ぎず、
せいぜい江戸時代の中期以降にぱらぱらと発生を見たに過ぎず、明治民法成立以前では全く例外的に存在したものにすぎない。」
▲歴史を知っておくこと。
252頁〜253頁「近代「市民社会」の公理である「個人の尊厳」は、取りも直さずその生の尊厳である以上、
その到達点としての死の尊厳でもある。「市民社会」
の観点からみて、公民(citizen)であった死者に対する儀礼を、市民社会に相応しく祀る側・悼み懐かしむ側本位に自由かつ十全に執り行うためには、
祀りを私事化と厳格な私有財産の枠内で行おうとするのでは狭い限界と大きな障壁があり、公共事としての位置づけとその下での探求が必要であり、
究極には死者そのものが生者であったときの人間社会における私的所有制によって狭く縛られた棚から解き放たれることが必要であろう。」
▲さすが池田先生。近代市民法を徹底させるとこのようになる。
256頁「統治装置たる国家をイデオロギー的に統括すべき体系だった思想の媒介物として「家」制度を位置づけたのは、1898年(明治31)
施行の明治民法であった。」
▲明治民法、1898年。敗戦までわずか47年。この「家」制度に戦後75年経った今も縛られている。家督制度は崩壊したが、
「家」には縛られている。
256頁「人が死んだ場合に、12世紀頃までは名実ともに都であった京においてさえも死体が遺棄・放置されていた」
▲こういう歴史も知っておくこと。
▲やはり引っかかっているものがある。梅謙二郎のこと。天才と言われた男が旧民法の起草者の一人。
1941年改正治安維持法を読んだときもその周到な構成には感心した。天才的頭脳を支配者の道具として発揮するか、人民のために捧げるか、の違いであることに
あらためてきづく。(2021.9.3)
愛知大学 新民法全条文
http://roppou.aichi-u.ac.jp/text/minpo.txt
旧民法987条
系譜、祭具及ヒ墳墓ノ所有権ハ家督相続ノ特権ニ属ス
新民法897条
系譜、祭具及び墳墓の所有権は、前条の規定にかかわらず、慣習に
従つて祖先の祭祀を主宰すべき者がこれを承継する。但し、被相続人の指定に従
つて祖先の祭祀を主宰すべき者があるときは、その者が、これを承継する。
(2) 前項本文の場合において慣習が明かでないときは、前項の権利を承継すべ
き者は、家庭裁判所がこれを定める。
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家の論理の基本は、親子関係であり、血統にもとづく男性優位の主従関係である。
戸主である男親の命令に対して子は絶対服従を強いられ、服従しているかぎりにおいて親は子を保護する。
親の命令に子が服従しない場合は、勘当(かんどう)というかたちで排除・追放することによって家を
維持・存続・繁栄させるという論理である。
▼谷元さんの書いておられることが民法の条文で確認できます。加賀山 茂 名古屋大学大学院法学研究科教授の論文がすばらしいです。
明治民法の「家」制度が日本の家族に及ぼした影響をクリックしてください。下記はその一部の紹介です。
「戦後,民法が改正されて,家制度が廃止され,家督相続も廃止されたにもかかわらず,
今なお,少なからぬ家庭で,男性優先・年長者優先の礼儀作法が躾として実施されている。
したがって,日本の家族を知ろうとすれば,「家」制度が廃止されたたために「家族」
の定義自体を欠くにいたった現行民法ではなく,「家族」の定義を有していた明治民法
にさかのぼってその内容を知る必要がある。明治民法を理解することによって,はじめて,
日本の社会に今なお根強く残っている,男女差別,年長者優遇,非嫡出子差別等のいわれのない差別の源や,
今なお結婚式や結婚披露宴で使われている「ご両家」という言葉の意味を知ることができるのである。
民法が,「家」制度を廃止するためとはいえ,「家族」という言葉をその法文から抹殺してしまったことは,不幸なことであった。
」
(名古屋大学大学院法学研究科教授 加賀山 茂 2004年4月6日)
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▼明治民法を、特に親族編725条〜963条、相続編964条〜1146条を心得ておく必要があります。
明治民法をクリックしてください。
▼Wikipedia:
家制度(いえせいど)とは、1898年(明治31年)に制定された民法において規定された日本の家族制度であり、
親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主(こしゅ)と家族として一つの家に属させ、
戸主に家の統率権限を与えていた制度である。江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている。
戸主権・戸主の義務
戸主は、家の統率者として家族に対する扶養義務を負う(ただし、配偶者、直系卑属、直系尊属による扶養義務のほうが優先)ほか、
主に以下のような権能(戸主権)を有していた。
家族の婚姻・養子縁組に対する 同意権(明治民法750条)
家族カ婚姻又ハ養子縁組ヲ為スニハ 戸主ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス
家族の入籍又は去家に対する 同意権(ただし、法律上当然に入籍・除籍が生じる場合を除く)
家族の 居所指定権(明治民法749条)
家籍から 排除する権利
家族の入籍を 拒否する権利
戸主の同意を得ずに婚姻・養子縁組した者の復籍拒絶(明治民法741条2・735条)
家族の私生児・庶子の 入籍の拒否(明治民法735条)
親族 入籍の拒否(明治民法737条)
引取 入籍の拒否(明治民法738条)
家族を家から 排除する(離籍)権利(ただし未成年者と推定家督相続人は離籍できない)
居所の指定に従わない家族の 離籍(明治民法749条)
戸主の同意を得ずに婚姻・養子縁組した者の離籍(明治民法750条)
明治民法の各条文を確認できます。
https://law-platform.jp/table/129089d/5
▼戦後生まれの我々から見ると信じられないほどの権力を戸主(親爺)は持っていた。
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《「和の精神」の根本は家の論理》
(289頁〜290頁)
最近、日本型民主主義の真髄だということで、「和の国」や「和の精神」などが持ち出され、聖徳太子の17条憲法が引き合いに出されることがよくある。
「和」は大事な精神ではあるが、聖徳太子の作といわれる17条憲法は正確に読まれる必要がある。
これは君民一体の思想を体現したものであり、正確には「一に言う。和を以て尊しとする。逆らわないように心がけよ」というのものである。
すなわち、「君(天皇)の命令に背くことなく、民は和せよ」と言っているのである。別言すれば、君命は絶対命令であり、
民衆はそれに絶対服従するかぎり保護してやるから、その枠内で仲良くせよということであり、「和の精神」の根本は家の論理であることは明白である。
民主主義とは無縁である。
▼聖徳太子の17条憲法、一度は読んでおく必要があると考え、Wikipediaから書き下し文を転載しました。ご参考まで。(2020.7.7)
Wikipedia:17条憲法
原文 (書き出し)夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親肇作憲法十七條。(末尾)『日本書紀』第二十二巻 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇十二年
書き下し文(部分)
夏四月丙寅朔の戊辰の日に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條(いつくしきのりとをあまりななをち)を作る。
一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下靡(なび)く。故に詔を承りては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。
四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる。
五に曰く、饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁(さだ)めよ。(略)
六に曰く、悪しきを懲らし善(ほまれ)を勧むるは、古の良き典(のり)なり。(略)
七に曰く、人各(おのおの)任(よさ)有り。(略)
八に曰く、群卿百寮、早朝晏(おそく)退でよ。(略)
九に曰く、信は是義の本なり。(略)
十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(略)
十一に曰く、功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、賞罰を必ず当てよ。(略)
十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に収斂することなかれ。国に二君非(な)く、民に両主無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以て主と為す。(略)
十三に曰く、諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ。(略)
十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ。(略)
十五に曰く、私を背きて公に向くは、是臣が道なり。(略)
十六に曰く、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。(略)
十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(略)
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朝日朝刊2020.8.15(拡大)
▼95歳の色川さんが「変わらない日本社会」を危惧しておられる。
「日本社会の家父長主義やアジアの他国に対する差別意識、近い者とは親しくするが、遠いものを軽蔑する思想、こういった感情は
今も変わっていないのではないでしょうか。」 ▼国連の価値観を浸透させることを通じて、と私は考えている。(2020.9.7)
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《家の論理とは親子関係を基軸とした血統的序列観による絶対的な主従関係の論理》
(290頁)
明治国家は、この家の論理に乗っかって、天皇を親とし国民を子(天皇の赤子(せきし))とする
疑似親子関係になぞらえて、親である天皇の命令は絶対であり、これに服従しない子である国民は「非国民」として排除するという論理を統治論理の基本とした。
そして、「万世一系」の天皇の血統がもっとも尊く、それに近い者ほど貴種であり、
遠ければ遠いほど賤種と見なされる貴賤思想が教育によって定着させられていくことになった。
しかも、「単一大和(やまと)民族」論によって、「大和民族とは何か」の詮議もないままに、大和民族ではないとみなされた人たちは排除されていくことになる。
松本治一郎大先輩が指摘した「貴族あれば賤族あり」の状態である。
《家制度の法的解体と「伝統的美風」の存続》
(291頁〜292頁)
このような戦前の家制度が、天皇制ファシズムの温床になり、戦後の民主改革を妨げているとして、戦後、家制度は法的に解体された。
しかし、帝国憲法の改正をめぐって帝国議会の貴族院本会議で論議が行われた際、
当時の木村篤太郎(きむらとくたろう)・法務大臣は、家制度について次のように答弁をしている(1946年8月28日)。
従来ノ日本ノ所謂良キ意味ニ於ケル家族制度ガ、之〔憲法改正〕ニ依ッテ撤廃サレルカト申シマスルト、
決シテサウデハナイノデアリマス…殊ニ我ガ国ノ美風ト致シマシテ、祖先ヲ崇拝シ、家系ヲ重ンズルト云フ此ノ点ニ於キマシテハ、
我々ハ是非トモ将来ニ此ノ美点ヲ遺シタイト云フ熱意ヲ持ッテ居ルノデアリマス |
この答弁に、当時の日本政府の考え方として、何としても家思想を堅持しようとする姿勢が看取できる。
すなわち、
法律用語としての「家」は廃されたが、家制度の骨格である戸籍制度は存続させ、
家思想は維持しようとの必死の思惑が表明されている。その痕跡を、現行民法や戸籍は今日もなおとどめているといえる。
《「伝統的美風」に引きずられた民法・戸籍法と憲法との齟齬》
(292頁〜293頁)
たとえば、現行憲法24条には、「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立」と明記されている。
この「両性の合意のみ」という文言は、当時参議院議員であった松本治一郎さんが強力に主張して取り入れられたものであるが、
一方、民法739条には「婚姻は、戸籍法の定めるところにより届け出ることによって、その効力を生ずる」と規定されている。
この規定によって、
憲法が「両性の合意のみ」によって成立するとした婚姻が、家制度を前提にした戸籍法の手続きを経ないと
実質的には効力を発揮しないというかたちで、家制度のなかに引き戻される構図になっている。
▼谷元さんのこの指摘は的確・明快。権力のこずるさを声を大にして市民に知らせる必要がある。
1947年4月19日に出された「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」第3条では、
「戸主、家族その他家に関する規定は、これを適用しない」としており、戸籍制度も廃止されるべきはずであったにもかかわらず、
生き残らせたのである。
▼法律の全文は以下です。谷元さんのご指摘通りです。
日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律(昭和22年法律第74号)
第一条 この法律は、日本国憲法の施行に伴い、民法について、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚する応急的措置を講ずることを目的とする。
第二条 妻又は母であることに基いて法律上の能力その他を制限する規定は、これを適用しない。
第三条 戸主、家族その他家に関する規定は、これを適用しない。
第四条 成年者の婚姻、離婚、養子縁組及び離縁については、父母の同意を要しない。
第五条 夫婦は、その協議で定める場所に同居するものとする。
2 夫婦の財産関係に関する規定で両性の本質的平等に反するものは、これを適用しない。
3 配偶者の一方に著しい不貞の行為があつたときは、他の一方は、これを原因として離婚の訴を提起することができる。
第六条 親権は、父母が共同してこれを行う。
2 父母が離婚するとき、又は父が子を認知するときは、親権を行う者は、父母の協議でこれを定めなければならない。
協議が調わないとき、又は協議することができないときは、裁判所が、これを定める。
3 裁判所は、子の利益のために、親権者を変更することができる。
第七条 家督相続に関する規定は、これを適用しない。
2 相続については、第八条及び第九条の規定によるの外、遺産相続に関する規定に従う。
第八条 直系卑属、直系尊属及び兄弟姉妹は、その順序により相続人となる。
2 配偶者は、常に相続人となるものとし、その相続分は、左の規定に従う。
一 直系卑属とともに相続人であるときは、三分の一とする。
二 直系尊属とともに相続人であるときは、二分の一とする。
三 兄弟姉妹とともに相続人であるときは、三分の二とする。
第九条 兄弟姉妹以外の相続人の遺留分の額は、左の規定に従う。
一 直系卑属のみが相続人であるとき、又は直系卑属及び配偶者が相続人であるときは、被相続人の財産の二分の一とする。
二 その他の場合は、被相続人の財産の三分の一とする。
第十条 この法律の規定に反する他の法律の規定は、これを適用しない。
附 則
1 この法律は、日本国憲法施行の日から、これを施行する。
2 この法律は、昭和二十三年一月一日から、その効力を失う。
明治民法
▼明治民法の当該条項を知っておく必要がある。幾つか見てみました。
明治民法
14条
妻カ左ニ掲ケタル行為ヲ為スニハ夫ノ許可ヲ受クルコトヲ要ス
一 第十二条第一項第一号乃至第六号ニ掲ケタル行為ヲ為スコト
二 贈与若クハ遺贈ヲ受諾シ又ハ之ヲ拒絶スルコト
三 身体ニ覊絆ヲ受クヘキ契約ヲ為スコト
前項ノ規定ニ反スル行為ハ之ヲ取消スコトヲ得
▼十二条第一項第一号乃至第六号とは
準禁治産者カ左ニ掲ケタル行為ヲ為スニハ其保佐人ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス
一 元本ヲ領収シ又ハ之ヲ利用スルコト
二 借財又ハ保証ヲ為スコト
三 不動産又ハ重要ナル動産ニ関スル権利ノ得喪ヲ目的トスル行為ヲ為スコト
四 訴訟行為ヲ為スコト
五 贈与、和解又ハ仲裁契約ヲ為スコト
六 相続ヲ承認シ又ハ之ヲ抛棄スルコト
▼つまり明治民法では妻は準禁治産者並みと見られていた。
749条
家族ハ戸主ノ意ニ反シテ其居所ヲ定ムルコトヲ得ス
772条
子カ婚姻ヲ為スニハ其家ニ在ル父母ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス但男カ満三十年女カ満二十五年ニ達シタル後ハ此限ニ在ラス
▼婚姻には戸主(750条)と両親(772条)の同意が必要ということ。いやはや厄介なこと。
▼改めて読んでみました。人権の視点から大いに問題だと気づきました。(2021.8.15)
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家制度
2023.2.1(拡大)
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その意味では、
「家」という法律用語は抹消したものの、家制度にかかわる明治民法の規定は現行民法においても随所に残され、
差別・排除の論理を内在させたといえる。
明治民法をそのまま踏襲して婚外子差別を温存してきた民法規定が、2013年の段階で最高裁によって「違憲」とされ、
当該条項が改正されたのは記憶に新しい。ただし、留意しておかなければならないことは、
少なくとも1995年段階まで最高裁はこの民法規定を合憲と判断してきたのであり、この違憲判断も、
国の伝統、社会事情、国民感情などの要件を考慮したうえで「嫡出子と嫡出でない子の法定相続分を区別する合理的根拠は失われた」
と抽象的な判断根拠を提示しているだけで、「家の論理」がもつ差別性に対する具体的な判断を避けていることである。
今日段階でもうひとつ留意しておく必要があるのは、憲法の「両性の合意」という規定である。
家長の意向が子どもの婚姻を決定していた戦前の家制度を否定するという積極的意義をもっていたこの憲法規定も、
「性の多様性」を否定しセクシャル・マイノリティの人たちを排除するものとなっており、早急な改正検討が急務である。
《「家」としての日本社会》
(294頁)
2019.10.12朝日夕刊

塚本協子さん。夫婦別姓を認めない民法(750条)の規定が憲法違反と訴えて2011年提訴。最高裁は2015年12月合憲判決。
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2020.11.20朝日朝刊

医師泉侑希さん「法律での夫婦同姓の強制は世界で日本のみとされ、96%の女性が夫の姓に変える。……慣習から思考停止に陥り、選択肢に否定的になる、そんな国
であってほしくない。」
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このように、戸籍は、これれらの規定により戦後ふたたび「家」制度の象徴として人々を律することになった。
日本的経営のあり方の問題点を探究し、それを「家の論理」から解き明かした経済学博士の三戸公(みとただし)さんは
「日本は形式的には立法・司法・行政の三権分立の民主主義制度をもった近代国家だが、
その実体は社会の根幹をなす経済的制度である企業が家であり共同体であり、天皇を頂点とした家社会・家国家をなしているが故に、
政・官・財(業)の癒着構造を生み、全ての人間は必ずしも法の前に平等ではない」と指摘し、「近代社会の論理と家の論理の相剋をどうとらえ、
どう解決するかが、日本の政治改革の根本に横たわる問題である」と提起している(『「家」としての日本社会』/有斐閣/1994年発行)。
今日においても傾聴に値する意見である。
「家の論理」
(302頁)
2020.7.9朝日新聞夕刊
両性は不平等 家事も政策も。「コロナ禍で社会の弱いところが見えてきた」「(憲法)24条を実践しない政治家が再生産される限り、
24条が実質化される日は来ない」
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「家の論理」とは、元来、封建体制を維持・存続させるための主柱としての意識と社会的仕組みのことであり、それは、
家父長的な権威と恭順の秩序をもち、専制・服従・庇護の関係に貫かれた親子関係を基軸として、家の維持・存続・繁栄を目的としたものである。
家の論理は、本来的に個人の確立とか男女同権などの基本的人権を否定し、「ウチとソト」の意識を生みだし、「差別と排除」を内包している。
問題は、封建的主柱であった「家の論理」が、明治維新、戦後民主改革を経た今日においてもなお、日本社会を特徴づける法・制度・慣行として存在し、
日本人の日常生活における組織・行動の原理として機能していることである。
三戸公さんは、『「家」としての日本社会』(有斐閣/1994年)において、その事情を次のように指摘している。
「近代社会を秩序づける基本は法である。
近代国家の道を歩み始めた日本は、徳川260年の間に固定化されてきていた
伝統的秩序である家的秩序をもってこれをそのまま法制化し、法を支える道徳・倫理の体系を家道徳・家倫理に求めたのである。」
「その事情」は、今日においても具体的な社会システムとして、戸籍制度、学歴制度、雇用・賃金制度、天皇制などに存在する問題点として具現し、存在しつづけているのである。まさに、日本の近代の骨格である日本的国民国家の枠組みを支える支柱として戸籍制度はつくりだされたといえる。
この戸籍制度が部落差別を存続させる一つの大きな要因である。その抜本的な改廃は、部落問題解決への喫緊の課題である。